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た事態であろう︒ところか︑社会過程のあ る 段階︑おそらくその段階においては︑生産力 か 社会化されて︑その 生
キ産
力の大いさに相当する﹁くに﹂と称せられる に 相応しい人間の共同生活の単位の萌芽 か現わ れる︒人間はこのような
リト モト ア ⅠⅡ
(167)
酵ぅ ︒このような始源的な生の経験において は ︑すべての事実過程は意味あるものとして受取 られていた︒このような ぬ 生の共同の経験は豊富な意味体験を全休 と して未分化の形で蔵しているものであり︑それが 諸宗教の成立の基盤にな
においては︑愛の関係にあった︒神は ︑ィユ
ていた︒アダムはその愛に感謝を以て応えて
こへ蛇が現われて︑ エ バに 原 嘘言を信じこ ま
よう としているだけだと︒蛇は言った ︑ 園の
を 知る者﹂となるだけだと︒神もアダム とェ
ひとりのようになり︑善悪を知るものとなつ
神にとってはそれは人間に 頽落 が起つたこと
い う のは﹁善悪を知る者となった﹂ということ
の 愛に叛いたこと︑その結果︑神の愛の外に
者は死と言われる事態であり︑その結果︑彼
これは神話的表象において語られた罪と死
おいての実存的経験に基くものであろう︒ 人
価値を生産し︑その成果を配分することによ
階 に達したと き ︑人間はその歴史的経験に基
での社会過程において︑労働における協力︑ ス ・キリストにおいて啓示された︑あの愛を以て 人間︵アダム︶を愛し
いた︒ここに人生の原事態があった︒そこに 生 命 があった︒ところがそ せた︒即ち ︑ 神は愛しているのではなしに︑ 自 らの絶対的支配を維持し 中央にある木の実を食べても死ぬことはなく︑ 却って﹁神のように善悪 バが 木の実を食べたのを知り︑嘆いて言われた ﹁見ょ ︑ 人はわれわれの たしと︒神も蛇も同一の事態が起つていること を 認めている︒しかし︑
であり︑蛇においては人間が成長したことなの だ︒ここで同一の事態と である @ ことは舌口 く @ ノ までり八つなⅡ り ︒ここで︑ ァ りノ い @ ハ に 起つていることは︑ 神 おかれなければならないことになったというこ とである︒前者は罪︑後 らは善悪を知らずしては生きることが出来なく なったというのである︒
の事態であるが︑この ょう な生存の事態は ︑そ れに対応する社会過程に 間は ︑環境的自然に技術を以て働きかけ ろ こと ︵労働︶によって︑物的 つて︑自らの生存を確保したのである︒このよ う な 社会過程が一定の段 いて︑自己の生存についてある自覚に到達した であろう︒彼らはそれま 生産物の配分による共同生活において︑生の共 同を経験したことであろ
﹁くに﹂における生活経験を積むことによって
︑
自己の生存の可能性への自信を得たであろう︒ それは﹁くに﹂とい ラ 具体的な生活共同体が現われたことによって︑
人間は自己の生存に関して新しい根拠を得たか らである︒このよ う な 生存の可能性を保証する共同体の持っ 力︑こ れが政治権力の母胎である︒つまりこの力を何ら かの形で握った者が 持っ実力が政治権力と言われるものである︒ だ が ︑それはともかく︑共同生活を保証する力が形 をなしてくると き︑
人間には懐疑が生れる︒漠然と受容していた 事 態 に対して疑惑を持つようになる︒そして次に︑
別 の庶事態に対する 物語︵シンボル︶を作り上げる︒つまり︑社会 ぬ 程の経験に即した︵経験的 に納得のゆく1合
理 的な︶物語を作り 上げるのである︒これが人間の自覚と 2 ばれて いる︑人類の歴史に輝く一頁である︒だが︑聖堂日
はこの事態を指して 堕罪と よ んでいるのである︒それは︑アダムが 神とひとしくなった とき ︑彼は︑
﹁くに﹂を根拠 として神と相対的な 関係に立っ者となったのである︒これは愛の事 態とは全く反対の事柄なのである︒かくて罪が世 に 入り・そしてその 結果 死 が人間の運命となった︒アダムにおいて 起つたことは︑ 世 すなわち﹁くに﹂の持つ構造の 故に︑すべての人を 捲 ぎこむ可能性でもある︒しかも︑人間の生活 は 自然に直接してはじきるのではなく︑人間は社 会の中に生れる︒ そ して︑社会が﹁くに﹂として形成されて以来︑社 会はエ
トスとしてアダムにおける罪を持つてい る ︒ここからして︑人類は罪をまめがれぬ存在となり︑したがつて︑ 神の愛の外におかれる運命となった︒このよ う な 社会の事態を聖書
は
﹁
罪 と死の体﹂というのである︒このような社会において人間関係はどうなるで あろうか︒前の物語はそれについて︑﹁善悪を知 る者 ﹂と人間がな つ たと言っている︒善悪を知るということは 喜
︒
は しいことなのだろうか︒勿論︑悪を犯しなが ら ︑それを悪と認め 得 ない状態は悲しむべ き ものである︒とすれば︑ 人 殺しは悪であると知ることはよいことにちがい ない︒神が人間のた めに﹁善悪を知る者﹂となったことを嘆いてい るのは︑だから︑右のような事態ではない︒悪が 行われないところでは善 と名ずくべ き 行為もないのである︒だから
豊 口悪を知るとは正義の意識を持つことであろうが
︑その ょ 3 な意識が
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担 るわけであるから︑社会の承
ス どのように反映することによ 認 不承認とは無関係である︒それでは︑世にあ
の 同じ成果を宮 ら 評価承認することによって 成山 つて成立するだろうか︒個人は自己の果した 成 果 に対する社会の評価承認として成立す U る 自己は︑個人における自己の状態を ︑
ュ する︒ということは︑自己が価値︵
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哲学
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自己は承認がの大いげ対と におい
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