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芭蕉、転化の工夫

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Academic year: 2022

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九州大学学術情報リポジトリ

Kyushu University Institutional Repository

芭蕉、転化の工夫

西田, 耕三

http://hdl.handle.net/2324/4741941

出版情報:雅俗. 7, pp.126-138, 2000-01-20. 雅俗の会 バージョン:

権利関係:

(2)

芭蕉の文芸活動は︑別種の土壌あるいは背景を文芸活動に転化させることによって成り立っているようにみえる︒

転化の工夫に芭蕉の文芸の真骨頂があるようにみえる︒こう言ったからといって︑私は目新しいことを考えているわけではな

い︒むしろ︑これはすべての文芸家に共通するあたり前の事柄である︒人は生まれた時から文芸家であるわけではない︒しか

し︑芭蕉の場合︑他に比して︑より見やすい形でそのような事情を含みこんでいるように思われるのである︒その転化の工夫

の前提にあるものを︑いくつかの例をあげて考えてみよう︒

芭 蕉

都と乞食行脚

又或旅行の時︑門人二三子伴ひ出られしに︑難波の頓てこなたより駕下りて︑雨の煎に身をなして入り申さる4と也︒そ

の後此事を問へば︑か4る都の地にては︑乞食行脚の身を忘れて成がたしと也︒

︵﹃

三冊

子﹄

﹁わ

すれ

みづ

﹂︶

芭蕉は難波の少し手前で駕篭を下り︑雨除けの薦を身につけて難波へ入り︑繁華な都ではことさらに乞食行脚の身を徹底し

なければ風雅は成りがたい︑と言ったという︒▼﹁乞食行脚の身﹂に僧の頭陀︑托鉢の行を重ね︑﹁か4る都の地﹂に風雅をないがしろにする浮華をみる通説はその通りだと

転化の工夫

西 田 耕

つま

り︑

(3)

思うが︑どこかわざとらしい芭蕉の言動には︑手本のようなものがあったように思われてならない︒

元の禅僧中峰明本︵ニ︱六三ー一三二三︶が一三一七年に作成した﹃幻住庵清規﹄︵和刻本もあるが未見︒以下卍続蔵経本

による︶は︑綱目を十に分けた日用須知の規則だが︑第六網目にあたる﹁家風﹂の中の第一条に﹁分衛﹂︵托鉢︶があり︑以

下のように記されている︵大意︶︒

釈迦が生きていた時代には︑食時になると僧は応量器︵鉢孟︶を持って漿落を巡乞し︑乞食が終ると岩穴樹林など処に随っ

て栖んだ︒五百年たって風俗がうすくなり︑華屋に住み︑艘田からの食になれ︑死生の源を究めることをしなくなった︒

そもそも乞食の意味は︑﹁佗の樫貪を破し︑我慢を折伏﹂することにある︒つまり︑巡門行乞する先の人を利することに

あるのであるから︑施しの多少によらずすべて福田と考えるべきであり︑したがって︑相手が喜んでも順っても︑こちら

は憎愛の心を生じてはならない︒十方世界︑一切男女が檀門であり︑施主である︒昔︑慈受和尚︵懐深︶は︑﹁送

ー ー 化主﹂

偶で次のように言った︒

睾 然 一 鉢 入 皇 都 万 戸 千 門 境 界 殊 異 日 三 根 橡 下 過 粥 斎 応 示 ー

/ 較こ 精幽

・ 托鉢が禅僧にとって大切な行であることは︑中峰以前にすでに十分に説かれている︒しかし︑私には︑中峰明本ほど托鉢の

苦を率直に表明し︑その意義を強調した人はいないように思われる︒﹃中峰雑録﹄には︑﹁頭陀苦行歌﹂﹁托鉢歌﹂﹁行脚歌﹂

﹁示頭陀苦行﹂﹁示頭陀道者志成﹂などが収められ︑経験に基づく托鉢行の苦しさの製のようなものが表明されている︒一方︑

一般の人々にとって托鉢僧は突然目の前に現れる異邦人のような存在であるから︑樫貪や我慢の心が生じることもあるだろう︒ その心を破ることが行の目的なのである︒したがって︑托鉢僧は人々の反応に憎愛の心をもってはならない︒﹁苦頭陀忌詭無

し︒人の罵扉に遭て︑浮戯の如し︒形を尽くして只道と隣を為す﹂︵﹁頭陀苦行歌﹂︶のであり︑これが托鉢のもう︱つの目的

となる︒﹃笈の小文﹄の﹁脆はやぶれて西行にひとしく︑天龍の渡しをおもひ︑馬をかる時はいきまきし聖の事心にうかぶ﹂ を思い起してみてもよい︒中峰が言う具体的な托鉢は︑施しが多い時はやっと樫貪の袋が破れたと思い︑施しがない時は︑も し倉を傾けてすべて施す時期がきたとしても鉢孟を醗転して受けず︑樫貪を破る方法を工夫する︑ということになるのだが

(4)

︵﹁

托鉢

歌﹂

︶︑

ここ

に︑

人の

局を浮戯の如くに思いなす僧の修行が並存しているのである︒

慈受和尚の偽はどういう意味だろうか︒﹁化主を送る﹂の﹁化主﹂は勧化主任の意で︑信者勧化のために地方へ派遣される

僧のこと︒﹁瓢然一鉢皇都に入る︑万戸千門境界殊なり﹂というわけだから︑万戸千門を擁する都が托鉢の意義を集約する︒

一鉢を携えて謀然と都へ入る︒都は殷賑をきわめるが︑家々はそれぞれに内情を異にする︒だからこそ︑都の地に托鉢行の意

義が凝縮される︒﹁道人家真の快活︑万戸千門一鉢を持す﹂︵﹁托鉢歌﹂︶︒次の﹁異日三根橡下を過る︑粥斎精臨を較らばざる

べし﹂はいささか解しにくい︒﹁三根橡下﹂は中峰も多用する語で︑﹁三条橡下﹂と同意︒一人分の座禅の場である︒ある時に

はよその寺で座禅することもあるだろうが︑朝食昼食の精租はくらべないようにしなさい︑の意にとっておく︒慈受和尚こと

慧林懐深

( 1 0

七 七

I︱一三三︶には﹃慈受深和尚広録﹄四巻があるが︑この偶は収録されていない︒中峰が慈受和尚を尊敬

していたことは﹃中峰広録﹄から伺える︒

都の地は︑さまざまな人がいて︑貧富の差も大きく︑したがって托鉢に対する施しの多寡有無も振幅が大きい︒しかし︑そ

ういう場であるからこそ︑托鉢の目的である平等願︑無縁慈が実現しやすい︒芭蕉が僧の托鉢行脚を風雅の修行に転化したと

解するなら︑托鉢行脚における都の意義を︑風雅の修行における都の意義に転化したと考えても不自然ではない

︒托鉢行の

﹁人問に浙び︑緊落に遍し︑幻声虚色の為に縛せられず︒短巷に入り︑長街に穿る︑但蕩たる身心去来に任す︒村荘に逢ひ︑

山店に遇ふ﹂︵﹁托鉢歌﹂︶も︑﹁一鉢を持して︑一切時中に自由を得る﹂︵同︶も︑﹁一鉢千家 ノ飯︑孤身万里

五 伽 ︑

青目親

[ t

人 ヲ

少 ナ

リ︑

問レ

ヲ白雲頭⁝⁝﹂︵五灯会元﹂巻二︑布袋和尚の偶︶も︑﹁一鉢境界乞食の身こそたうとけれとうたひに佗し貴僧の跡

も懐かしく︑猶ことしのたびはやつし/\てこもかぶるべき心がけにて御坐候﹂︵猿雖宛書簡︑元禄二年閏正月ーニ月初旬︶

も︑その試練の場は︑万戸千門の都の地においてきわまるのである︒芭蕉の難波入りの奇態は︑以上のことのわかりやすい表

現なのだと思われる︒

(5)

奥の細道の旅を終えた芭蕉は︑元禄二年秋︑美濃大垣に入った︒そこで︑大垣住の如行の門人竹戸に︑旅で使った紙食を︑

﹁紙袋ノ記﹂とともに与えた︒ 古きまくら︑古きふすまは︑貴妃がかたみより伝へて︑恋といひ哀傷とす︒錦床の夜のしとねの上には︑鴛喬をぬひ物に して︑ふたつのつばさに後の世をかこっ︒彼はその膚にちかく︑其にほひ残りとゞまれらんをや︑恋の一物とせん︑むべ なりけらし︒いでや此紙のふすまは︑恋にもあらず︑無常にもあらず︒盤の筈屋の蚤をいとひ︑駅のはにふのいぶせさを 思ひて︑出羽の国最上といふ所にて︑ある人のつくり得させたる也︒越路の浦々︑山館野亭の枕のうへには︑二千里の外 の月をやどし︑蓬もぐらのしきねの下には︑霜にさむしろのきり

f

\すを聞て︑昼はた4みて背中に負ひ︑三百余里の険 難をわたり︑終に頭をしろくしてみのの国大垣の府にいたる︒なをも心のわびをつぎて︑貧者の情をやぶる事なかれと︑

我をしとふ者にうちくれぬ︒

この時に作った如行の﹁食の記﹂の中に︑﹁沙門ならば是を禅定の食とせん︒勇士はこれを母衣ぎぬにかへむ︒あへて汝そ こなふ事なかれ﹂という部分がある︒沙門禅定の袋に流用できるということで︑紙袋と僧の生活の関係が明示されている︒で は︑沙門禅定の袋はどのように表現されているのだろうか︒宋の禅僧洪覚範の﹁玉池禅師以紙袋見遺作此謝之﹂︵玉池禅師︑

紙袋を以て遺らる︒此に作りて謝す︶は︑﹃全宋詩﹄第二十三巻︵北京大学出版会出版︑一九九五年︶に収録されている︒ 紙 袋 来 自 玉 峰 前 紙 袋

︑ 玉 峰 前 よ り 来 た る

旋折封題一

簗 然 折 び を 旋 せ ば

︑ 封 題

一たび簗然

便 覚 室 麿 増 道 気 便 ち 室 鷹 に 道 気 の 増 す を 覚 え

みだ

不 憂 風 雨 撹 閑 眠 風 雨

︑ 閑 眠 を 撹 す を 憂 え ず 就 林 堆 畳 明 如 雪 林 に 就 い て 堆 畳 す れ ば

︑ 明 か る き こ と 雪 の 如 く 引 手 模 蘇 軟 似 綿 手 を 引 い て 模 蘇 す れ ば

︑ 軟 か き こ と 綿 に 似 た り

紙袋ノ記

(6)

擁 被 井 鑢 和 夢 暖 被 と 鑢 を 擁 す れ ば

︑ 和 夢 暖 か な り 全 勝 白 祇 紫 茸 抵 全 て 白 祇 紫 茸 抵 に 勝 る

洪覚範の紙会の表現は禅室での使用に限られている︒﹁紙袋ノ記﹂の﹁蟹の筈屋の蚤をいとひ﹂以下の旅の表現がない︒し

かし︑旅という要素を除外すれば︑﹁紙袋ノ記﹂の﹁山館野亭の枕のうへには︑二千里の外の月をやどし︑蓬もぐらのしきね

の下には︑霜にさむしろのきり人\すを聞﹂くという描写は︑洪覚範の﹁便ち室鷹に道気の増すを覚え﹂以下の描写に対応さ

せることができる︒そして︑﹁紙袋ノ記﹂が楊貴妃の﹁古きまくら︑古きふすま﹂と紙会を対比させて記を成しているように︑

洪覚範も︑高等な﹁白疵﹂や﹁紫茸疵﹂に紙食を対置させている︒さらに︑僧の紙会が委譲されて道気を伝えるように︑芭蕉

の紙袋も︑﹁心のわび﹂﹁貧者の情﹂を伝えるべく︑他に譲られたのである︒七句目の﹁擁被井鑢﹂は︑炉の側で紙袋にくるまっ

ていると︑という意味に解して右のように読んだが︑未詳︒﹁和夢﹂も見なれない言築で︑﹁和﹂を﹁⁝⁝を含めて﹂の意にと

り︑夢もまた暖かなり︑と解すべきなのかもしれない︒

紙袋は紙製の夜着である︒日本語で読めば同じ﹁かみぶすま﹂となる紙襖は︑紙製の衣服のことであるから︑紙衣︑紙子と

同じものと考えてよい︒ただ︑夏見知章﹃芭蕉と紙子﹄︵清風出版社︑昭和四十七年︶は︑紙袋について﹁敷蒲団や掛蒲団の

かいまき蒲団ではなく︑普通の衣類の形をや4大形にして綿を入れた掻巻であったように想像できる﹂と言い︑芭蕉の旅における紙子

は︑﹁夜着として携行されていたらしいから︑芭蕉の旅における﹁紙子﹂と﹁紙袋﹂は︑ごく似たものに考えても大した誤り

にはなるまい﹂と書いている︵二四

0

頁︶︒これに従って︑次に︑中峰明本の﹁紙襖歌﹂︵﹃中峰雑録﹄所収︶をみてみよう︒

はなは道人の活計︑無価の好︒一幅の渓藤︑箇の襖を裁す︒脱白露浄光り浮浮︒絶だ形山の如意宝に勝る︒有時は坐す︑冽冽た

る風霜吹けども過ぎらず︒有時は行く︑籍籍たる春風地を動かして生ず︒有時は︑動せず静ならず︑表裏虚明にして心鏡

を照らす︒芦花明月共に相親し︒一団雪底に陽春を蔵す︒甚ぞ秦麻と越苧と呉綾と蜀錦とか説かん︒更に笑うに堪えたり︒

青州に在りて倣る底︑重きこと七斤︒争でか似かん︑我が寸絲掛けず︑万練横に陳るに︒体用を全うするには最も天真の

富貴︑如何んが人に説向せん︒

せんけい﹁渓藤﹂は﹁群玉集刻渓古藤甚多ノ可五戸紙披詩二為氾一一栗尾一書誤藤︱﹂︵寛文十三年版﹃中峰広録﹄四巻下︑

1 0 ウ頭注︶の

(7)

通り︑紙のこと︒﹁脱白露浄﹂は﹁晒しぬいて︑素地がきよらかになったこと﹂︵﹃禅学大辞典﹄︶︒またそういう人を意味する

から

︑﹁

於レ

此未

レ能

ハニ

脱白

露浄

全機

超入

︳ル

コト

︑且

夕不

レ要

=忽

忽草

草̲

ルコ

トヲ

﹂︵

﹃中

峰広

録﹄

巻十

六﹁

幻住

家訓

﹂︑

5ウ︶というふ

うにも使われる︒﹁形山の如意宝﹂︑未詳︒禅では普通︑形山は身体︑宝は心の意で使うが︑これでは意味が通じない︒そうい

うもったいぶった言葉を使って架空の宝を創り出し︑おどけてみせたのかもしれない︒﹁芦花明月﹂は慣用的な言い方︒陵放

翁の﹁煙波即事﹂の﹁煙波探処臥二孤蓬一︑宿酒醒時聞ー一断鴻一︑最是平生会心事︑芦花千頃月明中﹂が代表的︒﹁芦花﹂には︑

『祖英集』上巻「玄沙和尚」の項に、「本是レ釣魚船上ノ客、偶(除冨盟竺著 _一 袈裟_‘祖仏位中留ムルコト不レ得、夜来依〕旧_一宿 〗

芦花

﹂とあるように︑自由な境界に伴なう像もある︒すなわち︑玄沙師備は少年時釣りが大好きであったので︑出家したあとも︑

機会があるとすぐその癖が出て﹁芦花に宿﹂したというのである︒﹁青州に在りて倣る底︑重きこと七斤﹂は︑﹃趙州録﹄や

﹃碧巌録﹄第四十五則にある問答︒ある僧が﹁万法は一に帰す︒一は何れの処にか帰す﹂と趙州に問うと︑趙州は﹁我れ青州

に在りて一領の布杉を作る︒重きこと七斤﹂と答えたという話である︒万法の根源は日常にしかないと説いたものだが︑中峰

の師高峰がこの﹁万法帰/一︑一帰

i

何処ー﹂という公案を大切にしたこともあって︑中峰はこの問答を多用する︒多用しながi

ら文字通りの意味に転用して使っている例も多い︒﹃中峰広録﹄巻一下﹁解制示衆﹂では︑趙州のこの話を記したあと︑侶を

しょうせい作って︑﹁七斤杉重くして青州より出づ︒老趙州の禅触る処に周し︒聖制九旬今日満つ︒杖黎千里又秋に驚く﹂

(8

ウ︶と言

う。夏安居が終り、また行脚が始まる時の感慨で七斤杉を重いと言っている。また、巻二十七下「留珈~ス憑居士――-」には、「道

人︑七斤の山訥衣を挑起して︑首を万里の外に回らし︑復青山を覚めて帰る︒松に椅り︑石に臥し︑渓に飲み︑黎を飯し﹂と

いう部分がある︒﹁紙襖歌﹂において︑中峰は趙州の七斤の布杉とわが紙襖を戯れに対置しているのである︒﹁寸絲掛けず﹂は︑

赤裸々︑無一物︑の意︒﹁万継横に陳る﹂とは︑つづれ衣に横臥すること︒

中峰は言う︒一幅の紙で作った紙襖は道者の生活において最高のもの︒さらしにさらして光沢はつやつや︑形山の如意宝に

も勝る︒如意宝にも勝るのだから︑坐していてもきびしい風霜もおかさず︑歩行すれば春風が乱れ吹くように感じる︒ある時

は︑表裏透き通ってわが心を照らしてくれる︒芦花明月も私と共にし︑一団の雪の底に春を感じる時も一緒だ︒その価値は︑

秦麻や越苧や呉綾や蜀錦のような名産品とて同日には談じられないし︑かの趙州が青州に在って作った七斤の布杉など︑わが

(8)

﹃奥の細道﹄の旅で︑芭蕉が日光山の麓に宿をとった時︑あるじが︑﹁我が名を仏五左衛門と云ふ︒万正虹を旨とする故に︑

人かくは申し侍るま4︑一夜の草の枕も打ち解けて休み給へ﹂と言った︒自ら﹁仏五左衛門﹂と名乗る不思議さに︑芭蕉もさ

すがにぎょっとして︑いかなる仏がこの娑婆に示現して︑自分如きの乞食順礼をお助けになるのかと︑﹁あるじのなす事に心

をとゞめてみるに︑唯無智無分別にして正直偏固の者也︒剛毅木訥の仁に近きたぐひ︑気稟の清質尤も尊ぶべし﹂︒

芭蕉が仏五左衛門を﹃奥の細道﹄に書き込む契機︑あるいは喜びは何だったのであろうか︒正直︑剛毅木訥︑無智無分別は︑ 仏五左衛門 簡素でボロの紙襖の万能ぶりには到底及ばない︒天が与えてくれたこの宝物のありがたさを︑人にどの様に説いたらよいのか︒

ざっと以上のようになろうか︒紙襖であるから旅の要素が入る︒ここにある︑秦麻︑越苧︑呉綾︑蜀錦との対比︑趙州布杉

との対比は︑くだけた滑稽な表現となっている︒﹁紙袋ノ記﹂の貴妃の古き枕︑古き袋との対比も︑もちろんおかしみをねらっ

てい

る︒

日本の月渾道澄︵一六三六ー一七一三︶の﹃巌居稿﹄︵元禄十六年跛︶に収録されている﹁紙衣﹂は︑﹁一領の禅抱寒を遮る

に足れり︒施し来て原察侯が家よりす︒測藤接み得て紋は穀の如く︑枠汁染め成して色は霞に似たり︒呉地の綾紺何ぞ肯ヘ

て換へん︒鶏林の磨訥覺に誇るべけんや︒琢州の道者若し相視ば︑倹素風を全ふして必ず嘉すべし﹂となっている︒﹁祭侯﹂

は紙の発明者といわれる察倫︒﹁紋は穀の如く﹂は︑﹁紙襖歌﹂の﹁脱白露浄﹂の別の言い方︒﹁呉地の綾紺﹂﹁鶏林の磨訥﹂

︵磨納は袈裟︶は珍璽さるべきもので︑やはりここでも紙衣と対置されている︒﹁琢州の道者﹂は誰のことか未詳︒﹁風を全ふ﹂

するとは︑風を防ぐ意味であろう︒

紙会にしろ︑紙襖・紙衣にしろ︑立派な絹布でできた夜着や衣服と比較すべくもない︒それをあえて比較するところに︑自

足の心が表現される︒自足の心で︑比較しようもないものを比較する︒そこにおかしみが生じる︒芭蕉の﹁紙袋ノ記﹂は︑そ

のように定式化された表現を受け継ぎ︑自らの状況に転化したもののようにみえる︒

(9)

神儒仏それぞれの世界で賞せられる徳であり︑価値である︒芭蕉はそれらの価値を五左衛門に見出し︑書き入れた︒しかし︑ あたり前すぎるこの解釈では事の半分しかとらえられない︒むしろ︑それらの価値が五左衛門に出会う前の芭蕉の中にあり︑

それらの価値を想起させる人物を︑他の誰でもないこの自分が現実に見出したという喜びが表現の契機である︒では︑芭蕉の

前提にあった価値の原質はどういうものだったのであろうか

︒︱

つの例にすぎないが︑﹃中峰広録﹄巻二十六所収﹁善人李生

伝﹂をみてみよう︒

たま/\余︑偶々異郷に遊ぶ︒傭工李姓という者有り︒咸なこれを称して善人となす︒因りて怪しみてこれを問うて曰く︑﹁彼は

傭工のみ︒能く博く古今聖賢の事に渉るや﹂と︒曰く︑﹁能くせざるなり﹂︒﹁彼必ず起居飲食の︑以て人に異なること有

るか﹂︒曰く︑﹁未だ其異なることを見ざるなり﹂︒﹁彼必ずオ術智巧の世に精しきこと有るか﹂︒曰く︑﹁是無きなり﹂︒

﹁ 彼 の言行必ず以て物を利すること有るか﹂︒曰く︑﹁倶に非なり﹂︒﹁然れば則ち其を称して善人となすことは何ぞや﹂︒乃ち

曰く︑﹁李生の若き︑惟だ人の局めを受けてしかも気平らかにして︑人とともに作してしかもエみ倍せり︒世間の是非憎

愛の習を識らざるに似たり︒凡そ父母妻子親友閲巷の問︑猥屑無状︵卑しいことたぐいなし︶の事を以て雑然として交迫

すれども︑皆距応して難む色無し︒人或いは不平にして以てこれを止むれば︑則ち曰く︑﹁惟だ役せられざらんことを恐

4のみ︒死すと雖ども亦何の憚所かあらんや﹂と︒是に由りて︑里中︑老椰と無く貴賤と無く︑知と不知とこれを見て︑

皆称して善人となす﹂︒

﹃中峰広録﹄の頭注によれば︑﹁善人﹂は︑﹃孟子﹄尽心章下の﹁欲すべき︑これを善と謂﹂うの意の﹁善人﹂だと言う︒い ま引用した部分のあとに中峰の感想が書きつけられているのだが︑その中の﹁嵯︑今の聖賢の広居に居し︑聖賢の上服を服し

て乃ち身を修め行を慎むことを思わず﹂の﹁聖賢の広居に居し﹂が︑やはり﹃孟子﹄膝文公下によることを頭注が指摘してい

る︒しかし︑﹁善人李生伝﹂を聖賢の道にのみ限定して読む必要はない︒中峰は三教一致論者であった︒実際︑﹁惟だ人の辱め

を受けてしかも気平らかに﹂﹁世間の是非憎愛の習を識らざるに似たり﹂は︑先にみた僧の托鉢の時の修行の徳目を︑出世間

から世間にもちきたった趣きをもっている︒

﹁善人李生伝﹂の像をつきつめると︑どこに行きつくだろうか︒参禅の時の心身のあり方に関する像が参考になる︒

﹃中

峰雑

(10)

﹁幻住庵記﹂における芭蕉の自像の︱つに︑﹁彼海棠に巣をいとなひ︑主簿峰に庵を結べる王翁.徐伶が徒にはあらず︒唯睡

癖山民と成て︑屑顔に足をなげ出し︑空山に風を把って座ス﹂という箇所がある︒再稿本では﹁伝へ聞除老が海棠巣上の飲楽

は市にありてかまびすく︑王道人が主簿峰の庵もうらやむべからず︒虚無に眼をひらき︑届顔に風を桐て座す﹂となっており︑

初稿本では﹁みな名高き処々︑箪の力たらざればつくさず︒唯長松のもとに足を投出し︑青山に風をひねって座す﹂となって

いる

初稿本の﹁唯長松のもとに足を投出し︑青山に風をひねって座す﹂という純粋に無為の状態の表現が︑再稿本で除老・王道 ︒

録﹄中の﹁天目中峰広惹禅師語﹂の最初の﹁示衆﹂

(1

ウー2オ︶に仏印元禅師の﹁痛諭文﹂を引く︒﹁其の身稿木の如く︑頑

石の如く︑死屍の如く︑土偶の如し︒唯心心道︵仏道︶に在りて︑人に応答すること擬の如く︑酔るが如し︒聞声見色耳戦

︵聾︶の如く︑盲の如し﹂というものである︒中峰自身も︑同右﹁禅師語﹂の﹁示衆﹂

( 1 4

ウ︶で︑﹁泥塑木彫底︑気有る死人

の如く︑外に大衆有ることを見ず︑内に自己有ることを見ず﹂と言い︑﹃中峰雑録﹄中巻﹁示海東可翁然禅人﹂

( 1 6

オ︶

では

﹁祢︑若し参じて百年の後に到れども︑了然として己射下に於て趣向する所無き︑政に是第一等清浄の好人なり﹂と言う︒最

後の文章の意味は︑百年参禅しても悟りを得られない場合でも︑自らの考えで禅を了解しようとして勝手に工夫するなどとい

うことがないならば︑﹁第一等清浄の好人﹂だ︑ということである︒この他︑中峰において︑﹁如二 大死人ー 相似﹂ることや︑

﹁善悪思惟商量無き﹂ことが称揚されている︒

一例として﹁善人李生伝﹂を出したが︑もちろんこれに限る必要はない︒智や分別は禅で最も嫌われる人間の働きである︒

自己そのものであるからだ︒五左衛門はそこを免れていた︒李生のような生のあり方が芭蕉の心の中にあった︒心の中にしか

なかった李生のような生き方を目のあたりにした喜びを︑つまり︑﹁気稟の清質﹂とはかくの如きものかという惑慨を︑芭蕉

はどうしても文章にしたかった︒それは芭蕉自らが自らの現実を生きた証言でもあった︒

昴顔に足をなげ出し

(11)

人を付加することによって︑彼らへの対抗あるいは相違の意識が生じ︑﹁虚無に眼をひらき﹂という大げさな表現となった︒

虚空大地を一呑みにする禅的な表現である︒﹁睡癖山民﹂という言薬は定稿に到って初めて用いられた︒芭蕉は︑この言葉に

よって再稿本のやや無理な表現を消し︑初稿本にあった﹁足を投出し﹂﹁風をひねって座す﹂という自然な表現を復活させる

ことができたのだと思われる︒

芭蕉は﹁睡癖山民﹂にどういう意味をこめたのであろうか︒これまで︑中国の杜牧や夏侯隠︑陳希夷などの睡癖が示す文人

趣味と解されてきた︵日本古典文学大系﹃芭蕉文集﹄︑新日本古典文学大系﹃芭蕉七部集﹄など︶︒これらの人物比定の適否は

私には判断がつかない︒しかし︑﹁幻住庵記﹂の書き手は︑文人趣味に自己を擬したというだけで十分なのであろうか︒もし

かりにそうだとしても︑それはやはり何かの転化の結果なのではないだろうか︒

黄槃僧木庵性瑶(‑六︱一ー一六八四︶の﹃木庵禅師語録﹄︵元禄八年刊︶巻十七に﹁睦睡歌﹂という文章が収められてい

る︒仏教では睦睡は怠惰の最たるものとして戒められるのが一般的だが︑﹁睦睡歌﹂は趣きが違う︒一部引いてみる︒

何ぞ妨げん︑任運に夢中に遊ぶことを︒万里の渓山恣に放腺し︑一天の風月を良儲と作す︒生涯︑分に随ひて拘著無し︒

那ぞ管せん︑人間の楽と愁と︒

脇睡は︑山水を自由に遊戯し︑風月をよき友とする状態をもたらし︑幻影を心のままに景観として経験させる︒睦睡のこの

自在さが﹁睡癖山民﹂に生きている︒同じく黄槃僧高泉性激︵一六三三ー一六九五︶の﹃高泉禅師語録﹄︵貞享甲子跛︶巻二

+﹁釈迦世尊画像賛十首井序﹂の序の冒頭も︑同じことを言っているようにみえる︒

曇華道人︵高泉のこと︶︑一室に枯坐す︒六出鶴の如くに翡び︑両肩山の如く従へて︑方に睦睡三昧に入る︒

﹁六出︵雪︶鶴の如くに輩び︑両肩山の如く従へて﹂は︑入眠時の幻想だと思われる︒これらの睦睡の放恣な在り方は︑﹁幻

住庵記﹂の﹁睡癖山民﹂の放恣さに通い合い︑﹁幻住庵記﹂の風景の創造に通い合い︑そうなることで︑﹁睡癖山民﹂は﹁幻住

庵記﹂の中にふさわしい位置を占める︒

以上のように考え得るとすれば︑﹁唯睡癖山民と成て︑局顔に足をなげ出し﹂の箇所は︑禅僧の次のような暮らしぶりの転

化のように思われてくる︒﹃五灯会元﹄巻八に載る酒仙遇賢︵九ニニ

‑ 1 0 0

九︶の偶である︒遇賢は酒を好み︑酔うと歌頌

(12)

を作って通俗を戒めたので︑酒仙と号したという︒偽の一部を引いてみる︒

長く両脚を伸ばして眠り一瓶し︑起き来れば天地還た旧に依る︒門前の緑樹に喘鳥無く︑庭下の蒼苔に落花有り︒

﹁門前の緑樹﹂以下は﹁旧に依る﹂の説明︒中峰もこの﹁長伸両脚眠﹂という言葉を使って次のように言う︵﹃中峰広録﹄巻

二十

七上

︑﹁

十二

時ノ

歌﹂

︶︒

人定亥︑浄腺牒分赤洒洒︑性を取って長く両脚を伸ばして眠る︒誰か管せん︑桑田の喰海と変ずることを︒

屑顔︑酔臥︑深夜︵人定亥︶︑それぞれに睡眠の状況は異なるが︑足を投げ出して眠ることによって他事を遮断して自由を

得るという点は共通する︒﹁足をなげ出す﹂動作は﹃論語﹄憲問篇にある﹁原壌夷侯﹂︵原壌が足をなげ出して待っていた︶の

ように︑自堕落︑無作法を意味するが︑睡癖と﹁足をなげ出す﹂という動作が結びついた場合︑これら禅者の動作の意味に近

いものとなるだろう︒

では︑芭蕉は﹁睡癖山民﹂の着想をどこから得たのであろうか︒ここで初めて︑先程の人物の比定が意味をもってくる︒こ

ちんたんこでは陳拇︵陳希夷︶についてのみ︑管見に入った例をあげておく︒

まず︑﹃桃薬編﹄︵宝永二年序︶︒これは隠元渡来に際して出現した陳揮の事蹟について︑霊元上皇よりの需めに応じて勘解

由小路紹光が編纂したもの︒校訂には主に大随道機と月諏道澄があたった︒陳拇の数か月から半年に及ぶ睡癖が十分に記され

ている︒中巻に収められた部光﹁陳仙広伝﹂は︑﹁李氏蔵書﹂を引く︒そこで陳拇が自らのことを述べている部分を引いてお

こう

臣は形稿木の如く︑心死灰の若し︒仁義の浅深を暁さず︑安んぞ礼儀の去就を識ん︒︵略︶一片の間心は已に白雲に留住 ︒

せらる︒旧渓の水を飲むことを獲て︑飽くまで松下の風を聴かん︒日月の清を詠味して︑雲霞の表に笑傲せん︒性の楽し

む所を遂げば︑得意何をか言はん︒︵国会図書館蔵︶

無為怠惰な睡癖山民にふさわしい︒一方︑貝原益軒﹃大疑録﹄下巻︵﹃益軒全集﹄第二巻所収︶は︑老氏の学者︑太極図を

伝えた人としての陳拇に言及している︵妙箭浄惹﹃儒釈雑記﹄巻十九も︶︒また︑天嶺性空﹃燕南紀諏﹄前集︵享保十年跛︶

上巻﹁造化神忌好名美器︳︳﹂には︑﹁又玉壺清話に載するに云く︑陳希夷先生︑神放︵宋代の隠者︶を戒めて曰く︑子︑他日

(13)

﹃奥の細道﹄の旅の出立にあたって︑﹁行春や鳥暗き魚の眼は泊﹂というふうに作意を構える疸前の芭蕉に︑まず世界はどの

ようなスケール︵骨格︶で存在していたのだろうか︒私はその点にもっとも強く興味をそそられる︒

然れば則ち︑目前の山高く︑水深く︑日は上に月は下に︑鵜鳴き賠は喋ぎ︑魚躍り︑鳶は飛び︑雷動き︑風は行き︑松は

しんぼう直に棘は曲り︑大にして十方虚空︑広くして無辺法界︑細くして鍼鋒芥孔︑聖にして諸仏︑凡にして衆生︑以て成住壊空

地水火風等に至るまで︑一︱皆是れ筆端点出の大本華厳なり︒

これは︑明剥上人という人が華厳経を筆写した際に中峰が与えた文章である︵﹃中峰広録﹄巻四下所収︶︒したがって︑一は

一切︑一切は一という華厳の思想をまとめてみせているのだが︑そのことは暫く措き︑﹁目前の山高く﹂以下の︑世界を構成

する要素の点出に注目してみたい︒山河︑日月とともに︑動物は動き︑天候は現象し︑植物が形を示す︒この簡素な世界の像

の中で︑﹁腸喝き腑は喋ぎ︑魚躍り︑鳶は飛﹂んでいる︒逆に言えば︑﹁鶉鳴き鵜は喋ぎ︑魚躍り︑鳶は飛び﹂という像は︑こ

の文章が描き出すスケールの世界によって初めて現れ出る︒これから未知の山河大地に踏み込んで行こうとする芭蕉に︑世界

はまずこのようなスケールで存在していたのではないか︒その上で︑世界を﹁行く春や﹂に限定し︑﹁鳥蹄き魚の眼は泊﹂と

いうふうに魚鳥に表情をもたせた︒芭蕉のこのエ夫は︑たとえばいまの中峰の文章に描かれたようなスケールの世界を内包し

五 鳥 暗 き 魚 の 眼 は 泊

明主に遭遇せば︑名天朗を動かさん︑名は古今の美器なり︑造物者深く之を忌む︑子が名将に有らんとせば︑物の之を敗らん︑

故に晩節に度を過ごして遂に名節を喪せん︑と﹂という記述がある︒﹃儒釈雑記﹄巻二十では︑部康節の数学の師でもあった

と言

う︒

陳拇のことは日本においても割合よく知られていたと考えてよい︒特に﹃桃薬編﹄の陳拇は︑黄辟盃僧の問で早くから噂され

ていたに違いないのである︒﹁睡癖山民﹂のモデルが陳拇であると言うつもりはまったくないが︑着想の一っのヒソトになっ

た可能性までは否定できないように思う︒

(14)

ているのではないか︒﹁鳥暗き魚の眼は泊﹂という工夫を除くこの句の骨格が観念的にみえるのは︑そのせいなのではないか︒

﹁魚躍り︑鳶は飛び﹂は︑﹃詩経﹄大雅﹁旱純﹂の﹁鳶は飛んで天に戻り︑魚は渕に躍る﹂︵鳶飛戻天︑魚躍干渕︶から︒﹃詩

経﹄には他にも魚鳥のとりあわせがある︒小雅の﹁鶴鳴﹂には︑﹁鶴九皐に嗚いて声野に聞こゆ︑魚潜れて渕に在り﹂という

あら部分があり︑﹁四月﹂には﹁鶉に匪ず鳶に匪ず︑翰く飛んで天に戻り︑館に匪ず鮪に匪ず︑潜んで渕に逃る﹂という部分があ

る︒後者の﹁匪ず﹂は︑私は鶉や鳶でない︑鶉や鳶であったなら空高く飛んで行けるのに︑の意味である︒﹃詩経﹄は単独で

も鳥や魚を詠むことが多い︒

﹃趙州録﹄巻上で︑弟子が趙州に問う︑﹁いかなるか︑これ学人の本分事﹂と︒これに趙州は︑﹁樹揺れて鳥散じ︑魚驚いて

水渾る﹂と答える︒本分の事といってもいま現在現成していることに尽きるのであって︑わざわざ樹を揺すったり︑跳びはね

たりする必要はない︑ということなのだが︑そういう喩の場においても魚鳥は使われている︒

﹁鳥暗き魚の眼は泊﹂に影響を与えた句として︑陶渕明﹁帰

1

田園居﹂の﹁聡鳥恋1

I

I

林一

︑池

魚思

ー↓

故郷

1﹂が指摘され︑ま

た否定される︒しかし︑この指摘の可否を問うのは︑芭蕉が転化の工夫をなした以後の場においてなのであり︑転化の工夫の

直前においては︑以上みたようなスケールの世界が芭蕉の眼前に拡がっていたように思われる︒そしてその世界は︑少なくと

も﹃奥の細道﹄の冒頭からこの句に到るまでの表現のスケールに相応している︒

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