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三宅嘯山の芭蕉神聖化批判

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(1)

一 はじめに   ﹃葎亭画讃集 1﹄は︑享和元年︵一八〇一︶に︑京室町一條下ルの

書林︑平野屋善兵衞と︑同寺町夷川上ルの書林︑西山屋岩吉より

上梓された︒三宅如幾の序につけば︑本書は﹁葎亭﹂こと三宅嘯

︵一七一八〜一八〇一︶の息子李流が編纂した嘯山の遺稿集であ

る︒嘯山は︑芭蕉没後︑蕉風復帰を唱え俳壇に新風を巻き起こし

た中興俳諧の活動を先導した人物であり︑これまで様々に研究さ

れてきたが︑本書はあまり対象とされなかった 2︒   本書には︑画題の総数が三九四︑賛の数は発句による賛が五六

七︑漢詩や狂詩による賛が四五︑つまり都合六二一の画賛が収ま

る︒これらを記号を用いて分類・整理すると︑画賛はA神仙︑B

歴史上の人物阿蘭陀日本︶︑C生物︵C

植物︶︑D雑機物化け物︶の順に並ぶ︒このよう

に嘯山は様々な画賛を遺した︒右の各配列順にそれぞれ例をあげ

れば︑A﹁福禄寿讃﹂としては詩が一首︑発句が二句収められる︒ B1﹁相如之図﹂には発句一句︑B2﹁紅毛人莨 菪呑む図﹂には

発句二句︑B3﹁秀吉讃﹂には発句三句が載る︒さらにC1﹁丹

頂鶴﹂には詩一首と発句八句︑C2﹁大根讃﹂が二句︑D1﹁題

釣舟﹂には一首と二句︑D2﹁死霊図﹂の賛には一首と一句とが

見える︒一つの画題に対し︑賛一句のみの場合も多いなか︑B3

の﹁芭蕉翁讃﹂には発句十一句︑狂詩一首も採録される︒嘯山が

芭蕉に並々ならぬ関心を抱いていたのは確実であるといえよう︒

そこで本稿は︑この﹁芭蕉翁讃﹂に注目し︑嘯山の芭蕉観の一端

を見定めてみたい︒

  ところで﹁画賛集﹂といえば通常︑画と賛とからなるものだが︑

本書には画がない︒このことは何を意味するのか︒漢詩壇では︑

画はなくとも賛を作るケースがいくらでもあった︒中国では宋代

に詠物詩の流行と揆を一にして題画詩が多く作られるようにな

る︒この中にも既に対応する画が初めから存在しなかったものが

想定される 3︒嘯山が題を元に絵柄を想像して賛を作ることは歴史

的に十分許容される 4︒しかし︑注︵1︶に記した拙稿でふれたよう  

三宅嘯山の芭蕉神聖化批判

││   ﹃葎亭画讃集﹄ ﹁芭蕉翁讃﹂をめぐって   ││

(2)

に︑本書の凡例にある言葉を信ずれば︑本書所収の画賛には基本

的に元となる絵が存在した︒嘯山が他者の求めに応じ︑現実に存

在する画に対して賛を着想し︑そこから画を省略して賛のみを示

したのが本書であると考えられる︒嘯山が影響を受けた古文辞学

派の龍草廬編︑宝暦四年刊﹃金蘭詩集﹄には︑五味国鼎の﹁英一

蝶が洗馬の図に題する歌﹂が採録され︑寛政元年序﹃嘯山詩集﹄

にも﹁尚歯会の図に題す﹂︵巻二︶ほか︑複数の題画詩が散見さ

れる︒このように対応する画があっても上梓の際には画が削除さ

れ︑賛のみが残される場合が一般的であった︒画を入れると丁数

が増え︑彫工の手間もあり出版費用がかさむからだろう︒画はな

くとも賛を読むことで読者は絵柄を想像して楽しめるので︑﹃御

定歴代題画詩類﹄﹃題画詩選﹄のように︑絵を伴わず題画詩のみ

からなる形態がむしろ普通であった︒したがって本書は︑漢詩界

では一般的であった﹁画賛﹂享受のあり方を︑漢詩・狂詩・俳諧

の画賛に広げたものと解釈できる︒

  そもそも本書を画のないものとして評価する本稿では︑これよ

り﹁芭蕉翁讃﹂を論ずるにあたり︑仮に賛に対応する画として特

定できる作品が見出せなくても︑讚の内容から絵柄を想像して︑

解釈を進めていく︒

二 ﹁芭蕉翁讃﹂から窺える嘯山の芭蕉観

  嘯山の芭蕉観を知るための手がかりとして︑以下︑本書の所収

順に①〜⑫の番号を付し︑﹁芭蕉翁讚﹂を考察する︒引用の際は

適宜濁点を施し︑括弧内は私に補った︒ ① 芭蕉翁讚月花の道しるべかな行者かな

  ﹁月花の道しるべ﹂は﹁月花の道﹂と﹁道しるべ﹂とをかけた

表現︒﹁月花の道﹂は蝶夢︵一七三二〜一七九五︶が︑正教寺の法

師と﹁月花の道をかたみにかたら﹂︵明和九年跋﹃宰 さい 紀行

﹄ ︶った

というように︑俳諧の道をさす 6︒﹁道しるべ﹂は案内人をいうが︑

ここは俳諧において風流な作品を詠むための手ほどきをする人の

意︒﹁行者﹂はここでは風雅を追い求めてやまない者を意味する︒

句は﹁芭蕉翁は俳諧の道において人々を風雅へと導く師たる存在

であり︑自身は日々風雅を追い求めてやまない修行者であること

だなあ﹂という︒﹁旅に病で夢は枯野をかけ廻る﹂と命旦夕にし

てなおあかず風雅を追求し︑死後も人々から敬仰された芭蕉の姿

に︑嘯山は感嘆しているのだ︒﹁月花﹂は無季の扱い︒

  一句はどのような絵をもとに詠まれたのか︒嘯山の交友である

与謝蕪村の描いた︻図1︼には︑前書に﹁花影上欄干︑山影入門

︻図︼与謝蕪村筆﹁月光西に﹂句自画賛渡月橋図逸翁美術館蔵

(3)

なと︑すへてもろこし人の奇作也︒されと只一物をうつしうこか

すのみ︒我日のもとの俳諧の自在ハ渡月橋にて﹂とあり︑﹁月光

西にわたれハ花影東に歩むかな﹂と句が付される︒賛を読むと画

面には︑月光の下︑漢詩に勝る俳諧の自在性を思いながら︑渡月

橋を渡る行者の姿が描かれていることがわかる︒月︑花︑道︑行

者を描く本図は﹁月花の﹂賛と通じる世界観をもつ︒芭蕉を描い

た作品で現存するものは他にもある 7が︑蕪村のこうした絵に類す

る構図に嘯山の句はつけられたと考えられる︒② 同︵芭蕉翁讚︶

正直な店のさかへや千代の秋

  芭蕉が俳諧一筋に生き︑後世蕉風俳諧の支持が高まったさま

を︑商家が精を出して働き︑後々まで栄えるさまに喩えた︒﹃笈

の小文 8﹄の一節﹁かれ狂句を好こと久し︵中略︶つゐに無能無藝

にして只此一筋に繋る﹂が思い出される︒一般的に店が栄えると

顧客が増えて店主は儲かるが︑芭蕉は門人の層を拡大しても儲か

らない︒彼は﹁点者をすべきよりは乞食をせよ﹂︵享保十年刊

舎利﹄といって︑風雅と利潤追求とは両立しがたいと考えていた︒

句は︑利潤追求をこととする商店と芭蕉とを結びつけたのが眼

目︒士農工商として四民の最下位に﹁商人﹂が据えられていた江

戸時代に︑芭蕉を商店に擬したところに︑対象を突き放す嘯山の

姿勢が認められる︒﹁千代の秋﹂は漢語﹁千秋の業﹂を和化した

言葉で︑時を経ても色あせない偉人の功績をいう︒和語とするに

あたっては︑﹁雫もてよはひのぶてふ花なれば千世の秋にぞかげ

はしげらむ  紀友則 9﹂︵後撰和歌集・秋下四三三︶や﹁陸奥杉平と 云所にて/千世の秋や松をしるしの杉平  風虎﹂︵﹃櫻川﹄秋二︶

を生かしたのだろう︒前者は︑菊花が千年後の秋に生い茂ること

をふまえ︑歌の送り主藤原忠行の末永き繁栄を祈念する︒後者は︑

徳川の末永き繁栄を寿ぐ︒ここは﹁嘘やごまかしなく商いに精進

すれば︑長い年月を経たころにきっと店が繁盛するように︑芭蕉

翁も俳諧一筋に生きたから︑永遠に俳名が栄えるだろう﹂と詠む︒

芭蕉在世当時は少数派に過ぎなかった蕉門俳諧は︑師の没後︑長

い年月を経る間に︑支考らの活躍もあって各地に勢力を増してい

く︒門人の活躍も偲ばれるが︑やはり中心は芭蕉の﹁俳諧一筋﹂

な生き方を賞賛することにあろう︒季は﹁千代の秋﹂で秋の句︒

③ 同︵芭蕉翁讚︶

去年は江戸ことし大津の雑煮とぞ

  ﹁芭蕉翁は︑去年は江戸で︑今年は大津で雑煮をご馳走になっ たとさ﹂という︒﹃日本歳時記 B﹄に﹁食時に及で︑雑煮を祖先考

妣の霊前にそなへ︑酒を献ず﹂とあるように︑雑煮は本来︑故郷

で食べるものとされた︒しかし芭蕉は︑故郷伊賀上野ではなく︑

江戸や大津でしばしば越年した C︒俳諧行脚のためとはいえ︑盆正

月の一家団欒を顧みず方々を転々とする芭蕉の生き方は︑生地で

暮らし老い朽ちてゆく人の多い当時にあって︑決して一般的とは

いえない︒つまりこの句は︑江戸や大津に限らず各地を転々とし

た芭蕉の風変わりな日常を的確に表現している︒季は﹁雑煮﹂で

新年︒

④ 同︵芭蕉翁讚︶    月僊 D筆

とつこにも合さん関のあらばこそ

(4)

  ﹁独鈷にも打ち合わせるような危険な関所が芭蕉翁の旅の中に

あるはずがない﹂という︒﹁とつこ﹂は密教で用いる法具であり︑

護身具として魔を祓うために使われる︒鉄製や銅製の短い棒状の

ものであり︑握りの両端に一つの爪がある︒ここは︑旅中芭蕉が

持ち歩いた杖をとっこに見立てた趣向だろう︒﹁とつこにも合さ

ん﹂は︑武器を互いに打ち合わせるような︑の含意︒謡曲﹁橋弁

慶 E﹂に﹁たゝみ重ねて打つ太刀に︒さしもの弁慶合はせ兼ねて﹂

とあるように︑﹁合﹂すを打ち合わせる︑の意と解した︒﹁関﹂は

関所︒謡曲﹁安宅 F﹂に﹁もとより勧進帳はあらばこそ

0 0 0 0

︵傍点筆者︑ 0

以下同じ︶とあるように︑﹁あらばこそ﹂はあるはずがないの意︒

ここは弾むような﹁謡﹂の詞章をとり入れての句作りで︑芭蕉の

漂泊の人生を呑気なものとして茶化す語気すら読みとれる︒一句

は雑の句︒

  これは︑芭蕉の旅と義経の旅との落差を穿った作とも思われ

る︒謡曲﹁安宅﹂では弁慶が義経を打つために金剛杖︑つまり﹁と

つこ﹂を使う G︒弁慶が関守に見咎められた義経を助けるためとは

いえ︑金剛杖で義経をさんざんに打ちたたき﹁通れとこそ﹂とせ

かす場面は実に痛々しい︒芭蕉は誰かに命を追われていたわけで

もなく︑義経よりたやすく関所を通過できたことだろう︒芭蕉の

関越えを振り返ってみると︑例えば﹃おくのほそ道 H﹄の旅におい

て芭蕉は︑平兼盛や能因といった雅客の古歌に感銘を深めながら

白川の関を越えた︒そのときのことを彼は﹁長途の苦しみ︑身心

疲れ︑かつは風景に魂奪はれ︑懐旧に腸を断ちて﹂と語る︒文人

墨客の往事を追懐して断腸の思いに迫られた︑とは戦時から見れ ば何とも安閑とした風流だ︒嘯山の想像をたどればこのようになろうか︒また︑尿前の関で芭蕉は﹁この道旅人まれなる所なれば︑

関守にあやしめられて︑漸 やうやうとして関をこす﹂︒その後﹁三日風雨

あれて﹂進退きわまった彼は︑蚤虱や馬の尿に悩まされながら

﹁よしなき山中﹂に逗留する︒厳重に守備される中︑難関を突破

した義経に比べると︑芭蕉の関越えは笑止千万なものにも思えて

くる︒芭蕉の旅は呑気なものだ︑偏に太平の御代のなせる業よ︒

嘯山の脳裏には︑そんな思いが去来したと読める︒

  嘯山とほぼ同時代に上方で活躍した上田秋成︵一七三四〜一八〇 九︶の﹃去年の枝折 I﹄に︑中世と近世の旅人を比較し︑太平の世

にあえて漂泊した芭蕉を咎める視点があった︒秋成は芭蕉を﹁所

さだめず住なして︑西行・宗祇の昔をとなへ︑檜の木笠竹の杖に

世をうかれあるきし人とや︑いともこゝろ得ね﹂︑﹁誠に尭年鼓腹

のあまりといへ共︑ゆめ〳〵学ぶまじき人の有様也とぞおもふ﹂

という︒芭蕉の旅は乱世を生きる人々が強いられた旅とは異なり︑

単なる浮かれ歩きに過ぎず︑太平の世だから可能なのだが我々は

見習うべきではない︑と秋成は容赦ない︒芭蕉神格化の潮流が渦

巻く同時期にあっても︑芭蕉を相対化しようとする動きはたしか

にあったのだ︒嘯山は秋成ほど極端に芭蕉を批判してはいない︒⑤ 同賛︵芭蕉翁讚︶に翁よしのにての句書て  長崎家蔵

我蓑よ三度よしのゝ花の雪

  ﹁翁よしのにての句﹂とは︑芭蕉の﹁乾坤無住同行二人/よし

野にて桜見せふぞ檜の木笠﹂︵﹃笈の小文﹄をさす︒この句は︑吉

野へ花見に出かけようとした芭蕉を︑伊良湖岬から船でやって来

(5)

た杜国が伊勢で出迎えてくれたときに詠まれた作である︒芭蕉

は︑万菊丸と名乗って道中の助け役を買って出た杜国の心意気に

感じて︑きっと吉野山の桜を見せようぞ檜笠よ︑と戯れた︒嘯山

はこの賛を付した芭蕉の図像を所有していたと思しい︒﹁長崎

家﹂については未詳︒季は﹁花の雪﹂で春︒

  ﹃笈の小文﹄の旅において芭蕉は︑念願かなって花の吉野に三

日滞在する︒ところが︑いざ曙や黄昏や月光の中で満山の桜を眺

めやると︑吉野で一句︑と気負って出てきた風流も空しく︑感激

のあまり一句も詠むことができなかった︒嘯山の句は︑雪のよう

に乱れ散る落花の下︑言葉を失い立ち尽くすしかなかった芭蕉の

心境を代弁している︒芭蕉が﹁よし野にて﹂と笠に向かって未来

の夢を語ったのに対し︑ここは︑その夢が叶った折の感慨を蓑に

語る︒ある句に和するかたちで別の句をつける手法は︑元禄七年

序﹃句兄弟﹄で其角一派が行った句合にも見られた︒ここはそれ

を模した句作りといえよう︒﹁卒塔婆小町賛﹂︵藤井乙男等編著﹃芭

蕉図録﹄靖文社一九四三年︶に﹁たふとさや雪ふらぬ日も蓑とか

さ﹂とあるごとく︑蓑と笠に対する芭蕉の執心はひとかたではな

かった︒ここはそれをふまえ︑芭蕉がいいおおせなかった彼の心

底を易々と句にしてみせた点が俳諧だろう︒⑥ 此翁西行・宗祇の跡を慕ひ︑羇旅に生涯を委

ねてそれを風雅の骨肉とせられけん︒其情誠に深く

︵しる︶かも

雪の夜や出女に酌も取らしめず

  ﹁芭蕉翁は﹁西行﹂や﹁宗祇﹂︑﹁旅﹂や﹁風雅﹂に対する﹁情﹂ は﹁誠に深﹂いが︑﹁出女﹂には夜伽の相手をさせないばかりか

酌さえとらせない﹂という︒芭蕉が西行・宗祇を慕っていたこと

は﹁世にふるもさらに宗祇のやどり哉﹂﹁西行の草鞋もかゝれ松

の露﹂といった芭蕉句から窺える︒嘯山の師だった宋屋も︑宝暦

五年跋﹃杖の土﹄の中で芭蕉のことを﹁およそ此翁

0

の生涯︑西行 0

0

0

0

0

0

風雲をしたひ 0 0 0 0

︑不住の旅客﹂と記す︒﹁羇旅に﹂以下前書は︑ 0

芭蕉が﹁旅を栖﹂とするような漂泊の生活から風雅を生みだした

ことをいう︒﹁出女﹂は宿屋の客引きをする女で多くは売春を行

なった︒前書の﹁西行﹂から江口の遊女が想起され︑句の﹁出女﹂

にも遊女的性格を帯びた女性が想定される︒﹁雪の降るような寒

い夜でも︑芭蕉翁は出女に酒をつがせることもなく︑女色・遊興

には無縁な旅を重ねていた﹂とその枯淡の境地を思いやったのだ

ろう︒季は﹁雪﹂で冬の句︒

  京都上鳥羽の実相寺に現存する﹁三宅嘯山先生墓碑銘﹂に︑嘯 山の人となりは﹁声色に近づかず K﹂と刻されていて︑彼自身は女

色にふけらない生真面目な人であったと推測される︒されど﹃葎

亭画讃集﹄に採録された﹁二美少年蛍を撲つ図﹂﹁禿の賛﹂を画

題とする讚や︑天明七年刊﹃宿直文﹄﹁維明和尚北野 w伴作 q談﹂

に徴して︑嘯山は少なくとも創作上は︑女色や男色といった男女

の色恋を積極的に題材とする︒本句でも創作上あえて芭蕉の真面

目さを大袈裟に表し︑揶揄している︒男性の多くは出女に酌をと

らせて一杯やりたいところ︑との含意があろう︒宋屋が﹃杖の土﹄

で﹁芭蕉賛美の言葉﹂︵深沢氏前掲書︶をちりばめたのに対し︑嘯

山は師の説を鵜呑みにせず自分なりに芭蕉を捉えている︒

(6)

  ﹃おくのほそ道﹄には︑芭蕉と曾良が遊女二人と高齢の男一人

と襖一枚隔てた部屋に泊り︑彼女らの話声を聞きながら寝入った

件がある︒まさに﹁酌も取らしめず﹂遊興には無関心の芭蕉で

あった︒嘯山の賛はこうした場面をふまえて創作されたと考えら

れる︒連句においては芭蕉も恋を巧みに詠んでいる︒しからば嘯

山は︑芭蕉を禁欲的な求道僧のように一面的にしかとらえられな

い︑同時代の神格化の動きを突き放していたといえよう L︒⑦ 同︵芭蕉翁︶半身雲霧の如き図に

悟道そも物も言ざる月花に

  ﹁半身雲霧の如き図﹂とは︑上半身は鮮明だが︑下半身は雲霧

で覆われたように朦朧とした図をさす︒蕪村筆﹁芭蕉像﹂画賛︵個

人蔵は芭蕉の半身を描く︒下半身を雲霧で包まれた画には︻図

2︼の達磨像がある︒雲霧に包まれているのが芭蕉なら︑そこに

はどんなメッセージが込められているのだろうか︒

  ﹁悟道﹂は俳道の真理を体得すること︒﹁そも﹂は謡曲﹃金札﹄ に﹁そも御身はいつくより参詣の人そ N﹂とあるように﹁そも﹂と

表記されることもあり︑そもそも︑一体の意で疑問を強める働き

がある︒後代の用例だが文化十一年刊﹃南総里見八犬伝﹄︵岩波

書店一九九〇年︶第三回に﹁什 汝等は何の為に︑正 まさなき事をし

たるぞや﹂︑第五回に﹁これは什 何事ぞ﹂とある︒﹁物も言ざる

月花﹂とは︑一言も発せずに存在する月や花をさす︒したがって

句意は﹁悟りとはそもそも雲霧の如くもやもやとしてつかみにく

い︑芭蕉翁は本当に悟ったのか︒物を言わぬ月花を相手に俳諧一

筋に励んだとて﹂となる O︒   このように嘯山は芭蕉が悟ったかどうか疑問視している︒﹃三

冊子﹄赤双紙に︑芭蕉の言として﹁松の事は松に習へ︑竹の事は

竹に習へ﹂が見える︒句はかかる発言を︑私意を離れよと説く芭

蕉の有難い教えではなく︑文字通り︑芭蕉が松や竹と会話してい

る場面に卑俗化して読み変えて成った句である︒芭蕉は寛政五

年︑百回忌のころには多くの俳人に神として崇められるように

なっていたが︑この賛は求道の﹁聖﹂扱いされもした芭蕉の発言

を茶化し︑その絶対的地位をゆるがせるような角度から詠まれて

いる︒達磨像のように雲霧の中から立ち現れる芭蕉図が描かれて

いたとしたら︑芭蕉はさも悟りを開いた御仁に見えたであろう

が︑ここは芭蕉が悟ったことを疑問視する賛であり︑芭蕉を求道

の﹁聖﹂扱いして疑わぬ諸俳人の姿勢を批判している︑とも読め

る︒﹁月花﹂は無季の扱い︒

⑧ 同讃︵芭蕉翁讚︶

w於上野 q 卒 w於浪華 q  ︵上野に生まれ浪華に卒 をはる︶ ︻図2︼ 馬言筆﹁隻履達磨図﹂木庵性瑫賛    中国・清時代︵十七世紀︶京都萬福寺蔵

(7)

花月 遺跡  風水 生涯   ︵花月の遺跡風水の生涯︶

  狂詩の賛である︒﹁花月の遺跡﹂とは︑芭蕉が歌枕を探訪した

こと︑﹁風水の生涯﹂とは︑一所不住の生活を送った芭蕉の生涯

をいう P︒﹁芭蕉は伊賀国上野で生まれ浪華で歿した︒生涯一所不

住の身で︑旅と離別を繰り返した﹂︒漂泊の詩人芭蕉の一生を的

確に言い表す︒

⑨ 翁の墨跡に

世にのこる墨の力や道の花

  世に遺された芭蕉の墨跡が道に咲いている花のように美しく︑

俳諧の道では尊ばれるべきものであることを詠む︒嘯山の墓碑銘

に﹁其の家 多く蕉翁 筆授の書を蔵す︒先生 之を読みて感悟する

所有り﹂︵前掲小財氏稿参照︶とあって︑嘯山が芭蕉の遺墨に感動

していたことがわかる︒ここでは芭蕉の遺品に賛辞を与えた︒句

は雑︒

⑩ 翁の杜宇招くか麦のむら尾花と云句に対す

麦苅て早苗戦ぎぬほとゝぎす

  句は︑芭蕉の﹁郭公まねくか麦のむら尾花﹂︵延宝九年刊﹃おく

れ双六﹄をふまえる︒﹁むら尾花﹂は叢生した花薄のこと︒﹁むら

尾花﹂のように風にそよぐ麦の穂は︑杜鵑を待ちわびて手招きし

ているのだろうかと芭蕉が詠んだのに対し︑嘯山は︑麦を刈り入

れた後の田に稲が植わっているとして︑若やかな早苗が風にそよ

そよと揺れ動く様は杜鵑を招いているようだと詠んだ︒芭蕉の句

に時間差を設けて創作した趣向︒ここでも⑤﹁我蓑よ﹂と同様︑

句合の趣向を模したと考えられる︒季は﹁麦苅・早苗・ほとゝぎ す﹂で夏の句︒⑪ ある人の懸地にばせをかと思へば髯長うして東坡に似たり︒持人にとへどしらず笠に杖雪見にしては裾永し

  ﹁芭蕉図かと思ったら︑笠に杖︑髯も長くて︑これじゃまるで

蘇東坡よ︒芭蕉だとしてもこんな裾の長い服を着ると﹁雪見に﹂

行って転びはしないか﹂といった意︒﹁懸地﹂とは掛け軸の絵地

のことだろう︒日本における蘇東坡像は中国のものが独特の変容

を遂げた Q︒蘇東坡が大きな竹笠を被り杖を提げた姿は﹁蘇東坡笠

屐図﹂と呼ばれる︒中国画では左遷先の亜熱帯の海南島で雨を凌

ぐために笠をかぶっていたのが︑日本では雪を防ぐために笠をか

ぶっていることになった︒蘇東坡は芭蕉が西行・宗祇と並んで

慕った人物だ︒芭蕉像は笠や杖と共に描かれることが多かったの

で︑蘇東坡像と見誤られもしただろう︒

  芭蕉と﹁雪見﹂といえば﹁いざゝらば雪見にころぶ所まで﹂が 有名だ︒宝暦十年序﹃俳諧古選﹄巻四 冬部において嘯山は︑﹁鰒

汁や鯛も有のに無分別﹂﹁初雪や掛かゝりたる橋の上﹂﹁いざゝら

ば雪見にころぶ所まで﹂の三句に﹁皆俳中之妙境﹂との評を付す︒

三句はどれも味わい深い冬の風物詩である一方︑扱う題材は︑後

先考えずに行動すると痛い目にあう危険性をはらむ︒評語は︑鰒

の毒にあたる︑雪に滑って転ぶという万一の事態をほのめかし︑

風流と現実に潜む危険とのあわいを楽しめる点を称えたものと読

めるのではないか︒かく嘯山は芭蕉の雪見の句に対して賛意を示

したこともあったが︑ここでは︑俳諧にうつつを抜かして現実の

(8)

危険性を顧みないことの愚かさを皮肉る︒一歩引いたところから

冷静に芭蕉の行動を観察せんとする嘯山の姿勢が窺えよう︒ま

た︑一度自分がほめた句でも︑それをつきはなして批判しうる自

在な精神の発動がある︒季は﹁雪見﹂で冬の句︒⑫ 翁門人共五人踞れる図

五人すら秋の夕は淋しいか

  ﹁門人共﹂四人が誰か不明だが︑蕪村筆﹁几圭俳統図 R﹂︵明和九

年成﹃其雪影﹄は︑芭蕉・其角・嵐雪・巴人・几圭が踞る図であり︑

参考になる︒季は﹁秋の夕﹂で秋の句︒

  芭蕉は﹁寂しさや須磨にかちたる浜の秋﹂﹁こちらむけ我もさ

びしき秋の暮﹂のように︑﹁秋の夕﹂の寂しさを詠んだ︒嘯山は

﹃俳諧古選﹄巻五 雑部に﹁此道や行人なしに秋の暮﹂を載せ︑秋

の暮の淋しさを感じさせる芭蕉句を評価していた︒一方この句に

は﹁芭蕉翁は優秀な門弟と五人でいても寂しいのか﹂との揶揄が

込められているようにも思われる︒

  ①〜⑫の﹁芭蕉翁讚﹂のうち︑約半数は芭蕉への敬愛の念や親

しみを感じさせるものであり︑嘯山が人間芭蕉に共感を抱いてい

たことは疑いを入れない︒そのうえで④﹁とつこにも﹂では芭蕉

の旅は大した苦労もないと喝破する︒⑥﹁雪の夜や﹂では女色を

寄せ付けない芭蕉の生真面目さを揶揄し︑⑦﹁悟道そも﹂では芭

蕉が悟ったか疑問視し︑彼を禁欲的な求道僧のように一面的にし

かとらえられない︑同時代の神格化の動きに異議を唱える︒⑪﹁笠

に杖﹂では︑俳諧にうつつを抜かして現実の危険性を顧みないこ

との愚かさを皮肉る︒⑫﹁五人すら﹂には︑芭蕉翁は門弟と五人 でいても寂しいのかとの批判をも込める︒  嘯山の芭蕉翁讚に見られた穿ち︑揶揄︑諷刺の精神は︑雑俳や川柳の趣向にも通じると思われる︒﹁楽んで婬せず帰る浅黄裏 散

売﹂︵文化五年刊﹃誹風柳多留﹄四一篇︶や﹁楽んでいんせず野父 ︵マヽ︶

柳下恵  礫川﹂︵同四三篇︶は︑遊郭で美女に手を出さぬ男性を揶

揄し︑⑥の趣向に通じる︒﹁実盛が髭を染しも世の名利  加水﹂︵不

角編 元禄三年成﹃二葉の松﹄上︶は︑実盛が白髪を染めて戦ったの

は名利にとらわれての所業では︑と疑う︒実盛は白髪を墨で染め

て討ち死にしたことで︑後世﹁平家の侍弓取つての名将﹂︵謡曲﹁実

﹂ ︶と賞賛されるが︑その常識をくつがえす作であり︑芭蕉神

格化の思潮を拒む嘯山の姿勢にはこれと通じるところがある︒

﹁雪見とハあまり利口の沙汰でなし﹂︵明和二年刊﹃誹風柳多留﹄初篇︶

は︑芭蕉の雪見の句を批判しており︑⑪の趣向に通じる︒

  岩田秀行氏や池澤一郎氏は︑蕪村や嘯山の発句における川柳と の近似性を指摘された V︒﹁落馬におもふ観音の慈悲  太祇/あの 男尻で取たる知行にて  嘯山﹂︵明和六年刊﹃平安二十歌仙﹄にお

いて嘯山は︑あの男が知行にありついたのは男色のおかげと皮肉

る︒﹁うらみぽい歌斗よむ源三位﹂︵天明八年刊﹃誹風柳多留﹄二十

二篇︶は︑源頼政が和歌の名手であったゆえに一階級上の位を得

たことを皮肉っており︑両者には諷刺の精神が揺曳する︒嘯山の

発句﹁初鰹/京者の口を閉けりはつ鰹﹂︵享和元年跋葎亭句集﹄

は︑新鮮な初鰹が手に入りにくいことを穿つ作で︑雑俳﹁いそが

しやいかして何里初鰹 カツヲ︵元禄十五年刊﹃あかゑぼし﹄の趣向と似

通う︒また︑本書に収められた﹁頼朝讚﹂は頼朝の頭が大なるを

(9)

揶揄しており︑川柳﹁大さうな蛭が小嶋の神頭巾﹂︵露丸評宝暦

十三年万句合︑誹風柳多留拾遺﹄六篇所収︶と共通する︒画賛に限ら

ず嘯山の作には︑雑俳や川柳の一部とも通ずる諷刺︑揶揄︑皮肉

の精神を宿すものがある︒嘯山が生まれた享保期には雑俳が全国

的に流行しており︑やがて川柳風狂句が作られるようになる︒嘯

山の作品に穿ち・揶揄・諷刺・批判性が感じられるのは︑そうし

た俳壇事情を反映したものと考えられる︒

三 おわりに

  芭蕉没後︑各地の﹁蕉門﹂俳人によって芭蕉追善事業が行われ︑

芭蕉は﹁正風の宗祖﹂と崇められ︑芭蕉受容の層が拡大してい

く X︒俳席の床には彼の肖像画が掲げられ︑神よ聖よと仰がれるま

でになる︒嘯山とほぼ同時代を生きた梅室︵一七六九〜一八五二︶

は︑芭蕉を釈迦に準え﹁芭蕉翁涅槃図﹂を描いた︒芭蕉復興運動

にいそしんだ蝶夢も﹃芭蕉翁絵詞伝﹄では芭蕉を﹁宗祖に擬し Y

﹂ ︑

﹃もとの清水﹄序では﹁蕉門の面授口訣の秘書﹂を︑﹁釈迦尊滅後

諸弟子の一見を執て一大律蔵を分て五部とせしためしに似たり﹂

と記し︑芭蕉を釈迦に喩えた︒中興期の俳壇においては芭蕉復古

の声が高く︑芭蕉の神格化が進んだ︒

  しかし嘯山の﹁芭蕉翁讃﹂からは︑芭蕉を神聖化しない姿勢が 窺える︒文化九年跋﹃葎亭画讃集附録 Z﹄に嘯山は︑﹁芭蕉翁﹂と 題して﹁俳歌の道︒独自 髄を得たり︒一たび去ること百年︒海 内 風靡す﹂と記し﹁付て行けかく芳しき草の道﹂と句を添える︒

嘯山は芭蕉が俳道において最も重要なものを体得した点を称え︑ 彼を敬愛した︒﹃俳諧古選﹄や﹃俳諧獨喰﹄︵寛政十年跋︶には︑

芭蕉の句の中でも特に貞享・元禄期の句が多く入集していること

から︑嘯山は貞享・元禄時代の芭蕉俳諧をより高く評価していた

と推測される︒嘯山は﹃俳諧新選﹄惣論︵安永二年序︑加藤定彦氏

蔵本︶に﹁さるを蕉門の徒︑翁の句也とさへいへば︑いづれも〳〵

絶唱のごと思ひて︑諸集に選び入 いれ︑句意をさとしぬるもさとさゞ

るも︑なべて推尊ぶ事こそいと心得られね︵中略︶よく学び明ら

めて分つべき事にや﹂と記す︒つまり嘯山は芭蕉句ならばすべて

﹁絶唱﹂であるのではなく︑失敗作もあることを客観的に見つめ

ねばならないといい︑芭蕉の句ならば理解しえぬ句すらも賛美す

るような︑一部俳人の盲目的崇拝を戒めているのだ︒

  先述した秋成の他︑建部綾足︑寺町百庵らが︑嘯山と一歩隔たっ た芭蕉観を各自もっていた a︒今後は嘯山の全貌に加え︑彼と同時

期の文壇に見られた芭蕉観の傾向を調査し︑その理由を考察した

い︒︵1︶ 本稿では︑東京大学総合図書館洒竹文庫蔵本を底本とした︒小本︑

全六十三丁︒本書の書誌は︑拙稿﹁﹃葎亭画讃集﹄論﹂﹃近世文芸研究と評論﹄

される一方︑﹁蝦蟇仙人之図﹂として底本に載る漢詩の賛が一首脱 同様の内容だった︒Ⓔは六丁表に底本にない﹁七賢人之讚﹂が採録 数あった︒Ⓓ以外は版本で︑Ⓔ・Ⓕを除き︑所見本は皆ほぼ底本と 本を調査したところ︑Ⓓのみ写本で︑字母が底本と異なる箇所が複 手文庫Ⓔ天理大学附属天理図書館Ⓕ某家︵香川県︶Ⓖ加藤定彦氏蔵 市立図書館花月文庫Ⓒ龍谷大学図書館写字台文庫Ⓓ賀茂別雷神社三 ので︑ここでは省略する︒筆者がⒶ富山県立図書館志田文庫Ⓑ上田 80︵近世文芸研究と評論の会二〇一一・六︶に記した

(10)

落している︒Ⓕは十七丁を欠く︒したがって洒竹文庫蔵本を底本とすることに問題はないと考える︒

︵2︶ 嘯山に関する先行研究は︑注︶に記した拙稿を参照されたい︒︵3︶ 浅見洋二﹁﹁詩中有画﹂と﹁宛然在目﹂││六朝・唐代における詩と絵画││﹂﹃中国の詩学認識﹄︵創文社二〇〇八年︶︵4︶ 時代は下るが︑春雨楼の詩会では毎月﹁二月静姫歌舞図﹂﹁四月 平経正弾琵琶図﹂のように詩題が課せられ︑人々は画が無くとも題に応じて賛を作っていた︒望月茂藤森天山﹄藤森天山先生顕彰会 一九三六年︶︵5︶ 古典俳文学大系

収︒ 14 ﹃中興俳論俳文集﹄︵集英社一九七一年︶所

︵6︶ 芭蕉の画賛句に﹁月華の是やまことのあるじ達﹂︵元禄八年刊﹃熱田皺筥物語﹄︶がある︒これは門人東藤から︑貞徳・宗鑑・守武の画像にふさわしい賛を請われたときに認めた作で︑﹁月華﹂は俳諧︑風雅の意︒以下︑断らない限り芭蕉の作︵発言︶﹃校本芭蕉全集﹄︵富士見書房一九八八〜一九九一年︶から引用した︒︵7︶ 乾憲雄﹃夢望庵文庫蔵 芭蕉翁の肖像 百影﹄︵光琳社一九八四年︶等︒︵8︶ 宝永六年刊︑早稲田大学図書館蔵︵請求記号ヘ︶︒以下﹃笈の小文﹄の引用は本書によったが︑引用の際は適宜句読点

や濁点を施した︒︵9︶ ﹃新編国歌大観﹄CD版︵角川書店二〇〇三年︶

10︶ ﹃櫻川﹄︵大東急記念文庫一九六〇年︶

11︶ 早稲田大学図書館蔵︑貝原好古編︑貝原篤信補︑貞享五年刊︒

江戸を指﹂︵﹃野ざらし紀行﹄︶から推すに︑江戸は芭蕉の第二 さすきやう 彼にとって江戸や大津は特別な土地といってよい︒﹁秋十とせ却て 九四年︶︑田中善信﹃全釈芭蕉書簡集﹄︵新典社二〇〇五年︶参照︒ に大津で正月を迎えた︒今栄蔵﹃芭蕉年譜大成﹄︵角川書店一九 12︶ 芭蕉は貞享三・四年と元禄五・六・七年に江戸で︑元禄三・四年

の故郷だ︒一方︑大津には智月や乙州といった仲間がいるし︑芭蕉 の墓所は遺言により大津の義仲寺と定められた︒彼は幾度も大津へ足を運んで名吟を遺す︒そうした芭蕉の履歴に関する知識も嘯山にはある程度備わっていたことだろう︒

学教育学部研究紀要︵人文・社会科学︶ 山口泰弘﹁画僧月僊の同時代評価についての文献的検討﹂﹃三重大 り知られない画家だが︑在世当時は人気があった︒月僊に関しては か︑蕪村の影響も受けた︒月僊の芭蕉図は未詳︒現在は一般にあま 国名古屋生まれ︒京都知恩院の住僧となって円山応挙に師事したほ 13︶ 月僊︵一七四一〜一八〇九︶は江戸中・後期の僧かつ画家︒尾張

﹁唐人物図﹂﹁漁夫図﹂考察││﹂︵﹃早稲田大学奈良県連携事業成果 二〇〇二年︶︑松岡まり江﹁月僊││略伝と薬師寺蔵﹁維摩居士図﹂ 53 ︵三重大学教育学部

報告書 県内社寺等に伝わる美術品の調査・研究││近世書画を中心に││﹄︵早稲田大学美術史学研究室編二〇一一年︶に詳しい︒

14︶ 大和田建樹﹃謡曲評釈﹄二巻︵博文館一九〇七年︶

15︶ 新編日本古典文学全集

59﹃謡曲集②﹄︵小学館一九九八年︶

16︶  早稲田大学図書館蔵

︑天和四年刊

︵請求記号ハ

 006

 ︶︑朗然撰︑宥鑁注﹃資道什物記﹄下に︑﹁金剛杖と云は度衆所持の智杖なり︵中略︶是れ則ち三杵の中の独古杵なり﹂︵原漢文︶とある︒つまり︑金剛杖とは独鈷をさす︒

17︶ 以下︑﹃おくのほそ道﹄の本文は早稲田大学図書館蔵︵請求記号

68︶井筒屋庄兵衛板から引用した︒その際︑適宜濁点やルビをふった︒

18︶ 安永九年成︒﹃上田秋成全集﹄︵国書刊行会一九八三年︶所収︒

年︶ 19︶ 深沢了子﹁宋屋考﹂﹃近世中期の上方俳壇﹄︵和泉書院二〇〇一

20︶ 小財陽平﹁三宅嘯山墓碑銘﹂﹃近世文芸研究と評論﹄

80︵前掲︶

今後の課題とする︒ 21︶ 嘯山ら中興期の俳人の芭蕉連句に対する評価の如何については︑

二〇〇一年︶ 22 ︶ 佐々木丞平・佐々木正子監修﹃蕪村その二つの旅﹄︵朝日新聞社

(11)

23︶ 早稲田大学図書館蔵︑出版年不明︑請求記号チ

12︲3

12

︵2︶︒

るとも読めよう︒ も言ざる月花に﹂問いかけて答えを得られぬ芭蕉を茶化す効果があ ︑悟りの道を自身に問いかけていた﹂となる︒この場合は︑﹁ 禅問答のごとく︑一言も発しない月や花に問いかけるような旅を続 意図している︑と解すれば︑句意は﹁芭蕉は﹁そもさん﹂で始まる とある︒﹁そも﹂は作麼生︵什麼生︶を利かせた禅問答の見立てを タルモノナリ﹂︵﹃唐話辞書類集﹄三汲古書院一九七〇年所収︶ 云コトナリ︵中略︶怎生ト呼ベキヲ誤テソモサント呼ハ音ヲ誤リ ツヲモスヘン24︶ 宝暦七年刊﹃忠義水滸伝解﹄第一回﹁怎生﹂の項に﹁イカンゾト ツエンスヘン

25︶  盛唐

︑李白の

﹁襄陽の曲四首﹂其の一に

江上   水回

めぐり︑

0

を歌う︒北宋︑蘇轍﹁黄州快哉亭記﹂には﹁其の流風の遺跡 学図書館蔵︶とあり︑孟浩然の生地かつ行楽地として知られる襄陽  人をして迷はしむ﹂︵光緒元年刊﹃御定全唐詩﹄三函︑早稲田大 0

0

て世俗を称快するに足る﹂︵﹃欒城集﹄巻 も亦以0

 撫軍が座において客を送る﹂に﹁州渚思ひ緬邈たり︑風水 八七年︶とあって︑歴史的名所を﹁遺跡﹂という︒東晋︑陶潜の﹁王 24上海古籍出版社一九

0

乖違す﹂︵寛文四年刊﹃陶靖節集﹄巻二︑﹃和刻本漢詩集成﹄ 互ひに0

古書院一九七七年所収︶とあるため︑﹁風水﹂とは旅人の境遇を 17

表す語である︒

を中心とする資料紹介││﹂東京国立博物館美術誌﹄ 26︶ 救仁郷秀明﹁日本における蘇軾像││東京国立博物館保管の模本

 ﹁写真を何充秀才に贈る﹂詩に﹁又見ずや雪中驢に騎る孟浩然︑眉 乗っていた人物はもともと鄭綮であった︒それを蘇東坡が誤って 付録詩窓閑話︵秀英舎一九一四年︶につけば︑雪中驢背の上に 494︵美術出版社一九九二・五︶︒なお︑中根香亭の﹃香亭蔵草﹄ 驢馬にまたがっていると解されるようになったという︒ たらしい︒さらに後世になると誤って孟浩然とした蘇東坡自身が︑ て︑後人が驢馬にまたがっていたのは孟浩然だと信じるようになっ  に皺よせて詩を吟ずれば肩山のごとく聳ゆ﹂と吟じたことによっ

27 ︶ ﹃蕪村全集﹄第六巻︵講談社一九九八年︶

引用︑以下同じ︒ 28︶ ﹃誹風柳多留全集﹄︵三省堂一九七六年〜︶︒適宜濁点を付して

29︶ ﹃未刊雑俳資料﹄九期

10︵鈴木勝忠写一九六〇年︶

30︶ 新編日本古典文学全集

58 ﹃謡曲集①﹄︵小学館一九九七年︶

31 ︶ 岩田秀行﹁范蠡の書﹂﹃蕪村全集﹄四巻月報︵講談社一九九四 ふみ

︶︑

││﹂﹃近世文芸研究と評論﹄

80︵前掲︶

32︶ ﹃誹風柳多留拾遺﹄上︵岩波書店一九九五年︶

尾芭蕉﹄ひつじ書房二〇一一年所収︶ 33︶ 玉城司﹁後代への影響││芭蕉受容をめぐって﹂︵佐藤勝明編﹃松

34︶ ﹃芭蕉翁絵詞伝﹄︵芸艸堂一九八九年︶田中道雄解説︒

た︒ 35︶ 東京大学総合図書館蔵洒竹文庫本のマイクロフィルムを底本とし

九九二年︶ 36 ︶ 中野三敏﹁国学者の俳諧論﹂﹃江戸文化評判記﹄︵中央公論社

﹇附記﹈本稿は︑二〇一一年九月に開催された俳文学会東京例会︵於江東区芭蕉記念館︶における口頭発表に基づく︒発表の席上︑またその前後に貴重な御意見を賜りました皆様方に︑心より御礼申し上げま︒資料閲覧および掲載の許可を賜りました加藤定彦先生や各機関︑資料の読解に関して貴重な御意見を賜りました徳田武先生に︑厚く御礼申し上げます︒

参照

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