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ドキュメント内 『宗教研究』169号(35巻2輯) (ページ 47-50)

と  45 

  

    巴︐ ・ ︑ ・ 

  

              

スつ 

た事態であろう︒ところか︑社会過程のあ る 段階︑おそらくその段階においては︑生産力 か 社会化されて︑その 生 

  

  

キ産 

力の大いさに相当する﹁くに﹂と称せられる に 相応しい人間の共同生活の単位の萌芽 か現わ れる︒人間はこのような 

    

  

  

  

  リト モト ア ⅠⅡ 

(167) 

酵ぅ  ︒このような始源的な生の経験において  は  ︑すべての事実過程は意味あるものとして受取  られていた︒このような  ぬ  生の共同の経験は豊富な意味体験を全休  と  して未分化の形で蔵しているものであり︑それが  諸宗教の成立の基盤にな 

           

     

     

においては︑愛の関係にあった︒神は ︑ィユ 

ていた︒アダムはその愛に感謝を以て応えて 

こへ蛇が現われて︑ エ バに 原 嘘言を信じこ ま 

よう としているだけだと︒蛇は言った ︑ 園の 

を 知る者﹂となるだけだと︒神もアダム とェ 

ひとりのようになり︑善悪を知るものとなつ 

神にとってはそれは人間に 頽落 が起つたこと 

い う のは﹁善悪を知る者となった﹂ということ 

の 愛に叛いたこと︑その結果︑神の愛の外に 

者は死と言われる事態であり︑その結果︑彼 

これは神話的表象において語られた罪と死 

おいての実存的経験に基くものであろう︒ 人 

価値を生産し︑その成果を配分することによ 

階 に達したと き ︑人間はその歴史的経験に基 

での社会過程において︑労働における協力︑  ス ・キリストにおいて啓示された︑あの愛を以て 人間︵アダム︶を愛し 

いた︒ここに人生の原事態があった︒そこに 生 命 があった︒ところがそ  せた︒即ち ︑ 神は愛しているのではなしに︑ 自 らの絶対的支配を維持し  中央にある木の実を食べても死ぬことはなく︑ 却って﹁神のように善悪  バが 木の実を食べたのを知り︑嘆いて言われた ﹁見ょ ︑ 人はわれわれの  たしと︒神も蛇も同一の事態が起つていること を 認めている︒しかし︑ 

であり︑蛇においては人間が成長したことなの だ︒ここで同一の事態と  である @ ことは舌口 く @ ノ までり八つなⅡ り ︒ここで︑ ァ りノ い @ ハ に 起つていることは︑ 神  おかれなければならないことになったというこ とである︒前者は罪︑後  らは善悪を知らずしては生きることが出来なく なったというのである︒ 

の事態であるが︑この ょう な生存の事態は ︑そ れに対応する社会過程に  間は ︑環境的自然に技術を以て働きかけ ろ こと ︵労働︶によって︑物的  つて︑自らの生存を確保したのである︒このよ う な 社会過程が一定の段  いて︑自己の生存についてある自覚に到達した であろう︒彼らはそれま  生産物の配分による共同生活において︑生の共 同を経験したことであろ 

  

  

  

﹁くに﹂における生活経験を積むことによって 

︑ 

自己の生存の可能性への自信を得たであろう︒ それは﹁くに﹂とい  ラ 具体的な生活共同体が現われたことによって 

︑ 

人間は自己の生存に関して新しい根拠を得たか らである︒このよ う  な 生存の可能性を保証する共同体の持っ 力︑こ れが政治権力の母胎である︒つまりこの力を何ら かの形で握った者が  持っ実力が政治権力と言われるものである︒ だ が ︑それはともかく︑共同生活を保証する力が形 をなしてくると き 

︑ 

人間には懐疑が生れる︒漠然と受容していた 事 態 に対して疑惑を持つようになる︒そして次に 

︑ 

別 の庶事態に対する  物語︵シンボル︶を作り上げる︒つまり︑社会 ぬ 程の経験に即した︵経験的 に 

納得のゆく1合 

理 的な︶物語を作り  上げるのである︒これが人間の自覚と 2 ばれて いる︑人類の歴史に輝く一頁である︒だが︑聖堂 

日 

はこの事態を指して  堕罪と よ んでいるのである︒それは︑アダムが 神とひとしくなった とき ︑彼は 

︑ 

﹁くに﹂を根拠 として神と相対的な  関係に立っ者となったのである︒これは愛の事 態とは全く反対の事柄なのである︒かくて罪が世 に 入り・そしてその  結果 死 が人間の運命となった︒アダムにおいて 起つたことは︑ 世 すなわち﹁くに﹂の持つ構造の 故に︑すべての人を  捲 ぎこむ可能性でもある︒しかも︑人間の生活 は 自然に直接してはじきるのではなく︑人間は社 会の中に生れる︒ そ  して︑社会が﹁くに﹂として形成されて以来︑社 会は 

エ 

トスとしてアダムにおける罪を持つてい る ︒ここからして︑ 

人類は罪をまめがれぬ存在となり︑したがつて︑ 神の愛の外におかれる運命となった︒このよ う な 社会の事態を聖書 

は 

﹁ 

罪 と死の体﹂というのである︒ 

このような社会において人間関係はどうなるで あろうか︒前の物語はそれについて︑﹁善悪を知 る者 ﹂と人間がな  つ たと言っている︒善悪を知るということは 喜 

︒ 

は しいことなのだろうか︒勿論︑悪を犯しなが ら ︑それを悪と認め 得  ない状態は悲しむべ き ものである︒とすれば︑ 人 殺しは悪であると知ることはよいことにちがい ない︒神が人間のた  めに﹁善悪を知る者﹂となったことを嘆いてい るのは︑だから︑右のような事態ではない︒悪が 行われないところで 

は善 と名ずくべ き 行為もないのである︒だから 

豊  口悪を知るとは正義の意識を持つことであろうが 

︑その ょ 3 な意識が 

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      担 るわけであるから︑社会の承 

ス どのように反映することによ  認 不承認とは無関係である︒それでは︑世にあ 

の 同じ成果を宮 ら 評価承認することによって 成山  つて成立するだろうか︒個人は自己の果した 成 果 に対する社会の評価承認として成立す U  る 自己は︑個人における自己の状態を ︑ 

ュ する︒ということは︑自己が価値︵ 

最靱 

      

  

  

  

  哲学 

         ていな 

自己は承認がの大い 

   げ対と  におい 

するも不成立 

ば  広  岡  己  あ  通  事  現  個  そ  会 

ほ  の  げ  意  そ  い  て 

     

   て  は  ら 格 にお  つま の自己 

自での  るが、 

じまる る  は欲求 程にお で  し  存  在  に  そ  で  充  に この な 実とし  過程に 

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われた も  主体と 人であ つ  間  )  官  に  で 得 あり して人  を異に (歴史  生命の その 器 

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ドキュメント内 『宗教研究』169号(35巻2輯) (ページ 47-50)

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