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レヴィナスにおける主体

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Academic year: 2022

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修士論文概要一五三 序 論   エマニュエル・レヴィナス︵Emmanuel Lévinas︶は︑︿他者﹀への倫

理を説いた哲学者として知られているが︑これまでの西欧哲学における主

体概念を批判し︑新しい主体概念を呈示しようとした哲学者でもある︒本

論文は︑レヴィナスの主体概念について明らかにすることを目的とする︒

第一の主著である﹃全体性と無限﹄︵一九六一年︶と︑第二の主著である

﹃存在するとは別の仕方で  あるいは存在することの彼方へ﹄︵以下﹃存在

の彼方へ﹄︶︵一九七四年︶における言説をたどりながら︑主体をめぐるレ

ヴィナスの思想の全体像を捉えることを目指す︒

第一章  ﹃全体性と無限﹄における主体   本章では﹃全体性と無限﹄における主体を︑﹁享受﹂﹁分離﹂という観点

から明らかにする︒享受とは﹁〜によって生きること﹂であり︑享受する

︿私﹀とは︑目的や手段を持たずに糧を消尽して自足し︑︿他者﹀に対して

自らを閉ざすエゴイスティックで幸福な主体である︒そして︿家﹀に住ま

うことで世界に存在し︑労働によって獲得したものを所有する︒

  レヴィナスは︑ハイデガーの存在論に基づいて︿私﹀を定立すること︑ すなわち中立的なものとしての存在に︿私﹀を従属させることを批判した︒そのため享受という感覚的な次元︑幸福という価値論的な次元に基づいて主体を定立することを目指した︒さらにレヴィナスは︑観念論や現象学における意味付与や対象構成を行う主観を批判し︑身体によって主体が定位する以上︑理性的反省以前の生の根源的な次元である享受の次元を避けられないこと︑享受が主体の認識作用や表象作用を可能としていることを明らかにした︒  また︿家﹀に女性性が働いているため︑︿私﹀が︿家﹀に住まうことは︑

︿他者﹀へと超越して︿他者﹀を迎え入れること︑すなわち形而上学を前

提とする︒︿私﹀は︿家﹀というエコノミーのうちで内部性にとどまるが︑

︿私﹀の権能や自由を︿他者﹀に問いただされることによって︑︿私﹀は所

有しているものを言葉によって︿他者﹀へと贈与し︑︿他者﹀を迎え入れる︒

そして︿私﹀から︿他者﹀に向けた個別具体的な言葉によって言葉の一般

性・普遍性が生じるのであり︑個別具体的な︿私﹀の世界が普遍的で共通

な世界に先立つ︒存在論では存在という一般性が個別具体的な存在者に先

立つが︑レヴィナスは︑一般性に先立ちそれを支える個別具体的な倫理的

主体という新しい主体概念を呈示した︒

  分離については︑無限からの︿私﹀の分離と︑全体性からの︿私﹀の分

離の二つがある︒無限なものから分離した︿私﹀は︑創造者である無限な

ものへの依存の痕跡を有するため︑創造された時点で無限なる︿他者﹀へ

の責任を負う︒レヴィナスは︑自らの意志に先立って創造された時点です

でに責任を負う︑受動的で他律的な主体を描いた︒また全体性からの分離

とは︑存在という中立的なものや全体性から︿私﹀が逃れることである︒

存在論では個別具体的な︿私﹀が存在に従属させられていたが︑レヴィナ

スは主体を存在から解放し︑主体性を擁護することを目指したのである︒

レヴィナスにおける主体

金  子  知 

(2)

一五四 第二章  ﹃存在の彼方へ﹄における主体   本章では﹃存在の彼方へ﹄における主体を︑﹁主体の受動性﹂﹁内存在性

の我執からの超脱﹂という観点から明らかにする︒レヴィナスは主体の受

動性という概念を通して︑能動的な意志に先立って︿他者﹀への責任を負

う主体のあり方を示した︒主体は︑絶対的受動性のうちで自らの記憶以前

に結ばれた︿他者﹀への責任を有し︑人質・身代わりとして不可避的に︿他

者﹀に犠牲を払う︒このように︑西欧近代哲学における表象や理性的認識

を担う主体ではなく︑また自由や意志を有して道徳的行為を行う自律的な

主体ではなく︑無起源的に負った︿他者﹀への責任によって他律的に倫理

的行為を行う非自由な主体を描いたところに︑レヴィナスの主体概念の特

徴を見ることができる︒そしてレヴィナスは︑西欧近代哲学における自由

や権能を有する主格としての︿私﹀を批判し︑︿他者﹀から無根拠のうち

に告発された対格としての︿自己﹀という︑絶対的に受動的な倫理的主体

を呈示した︒また主体とは︑普遍的な︿私﹀という概念から派生して生じ

た一個体ではなく︑世界のすべてのものに対する責任を一人で担う唯一無

二のこの

0

︿私﹀であった︒ 0

  主体とは︑自らを︿他者﹀へと差し出す倫理的行為としての︿言うこと﹀

を行う責任を負った者である︒︿言うこと﹀は︿言われたこと﹀という言

葉や内容に先立ち︑存在論や認識論︑国家や社会などあらゆるものを基礎

づけ支えている︒レヴィナスにとって主体とは︑︿言うこと﹀によって世

界のあらゆるものを支える唯一の起点であった︒

  また主体は︑内存在性の我執という︑自らの存在に固執して存在しよう

と努力するエゴイスティックなあり方を取る︒これは︑存在しようとする

努力・傾動を有する人間の本源的なあり方を描いたスピノザの影響を受け

たものであるが︑レヴィナスはスピノザには見られなかった﹁ある︵il y a

︶ ﹂

という独自の概念を用いた︒非人称的・無差別的な﹁ある﹂の恐怖によっ

て︑︿私﹀は存在することのうちに埋没し︑自らの存在へと釘づけにされる︒

  しかし自らが存在することを中断し︿他者﹀へと自らを開くことで︑内

存在性の我執からの超脱が成され︑︿私﹀は自らの存在から解放されて︿他

者﹀に従属するのであり︑これこそがレヴィナスにとって善さであり倫理

であった︒︿他者﹀への責任を第一に捉え︑自らが存在することを中断し

てまでも︿他者﹀に自らを差し出す倫理的主体は︑これまでの西欧哲学に

は見られなかった新しい主体である︒さらにレヴィナスは内存在性の我執

から超脱する主体の主体性を︑存在・非存在の二者択一を超えた﹁存在す

るとは別の仕方で﹂という第三項として捉え︑存在論の体系から主体を解

放することを目指したのである︒

第三章  ﹃全体性と無限﹄と﹃存在の彼方へ﹄における      主体概念の比較   本章では﹃全体性と無限﹄と﹃存在の彼方へ﹄における主体概念を比較

し︑両書に見られる転回点と共通点について論じる︒

  転回点としては︑第一に︑享受と内存在性の我執をめぐる転回が挙げら

れる︒﹃全体性と無限﹄においては享受が︑﹃存在の彼方へ﹄においては内

存在性の我執がそれぞれ重要な概念であった︒享受する︿私﹀と内存在性

の我執というあり方をする︿私﹀は︑︿他者﹀に無関心で︿他者﹀に自ら

を開かず自足し︑エゴイズムの形態にある点で共通しているが︑前者は自

らの存在に固執せず存在論の体系から逃れる一者であり︑後者は存在しよ

うとする努力・傾動を有する存在論の体系に囚われた一者であった︒レ

ヴィナスは︑︿他者﹀へと自らを開く前のエゴイスティックな︿私﹀のあ

り方を表すために両書で別の概念を用いたのであり︑ここに思考の転回を

(3)

修士論文概要一五五 見ることができる︒  転回点として第二に︑存在からの︿私﹀の解放をめぐる転回が挙げられる︒﹃全体性と無限﹄における享受する︿私﹀は︑存在から分離しながら

も︿他者﹀への超越の起点として世界に存在し場所を占めており︑存在論

の枠組みから完全に逃れていなかった︒デリダからこのような批判を受け

たレヴィナスは︑﹃存在の彼方へ﹄において形而上学的な方法をもはや取

らず︑︿私﹀の場所を剥ぎ取り存在論の枠組みから︿私﹀を完全に解放さ

せることを目指し︑﹁非場所﹂にある︿自己﹀を呈示したのであり︑ここ

に転回を見ることができる︒

  ﹃全体性と無限﹄と﹃存在の彼方へ﹄における主体概念の共通点につい

ては︑第一に︑︿他者﹀に対して無起源的に責任を負う主体が描かれてい

る点が挙げられる︒これは創造された時点で︿他者﹀への責任を負う主体

が一貫して描かれ︑また﹁選ばれた﹂という言葉が一貫して用いられてい

ることから明らかである︒

  共通点として第二に︑一般性や全体性に先立つ個別具体的な︿私﹀が描

かれている点が挙げられる︒個別具体的なこの

0

︿私﹀が一般性に先立つこ 0

とを明らかにし︑存在論における一般性や全体性から主体を解放させるこ

とが︑両書の共通の目標であった︒また︑︿私﹀による倫理が一般性を支

えていることを明らかにすることや︑この

0

︿私﹀という倫理的主体を起点 0

としてあらゆるものを捉え直すことも︑両書で共通して目指されていた︒

結 論

  レヴィナスの主体概念には転回が見られるが︑他方で主体をめぐるレ

ヴィナスの言説において︑﹁倫理的主体の生成﹂﹁存在からの主体の解放﹂

という二つの核となるテーマが一貫して主張されていた︒創造された時点 で︿他者﹀に対する責任を負う選ばれた唯一の倫理的主体を描くこと︑そして主体を存在論の体系から解放させることこそが︑レヴィナスの倫理思想における一貫した目標であった︒

(4)

一五六   本論の目的は︑マイスター・エックハルトの誕生論を存在論的な観点か

ら解明することにある︒誕生論とは︑エックハルトが母語ドイツ語による

説教において﹁魂の内における神の誕生﹂として独自の形で展開している

ものである︒しかしながら︑昨今の研究が明らかにしているように︑ドイ

ツ語説教には彼が神学者としてラテン語で著述したことが正確に反映され

ている︒本論では︑エックハルトのラテン語著作における存在概念および

知性概念の検討を通じて︑如何なる神学的理解を背景として彼が﹁魂の内

における神の誕生﹂を語ったのかを明らかにすることを試みる︒

第一章  存 在   ﹁存在は神である﹂︵esse est deus︶︒これはエックハルトが︑自らの思

想の集大成として書き上げようとした﹃三部作﹄︵﹁命題集﹂﹁問題集﹂﹁注

解集﹂︶において︑第一命題として提示しているものである︒この著作の

内で実際にまとまった形で現存しているのは﹁注解集﹂のみであり︑他に

は幾つかの序文が残されるに留まっている︒だが全体の序文において︑﹁適

切に演繹が行われるなら︑この命題から神について問題となることがほぼ

すべて容易に解決され︑神について書かれていることが自然的論拠によっ

て明快に解釈される﹂と述べられているように︑エックハルトはこの第一 命題からすべてを演繹する形で自らの神学を構築しようと計画していたと考えられる︒  この第一命題に関して注意しなければならないのは︑主語が﹁神﹂ではなく﹁存在﹂であるということである︒この箇所でエックハルトは︑仮にも﹁存在﹂が神でないなら︑神に先立つものが存在し︑それが神の存在の原因となってしまうだろうが︑これは不都合であるとしている︒ここでは︑﹁自らによって自存する存在そのもの﹂が本来的な意味での﹁存在﹂なの

であるとする新プラトン主義的な存在理解が前提とされている︒この考え

自体はトマスの﹁存在そのもの﹂としての神理解と一致している︒しかし

エックハルトが主張するのは︑﹁神は自存する存在そのものである﹂とい

うことではなく︑﹁自存する存在そのものが神と同定される﹂ということ

なのである︒

  このような存在理解と合致するのが︑﹁端的存在﹂と﹁これこれのもの

の存在﹂との区別である︒前者は端的に存在していることを意味し︑後者

は事物が何かとしてあることを意味するものである︒エックハルトは多く

の場合これら二つの﹁存在﹂を断りなく自由に用いているが︑これは文脈

によって適宜区別されなければならない︒なるほど実体的形相は事物に存

在を与える︒しかし実体的形相が与える﹁存在﹂とは後者の意味の存在で

あって︑神が事物に与えるところの端的存在ではない︒火の形相は事物に

それが火であることを与えるが︑その事物がまさに存在しているという事

実を根拠づけるわけではない︒対して神が与える﹁存在﹂とは事物の現実

性そのものである︒それゆえ︑事物がこのものとして存在していると言わ

れるときの﹁この﹂という限定は端的存在には何も付加しないと言われる︒

つまり︑事物の有する﹁何かとしてある﹂という事実はもはや本来的な意

味での﹁存在﹂ではない︒事物は唯一の﹁存在﹂である神から存在を直接

受け取っているのであり︑﹁ある﹂という現実を自己の内に有しているわ

エックハルトにおける誕生論の 存在論的解釈

西  村  雄 

(5)

修士論文概要一五七 けではないのである︒

第二章  知 性   前章では︑神が存在であることが検討された︒本章では︑神が存在では

なく知性認識であることを強調している﹃前期パリ討論集﹄を中心にエッ

クハルトの知性理解について検討することで︑知性的存在と事物が有して

いる存在との差異を明確にする︒

  エックハルトはこのテキストにおいて︑神が存在ではなく︑知性認識で

あることを強調している︒神は存在しているから知性認識しているという

よりも︑知性認識しているからこそ存在していると言われるのであり︑し

たがって知性認識が神の存在の基盤なのであるとされる︒神においてはそ

の知性そのものが実体的に実在するものなのであって︑実在する神に知性

が付加されているというわけでは決してない︒それゆえ︑神は自然的事物

と同じ意味において存在しているのではなく︑知性認識として存在してい

るのである︒

  このような考えの基にあるのが︑﹁知性それ自体の固有性﹂である︒エッ

クハルトは︑知性が神と人間との間でその固有性を異にするとは考えない︒

神の知性も人間の知性も同じ固有性︑すなわち関係性︵relatio︶の範疇に

関わるという固有性を有している︒

  エックハルトに拠れば︑人間知性とその認識像である形象とは︑能力と その対象として存在する︒能力︵potentia︶は可能態として他者である対

象に依存し︑そこに関係性が成り立つのであるが︑この依存関係は付帯性

の基体への内属という様態をとらない︒能力と対象の有するこの関係性に

基づいて︑人間知性は他者である対象物をそれが他者であるにも拘わらず

自己の内に有することができるのである︒なるほど︑神において知性認識 は神の本性そのものであるから︑実在的関係性が成り立つのに対して︑

我々においては概念的関係性が成立するにすぎないという差異は存する︒

実際︑或る建築家が家について知性認識しているとしても︑その建築家が

家の本性を有していることにはならない︒しかし︑関係性の範疇に関わる

ものとして︑他者を受容しうるという点に︑知性の固有性が存するのであ

る︒ここに我々の知性が対象としての神を受容しうる可能性も開けること

となる︒  以上のことはまた︑魂の内なる存在者︑すなわち知的認識像としての形

象が自然的事物に当てはまるような意味での存在者の規定を有していない

ということを含意する︒存在者とは厳密には類と種に関して限定されてい

るものをいうが︑形象はそのような限定を被らないがゆえに存在者の規定

を有していない︒こうして︑知性的存在と自然的存在とは明確に区別され

るのである︒

  このような理解は︑第一章で確認した端的存在の概念とも矛盾しない︒

一なる知性的存在としての神が直接的に創造したのは一なる宇宙であり︑

宇宙の諸部分は間接的に創造されたにすぎない︒宇宙に存する種々の事物

は確かに神の内において概念的には区別される︒しかしそれはあくまでも

概念的にであって︑我々の知性の側の区別にすぎない︒神の内なる事物の

理念は︑自然的事物のように類や種へと区別されているわけではないので

ある︒本来的には一なる神と神が生み出した一なる宇宙とが存在するのみ

である︒  したがって︑我々がこの何かとして存在しているといっても︑それは宇

宙の一部分として存在しているということにすぎない︒それは人間とその

部分である手に譬えられる︒手は自らよりも人間を愛しており︑その人間

に危険が近づけば︑自らを省みることなく彼に奉仕する︒何故なら︑手は

人間の消滅が直ちに自己の消滅に繋がることをよく承知しているからであ

(6)

一五八

る︒それゆえにこそ︑人間もまた自己が神の創造した宇宙の一部分である

ことをよく理解した上で︑自己自身よりも神を愛さなければならない︒

エックハルトの存在・知性理解は︑人間が神と結びつかなければならない

理由を提示するものでもある︒

第三章  誕 生   以上で確認してきた事柄を踏まえた上で︑本章では︑人間の魂の内にお

ける神の誕生を可能とする︑その神学的根拠を究明する︒

  エックハルトは︑実体的形相の生成︵generatio︶が時間経過のもとで

断続的に生起するという立場を否定している︒実体的形相は︑物体的付帯

性とは決定的に異なる︒実体的形相は或る部分を形成するが別の部分は形

成しないといった仕方によってではなく︑複合体における質料全体を媒介

なしに同時に形成するものであり︑複合体にその存在を齎すものである︒

そのようなものとして︑実体的形相は時間的で付帯的な事柄には係わらず︑

そうした付帯的な事柄の根拠となっているのである︒

  このような実体的形相と生成の理解は︑道徳的領域における徳の誕生

︵generatio︶にも適用される︒徳は付帯性としてではなく︑一種の実体的

形相として人間に備わっているものである︒このような理解の根底にある

のは︑徳が霊的完全性として人間と神とを繋ぐものでなければならないと

いうエックハルトの確信である︒徳とは善き行為に向けての傾向性を有し

ている状態を意味するのではなく︑一種の実体的形相として人間を有徳な

者として存在せしめるものでなければならない︒

  人間を有徳な者とする形相とは一体何か︒それは義そのものである神に

他ならない︒神は神的存在を人間の知性的魂に恩寵として与えている︒そ

れゆえ︑人間は一切の事物との関係が取り去られる場︑すなわち魂の根底 において︑対象としての神と関係性を通じて係わり︑神によって形成されているのである︒そこにはもはや︑魂と神という区別はなく︑一なる知性認識が存するのみである︒

結 論

  存在とは本来的には唯一のものである︒それは万物のイデアであり︑事

物を根源的なものとして在らしめている神そのものである︒宇宙の一部分

としての被造物が被造物として有している存在はいわば付帯的な存在であ

り︑したがって被造物は存在そのものを形相として有する神なしには純然

たる無にすぎない︒だが︑そうした神の存在とは知性認識であり︑知性的

魂を本質的に形成して存在せしめるものである︒それゆえにこそ︑人間は

このことに自覚的になり︑被造物としての自己を離脱することによって︑

自らの魂の根底において対象としての神を誕生させなければならないので

ある︒

(7)

修士論文概要一五九   本論は︑マリアの無原罪の宿り︵Immaculata Conceptio︶︵以下︑無原

罪の宿り︶を巡る神学論争に解決の糸口を与えたヨハネス・ドゥンス・ス

コトゥス︵Johannes Duns Scotus, 1265/66-1308︶の解釈を︑スコトゥス

が集中的に論じた﹃オルディナチオ﹄︵︶第三巻第三区分第一問

﹁至福なる処女は原罪のうちに懐胎したのか﹂︵Utrum Beata Virgo fuerit 

concepta in peccato originali︶のうちで明らかにするものであるが︑その

中から特に︑スコトゥスの論証の独創性を考察することを目的とする︒

  無原罪の宿りはキリスト教史において極めて重要な教理であり︑公認の

過程において︑スコトゥスが重要な役割を果たしたことはよく知られてい

る︒しかしながら︑無原罪の宿りの議論に特化したスコトゥス研究は少な

く︑その内容についてはこれまで十分に論じられてこなかったように思わ

れる︒また︑スコトゥスの理論が余り扱われてこなかった事実は︑一方で

議論の内容が正しく伝えられていない原因となっている︒

  無原罪の宿りとは︑1854年︑教皇ピウス9世により正式に宣言され

た︑マリアが母胎に宿った時から一度も原罪をもつことはなかったという

教えである︒この教えは古くから民衆の間で語り継がれていたが︑聖書に

記述が認められないため︑その認否を巡る議論が長く繰り返されていた︒

発端は︑西方に継承された︑東方を起源とするマリアのお宿りの祝日︵以 下︑祝日︶の存在であった︒アウグスティヌス︵Augustinus, 354-430︶以

降︑原罪を問題とする西方では︑アダムの子孫と神の母という二律背反的

な問題から︑祝日を祝うか否かの議論に発展した︒祝日とは聖なるものを

祝うべきであると考えられていたためである︒否定の根拠としてトマス・

アクィナス︵Thomas Aquinas, 1224/25-74︶が︑マリアの魂が一度も原罪

をもたなかったならば︑万物の全的な救い主としてのキリストの尊厳を毀

損することになったであろうと主張したように ︵1︶︑無原罪の宿りが否定され

た最大の理由は﹁キリストは全人類の贖い主である﹂ことであった︒たと

え神の母に対してであれ︑この教えの否定はマリアがキリストの贖いを必

要としないことを意味し︑キリストによる救いの意義に適合しないからで

ある︒  一方︑

13Anselmus Cantuarensis 1033/34-1109世紀にアンセルムス︵︶ の原罪理解が受け入れられると ︵2︶︑解釈の見直しから生殖に伴う欲情の存在

を理由としたアウグスティヌスの原罪理解は否定され︑論点はマリアの聖

化︵sanctificatio︶の時期に移された︒聖化とは︑マリアの懐胎に関する 恩寵による原罪の清めを意味する ︵3︶︒当時︑恩寵は堕罪以前の人間がもち得

た義に等しいちからをもち︑罪は義の欠如であり︑原罪から救うものは唯

一恩寵であると理解された︒恩寵の前には必ず原罪が存在すると考えられ︑

トマスがマリアは母胎内で聖化されたと結論づけたように ︵4︶︑マリアは一度

は原罪をもったと考えられた︒

可能であると示されたことは︑なされうることであり︑神の御存じで

あったことである︒もしも教会や聖書の権威に矛盾しなければ︑マリ

アに︑より卓越したものを帰することがふさわしいと思われる ︵5︶

  以上を基本にスコトゥスは︑﹁キリストが全人類の贖い主である﹂こと

ドゥンス・スコトゥスにおける﹁無原罪 の宿り﹂ Immaculata Conceptio ︶の解釈

福  田  淑 

(8)

一六〇

を論拠として無原罪の宿りを立証する︒特に論駁の対象としたのは聖化と

いう考え方であり︑論理的な反論は不可能であるとすら考えられていた恩

寵と原罪の関係に対し︑スコトゥスは敢えて義化︵justificati ︵6︶o︶を用いて

恩寵が原罪に先行する可能性を論じる︒

  まずスコトゥスは︑﹁卓越性﹂の意味を検討する︒それまでマリアの懐

胎は︑全人類を贖うキリストの卓越した存在と信仰の真理を通して解釈さ

れてきた︒そのため﹁キリストは全人類の贖い主である﹂ことは︑必然的

にマリアは原罪をもつ存在であるとの結論に帰結した ︵7︶︒従って︑スコトゥ

スには無原罪の宿りが﹁キリストが全人類の贖い主である﹂ことに起因し︑

救いの意義に適うものであると説明する必要があった︒

  無原罪の宿りの可能性はキリストの贖いを通じてのみ存在すると考える

スコトゥスは︑受肉と受難の意義を詳細に検討し︑マリアが無原罪である

ための贖い主の役割を挙げる︒スコトゥスに従えば︑それはマリアが罪を

もたないように﹁先回りして保護する﹂はたらきであり︑三位一体である

キリストには可能である︒その役割が果たされなければ︑マリアは原罪を

もち︑それは同時に三位一体を侮辱し︑罪をもった母から神が生まれるこ

とを意味する ︵8︶︒スコトゥスは︑マリアが無原罪であるという認識において

こそ卓越したキリストの役割が最大限に示され︑一方︑マリアは神の母と

なるために︑キリストの救いを誰よりも必要としていたと主張する︒以上

により︑キリストは無原罪で懐胎されるマリアの贖い主であり︑キリスト

の尊厳性に無原罪の宿りが抵触しないとスコトゥスは結論づける ︵9︶︒   スコトゥスは︑﹁先回りして保護する﹂とはマリアの懐胎の第一の瞬間

︵以下︑第一の瞬間︶に恩寵を与える︑即ち義化であると考える

︶10

︒ところで︑

伝統的な恩寵と原罪の関係を考慮すれば︑スコトゥスの主張は恩寵の前の

原罪の必然性を否定するものである︒また︑それはマリアがアダムの子孫

であることと無原罪の宿りの矛盾を解決し︑同時に聖化に対する反証とな る︒  更に︑スコトゥスは︑神は有限なる時間の中で意志的にある瞬間に恩寵をもたらすことが可能であると主張することで︑義化は瞬時になされ︑第一の瞬間が恩寵のうちにある可能性を示す

︶11

︒スコトゥスは︑質料︵materia︶ は形相 forma︵

︶と欠如態

privatio︵

︶に先立つとしたアリストテレス

︵Aristoteles BC. 384-22︶に従い

︶12

︑恩寵は原罪の後にもたらされることが

必然とされる考え方を否定する︒スコトゥスに従えば︑自然本性において

魂が形相︵恩寵︶と欠如態︵原罪︶のいずれかのもとにある必要はなく︑

また︑欠如態が先行する必然性もない

︶13

︒この説明により︑スコトゥスは無

原罪の宿りの可能性に余地を残す︒

  考察に従い本論は︑スコトゥスの論証の独創性を次のように考える︒

  第一に︑否定の論拠をそのまま肯定の論拠へと転換する立論の方法であ

る︒スコトゥスは︑伝統や権威ある教父︑哲学者及び神学者の見解を引用

しながら論理を組み立て︑それにより自らの見解に説得力をもたせ︑論証

の正当性の担保とする︒更に︑既存の理解に対して別の視点から解釈を加

えることで︑否定的見解を無力化し相対化する︒スコトゥスは︑考えうる

全ての概念を徹底的に検討し論理的に説明しながら︑それまで限定的な前

提で考えられていたためアポリアに陥っていた問題に解決の糸口を与える︒

  第二に︑マリアの救いの業への参加である︒スコトゥスは救いの論理に

従い︑キリスト中心に論じる中で︑最初から神の母と定められていたマリ

アの起源からの努力︑意志を主張し︑受難の神秘の中にある救いの協力者

としてのマリアの存在を強調する︒従って︑本論は︑スコトゥスが救いの

論理の中のマリアの役割に目を向けたことをもう一つの独創性と考える︒

  スコトゥスの論証は︑あくまでもキリストへの理解を通してマリアへの

理解を深めて行くものである︒キリスト中心的な神学思想に救いの協力者

(9)

修士論文概要一六一 としてのマリアを加えたスコトゥスの解釈は︑救いの神学であると言えるのではないだろうか︒

︵1︶ Thomas Aquinas,  III, q.27, a.2. 以下︑と表記︒邦

訳は﹃神学大全﹄

32︑稲垣良典訳︑創文社︑2007年を参考にした︒

︵2︶ Wolter, Allan B, O’Neill, Blane, , Illinois, 

1993, p.67.︵3︶ Wolter, Allan B.  New York, 

2000, pp.56-57.︵4︶  III, q.27.a.1.︵5︶ ⁝quae ostensa sunt possibilia esse, factum sit, Deus novit; 

︵Duns Scotus, . III, d. 3, q. 1︶

以下︑と表記︒

︵6︶  〝justificatio〟は︑ディンツィンガー︑シェーンメッツァー﹃カトリック

教会文書資料集﹄︵改訂版︶︑浜寛五郎訳︑エンデルレ書店︑1988年に基

づき﹁義化﹂と訳出した︒

︵7︶ Cf.  III, d.3, q.1.︵8︶ 

︵9︶ 

10︶ 

︵ 11 II-1, q.113, a.7.︶ トマスも︑恩寵は瞬時に授けられると述べている︒

︵ 12Cf. Aristotele,  I, c7, 190b34.︶  13Cf.  III, d.3, q.1.︶ 

(10)

一六二   鳩摩羅什︵三四四│四一三︶が弘始八年︵四〇六︶に訳出した﹃妙法蓮

華経﹄観世音菩薩普門品︵﹃法華経﹄普門品︶の別行経は︑僧裕︵四四五

│五一八︶の﹃出三蔵記集﹄巻四に︑﹁観世音経一巻  出新法華︵1︶とあること

から梁代以前には存在し︑これをもとにした観音信仰が流布していたこと

が知られる ︵2︶︒また︑智顗︵五三八│五九七︶説︑灌頂︵五六一│六三二︶

記と伝えられる﹃観音義疏﹄巻上には︑﹁晋世謝敷︑作w観世音応験伝z斉 陸杲又続p之 ︵3︶︒﹂とある︒そして︑吉蔵︵五四九│六二三︶撰﹃法華義疏﹄

巻一二には︑﹁応験記非p一︒会稽高士謝敦︵敷カ︶︑字慶緒︑呉郡長影玄︑ 陸䚹等並撰w観音験記z宋臨川王劉義慶撰︑宣験義記︑太原王琰撰︑冥詳記︑

皆出w火事q⁝ ︵4︶︒﹂と記されている︒以上のことから︑東晋︵三一七│四一九︶

の謝敷や︑それ以降の陸杲︵四五九│五三二︶等が︑観音菩薩による衆生

の救済をもとにした体験記を著していたことが分かり︑ここから観音信仰

の盛行が窺えるであろう ︵5︶︒﹃観音玄義﹄は︑このような観音信仰を中国に

もたらした﹃法華経﹄普門品の註釈書である︒しかし︑同書の著者につい

ては未解明であり︑研究の余地が残されている︒

  ﹃大正新脩大蔵経﹄第三四巻所収の﹃観音玄義﹄の題下には︑﹁隋天台智 者大師説  門人灌頂記 ︵6︶﹂とある︒本論文では︑この記述を根拠として同書

には灌頂の思想が説かれていると捉えた︒そして︑そこに説かれる学説を

取り上げ︑智顗による文献︵﹃維摩経﹄註釈書類︶や︑法雲︵四六七│五 二九︶・吉蔵等の普門品に対する註釈と比較し︑﹃観音玄義﹄の思想的位置

づけを明らかにすることを主な目的とした︒

  Ⅰ・第一章では︑﹃観音玄義﹄の思想的位置づけの模索に先立ち︑同書

の文献的位置づけの把握として︑後代の学匠における同書の受容態度を整

理した︒すなわち︑湛然︵七一一│七八二︶や︑知礼︵九六〇│一〇二八︶︑

さらには日本の最澄︵七六六︑一説に七六七│八二二︶︑播磨道邃︵一一

五七没︶︑証真︵平安末期から鎌倉初期︶等は︑同書を智顗によるもので

あるとする︒また安然や日蓮︵一二二二│一二八二︶等の著作においても︑

同書は智顗の著作として引用される ︵7︶︒しかし︑江戸期の浄土宗の僧︑徳門 普寂︵一七〇七│一七八一 ︵8︶︶は︑﹃観音玄義﹄に説かれる性悪説を批判し︑

同書は智顗のものではないとする︒この徳門普寂の説によって︑﹃観音玄

義﹄の著者に関する真偽問題が浮上したのである︒

  近年における﹃観音玄義﹄の著者についての研究は︑佐藤哲英氏と安藤

俊雄氏によってなされた︒両氏の研究は︑﹃観音玄義﹄巻上に説かれる観

音十義の名目が︑吉蔵による観音二十条義と双標十対や︑智顗による﹃維

摩経﹄註釈書類の中にどれだけ共通して見出せるかということに主眼を置

いている︒観音十義 ︵9︶とは︑観世音という言葉に十の意義づけをしたもので

ある︒観音二十条義

︶10

と双標十対

︶11

は︑それぞれ﹃法華玄論﹄巻一〇と﹃法華

義疏﹄巻一二に説かれ︑その概念は観音十義と同様である︒

  佐藤氏は︑灌頂が吉蔵による﹃法華経﹄註釈書類を参照しながら﹃観音

玄義﹄を著したとする

︶12

︒その理由は︑観音十義に観音二十条義・双標十対

と共通している名目が見られるからである︒一方︑安藤氏は観音十義には

智顗がその晩年に撰述した﹃維摩経﹄註釈書類︵﹃維摩経文疏﹄・﹃維摩経

玄疏﹄・大本﹃四教義﹄︶と一致するものがあるとする立場にある

︶13

︒しかし

ながら︑両氏の研究では観音十義・観音二十条義・双標十対︑あるいは﹃維

摩経﹄註釈書類に共通する名目や語句の内容に対する詳しい解説がなされ

天台智顗の教学における 普門品註釈について

日  比  宣 

(11)

修士論文概要一六三 ない︒  そこで︑Ⅰ・第二章では佐藤氏の研究をもととして︑観音十義・観音二

十条義・双標十対に再検討を加えた︒すると︑観音十義の中には︑多くの

智顗による学説が見られ︑さらに︑﹃観音玄義﹄と吉蔵による﹃法華経﹄

註釈書類で名目が共通する観音義の内容量とその内容が大きく相違してい

ることが分かった

︶14

  佐藤氏と安藤氏の研究は︑観音十義を中心にしたものである︒しかし︑

﹃観音玄義﹄の思想的立場を明らかにするためには︑観音十義以外の学説

にも目を向ける必要がある︒﹃観音玄義﹄巻下では︑観音菩薩の階位に関

する問題が論じられる︒﹃法華義疏﹄巻一二にも︑同じような問題が見出

される︒また︑両書では観音菩薩には観世音の他に観世身と観世意という

呼び名があるのにも拘らず︑なぜ観世音という呼び名が主に使用されてい

るのかという問題が共通して取り上げられる︒このような両書に共通した

問題は︑﹃法華義疏﹄が﹃観音玄義﹄に影響を与えたものであるのか︑も

しくは当時の中国における普門品の註釈において一般的な課題であったの

かを明らかにする必要がある︒このことはⅠ・第三章で論じた︒

  次にⅡ・第一章においては︑観音十義の名目は智顗の﹃維摩経﹄註釈書

類の思想と一致しているとする安藤氏の説をもとに︑﹃観音玄義﹄と智顗

の学説及び思想の関係性を検討した︒これによって︑﹃観音玄義﹄と﹃維

摩経﹄註釈書類は密接な関係にあるということが分かった︒

  その一方で︑同書には﹃法華玄義﹄に教理の詳説を譲っている箇所が多

くある︒それらの該当箇所を︑現行の﹃法華玄義﹄に求め︑さらにそこに

説かれる学説を﹃維摩経﹄註釈書類に説かれる同様の学説と比較すると︑

両書における同学説は異なる思想的立場から説かれていることに気づく︒

つまり︑﹃観音玄義﹄には智顗による﹃維摩経﹄註釈書類と共通する思想・

学説が多く確認できる一方で︑同書において教理の詳説が譲られている ﹃法華玄義﹄には︑﹃維摩経﹄註釈書類とは異なる思想を根底に据えた同様

の学説が説かれるということである︒このことはⅡ・第二章で論じた︒

  次に︑Ⅱ・第三章では﹃観音玄義﹄と現行の﹃法華玄義﹄を直接比較し︑

そこに説かれる共通の学説と︑同箇所から読み取れる思想的相違を取り上

げた︒これによって﹃観音玄義﹄には︑﹃維摩経﹄註釈書で説かれる学説

と思想が確認できるということと並んで︑現行の﹃法華玄義﹄と共通する

学説と思想も含まれているということが確認できた︒

  なお︑Ⅱ・第二章とⅡ・第三章においては︑先学が言及した思想と学説

という用語の概念の違い

︶15

に着眼した︒

  以上︑本修士論文の概要を述べた︒本論文の意義としては︑﹃観音玄義﹄

の思想的位置づけを明確にするに留まらず︑様々な教学を講説した智顗に

対して︑その講説を記録した筆録者灌頂の存在と︑その思想を究明するこ

との必要性を提示することができたということが挙げられよう︒

︵1︶ ﹃出三蔵記集﹄巻四︵大正五五・二二頁中︶︒

︵2︶ 佐藤哲英﹃天台大師の研究﹄︵百華苑︑一九六一年︑四七六頁︶を参照︒

︵3︶ ﹃観音義疏﹄巻上︵大正三四・九二三頁下︶︒

︵4︶ ﹃法華義疏﹄巻一二︵大正三四・六二六頁中︶︒

︵5︶ 謝敷撰﹃観世音応験記﹄等の観音応験記類については︑塚本善隆﹁古逸六

朝観世音応験記の出現〜晋・謝敷︑宋・伝亮の光世音応験記〜﹂︵﹃京都大学

人文科学研究所﹄創立二十五周年記念論文集︑一九五四年︶︑塚本善隆・牧

田諦亮︵附註︶﹁古逸六朝撰述観世音応験記  解題﹂︵﹃聖徳太子研究﹄第三号︑

一九六七年︶を参照︒

︵6︶ ﹃観音玄義﹄巻上︵大正三四・八七七頁上︶︒

︵7︶ 安然﹃胎蔵金剛菩提心義略問答抄﹄巻五︵大正七五・五四〇頁中│五四一

頁上︶︒日蓮﹃如来滅後五五百歳始観心本尊抄﹄︵大正八四・二七二頁上︶︒

(12)

一六四

湛然や知礼︑最澄︑播磨道邃︑証真等がどのように﹃観音玄義﹄を受用して

いたかについては︑本論で詳しく述べた︒

︵8︶ 徳門普寂の生涯については︑西村玲﹁徳門普寂〜その生涯︵一七〇七│一

七八一︶〜﹂︵﹃インド哲学仏教研究﹄一四︑二〇〇七年︶を参照︒

︵9︶ 観音十義の十の名目を挙げると︑人法・慈悲・福慧・真応・薬珠・冥顕・

権実・本迹・縁了・智断である︒

10︶ ﹃法華玄論﹄巻一〇に見られる観音二十条義は︑人法・本迹・三輪・名徳・

内外・智慧功徳・智断・顕密・慈悲・二身・権実・三業・三徳・浅深・二徳・

神通示現・力無畏・四等四攝・解行・非慧である︒

11︶ ﹃法華義疏﹄巻一二に見られる双標十対は︑人法・真応・内外・慈悲・珠薬・

感応・出出世・神通示現・顕密・名徳である︒

12︶ 佐藤哲英﹃天台大師の研究﹄︵四八九│四九〇頁︶︒

13︶ 安藤俊雄﹃天台学〜根本思想とその展開〜﹄︵平楽寺書店︑一九六八年︑

三八九│三九九頁︶︒

14︶ 観音十義のうち︑観音二十条義・双標十双の名目と共通するものは︑六義

︵人・法︑慈・悲︑真・応︑権・実︑本・迹︑智・断︶ある︒これらの内容

の記述量を︑﹃大正新脩大蔵経﹄第三四巻の行数で表すと︑観音十義の人・

法は七十一行︑慈・悲は七十六行︑真・応は三十九行︑権・実は二十四行︑本・

迹は三十三行︑智・断は四十一行ある︒一方︑観音二十条義は︑人・法が九

行︑慈・悲が三行︑権・実が二行︑本・迹が十行︑智・断が五行あり︑真・

応の名目は同書には見られない︒そして︑双標十対では︑人・法が四行︑慈・

悲が五行︑真・応が三行ある︒同書には︑権・実︑本・迹︑智・断の名目は

見られない︒以上の様に︑観音十義の方が吉蔵による観音義よりも︑遥かに

その内容が豊富であるということがわかる︒

15︶ 佐藤哲英﹃続・天台大師の研究﹄︵百華苑︑一九八一年︑四二六頁︶にお

いて︑安藤氏との如来性悪説の創唱者についての論争を結論づけるために︑

思想と学説の区別について論じている︒また︑大久保良峻氏も﹃新・八宗綱

要﹄︵法蔵館︑二〇〇一年︑七九頁︶において︑佐藤氏に依る主張に関連さ せて︑思想・学説等の言葉の概念の違いについて少しく言及している︒

(13)

修士論文概要一六五   法界縁起は華厳教学の中心的思想であると言われる︒法蔵︵六四三│七一二︶をはじめとする華厳宗の諸師は︑法界縁起を華厳一乗の法門とし︑十玄門や四法界説等の教理を展開した︒ところが︑法蔵の師である智儼︵六

〇二│六六二︶の著作においては︑法界縁起という概念は必ずしも強調さ

れているわけではない︒そもそも︑法界縁起という術語は︑霊裕︵五一八

│六〇五︶や慧遠︵五二三│五二九︶の時代から用いられ︑地論・摂論学

派においては種々の法界縁起説が論じられていたと考えられている︒その

ため︑初期の華厳教学︑すなわち智儼と法蔵の思想を︑地論・摂論教学か

ら華厳教学へという流れの中で捉えようとするとき︑法界縁起説がどのよ

うに受容され︑発展したのかを明らかにすることが必要である︒本修士論

文では︑智儼の思想に焦点を当て︑その思想が如何にして地論・摂論から

独立し︑華厳教学として発展したのかを論じた︒

  第一章では︑智儼の著述と伝えられている五著作について︑おおよその

撰述年代を確認し︑さらにテキストの来歴を刊本巻末の識語の記述から明

らかにした︒智儼の思想を考察するにあたって︑はじめに研究の基礎資料

となる文献を確定する必要があったためである︒しかしながら︑これらの

著作の中には先行研究において偽撰の可能性が論じられている文献も含ま

れている︒

  そこで︑第二章では︑真偽が争われている﹃一乗十玄門﹄について検討 した︒﹃一乗十玄門﹄は︑伝統的解釈によれば︑華厳教学の枢機である古

十玄を最も早く説いているとされていたため︑その著者や成立年代を巡っ

て種々の説が立てられてきた︒本章では︑﹃一乗十玄門﹄と︑智儼および

その弟子である義湘・法蔵の思想とを比較することで︑その思想的位置付

けを探った︒法蔵の﹃五教章﹄十玄章で明かされる同体・異体の説は︑因

門六義と十銭の喩えという二つの要素から成り立っている︒この二つの要

素は︑すでに智儼や義湘によって取り上げられていた概念であるが︑二つ

を組み合わせて同体・異体を定義したのは﹃五教章﹄が初めてである︒と

ころが︑﹃五教章﹄と同じ構造を持つ﹃一乗十玄門﹄の同体・異体の定義

には因門六義が用いられていない︒﹃一乗十玄門﹄の同体・異体説は何に

基づいて立てられたのかを考えていくと︑智儼遷化の直前に記された義湘

撰﹃一乗法界図﹄を前提として成立したと推測することができた︒また︑

﹃一乗十玄門﹄の思想は︑法蔵撰﹃文義綱目﹄にも見いだすことができない︒

したがって︑﹃一乗十玄門﹄の撰述年代は﹃五教章﹄以前︑﹃文義綱目﹄以

後と推定され︑その中に智儼の思想が含まれる可能性は低いと結論付けた︒

  第三章では︑同じく偽撰説が提起されている﹃金剛般若経略疏﹄につい

て検討し︑偽撰の可能性を論じている先行研究の論拠には不備があること

を指摘した︒また﹃金剛般若経略疏﹄は︑般若系経典の註釈でありながら︑

﹃華厳経﹄等が明かす唯心の思想をもってその経旨を解釈するという特色

を有するものであり︑その思想内容からも偽撰であるとは言い切れないこ

とから︑本論では﹃金剛般若経略疏﹄を智儼の諸著作と比較することで︑

その位置付けを考究した︒﹃金剛般若経略疏﹄では︑経文を大きく﹁解心﹂

と﹁行事﹂に分かち︑﹃金剛般若経﹄の宗趣である実相・観照・文字の三

種般若を論じている︒経の前半部分に相当する﹁解心﹂においては︑この

三種般若が無自性にして無二無別であると説かれ︑その教証として六十

﹃華厳﹄の﹁三界虚妄︑但一心作﹂の句が挙げられ︑﹃金剛般若経﹄におけ

法界縁起説の形成より見た智儼の思想

櫻  井   

(14)

一六六

る如来とは修行者の心に他ならないことが主張されるのである︒つまり

﹃金剛般若経略疏﹄における﹁解心﹂とは︑心と仏とが異ならないことを

知ること︑すなわち諸法は一心が転ずることによって存在しているもので

あると理解することである︒また︑後半の﹁行事﹂では︑識のはたらきに

よって生ずる諸法の差別を観察することが述べられ︑智儼の初期の著作に

類似した内容が説かれていることを明らかにした︒上述の如く︑﹃金剛般

若経略疏﹄は︑一貫して﹃金剛般若経﹄の文を︑六十﹃華厳﹄の思想を用

いて解釈しようとするものであり︑これは﹃華厳経﹄の教えがあらゆる教

説を包括するという同教的側面からの理解を特徴とする智儼の思想と近似

のものであると考えられる︒

  第四章では︑地論・摂論の学説と華厳教学との関係性︑およびその思想

の形成過程を明らかにするため︑両者に共通する学説である教体説につい

て論じた︒智儼の教体説は︑いずれの著作においても教体の名称のみが列

せられ︑その詳しい内容については論及されていないため︑智儼より後の

時代に成立した﹃華厳経問答﹄の解釈が参考とされるのが通例であった︒

本章では︑後代の資料を用いずに考えたとき︑地論・摂論学派から智儼へ

と︑どのように教体説が形成されていったのかを考察した︒まず︑智儼の

系統に近いと考えられている敦煌本﹃摂大乗論抄﹄の教体説は︑本書に特

徴的な三種無性説と同様の教判を用いて説示されていることを確認した︒

さらに︑智儼の教体説もまた三性説に基づいていると仮定し︑その意味す

るところを智儼の著述から探った︒結論として︑智儼と摂論学派の教体説

には︑その依拠する境位が向上するにつれ音声等の本質に対する認識が深

まってゆくという共通点があり︑智儼は摂論学派の説を原型として︑自身

の説を形成したと考えられることを明らかにした︒さらに︑智儼の教体説

も︑﹃摂大乗論抄﹄と同じく︑教判論と関係している︒晩年の著作である﹃孔

目章﹄では教体について明確に説示されてはいないものの︑各章において 五教による分別がなされ︑その中でしばしば教体の名称と同一の語によって五教を定義しているのである︒しかしながら︑このことは教体説が五教判の成立に寄与したということを示すのではない︒智儼の教判論においてより本質的なのは︑三性に従って認識が深化していくという階梯性であり︑教体説はその一端に過ぎないと考えられるのである︒  第五章では宗趣説を取り上げた︒宗趣とは︑言語によって表された経典から知り得る法︑すなわち仏の教えの内容や︑究極の立場を意味する︒智儼と︑地論学派の祖である慧光︵四六八│五三七︶の説とを比較し︑中国において﹃華厳経﹄の宗趣がどのように理解されてきたのかを主題とした︒慧光の著作は散佚しているが︑伝承によれば︑﹁因果﹂と﹁理実﹂を宗趣

としていたとされている︒一方で︑智儼は﹁因果﹂︑﹁縁起﹂︑﹁理実﹂を宗

趣とした︒両者の共通項である﹁因果﹂とは段階的に修行して仏と成ると

いう菩薩の階梯を指し︑﹁理実﹂とは段階を踏まずとも本来的にある真如

を指す︒この二つの立場は︑一見︑矛盾するとも捉えられるが︑いずれも

﹃華厳経﹄に含まれている思想であり︑慧光はこの二面性を﹃華厳経﹄の

宗趣であるとしていたと推測できる︒智儼はこれに﹁縁起﹂を加えたもの

を宗趣として規定しているが︑この﹁縁起﹂を解明するために重要なのが︑

﹃捜玄記﹄の十地品・第六現前地に記されている法界縁起である︒智儼は

法界縁起には多くの法門があるとし︑染・浄の二門をもってこれを整理し︑

浄門では修行をすることで悟りを得る﹁修生﹂と︑本来的に悟っていると

いう﹁性起﹂とは︑相反しないことを説いているのであり︑この点は地論・

摂論学派の継承という側面が強い︒しかし︑宗趣説の中には後の華厳教学

で重要な教理となる十仏や十義が︑不完全ながらも述べられていることを

明らかにした︒

  以上の考察によって︑智儼は地論・摂論の説を承けつつも︑独自の同教

門の華厳思想を確立しようとしてきたことが分かる︒このことは︑現存す

(15)

修士論文概要一六七 る智儼の著述でも︑初期から晩年まで一貫している︒一般に︑別教一乗に立つ法蔵の思想が華厳教学の代表格とされるが︑このような智儼の同教門の思想もまた重要な一面であると言えるのである︒

主要参考文献

石井公成﹃華厳思想の研究﹄ 春秋社︑一九九六年 大竹  晋﹃唯識説を中心とした初期華厳教学の研究﹄  大蔵出版︑二〇〇七年 木村清孝﹃初期中国華厳思想の研究﹄  春秋社︑一九七七年 坂本幸男﹃大乗仏教の研究﹄︵坂本幸男論文集・第二︶ 大東出版社︑一九八〇年 佐藤成順﹃中国仏教思想の研究﹄  山喜房仏書林︑一九八五年 高峯了州﹃華厳孔目章解説﹄  南都仏教研究会︑一九六四年

(16)

一六八   語の発話を行う際には︑発話準備が行われる︒発話準備に使用される単

位の大きさを測る課題としてマスク下のプライミング音読課題がある︒こ

の課題では︑ターゲットの前にプライムと呼ばれる別の語が瞬間提示され

︵e.g., 50ms︶︑実験参加者はターゲットをなるべく速く正確に読み上げる

よう教示される︒実験参加者はプライムの存在に気付かないが︑プライム

が提示された段階でその発話準備が生じており︑それをターゲットの処理

に活用できると考えられている︒英語母語話者では︑プライムとターゲッ

トが先頭の音素︵オンセット︶を共有している条件︵e.g., hark-HEEL︶に 対する反応時間が︑統制条件︵e.g., pork-HEEL︶に対する反応時間よりも 有意に短くなることが知られている

e.g., Kinoshita, 2000︵

︶︒

この先頭音

素共有によるプライミング効果から︑英語母語話者は音素を単位として発

話準備を行っていると考えられている︒

  一方︑日本語母語話者の場合︑先頭音素共有条件︵e.g., ムラ/mura/│ めし

/meshi/

︶に対する反応時間は統制条件

e.g., 

クラ

/kura/

│めし

/

meshi/︶に比べて短くならない︒先頭のモーラを共有している場合︵e.g., メイ/mei/│めし/meshi/︶においてのみ︑統制条件︵e.g., ゲイ/gei/│め し/meshi/︶に比べて反応時間が短くなる︵Verdonschot et al., 2011

︶ ︒ こ

の結果は︑日本語では発話準備がモーラ単位で生じることを示唆している︒

このように︑言語によって発話準備に使用される単位に違いがあることか ら︑こうした単位は機能的音韻単位と呼ばれる︒英語における機能的音韻単位は音素であり︑日本語ではモーラとなる︒  では︑2つの言語を話すバイリンガルの機能的音韻単位はどのように

なっているのか︒Verdonschot, Nakayama, & Kinoshita ︵under review

︶は

日英バイリンガルに対して第二言語︵英語︶を刺激としたマスク下のプラ

イミング音読課題を行った︒その結果︑熟練度の高いバイリンガルでは英

語母語話者と同様に先頭音素共有によるプライミング効果が観察された︒

この結果は︑熟練度の高い日英バイリンガルがもともと発話準備に使用し

ていた単位︵モーラ︶に加えて︑それよりも小さな単位︵音素︶を新たに

獲得したことを示している︒では︑新たに音素を発話準備の単位として獲

得した日英バイリンガルは︑第一言語である日本語の発話準備も音素単位

で行うのであろうか︒本研究ではこの問題を検討するため︑熟練度の高い

日英バイリンガルに日本語を刺激としたマスク下のプライミング音読課題

を行った︒

実験1

方 法

  実験参加者  日英バイリンガルの大学︵院︶生

40名が実験1に参加した︒

実験参加者のTOEICの平均は868点であった︒

  刺激  日本語の刺激として︑ローマ字に変換された3モーラの漢字二字

熟語

42e.g., KAKUGO語が用いられた︒各ターゲット︵︶に対し︑先頭音 素共有条件︵e.g., kizu︶︑先頭音素統制条件︵e.g., mizu︶︑モーラ共有条件

︵e.g., kabe︶︑モーラ統制条件︵e.g., nabe︶の4種類のプライムが用意さ

れた︒  また︑本実験に参加する日英バイリンガルが音素を単位として獲得して

日英バイリンガルの 機能的音韻単位の検討

井  田  佳 

(17)

修士論文概要一六九

い る こ と を 裏 付 け る た め に 英 語 の 刺 激 も 使 用 し た

︒ 英 語 刺 激 は Verdonschot et al. ︵under review︶と同じセットを用いた︒ターゲットは 42語であり︑日本語刺激と同様に4種類のプライムが用意された︒

  手続き  実験参加者は個別に実験に参加した︒各試行はフォワードマス ク︵#####︶が500㎳提示された後︑プライムが小文字で

50㎳提示さ

れた︒プライムは即座に大文字で提示されたターゲットに置き換えられた︒

ターゲットは実験参加者が反応することで︑スクリーン上から消去された︒

実験参加者はターゲットをなるべく速くかつ正確にマイクに向かって読み

上げるよう教示された︒本試行に先立ち︑練習試行を

12試行行った︒半数

の実験参加者には日本語ブロックを先に︑残りの半数には英語ブロックを

先に提示した︒

結 果

  極端に長い・短い反応時間︵1500㎳以上︑250㎳以下︑以降の実 験でも同様︶は外れ値として分析から除外した︒分析にはRのlme4パッ

ケージによる線形混合モデルを用いた︒表1に実験1における平均反応時

間と誤反応率を示す︒

  英語の刺激では︑

24㎳の有意な先頭モーラ共有によるプライミング効果

に加え︑8㎳の有意な先頭音素共有によるプライミング効果が観察された

︵それぞれ = 7.44,  < .001;   = 3.46,  < .001︶︒誤反応率の分析では︑

モーラ共有によるマージナルなプライミング効果が観察された︵ = 1.94, 

 = .05

︶ ︒   日本語刺激の反応時間では︑

15㎳の有意な先頭モーラ共有によるプライ

ミング効果が観察されたが︑先頭音素共有によるプライミング効果は観察

されなかった︵それぞれ = 2.56,  < .05;  = 0.48︶︒誤反応率の分析では︑

先頭音素共有によるプライミング効果が観察された︵ = 2.20,  < .05

︶ ︒

表1 実験1における平均反応時間(ms)と誤反応率(%)

Onset condition Mora condition RT (Errors) RT (Errors)

English Targets

Related Prime 587 (2.5%) 569 (1.7%)

Unrelated Prime 595 (2.5%) 593 (3.1%)

Priming Effect 8*** (0.0%) 24*** (1.4%)

Japanese Romaji Targets

Related Prime 728 (3.6%) 731 (4.0%)

Unrelated Prime 730 (5.8%) 746 (2.9%)

Priming Effect 2 (2.2%*) 15* (‑1.1%)

注)*  < .05, ***  < .001

(18)

一七〇

考 察

  英語の刺激では︑反応時間において先頭音素共有によるプライミング効 果が観察された︒これは Verdonschot et al. ︵under review︶の結果に一

致するものであり︑実験1に参加した日英バイリンガルの英語の発話準備

が音素を単位として行われていることを示している︒一方︑日本語刺激で

は︑反応時間において先頭モーラ共有によるプライミング効果は観察され

たが︑先頭音素共有によるプライミング効果は観察されなかった︒この結

果は︑音素単位で英語の発話準備を行っている日英バイリンガルであって

も︑日本語の発話準備はモーラ単位のままであることを示唆している︒

  しかしながら︑実験1では誤反応率の分析において先頭音素共有による

プライミング効果が観察された︒これは︑新たな単位として音素を獲得し

た日英バイリンガルが︑日本語の発話準備も音素単位で行っていることを

示している可能性がある︒実験1の結果が明確ではない原因の1つとして︑

手続き上の問題が挙げられる︒英語ブロックを先に行った参加者は︑続く

日本語ブロックにおいて音素単位で読むようなバイアスがかかっていた可

能性がある︒そこで︑実験2では日本語の刺激のみが提示された︒

実験2

方 法

  実験参加者  日英バイリンガルの大学︵院︶生

40名が実験2に参加した︒

実験参加者のTOEICの平均は871点であった︒

  刺激  実験2では実験1で用いた日本語の刺激を用いた︒

  手続き  実験2の手続きは実験1と同様であった︒ただし︑実験参加者

には日本語の刺激のみが提示された︒ 結 果

  表2に実験2における平均反応時間と

誤反応率を示す︒反応時間では︑9㎳の

有意な先頭モーラ共有によるプライミン

グ効果が観察された︵ = 2.13,  < .05

︶ ︒

一方︑先頭音素共有によるプライミング

効果は観察されなかった︵ = 0.70

︶ ︒ 誤

反応率の分析では︑先頭モーラ共有によ

るプライミング効果は観察されたが︑先

頭音素共有によるプライミング効果は観

察されなかった︵それぞれ = 2.05,  < 

.05;  = 0.30

︶ ︒

考 察

  日本語刺激のみを提示した場合︑反応 時間

・誤反応率いずれにおいても先頭

モーラ共有によるプライミング効果のみ

が観察された︒この結果は︑日英バイリ

ンガルが発音する言語により発話準備に

使用する単位の大きさを調節しているこ

とを表している︒

  この可能性をさらに検討するため︑実

験3と4では仮名表記による刺激が提示

された︒また︑実験3では語刺激を︑実

験4では非語刺激を使用した︒日英バイ

リンガルが日本語の発話準備に使用する

表2 実験2における平均反応時間(ms)と誤反応率(%)

Onset condition Mora condition RT (Errors) RT (Errors)

Related Prime 749 (4.5%) 731 (4.0%)

Unrelated Prime 752 (4.8%) 740 (6.3%)

Priming Effect  3 (0.3%) 9* (2.3%*)

注) *  < .05

(19)

修士論文概要一七一 単位がモーラのままであれば︑いずれの実験においてもモーラ共有によるプライミング効果のみが観察されるはずである︒

実験3・実験4

方 法

  実験参加者  日英バイリンガルの大学︵院︶生

36名ずつが実験3・4に

参加した︒実験参加者のTOEICの平均はそれぞれ869点と873点

であった︒

  刺激  実験3では実験1・2で用いた日本語の刺激を仮名に変換したも

のを用いた︒実験4では実験1・2で用いた日本語の刺激を仮名に変換し

たものを1モーラ置き換えることで非語を作成した︒いずれの実験におい

てもプライムとターゲットの間の形態の類似性を少なくするため︑プライ

ムはカタカナで︑ターゲットはひらがなで提示された︒

  手続き  実験3・4の手続きは実験2と同じであった︒

結 果

実験3︵語刺激︶

  表3に実験3における平均反応時間と誤反応率を示す︒仮名の語刺激で

は︑7㎳の有意な先頭モーラ共有によるプライミング効果が観察された

︵ = 3.85,  < .001︶︒一方︑先頭音素共有によるプライミング効果は観察 されなかった︵ = 1.42︶︒誤反応率の分析では︑いずれの効果も観察され

なかった︒

実験4︵非語刺激︶

  表4に実験4における平均反応時間と誤反応率を示す︒仮名の非語刺激

表3 実験3における平均反応時間(ms)と誤反応率(%)

Onset condition Mora condition RT (Errors) RT (Errors)

Related Prime 499 (1.6%) 475 (0.8%)

Unrelated Prime 498 (1.6%) 482 (1.9%)

Priming Effect  ‑1 (0.0%) 7*** (1.1%)

注) ***  < .001

表4 実験4における平均反応時間(ms)と誤反応率(%)

Onset condition Mora condition RT (Errors) RT (Errors)

Related Prime 524 (4.4%) 489 (3.6%)

Unrelated Prime 527 (4.2%) 502 (4.5%)

Priming Effect  3 (‑0.2%) 13*** (0.9%)

注) ***  < .001

(20)

一七二

では︑

13msの有意なモーラ共有によるプライミング効果が観察された

︵ = 4.79,  < .001︶︒一方︑先頭音素共有によるプライミング効果は観察 されなかった︵ = 1.73︶︒誤反応率の分析では︑いずれの効果も観察され

なかった︒

考 察

  実験3と4では︑語刺激と非語刺激が仮名で提示された︒いずれの実験

においても有意な先頭モーラ共有によるプライミング効果が観察されたが︑

先頭音素共有によるプライミング効果は観察されなかった︒表記や語彙性

を変化させても同様の効果が観察されたことは︑熟練度の高い日英バイリ

ンガルの発話準備に使用される単位がモーラであること︑つまりこうした

日英バイリンガルの発話に使用される音韻の単位の大きさが言語に依存し

ていることを強く支持する︒

参照

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