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生  世

ドキュメント内 『宗教研究』169号(35巻2輯) (ページ 52-61)

存  ひこ 

目  あ 

体  つ  が  て 

負 

もま 

う  な 

と  や 

こ  み 

ろ  が  の  あ 

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臣  一 ) 

己  に  と 

お  ィ 

けろ    

ニ スが 

  

佳  言 

背う  反と 

に  き  苦  め 

し  「 

み  た  そ  や 

辞宜として働く生命の過程は停止或は歪めら  れてしまうことになる︒かくて︑世に在る自己は  ︑その不完結性の故に不 

%   安をまめがれず︑﹁孤独﹂の故に愛の不足  としての  一 ︒苦悩﹂におちこんで行くのである︒  こ  れが﹁  罪  と死の体﹂とし 

        

自然から独立した自己の生存の領域を︑生産力 に 相応しい 規漠 において﹁くに﹂として獲得した 人間は︒ぞの新し  い 生存の基盤に拠って︑自己を確立した︒この 日 己は生存の事態に即した自覚内容として成立し たのであった︐この  ことは︑言い換えるならば︑世の エ トスを主体 化することによって︑自己は自己となるという ことが出来 るて あろ  ラ ︒かくすることによって ︑ 世は事実としても︑ 意識においても︑人生の主である神から離れた ことになる︒神を ︑  いかなる意味においても認めないことは︑自らを 神とする︑自らを主とすることになるのであ っ て︑ョ ハ不の所謂 ア  ンチ・クリストとなることである︒自己は世とい ぅ 事実的に神を容れない存在の エ トスを主体的 に 自らのものとする 

ことによって︑悪神を拒否することが 

霊 として存在になった ね げである︒世にある自己 はそれ故に悪霊の座 

であるということが出来る︒ 

世にある自己は︑自己自身で自己となることに よって︑自己の本末性を潜して悪を行ったのであ るが︑その結果 忙  出来ない︑﹁孤独﹂ な 自己である︒孤独とは字の  ︒と う いうことになったろ うか ︒その結果の一つ は︑ 前にみたよ う に︑自己は不完結不安定の故に 

よう に独り在ることであり︑ 助 げないことであ る ︒﹁共に在る﹂こと  自己中心的な存在と  なり︑その結果律法の下に囚われる者となった のであった︒そして律法の覆いの下にある自己は 交わりを持つことの  を 本末とする人格存在においては︑﹁独り在る﹂ ことは存在の欠如である︒社会における自己の 位置の事態の反映 と  して成立した自己は︑自己の本来の生存の場で ある人格においても︑人格の本来性に即して機能 することが出来ず ︑ 

﹁共に在る﹂べ き ものを引裂いて孤立させてしま ぅ のである︒かくて︑人格が不成立ということ になると︑人格を器 

  

  

廿サ︐ 

WI71 レ乙 

        

右は ︑教会が ︑ ﹁それの克服において︑実存する ところのパウロの所謂﹁ 罪 と死の体﹂としての ﹁ 世 ﹂の事態であ  る ︒パウロによると︑身体性を生存の条件とす る 

人間﹁肉によって生きる人間﹂11 

は︑こ の世の律法の下に 囚  われの 芽 となっているという︒自然的な﹁世に ある自己﹂とは︑このような人間の事態を言 うの である︒そして︑ 囚  われの身にある人の願いは第一に︑その状態か ら 解放されることである︒解放されることは 自 由 になることである  が ︑それは単に束縛のない状態になることでは なく︑自らの本来性に帰還すること︑本末の生存 権を回復することで  ある︒この意味において教会は︑歴史的現実の 中 で︑本末の生存権を︑信仰の現実として︑換言 ロ すれば約束として 生 

ぎるところの社会集団なのである︒私たちは︑ 

︐  ﹂のことを聖書に即しながらしばらく考えたい︒ 

私たちの生存が︑﹁ 罪 と死の体﹂である﹁世ヒ に 囚われの 芽 としてあるということは地楡的な表 現 であるが︑それ  は︑ 私たちが身体を基礎とし︑社会において 個 人 という存在を持つことなしにはあり得ないこと を 指しているのであ  る ︒生存が︑このよ う 忙しかありえないという @ ﹂とは︑私たちが人間として生きるには︑これか ら 離れることは出来  ないということである︒ここでは︑宗教的生活 であっても︑それが倫理性を欠くならば迷信に なってしまうのであ  り ︑倫理性は生存の条件の正しい処理を措いて は 成り立たないからである︒動物でも天使でもな い 人間の生存は ︑底  の底 まで倫理的であり︑それは﹁くに﹂にお け る 生存を離れてはあり得ないのである︒ところが ︑ 私たちが﹁くに﹂ 

において生きようとすると き ︑既述のような 必 無性をまめがれないのであって︑ここで聖書で 謂 3 所の信仰は︑自然  酌人間においては不可能なことに属する︒とい︐ ヮ ことは︑その可能性は﹁ 世 ﹂の中にはないとい ぅ ことである︒ 

さで︑教会の存在は︑この不可能を可能にする ものと共にはじまる︒それは言 う までもなく︑ ィ ニ ス・キリスト こ 

     

  

C172) 

こから解放されることを求めている﹁みじめさ﹂ ︵ ロマセ ・二四︶は︑このようなものというべ ぎであろう︒ 

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キリスト教 と哲宇 

お げる神の啓示である︒では︑この啓示は何を 起したのだろうか︒世から離れることの出来ない 自己を世から解放し 

て ︑その本末性に復帰せしめたのである︒では︑ それはどのようにして起つたのか︒イェス・ キ リストに・田道 ぅ こと 

によって︒イエス・キリストに山道 ぅ というのは ニ スの 教説 に感動することではない︒勿論 ︑これほ 出 遭いへの 

一路程ではあろうが︑ 教説は︑ 人々をイエス・ キ リストに 出 遭わしめなかった︒それでは奇蹟を 通してだろうか︒ イ 

ニ スが行った奇蹟は︑たしかに大きな感動を捲 き 起した︒だが︑人々が ィェ ・ ス に田道 ぅ ことが 出 釆 たのは︑警語を語 

り ︑奇蹟を行った︑その人において起つたこと においてであった︒それでは︑もう一度︑それは どのようにしてであ 

つ たか︒イエス・キリストに田道 ぅ ということは ︑イエスなしにはあり得ない自己を発見するこ とである︒換言する 

ならば︑イエスを主と告白することを可能とさ れることである︒だが﹁世にある自己﹂が ︑ィェ スを 主と告白するこ  とは至難のことに属する︐イェスは ブイリポ ・ カ ィザ リヤのほとりを弟子たちと歩いていたとき ﹁人々は︑わたし 

をだれと舌口つているか﹂と弟子たちにたずねた ︐ つまり噂ではど う ゆうことになっているのかと たずねた︒弟子たち 

は 答えた︑人々は預言者の一人だと言っている と ︒そこでイエス は 更に ︑ ﹁それでは︑あなたが たはわたしをだれと  い うか ﹂と ぎ いた︒この時も︑いつものように︑ ペテロはいちはやく︑﹁あなたはキリストです ﹂と舌口つた︵ マ Ⅰ ルコ  八 ・ ニ セー 三 0 ︶︒私たちは︑ここで︑ 主 告白 が 起つているよさに思 う のだが︑聖書の次の記事 はこれを否定してい  る ︒この ぺ テロの告白の直後︑イェスは︑﹁ 人 の子は必ず多くの苦しみを受け︑長老︑祭司 辰 ︑ 律法学者たちに捨て  られ︑また殺され︑そして三日の後に ょ みがえ ること﹂を教えはじめられたところ︑ペテロは 先 生の身を案じたので  あろう︑イェスをかたわらに引いて︑忠告した︒ するとイエスは ︑ ﹁サタン よ︑引 ぎさがれ︒ お なたは神のことを 思  わないで︑人のことを思っている﹂と 叱漬 され た ︵マルコ 八 . 二 ‑‑1 二三︶︒ 私 たふりはここで︑ イェスの 叱 噴の強烈  さを思 う のである︒それは︑ 主 告白ということ は ︑程度の差としては起らないので︑ 貫 か 偽 かの 告白︑つまり起つて  かるか起つていないかなのだ︒そして︑その真偽 を 決定するものは︑イェスの十字架の死と復活 を ︑自己の生存に 不 

53@  (173) 

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可 欠の事柄と認めるか否かにある︒ペテロにお いてさえ起り得なかつた宝生口 白が ︑イエスの圭一 別に認められている 場  ふ口がある︒それは︑マグダ ウ のマリアト ト おい 十 Ⅰ である︒マリアが ィ ニスにはじめて遭ったのは︑ 彼女が何ものとも 自  らを意識することも出来ず ︑ 世に反抗すること のうちに︑わずかに生きるしるしを求めていたと 

き 

パリサイ火や 字  者たちの手に捕えられてイエスの前に連れ出さ れた時であったろ う ︵ヨハネ八章︶︒この時 ︑ィ エ スによって︑現実  に ︑生命を助げられたことのうちに︑彼女の﹁ 主 ﹂経験の原型が成立した︒この原型が彼女に ︑ シモンの家で︑イエ  スに 香油を塗って葬りの備えをさせたのだった ︵ ョ ハ不十二章︶︒そしてイエスは︑この行為を 是 とされたのだ︒ だ  から︑イエスと山遭うとゆうことは︑イェスの ﹁十字架の死と復活﹂が︑自己の生存に不可欠で あることを承認する 

ことによって起ることである︒ 

しかし︑マリアにおいても︑真にイェスとの 出 遭いが起つたのは︑ ィ ニスの生前においてではな しに︑復活の日の  朝 ︑墓場においてではなかつたか︒イエスの 十 字 袈の下においても︑ 未 だ十分な意味で出遭いは 起らなかった︒田道  いが成就したのは︑復活においてであった︒ と いうことは︑啓示は ︑ィェス の十字架と復活にお いて完成するからで  ある︒ごめ ‑ 復活にまでいたる事件に よち なれ げ ︒は完成しないところの内容の表現だからである その内客というの  は︑ 言さまでもなく︑神の愛である︒十字架 と 復活という表現を採る以外に表現の仕方のない 愛 である︒そして︑ こ  の 愛のみが︑罪と死の体としての世から︑私た ちを解放することが可能なのである︒世において ︑律法の下にとりこ  とされている人間の運命は死である︒それは 前 に 考察したよ う に ︑ 世によって自己決定をした 自 己は ︑自己の不完結  性を運命とする︒そこから︑自己の生存権への 気遣いから離れられない︑不安な生存を負わされ ることになる︒ここ  から自己中心性が出て 釆る ︒かくて︑本末︑愛に お げる共同において成立する人格は不成立にな る ︒ところが︑人格と  い 5 人倫の世界における生命の器官においてこそ 

︑人間本来の生命活動人間的な欲求充足の  過程が可能にな 

るのである︒人間も勿論個体としては︑身体を 器官とする生命過程を営んでいるし︑社会におい ても個人として︑ 権 

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