九州大学学術情報リポジトリ
Kyushu University Institutional Repository
琉球王国史の基礎的研究
高良, 倉吉
https://doi.org/10.11501/3065585
出版情報:Kyushu University, 1992, 博士(文学), 論文博士 バージョン:
権利関係:
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中世史研究選書
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高良倉吉著
琉球王国の構造
中世史研究選書
告参
吉川弘文館
111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111
はしがき
一九七六年六月二十日、安良城盛昭(当時沖縄大学、現大阪府立大学)、仲地哲夫(沖縄国際大学)の両
氏と私の三人は沖縄島北部に位置する
料軒
町に向っていた。同町の字rpv
の旧家に辞令書らしき古文書
があるとの情報を得ていたので
、もしやと思い、とにかく三人で確
認に出かけようということに
なったのである。
その頃安良城氏は周辺の研究者に対してことあるごとに辞令書の重要性を説くとと もに
、氏自ら辞令書の調査・
研究に精力的に取り組んでい
たが、
本部町に向う車中においても私たち 二人に向って辞令書の意義につ
いて熱っぽい口調であれこれ話していた。
十年前のその小旅行のことを想い返すと
、たしかに私は辞令書の存在について一定の知識をもってはいたものの、辞令書の価値にとく
に注意を払うというのでもなく
、史料状況の単なる一景として辞
令書の存在をながめていたにすぎなかった。
安良城氏の教示により辞令書に対する関心がしだいに高 まりつつあったことはたしかだったが、
しかし、
自分自身の研究にそれをどう活かせるのか真剣に検
3
討する気すらなかった。その程度の研究態度だったために、
車中での安良城氏の論にどれほど真剣に
耳を傾けえたか、今もって自信がないのである。
4
辺名地の仲村家に到着し来意を告げると、
当主の仲村貞男氏は仏壇の壁面に掛っていた額縁をおろ
し、中を開いて、しわくしゃになった三点の古文書を見せてくれた。うわさに違わず、たしかにそれ
は辞令書であった。
しかし、かろうじて判読できたものの、三点ともに保存状態はきわめて劣悪であ
った
。文面を写し、写真を撮って那覇に戻ったが、その翌二十一日、私たち三人は県教育委員会記者
クラブでこの辞令書l||
「辺名地仲村家辞令書」と命名した||のもつ意義について記者会見をおこ
なった。
マスコミで大々的に報道されることにより辞令書に関する新たな情報が寄せられるかもしれ
ない、との安良城氏の発案による。私は仲村家辞令書の修復の必要を感じていたので、その後同家に
むんちゅう再度足を運び説得したところ、同家は後日門中会議を開いて私の提案に同意してくれた。そこで早速 本部町の当局者に事情を説明し修復費用を町の予算でお願いしたいと要請したところ、町は快く応じ てくれたので、三点の辞令舎を石川市在住の当其忠喜氏のもとに運び修復を依頼した。その一か刀後、
辺名地仲村家辞令書は面口を一新して再びわれわれの前に登場することになったのである。
変させてくれた。一枚の辞令書のもつ重み、形辺名地仲村家辞令書との出会いは私の研究態度を 状の新鮮さ、記述された雌史情報の確かさ、文字どおり肢史のメッセンジャー・ポlイとしての辞令
舎の迫真にうたれるとともに、この文芥を送り込んできたところの古琉球という時代を改めて身近に
感ずることになった。辞令井修復のために奔必したのは、これまでの研究態度を反省し、古琉球と私
との距離感を納めるためのささやかな営みのつもりだった。
」のように、私の辞令研究は、
先駆者たる安良城盛昭氏の教示・成果を導きの糸とし、
辺名地仲
村家辞令書との出会いを契機にはじまったのであるが、
このことによってそれ以前からおこなってい た古琉球の対外関係史追究の仕事に加えて、
新たに辞令書という一種のファイバー
-ス
コープを用い
て古琉球内部をのぞき込む仕事が私の研究課題として設定されることになっ
た。この間、辞令書を素
材に数篇の論文を発表してきたが、
それらの成果も含めて、
辞令書をめぐる古琉球内部の状況を全体 として議論してみたいとかねがね考えていたとこ
ろ、
さいわい中世史研究選舎に一冊を与えられたこ の機会を利用して、
私なりの党書をとりまとめることにしたしだいである。
学思に応えるというほどの内容でな
いことは重々承
知しているつもりだが
、私のこの一冊を研究の
導きの糸となってくれた安良城盛昭氏に献げたいと思う。
個人的に学思を感じているからというより
も、
氏はこの研究分野に明確な方向性を与えた先駆者で
あり、同時にまた、
このテlマの最も鋭い批 評家の位置を占めているからである。h
一九八七年八月
はしがき
高
倉
士口
良
5
次 6 目 7
目
次
はしがき第
古琉球とその概念
琉球史の推移と古琉球・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・一
1
時代区分の概要・・・
••••••••
先史時代の特徴・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・困・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・5グスク時代の規定--ji---ji---ji--:・ji--::ji--:::・::::八正史の記述とその問題点・二琉球王国の成立・::;:::一四
2 3 4
古琉球の特質 5
→ゴ 1 尚真王期の施策・::ji--ji--::-ji--:・::ji--::::::::::一七古琉球から近世琉球へ:ji--:::;:::::::::::::::::::::弓大交易時代の概要
••••.•.•
•••••
•••
••••.••
•.••.•
•.•...
•....
.•..•..•
...
...• ・・・・・・ニゴ一 3 2 4
本 古 古 書琉琉に 球球 け 究時お研 の る の 期 課潮区題流 分
三三 Cコ 5 6
第
辞令書と琉球王国
辞令書の変遷とその意味
1
辞令書の構成要件と研究史・
•••••
•...
•..••...
••
••••••••
•••••
•••••••••
••••••••
•
・・・2一九研究の新しい動向と特徴:::::::;・::::::ji---ji---ji---堅一辞令書とその形式・
.•.••
.••.••••••
•••••••
••••••••
•••
••.••
••
・・・;:・
••.•.•
••••
・・・・・・
・四五辞令書を区切る論理と年代・
••••..•
•...
.•••.••
••.••••
•••••••••••••
•••••••••
・・・四九辞令書の変遷と
王国
の変遷・
••.•.•••
•••••••••
•••
・・・・・:・
••••••••••
・・・:;:・---E一一一
2 3 4 古琉球辞令書の形式をめぐる諸問題 5 1 古琉球辞令書の分類・
•••••
••••••
..•...•.
..••.
•••••
••••••
••••
•••••••••
•••••
••••
•••
・・・・・:・叙任型と得分規程型の関係・・・・・ ・・乏
••••••••
•••••••••
•••
:;::::::・・・・・さ一両タイプの対応と非対応・:ji--;:::::ji--:・::ji---ji--:交任職と辞令書の発給・••
•••.
••..• ...
...•.
•••••
••••••••
.• ・・・・・:・・・・・・・・・・:・--g一回性の効用・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・七四
2 3 4
仮名表記とその背景 5
次 8
目 9
1 編成方式としての辞令書・・・・・:・:・:・・・・・・・:・:・::::・・・・::::-ji
--・・2仮名表記の問題
・仮名表記背景の :・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・会
•••••••
•••••
•••••
•••..
•••
•••••
••••••
••••
・・・:・・..
•.••.•
•.•••
•••••••
・八五日本僧とその役割・・・・・:::・
••••••••
•• ・・・・・・:
••••••••
••
:・::・・・・・・:・;::・・・・八九中国年号表示の問題・••
•••••
••
••••••••
•••••
••••
••••
•••••
•••••
・・・::・・・・・・・・・・・・・・・九一一一
2 3 4 5 第
辞令書に見る王国制度(その一)
Cコ
ヒキをめぐる諸相
ζつ
1 ヒキとそ一Oニ 編成組織としてのヒキ
一夫美称辞をもっ船舶名:・一O九N地上の海船Hとしてのヒキ二一一一ヒキの軍事的性格 :::::・::::::ji---ji--:::::ji-
-:・:一一六
2 3 4
王府 5
制度の状況
Eコ
「世あすたべ」H三司官の性格士一七 官街として一ニ四 1 庫理とそっ一。
碑文に見る宮入居
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・一ニ九 2 3 5 4
下司 そと の内 訳
間切およ
びシマをめぐる状況
::・:ji--ji--::jji--ji--一
一霊
っ間切変差をも 1 度の概要:間切---ji--:-ji--・::jiシマ制・ji--::ji--:一一霊
・シ
マ・::ji--::::::::ji--・;::ji--・;:一一完今帰仁間切に関する辞令持::・ji--::-ji--ji--::::::::・一望今帰仁間切の役人組織 ji--ji--:・:;:ji--:ji--::::
・:一四七夫地頭とそ一五一
2 3 4 5
第四
辞令書に見る王国制度(その二〉
五九
四地方官人制度の特質
互三ブ」
1
シマ名の提と村提:
::::::ji---:::ji--:::::;-ji
--・::一五九
日差職をめぐる問題:::::-ji--::ji--:::::::::-ji--:一さ一首里大屋子の性格:::::::ji--::;::ji--:::::ji--::
一室宮古における首盟大尽子の状況:ji--::ji--:::::ji--・::一六九強靭な地方役人制度・一七一一一
2 3 4 5 五
ぺゴプt
神女職と上級官人職
1 ノロ制度の状況・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・一七六大阿母職の内容:::・
::ji--::jji--::ji--::ji--::::
一七八
2
次 10 目 11
3 大屋子もいの用例:::::::ji--:・:::ji--::::ji--::::一八
一一一
地頭制の前身としての大屋
子もい:::ji--:-ji---ji--::::
一八六大屋子もい制の地方差:;::ji-
--ji--:・::ji---ji--::;:
一色
4 5 ノ\-'-
耕地区分をめぐる特質・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・一九二
1 山北監守とその変遷::-ji--:・:::::::ji--iji--Ji--・:一九ニ
里主所をめぐる「論争」:ji--:::::-ji--;ji--:::::::・一九五
里主所の用例
と性格ji--::::::ji--::;;::ji--::::::
一九八近世の耕地区分状況・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・一一空一ミカナイとカニO七
2 3 4 5
七
=o 古琉球辞令書の意義
1 丈琶制をめぐる状況
:::::::::::::ji--:・::ji--::::・:
ニ一。奄美地域の「ふみそい文脊」--ji--:::::::・::ji--::::・:ニ一四原名の制とその意義::::::::::ji--:・::ji--::ji--・;:ニ一七辞令書成立の前捉・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・三一王権の絶対性・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ニニ四
2 3 4 5
第五古琉球とその怠義
琉球王国否定論の問題点
1 琉球H附席国論
:::::::ji---::::
ニ号一附府国論の問題点・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ニz一六王国否定論者の「根拠」::::::::::ji---ji---ji--::::ニ完単 一民族u単一国家論の陥穿
;:::ji--:::ji--・::ji--・::二四一一一
2 3
古琉球評価の視点 4
一四七
1 独自の国家としての琉球王国
:::::-ji--::ji--::ji--:・:
ニ四七古琉球と近世琉球の対立:;-j i--::::・一:・ji--::ji--::::
二五O近世琉球への転換点・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・二五一一一 むすびに二五六
2 3 4
ハ付
録〕残存古琉球辞令書一覧(合過波
期辞令書)
::・Ji--:-ji--・:
一一さ一
索
ヨ|
12
表Eーー表E|2
表E|3表E11表皿|2表直|3表El4表皿|5
表皿|6
表E17
表E|8表E19表W11表W|2表W|3
琉球史の推移と古琉球
挿 表
表vーー凶
1
関-ー2
閃Il3凶L�l
皿 国I I 2 1
関E13図Wu-- 石町子銘舎一
近世琉球辞令書の発給状況・・;・・・--------z一『麻姓家譜』記事と残存辞令書の対応関係
::
ji--ji--::::・::;:七一一一古琉球主要碑文一覧--ji--::::八四・八五辞
令書
に
見
るヒキの用
例:::・::::一宮
ロヒキの名称と人員内訳::::;・;:一宕接尾美称「富」をもっ船舶名::・::一一z一辞令書に見る庫理の用例:::::::・一ニニ古琉球碑文に見る「世あすたべ」日三司官:ji---Ji---ji--:::・:一二七古琉球碑文に見る奉行クラス::::・一天間切と村数:;-ji---ji--::::・:一=一九今帰仁間切の村名と石高:::・::::一四一村と頭数::::ji--:::・ji--:・:一四ニ任職
と
大 屋 子
もい
の呼
称の 関
係:
;
:一
八七
山北監守(今帰仁按司)一覧ji--一九一一一喜屋武悶
切の耕地区分と石
高
:::・:
一 一 O
一一
一第 古琉球とその概念 二回()
琉球史の推移と古琉球
1
時代区分の概要
j市
� 琉球
・
沖縄
と
日
の
本 時代
対
照 閃
:;
・::一一
琉球王国交易ルlト(M世紀末|日世紀):・:::::::::::::ji--:ニ四肯琉球の時期区分・•• •
•• •
•• ••
•• ••
• •
•• •
•
・・・・・・二八時理・ヒキ制度概念凶::・ji--::・一宗沖縄店における古琉球の間切区分概念Ji--::・ji--・;ji--:::・:一=一七近世の間切統治機緋::::ji--・::一吾一耕地区分の概念:ji--::ji---::ニO同琉球とは、通常は沖縄の旧称として用いられるが、厳密には奄美大島から与那国島に及ぶ島興群を
指す地域名である。トカラ海峡の南から台湾の手前まで、広大な海域にほぼ弓状を描いて分布するこ
れらの品々は、口木語を「本土方言」(狭義の日本語)と二分する「琉球方言」(琉球語)の言語圏を形
成しており、文化複合の而でも口木文化の系統に民しつつ、独自の特性を発揮する「琉球文化圏」の
形成地帯として知られる。大づかみにいって、奄美大島を主島(琉球訴で大地)とする奄美地域、沖縄
品を主応にその周辺離は何より成る沖縄地域、宮古島・石町・砧をそれぞれ主島とする先島地域の三プロ
1
ックに分けられるのであるが、琉球史は、これら三地域の歴史を統一的に把握することを目指す歴史
2
琉球処分 近代 沖純
沖純i践
戦後沖縄村一代一
』 球~掠~ ふ占J』
r一匹一
pupu BB
古琉球とその概念 琉球・沖縄と日本の時代対照図
江戸時代
近世硫球氏
二朝則第王前 氏
二朝則第王後
第一 図1-1
日 本
近 世-
学の一領域といってよい。
しかしながら、琉球史の現実は、実証的・理論的研究の立ち遅れに鋭定され、奄美・沖縄・先品の
三地域を統一的に把担する段階に達しているわけではなく、それゆえに三地域を過不足なく視野に収
めた時代区分もいまだ提示されていない
。こ
のような研究段階を念頭におきながら、まずは沖縄・先
内切にひきつける形で、しかもあくまでも当面の作業仮説として、筆者が主唱しているのが次の五区分(l) 法であり、その珂-解を通常の日本史の推移と対照して示したものが図ーーーである。
〔先史時代〕考古学の編年でいう川石器時代と貝塚時代(新石部時代〉をあわせた段階で、今から数
万年前から十二世紀頃までの長い時間市である。
山下洞人(カlポソ測定値は三万二OOO年前)や港川
人(同一万八000年前)などの化石人骨の出土により数万年前という古い起源をもつことが知られて
おり、
考古学的にはつづく貝塚時代を経てグスク時代の開始される十二世紀頃までの時期である。
〔古琉球〕十二世紀頃から万暦三十七H慶長十四年三六O九〉の島津侵入事件までの約五00年間しゅんてんえいそきっとで、日本史でいう中世の時期にほぼ相当する。王統編年史でいえば舜天王統、英祖王統、察皮王統 合ニ山鼎立を含む)および第一尚氏王朝、第二尚氏王朝前期(尚寧王まで〉までの時期であり、琉球王国の
形成・成立・展開を一連の基調とする時代であった。
琉球史の推移と古琉球
〔近世琉球)島津侵入事件から明治十二年(一八七九)の琉球処分H「沖縄県」設置
ま で の
時代で、
日本史の近世にほぼ相当する
。薩
摩藩を介して幕藩体制の一環に編成されると同時に、中国との聞に 冊封・進貢関係を保持した時期であり、かつて歴史家の間で「日支両属」と形容されてきた時代に当
〔近代沖縄〕琉球処分から昭和二十年(一九四五〉の沖縄戦までの時期で、 る
近代日本への一体化の基
調に彩られた時代である。沖縄県設置にはじまり沖縄県解体に終わる
こと
に着目して、「第一次沖縄
県時代」と呼ぶ人もいる。
3
〔戦後沖縄〕沖縄戦終結より今日に及ぶ時代。アメリカの軍事的直接統治下に置かれた二十七年間
と昭和四十七年(一九七二)五月十五日の日本復帰以後に二分して、
前者を「復帰前」、
後者を「復帰
4
後」と唱える場合が多い。
古琉球とその概念
さて、
右に略記した時代区分を通覧すると琉球史の基本的な特質がおのずから浮ぴ上ってくると思
ぅ。第一は、
原日本文化とも称すべき文化複合の持ち主であった琉球の島
々の居住者が、
長い先史時 代を通じてしだいに独臼の歩みをたどるようにな
り、
古琉球の時代にはついに日本列島の国家とは明 確に区別される独自の国家日琉球王国を形成するまでになったこと。
第二は、
独自の国家を形成した
琉球の島々は、第一
近世初頭および近代初頭に芯起した二つの他律的な事件||島津侵入事件と琉球処分 ーーによって段階的に日本社会の一貝に編成されたこ
と。そして第三に、
日本がおこなった戦争の際 に国内唯一の地上戦の舞台となり、
その結果、
琉球の品々は日本社会から政治行政的に分離されアメ リカの軍事的直接統治下におかれるようになった
が、
住民の主体的な選択および運動により再び日本 社会に復帰し今日に至っていること。
琉球史の特質をこのように総括した時、
琉球とは、そもそもの はじめから日本社会の一員だったのではなく、
好余曲折を含みながら、
同時にまた長い時間を重ねな
がら、
日本社会の一民として徐々に編成されていったものであることがわかる。
したがって、
琉球史
の側から見ると、
琉球を内包するところの日本社会とは、
原始・古代の古き時代から一枚岩的な枠組 として与えられてきたものなどではなく、
歴史的に形成されたものであった、
といわなければならな いのである。
本舎で筆者が対象とする時代は時代区分上の古琉球である。同文同和を什掛調とするとはいえ、日本列島の国家とは相対的に区別される独自の国家、すなわち琉球王の形成・成立・展開をもって特徴づけられる時期である。
2 先史時代の特徴
琉球の島々に居住した人々が原日本文化とも称すべき文化複合の持ち主であったことは、今日ではさまざまな学問分野の研究者によって確認されている通説に属する
。旧
石器時代の文化的性格にはな
ーみたん
と ぐ
お不明の点が多いのであるが、つづく貝塚時代は読谷村の波具知東原遺跡出土の爪形文土器に示され ちあがりぱる
つまり縄文草創期にまで遡り、文化内容の面から見ると縄文文化としてるように、約七000年前、
琉球史の推砂とI片琉球
出発したことが確認されている。とくに九州地方の縄文文化と同系統の文化に属すと見られており、まぎれもなく琉球の島々も縄文文化問の一環にあった。ところが
、貝
塚時代前期(縄文後期に相当)に
bnrどう
い は
なると荻堂式土器や伊波式土器に象徴されるように、琉球の先史文化は縄文文化の系列から急速に遠
ざかってしまう。以後、弥生文化の波は琉球の島々に及んだものの、社会生活を決定的に刷新するまでの影響を与えてはおらず、古墳文化に至っては琉球の島々からその痕跡さえ見出すことができない。
s
以上の点から、琉球の先史時代は、日本列島と共通の文化内容(具体的には縄文文化)から出
発して いながら、しかし、時代が下るにしたがってしだいに伺性化の途をたどるようになり、貝塚時代前期
H縄文後期以後は日本列島の文化と相対的に区別される文化状況へと変身していった、
と総括するこ
6
とができよう。
古琉球とその概念
」こで注意すべき点が二つある。
一つは、縄文文化圏に琉球の島々が含まれていたとはいっても、
その関内にあったのは奄美・沖縄の二地域のみであり先島には縄文文化が全く届いていないという点
である。二つ目は、
弥生文化の波が及んだのも同様に奄美・沖縄に限られてお
り、先島からは弥生文
化の痕跡を見出すことすらできないという点である。
しかも、弥生文化の波及の度合は奄美では大き
第一
く沖縄では小さい、という現象も確認されている。これらの事実は、琉球内における先島の先史時代
の特具性を示すと同時に、先史時代の琉球内部が多様な地域性を内包しながら推移したことを示すも
(2) のといえよう。
周知のように、律令制国家形成期の七i九世紀の状況を記す日本側文献、たとえば「日本書紀」や
「統日本紀」などに南島人の入貢記事あるいはヤマト国家による商品経営の記事が登場す
る。考古学
的見地からいえば、この時代は先史時代末期(員塚時代後期)に当一り、ラグlン(礁湖)を舞台と
す る
漁扮採集経済が最も発注した時期に相当するのであるが、この状況をふまえたうえで、ヤマト国家と
琉球の品々の関係をどのように評価す,へきだろうか。細かな検討を川変して見通しだけを述べるなら
ば、たしかに、琉球の品々のうちとくに奄美地域は律令制国家との問に一定の服属関係をもっていた
と考えられるが、琉球の岳山峡全域がヤマト国家の版図に直接的に編成されていたのではなかった。し
かも、
奄美地域をはじめヤマト国家の服属下にあった島幌にして
も、
長期的かつ安定的な関係をヤマ ト国家との間に保持していたものではなく、
両者の関係は一時的かつ変動的なものであったと理解す
べきであろう。結論的にいえば、
琉球の島々はヤマト国家に対し
て、
いまだその内面に編入されざる 化外の島唄群として存在していたのであり、
異域にすぎなかったのではない
か。これを琉球に即してながめると、
ヤマト国家に対してはひとまず異域の地位を占めていたが、
琉球の内部そのものは個々
ハラパラであり、
一体的な地域としての自己をいまだ実現しておらず、
政治的自立を達成しうるよう な状況にもなかった段階、
といいかえることができよう。
古琉球とは、
右に述べた文脈からいえば、
先史時代の与件を前提に琉球の島々が一体的な地域とし て形成される段階であると同時に、
政治的にも琉球王国という独自の国家を形成して自立化を図る時
琉球史の推移と古琉球
代に相当する。
その記念すべき古琉球開始の営みは十二世紀頃にはじまると見られるのであるが、
考古学者はこの
年代以後の数世紀を「グスク時代」と称
し、
次に述べるような特徴的な現象を検出している。
第一に、グスク時代遺跡から大量の炭化米・炭化麦が出土しはじめることに象徴されるように、この時期から本格的な穀類栽培農耕が開始さ
れたと見られることである
。第二に、
刀子をはじめとする鉄製利器が この時期の遺跡から出土しはじめるので、
グスク時代は鉄器文化の段階としてスタートしたと考えら
7
れることである。第三は、
須忠器や中国陶磁あるいは滑石製石鍋、
石鍋を模した土器が出土すること
などから考えて、
この時期は外部世界よりの強い影響を受けつつ
形成された時代と見られ
ることであ
8
る。第四は、この時期
を起点に奄美・沖縄・先島の三地域に「グスク
」あ
るい
は「グシク」「スク」
第一 古琉球とその概念
と称される施設が広汎に造営さ
れ、これら三地域
を「グスク文化問」と一括してよい状況が形成され はじめることである。
第五に、
この時期の遺跡はおおむね石灰岩台地や丘陵もしくはその緩斜面に立 地しており、これ
に対応して天然の湧水を利用する小規模の迫田形式の水田が登場するなど
、総じて
住環境・
土地利用に大きな変化が起
こったと見られることである。
3 グスク時代の規定
あ じ
第六に、
この時期から按司(あんじ、
とも読む
)、
主
チャラ、テダ(太陽)、世の主などと呼ば ぬし
れ
る背長
層が木格的に登場したと見られ、
各地にこれら打長層に率いられた小規模の政治集団が形成されたと
(3)
見られることである。
十二世紀以後のグスク時代開
始期
を以上のように総括できるとすれば、
グスク時代とはまさしく変 革の時代であり、
この時代の登場
をまってはじめて、
琉球の島々が本格的な農耕社会に突入し政治的 社会へと脱皮していったことがわかる。
この変革を促した動囚は、
グスク時代以前の先史時代の寄稿
に加えて、
外来造物の広汎な出土に見られるように日本・中国など環シナ海世界の動向が大きく関与 していたように思われる。
具体的な分析は今後の課題であるが、
日本列島における古代末期から中世 前期にかけての在地武士団・海民の活動、中国における南宋l元(一一一一七i一三六七)の海上交通およぴ貿易状況の活発化に治日せねばならないだろう。須恵器や滑石製石鍋、石鍋を模した土器、あるせいかいは南米の白磁や元の青花の出土などは右の想定に一定の手がかりを与えている。こうした時代的転換の結果として、
琉球の内部でいかなる変化が発生したのか具体的な事情は今のところ不明であるが、
しかし、右に述べた六点にわたるグスク時代の特徴から、その時代が急速かつ深刻な変化を内包してを場したことだけは容易に推測できるのである。
(4)
高宮広衛は「先史時代の沖縄諸島」と題する総括的な論文の中で、
先史時代H「石器時代」を大きく「前期」と「後期」に二分し、「前期」をさらに五つの時期(IIV)に、「後期」を四つの時期(11W)に細分する新しい編年の試みを提案してい
るが
、そのうち「後期」のI期を弥生時代前期、
E
期
琉球史の推移と古琉球
を弥生中期、E期を弥生後期にそれぞれ比定している。ここで着目したいのはW期の問題で、高宮は後期W期を「
成川式以後の石器時代」で「下限をフェンサ下層式の時期」と規定し、
その絶対年代を
「六世紀後半から九世紀前後の期間」と捉えている。
フェンサ下層式の年代を九世紀前後と
し
た理
由は、同式に伴って平安時代初期の日本須恵器に類似した須恵器(いわゆる類須恵器)が出土する点に注
フェンサ下層式土器は、これまで員塚時代後期の土器型式の延長線にあると同時にグスク時代開始期の状況を伝える型式として理解されてきたものであるが、高宮はこの土器をグス 日したからである。
9
ク時代から切り離し石器時代後期W期の終末段階の土器型式として捉え直したことになる。そしてア
10
ェソサ下層式と上層式の問に横たわる時代状況の変化に着目し、上層式の年代を伴出する中国陶磁から推して「南宋!明初」(十二世紀初頭i十四世紀中期)とみなし、このフェソサ上層式にグスク時代関
第一 古琉球とその概念
始の手がかりを求めているようである。日宮と異なる角度からグスク時代開始期の問題を検討しているのは安里進を中心とする研究グルl(5) プである。安里らの編年では、沖縄貝塚時代の次に登場するグスグ時代を「前期」一』中期」「後期」の
三期に分け、前期を「久志F類土器という
コプ 状突起がついた土器や、
ヤジ ャl ガマB式土器が出る 時期」、中期を「粘板岩粒を混入した胎土H土器や、南宋の青磁、白磁が出る時期」、後期を「砂粒を混入した胎土I土器と、表面に小穴がありアパタ状を呈する胎土J土器等とともに、明初の青磁等が 出る頃」と規定しており、年代については、前期を十二世紀、・中期を十三世紀、後期を十四世紀i十五世紀初期、と大づかみにとらえている。グスク時代の土器型式および年代幅の規定については、従来考肯学者の問で殴昧な形で扱われる傾
向が強かったのであるが、安里らのグループはグスク時代概念を明確にし、グスク時代と時代医分間題との接点を提示した点で注目される。その結果、グスク時代は十二世紀から十五世紀初期までの時
期であり、土器型式によって三つの段階に区分できる時期であり、始期の年代想定については先の日常広街の理解にほぼ一致したことになる。グスグ時代の内容については今後とも考古学者の閲で論議
が深められるべきだと思うが、現時点において筆者は安里進らの明確な主張に従うこととし、グスク
時代を十二l十五世紀初期の時期と限定したうえ
で、既述したように、
迫田式の水田の登場を含む穀 類農耕や鉄製利器の使用が本格的にはじまり、
外部世界との交渉が活発と
な り、また、「グスク」の 造営が起こり按司などの首長層が急速に台頭する変革の時代、
と理解しておきたい。この変革の時代
は特定の島唄のみで展開したものではなく、
基本的には琉球の品々のすべてを押し包むような形で進 行したものであり、
この動向によってはじめて、
琉球と称される島唄群を一体的な地域として形成し うる社会的条件が準備された、と理解している。
4
正史の記述とその問題点 グスク時代の幅を十二i十五世紀初期と捉えると、当然のことながら文献資料に基づく歴史像との 一 琉球史の推移と古琉球
関係が問題となってくる。
ちゅうざん近世期に編述された「中山世鑑』『中山世譜』『球陽』などの首里王府正史によれば、琉球は天帝の 一万七八O二年間にわ
たって統治して
きたが、浮照年間ハ二七四i二末商たる天孫氏が二十五代、
八九〉に至り利勇なる人物が王位を奪ったために、
国中に兵乱が起こり盗賊横行して治安は大い
に乱そんとんれた(利勇の乱)。この形勢を見、
これを遺憾とした浦添按司尊敦が義兵を挙げ利勇を滅ぼしたので、
人民は彼を推して王位に登らせ舜天王統(一一八七i一二五九〉を聞かせたと
いう。
このように正史は、
11
有史以来一万七八O二年間にわ
たる 神話上の王統としてまず天孫氏を置き、利勇の乱によってこの王
12
統が途絶えるや、かわって舜天王統を準備して
十二!十三世紀の琉球史を説明しようとしたのである。
そして、
禅譲により英祖王統ご二六Oi一三四九)を登場させ、
十四世紀中期までの琉球史を名分論
第一 古琉球とその概念
的な王統史に即して描いた。その際不動の前提とされている歴史観は、琉球は有史以来唯一の王統に
よって統治されてきたものであるとする非歴史的なドグマであった。
しかしながら、
このようなドグマに拘束された歴史把握は、
少なくとも琉球史研究の第一線におい
てはもはや昔日のものとなってしまっている。グスク時代開始期の諸相に照らして推定すると、十二ー十四世紀の琉球史は、
変革の動向を背景とする按司の時代であり、
舜天王統や英祖王統の各王たちが仮に実在したとしても、
その者たちは浦添地方を拠点とする有力按司の一人にすぎなかった。
そのような諸按司の抗争の中から、
沖縄島では十阿世紀初期頃に三人の強大な按司が出現し、
その強大な按司を中心に形成された三つの政治的勢力闘が査場するようになったのであり、それが巾国人によって命名されたところの山北、中山、山南||すなわち三山であった。したがって、正史が述べるようたまぐ十くに、英祖王統四代目の王であった玉城治世下の延祐年間(二三四i二ニ二O)に大里按司が離反して
な き
山南王を、 じん
今帰仁按司が離反して山北王を名乗ったため統一王朝が三山に分立したというのではなく、
諸按司の抗争史が三山にまで形成されたと見るべき問題なのである。
三山分立説を排し三山形成説によって十二i十四世紀の琉球史を推定すると、①この時期には統一権力はまだ出現していなかったこと、②同時期の動向の主役は按司であり、各地にグスクを造営して
抗争する状況にあったこと、
①やがて十四世紀に入り沖縄島を中心に三人の有力按司によって代表さ
れる政治的勢力圏(三山)が形成され、
ここに三山鼎立の時代を迎えるようになっ
たこ
と、④その中
でも浦添を中心とする中山が最も強大であり、
その証拠に舜天、英祖、察皮の英雄はいずれも浦添に
即して伝承されていること、⑤正史の語る王統史、すなわち有史以来統一王統をもち延祐年間に三山
に分立したとする観念は、後の統一王朝が中山の手で達成され、後世において中山を正統とする王統
譜が整備される過程で生まれた観念にすぎないこと、
などの点に整理できる。この見通しは、考古学
が提示するグスク時代の状況にも符合しており、
また、次に述べる同時代史料による歴史像とも矛盾
琉球史の推移と古琉球
しない。(6) 『明災録』洪武五年(一三七二)正月の条によれば、明の太祖洪武帝は楊載を「琉球国」に近し、大
明の建同と日己の登極を告げるとともに琉球の入買を促して
きた
。同年十二月の条には「中山王祭
度」が弟の泰期を近して表を奉じ方物を献じてきたので、
太祖は察度に大統府および織金文締・紗羅 各五匹を、泰期等には文紡・紗羅などを下賜したという。この記事は、明の建国にともない琉球がそ
の冊封・進貢体制の一員となり、
以後五OO年にわたって中国との問にこの関係を維持することにな
る特筆すべき事件であった。
この事件以後「明実録』には中山王察度名の入貢記事があいついでを場 するようになるが、洪武十三年(二二八O)十月の記事には「琉球
山南王承察度」が師芯等を近し表
13
を奉じ方物を献じてきたので中山王同様の措置を諮じたことが記され、
同十六年十二月の条には「琉
14
球岡山北王柏厄芝」が根付mhを泣し入貢してきたので、同様に扱ったことを述べている。その後、「明宏〈録』には中山王とともに山南王
、山
北王の入貢記事が登場するようになるのであるが、
これ
か
合琉球とその椛念
一三七0年代の琉球にはすでに中山王、山南王、山北王を称する三人の王がおり、この三人の王は競いAMう形で中同との問に冊封・進貢関係を樹立し、対中肉関係を背景に相互に争っていた らすると、
」とがわかるのである。
第一
5
琉球王同の成立
「明夫録」、それに同時代史料として主要な位山口を占める「民代宝来い、あるいは近間期の王山人等を
しようはしあわせで考えると、その後の陀史的動向を主導したのは尚巴志と称される人物であった。
Bluo」vahkJ尚U忘は永来同年(一四一O六)中山王武鈍Jを滅ぼすと
、そ
の父山知をやじて巾山王とした。「明夫録』
永引い五年四月の条によれば、「琉球問中山王世子忠利」が使節を泣し方物を献げ「北〈の父中山王武寧」
の死を作げてきたので、太不は伎を送り思納をして琉球閃巾山どに封じたという。つまり、山市の一
き
角、 LB
作放から挙兵したこの父子は中山の十七椛を奪取するや中間に対して中山の正統の後継者としてふ
な き
尚巴志はに没したので、父忠印刷が永楽十九年)。山北王翠安知の記事は永淡十三年六月で終わるなる(なく しは」の事件に符介するかのように『明夫録弓場にその後山北ヱの名、こるが山北を千中にてすぼし 十北王製安知を滅山、械を攻めことになるった山北。、氷山木十四年(一四一六)尚巴芯はの拠点今川まる はんんあちじ
十二年二刀明帝に父王の許を作げたが、これに対し仁宗は洪郎元年〈一阿二五)柴山を近し「中山
た ろ
王忠利刊子尚巴志」 みl
をもって中山
王に封じた。
立徳四年(一同二九)尚巴志は山南王他科毎を滅ぼし、
ここに初の統一王朝(第一尚氏王朝)を樹立するとともに、 同
唯一の王によって統治される同家、すなわ
ち琉球王国の成立を実到するという事業を成し遂げた。
このことに符入門するかのように、山市王他岱
(7)
毎名の入貢記事は「明夫録』守一徳四年十月の記平ま
でであり、それ以後は登場しない。
同時代史料を参照して要点を整理すると、
一三七0年代の琉球にはすでに中山王、山南王、山北王 を称する三人の王がおり、
三山川市立の状況をーしていたこと、三山はそれぞれ大切との問に冊封・進 貢関係を樹立Lて争っていたこと、
やがて中山の正統な後継者を装った思紹・尚巴志父子の手で三山
琉球史の推移と古琉球
の統一が達成され、立徳内年(一同二九)をもって唯一の王により統治される同家、すなわち琉球王国
が成立したこと、など
十内問紀末!十五世紀初期の琉球史の事情が判明
する。十二世紀頃から活発と
十阿世紀に宅り三山として鼎立するまでの展開を見せ、その後十五世紀初期に入
なる按司の抗争は、
るや尚己ぷの一述の軍ポ行動により統一王朝、
統一十よ同の成立へと収飲したことになる。
これが、文
献資料に基づき推定される十二!十五世紀初期の問の廃史像の大要である。
グスク時代の析
を十 二l十五川紀初期と理解するならば、右の文献資料に某づく時代像の時期とみ ごとに近なってしまう。つまり、考+門学でいうグスク時代とは按可の抗争、三山の川市立、琉球王同の
15
成立へとつながる一述の時代であ
ったのであり、また、迫間式の水田の登場を含む穀類炭耕および鉄
16
製利器使用の本格的な開始、外部世界との交渉の活発化、グスクの造営、按司などの首長層の台頭といった変革期的様相は
琉球王国成立へとつらなる一連の動向の契機だったのであり、
かっその反映だ
古琉球とその概念
ったことになる。
基本的に琉球の島々のすべてを押し包んで進行したグスク時代的状況といった問題 も
、あるいはまたこの動向によって琉球と称される島帆群を一体的な地域として形成する条件が準備
されるといった問題も
、実
は
、グスク時代の変革が、社会生活の基層レベルにのみとどまったもので
はなく、明確に政治的に表現される動向だったことを示しているのである。その結末が、東アジア世界の中に身を置いた独自の国家、すなわち琉球王国の成立として総括的に表現された、というべきで
第一
あろう。このように、グスク時代、
つまり古琉球の開始は琉球史にとって決定的ともいえる画期であった。
琉球
国を形成し成立せしめる画期だったのであり、同時にまた、その後の琉球史の方向を規定づけ
る ぐる内外の展開を恭調に推移する。 この王国をめ巴志の統一から琉球処分までの四五0年間の琉球史は、起点に相当したのである。尚
古琉球の特質
1 尚真王期の施策
尚巴志の手で樹立された第一尚氏王朝は、彼の死後、尚忠(在位一四四Oi一四四四)、尚忠達(同一四
四五i一四四九)、
尚金福(同一四五G{一四五三)
、尚泰久(同一同五四i一四六O)
、尚徳(同一四六一i一
いかなる昭由によ
る ものか不明であるが、
名王の治世は平均六年余であ
きんぷく
しろ ふり
り尖に短命であった。
五代尚金招の死後に王位継承を争う志科・布旦の乱
(一四五三)が起こり、六代
どさ まる あま わり 尚泰久の治世においては有力按司の反乱たる諮佐丸・阿麻和利の乱(一四五八)が芯起
するな
ど
、総じ 開六九)と承け継がれたが、
1"-琉球の特質
て統一王朝の基盤は弱体だったと
見られるのであるが、真相は不明である。
そ れに、初代思紹が国相と して中国人王茂を、二代尚巴志から五代尚金福までの王が悶相として中国人州問機を用い、外交・国政に
17
深く参与せしめていた点も気になるところであるが、
第一尚氏王朝の性格の究明は今後の課題である。
成化五年(一内六九)七代尚徳が死去したので、
世子をして王位に登らせる段になった時、
いかなる
性格の徒党であったか不明だが、
特定の不満勢力の策動した政変が発
生し、
世子が殺評されたほか第 一尚氏王朝派はことごとく王都汁良から追放されたようである。
反乱部が金丸を推して王位につかせ
18
たので、即位して尚円と号した金丸を開祖とする新たな統一王朝(第二尚氏王朝)が琉球王国に君臨することになった。
成化七年「琉球国中山王世子尚円」は姦預等を辺し方物を献ずるとともに、
国王尚
古琉球とその概念
徳の克逝を報じ封爵を請うた。同年、憲宗は丘弘等を琉球に遣し、世子尚円をして中山王に封じた
(『明実録』
してふるまったのである。) 。つまり、尚円もまた第一尚氏王朝の正統な後継者と
尚円を太祖とする第二尚氏王朝はその後十九代、四OO年余にわたって王国に君臨することになる
が、この王朝の歴史において三代尚真の治世は重要な位置を占める。
第一
尚真は、尚宣威退位事件のあとをうけて成化十三年(一四七七)、十二哉の若さで王位に登り、死去するお靖五年(一五二六)まで実に半世紀にわたって王位に君臨した王であった。彼の治世は琉球王国
(8)
の基盤が整備・強化された段階に相当し、王国史に一つの阿期を付す時代であったといえる。第一に、「始めて百官を定め職を分ち、を以て貨肢を定め上下を分つ」(『球陽』巻一ニ)、といわれるよ
うに
、職制・位階制を整備したことが挙
ももうらそえの らんかん (叩)
げられよう。王の事蹟を刻む百浦添之欄干之銘(一五O九)にも、「千臣を官に任じ、
百僚に職を分つ。 かつ此の六色の柏を製しなる。而して紫・黄・紅・緑・青
共の位の質問よ下を定むるに、其の柏の賀赤を以てし、其の笹の金銀を以てす。是れ後世尊卑の亀鋭なり」(原漢文)とあり、職制・位階制が明確に定められた。第二に、各地に割拠する諸按司を首里に集め、右の職制・位階制の中に編成したことである。按司首里集居策とも称すべきこの施策は、按司の在地性を奪い王を頂点とするヒエラルキーの中に諾按司を再編することを目指したものと見られ、
「球防』によると、
花地には「
伊司出
」と称する役人を派遣したという。
第一尚氏王朝が志魯・布里 の乱、諮佐丸・
阿麻和利
の乱をかかえ
、つい には不満勢力による政
変によって崩壊した過去
の事実と
対照するならば、
右の二つの施策は画期的なものであった。
きこえ おおきみ お拍あ も
第三に、旧来の祭耐や神女制を改訂して聞得大君を頂点に君々、
大阿母、
ノロとつらなる神女組織
加とち とのもいかね
さ す
を確立
か さ
したことであろう
。初代の閲得大君職に王の妹音智殿茂金が
、君々のす向位佐司笠職に王の子女
間以料問
が就任したことに象徴されるように、
この神女組織は王および王国を翼賛するための祭利上の 制度として決定されたものであり、
この再編によって宗教儀礼の国家祭配への転化の動きが顕著とな
る。
王府により編集された祭和歌謡集「おもろさうし』は右の動向を反映した典型的なものであるが、
それを凡ると、
神明や村女の祈願の目指すところは、
つまるところ王の安寧であり、
王国の弥栄であ
った。
古琉球の特質
第四に、
地方統治を強化したことであろう。
地方神女たる大阿母・
ノロの整備もこの一環に属する のであるが
、その芯凶は
、計里王府に
つら
なる 地方役人(オエカ
ジ
の制度を設定し
、奄美・沖縄・ 先島の三地域を王の権威によって掌握する仕組みをつくるところにあった。
三男尚部威を今帰仁城に
19
常駐させ、
山北監守(H今帰仁持司)
として旧山北の地を把握したこともその一環である。
当然のこと
ながら、
地方統治の強化に
ともない各地で王
に対する抵抗が発生しているが、
王は八 重山のアカハチ
なかそ ね とうゆみや
- ホンガワラの乱(一五OO
)や久米品の具志
川按司の乱ハ一五O
七)を平定
し、宮古の仲宗根時見料を
20
日川服させるとともに、その一方で奄美の笠利地方に遠征するなどしてこれらの祇抗を退けている。
古琉球とその概念
2
古琉球から近世琉球へ
第五は、幾多の造営事業がおこなわれ王国文化の頂点を現出したことであろう。王家の目指阪である
た主ぅ.とうんその
ひ ゃ ん う
玉御殿の造営O、李珠か五一九)をはじめ王に朝鮮悶代王尚徳、建一(設図比尾武御獄石門の一)一五( きた
ら贈られた大蔵経(
方冊減続)を格設するために円鑑池を掘り池中に中島を築い
て亭(後の弁財天什土)を
第一
こしらえたのもそれである(一五O二
)。また、一四九二年に三年の歳刀をかけて竣工した円党寺の創
建は代表的な事業であった。円党寺(臨済宗)は琉球最大の寺院であると同時に第二尚氏の家・刷たる御
照立をもっ故も格式の日い許提寺であったが、京都市抑寺の出である芥隠をもってその閉山とした。
と みぐすく
ま
一五二二年には汁史城歓会門から世凡城山切の其烹桁に烹る道路(町、珠泊)を石畳で整備し、橋の架け だん
替え工事をおこなうなど、
尚瓦王期の造営事業は枚挙に暇のないほどである。
第六に、尚真矧に至って王権のもつ権威、
絶対性が強固になった点を挙げねばならない。
王はテダ
(太陽)であり、「天より下の王」であり、また「世の主」であった。市川又矧の雰開%を伝える村認が
「おもろさうし』の中には数多く収められているのであるが、その歌認の中の主役は尚真一土その人で
あった。尚其王期はまた、
汁虫城とその周辺に多数の碑
文を辿立した点でも特徴的な治世であったが、
いずれも王の徳や事践を大苦し、並ぶ者のない王であったことを町伝している。それらの文川を読む と、
尚真期が中国皇帝をモデルとした治世を目指していたことがうなずける
。
このように、職制・位階制を整備し、諸技司を王の下に編成し、神女組織を確定し、地方統治を強
化し、幾多の造営事業をいとなみ、王権を強化したという点で、尚真王期はまさしく王国史の頂点で
つまり、尚真王期は琉球王国の確立矧で
あり
、尚巴志の治世を王国の成立期とあり、画期であった。
した場合、
それに対置される今一つの古琉球における重大な段階であっ
た。
そのような評価を与える
べき時代が尚真期だったのである。
尚真の死後、
王位は尚清(在位一五二七i一五五五)
、尚
元(同一五五六l一五七二)、尚永(同一五七三i
一五八八)、尚寧(同一五八九i一六二O)の順で承け継がれ
たが
、七代尚寧治世下の万暦三十七H慶長 十四年三六O九〉
、王国は読摩軍三000の似冠をこうむり征服
され
て しまう(島津慢入事件)。尚寧
古琉Lj(の特質
以下市一匹たちは鹿児島に連行され、駿府で徳川家康に、江戸で二代将軍秀忠に謁見し、その後陣摩の 琉球統治方針を了承する旨の起請文を鹿児島で書
いて、二年半ぶりに帰国する。はじめて外部勢力に
よる征服をこうむり、
国王が連行され二年半も不在であったという点で、
まさしくこの事件は未刊有
の困難であった。
烏津何日入手件は古琉球に終止符を打ち、時代が近世琉
球へと転換する契機になった事件であったが
、
」の事件により琉球主同は薩摩藩を介して悲薄制国家の一環に編成される従属的な存在となり
その
21
王国体制はそのまま温存さ
れると同時に、中国との冊封・
独立性は失われてしまう。
しかしながら、
22
進貢関係もまた存続したので、琉球の恭藩制国家への完全な一体化が起ったというわけではない。幕
藩制国家の一環に編成されていたとはいえ、
琉球王国は依然として異域、異国の性格を波厚に保持し
古琉球とその慨念
つつ展開したのである。とはいえ、話藩制国家の強い規定下に置白かれるようになったために、琉球王 国内においては新しい時代に即応するモ同体制の再編が必然的に求められるようになり
、こ
の基本的
しようしようけん
課題を担って向象賢(羽地朝秀〉から察温につらなる打旦王府の近世的政治路線への転換が図られる。
その骨子は、新たな新要求に見合う形で汁旦王府の行政能力を高め、社会的総生産を増進させるとと
もに、古琉球時代に形成された諸枠組を刷新して近世に適合する「合理的」な枠組を確立することに
第一
あった。また、その一方で、薩摩・将軍権力との関係調整を凶りつつ、中国との冊封・進貢関係をも 円滑に推進するという対外関係の安定化も目指された。厳しい環境下で摂政として国政に敏腕をふる
った十七世紀後期の向象賢が施策の基本的枠組をつくり、三司官として諸施策を反問した十八世紀中
期の茶温の段階においてひとまず完成を見る琉球の「近世化」を目指す政治路線は、
ぱ、古琉球の否定、近世琉球の確立を目指す村里王府の苦悶であり、模索であったといってよい。 一言でいうなら 近世の琉球史を追求する時、王府の側における古琉球からの脱皮、近世琉球の整備といった苦闘に
しばしば出会うことになるのだが、その構図はあたかも近世琉球を舞台に「古琉球の論理」と幕藩制 国家の論聞とがするどく対立し、ある時は一方が他の一方を駆逐し、またある時は両者が妥協を重ね
つつ展開した、との印・談をぬぐえないのである。
3 大交易時代の概要 ところで、古琉球を語る時に今一つ忘れてはならない主要な問題がある。それは、琉球王国が中凶
との逃民貿易を基軸にしながら、東アジア・東南アジアにまたがる壮大な貿易ルlトの立役者となっ(日)た点である。洪武五年(一三七二)に太祖の招諭をうけて中山王察皮がはじめて入貢し、大明との間に
冊封・進貢関係を樹立したこと、やがて山南・山北もあいついで進貢し同様の関係を樹立したこと、
などについては先述した通りである。尚巴志による三山の統一H琉球王国の成立とは、対外関係の面から考えると、三王の外交・貿易権を一元化し、唯一の王をもって対外関係の主体となすことをな味
するものだったといえよう。
図ーー2は「歴代宝来』等に基づきながら王国の交易ルlトの状況を示したものであるが、その範
二 古琉球の特質
聞は東シナ海および南シナ海沿いの祐地域(つまり環シナ海世界)に広く及んでいることがわ
かる
。大
雑把に推計すると、」の時期東シナ海を越えて中国に渡航した琉球人の数は延べ一O万人前後、東南アジア渡航者は延べ三万二000人前後になる見込みであり、琉球王国が環シナ海における有数の交
易勢力であったことを了解することができよう。」うした壮大な対外交易を反問するためには、
然き 23
のことながらいくつかの背景・条件が必要であった。明の建国により対外関係としての間対第一に、
進一以策が強化されたこと、
中国人民に対し海外渡航制限令としての海禁が溌せられたこと、を挙げ