九州大学学術情報リポジトリ
Kyushu University Institutional Repository
佐藤春夫による「好逑伝」初訳と改訳の比較
劉, 鳳軍
景徳鎮陶磁大学 : 助教
https://doi.org/10.15017/2200467
出版情報:Comparatio. 22, pp.27-36, 2018-12-28. 九州大学大学院比較社会文化学府比較文化研究会 バージョン:
権利関係:
佐藤春夫による ﹁好逮伝﹂初訳と改訳の比較
劉 鳳 軍
問題提起
佐藤春夫の﹁好逮伝﹂は一九四二年十月十七日に︑奥川書房か
ら刊行されたもので︑中国で有名な長篇小説﹁好逮伝﹂の翻訳で
ある︒原典の﹁好迷伝﹂は明代に書かれた十八回からなる章回体
白話小説である︒作者については﹁名教中人﹂という筆名しか知
られてない︒佐藤は︑それ以前の一九二八年二月一日︑三月一日︑
四月一日発行の﹃苦楽﹄︵第七巻第二号︑第三号︑第四号︶に﹁好
逮伝l
一名
︑侠
義風
月伝
l﹂の題目で翻訳を三団連載しているが︑
これは﹁好逮伝﹂の第二固までの翻訳で︑未完であった︒一九四
二年に単行本で出たのは改訳になる︒二つの訳文の関係について
は︑中村三代司の﹁﹁好逮伝﹂解題﹂における﹁両者の聞には訳出
態度に大きな相違が見られる﹂︵注1︶という指摘が今まで唯一の
ものであるが︑どのように違っているのかについては︑具体的に
は論じられていないので︑ここで︑比較を通して︑二つの訳文の
違いを整理した上で︑それらの違いの由来を検討してみたい︒
混乱を避けるために︑中国の﹁好逮伝﹂︑一九二八年に雑誌﹃苦
楽﹄に連載された﹁好逮伝l一名︑侠義風月伝l﹂と一九四二年 に奥川書房から刊行された﹁好迷伝﹂をそれぞれ︑原典︑初訳と改訳に略記することにする︒﹁好逮伝﹂の粗筋は次のようである︒
元代︑北直隷大名府の鉄中玉という人品容貌とも優れた男が︑
韓願という秀才の娘であった韓湘弦を擾い︑父の鉄英を陥れた高
官大夫侯の横暴を懲らしめ︑その後山東の済南府に行った︒そこ
では水居一の娘の水氷心が叔父の水運に無理やりに太学士の息子
過其祖と結婚させられようとしていたが︑水氷心は水運の娘香姑
が自分と同年齢なのを利用して︑自分の庚帖八字を操作して香姑
を過其祖に嫁がせた︒過其祖はなおも水氷心を誘拐しようとした
が︑鉄中玉は水氷心を救出して︑彼女と結婚した︒
一︑初訳と改訳との比較
原典一話説前朝北直隷大名府︑有一個秀才︑姓鏡︑壁名中玉︑表
字挺生︒︵﹃中国歴代禁殻小説海内外珍蔵秘本集粋﹄第四輯﹁好逮
伝﹂︑讐笛国際事務有限公司出版部︑一九九五年八月︑三七頁︒以
下は
頁数
だけ
を示
す︒
︶
初訳一さて︑制例制刻刻
q
阿付叫朝︑北直隷の大名府に一人の秀才があった︒姓は鉄双︑名を中玉︑字を挺生といった︒︵四コ二頁
︵ 注
2︶
︶
改訳一さて︑闘の朝周到のこと︶のこと︑北直隷の大名府に一
人の秀才があった︒苗字は鉄︑名は二字名で中玉︑字は挺生と言
った
︒︵
一三
九頁
︶
物語の時代設定については︑初訳における﹁宋の時代﹂と改釈
におけるコ主とは明らかに議う︒﹁好逮伝いは現代の作であった
ため︑明の﹁前顎﹂は一川の時代のはずである︒改訳ではご克のこ
と﹂と正確に訳しているが︑初訳では﹁宋の時代の事﹂としてい
るのは間違っていると思われる︒
8
.原典二説起来︑護鶴封鎖是世代公侠︑議上曾有伴馬功勢︑報廷特
賜他一一般養関堂︑教態安事︑関入不許撞入︒前日我径見在城中震
葉︑親服審見飽終選女子簸了進去︒﹂織公子選υ
﹁既
有入
者晃
︑何
不報
知章
棺公
︑叫
飽去
一一
帯三
者官
児道
一
h撤
他同 開怜 蹴捷 骸撚 め慨
棋陣陣険機
R
民医院臨怯陶陣い給陥陣ト擁ド叶︿四一一一寅︶初訳二その相手散といふのは︑代々のお大名で︑先狼辻︑戦の手柄
をあらほされたお方︑そのためおよでは特別立制荘を下されて︑
気楽に暮すようにとの患者しから︑その別荘にはやくざな人間の
出入はお禁止になってゐると申しますよ︒この関︑慈の甥の奴が︑
都へ革を売りに出かけて︑それがちゃんと克てをったと申します︑
そのお嬢さんを匿しこむところをでご
g
りす
よ﹂
﹁見た者がある以上︑何故︑意さんに知らせて捜させないのだい
吋知らせて何になりますものか︒制叫額棋倒叫バ計報端矧制併寸科
料1寸斗寸判州制制掛け叫寸ゴぎ叫討対
A
バ ︵
四 一
一 一
四 一
民 ﹀
改訳二この梧手方と一帯ふのは代々ぬお大名で︑縛先被が昔御馬前
の功がお有りどったのでお上から特別に別粧を下すって保養会お
させになる︑それ故無闇なものが勝手に茶の別荘へは入れないの ︺ざいます︒ところがこの間私の務めが都にまぐさを売れJ託
行
った時お嬢さんを其処へ躍し込む所をちゃんと見たものなのでご
ざい
ます
よ﹂
﹁さう見た人があるのなら︑何故意の若様に知らせてあげないの
だね︑行って捜しもなされように﹂
﹁観 ベ寸 刻叶 寸刻 側側 刻叫 寸討 汁守 叶計 ベ割 似樹 樹洲 科嬬 引吋 州制
寸刻社斗引寸1封劇割引利引材叶叫叫伺
q d
剖割引額引判制材料
民羽
﹂︵
一題
一ニ
頁﹀
原典では︑韓潜弦の隠された場所を知っているが︑相手が権勢
のある大夫侯なので︑意慨に教えても彼が荷もできないと︑爺は
考えており︑意綱聞に知らせなかったため︑意棋が轍湘弦の隠され
た場所を知らないという設定である︒改訳では︑﹁教へてあげても
無駄なのでさア︒たとへ掌の若様がお知りになったところで︑其
奴どうするわけにも行くことぢや有りませんからな﹂として︑正
確に翻訳しているが︑初訳では︑章縮慨が韓滋弦の隠された場所を
知っているかのように︑﹁章の若様はもう御承知なのですが︑てん
で手が出せないのでござりますよ︺と訳している︒
叫叫
原典ぃ組兄長縦有制ォ謝侠勝︑観嶺妙手︑恐亦救援小弟不得︒︿四
初訳二それ
ι
しても小生の療関はとてもお打明けも山出来ぬばかり︑よしゃ大見が剰到域活叫期鎖日崩制凶
ad
剰刺 MM
を禁ねて居られ
ようとも︑小金をお救ひ下さることはおぼつかなさうに存ずるの
です
﹂︵
四一
一一
五
改訳二たとへ︑あなたに誉の燕剰刊調叫倒錯討誕ペ掛端明捌離と
が有られるにしても︑恐らく慈愛お救ひることは出来ないこ
とで
せう
から
﹂︵
一四
四頁
﹀
原典における﹁燕﹂とはそれぞれ︑燕抑制と橡離であ号︑
二人とも中国歴史上︑有名な侠客である︒﹁麗羅いとは唐代の袈鎮
の﹁長奇﹂中の﹁箆寄奴﹂に出てくる義人癖鞍のことである︒彦
代に詰外臨人の使用人誌﹁露寵奴﹂と呼ばれていた︒露鞠は謹器
奴で
あれ
J︑主人公の寵生を︑一回惚れした舞離の居る邸宅へ背負
って行って︑二人の結合を助けた︒
原典
で誌
︑﹁
荊︑
橡﹂
︑﹁
脚臓
器﹂
と略
記し
てい
るの
は︑
作品
成立
の
明の時代︑これらの人物なら誰も怒っているためであろう︒一方
で︑
日本
語に
懇訳
する
時︑
改訳
にお
ける
﹁荊
刺予
糠﹂
︑﹁
異人
磐鞍
﹂
のように詳しく述べた方が読者に分ってもらいやすいと思われる︒
しかし︑初訳では︑涼典の文学どおりに﹁鶏予﹂︑﹁麗爾﹂としか
訳されていない︒文難から︑ぞれは人名だったことが統めるが︑
﹁燕予﹂は一人であるか︑それとも二人であるかは︑日本人の読
者拡分って貰えるかどうかは疑簡であろう︒
比 ・
原典了何父親摺強是甚人?有何屈事0
・続
税関
斑個
封劇
1
叫徴韓
顔︒
︿ 四
八 一
員 ﹀
初訳一お父様はその人たちが何人で︑信︑が一たい無突があるかそ
れを尋ねられた︒その入は対閣制劇叫足鎖棋で︑いふ人︿包
三七
頁﹀
改訳日お父様はその者が何人であるか︑何の苦しめられてみ
があるかをお尋ねになりました︒その者が言ふには自分は矧制引の
人で韓患と呼ぶ者だのです︒︵一一四六頁︶
韓援の身分については︑原典では﹁秀才﹂いている︒中闘
では︑秀才は生員とも呼ばれておち︑文官叫の郷試に参加する
資絡役持っているが︑まだ受験していない︵または受験したが︑
及第しなかった︶書生のことである︒改訳では︑原典の
をそのまま踏襲してい初訳では︑﹁文官試験の し て い る の は 明 ら あ る
︒
丈d
原典山内中一倒者家人見嘆得境︑只得大著勝子聞説道υ
﹁公
侯人
家︑
高不在誌︑誰敢関門
0・ 費 輔 副
1
剖
樹 君 鎖 麟 短 調 剣 山 川
判制 覇剖
J︵ムハ
O
貰 ︶
初訳一そのとき邸の内から一人の老家撲がわいわい騒がしいのを
聞きつけて飛んで来た︒そして大胆にも︑﹁鞍様はここにはおいで
はない︒門合開けといふのは一体何者だ︒斗叫開制綱同球ーバゴ吋
出輯 磁料 引捌 寸剖 類場 活科 吋司 叶叶 州麟 樹寸 当ぺ 制選
属
U
寸利 組引
は税制併埼J
︵四
四三
頁︶
改訳口その内で一人の年ょった家来が︑怒鳴ちつけられてよんど
ころ
なく
︑度
擁を
栂ゑ
て一
習っ
た︒
﹁邸の者はお雛様が御不在では誰も丹を開けませんのだ︒石村同
調刑
判
U
出社 斗引 寸封 劇同 制﹄ 料引 瞬時 サ剖 斜制 例制 明明
斗
d
州側
た媛でも刺入りに州材料説明まい﹂︵一五
原典でほ︑門番の老人が︑この様宅は朝廷から賜った禁地翁の
で︑円安開けても︑貴方は勝手に入ってはいけないというように
鉄中五に言っている︒原典における﹁爺﹂は門番の者入が客の鉄
中玉を礼儀正しく呼ぶ欝葉である︒改訳では︑﹁あなた様﹂と正確
に翻訳している︒しかし︑初訳では︑﹁ここは朝廷から賜った禁地
だからここの殿様でさへも遠慮してお通りになるのだ︒﹂と訳し︑
原典における﹁爺﹂を大夫侯と誤解している︒朝廷から賜った禁
地であっても︑主人の大央設さえ﹁遠慮してお通りになるいとし
ているのは︑おかしいと震わざるを得ないであろう︒
附原典一原案護大夫侯悶一時高興︑持韓顕女児檎
γ
来家
︑・
盛只
道窮
秀才家波嬬申覧︑持耕輔到側側到桝耕輔
1 4
酬劉
制叶
l又不料室量
殺了︑著刑部審問︒一時急了︑波擁術︑只得持韓願夫妻一併鎗来︑
難在養関堂内︑以鱈其跡︑却ほ陥搬憾︒初持還恐桔有人知舞︑要
調移桑穴︑後見刑部用構︑不常カ迫︑反捧持議英下了獄︑使十分
安心
︑不
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︿六
⁝莱
﹀
初訳二克来︑大央侠は⁝時の輿から韓患の娘︑そ馨って此処へ連れ
て来た︒さうして考へるには︑あの貧乏な療せ秀才にどうして無
突を訴へるやうな真似が出来ようと︒剖斗引料剥凶升封鎖倒対日
制
寸掛端科副硯民同刻引捌
U
1 4
嗣リ寸側剥封蝋刻升引縦割劇り
対叫ーまた料らずも襲接試それを準許にな号︑刑部令して審問させ
られること︑一時に悲となり︑もういい加減に弥織することがで きなくなり︑仕方会く韓悪夫棄を⁝緒に奪って来てこの養関堂の内に離し︑さうして事の証跡を絶とうとした︒けれども必樹封諦観
樹叫
U寸
1
初めはまた専ら入に感附かれることを恐れ︑隠し場を変
へよ
うと
考へ
てゐ
た︒
︵毘
西三
頁!
四回
関東
︶
改訳ニぜて元来大央侠は一待の静輿から韓僻舶の娘を器にさらって
来たが︑それも韓慮は貧乏秀才のことだから訴へ出て菟をはらす
櫛も有るまいと患ってゐた︒計斗引料餅傾剥洲制対針補者社寸寸
刻対可制対出丘嵩斗寸輔刻リ対舛 iそれがまた案外に御聴許になっ
て荊部に審問を命ぜられた︒一時に事が急になって来て︑うまく
顎りぬけやうがない︒ぜひなく韓慮夫妻も一緒にかっさらって来
て︑この養閑散の内に壁まひ︑その行衡を分らなくしておいて︑
規寸寸
H
輯リ寸削鯛副制鰻索叫語調剖U
対1
初?フちはそれでもま だ 入 に 覚 ら れ る こ と を 恐 れ て
︑ へ よ う と 患 っ た の で あ
る︒
︿一
五三
頁︶
原典では︑大夫換が韓湘弦をさらったため︑鉄御史誌上書して
大夫侯を弾劾したが︑大夫侯は韓湘弦の一興親を捕まえ︑証拠を露
藤紘した上で︑上書してき分の無実を主張した︒原典における﹁鵠
轍いとは︑悪事をした入が︑それを認めず︑無実を主張するとい
う意
味で
ある
︒
改訳で辻︑原典に剛山実に離京しているが︑初訳では︑鉄御史が
大夫長を弾劾するのではなく︑大夫侯が﹁御史な弾離する論を参
じた﹂としているのは逆である︒一方で︑初釈における﹁上競を
空頼みにして﹂という訳文から︑原典ぬアよ琉胡頼﹂における﹁胡
頼﹂という言葉の意味は佐藤春夫が分らなかったと伺われる︒
咋4
原典一﹁此乃自治家人︑何関朝廷種法?既有旨議事︑:::﹂闘叫刻
刈樹剥﹃謝斜引欄倒
1
正要再開︑韓願早在階下械叫道︒︵六三頁︶初訳二これは自分で家の者を取締ってゐるところぢや︑朝廷の礼
法に何の関係があらう︒既に聖旨がありそれによって事を取計ら
って
居る
のぢ
や︒
﹂
さうして剖倒例制叫引例劃副剖矧寸寸刻剖剖村山川剖
U
対ォ側斜刊同引制針矧
U
出制
叶
i更に質問をつづけようとした︒そのとき韓
慮は庭前から叫んだのである︒︵四四五頁︶
改訳二此は俺が自身︑家来の者を取調べてをるのだ︒朝廷の礼法
に関はることではありません︒聖旨がお有りだと言ふのであるか
らその事を御相談いたさねばならん﹂
そこで調剰叫輔劇剖列封寸寸伺料剖品川引札
U
剖ォ側斜引岡引制剖剥剖引叶割削寸︑正に再び尋ねようとした時︑韓慮は既に階下
に在ってわめき叫ぶのであった︒︵一五四頁︶
大夫侯は娘の韓湘弦との結婚を許してもらうため︑父の韓宙船を
拷問している︒私刑は朝廷の法律に違反するので︑それを突然に
やって来た鉄中玉にばれないように︑家来に韓慮を連れて行かせ
たという場面である︒改訳では正しく翻訳しているが︑初訳では︑
韓慮を連れて行くのではなく︑聖旨を持ってくるように︑﹁召使の
者にその聖旨を持って来させようとした﹂と誤訳している︒
︒ ︒
原典い﹁若果有聖旨︑不妨開讃;倫係読調︑定獲重罪︒慎陪慨同慎
惰い除同慎陥
r
除快 憶障 陛剛
r
待我等血︿徐消稗︑或者還可荷全性命︒若侍強力︑全猿暁嚇︑希薗逃走︑只伯伽身入重地︑描麹・也難
飛去︒﹂銭公子微笑一一笑説道一﹁我要去︑亦有何難?但此時尚早︑
且除憧僚庁陸憎い陰陰げは陶い情怯他保健い叶︵六七頁︶
初訳日﹁果して聖旨があるなら読んで貰ひたい︒もしそれが詐り言
なら必ず重罪を得るだらう︒期調引料吋闘謝叫刻川剖同寸剖引鮒
ぺ剖
dH
料出謝料刻引刷1則刻劇制叫倒例対同伺寸寸制調U
謝矧
叫制
リ剖
伺ベ
叶
lそうすれば命だけはやっと全うするだらう︒若し
強ひて嚇し文句を並べて逃走を企らむなら︑貴様の身は進退谷り
翼が生えるとも飛ぴ去ることは出来なくなるだらう︒﹂
鉄公子は﹁吾輩が逃げようと思へばまたどうしてむづかしいこ
とであらう︒けれども今︑時期がそれには尚ほ早い︒リ同引
d
矧寸寸寸利1
劃副
創出
副詞
U
割刈剖欄ベ引料引引制料引溺叶寸伺寸1
寸叫謝叶同制引制川J
︵四
四七
頁︶
改訳日﹁若し果して聖旨が有るなら読むに差支はないが︑万一虚言
だと必ず重罪を蒙るぞ︒引料利引副鎖倒吋制
U
叶剥制刻刻剰斗寸1
劇科叫岡制同制創刊叶寸割判例同痢ぺ剖伺寸刻科判川叶 l或はまた
生命が助かるかも知れん︒若し飽く迄強顔に嚇しつけて︑逃げ出
さうと思ふと︑恐らくお前さんの立場はむづかしくなって来て︑
ぢたばたしてもあがきのつかんことになりはせんのかな﹂
鉄公子は笑って︑言った︒
﹁私は此の場を立ち去らうと思へばそれもわけはないのです︒た
だ︑今はまだ早い︒刻対割出同剖謝刈可ぺ刻刻槻べ寸
U
判 吋
寸
そ科がら対ちー習っても遍くはありま剖んがらない︿
五七
頁﹀
もし襲習がなければ︑真実な事構を白状し︑本当の名前を名乗
り︑一践をさげて謝ったほうがいいと倹佑たちが鉄中玉に言ってい
るのが原典での設定である︒改訳における﹁目算を治状し﹂とい
う訳文は原典におけるぷ抗出真情﹂を正確に訳出したものである︒
それに対して︑初釈では︑﹁真実それに鶴港ひないとはっきち諌べ
ることが出来ぬなら試﹂として︑百定︿出来ぬ﹀十仮説︵ならば︶
に変えられている︒改訳で一不したように︑原典における﹁英若い
という言葉は﹁それより:ほうがいい﹂という意味合いである︒
一方で︑﹁莫﹂とはそれぞれ否定と仮説を表すので︑初訳で は︑﹁莫若﹂とい﹁出来︑ぬならば﹂と誤解したのではない
カと
掌 全 了 人 犯
︐ に お け る
﹁ 去
﹂
るという意味である︒改訳ではそれを正しく訳してい
るが︑初訳では︑﹁逃げ﹂るとしている︒
また
︑
樹
原典一推嘗讃宛
γ
盟皆︑簸御史欝過思︑倒立総身︑欲監︿衆侯伯相見︒阿擁衆侯佑轄見宣讃聖回皆︑知道大央侠事巴敗露︑完走一倍乾
滞︒
会ハ
九真
︶
初訳日推官は聖蓄を読み終った︒鉄御史は天恩の席きを難し︑判明
吋身を起こして倭飴たちと相見えようと患った︒側斜叫
侯佑た
u m
ち は 聖 旨 の 震 離 を き き
︑ 大 夫 侯 の 悪 事 が の を 知 り
︑
遂に逃げ出し︑ひっそり関とし︑数多の家撲はみな次第に姿をか
くしてしまった︒︵器密入頁﹀
改訳二推官は聖旨を読み7った︒鉄御史は天窓を感謝して︑制剖
身を記こして︑数多の大名たちと挨拶しようとした︒計斗引科大
名たちは襲皆の賞統を開いて︑大夫侯の悪事の既に失敗し露顕し
たことを知号︑とうとう一人残らず締麗に滞げ出してしまってみ
た︒︿五入賞﹀
原典では︑譲旨が読まれた後︑鉄鐸史は侯拍たちに挨拶しよう
としたが︑侯伯たちが既に逃げ去ってしまったという設定であり︑
震典における﹁忙いとは叶急いで﹂︑﹁慌てていという意味合いで
ある︒改訳では︑それを﹁急︑ぎ﹂と正磁に訳しているが︑初訳で
は︑﹁懇に﹂としているのは正しくないと思われる︒
一方で︑﹁不期﹂という一車葉は︑吋計らず﹂また誌逆接関m
械を
表
︑ず雷葉に訳したほうがいいと思われる︒改訳で︑﹁ところがいと訳
しているのは妥当であるが︑初訳では︑それを﹁偶然にも﹂とし
ているのは正確で誌記いと言わざる安得ない︒
品
w
h u
− 原典一一織御史去後︑大夫侯歎持推官︑制托擢糞親友︑私行賄賂︑
務用
部輿
・内
関去
打黙
︑希
醸競
罪不
題︒
︵七
一一
員︶
初訳一鉄御史の去った後︑大夫侯は推官を款待し︑その開に剥叫
権勢があり高賓の地位に農る友人に託し︑秘に賄賂を贈り刑部と
内閣とに行って運動してもらび罪を説れようと闘った︒︵密五
O
改訳日鉄御史が去った後︑大夫侯は推官をもてなして︑創川寸権
勢のあり︑身分の高い親友に頼み︑ひそかに賄賂をつかつて︑刑
部と内閣へうまくこしらへさせて︑罪を脱れようと計画するので
あった︒ご六
O
頁 ︶
原典におけるよどという言葉は前項︵倒︶の﹁忙﹂と同じく︑
﹁急︑ぎ﹂という意味合いである︒改訳では︑それを正確に翻訳し
てい
るが
︑初
訳で
は︑
﹁急
に﹂
とし
て︑
文脈
を混
乱さ
せて
しま
った
︒
つまり︑初訳において︑原典の﹁急﹂という言葉を正確に理解で
きな
かっ
た︒
AH﹃
hu uF
原典
日一
却説
刑部
雄受
了大
夫侯
的嘱
託︑
倒1村割問伺刷調︒︵七二頁︶
初訳一さて刑部は大央侯からの運動をうけたけれども︑市も刑制
科副樹鋼刈剖割問刻州寸同制
q
割樹刷制刻り刑制例制吋料対U
剖覇倒問料引ォ叶劇同制叫寸刊剣対刻倒剖刷調利引料問叫同伺料州制
い︒
︵四
五
O頁 ︶
改訳υさて一方刑部では大夫侯からの運動を受けたけれども︑然
し側叫刈刻剖矧ベ同剖刻州寸剖叶叶剖科副外側倒叫け剖
U
剖引
ud
到引利引剖斗引司刻刻料引
1 4
叫﹄刊剣叫州制刻材叫同州け︐料材
対寸討寸三六
O頁 ︶
却因本院捉人不出︑謝料刷
刑部は大夫侯の頼みを受けたが︑彼を庇うことができなかった︒
その原因は前の﹁刑部の人達も彼の頼みを受けてさして追究もし ないどころか︑反って鉄英を牢に入れてしまった﹂︵一五三頁︶という点にある︒つまり︑悪人の大央侯を既に一一回庇ったので︑悪事が発覚してこれ以上庇護できなくなった︒改訳では︑それを正確に−訳しているが︑初訳で︑その原因を﹁刑部が産接罪人を挙げたのではなく事情止むなく刑部の手にわたした事件だ﹂としているのは原典との相違が明らかである︒
ω
原典一銭公子到了家中︑不期大名府也壷知鎌公子打入養関堂︑救出韓願湘弦之事︒又見銭御史升了都察院︑不濁槻依殿勤︑連府豚也十分
尊仰
︒︵
七四
頁︶
初訳一鉄公子は家に着いた︒意外にも故郷の大名府では皆が鉄公
子が養間堂に打ち入り韓湘絃を救ひ出した事を知ってゐた︒文鉄
御史が都察院に陸されたことも知れてゐて独り鉄公子の劇刻劃が
歓迎したのみならず︑府県の役所からさへも大に尊仰された︒︵四
五一
頁︶
改訳一鉄公子は家郷に帰った︒ところがこの大名府でも皆鉄公子
が養閑堂に乗り込んで︑韓湘絃を救ひ出した事を知ってゐた︒ま
た鉄御史が都察院に陸任したことも知ってゐる︒剰劇胴刻が親切
にするだけではない︒府県の役人達までも極めて敬意をはらって
来る
︒︵
一六
二頁
︶
中国語における
にお
ける
﹁親
友﹂
含ま
れて
いな
い︒
﹁親友﹂とは︑親類と友達を指す一方︑日本語
とは最も親しい友達であり︑親類という意味が
改訳における﹁親戚朋友﹂という訳文は原典に
忠 実 で あ る が
︑ 初 釈 で は
︑ 震 典 の 中 国 語 の を 文 字 通 り に 踏襲し︑仇いと訳しており︑訳者は﹁親という言葉におけ る
︑ 昌 本 語 と の 関 の 拐 選 会 知 ら な か っ た の で は な い か
︒ 総じて言えば︑初訳には︑鱗訳が散見するが︑改訳でそれ
らの誤訳が産されており︑原典に忠実である︒初訳における誤訳
の京国はニつ挙げられると思われるJ
つは
︑初
訳当
時︿
昭和
三年
︶︑
投藤春夫の中国文化への理解はそれほど深くなかったことである︒
明の
3m
朝﹂を﹁宋の時代﹂と誤解したり︑原典における﹁生員い
を﹁文雷試験の及第者﹂と誤解したりしたのはその倒であろう︒
いま一つ註初訳当時︑佐藤藤夫の白話の読解力が低かったことで
ある︒原典の﹁好議依﹂の文体は古代の文語と現代鰭が議じって
いる白話であ号︑撰文力を持っている佐藤藤夫にとって︑文語は
読みやすいが︑現代語の部分は読みづらかったであろう︒そのた
めに︑原典における﹁韻頼﹂︑﹁急円ぶごなどの現代読閉会理解で
きなかったと思われる︒一方で︑初訳とほ廷詞じ時期に翻訳され
た﹁平妖伝﹂︿﹃世界大衆文学金集﹄第二五巻改造社昭和四年
一二足﹀の謀典も白話文体であり︑その訳文に﹁砦議結﹂における
それと関じような鱗訳が見られる︵詮3﹀のも佐藤審夫の当時の中
国文化への理解カと中国白話への読解カの程度を裏付けていると
思われる︒つまり︑初訳と政訳との鶴に見られる桔違の由来は︑
中村
一一
一代
苛の
指擁
した
性藤
和夫
の鶴
訳﹁
態度
﹂の
相違
では
なく
︑
翻訳当時の披の中語文化の理解カと白話の読解カの相漉であると
悪わ
れる
︒
一︑
連載
の中
止と
改訳
の動
機
先に述べたように︑初訳は吋苦楽﹄という雑誌の第七場第ニ号
︵一
九ニ
入年
二月
﹀︑
第一
一一
号︿
一九
二八
年三
月﹀
と第
題号
︵一
九二
八年
四月
﹀に
一一
一回
しか
連載
され
てい
九怖
い︒
初献
の第
一屈
の冒
頭に
おける︑佐藤春夫による序文にご︸の仕事に就いては増田渉君が
勉学の時間を欝いて助力をしてくれる︒記して感謝するJ
︿ 四 一
一一良︶という断りが為る︒一方で︑増田渉は﹁往藤春夫と勢迅﹂
で︑次のように部課している︒
窓はやがて佐藤氏の中富小説翻訳の下訳者したち︑必要な資
料をさがして提供したりするようじなった︒︵中絡む付額による﹀
翻訳でやや大きいものは改造設﹃世界大衆文学金集﹄に入った
吋平妖缶﹄で︑これは殿様紙にして千枚くらいはあったと患う
が︑私は毎月︑百枚くらいずつ訳して佐藤氏のところ比持って
行った︒ほかに叫好逮伝﹄を−訳したが︑は乙めの部分だけに経
わった︒叫苦楽﹄という雑誌に一︑ニ部出たように思うが︑雑誌
がつぶれて︑そのままになったからだ︒︿増間渉﹁佐藤春夫と番
恐
﹂
︑
﹃ 盟 書
﹄ 第 一 七 九 六 四 年 七 月
︑ 三
O頁 ︒
﹀ 増 田 捗 は 雑 誌 に 連 載 さ れ た
﹁ 好 迷
i
一名︑挟義風月伝伝1
い︑
即ち
本棋
にお
ける
初訳
の下
訳を
行な
った
こと
が分
る︒
また
︑
の原菌詰雑誌﹃苦楽﹄の廃刊にあると︑増田渉は考えて
ト ン
いる︒雑誌吋苦楽﹄については︑内モダニズム出版社の光芭
i
ブラ
の一
九二
0年代hで次のように述べられている︒
軍 一 回 楽
bは大正二一一︿一九二四﹀年一月に鎖刊され︑昭和三
︵一九ニ入︶年五月に廃刊と怠るまで︑全七巻五五器︑が発刊さ
れている︒中山太揚堂社史﹃クラブコスメチックス八O年史h
で試その療刊を昭和二年一一一ロバとしたため︑それが通説となっ
ているが︑調査の結果︑叫女性恥と鰐じく額制当制到別寸創世川被
観到端科料刊新司剖新ことが分った︒叫女性﹄も宇一嘉歪も伺の
前触れもなく︑連載ものは途中で断ち切れたままに終わってい
るので終刊号は判然とし沿いのだが︑際係者の記述などを総合
すると︑一向雑誌とも昭和三年五月号が最終であることに間違い
はな
い︒
︿小
野高
硲・
西村
品品
川香
・境
問地
豊造
?で
ダニ
ズム
出版
社の
光吉
i
プラトン社の九二
0年代﹄︑淡交社︑平成二年六月︑
一五
六一
員︒
︶
つまり︑初訳の第三回は第七巻第四号に摺掲載されている方︑
次号の第七巻第五号は終刊号になるため︑連載の中止は雑誌の捺
刊に原関するという増田渉の発言は妥当なように克えるが︑再考
の余地がLあ
ると
患わ
れる
︒
吋苦楽﹄第七巻第怒号に搭載された初訳の第三由の末島北﹁つ£
くい︿四五⁝頁︶という断りがある︒一方で︑次号の叫苦楽﹄第七
巻第五号︵一九人年五月︑終刊号﹀吋耀集後記いに次のように書
いて
ある
︒
中村武羅夫氏の﹃地獄の諾嫁句加藤武雄氏の﹃面影﹄共に傘
よ本舞台に入号︑白石実三氏の﹃瀧夜叉姫物語恥は来月号より
は続篇﹃相馬古脅所﹄として︑議を新たにして続稿さる﹀筈で
すか
ら膳
一一
題御
期持
下さ
いま
し︒
牧逸罵氏の叫自仙境加は本号を以て大好務提に完結を告︑げま
した︒民媛剥割引凶封劇樹対馬吋吋耕謝圏外村韻河端輔副
剰制
対寸
対顎
廿利
品守
︿吋
苦楽
﹄第
七巻
第五
号︑
一九
二八
年五
月︑
三八
O真 ︒
︶ 初 訳 の 連 載 中 止 は 増 田 渉 の 指 擁 し た よ う に
︑ の 廃 刊 に 原
関するならば︑終宵号の第七巻第五号には︑﹁只残念なことは佐藤
審夫誌の叫好逮縛恥が本誌に掲載出来なかった事ですよという連
載中止の知らせではなく︑初訳のつづき︿第茜回︶が掲載される
はずであろう︒つまり︑増田渉の発設はそのまま信じることが出
来な
い︒
一方で︑雑誌吋苦楽﹄の終判号の第七巻第五号には連載中止の
知らせは見えるが︑中止の原四については替及されていない︒そ
のため︑初訳の連載中止の原因について検討する余地がまだある
と思われるが︑残念なことに︑佐藤春夫の随筆︑年譜や書簡など
を調べたけれども︑手がかりは見つからなかった︒
一方で︑初訳の第思の冒頭に次の文がある︒
これは明の時代の世態を播いた支部の長篇小説である︒刻顕
でも観ゴ刻引などとも制制ら料て附ゐるが︑閣内でよりも舗つ
寸劇州説爵叶樹嘱割判制謝挺鎖倒斜闘同封判明利コ設額制調刻
域射訓計開パ寸訓話︒題名の意は詩経の窃寵タル淑女ハ君子ノ
好惑から出たのは申すまでもない︒十八問︑約七宮枚︑今年一
ばい
かか
るだ
らう
︒︿
四一
一二
こういった雷及から︑佐藤帯夫が中国の﹁好逮伝﹂を最拐に︵一
九二八年﹀翻訳した動機がむかると思われる︒つまり︑﹁好遺伝い
は中国で有名明︑ある一方︑欧州で持て嫌されている︒しかし︑持
本語訳には萩原広道の﹁溜俗好逮伝﹂︿⁝七草九年︶があるが︑そ
れは﹁好逮伝﹂︿金十八思︶の第五阻までの翻訳で︑全訳ではない︒
それまで︑まだ全訳のなかった﹁好議伝﹂を訳して︑日本の読者
に紹分するのが佐譲春夫の詩的ではなかったか︒
しかし︑荷らかの原菌で初訳の中止を余犠なくされたため︑﹁好
議伝﹂を日本の読者に紹分するという目的を遺戒できなかった︒
後にご九四二年てこの冒的を達成させるために︑﹁好議蕊﹂を
もう一度額訳したのではないか︒
結び
初訳仁は︑誤訳が散見する︒例えば︑原典の物語の時代設定が
一郊の時代であるのに対して︑初訳では︑﹁宋の時代﹂と誤訳してお
号︑原典におけるぷ止︑﹁不期﹂はそれぞれ﹁急いでい︑﹁ところ
がいという意味合いであるが︑務訳では︑それを﹁急に﹂︑ぷ判然
に も
﹂ て い る
︒ 改 訳 で は
︑ こ れ ら の 誤 訳 は 正 確 に
議されている︒換言すれば︑初訳には誤訳が多く見られるのに対
して︑改釈は原典に忠実であると一宮悶える︒初訳と改訳の間に見ら
れるこういった持議の由来︑部ち初訳における誤訳の由来は︑拐
訳当時の佐藤春夫の中国文化の理解カと白話の読解力の不足にあ
ると
思わ
れる
︒
︷注
記︸
︵ 注
1﹀
叫ゆ
え本
佐藤
春夫
全集
﹄第
三十
一
十一
一丹
︑四
二題
頁︒
︵ 注
2︶本織では︑初訳の﹁好速長!一名︑侠義思月伝
i
いと改訳の﹁好逮訟﹂に関する引用は街れも﹃定本佐藤春夫全
集﹄
第一
一一
十ニ
巻︵
臨川
議清
一九
九九
年十
二月
︶に
拠り
︑
以下は貰数だけ在京す︒
︵ 詮
3﹀繰文宏明佐藤容夫と中国吉典
i
美意識の受容と展開i b
和 泉 書 店 一
O
一語
年九
月︒
臨川
書店
︑
九九九年
︷付
記山
本論
文法
一
O
入年度景徳鎮市社会科学計蹄課題﹁清代小悦︽好逮侍︾的経典化研究
i
以其主題外的侍播方視角﹂の研究成果
であ
る︒