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山一十九八七六五 四三二 一 a & a 〟/ ′ -∼ ・ ・ 一﹃芭蕉翁絵詞伝﹄ の性格 (上)
は I や し め に 書 誌 基本的性格 構成と方法 第二部の性格 第 1 部 の 性 格 第三部の性格 絵をめぐって 制作の過程 稿本のこと 板本のこと む す び - 宗祖の絵伝 - 作品で綴る芭蕉伝 - 旅の生涯 1義と情の人 (以上'本号掲載) 1 宗 祖 の 終 幕 . l は じ め に 本稿は'義仲寺の寺宝である蝶夢自筆の﹃芭蕉翁絵詞伝﹄について解 説し'その性格を明らかにしようとするものである。 京 の 文 人 僧 で あ る 五 升 庵 煤 夢 ( 議 一 I l l 諸 肌 五 ) は ' 絵 師 狩 野 正 栄 に 田 中 道 雄 ︹研究紀要 第二九巻)田
中
道
雄
二九七七年十月二二日受理) 依頼して芭蕉の生涯を描かしめ'絵詞にはみずから筆を揮って、寛政四 年(隻)十月十二日,これを義仲寺に奉納した.その趣意は'政文に も記すとおり'もって芭蕉百回忌追遠事業の7と覆すところにあ-'煤 夢畢生の事業であったと思われる。たとえば'宙回忌の記念事業であ-をがら寛政五年を待たず'その前年の忌日に奉納されたのはなぜであろ うか。蝶夢は'自筆本完成後直ちにその坂本化を図-'翌五年の四月井 口菊二の板下浄書'五月には富田催武の絵図縮写が終了した。このこと から考えると'すべてが当初に立案され'年次計画の下'寛政五年をめ ざして進行していたとの想像も可能で、自筆本と板本とを合わせて一つ とするへ その事業の大きさがしのばれるのである。 ところで我々は'すでに二百年近い歳月を経た本書に'芭蕉伝記とし ていか覆る意義を見出せるのであろうか。それはともか-として'本書 の板本が江戸期にか夜-広範に流布したことへ 引き続き明治以降にもし ばしば活字翻刻されたことを思うと'本書が長期にわたって芭蕉伝の代 表作とみ覆されて来た事実だけは'まず認めざるを得ないのである.今 試 み に 、 本 書 の 活 字 翻 刻 本 を 次 に 掲 げ て み る . ( 無 印 に は 絵 図 も 収 め る 。 ) 袖 珍 名 著 文 庫 ・ 1 ※俳譜叢書・芭蕉翁全集冨
山
房
明
治
3
6
年
博文館 大正5年
一 〇 三田中道雄︹研究紀要第二九巻︺ 校訂標註芭蕉文庫・12春陽堂大正14年 新型名著文庫・6冨山房大正15年 持日本名著全集・芭蕉全集同刊行会昭和4年 ※冨山房百科文庫・3 6冨山房昭和1 3年 俳譜叢書・日本名著全集が当時の有力を叢書であること'二極の名著文 庫がしばしば増刷されたことに注意するをら'昭和初年まで本書に対チ る高い評価が持続Lt俳譜愛好者・一般読書人に探-鯵透して行った事 実を察し得よう。そして'かようを受容史を踏まえる時'現代人の胸底 の芭蕉像にも深-かかわるものがある'とする本書への認識が許される ことに覆ろう. 因みに'冨山房刊の三種の翻刻は'すべて幸田露伴の校訂によ-'露 伴の次の解題を伴っていた. 芭蕉翁絵詞伝三巻は'煤夢、これが文を摸し'至倍'これが画を 作して成れるもの覆り.文情瓢逸、画意瀞酒'共に能-蕉翁を伝ふ るに足るの故を以て'世の蕉翁を景慕するもの'清談の余'雅語の 末'説いて蝶夢が絵詞伝に及ぼさゞること無し。蓋し蝶夢が蕉翁杏 尊崇するの情の真をる'意の誠をる'発して其の筆端に盗れ'椿義 に満つるあるに因らずんばあらざるを-.其の絵詞伝を撰するに至 れる始末の如きは'蝶夢自ら之を記して巻末に付せ-.読者就いて 覧て'其の存心敦厚のところを知-、併せて絵詞伝の世に科せらる ∼所以を知るべし。 煤夢は蓋し塵外の人。京都寺町帰日院の住職を-さといふ。-︰・ (中略)--冨山房主人蝶夢の芭蕉翁絵詞伝を新刊するに当-'これを害して 以て題す。 一 〇 四 露伴の芭蕉研究および啓発の功は、いまさら鏡舌するまでもあるまい. ヽヽ その露伴の極めを得た芭蕉伝の古典として'本書は江湖に迎えられたの で あ っ た 。 しかるにt か-世に知られた本書も'右の数種の翻刻から'芸州堂出 版部による昭和二十二年刊行の複製本に至るまでへ すべて坂本を底本と したものであった。蝶夢自筆の原本(以下'板本と区別して原本と称す る) が'長-義仲寺を離れ、人々の眼から遠ざかっていたためである. その幻の原本は'義仲寺の昭和再建を機に'ふたたび義仲寺へ帰って来 た の で あ る 。 こ 書 誌 本書の内容は、いうまでもを-芭蕉の伝記である。その詳細を検討の 前に'本書の書誌を記してお-ことにする。 社団法人義仲寺史蹟保存会蔵。 巻 子 本 三 巻 。 寸法 上巻 紙高 三七・八珊 中 巻 〃 三 七 ・ 八 伽 下 巻 〝 三 七 ・ 九 珊 全 長 一 一 八 九 ・ 一 俳 〝 一 二 六 三 ・ 二 俳 〃 一五四七・七α ‖ ー 亀 -i ' ワ リ . I . ・ , ∫ 明治発卯一月 幸田露伴 用紙 鳥の子紙。紙背は金粉蒔地。 巻 端 外 面 は 紺 地 鍛 子 織 絹 布 ' 岡 本 保 考 筆 「 粟 」 「 津 」 「 文 」 「 庫 」 の 四字と松葉模様を散らして織-込む。内面は銀切箔散らし金 紙貼り。濃緑色平打紐付き。 題答 金地茶色横縞模様人-の絹布に'佐竹重威筆で 「芭蕉翁絵詞 伝 上 ( 中 ・ 下 ) L と 記 す 。 寸法 上巻 横 五・六伽 縦 二〇・八α
中巻 横 五・四α 縦 二〇・八α 下巻 〃 五・五α 〃 二〇・九∽ 内題 なし。 巻 軸 黒 檀 製 。 箱笹 漆溜塗-に金泥文字高蒔絵で「芭蕉翁絵詞伝 三巻」(佐竹重 威筆) と記す内箱'桐作-の外箱による二重箱人。 す 箱 書 ( 竹 村 方 壷 筆 ) は 次 の 通 -0 蓋 の 表 面 「江州粟津義仲寺什物 外箱に記 冠 蘭 B 3 S 3 古帆 詞 書 作 者 ・ 筆 者 絵 点数 上巻 中巻 下巻 其川 東走 依今 伊勢薙道 南花 肥後椅石 煤 夢 幻 阿 弥 陀 仏 。 九葉 一三葉 --一一葉 計三三葉 L 芭蕉翁絵詞伝 三巻 外 題 並 箱 書 記 巻物表紙抽入之文字 寛政五年発丑十月 身の内底面 佐竹入道前審博士甲州前司重威 番博 士 甲斐 守保考書 方壷通人源明誌 」 筆 者 狩 野 正 栄 至 信 。 各 巻 尾 に 「 絵 法 橋 狩 野 正 栄 至 信 ( 花 押 ) L の 署 名 あ -0 政文 寛政四年十月十二日'蝶夢幻阿弥陀仏白蚊。 識 語 下 巻 の 奥 に ' 「 堂 主 重 厚 ( 花 押 ) 」 と あ り 。 以上のごと-であるが'ついでに板本の書誌も記しておこう. 冊子本 大本三冊。 表 紙 紺 色 布 目 入 ' 「 栗 」 「 津 L 「 文 L 「 庫 」 の 四 字 と 松 葉 模 様 を 散 ら 「 陸奥素郷 指鴻 陶々 素来 寛洲 柳美 江戸成美 上野素輪 遠江方壷 斗六 是月 柳也 自絡 ( マ マ ) 絵伝檀越名緑 飛 美 近 野 浪 江 歩(歌竹蘭 曽里芦塘素谷月 黄得 嚇;夕母戸秋秋水里見水川 治 々 ヽ■ 伊賀呉川 底中 播磨寒鴻 社中 備前可也 備中李山 文里 備後音声 SE 風葉 #s 但馬髭風 野弓 鷺橋 魚潜 皿茶 社中 丹後首尾 自児 木越 支官 讃 岐 触 芝 畔 筑前其両 梅珠 魯白 蝶酔 社中 豊後青容 菊男 杜由 日向五明 可笛 社中 京都都雀 志諺 致枝 丁 柱 内 題 数 刻 題 寮 した押形あ-0 中 央 無 辺 ' 褐 色 。 「 芭 蕉 翁 絵 詞 伝 上 ( 中 ・ 下 ) 」 0 な し 。 三 巻 全 丁 に 「 芭 蕉 翁 絵 詞 伝 L 。 巻 次 ・ 丁 付 を 示 さ ず 。 上巻 遊紙一丁 本文 二五丁 中 巻 〃 1 丁 〃 三 〇 丁 田 中 道. 雄 ︹ 研 究 紀 要 第 二 九 巻 ︺ 下巻 〃 1丁 〃 三一丁 詞書 板下筆者 井口保孝。下巻末に「寛政五年薬丑歳四月/湖 南 菊 二 井 口 保 孝 応 需 書 ( 保 孝 之 印 ) ( 東 離 主 人 ) 」 の 奥 書 あ り 。 絵 狩野正栄至信原画を'富田催武が縮写。下巻末に「発丑五月 写為/蝶夢師縮狩野正栄原図少有所改定云 田催武(花押)」 の奥書あ-.ー彩色せず濃淡の二墨を用いる.点数'原本に同 じ〇 一 〇 五
田 中 道 雄 (研究紀要 第二九巻︺
蚊文原本に同じ。
刊
記
「
蕉
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刊
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板本の制作に際して原本の趣きの再現が配慮されたことは'表紙の色や' 「 粟 」 「 津 」 「 文 」 「 庫 」 四 字 の 押 形 に も う か が え ' 巻 分 け も 三 巻 構 成 を 変 え て い を い 。三 基本的性格 - 宗祖の絵伝
本書の書籍としての性格を'ここでもう少し掘-下げてみよう。 蝶夢は'﹃草根発句集﹄の中で'「この年月ハ'丈六のあミだ仏を彫ま , 狂 -せ'芭蕉翁の絵詞伝を書しむ 」と記している.寛政四年歳暮吟の前 書であるが'ここにいう「芭蕉翁の絵詞伝」は書名ではあるまい.書名 は「ばしょうおうえことばでんLと「のしを抜いて読むべきと思われる からである.前書の言い方は'「絵詞伝」という普通名詞に「芭蕉翁の」 という限定を加えたのであって'ここに'煤夢の編纂意図が鮮かに示さ れ て い る . 「絵詞伝」というのは'鎌倉時代に始まる'絵巻形態の祖師伝につい て用いられた名称である.絵巻物の詞書を意味する「絵詞」という語が まずあり'それが転じて'「伴大納言絵詞」「蒙古襲来絵詞」のごと-' 絵巻を意味するように覆る.1万で仏教諸宗諸派の祖師伝の制作が相次 ぎ ' そ れ が 絵 巻 形 態 で あ っ た の で ' 「 法 然 上 人 絵 伝 」 「 1 遍 上 人 絵 詞 伝 」 をどと称されたのである.「絵伝L といい「絵詞伝Lといい'その意味 内容は同一であるが'「絵詞伝」 の方が'よ-実態に即した丁寧を用語 と言えるであろう。しかしここで何よ-も大切をことは'煤夢がその祖 師伝に用いる語を芭蕉伝に与え用いた点である。たまたま絵巻物の芭蕉 伝を制作した結果'これに相似た祖師伝の呼称を借-たのではを-'煤 一 〇 六 夢が最初から'芭蕉を祖師とみなし、それに相応しい伝記形態として袷 巻物に仕立て'かつ「絵詞伝」と呼んだことを'我々はここで確認して おかねばならないo 煤夢は'芭蕉について述べる時' ヽヽ 伏ておもふに'祖師芭蕉翁在世のむかしよ---0--祖翁の肖像 ヽ を安置し奉-・・・-.--これミ夜祖徳のいたすわざをるべし 。 ( 明 和 7 年 ・ 「 芭 蕉 堂 供 養 願 文 」 ) のように'宗祖と仰ぐ気持ちをあらわにするのが常だった。煤夢は'芭 蕉を正風俳譜の祖師とみをしていた。その認識こそ'彼の生涯を芭蕉の 崇敬と顕彰に捧げさせる熱情の源泉をのであった.このことを理解する には'煉夢が時宗系の浄土憎であった事実に'充分注意を払う必要があ る。煤夢は'あたかもその信仰において宗祖を仰ぐ態度で芭蕉を仰ぎ見 ようとし'同時に、蕉風俳譜を己が仏道にも及び得る精神性濃い文芸と 把握していた.時宗や浄土宗の念仏宗教団においては'宗祖への尊崇回 帰の念がことに強いとされるが'蝶夢は'1遍や法然の行状をしのぶと 琵二 等し-'芭蕉の求道の生涯を追慕したのである。ここに仏者蝶夢に独特 琵三 の芭蕉観が存するのであ-'煤夢が中世の諸作品に怒らって'芭蕉伝を 祖師伝形態に仕上げようとしたことは疑いをい.このことは'本書の基 本的性格として銘記しなければ怒らをい.四 構成と方法 - 作品で綴る芭蕉伝
ここで本書の内容検討に移るわけであるが、まずその手法面から眺め てみることにする。 本書を通読して得られる印象は'芭蕉の発句が多数挿入され'文章棉 成の単位区分は多-その発句を区切-とし'内容もその発句を中心に変 " い 重 い ︰ ゝ 、 = 蝣 ^ ア _ ト ト _ _ -1 玉 f 主 宰化展開して行-'このような形式をとるということである.したがって' 発句一句を含むそれぞれの段は'文章が長い場合は句を伴う俳文'短い 場合は前書を伴う発句t といった趣きに覆る.ただし'基本的にこのよ うを形式をとらぬ部分が二箇所ある.す夜わち冒頭と末尾で'芭蕉の出 自と出奔までを述べる部分と臨終・葬送を措-部分に当る。この二部分 が芭蕉の発句を含み得ぬのは当然であるが'各々を1段として見る怒ら' いずれも中間部分における各一段よ-かを-義-'煤夢がと-にカを注 いだ部分と想像される.今仮に'発句中心にまとめられた諸段 (つま-全体の大部分を占める中間部分) を一括して第二部'冒頭部・末尾部を それぞれ第一部・第三部と呼ぶことにしよう。本書の構成は'このよう に考えることができる。 次に'第二部について'その方法的特色を確めてみることにする。こ の部分を通読する我々は、既に記憶ある芭蕉の俳文や紀行に次々と出会 う思いを抱-。文体は勿論'措辞までも然-をのである。そこでわずか でも検討を加えると'いずれもの段が芭蕉作品を下敷きにしてか-'そ れを蝶夢が'あたかも自らの文のごと-に改変したものであることが明 らかになって-る。今筆者は'蝶夢が自らの文のごと-改変したと書い たが'蝶夢の本意が'不特定の伝記作者に芭蕉の生涯を語らせる形をと る - つまり第三者の叙述視点に立って資料作品の叙述形式を統一する ことにあったのは言うまでもない.実例について見るなら'たとえば奥 羽 に 旅 立 つ 部 分 が ' 立そむる霞のそらに白川の関こえむと'そゞろ神の物につき侍て心 を-るはせバ'とるものも手につかずt もゝひきの破れをつゞ-' 笠の緒つけかへて'松島の月まづ心にか∼る。曽良ハ常に軒をなら べて'薪水の労をたす-。こたび松しま・象塙の眺'ともにせむこ とを悦び'且は帝旅の難をいたはらんといふに'めしつれたまふと 田 中 道 雄 ︹研究紀要 第二九巻︺ や。 と あ る の は ' ﹃ 奥 の 細 道 ﹄ ( 煤 夢 本 ) の 冒 頭 部 か ら ' ● ● ● ● --春立る霞の空に白川の関こえんと'そゞろ神の物につきて心を 」 ^ ^ K ^ ^ E ^ V I ^ V I ^ B v ^ B ? ^ B I ^ B ! ^ H T ^ B I < -るはせ'道祖神のまね垂にあひて'取もの手につ⋮かずt も∼引の X X X X X X X X X 被をつゞ-'笠の緒付かえて'三里に灸すゆるより'松島の月先心 ● ● ● ● にか∼りて'--の部分を借-て一部を削除また改変L は改変部分t X x xは削 除 部 分 ) ' 同 じ -﹃ 奥 の 細 道 ﹄ 日 光 の 条 か ら ' X X X X X X X X X X X X X X X X X 曽良は河合氏にして惣五郎と云へり。芭蕉の下葉に軒を怒らべて' X X ● ● ● ● 予が薪水の労をたす-。このたび松しま・象潟の眺'共にせん事を X X X X X X X X 悦 び ' 且 は 覇 旅 の 難 を い た は ら ん と ' 旅 立 暁 ' 象 を 剃 て ' -・ ・ ・ の部分を取-出して同じ-削除・改変し、また語を加えたものである。 さらに注意探-比較すれば'「予がL が削られ'曽良の語「覇旅の難を いたはらん」に続いて'「といふに'めしつれたまふとやL が付加され たため'芭蕉の文章が'蝶夢の伝聞表現の文章へと見事に変貌する様が 見取れるであろう。本書にも勿論'国分山の段 (第㊥段) の冒頭部のよ うに'全-煤夢自身の文章から成る部分もある。しかしそれはきわめて 僅少で'ほとんどは芭蕉作品等に依拠した文章である。この事実はまた' 本書の本質的性格として認めねば覆らず'むしろそこに煤夢の積極的杏 意図を見出すべきであろう. t 蝶夢は'本書の政で進んでこのことに触れ'こう述べている. その詞は'翁のみづから書給ひし'又は其角がものせし終寓記'支 考が笈日記の類をもてつゞる。 煉 夢 は ' 芭 蕉 の 作 品 お よ び 「 芭 蕉 翁 終 蔦 記 し ( ﹃ 枯 尾 花 ﹄ 収 ) ﹃ 笈 日 記 ﹄ を 素材とLt それを綴-合わせる形で伝記を編もうと'始めから意図した のであった.蝶夢は'自らの文章を用いることを'可能を限り自制した OV
田 中 道 雄 ︹研究紀要 第二九巻︺ のである。芭蕉自らの文章をして芭蕉の生涯を語らしめむとする蝶夢の 方法に'我々は'古典享受に際して原典を尊重しようとする古学的態皮 を見るのであるが'それ以上に重要をのは、煤夢の芭蕉作品に対する' 信仰的とも言える愛着尊崇の念では夜かろうか。芭蕉の生命をはらむ過 作の語をもってしか'躍動的な芭蕉伝を成し得ぬ'ましてや私言葉を加 えてその純粋を振ってはならぬ'煤夢はこう考えたのでは夜かろうか0 芭蕉作品の名作を鑑賞しっつその生涯を辿る伝記を企てたのであり'板 本刊行に際しても'名作中の名文を熟読玩味して進む読み方を読者に期 待していたのである。蝶夢等の努力によ-'芭蕉作品はかを-集成・刊 行されてはいたが'未だ普及は不充分を時代である。本書第二部は'芭 蕉全集ダイジェスト版といった性格をも備えていた、ということにをろ 一 〇 八 う か 。 同様のことは第一部・第三部についても言える.この二部の本文もま た'﹃枯尾花﹄ 等の元禄期の伝記資料やその他の古典に依拠するのであ る。このようをわけで本書は'蝶夢が古典的価値を認めた書物の一章一 段を寄せ集め'これを綴-合わせて編んだ芭蕉伝ということになる.そ うすると我々にとっては'各段がどの作品のどの部分に依拠するかを確 めることがまず必要に覆ろう。次の第一表は'この各段の出典を明らか にするために作成したものである.御覧いただいた上で'次章に進むこ とにしよう。(各段には番号と名称とを、各発句と各絵には番号を'私 に 与 え た 。 )
第一表 ﹃芭 蕉 翁 絵 詞 伝﹄ 諸 段 出 典一覧 表
m 段 内 容御
敗
納
駒
絵
番
号
本
文
の
出
典
(
請
謂
贈
)
韻
語
童
備 考 ⑪⑲⑨⑧⑦⑥ ⑨④⑧⑧① 芭蕉翁の出自。 家族と出仕のこと。 伊賀上野出奔のこと。 消 息 を 絶 つ こ と 。 深川庵に芭蕉を栽えること。 笠貼りのこと。 大赦和尚の本卦占い。 天 和 の 火 難 。 貞 享 元 年 春 、 幾 霜 に の 句 。 富 士 川 の 捨 子 。 菅野とくくの清水。 6 ll 2 5 9 15 7 3 9 1245 〝 〝 〝 〝 〝 〝 〝 〝 〝 〝 行 6 5 4 3 2 二 文集・芭蕉を移す詞 (-板本三日月日記) 三 文 集 ・ 笠 張 の 説 ( -和 漢 文 挟 ) 枯尾花 四 〃 五 文 集 ・ 甲 子 吟 行 ( -泊 船 集 ) 〃 ● 〃 ◎◎○ 芭蕉を贈られたのは天和元年春。芭蕉を移す辞は'元線 五年に成る再興の辞。句は天和元年成。 笠張の句文'初稿は天和初年成。 枯尾花はこの段を⑧段の後に置き'板本もこれに従う。 天和二年十二月の事件。 この句'正し-は貞事三年成。 この段、甲子吟行が⑲段の後に置くを改む。⑰ ⑲⑯⑲⑲⑲ ㊨ ⑳ ⑳㊨⑳⑩⑲ 伊勢西行谷の芋洗う女。 帰郷と母の白髪。 貞 享 二 年 春 ' 誰 聾 ぞ の 句 。 二月堂お水取り。 近 江 唐 崎 の 松 。 江戸帰庵と名月やの句。 ︹ ⑳ 名 月 や の 句 。 ︺ 貞 享 三 年 春 ' 古 池 や の 句 。 雪 の 夕 ' 米 買 い の 句 。 貞 享 四 年 春 ' 花 の 雲 の 句 。 鹿 島 行 ' 寺 に 寝 て の 句 。 江 戸 出 立 ' 旅 人 と の 句 。 杖 突 坂 の 落 馬 。 帰郷と膳の緒の句。 (中 1 1 1 6 2 〝 〝 〝 〝 〝 〝 72 ll 10 9 8 7 12 六 七 〝 〝 〝 〝 〝 〝 〝 〝 〝 〝 〝 〝 2 5 2 4 1 〟 〟 〟 〟 〟 〟 〟 19 18 17 16 15 1413 八 九 人 文 集 ・ 鹿 島 紀 行 ( -秋 瓜 本 鹿 島 詣 -) 文 集 ・ 卯 辰 紀 行 ( I 乙 州 本 笈 の 小 文 ) 〃 。 〃 芭 蕉 翁 発 句 集 詞 書 ( -笈 日 記 ) 一-′ヽ_I ○ ㊥ ○㊥〇〇〇 ◎○㊥◎◎◎◎ 発句12は'正し-は貞事三年成。 板本は発句7 2を加え'本文の1部と発句12を分立して⑳ 段とする。 この句へ正し-は元線元年成。 段 内 餐 本文 行数 Sm 番号 絵番号
本
文
の
出
典
(
請
謂
娼
)
謂
梱
槻
魂
備 考 ⑳ ㊨ ⑳⑳⑳㊨ ㊨ ㊨ ㊨ ㊨ 貞 享 五 年 春 ' 春 立 ち て の 句 。 伊 賀 新 大 仏 。 探丸子別邸さまぐ桜。 富 野 の 花 見 。 須 磨 の 月 。 須 磨 の 蜜 。 明 石 の 浦 。 長 良 川 の 鵜 飼 い 。 墳 捨 山 の 月 。 元 線 二 年 春 、 元 日 に の 句 。 -行 1 2 〝 0 2 F: 2 十 { 文 集 ・ 卯 辰 紀 行 芭蕉翁発句集詞書 (-蕉翁文集-小文庫) 2 9 1 6 7 2 5 1 〟 〟 〟 〟 〟 〟 〟 〟 29 28 27 25 2423 22 〔26〕古三 三‡
〟 文 集 ・ 卯 辰 紀 行 ( -蕉 翁 句 集 ) 芭蕉翁発句集詞書 (-蕉翁句集-猿蓑)文
集
・
更
科
紀
行
(
⊥
配
釧
震
閥
佃
節
)
J^ ○ ㊥ ○○◎㊥△○◎ 本文は'原典で句の後に置かれしもの。 板 本 は 発 句 2 6 を 欠 -0 田 中 道 雄 ︹研究紀要 第二九巻︺㊨ ㊨ ㊨ ㊨⑯⑮⑭㊨㊨㊨⑳⑳⑳ 段 ㊨ ㊨ ㊨ ㊨ ⑳ ⑳ ⑳⑳⑳ 田 中 道 雄 ︹研究紀要 第二九巻︺ 奥 羽 旅 行 発 起 。 那 須 野 。 白 川 の 関 。 文 字 摺 石 。 武 隈 の 松 。 壷 の 石 ぶ み 。 松 島 。 月 山 。 象 潟 。 佐 渡 が 島 。 市 振 の 関 。 実 盛 の 兜 。 全 昌 寺 。 ㊨ 旅 後 ' 伊 賀 で 越 年 の こ と 。 3- 7 181013 3 12 9 7 2 8 8 7 〝 〝 〝 〝 〝 〝 〝 〝 〝 〝 〝 〝 行 373635343332 31 30 十 十 六 五
{
奥
瑠
道
〃 〝 〝 〝 十十十 廿九八七 〟 〟 〟 〟 〟 ・ 冒 頭 ・ 日 光 黒 髪 山 ・ 那 須 野 ・ 白 川 の 閑 ・ 須 賀 川 等 窮 亭 ・ 文 字 摺 石 ・ 武 隈 の 松 ・ 壷 の 石 ぶ み ・ 松 島 ・ 月 山 ・ 象 潟 ㊥ ㊥ 校本で加えられた段。正し-は膳所で越年した。旦廿
コ 文 集 ・ 銀 河 の 序 ( -風 俗 文 選 ) 奥 の 細 道 ・ 市 振 の 関 〃 ・実盛の兜 〃 ・全昌寺 △㊥㊥㊥△ 巻) 内 容 本文発句 行数番号 絵番号本
文
の
出
典
(
霜
謂
娼
)
謂
欄
舵
韻
備 考 元 線 三 年 春 ' 薦 を 着 て の 句 。 伊 勢 詣 で 。 二 見 が 浦 。 国分山で写経のこと。 幻 住 庵 の 記 。 湖 水 眺 望 へ 比 良 三 上 の 句 。 元 線 四 年 春 ' 大 津 絵 の の 句 。 湖 水 眺 望 ' 行 -春 を の 句 。 嵯 峨 落 柿 舎 。 嵯 峨 小 督 旧 跡 。 2 4 1 2 1 23 5 〝 〝 〝 〝 〝 〝 〝 48 46 45444342 47 芭蕉翁発句集詞書 〃 〃 文 集 ・ 幻 住 庵 の 記 芭蕉翁発句集詞書 〃 〃 ( -蕉 翁 句 集 -其 袋 )(
-〟
-節
約
)
T
〝
-雛
観
音
)
( -猿 蓑 ) ( -蕉 翁 句 集 ) ( -篇 突 ) ( -蕉 翁 句 集 -猿 蓑 ) ◎ ◎ この二句'正し-は元藤元年成。 ○ ◎ この句'正し-は元藤二年成。 文 集 ・ 徒 然 の 詞 ( -坂 本 嵯 峨 日 記 ) 文集・小督塚の辞(-校本嵯峨日記) .∼ ㊥○△◎◎◎○ この句'正し-は元線三年成。 この段'嵯峨日記が⑳段の前に置くを改む。⑳⑳ ㊥ 四条河原納涼の景。 堅田浮御堂の月見。 江戸帰庵'ともか-もの句。 ⑳ 元 藤 五 年 春 ' 年 々 や の 句 。 2 10 7 〟 〟 〟 〟 52 51 50 49 53 廿 廿 七 六 -霊句集詞書(--句集-紀脚如) 文 集 ・ 既 望 の 賦 ( -本 朝 文 鑑 ) 芭蕉翁発句集詞書(-蕉翁句集) 一一へ_■ヽ ○○◎○ ◎ この句'正し-は元藤三年成。 ⑳⑳⑳⑳⑳⑳⑳⑳ ㊨ ⑳ ⑳ ⑳㊨⑳㊧ ⑳ ⑳⑳ ⑳ ㊨ 芭蕉庵を再興すること。 深 川 大 橋 ' 初 雪 や の 句 。 元 線 六 年 春 ' 人 も 見 ぬ の 句 。 露 清 邸 の 花 見 。 五 本 松 ' 船 上 の 月 見 。 元 線 七 年 春 ' 蓬 莱 に の 句 。 上 野 の 花 見 。 尾張で世を旅にの句。 伊賀上野雪芝邸の松。 嵯峨常寂寺と六月やの句。 ︹ ⑳ 六 月 や の 句 。 ︺ 故 郷 の 盆 会 。 伊 賀 の 名 月 。 伊賀出立と奈良泊りのこと。 奈 良 ' 重 陽 の 日 。 十 三 夜 ' 住 吉 宝 の 市 。 旅 中 ' 老 い を 懐 う こ と 。 発 病 ・ 経 過 ・ 辞 世 句 の こ と 。 終蔦・梶を淀舟で送ること。 臥 高 等 ' 亡 骸 に 会 え ぬ こ と 。 義仲寺に埋葬すること。 4 1 1 3 2 1 2 1 〝 〝 〝 〝 〝 〝 〝 〝 〝 62 61605958 57 5655 54 63 廿 廿 九 八 文集・芭蕉を移す辞(-板本三日月日記) 芭蕉莞句集詞書(-蕉君集-縞集) 芭蕉翁発句集詞書∼ (-泊船集)
・ (-蕉君集-臓鵬撃
芭蕉翁発句集詞書 (-蕉翁句集-炭俵) 発 句 5 2 は ' 正 し -は 元 藤 六 年 成 。 板 本 は こ の 部 分 を 加 え ' ⑳ 段 の 前 半 部 と す る 。 (- 〃 -笈日記) < S 2 L E 22 5 3121 2 2 2 5 1 〝 〝 〝 〝 〝 〝 〝 〝 〝 〝 71 70 69 6867 〔65〕 64 66望 竺聖 冊
芭蕉翁発句集詞書(-蕉翁句集-続猿蓑) 巴!=≡ヨ巴5己ヨ ○○㊥〇〇〇〇◎ ○㊥◎◎◎○ ◎ ㊥○ ◎ こ の 句 ' 正 し -は 元 藤 五 年 成 。 この句'正し-は貞享四年成。 校 本 は 本 文 の 一 部 と 発 句 6 3 を 分 立 し て ⑳ 段 と す る 。 板 本 は 発 句 6 5 を 欠 -。 (註) ○印は'句形が芭蕉翁発句集所収句と一致するもの。△印は'一致しないもの。また◎印は、句とともに本文が同書の詞書と一致するもの。 ㊥印は'同書の詞書の一部と一致するもの。 田 中 道 雄 ︹研究紀要 第二九巻︺田 中 道 雄 ︹研究紀要 第二九巻︺
五 第二部の性格
旅
の
生
涯
Ⅲ 素材と手法 この章からは'右の三部それぞれについてその内容や成立を検討する ことにLt まず分量的にもっとも多い第二部から始める。 第一表の「本文の出典」の欄を通覧するとへ 蝶夢の「翁のみづから書 給ひし 」との言を'文字通-に受け取ってよいことが明らかとをろ -。この欄が空自の段は'本文の出典を確認し得をかったことを示すが' それらの段は少数であ- (一七箇段)'しかもいずれも行数僅少であっ て、全体から見るとご-1部にすぎない.そこに蝶夢の文章が含まれて いるとしても'芭蕉の文章による芭蕉伝という基本的性格を損をうこと にはを-得をい。 ここで'出典として用いられた資料作品を'利用度の高い順に見ると 次の通-である。 芭蕉翁文集 芭蕉翁発句集詞書 奥の細道 笈日記 枯尾花 二 四 段 一 九 段 一二段 三段 二段 これを見ると'数多い芭蕉作品の利用に当って、煤夢が﹃芭蕉翁文集也 ﹃芭蕉翁発句集﹄ ﹃奥の細道﹄のわずか三点しか座右に置か夜かったこと が知られる。奥の細道以外の各紀行'日記・俳文は'すべて﹃芭蕉翁文 集﹄に収まってお-'また収まったものしか用いなかったからである. そしてこの三書が'蝶夢白身の編纂あるいは校訂に成ることは'周知の 過-である。したがって第二部の執筆に当っては'煤夢はさほど背労し 一 一 二 なかったと思われる.細部まで知悉した白編の三善を机辺に置き'適宜 その一部を引周Lt文章を多少改めるだけで事は足りたからである。し かしこの事実からはさらに'逆に次のようにも考えねば怒らをい. 煤夢は'安永三年四十三才で﹃芭蕉翁発句集﹄を'同五年四十五才で ﹃芭蕉翁文集﹄ を刊行していた.その編纂に当っては'第一表の本文出 典欄の ( )内にも示したようを多数の資料が駆使され'そこでは既に' ﹃芭蕉翁文集﹄ 所収更科紀行の例に見るように'乙州本更科紀行の本文 許四 に俳文「更科暁捨月之弁」の一部を付加するといった、創意ある編纂ち 覆されていたのであった.煤夢の芭蕉作品編集の業績は'明和七年の ﹃奥の細道﹄ 以下数種にわたるが'かかる四十代における資料博捜の苦 心と整理・編纂の体験を踏まえ'その自信の上に立って'この「翁のみ づから書給ひしL文章による伝記編纂が成就したのである。この点から 言っても'六十一才にして成った本書が'煤夢生涯の事業において総決 算的意味を持つことが理解できるのである。 筆者は先に'第二部の執筆に際して'煤夢はさほど労苦を要し夜かっ たと書いた。そうは言っても'諸資料の利用に際して'そこに相応の操 作が加えられたのは勿論である.素材には芭蕉作品を用いたが'その素 材の選択と処理'また全体の配列には'煤夢の明確を意志の働きが示さ れている。そこにはやは-'張-詰めた精神活動が存したのである.こ のことを蔑つか指摘してみよう。 まず第一にこのようをことがある。第二部の構造の骨格を成すものは、 各段末尾に配置された発句の連鎖であ-'この間歓的に現われる発句の 流れが'芭蕉の生涯を貫-時間軸にも覆っているが'この発句の配置法 が﹃芭蕉翁発句集﹄にそのまま従うことである.言うまでもをくこの書 は'芭蕉発句を制作年代順に配列した史上最初の刊本であるが'この ﹃発句集﹄の編纂を通じ'煤夢は'発句制作年代を指標として芭蕉の壁涯を思い描-思考法を身につけたと思われる.したがって'本書の時間 軸の設定に当って﹃発句集﹄を下敷きに用いたのは'きわめて自然を成 -行きだったであろう。第一表の「芭蕉翁発句集との対照」の欄を御質 いただきたい。第二部で用いられた発句の内'﹃発句集﹄未収のものは わずか一句のみ(発句32)である。また配列を見ても'六例(発句6・ (M.CD.CO.00.00¥を除いたすべてが﹃発句集﹄の配列に一致する。 また句形も'△印をつけた四例(発句cO.CO.1>.<」>¥ cMCOCO*^)を除-と、すべ てが﹃発句集﹄のそれに等しい(◎㊥○印のもの)。詞書についてもし か-である。◎印は本書本文が﹃発句集﹄詞書とほぼ1致するもの'⑨ 印は一部またはご-一部が一致するものである。先に'﹃発句集﹄詞書 によって仕立てられた段は一九簡段あると述べた。しかし'﹃芭蕉翁文 集﹄﹃奥の細道﹄によったと考えられる段でも本文が﹃発句集﹄に一致 註五 することがあり得る(⑲∼⑰㊨段をど)から'また本文の一部またはご -一部が1致する段もか夜-多いから'﹃絵詞伝﹄の世界は'﹃発句集﹄ 琵六 を通読して得られる世界にか夜-近似したものに覆る.これはまた'第 二部各段の配列が'基本的には素材作品の成立年代順に従うことを意味 することに覆る. しかし一方で牒夢は'この基本とした成立年代順配列に'必ずしもと らわれていない.これは注意さるべき第二点である.例えば⑨段の出典 は「芭蕉を移す詞Lであるが'板本の㊨段でふたたび'年代的に正しい元 禄五年芭蕉庵再興の記事としても用いることを見れば'煤夢が元禄五年 成立と知りつつ、文中から天和の深川入庵に関する部分を抜き出して① 段に用いたことは明らかである.つま-煤夢は'この俳文の成立年代に よるより'記事内容の年代に従って①段に用いたわけである.記事内容 の時とも制作年代とも'全-関連が覆い位置に移し置かれた作品もある。 例えば貞享二年として出る発句12(㊥段)であるが'これは正し-は貞 田中道雄︹研究紀要第二九巻︺ 草三年成'﹃発句集﹄は貞事四年とするもの'元禄三年とする発句39・ 4(⑳段)は'卯辰紀行に見えるゆえ煤夢も貞事五年成を承知している はずである。それをあえて異覆る年次の位置に配したのは'前者につい ては'そこに名句による秋季の段を設ける'後者については'⑳段の防 に同じ伊勢の記事を並べて量を増やすtという目的が有ったと思われる. 配列の順序についても同様の変更が見られる。菅野と-くの清水の⑪ 段は'出典の甲子吟行に従えば'伊賀帰郷の⑲段の後に置-べきもので ある。これが先に置かれたのは'伊勢西行谷の⑩段に並べへ西行関連の 記事を一まとめにしようとの配慮が働いたためと思われる. 第三には'複数の出典を組み合わせて用いる方法が注意されるOまずへ 長い本文が二つの素材から成る場合であるが'前述のように⑳段は﹃輿 の細道﹄の二部分を一段にまとめたものであった。㊨段は同じ手法の例へ ⑳⑳段は卯辰紀行と﹃発句集﹄詞書の組み合わせである。これは一段の 本文が短い場合も同様で'⑯段の本文「大津の尚白が家にて湖水眺盟 にLは、「湖水眺望に」が﹃発句集﹄から、「大津の尚白が家にてLが ﹃雑談集﹄から取られたと思われる。また'⑳段本文で「猿沢のあたり にやど-たまふにLとする部分も'そこだけは﹃金毘羅会﹄によるのか もしれ覆い.夜お'この組み合わせは'本文と発句の関係についても見 られる。⑨段はその例で'本文の出典と句は成立を異にするが'概して 言えば'本文と発句とは一応切-離して考え'原典の形にこだわらず' それぞれについて妥当を形を求める態度であったようである. 第四は'芭蕉作品に関するよ-正確を事実認定を示そうとする態度が' まま見出されることである。例えば'句形を﹃発句集﹄と異にする四句 の例であるが'発句23は卯辰紀行'発句37は煤夢本﹃奥の細道﹄に従っ た形としても'発句33と4 6は紀行や日記の形とも異を-'断定はできぬ が'意識的に﹃継尾集﹄﹃芭蕉庵小文庫﹄をど元禄刊本の句形を採用し 1︼三
田中道雄︹研究紀要第二九巻︺ たとも思われる.発句4 6については'﹃発句集﹄に「諸集こむかしをし のぶとも有」と頭註あり、選択の揺れが察せられたからである。また発 句1 6(⑳段-貞事四年)は'﹃発句集﹄では貞享二年成とするものであ った。この句は貞享四年をること明白を鹿島紀行に収まるから'二年成 とするのは蝶夢の錯誤であったと思われ'本書ではその位置を正したこ とに覆る。 第五には'臆測の域を出をいが'資料として芭蕉真蹄等を用いる問題 がある。例えば⑳段であるが'この本文に一致する出典を刊本資料には 見出し得をかった.ところが﹃定本芭蕉大成﹄によると'これに相似た 詞書を持つ真蹄が二種存在したことになる.短い段だから必ず出典を想 定する必要も覆いのだが'一応注意しておきたい.同様に出所不明の⑳ 段の本文についても'やは-﹃定本芭蕉大成﹄に類似の詞書を持つ杉風 筆芭蕉像画賛が見出され'また㊥⑳⑬段では'﹃芭蕉翁真跡集﹄に模刺 ある元禄七年九月十日付杉風宛芭蕉書簡が参照されたことも考えられよ う.いずれも確証あるものではないが'参考のために記してお-. 以上は'第二部の編纂に際して蝶夢が施した資料操作の一端を'幾つ かの角度からうかがったのであった。次に'このようを方法で撰文され 配列された諸段の'またその集合である第二部全体の内容的性格を見る ことにする。 佃内容的性格 本書全八三段のうち'第1部①∼④段および第三部⑳∼⑳段の八段杏 除いた七五段を'内容的また機能的に分類すると'およそ次のように杏 一 一 四 ● ● ● ● ● ⑲⑭⑩⑲⑭⑲⑲⑰㊨⑳⑳㊧⑳⑳⑳⑳⑳⑳⑳⑳⑳⑳ ⑳⑳⑳⑲㊨⑳⑬⑬⑳㊨⑳ Ⅲ 俳文による段 ● ● ● ①⑥⑳⑳⑳㊨⑳⑳⑳⑳⑳⑳㊨⑳ 計3 3段 計1 4段 る 。 ( ・ 印 は 重 複 し て 掲 出 す る も の 。 ) Ⅰ 年次を明らかにする段 ●● ⑨⑭⑲⑳⑳⑳⑳⑳⑳⑳⑳ Ⅱ 紀行文による段 計1 1段 Ⅳその他の段 ⑦⑨⑳⑲⑳㊨⑳⑳⑳㊧⑳⑳⑳⑳⑳⑳⑳㊥⑳⑳㊥⑬計2 2倭 Ⅰの年次を明らかにする段というのは'同年次に含まれる数箇の段に 先立ち'前もってその年代を明らかにするために設けられた段で'例え ば「貞事元子のとし'芭蕉庵の春をことぶきたまふ怒らむし(⑨段)の ようを本文に歳旦句等を配するものである。前に発句の連鎖が本書の時 間の軸を覆すと述べたが'勿論これだけでは1般読者には不充分であ-' 一年一年の時の経過を示すこの種の段が'必要とされたわけである。チ 凌わち'貞事元年以降の各年について各」段'したが'つて計1一段とい うことに覆るが'この段に使われた発句は'貞亭三・四・五の三箇年杏 除-すべてが'﹃芭蕉翁発句集﹄において各年の第一旬日に現われる句 である。年別配列をとる﹃発句集﹄はこれをさらに季別に配列Lt歳旦 句は各年冒頭に現われるので至極当然を結果であるが'・本書の年立てが ﹃発句集﹄の年代区分によっている印象は'まことに歴然とする.相互 に入れ替わった元禄五年と六年の歳旦句も'誤-のままで引き継がれて いるのである.この段の設置は'編年体の伝記を編もうとする煤夢の意 図を明らかに示すものであるが'今一つ注目すべきは'各段の叙述にお いて煤夢が'注意ぶか-地名の書き入れを怠らぬ態度である.「伊勢に まうでたまひて」(⑲段)「伊賀の山家に年こえ給て」(⑭段)「秦良の二 月堂に参寵あ-てL(⑯段)という時'出典当該部分に見当らぬ地名を' 煤夢は1々細かに補っているわけである.そこに我々は'芭蕉の生涯を' その時間的経過とともに空間的遍歴をたどる形で描き出そよγとする'煤
夢の明確を編纂方針を読み取ることができよう。 ということは'芭蕉の生涯を旅の連続として描き出そうとすることで もあった.Ⅱの紀行文による段は計三三段'これには'俳文による段の 内の㊨段'その他の段の内の⑳⑳㊨⑳⑳㊥⑳段など'旅にかかわる段杏 加えて考えてもよいであろう.都合四1段'全体の五割強の段が旅中の 事歴を扱うことに怒るが'試みにこの四1段が用いる行数を集計すると' 第二部全三三二行のうちの二〇八行と夜-'その六割が旅の描写で占め られることがわかる。右の計算では京とその近郊の事歴は旅中として級 わをかったが'今'江戸滞住時の段とそれ以外の段とを対比してみると' 前者の二〇段に対し後者は五五段とを-へ この数倍からも第二部の内容 的性格が察せられるのである。勿論'芭蕉の伝記的事項として主要をち のは旅であるから'これを措-のは当然かもしれ覆い.しかしここには' 単に事実を列挙する以上に'積極的に旅を重視する態度がある。確かに 我々は'芭蕉の生涯を旅の生活としてとらえることに慣れている.連歌 師の旅と違って'芭蕉の旅は'回数こそ多-里程こそ長いが'通算して も数年にわたるほど長期のものでは覆い.それ夜のに'ほとんどが旅で あったかの印象さえ与えられている.でもそのようをとらえ方も'芭蕉 受容史上のどの時点かで成立し'どの時点かで一般に定着したに違いを い.それは1体いつのことであろうか'検討に価する問題と思われる. 後に再考するとしても'芭蕉の文章に頼るかに見える本書が'目立ため 形で蝶夢の芭蕉観を内包することは確認しておきたい. Ⅲの俳文による段は'風雅を求める生活を措-と同時に'芭蕉の名文 を堪能させるねらいを持って設けられたと思われる.最長の段である㊧ 段の幻住庵記も'終末部にある著名を「仕官懸命 」部分を収めず∼ もっぱら流離の生活に1時の住まいを得た安らぎを述べ'旅人芭蕉の伝 記の1部として機能するように配慮されている.このグループの中で① 田 中 道 雄 ︹研究紀要 第二九巻︺ ⑥段はやや異色の存在であ-'次のⅣグループとともに論ずることにす る。 Ⅳのその他の段は'やや細かを検討を要するようである。このグルー プをさらに整理するために'㊨⑳⑳㊥⑳段を抜き出してみよう。この五 段は'故郷伊賀上野への帰郷ということで共通点を持つ.とするをらt IⅡⅢグループ中の⑲⑭㊨⑳⑳㊨⑳段もこれと同じ性格を合わせ持つか ら'帰郷に関する段としてまとめることも許されるであろう。本書では' ことほどさように伊賀帰郷にふれることが多い。そして'「貞章二丑の とし'伊賀の山家に年こえ給てL(⑭段)「貞享五辰のとし伊賀に春をむ か へ 給 ふ に 」 ( ⑳ 段 ) ま た 「 -伊 賀 に 年 こ え 給 ふ 」 ( ㊧ 段 ) 「 元 禄 三 午 の年'都ちかき伊賀に年を迎へ給ひてL(⑳段) と'三度にわたる伊賀 越年が強調されるのである。しかもこのうち㊨⑳段は事実に反している。 実際は膳所で越年してお-へ このことは﹃卯辰集﹄に「湖水のほとりに 春を迎へて」とあるから'煤夢もおそら-承知していたと思われるのに' あえてそのように記述するのを注目したい.富野と-くの清水の段 (⑪段) を実際の旅程に反して前に置いたのも'西行関連記事の連続配 置と同時に'あるいは伊賀越年を効果的に印象づけるための工夫がこら されたのかもしれ夜い.ともか-も'伊賀関係の記事を全篇各所に配置 する意図が存したことは明らかで'この問題は'次章の内容に密接にか か わ っ て -る 。 ●● Ⅳのその他の段のうち'⑳⑳㊨⑳⑳㊥⑳の七段と㊨⑳⑳⑳⑳段の五段 を'それぞれ旅や帰郷に関する段として取-去ると'残-は次の一一段 となる。 ⑦⑧⑳⑲⑳㊨㊧⑳㊧⑳⑳ このうち⑦⑧段は﹃枯尾花﹄を出典とLt Ⅲグループの①⑥段とともに 異色の段と言える。す夜わち'①は第一部の伊賀出奔を受けて'深川人 一 一 五
田 中 道 雄 ︹研究紀要 第二九巻︺ 庵を述べる-だ-であるが'そこでは庵号の由来と「この葉のやぶれや すさに世を観ず」 という無常の悟-が語られ'⑥では笠に託して'「俄 に感ずる事あ-」と旅の人生への覚悟が述べられる。⑨の火難では、猶 如火宅の理・無所住の思いの深ま-がおのずから察せられ'①の大赦和 尚の本卦占いが'その後の生涯を予想させるのである.つまりこの四段 は'芭蕉の生涯が'当初の無常観の悟-によって決定づけられ'したが ってそこから生じる生活も一所不住の旅を基調とするt という二点から 把握されることを'前もって読者に理解させようとする段なのである0 これはいかにも浄土憎煤夢らしい認識把握であって'武人としての前辛 生から旅の生涯を送る後半生へ移る転機に'あたかも〟発心″が存する かのように描き出したものと思われ'この思想的路線の上に第二部が導 かれ'さらには第三部の内容とも密接に呼応することに覆る。そしてま た全体の構成の上では'第一部と第二部の接合部分として機能するわけ である。(ちをみに記せば'二つの部の接合部分としての機能は'⑳⑳ ㊥⑮の四段にも見られ'第三部で使われる﹃笈日記﹄を主を出典として' 第二部から第三部への移行を自然をものにしている.) また第三部との関係から言えば'元禄七年にはもっとも多-の分量が 与えられていた.没年ゆえ詳細を記述が必要と覆るわけであるが'⑳⑳ 段は'この夏ごろの京滞在の事実を述べるものとして是非必要であった ろう。また⑳段と⑳段の二度にわたる湖水眺望の句は'第三部で義仲守 埋葬を'「常に風景を好みたまふ癖ありけるに」 と理由づける伏線とし て重要に覆ろう。 このように検討して-ると'Ⅳグループの中で残されたのは'⑳⑲㊧ ⑳㊧の五段と覆った.これはいずれも江戸の句であるが、⑳は名月へ ⑩ は雪'㊧は初雪'⑳は花見'⑳は月見と'月雪花の景物を素材にしたち のである。江戸生活の部分は旅中の部分に比べて起伏に乏しい。その内 一 一 六 容的に単調を年の記述に四季の変化を与え'合わせて'⑳のごとき名句 や⑳のごとき重要を対人関係を点出する'というのがこれらの段の目狗 であったのだろう。 以上のように見て-ると'第二部全体の内容的性格もおおよそ明らか になったことに覆る。それは'紀行文や俳文の著名箇所を配し連ねる一 方で'伝記上の主要事項をあますところを-列挙するt という第1目的 に加え'芭蕉の生涯を無常観を基礎とした旅の生涯として描き出し'こ れに対応するように故郷との関係を重視するt という第二目的を伴うt ということである.この第二目的にそうところに本書の本質的性格が賦 与されてお-、それをよ-探-理解するためには'第一部と第三部が検 討されねば覆らない。
六 第一部の性格
義と情の人
Ⅲ 資料と協力者たち 煤夢が'本書の執筆に際してもっとも苦心したのは'この第一部であ った.自ら調査や資料収集に乗-出し'考証に腐心したらしい.その第 1部は'①∼④の四段よ-成る。これを区分すると'出自を述べた①と' 芭蕉その人にかかわる①∼④に二分できよう。そこでまず'この部の執 筆方法を窺うと'基本的には'当時伊賀上野を中心に流布していた芭蛋 伝諸資料に従い'これに独白の調査結果を付加したものと理解できる. 執筆時の蝶夢が披見し得た芭蕉伝諸資料は'﹃枯尾花﹄ 等の元禄刊本 類を除-と'およそ次のようなものであったろう.刊行されたものとし て ま ず ' 鳥 酔 の ﹃ 冬 扇 1 路 ﹄ ( 宝 暦 八 年 刊 ) に 収 ま る 「 伊 賀 実 録 L t 梨 1 の ﹃ 奥 細 道 菅 菰 抄 ﹄ ( 安 永 七 年 刊 ) に 収 ま る 「 芭 蕉 翁 伝 L が あ る 。 写 本 としては'竹入の﹃蕉翁全伝﹄があった。これは'絵詞伝板本の補註に蝶夢白身が書名を明示するから'基本資料として重視されたであろう0 ﹃蕉翁全伝﹄ と言えば'今日の我々は'日人写土芳稿のそれをも念頭に 置-。しかし当時の人々がこれを「蕉翁全伝」と呼称Lをかったのは' 註七 日人が「蓑虫翁 (土芳也) 直筆之写しとしか標示せぬことにも明らかで' 煤夢の言う ﹃蕉翁全伝﹄が'竹入編のものであるのは間違いをい.(筆 者はここで'煤夢が土芳稀芭蕉伝資料を披見した可能性までを否定する 註八 のではない.これはまた別の問題と覆る.) 右の三点が'蝶夢の座右にし得た伊賀関係の芭蕉伝文献資料と思われ る。しかし蝶夢は'この既成三書の内容だけでは満足せず'伊賀在住の 俳人たちに依頼して'新事実の追究に心を砕いた.全体としてはかをり 多数がその調査に協力したと見え'その事実は'やは-絵詞伝板本の補 註に見る「伊賀の国人の説にしたごふL 「伊賀の国人伝ふ」 等の語に窺 えるのである。その総動員的調査活動の実態は'蝶夢やその協力者達の 書簡でさらに明瞭に覆る。 なかでも重要をのは'蝶夢が'伊賀柘植の大庄屋であった有力門人' 富田杜音へ議批七i州㌘)に宛てた書撃ある.まず三月二十四日付 の も の に ' --且又松尾氏定紋之義'委細被仰下恭奉存候。猶又桃地覚と申様 子二付'委細可被仰下候。後世之亀鑑二而候バ乳示申度候。孫太夫 之姓も可被仰下候。--との記事が見出される。この書簡は天明五年のものと推定されるが'調 査がすでにこの頃進行中であったことが知られ'「後世之亀鑑」 にしよ うとする蝶夢の意気込みが察せられるのである。続-同年の五月十一日 付 で は ' 3 H ; 由 乃 --翁之性氏紋之儀'孫太夫の名字'井二新七郎殿屋敷二翁の事こ より芭蕉松の名御座候由承及申候。是又御礼可被下候。急々奉瀬 田 中 道 雄 ︹研究紀要 第二九巻︺ 候 。 -と重ねて調査を依頼Lt 杜音の報告に応えてさらに七月四日付が認めら れる。そしてこの書簡では'芭蕉伝に関する記事がそのほとんどを占め て い る . --祖翁出所之儀'委細被仰下恭奉存候。下柘植村之方二決し可申 候。此度は専此事二致校合居申候。大方校合相済申候。就夫'系図 之儀'系図巧者の人にも相尋候処'武家は大系図にて可然候よし珍 へ致吟味候。則別紙懸御目申候。尤母方之分も秀衡の下に而御覧可 有之候。女子の上二桁栢弥二左衛門尉と御座候。是ハ植と平の字の 写誤と見え申候。諸書致校合候処'水戸殿に而'諸憎吟味被成候上 なれば'弥平兵衛尉と申方'可然と被存候。猶又御校正可被成候0 当時吟味致不申而ハ'尽未来際校正無覚束候。其御家系之儀二候間 御吟味可然候。猶追々清書可得貴意候。武家系図之下に而ハ平相国 家人之譜と申もの御座候。しかし夜がら是は俗にて古様覆らず'徳 之著述二而候.伊賀平内左衛門と申人之事'御聞及を-候哉.其国 は新中納言知盛伝領の国と申事何やらにて覚居申候。是も追而御香 付可被下候。平内左衛門尉之事承た-候。--ここで言う「校合」とは'調査や考証の意であるらしいが'蝶夢は杜普 に報告を依頼するだけでを-'自らも調査や考証を進め'その結果の当 否について杜音の意見を徴する態度をとっている.また'資料の信頼性 にも充分気を配-'今調べをければ後世の調査は覚束をいと情熱を傾け るのである。このように'天明五年に集中的に伝記調査は進められたが' この作業はかな-後まで続いたであろう.天明七年と推定される十1月 五日付にも' --先便二中上候柘植三郎左衛門と申古人之家系は'御存被成候哉。 右之絵伝校合最中故御尋申上候。委曲は先便に申上候故'致略 一 一 七
田 中 道 雄 ︹研究紀要 第二九巻︺ 書 候 。 -と見え'杜音への調査依頼が、芭蕉の家系に関する事項が多いことを知 詫 -○ るのである。 杜音が'蝶夢にとってもっとも頼母しい協力者であったことは'以上 の資料で充分察せられるが'彼とても伊賀上野の住人では覆い.上野に 在住Lt かつ藤堂家家老という有利を立場から'上野の資料や所伝を調 査 し ' 藤 堂 家 関 係 の 事 実 を 報 告 し た の が , 安 屋 冬 季 ( 童 I l l -讃 拡 1 ) である。冬季は'始め杜音の依頼によって事を始め'後は直接蝶夢に報 告を送ったようである。寛政三年の九月二十四日付杜音宛書簡で'蝶夢 は次のように記していた. --冬季老人の事'三十年来の知音にし而心うごき申候。この秋中 上野に下向候儀も'宵廻忌預修之事と'また蕉翁伝記之ことにて' 未塵と申人の上京怒りがたき旨被申越候故'此節絵伝校合最中二而' 彼かたの一書も見申度申達候処'発端御系図に而抜書被呉候得共' 先年巳釆預思召候本文と'無差誤候様子致安堵候。--冬季の計報に接し'その没前まで芭蕉伝調査のための交流があったこと を述べるが'中でも注目されるのは'「彼かたの一書」によるらしい「発 端御系図に而抜書」の資料をもらったことへ それが「先年巳釆預恩召候 本文」 の資料に一致するという記事である.この二資料についてはへ い ずれもその内容を伝えると覚しいものが現存する。やや煩瑞にわたるが' それぞれについて考えてみる. 「発端御系図に而抜書」 という前者は'おそら-は村松友次氏が簡単 琵一一 に紹介して'日人の﹃芭蕉伝﹄と呼ばれたものの前半部に一致するであ ろう.筆者は'1名「芭蕉翁系譜」とも称する同資料の写しが東大図書 館酒竹文庫にあることを知り'今その全容を窺い得た.この資料はまず 芭蕉の系図に始まり'次いで竹入の﹃蕉翁全伝﹄の抜書が見られるが∼ 一 一 八 その系図と抜書の間に'「洛東五升庵煤夢方江/伊賀家老富田彦六俳名 冬季/方ヨ-文通写シ」の標題が与えられている (冬季を富田彦六∧= 杜音>とするのは日人の誤-)。﹃蕉翁全伝﹄の抜書は冒頭部だけの引用 に終って'その末に「下略L t 次行に「全伝ノ趣如斯シ」と記す。この あとに「○父与左衛門ハ全ク郷士ナ--- ○母ハ伊予ノ国ヨ---L 等の四㌧ 五条の短い箇条書形式の記事があ-'これまた末を「全伝二出 ス趣此通也」と結ぶが'この付加部分は﹃全伝﹄抜書についての補足読 明と考えてよかろう。また最初に掲げる系図は'﹃全伝﹄ 所収のものに ほぼ奪しい.このように見て-ると'煤夢書簡中の「彼かたの一書も見 申度申達候処'発端御系図に而抜書被呉候」 という文書は'「発端御系 図に而」という点で'形式的にまずこの資料に一致し'仮にこの資料に 比定するをら'「彼かたの1香し というのは'竹入の ﹃蕉翁全伝﹄をさ すように思われて-る。そしてまた煤夢は'この時点では﹃全伝﹄を抜 書でしか知らをかったことになる (過-とも'絵詞伝刊本編纂時には見 ていたであろう). 日人の﹃芭蕉伝﹄の内容は'﹃全伝﹄ 関係の記事が終ると'再び「○ 冬季書状写」の標題を与えられて'今度は書簡形式をとった記事が続-0 次に全文を掲げる。 ○冬季書状写 1大坂戦死藤堂新七郎藤原良勝嫡子'幼名宗徳'襲遺領ヲ新七郎良精 卜改。其嫡主計良忠俳名蝉吟'芭翁是二仕テ'松尾半七真名宗房卜 呼。弓馬之余力有時ハ主従風雅二遊る事年を経'折柄之友故主家他 家共二所持有時ニ'蝉吟不幸こして不襲遺領'寛文六丙午年四月廿 五日卒。依之芭翁之述懐不斜'同年六月父良精命して良忠遺髪を下 ( 一 字 脱 力 ) しめ高野山宿坊小田原谷報恩院二納。前後吏名有とや'御使者松尾
忠右衛門殿卜報恩院過去帳二明白也。帰参後益述懐弥増'頻二遁世 の意深-'終此年之初秋親友之門之棟木l二句を残して'主家去輪' 洛之季吟二影を隠。其頃秘伝埋木を白ラ写シ'季吟又是二白書人テ 宗房二譲ルノ旨を誌ス。此冊'事にして主家二残ル。是季吟二遊へ る之印をるへし。其後世を経テ貞享之頃二至り'主家ハ蝉吟嫡子俳 名探丸'祖父の遺領を襲ひ新七郎良長卜呼。さすかに芭翁も忍難-や'此頃故郷二至り'始而別荘二於而同番誹譜有り。自筆之一軸今 に家珍とす。 さ ま く の 事 恩 ひ 出 す さ -ら 哉 の 句 也 。 ( す カ ) 一翁俗名甚七とも呼候事'他家之記録こも見□候不審之至'元来愚老 享保十之頃虐勤仕'依之蝉吟之室探丸之室猶又探丸之轍何レも長寿' 殊二枚女ハ誹名嵐子トテ風雅ヲ好'国守よりも所望あ-て二三句を 出し'国守才も二三句を贈ラレ、当時軸に残る.此三人之音譜こも 半七'又愚老養父探丸代二任し古人共之噂こも同き也。しかハ十か 一相違可有候とハ不存候。乍然他と争之意ハ毛頭無御座候。先達而 申上候国老馬老人骨折之書御披寛之上'是二御任せも可然'且兼而 ツケ 杜音様江も御聞及之通'上柘植之庄松尾同名之二家之者共'半次半 六杯与呼候由'左候得者親族之通学哉。 一舎兄方之儀二而'違無之様'穿以其家二長井川某卜申者二承乱し'則 真二書記し候答'謹接二御人用も可有之哉と真名も認させ候。愚老 ハ光蔵と名乗申候。御人用二無御座候ハ∼御用捨可被成候。 ○此 ヶ条右大病故継引難致'及延引可申候。 ( 庄 カ ) 一 父 与 左 衛 門 ' 生 ハ 上 柘 植 之 産 由 。 一母儀者'伊予出生後二当国名張住居'尤戒名分明怒らす.此系図之 儀者'堀方虐御披見候ハ二 大二分レ可申'訊与急々見及候故'委 田 中 道 雄 ︹研究紀要 第二九巻︺ 者 覚 不 申 候 。 一入釆又ハ帰国之節'右探丸院之方虐時候之衣服等謝して不語'為持 達し候へ共'一向合着をき人物之由'古来才承伝候.是又御心得と して申上候.其余未塵方盾御返答二被及由御座候. 七月廿三日 洛岡崎 五升庵師様 冬季 巳上 この部分は'冬季白身の調査による報告である。日人﹃芭蕉伝﹄の記逮 はさらに続-が'筆者はここまでを前半部とみなすのである。す夜わち この前半部には'先の﹃蕉翁金伝﹄関係部分も含まれ、二部分を合わせ て一通の冬季書簡の内容と解すべきと思われる.そこで右の調査報告で あるが'堀未塵の名が出る点でまず煤夢書簡の記事に符号Lt「此ヶ条右 大病故継引難致'及延引可申候」(﹃全伝﹄関係部分にも「此度ドモ多用 且不快二而延引--」とある) という詫び言が'冬季晩年の病状を暗示 するように思われる。この二点と先の「発端御系図」の形式を考慮する 怒ら'煤夢が受け取った「発端御系図に而抜香し の資料の姿は日人﹃芭 蕉伝﹄の前半部に1致するとの推定が、今や許されてよいであろう.と すると'七月廿三日という日付も'寛政三年のものということになる. ここで'蝶夢書簡に「先年巳釆預思召候本文」という'後者の資料に ついて述べよう.「預恩召」 という表現は抽象的であるが'杜音の資料 紹介の労を意味することは間違いをい.しかもこの資料は'冬季が煤夢 に寄せた報告と差誤が夜いというのである.とするをらこの資料は'お そら-は冬季が杜音に送った調査報告と関係を持つのではあるまいか. 証一二 すをわち'今栄蔵氏がその全貌を紹介された'「蕉翁略伝」 と題する文 書がそれに当るわけである。この「略伝」は'現在も冬季の後商に自筆 一1九
田 中 道 雄 ︹研究紀要 第二九巻︺ 本が伝わるが'これは杜音宛報告書の副本として同家に残されたものと 思われ'杜音が受領した原本は伝存しない.筆者はこの原本について次 のように想像してみた。結びの文言に「此間御噂翁由来--書付進候」 とあるから、当時伊賀地方に高まった芭蕉伝研究熱にとりつかれた杜普 が、自発的に冬季に依頼Lt 冬季はこれに応えた。杜音はこれを手元に 置き'煤夢の質問があった際は適宜抜書して送り'後には全文の写し' あるいは原本そのものを牒夢に転送した.「先年巳来預思召」 というの は、おそら-そのような事実を述べるのであろうと.しかし気に覆るのは' 「略伝」 の内容が、一地方俳人の好事的関心に応えるにしては'かなり 詳細でかつ整然としていることである。杜音個人の調査依頼によるとチ るよ-'その背後に蝶夢の悠憩があった'冬季もうすうすそれを知って いたt と考えてみてもよさそうをのである.だがこの解釈をとろうとす ると'一つの矛盾が生じる。それは'冬季と蝶夢はすでに交流があった のに'冬季がをぜ杜音経由でしか情報を提供でき覆いかt という問題で ある。「略伝」 の執筆時期について'今氏は 「天明元年よ-もやや前' 註 7 三 つまり安永年中の稿かと考えられる」と考証されるが'安永末年と考え て大過あるまい。ところが煤夢は'後に紹介する安永六年の白露宛書簡 で'すでに冬季と交渉を持って冬季宅静間すらあったことを明らかにし ており'「略伝」 の成立時に'冬季が蝶夢の知己であったことは間違い をい.そこでこけ問題を解-ため、筆者は以下のようを臆説を立ててみ た。白露宛書簡で蝶夢は、冬季の「物語Lによるとして芭蕉伝の秘説を 伝えるのだが'伊賀の芭蕉伝の核心には'藤堂家の秘密事項が含まれる らしい.そナ︼」で藤堂家の重臣である冬季は'他国人である蝶夢に芭蕉伝 情報を語るLjとはできても'文書による伝達は慎まねばならない'それ が同藩の有力者杜音に対しては心理的抵抗が軽減する'というわけであ る。まった-根拠のない説であるが'後考のために記してお-。仮にこ 1 二 〇 の臆説が許されるとするなら'煤夢の芭蕉伝研究乃至﹃絵詞伝﹄編纂計 画は'早-も安永年中に開始されていたことに覆る. や や 筆 が 走 -す ぎ た が ' い ず れ に せ よ へ 「 略 伝 」 の 内 容 が ( そ の 一 部 にすぎないにしても) 煤夢に提供されたのは疑い覆いであろう.﹃絵詞 伝﹄成立上の重要資料と思えるので'長文を顧みず'次にその全文を掲 げる.今氏の論文から転載させていただいたものである. 蕉翁略伝 桃育'韓は宗房'俗称半七'松尾を氏とす.いが国阿拝郡上つげ圧 の人也。弥平兵衛宗清の苗葉にして'同家三ツに分ル。今一株は此 圧かきあげ城の跡に残-て'当時二家と成ル.鞘城と呼ぶ.嫡家や 分 いなや不明覆らず.宗房父を与左衛門と号ス。母は予州の人也.宗 ヽヽ 房の舎兄儀左衛門よ-上野赤坂町の辺に住居して手跡の師範'其後 (子孫類 儀左衛門嫡子半左衛門'藤堂長基□口に仕ふ。宝暦の頃'其□口口 授 カ ) 口にして家絶す。桃青は'元和の頃'元祖新七郎良勝大坂戦死'二 Ⅶ 由 R ; E 代め良清に属ス。頃は寛文年中也.良精嫡子主計良忠醐咽に仕ふ. 後に改名あ-て忠右衛門と号。蝉吟'弓馬の暇には宗房を側に呼て 花月を弄ぶ。誹譜の寄仙南吟の反古'或は数輩打混じて興ぜし巻々 夜ど数多あ-。祖父良勝遠忌の折から' 大坂やみぬ世の夏の五十年 或 時 の 発 句 ' そ軒高き霜の鋤や橋の上 近頃 和尚 蝉吟 蝉吟 或目洛の煤夢'此短尺を乞□て粟津義仲寺に寄附せんと。よ七其盟 ヽ ヽ ヽ ヽ に任す。然ルに蝉吟は'寛文六丙午の年四月'病の為に世をはやふ して'良精の轟に幹たらず。宗房探-愁傷して'六月中旬遺髪を供 して高野に至-'宿坊報恩院に収め'同月末に下山す。
1 { 但 し ' 宿 坊 過 去 帳 に ' 遺 髪 供 奉 松 尾 忠 右 衛 門 殿 と 有 ル . 宅 地 は ' 主 人 中 屋 敷 調 詑 細 試 ' 臣 等 皆 愛 に 住 す 。 今 略 河 合 某 が 住 け る家'桃青が宅地也.其隣家に傍友城孫太夫といへるあり。其門の 棟裏に一句あ-0 雲と隔つ友かや雁のいきわかれ 桃青、家を出るの折から'傍輩といひ隣家といひ、別をおしみて書 遺したる成ルベし。此一句'河合某が家蔵た-Lを'正徳年中'彦 根の臣士朗髭招鮒也河合に所縁有るを以て,ひたすら望しゆへ, 不得止事送-遺しぬ。 岩つゝじ染る涙やほと∼ぎす