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ドキュメント内 『宗教研究』169号(35巻2輯) (ページ 66-70)

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   を 享受することになる︒これは正しくない︒ 故 に ca 〜︵ リコせ がは先行する行為一切の結果を享受す るために継続的でな 

げればならない︒ 

仏教側は反駁する︒苦楽等︑さまざまな感情を 多くのさまざまな形で取る霊は︑その形の異るに 応じて異ならねば  ならない︒ちょうど異なるひと び との霊は ︑た だ 単にそれらが異なる形をとるという故をもつ て お互いに相異なると 

考えられるがごとくである︒ 

第三の議論においてミーマーンサーのひとび と は 主張する︒この我は︑異時に異条件の下に経験 される主体と同一  に 感ぜられる識によってさらに立証される︒ 永 遠 なる我が認められぬ限り︑刹那変化する一切 に 同一を保つのは 何  か ︒これらの経験はすべて︑永遠にして 0 乱蕾コ 舌の形をとる一個の我に関するものであらねば ならぬ︒ 

これに対して︑仏教側は反駁する︒相異なる 経 験の中にあって同一を保つ 我 なるものはありえな い ︒何となれば︑ 

他 の一切の知識同様︑我もまた対象なしに生起 するからである︒この我は︑継続的な 働 ぎに ょつ て 自ら永続的と感 ず  る識 ︵ 乱 嵌り コ曲 ︶によってもたらされたものであ る ︒そして︑この識の働きも︑時時 行 なわれる のであって常時に行 

なわれるのではない︒ 

以下テキストによって論旨の展開を眺めて行く ︵ 6 ︶ ナ ﹂ととする︒ただし今はシャーンティラクシ タ の 本頚 のみを掲げ︑ 

カマ ラシーうの註釈は須要なるものに限って 註 記するに止めた︒ 

  

臣 

  

  

︵ 牡 ︶恰も蛇について︑ 轄 局の位が滅してその 直 後に真直の位が生ずるが︑しかし 蛇 性は継続す る ︵が如し︶︒ 

︵ 拙 ︶同様に ︑ 我は常住︵田田せが︶で 霊 ︵ 8 〜 ep ロせ 曲 ︶を自性︵阻き 宙ぺ簿 ︶とするものであるが︑ その 相 と全く離れる    

︵ 9 ︶ 官円 甘いの り 曲尽臣で 曲づ田ゆ 曲目 けレ とか︑または全体が継 続 する︵の 曲 ﹁ せ p のⅡ 錘コ仁幅 申伍 簿 ︶などということはな   ︵ 援 ︶むしろ︑それの 楽苦等 の 住 ︵ 曲セい の︵ けり ︶ が 滅したり生じたりするのであって ︑ 霊は継続す るのである︒ 

︵ 鞘 ︶もし 畢寛無 ︵ 倖 Ⅱ 簿 

ま田 

壷ぎ ︶であるとすれ ば ︑ 已作 の 滅 ︵ 蚕痙 ぢ囲 絆 ︶と不作の受︵ 曲 蚕病 抽 い円 ヰウ ソ とがあること  になり︑また一 % ︵の ォ簿舌憾 ︶とすれば楽音写 を 享けることもないであろう︒ ︵ 棚 ︶我の作者性︵ 

下 

二心耳 簿 ︶︑愛着 性 ︵すず︒ 年ドォ 寺づ簿 ︶の位に依るのではない︒それ故に︑それ がそのままであるか 

ら ︑作者が即ちそれの果を得るのである︒ 

︵ 棚 ︶かくの 如 ぎこの我は再認識︵ 口 ︵ 曲 ︵︶申す プご Rw コハ ︶の 方 なることによって知られる︵ づ Ⅱ 簿 日ぜ 曲 由 0 ︶︒また @ しかり 卜 し と  によって無我説を否定する︒ ︵ 猫 ︶ げ 我は知る " という我の覚は知者を了解す る ︵でⅡ 註ぢ曲宙 Ⅱ 注 ⑧︒ こ ︵の知者︶は我である か 若しくは一向無常 

なる 智 ︵浅岡 コハ 旧のⅡゅ年の オ囲コ dp せぎ曲かセ pqp 日 ︶で あるかである︒ ︵ 糊 ︶若しその︵覚の︶ 境 ︵せぃ ゅ簿 せこが我である とするならばすべてのことは正しいが︑刹那的 智 ︵ ヰゆ簿 中ヰ ガ ど目 岡臣曲 ︶  であるとすれば︑すべてがはなはだ困難︵年月︵ 抽 ず簿丑曲 ︶である︒ ︵ 穏 ︶ 誓 えば " 我は前に知った︑そして現在我が 知る 乃 という覚が生ずる場合に ︑ 

︵ 凝 ︶その︵覚の︶ 境 として如何なる智の刹那を 通計する︵ Qp ︵ pFp 与 

ど 

う ︵の︶の か ?  過去 か︑ 現在 か ︑両者か ︑ま 

たは相続︵ 崔コ 叶い 曲 ︶であるか 7 

︵ 牡 ︶この中︑最初の場合︑知られたる 境 ︵ 4 円 ゅ曲 

演技 

ゅ症 ︶においては︑ " 知った " ということは 理 に合するが︑ " 知  るル ということは理にム口しない︒これは今日に は 知らないからである︒ 

(186)  6& 

  に焼く作用を有しているが︑︵ づあ がせらに依る︒︵ 3 

i   ︶ 

近くにある可燃の事 物を焼くので︑他のもの ひ        

      

我を他の時時に︵焼くのでは︶ない︒ 

@@ Ⅱ︶ 

裕を有するであろう︒ 

る ︵ 犯 ︶もろもろの覚も我も常住唯一︵三目 麓    る 

︒霊を自性とすると 

弘田 ‑ 百  ︵ 捌 ︶しかるに現在の境においてはげ知る " とい ぅ ことは 細仕 にふ ロ するが︑ " 知 つみに 刀 とい くノ こと は 正しくない︒これ 

ほ 前には 毎 かつたからである︒ 

︵ 棚 ︶同じ理由によって︑その両者はこの︵覚の ︶ 所取 ︵ 抽 Ⅰゅ目せ い ︶であることは分別されない︒ 何となればその 雨  者がⅤ知ったみのでも︑今ガ知る " のでもない からである︒ 

︵ 獅 ︶相続もまたその︵覚の︶ 所取 ではない︒ 両 者が無いからである︒それは前にⅤ知った ル の でもなく現在にでも 

ない非実事︵ p すゴ 中釘︶であるからである︒ 

︵ 獅 ︶故に︑上述のもの以外の行 境 ︵ 幅 ︒ 9 Ⅱもに おいてこの我慢︵ 

告き客母 

︶が存する︒それ が 常住 相 ︵ 絆ぎ注ギ  目で麓 ︶なる我であることが成立される︒ ︵ 棚 ︶過去の我慢の所 取 たる智者は今日もなお 存 続 する︒我の観念の所 解 であるから︑現在の覚 者のことく︐ ︵ 拙 ︶或いは︑これは昨日の知者である︒知者で あるから︑或いは前と同じ理由による︒昨日の 

ゾ  ﹂とし︒またこれら  の 観念が所立である︒ ︵ 杣 ︶同一相続に結合︵の p ヨす p 臣串ゴ p ︶している 知者の我の観念なるがゆえに︑昨日と今日との すべては同一事物 

律 三百 さぎ ︶を有する一の 覚 ︵ 簿き岸宙 仁田︶の 

ダ  ﹂とし︒ 

  が 常住唯一であると主張するならば︑覚もまた 同じ 相 ︵巳待曲屋︶   

  

          

   古廿  ︵ 牡 ︶  害 えば極めて明浄なる  鏡 または水晶が  ︑唯  そこに置かれたるもののみの影を得るごとく︑ 

  

  

る ︒ 在しな 認識は 依るの ︒ 瓶 わ ︑ 

   て 表象︵  づ ︵が 由いすゴ援銭珪  ⑧されるのか︒  繍 ︶他の処︵  目 透きぎ︶等に存する個物が 

因 ︵ コぎいヰ倖ゴが 

臣の︶である︒何となれば  処 ︑ 時 

︵ 貌 ︶それらの︵個物︶はその場  処 をその  ょう  がすべての場合に所縁︵  倒村日  すが目が︶となるから     ︵ 村倒 鼠  ︶を異にするもの 

に 結合︵の  帥日すか  コ色目  が ︶するのではない︒しからば  ︑そこにおいて︵  そ  ︵ 如 ︶  汝 ︵ 絹  ロ目 囲 ちお客︶の説によれば︑行相︵  ㎝ 窩  8  ︶は覚に属せず  外境  ︵ 絃 ぽ  %  ︶であると  い う ︒しからば含意  抹 する所に象︑  杖等  が存するのではない︒  ︵ 2 甜 ︶若し覚が︑ ︵ 6 1  ︶  一切の事物︵  %  安 い ︶を覚知す  る相  ︵ ヴ 0 ミ田ユ  ぢ じを有して常に存しているなら  ば ︑しからば︑  何  故に  ︑ 常に一切のものを  証知  ︵ 毬旧ユ  ヰ田︶する  ものとして知覚され︵古身ミ  8  ︶ないのか︒ 

(188)  68 

  

  Ⅱ 耳 

耳 ""     , 

  

  

    

     

      ,  ・・七 

        

  

我と 覚 

とを廻る論  詩 

迷 

在    

すけ り 

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