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辞宜として働く生命の過程は停止或は歪めら れてしまうことになる︒かくて︑世に在る自己は ︑その不完結性の故に不
% 安をまめがれず︑﹁孤独﹂の故に愛の不足 としての 一 ︒苦悩﹂におちこんで行くのである︒ こ れが﹁ 罪 と死の体﹂とし
自然から独立した自己の生存の領域を︑生産力 に 相応しい 規漠 において﹁くに﹂として獲得した 人間は︒ぞの新し い 生存の基盤に拠って︑自己を確立した︒この 日 己は生存の事態に即した自覚内容として成立し たのであった︐この ことは︑言い換えるならば︑世の エ トスを主体 化することによって︑自己は自己となるという ことが出来 るて あろ ラ ︒かくすることによって ︑ 世は事実としても︑ 意識においても︑人生の主である神から離れた ことになる︒神を ︑ いかなる意味においても認めないことは︑自らを 神とする︑自らを主とすることになるのであ っ て︑ョ ハ不の所謂 ア ンチ・クリストとなることである︒自己は世とい ぅ 事実的に神を容れない存在の エ トスを主体的 に 自らのものとする
ことによって︑悪神を拒否することが
霊 として存在になった ね げである︒世にある自己 はそれ故に悪霊の座であるということが出来る︒
世にある自己は︑自己自身で自己となることに よって︑自己の本末性を潜して悪を行ったのであ るが︑その結果 忙 出来ない︑﹁孤独﹂ な 自己である︒孤独とは字の ︒と う いうことになったろ うか ︒その結果の一つ は︑ 前にみたよ う に︑自己は不完結不安定の故に
よう に独り在ることであり︑ 助 げないことであ る ︒﹁共に在る﹂こと 自己中心的な存在と なり︑その結果律法の下に囚われる者となった のであった︒そして律法の覆いの下にある自己は 交わりを持つことの を 本末とする人格存在においては︑﹁独り在る﹂ ことは存在の欠如である︒社会における自己の 位置の事態の反映 と して成立した自己は︑自己の本来の生存の場で ある人格においても︑人格の本来性に即して機能 することが出来ず ︑
﹁共に在る﹂べ き ものを引裂いて孤立させてしま ぅ のである︒かくて︑人格が不成立ということ になると︑人格を器
廿サ︐
WI71 レ乙
右は ︑教会が ︑ ﹁それの克服において︑実存する ところのパウロの所謂﹁ 罪 と死の体﹂としての ﹁ 世 ﹂の事態であ る ︒パウロによると︑身体性を生存の条件とす る
人間﹁肉によって生きる人間﹂11
は︑こ の世の律法の下に 囚 われの 芽 となっているという︒自然的な﹁世に ある自己﹂とは︑このような人間の事態を言 うの である︒そして︑ 囚 われの身にある人の願いは第一に︑その状態か ら 解放されることである︒解放されることは 自 由 になることである が ︑それは単に束縛のない状態になることでは なく︑自らの本来性に帰還すること︑本末の生存 権を回復することで ある︒この意味において教会は︑歴史的現実の 中 で︑本末の生存権を︑信仰の現実として︑換言 ロ すれば約束として 生ぎるところの社会集団なのである︒私たちは︑
︐ ﹂のことを聖書に即しながらしばらく考えたい︒
私たちの生存が︑﹁ 罪 と死の体﹂である﹁世ヒ に 囚われの 芽 としてあるということは地楡的な表 現 であるが︑それ は︑ 私たちが身体を基礎とし︑社会において 個 人 という存在を持つことなしにはあり得ないこと を 指しているのであ る ︒生存が︑このよ う 忙しかありえないという @ ﹂とは︑私たちが人間として生きるには︑これか ら 離れることは出来 ないということである︒ここでは︑宗教的生活 であっても︑それが倫理性を欠くならば迷信に なってしまうのであ り ︑倫理性は生存の条件の正しい処理を措いて は 成り立たないからである︒動物でも天使でもな い 人間の生存は ︑底 の底 まで倫理的であり︑それは﹁くに﹂にお け る 生存を離れてはあり得ないのである︒ところが ︑ 私たちが﹁くに﹂
において生きようとすると き ︑既述のような 必 無性をまめがれないのであって︑ここで聖書で 謂 3 所の信仰は︑自然 酌人間においては不可能なことに属する︒とい︐ ヮ ことは︑その可能性は﹁ 世 ﹂の中にはないとい ぅ ことである︒
さで︑教会の存在は︑この不可能を可能にする ものと共にはじまる︒それは言 う までもなく︑ ィ ニ ス・キリスト こ
C172)
こから解放されることを求めている﹁みじめさ﹂ ︵ ロマセ ・二四︶は︑このようなものというべ ぎであろう︒
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キリスト教 と哲宇
お げる神の啓示である︒では︑この啓示は何を 起したのだろうか︒世から離れることの出来ない 自己を世から解放し
て ︑その本末性に復帰せしめたのである︒では︑ それはどのようにして起つたのか︒イェス・ キ リストに・田道 ぅ こと
によって︒イエス・キリストに山道 ぅ というのは ニ スの 教説 に感動することではない︒勿論 ︑これほ 出 遭いへの
一路程ではあろうが︑ 教説は︑ 人々をイエス・ キ リストに 出 遭わしめなかった︒それでは奇蹟を 通してだろうか︒ イ
ニ スが行った奇蹟は︑たしかに大きな感動を捲 き 起した︒だが︑人々が ィェ ・ ス に田道 ぅ ことが 出 釆 たのは︑警語を語
り ︑奇蹟を行った︑その人において起つたこと においてであった︒それでは︑もう一度︑それは どのようにしてであ
つ たか︒イエス・キリストに田道 ぅ ということは ︑イエスなしにはあり得ない自己を発見するこ とである︒換言する
ならば︑イエスを主と告白することを可能とさ れることである︒だが﹁世にある自己﹂が ︑ィェ スを 主と告白するこ とは至難のことに属する︐イェスは ブイリポ ・ カ ィザ リヤのほとりを弟子たちと歩いていたとき ﹁人々は︑わたし
をだれと舌口つているか﹂と弟子たちにたずねた ︐ つまり噂ではど う ゆうことになっているのかと たずねた︒弟子たち
は 答えた︑人々は預言者の一人だと言っている と ︒そこでイエス は 更に ︑ ﹁それでは︑あなたが たはわたしをだれと い うか ﹂と ぎ いた︒この時も︑いつものように︑ ペテロはいちはやく︑﹁あなたはキリストです ﹂と舌口つた︵ マ Ⅰ ルコ 八 ・ ニ セー 三 0 ︶︒私たちは︑ここで︑ 主 告白 が 起つているよさに思 う のだが︑聖書の次の記事 はこれを否定してい る ︒この ぺ テロの告白の直後︑イェスは︑﹁ 人 の子は必ず多くの苦しみを受け︑長老︑祭司 辰 ︑ 律法学者たちに捨て られ︑また殺され︑そして三日の後に ょ みがえ ること﹂を教えはじめられたところ︑ペテロは 先 生の身を案じたので あろう︑イェスをかたわらに引いて︑忠告した︒ するとイエスは ︑ ﹁サタン よ︑引 ぎさがれ︒ お なたは神のことを 思 わないで︑人のことを思っている﹂と 叱漬 され た ︵マルコ 八 . 二 ‑‑1 二三︶︒ 私 たふりはここで︑ イェスの 叱 噴の強烈 さを思 う のである︒それは︑ 主 告白ということ は ︑程度の差としては起らないので︑ 貫 か 偽 かの 告白︑つまり起つて かるか起つていないかなのだ︒そして︑その真偽 を 決定するものは︑イェスの十字架の死と復活 を ︑自己の生存に 不
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可 欠の事柄と認めるか否かにある︒ペテロにお いてさえ起り得なかつた宝生口 白が ︑イエスの圭一 別に認められている 場 ふ口がある︒それは︑マグダ ウ のマリアト ト おい 十 Ⅰ である︒マリアが ィ ニスにはじめて遭ったのは︑ 彼女が何ものとも 自 らを意識することも出来ず ︑ 世に反抗すること のうちに︑わずかに生きるしるしを求めていたと
き
パリサイ火や 字 者たちの手に捕えられてイエスの前に連れ出さ れた時であったろ う ︵ヨハネ八章︶︒この時 ︑ィ エ スによって︑現実 に ︑生命を助げられたことのうちに︑彼女の﹁ 主 ﹂経験の原型が成立した︒この原型が彼女に ︑ シモンの家で︑イエ スに 香油を塗って葬りの備えをさせたのだった ︵ ョ ハ不十二章︶︒そしてイエスは︑この行為を 是 とされたのだ︒ だ から︑イエスと山遭うとゆうことは︑イェスの ﹁十字架の死と復活﹂が︑自己の生存に不可欠で あることを承認することによって起ることである︒
しかし︑マリアにおいても︑真にイェスとの 出 遭いが起つたのは︑ ィ ニスの生前においてではな しに︑復活の日の 朝 ︑墓場においてではなかつたか︒イエスの 十 字 袈の下においても︑ 未 だ十分な意味で出遭いは 起らなかった︒田道 いが成就したのは︑復活においてであった︒ と いうことは︑啓示は ︑ィェス の十字架と復活にお いて完成するからで ある︒ごめ ‑ 復活にまでいたる事件に よち なれ げ ︒は完成しないところの内容の表現だからである その内客というの は︑ 言さまでもなく︑神の愛である︒十字架 と 復活という表現を採る以外に表現の仕方のない 愛 である︒そして︑ こ の 愛のみが︑罪と死の体としての世から︑私た ちを解放することが可能なのである︒世において ︑律法の下にとりこ とされている人間の運命は死である︒それは 前 に 考察したよ う に ︑ 世によって自己決定をした 自 己は ︑自己の不完結 性を運命とする︒そこから︑自己の生存権への 気遣いから離れられない︑不安な生存を負わされ ることになる︒ここ から自己中心性が出て 釆る ︒かくて︑本末︑愛に お げる共同において成立する人格は不成立にな る ︒ところが︑人格と い 5 人倫の世界における生命の器官においてこそ
︑人間本来の生命活動人間的な欲求充足の 過程が可能にな
るのである︒人間も勿論個体としては︑身体を 器官とする生命過程を営んでいるし︑社会におい ても個人として︑ 権
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