九州大学学術情報リポジトリ
Kyushu University Institutional Repository
琉球王国史の基礎的研究
高良, 倉吉
https://doi.org/10.11501/3065585
出版情報:Kyushu University, 1992, 博士(文学), 論文博士 バージョン:
権利関係:
第九章
補説と参考問題
琉球か ら みた朝鮮 ・ 中 国
ーー琉球王国の歴史像を考える視点
琉球処分をめぐる状況
内年ほど前に、私は、「琉球処分と朝鮮・東南アジア」と題するささやかな論文を発表したことがあります(拙著『沖縄歴史論序説』所収)。その一文で私が考えてみたいと思ったことは、次のような事柄でした。一八七九年(明治十二)春、新興明治政府は武力を背景に王宮・首里城の明け渡しを命じ、琉球王国を解体させ、沖縄県の設置を断行しました(琉球処分)。この事件は、沖縄の旧体制日王国体制に終止符を打ち、沖縄を日本社会
な りでかしたばわ反・対の意向を表ーしたためて不平を書など約誓判ト層は血会的エリ社の球琉はありません。でわけ の、かならずしもスムースに事が運んだのように知ご承、けですがわて強行されたっ員に編成するという目的をも く、
中に は、
ひそかに中国(清国)に密航して、中国政府を動かし、
その力を頼って王国再興に望みをカける者ま で続出するという状況だったのです(脱清運動)。
中国政府もまた、よ示主国がとしての立場から、武力発動も辞さな
レとレう態度をちらつかせつつ琉球に対する明治政府のやり口に抗議しています。
こうして、一八七0年代末から八0
年代
にかけて、「琉球問題」は口中両国の焦眉の外交問題にまで発展したわけですが、同じ頃、日中両国は「朝鮮問題」をめぐって鋭く対立していたことは周知の事実です。さらにまた、同じ時期に、中国はフランスとの間で「安
南(へトナム)問題」をめぐって対立しており、
その対立はつレに清仏戦争にまでエスカレートしたことも広く知ら
れた事
実です
。こうした状況を念頭におレて
、東 アジアにおする
「琉球問題」の特質と明治政
府の対
処のありかた
、
そのことがひレては琉球処分後の沖縄県政をいかに規定したのか||私が先の論
文で考えてみたかったのはそうした
論点でした。掲ずたテ
!マはわれなが
らりっぱなものだったと
自負していますが
、残念ながら満足すべき
究明はつレ
に達成することができませんでした。
ただ、
私にとって収穫だったのは、
多くの研究者によってすでに指摘されていることなのです
が、
琉球処分のもつ グロ|ハルな性格を自分なりに確認できたことです。「琉球問題」は「朝鮮問題」や「安南問題」と決して無関係に 推移したわけではなく、きわめて
密接に連関しながら展開し
てレる、 そうしたグロ
ーバルな眼をも
った時にはじめて
、
琉球処分のおび
ている歴
史的章義がよ
くわかる、
そういう当たり前の視点を自分なりに確認することができたからで す。琉球処分は
これまで多く
の研究者によっ
て論議されてきました
。近代
日本の領土確定問題
、外交問題の一つ
とし
て、
口木の高名な歴史家たちによってとりあげられているはかりではありません。
一体その事件はいかなる性格の事
件だったのか、
そしてまた、
その事件は沖縄にとっていかなる意味をもつものだったのか、
という視点からも掘り下 補説と参考問題
げられており、
しかも、
こうした視点に立つ研究が主流をなしているテlマなのです。
その研究水準は、
金城正篤『琉
球処分論』(一九七八年)、我部政男『明治国家と沖縄
』(一九七九年)、安良城盛昭『新・沖縄
史論
』(一九八O年)、 西里喜行『論集・沖縄近代史』(一九八一年)、新川明『琉球処分以後』(同年)、
比屋根照夫『自由民権思想と沖縄』
��} 1';í.
(-九-/
年)などに見ることができます。
大づかみにいって、
琉球処分は三つの側面をもっていたとレ与えるでしょう。
その
つ
lま沖縄におナる旧体制H
n6 nRU 円、υ
ハUJ口δ 円台U
国体制に終止符を打つ直接的な契機となっていること、二つ目は近代沖縄への移行の直接の引き金となっているこ
と、二つ日は以上の
一点をカバーするグローバルな局面に位置していること、
です。
この三つの点をトータルに、
統一的にとらえないかぎり琉球処分の歴史像を明らかにすることはできません。私の消化不良の論文「琉球処分と朝鮮・東南アジア」は
いうなれば三つ自の側面を考えようとしたものだったわけで
すが、
私としてはそのテlマを通じて琉 球処分像に一歩でも近づくことをネライとしていました。
その点では琉球処分研究の末席を汚すつもりで書いたもの
です。しかしながら、私の関心はこのと
ころ前近代史の問題におかれていますの
で、先の論文もまた前近代史の側からす
る私なりの問題関、いにも裏打ちされていたのです。
その点について少々説明を加えておきたいと思います。
島津侵入事件の位置
先に指摘しておきましたように、琉球処分は沖縄における旧体制H王国体制に終止符を打つ直接的な契機としてのつまり、琉球処分によって国王・尚泰は王宮を追われ、琉球王国は解体してしまったのです。 側面をもっていた。
沖縄の前近代史研究の主要なテlマは琉球王国研究です
から、対象たる
王国が処分によって崩壊してしまったことに
なります。したがって、研究テーマのH最期がを見とどける、
という意味で琉球処分が問題になるのですが、
しかし、
私の場合はさらに王国の崩壊という一大事件を包みこむグローバルな構造に関心がおかれています。
つまり、「朝鮮問題」や「安南問題」
との連関に示されるように
、琉球王国の崩壊・解体は東アジアにおける旧体制H前近代体制の崩壊に連動しているので
逆にそういうグローバルな状況の中で琉球王国の崩壊を照射できないか、という問題です。
そうレう意図をもこめて「琉球処分と朝鮮・東南アシア」というラフ・スケッチを描いてみたのですが、この意図は
別に単なる思いつきで生まれたものではありませんでした。
琉球処分よりかぞえて二七O年前、つまり一六O九年、琉球王
国は 薩摩島津氏の派した三000の兵の侵略をうけ、 国王・尚寧以征服されてしまいます(島津侵入事件)。重臣たちは鹿児島に連行され、佐摩の統治方針を遵守す る旨誓約させられたうえ帰国を許されるとレう、
王国はじまって以来の国難をこうむったのです。この事件は沖縄に
とって琉球処分に匹敵するほどの大事件でしたが
この事件もまた琉球処分同様に三つの主要な側面をもっているの
です。
一つは、
旧体制H古琉球に終止符を打つ直接的な契機となったこと、
二つ目は、近世日本の封建体制(幕藩体制)
の一環に編成される引き金となったこと、
そして三つ目は、
一点をカバーするグローバルな局面に位置してし以上の
たことです。沖縄歴史の時代区分では、基本的に島津侵入事件を境に古琉球と近世琉球に分けますので
、島
津侵入事
件は古琉球から近世琉球への転換点をなすとも規定できるわけですが、それはともかく、まず右の第一と第二の側面
について説明しておきましょう。
沖縄の島々に住みつき歴史形成をはじめた人々は日本文化の系統に属する文化をもっ人々であった、このことは
の頃の研究においてますます鮮明になってきています。古く縄文時代の早期段階におレて、沖縄の島々に住む人々も
補説と参考問題
また縄文文化の所有者であったことがわかっているからです。言語や習俗など基層レベルの文化複合の面から考えて
も、その点は争えない事実です
。と
ころが、沖縄の人々はしだいに土着化・個性化を強め、縄文中期から後期にかけ
て日本木土とは異なる様相を呈する文化を形成しはじめてレます。その独自化の歩みは、ついに、十二世紀から十七
に琉球王国とレう独自の国家を形成し成立させるまでになり
ました。この国家は
、北
はトカラ海峡の南、南は台湾の手前の
炉野町
島までの広大な海域に弓状に分布する琉球弧の
第9 �t
世紀初頭までの五00年間(この時期を古琉球という) nu nHJ 円合υ-391-
島々を版図とし、
王部首里に君臨する国王とその国家機構(首里王府)
によって統治されていました。文字,とおり独立自営の国家だったわけですが、
島津侵入事件はいわばこうした独立自営時代の琉球王国に終止符を打つできご
とだったのです。その結果、琉球王国は一体.とうなったのでしょうか。
征服によって王国はつぶされることなく温存されました。
つまり、
琉球王国は依然として存続しつつけるのです。
しかし、
古琉球におけるように独立自営というわけにはいきません。
お目付として薩摩がおり、その背後に強大な将軍権力がひかえています。そうした幕藩体制の強い拘束・規制をうけるようになったわけですが、」もかかわらず琉
球王国は諸繕と同列の園内の一地域ということにはならなかっ
た。
薩摩の指一不をあおがなければならなかったが、
かし、純然たる植民地とはなっていません。薩摩や幕藩体制に従属しながらも、依然として「異国」としての地位を保っていたのです。もし琉球王国が、諸藩と同列の性格をもち、薩摩の純然たる植民地であったとすれま、琉球処分
に際して明治政府があのように手こずることはなかったはずです。琉球の社会的エリート
層は、まさしくその「異国」的性格に固執し、また、
その「異国」的性格に依拠して琉球処分に抵抗したのです。
日本国内における廃藩置県二
/\
七 年 一般を相対化してしまう廃藩置県U琉球処分が沖縄をめぐって惹起しなければならなかったの
は、沖縄が
「圏内」に対する「異国」として近世二七0年間ありつごつけたからにほかならないのです。
琉球王国が台琉球の独立自営時代に終止
符を打ち、幕藩
体制に従属する近世の「異国」時代へと転換した境日に島
津侵入事件がある、
というのは右に述べた理解に立つてのことです。
では、残された今一つの側面
つまり島津侵入事件のもつグロlλルな局面についてはどう考えるべきなのでしょ
うか。
琉球処分時における、「琉球問題」に連動する「朝鮮問題」
「安南問題」のような事象がやはり認められるので
しようか。結論から先にいえば、
私はやはり認められると考えています。
問題の構造をみる視点
島津侵入事件が発生した頃、とくに卜六世紀末期には、まず誰もが認める一つの動向が存在しています。その一つ
�i
ハ八年から征服国家・元にかわって中国全土を統治してきたところの明の国力が大きく衰退していたことで
す。今一つは、長い戦国の争乱を経て、統一された強力な封建国家形成へ向けて日本社会が急テンポで推移していた
ことです。この二つの動向は、それまで明の冊封体制を主軸に安定的に推移してきた東アジアの状況を大きく変容さ
せることになったと思います。その一つの表現が一五九二年と九七年の両度にわたる豊臣秀吉の朝鮮に対する軍事
的侵略行動です。そして、つ一つの表現が、実は琉球をめぐってあらわれたと考えるべきでしょう。
朝鮮への軍事侵略に際して、秀吉は琉球側の加担を強要しこの意向をうけた薩摩島津氏は自己に課された軍役一
万五OOO人のうち七OOO人分0ヵ月の兵糧米の供出を琉球に命じてきています。琉球王国には後にも先にも対
外戦争の経験がありませんし、また、朝鮮とは長く友好的な外交・交易関係を推進していたわけですから、その要求は容易に受け容れられるものではありません。第、何を根拠にそういう不当な要求を押しつけてくるのか、王国の首脳部もきっととまどったにちがいありません。結司、琉球側はこの要求に応じませんでした。それが一つの状況で
補説と参考問題
す。右の「朝鮮出兵」が日朝関係を悪化させたのは当然ですが、
日中関係をもまた悪化させてしまいました。全国制覇をなしとげた徳川家康は六世紀半ばの勘合貿易の途絶以後、半世紀にわたって不通になっていた日明貿易の再開
第9帯主そこで思いついたのを企図していたのですが、
しかし、「出兵」のしこりがあって彼の計算,とおり事は運びません。
は、琉球を斡旋役にしてこじれた日中関係を越えて中国側にはたらきかけるというものでした。そのために、琉球王
し
円LnHd 円、u
qtu ハHuqベu
特問題)。
家康の主向を察知した琉球側は、
国を将軍権力の従属ドにおいてその役目を果たさせようと考え、将軍に対する琉球使節の派遣を求めてきました
来
あれこれ理由をならべて、結局この要求もしりぞけてしまったのです。
島津侵入事件は
連の琉球側の「非礼」をたしなめるという名日ておこなわれ、
それこ、直接手をドし こうした
た島津氏の思わくを加えて惹起したものでした。家康がこの「琉球出兵」に同意を与えたのはレうまでもあ〕ません。
たしかに、島津侵入事件は旧体制H肯琉球に終止符を打ち、新しい時代日近世琉球へと転換させる契機をなすもの
でした-か、右に略述した点からも了解できるように、その事件は日朝・日中関係とも深くむすびついてレたのです。
そのようにとらえると、たとえま秀吉時代の「朝鮮出兵」と家康時代の「琉球出兵」とは全く別の事件などではなく、
中匡(明朝)の冊封体制の弱体化を背景とする確立期日本封建国家による、旧来の東アシア世界秩序へのH挑戦μと
して惹起したもの、と統.的に理解することができるのではないでしょうか。そしてまた、右のように考えると、
こに見る問題の構造は琉球処分において認められる三つ日の側面の構造に実によく符合してレると思えてならないの
-:394-
です。つレでに補足しておきますと、七の問題の構造は一一//0年代の「琉球問題」や「朝鮮問題」、十六世紀末期か
ら卜七世紀初頭におけ
る「
朝鮮出兵」や「琉球出兵」といった外的インパクトによって惹起した事件につレてのみ見
られるわけでは決してありません。そう思う理由をここで例だけ挙げておきましょう。
ト間性紀後半から卜五附紀初期にかけての時期は、東アンアこおける大きな変化の時期でした。中国では元にかわ
って明が建国されご三六八年朝鮮においては内七O年余にわたって君臨してきたところの高一臆がほろび李成梓
の手になる李氏朝鮮が樹立されます年)。
二九
日本でま南北両朝の合一が実現し-九年)、室町幕府が最
盛期を迎えていたのですが、わが琉球においてもやはり一大変化があらわれているのです。
ましくこの
時期
u.
に琉球王国が倒立されているのです。
u北
つの小国家の鼎立状況の中から尚巴士心が登場
し、
彼はまず中山の覇権を予中にし
,什叶Iパμ山南とレう VLI
() 年
つレで山北て内を、
最後に山南二円二九年)
をあレついで攻めほろ,ほして統一王朝H琉球
六し年)
国を建設していwます。むろんこの時期に、琉球は中国をはじめ朝鮮、白木、東南アシア諸国との問に公式な外交・ 交易関係を展開しはじめてレるわけですが、
そうした交流史のバックグラウンドに東アジアにおける新しい変化があ った、とレ
えるのではなレでしょうか。琉球歴史における節目はここでもまたグローバルな歴史状況に連関しており 問題の構造にもまた連動してレるのです。
歴史における二重の主体性phd n同J円べυ私のレう問題の構造は、戦後
の「
朝鮮戦争」の時期
にもやはり認められるのですが
、」こではもうこれ以上、再説
する必要はなレでしょう。沖縄歴史の転換点H節目の時期は朝鮮、中国をはじめとする東アジア全体の転換点H節目
にも同時に重なっている、
そのことをご了解いただければそれで満足なのです。
ところで、「琉球からみた朝鮮・中国」と題して書くとすれば、琉球と朝鮮や中国との間に展開された交流史のア 補説と参考問題
ウトラインを紹介し、
そこから何らかの示唆をひき出すというのが通常のスタイルだと思うのですが、
私はここであ
えてそのオlソ卜ックスな方法はえらびませんでした。沖縄歴史の節目が東アシアの節目に連動してレる問題の構造
を、
稚拙ながらもあえて強調しようと考えたのです。むろん、
それは理由があってのことです。
第9�
とレうのは、
たしかに歴史はすきさった過去として客観的に存在する世界であり、
それを探究する学問もまた客観
その条件下においてわれわれが歴史を考えようとする時、
つ よr124dirt-的刀法に支えられた科学なのですが、一重の意つ11
味の主体性を尊重し保持する態度が必要である、
とあらためて痛感するからです。重の意味での主体性とは
歴史 家の側の主体性と歴史そのものの帯びる
体性のことです。
島沖侵入事件を例にとると、研究史のうえでその事件は長いあいだ侵略した側の論理で方的に叙述れ
てき
まし
た。ひといケースになると、琉球側に落度があったから「出兵」は惹起したなどと、まことに陳腐このうえない議論
まで登場してきます。あるいはまた、「出兵」はH大局的見地Hから見るとH歴史的進歩Hであったなどと真面白顔
で説く研究者までいる始です。私にいわせればこの程度の議論が歴史の議論としてまかり通ったことこそ奇妙な
のですがここで歴史に向かう歴史家の主体性はおろか歴史そのもののもつそのことはさておくとしても体性ま
でがネグレク卜されていることに大いに問題があります。
「出兵」にはむろん目的があり、phu nuJ 円台U その日的に沿った軍事行動の経過があるわけですが、同時にまたそれを派生させる
動因があることも忘れてはならない。そうした一連の動向を明確に把握し、そのことによって「出兵」という歴史的
事件を相対化したうえで、真相に迫る歴史家の主体性は絶対に不可欠です。当たり前のことをいまら、と思う方も
いらっしゃるかもしれませんがこと沖縄歴史についていうと、名だたる歴史家の間でさえこの当たり前の原則が遵
守されなレケlスが多いのです。「琉球出兵」を相対化し、その真相に肉迫する主体的な研究は、近年になってやっ
と梅木哲人「近世における薩藩琉球支配の形成」(『史潮』一号・一九七三年)、紙屋敦之「島津氏の琉球出兵と
権力編成」(『沖縄史料編集所紀要』第五号・一九八O年)などを突破口に切り拓かれつつありますが、今後なお推進
していかなければならない課題の一つなのです。
また、「出兵」する側の論理の究明
とと
もに、侵略をうけた側の論理の把握も当然必要です。島津侵入事件は琉球
国にとってレかなる意味をもったのか、また、その事件はその後の歴史的展開をいかに規定したのか、という問題
です。
研究史をふりかえってみますと、
沖縄出身の歴史家の議論には例外なしにこの種の観点が貫かれています。
当
然といえば当然なのですが
ここにもやはり問題点が含まれているのです。
それは、
歴史を被害者の眼で見
しかし
る傾向が強く、近世のμ諸悪の根源μをこと
ごとく島津侵入事件とその影響に
解消してしまう陳腐な、平仮な歴史解
釈に堕していることでしょう。ある大家が、
おかげでlノ々の顔つきまでいびつにな
ってしまった、
と大真面目に書い ているほとです。私の意見では、こうした種類の議論にもつまるところ歴史に向かう歴史家の主体性が欠如しており、 歴史家の狭レ料簡に歴史そのものを無理に押しこんでしまうやり方の一タイプにすぎず、
先の「出兵」側の立場に立
Jコ
非らかわり侵略をうけた琉、なぜなら体‘がありません。何ルとベレの派球王国はその後のあらたな状況の中で、
主体的な対応を随所に展開しているからです。その歴史具体的な真相は、侵略をこうむった側の歴史を克明に掘りF
げ、
立体的な諸事情を全体的に把握することなしには開示できません。
歴史そのものを相対化し、客観的にヴiハ同J円〈d つまり
認識する歴史家の主体性が」こでもやはり問われているのです。
こうした問題含みの状況を克服する努力が、
近年沖縄歴史研究の分野で木格的に推進されはじめてお
り、すぐ
れた
いくつ
かの研究がすでに発表されています。
その動
きは
、先に触れた梅木氏や紙屋氏らが代表する、「出兵」する側 の問題の主体的把握と連動しながら展開されていますので、今後面日を新する諸研究があいついで発表されること
補説と参与問題
になるでしょ
う。
歴史家の側の主体性を発揮した仕事が前進すると
それにつれて歴史そのもののはらむ主体的世界も復権される
とになるはずです。「出兵」する側の一方的な論理で歴史を描
レたり
、あるいは侵略された側の被害者の眼で歴史が
者� 9 Y
説かれるとなると、たしかに実体として存在したはずの歴史そのものが切り裂かれる結果となり、真の歴史像は定立
できません。歴史そのもののもつ主体性がないがしろにされる結呆を招くだけです。
そういう問題状況をふまえたうえで、
私は沖縄歴史の側から朝鮮や中国の問題を考えたいと思っているので
すが、
それを目指す確実な方法は、
自己の立つ所から
骨骨か
わ
他地域の問題をとらえるという態度ではないでしょうか。まり、沖縄の歴史を掘る、琉球王国の問題を追求してレく、その際、それらの状況が一人で完結しているのではなく、
朝鮮や中国の問題に連動している、
そうした問題の構造を認識していくことが今とくに大事である、
と考えるわけです。
沖縄の歴史、
ことに琉球王国の歴史をひもといていくための単なる素材として朝鮮や中国の歴史、
あるいは『高麗史』や
『李朝実録』『明実録』などのトキュ
メントを求めるのではなく、
自己の歴史が立っている舞台を見まわして、
自分と共演しているはずの別のアクターを確実に確認する眼をもちたいので
す。
そうすることによって琉球王国のひ めている世界をとらえたい
、これが私の関心事の一つなのです。
残された多様な史料に
(朝鮮・中国と
の交流史を伝える史料はかなりの量存在します
)、
右のような思いをこめて 命を与えることができるかどうか
いうまでもなく
そこから先が私の正念場です。
琉球王国における王宮と港
琉球王国は、
三山の統一をなしとげた尚巴志の手で一内二九年に樹立され
た。以後、
ノ七九年(明治十
の)
琉
球処分により「沖縄県」が設置されるまでの四五0年間の長期にわたって、琉球王国は存続しつつけた。
」の王国の歴史は
六O九年の島津侵入事件をはさんで前後二期に大きく区分することができる。
前期は独立自
営の王国時代、
後期は薩摩繕を直接の管理者として幕藩制国家の従属的な王国として位置づけられた時代、
と規定で
きる。最近の琉球史研究では、前期を「古琉球」、後期を「近世琉球」と呼び概念的に区別する傾向が強くなってき
た。本節では、古琉球日琉球王国前期の歴史状況のなかから、国家形成の特質を考えるうえで参考となる若干の問題
点を指摘してみたい。
琉球王国の歴史を考える時、まず第一に着目すべき点は、それが島唄地域に形成された国家、すなわち「島唄型国
家」、「海洋性国家」であったことである。王国が版図とした地域は、北は奄美諸島から南は与那国島におよぶ範囲で
あ
り
この範囲はほぼ本州の長さに匹敵する。広大な海域に弧状に分布する島唄を国土として統治する琉球王国のよ
うな国家の場合、国土の統合原理として海運が不可欠な前提とならざるをえない。
つまり 国王の命令、貢祖も船舶
による海上交通をぬきには語れないのである。『おもろさうし』に収められているオモロ
歌神 のなかに造船・航
海をうたうオモロが多くみられるのは、その良い例といえよう。「海」と「船」、それをつなぐ論理が王国に求められ
るのである。
補説と参考問題
第二は、琉球王国の地理的位置とそれを包む国際社会の問題である。
琉球から見ると、
西に
「唐」があり、北に「大和」「朝鮮」が、南にハシl海峡を越えて「真南蛮
」の
世界が横た
わっている。これを海上交通のメインルートである東シナ海を中心にながめると、西に中国、北に日本・朝鮮、南に
第9章
東南アジア、そして東に琉球がそれぞれ位置する。東シナ海は、あの東地中海のように、内海としてそれらの地域を
むすぶ役割を担っていたことがわかる環ンナ海世界)。琉球における王国の成立と発展はこの国際社会の存在を
-"')
-398-
ハ同dn斗d qぺU
ぬきには語れなし。農耕社会が卜二階一紀頃になってやっと成立するにもかかわらず、国が早々と十五世紀には成立
すること、東アシア・東南アシアにおよふ大交易ルートを形成して屈指の「貿易国家」を現したv」と、なども上
記の点をカウントに容れないかぎり説明できないのてある拙著『新版・琉球の時代』ひるぎ社参照)。
第三は言語と宗教の問題である。王国の版図は日木語の姉妹語てある「琉球語」の文化圏を構成する。ここで
事
-FA早←
1川今ι
JJl
この言語文化圏で中央語としての首里語が王国の行政語として成立したことであろう。『おもろさうし』も
辞令書もすべて首里語で畳一円かれたのであった。
see,A守ムャ・人SI
P
た。聞得大君を頂点に君々、大阿母、 また、
精神的な-ハックボーンとして固有信仰のシステム化がはかられ
ノロといったピラミット型の神女組織がつくられたのも、王国のイデオロギー
的な基盤つくりのためであったといえる。
国の経営的な機能の問題を第円にあげたレ。それは王宮(パレス的な機能)のもつ拠点
-400-
と港(ポート的な機能)
形成のなかに集約されているのであるがこの点についてはやや詳しく指摘してみたレ。
琉球王国の王都は首里であった。首里は王宮である首里城を中心に形成され、貴人・官人層が集住した。首里城に
は王国の統治組織である王府(首里王府、琉球王府という)があり、そこには版図に関する情報が収集されていた。
たとえは、奄美のあるノロを任命する場合、そのノロこ付帯する役地(ノロクモイ地)の所在、面積が把握されてお
り、それにもとづレて梓令井が占かれた。こうした王宮首里岐を中心とする首里の機能を仮にパレス的機能と称すと、
これとは際立った対称的機能をもっ所が那覇であった。
那覇は港を中心に形成された街である。
ここには迎賓館的な性格の施設「天使館」があり、
また、八ム倉「御物城」、
給水源「ウテインタ」などがあった。
対外貿易に関する業務を扱う機関や版図の島唄経営のための機関も、
ここ那覇
に存在した。商取引のための施設、外国人の店なども那覇にあったが、とくに沌日されるのは中国ノの屈留区「唐営
(久米村ご
が立地したことであろ
う
。 久
米
村は卜内世紀末頃から琉
球にやっ
てきた中国
人の地区として発展し、対 外貿易の推進仁、通訳・外交文書作成・造船・航海・
政治顧問な
ど
の面で不可欠なノ
材を提供した。つまり、那覇は
対内外の
ための施設
・機関・人材
を提供する
、
港を拠点に形成された街た
ったのである。
これを仮に
ポ|卜的
機能
と
呼ぶことにしよう。
以上にのべたことからすると、
琉球王国は、
首里のパレス的機能と那覇のポl卜的機能を統合する形で王国経営の 拠点中根機能をもっていたことがわかる。
首里と那覇
は地形上空間的
に区別されてレた。那覇
は河川と浅瀬が複
雑
に入り組んだ島状の
低地
に形成されており
、
その東万七灰岩台地に首里は立地した。
したがって、
首里からは
「浮島」とも称された那覇
を遠望できた
。
一円五 年、尚金福王の時代に那覇と首里の
交通を利便な
ら
しむるため
「長江堤」
と呼はれる海中道
路
が建設され
てレる。
-401-
ま
た、
尚真王時代の十六世紀には、
首里城の警護と那覇港の警備のために軍事的な防衛ラインが設定されている。
那覇
港北岸の三重城、
南岸の屋良座森城もこの防衛ラインの一環であった。
以上にのべたように、
たしかに肯里と那
覇は機能・地形上分離
されていたが
、
同時こまたそのハレス的機能
・ポー ト的機能は交通・軍事上一体として
結合されてレたのである。
いうまでもなく、
両機能を統括する王国の拠点中恨の
補説と参Jす問題
頂点に国王が君臨した。
宮の主も王であり、
港から海外へ船出する貿易船も王の所有、
版図の島々からの租税を受 け取るのも主であった。
たとえてレえば、
王を頂点に戴く体制を王宮(パレス的機能)
と港(ポl卜的機能)が車の 両輪となって推進した
ということができるのである。
苛� 9 tji:
私は以前、何度かマラッカ
(マレーシア連邦マラッカ州の州都
に出掛けたが
このや内都を中心に繁
したかつて
マラッカの王
(スルタ
ン
の君 のマラッカ主国もやはり琉球主国同様の拠点中根機能をもってレたことがわかった。
臨する工宮のあったフキット・マラッカは港に面する小高い丘上にあり、その眼下に諸国の貿易船が出入りしてにぎ
わったマラッカ港がある。港付近には外国人の居留地があり、今でも天妃信仰の寺院がある。マラッカの港を管理す
港務長官)がおりマラッカ在住の中国人屈留医の代表者にカピタンがいた。これも琉球る長(日にシヤeハンタール
の「御
W
城御鎖ぢ昨
」(対外貿易の長官)、「久米村総役」(中国人の居留区久米村の代表者)
と同じであり
、また、
米村に天妃宮が存在したこととも類似している。
は、東南アジアの沿岸部にはマラッカ同様の形態の国家が無数に形成された。
港 (ポート的機能)
と王宮(パレ
ス的機能)の組み合わせにより成立するこれらの国家は、領域の把握を指向する陸型の国家に比べて海上交通に依存
する度合が大きく、海に浮かぶミクロコスモスのような海型の国家であったといって良い。マレl半島にまマラッカ
のほかにパタニなどこうした海指向型の国家||近年では「港市国家」と呼ぶーーが多く、陸型の国家研究に慣れて
きた従来の歴史学には異質とも思えるテ!マをなげかけている。
琉球王国は、その国上が島唄であったがゆえに、また、環ンナ海世界の国際環境を背景に壮大な貿易を展開したが
ために、陀型の国家であるよりもはるかに東南アジアの海型の国家、すなわち「港市国家」を念頭こおいたまうがわ
かりやすい。つまり、米作などの農業生産を基盤とする領域型国家のレベルで捉えるよりも、海外との交通を維持し
貿易を前提として成立するタイプの国家として分析したほhつがわかりやすい。その好例として-例をあげると、当時
の琉球王国の王府組織は貿易船の航海体制をモデルとして編成されていた。行政のセクションは「ヒキ」と呼はれた
が、その名称は貿易船の名称に一致していた。「ヒキ」の長官は「船頭(勢頭)」と呼はれたが、
それま貿易船の航海
責任者の名称と同じであった。「ヒキ」名をもっ貿易船が船団を組んで航海するようこ、王国組織もまた」
一の「ヒ
キ」の編成によって運営れたのである。
琉球王国の
問題にはなお
興味ぶかレテーマが数多く横たわっ
てい
るが、
ここではv」の程度にとどめておきたい。
「アジアと沖縄」
を見つめる視点
「アジア」への田山い
/シ
ア附界のなかに沖縄を置き、
じっくり腰を落ち着け歴史や文化の諸相を考える
、このことま沖縄研究者にとっ て長レ間夢のような課題であった。
00
年間の歴史的現実は
、右の課
題を追究するう
しかし、沖縄をとりまくこの
えで大きな墜となって立ちふさがっていたように思う。第一に、琉球処分後の一00年間、
日本の歴史や文化、
社会
とのか
かわりにおいて沖縄の位置を確める、
といった問題を中心的な論点におかざるをえない深刻な
情が横たわっ てレた。「沖縄県」設置にともない「日本人」として生きねばならなく
なった時、
沖縄戦で「帝国臣民」としての「忠
補説と参考問題
誠」ふりを発揮しなければならなかった時、
そして戦後、「也国日本」
への復帰を宿願としなナればならなかった時 そのいずれの時点においても、私たちの最大の関心事
は「日 本と沖縄」の問題
におかれざるをえなか
ったのである。
こうした状況ドにおいては、
アジア世界のなかに沖縄を置いてじっくり考えるという余裕など生まれるべくもなかっ
出9 li":
た。一つけの障害は、
研究者がじかにアジア柑界の諸相に
触れる機会をもてなかったことである。
アジアた
とえ
ま、
を旅するチャンスにい忠まれたのは東恩納寛惇くらいで、伊波普猷や真境名安興、
比嘉春潮という研究史に大きな業績
久
-402- -403-
を残したはずの研究者のほとんどが、
アシアを親しくその日で見る機会をもてぬまま他界した。
アシアという国際社
会のト仔花をぬきに沖縄の歴史や文化はとうていとらえきれない、
という点をJ
倍痛感していたはずの彼らが
その 思レをとうとうとげることもなく研究史を墓所として長いねむりについてしまったのである。
σ〉右
つの壁は、
現在の私たちの時代に至って大きく変化し、
研究者を拘束する力を急速に失いつつある。
現在では、その気になればアジア各地に出かけることができ、見たいもの、聞きたいことを調べまわることが可能な時代と
なった。「日本と沖縄」の問題を依然として保持しながらも、
そのうえに「アジアと沖縄」をしなやかな知性で考えぬく余絡が生まれてきた。
そういう新しい時代がめぐってきたことを幸福に感ずると同時に、
幾多の先達たちがなし
とげられなかった夢のような課題を、
今、
私たちの責務と位置づけるべき時代がやってきたことをつくづく思わざる
をえない。
-404-
前の時代に比べると
アジア世界のなかに沖縄を置いて歴史や文化の諸相を考える研究者の数はしだいに増加して
きている。研究者間のミーティ
ングや酒場の雑談においてさえも、
アシア各地の話題が日常的にとりざたされるよう な状況を迎えつつあるのである。
県民のあいだでも、
自分たちの土地の歴史や文化とアジア世界とのつながりに関す る興味が日立って強くなってきたように思う。
たとえば、「泡盛はタイの酒ラオロ
ンに学んでつくられたものだと聞きましたが、
当ですかっ」「亀甲墓、
あれは
中国から来たものですか?」「紅型も東南アジアから来たものなのだそうですねっ」
「ウチナ|グチ沖縄方言
のチ
ュフ7l一フ(満腹した)は中国語ですって?」、
といった類の質問を私はさまざまな場面で多くの人々からあびせら
れた経験をもっ。そのたびに、私は「そうですね。とても一円では説明できないのですが、つまりその、背景がとても複雑で、
おまけに資料も少ないものですから」と、
自分でも伺をいっているのかわからないくらいしどろもどろ
になってしまレ
つレこ主自分の無知さ加減をあらためて痛感させられる羽目となった。
レうまでもなレv}とだが
アシアのなかに身を置レて沖縄の歴史や文化を考えるとレう夢のような課題は、
それこ
そ大変な大事業てある。何卜年、レや、何百年もの時間を費やし、
はく大なエネルギーを沌きこまなけれはとうてい なしうる事業てはない。
あせらずに、性急な結論を求めずに、向分がタメなら次の附代がレる、次の世一したがって、
代でダメならさらにその次の悦代がレる、とレった式のタイム・スパンを堅持する必要があると思う。こうレう種類 の大事業をもつことのできる社会は幸福だと私は思っているが、それはともかく、長期にわたる大事業に向けて今や っておかねばならない小さな課題が少なくとも
つある。
沖縄てアシアを考えつづけている研究者が、
を持ち寄ってきて、情報交換、意見交それぞれの分野の成果やテl
換をおこなレ、今、何が問題なのかを共通認識にまで高めるための討論を随時実施すること、これが第一。第二は
-405- え」辛品まな機会をとら与えて、多くの研究者・県民がアシア各地に積極的に出かけ、「百聞は一見に如かず」を実践す ることである。討論と見聞、見聞と討論、
そのことをにぎやかなまでに推進すべき時ではなかろうか。
五CO年前、有名な尚真王
ハ)時代の沖縄のty円は九万tf弱程度にすぎ古かっ
た。中国の(在位一円七七1一五
別朝とのあいたて展開された進貢貿易
七O年の問、中国に渡航した琉球人の数は推計で延べ一O万人まどこ達する
fIIj説と参考f:�HW
見込みである。つづく清朝との
O万人が渡海したと推定されるので
し年に及ふ進貢貿易の期間におレても延べ
中国との交流五00年間を通じて、実に二O万人もの沖縄の』ノ々が東シナ海を鑓えた勘定になる。
このような壮大な交流史の渦中におレて、沖縄のJ々が中国文化を大いこ学んだであろうことは容易に察しがつく。
日9;(では、「沖縄文化の中にいかなる形て当時の交流の成果が生きつ.つけてレますか、
L、
しー
その証拠をボしてみてくだ
せきれるだろうか。しかし、研究者はこの質問に答えるべきと問われた時、何人の研究告が窓地悪な質問者を満足
宿命を背負っている。答えを求める途は一つしかない。中国に出かけ、中国文化をじっくり勉強することである
。同
時にまた、比較するために自分たちの文化を明確に把握しておかなければならない。すると、そこから一つの問題状況がおのずと浮かび上がってくるはずである。
壮大な交流史の時代が過ぎ去った後、沖縄文化が大いに変化してきたと同様に、中国文化もまた大レに変容してきた
。こ
の変化・変容を念頭において両者を見つめ、比較しなければならない、という問題状況がその一つといえよう。その一は、変化・
変容を念頭において比較すれば歴然とするはずだが
、文化の交流には学び採り入れることも多々あ
るが、同時にまた、学ばないこと、
採り入れないことも多々存在するという問題である。
たとえば、琉球は漢文を学び採り入れ公用文としたが、
中国語を自国の公用語に採用したりなどはしなかった。
墓のデザインに中国の亀甲型式を採り入れはしたが、墓制・葬制の基本、他界観などを中国式にすることはなかった。おびただしい種類の中国楽器を採り入れはしたが、しかし最終的に受け入れたのはサンシン(三味線)の
みで あっ た。
このように、
文化交流は一方的に展開するものではないのである。
一見そのように観察されるにしても、受け取る側の文化状況、文化的主体性がかならず存在する。たとえば、サンシン
二味線)が中国からもたらされた点はまち
がいなく、
私も福建省泉州市の楽器店で胴にニシキへヒの皮を張った中国サンシン
(三味線を何種類か見たが
かし
五
ハOO年も経った今、
両者はそれぞれの音楽生活の中で別の役割をもっ存在へと転化してしまっている。
沖縄のサンンン(三味線)は、琉球音階と琉歌、琉球芸能こ囲まれ、
日々の生活の中の喜怒哀楽をともなってレるの
であり、中国サンγン(三味線とは別の生き方をしているのである。サンシン(三味線の沖縄化このことの中に沖縄の文化状況
文化的主体性があざやかに象徴されている。
今年二九八円年)の八月卜一一一日、台風の最中で開催されたパネルディスカッション「中国文化と沖縄」は、
と もかくにもこの種の
テーマにからむ
問題をそれぞれ持ち寄
って
きて
、研究 交流をまずはかることが先決だ
、とレう趣 旨から実施されたものであった。
お互レの見聞や関心、
問題意識を
つきあわせてみたレと
レう当面する課題を実現す る第 歩であったが
いかんせん時聞が足りず意を尽くせね結果となった。
とはレえ、
熱レまなざしで
中国しかし
を見つめる研究者が沖縄にはおり、
多くの研究がさまざまな方法でとりくまれてレる点を確認する、
という所期の日
的は十分に達したと思う。
なぜアシアなのか、
なぜ中国なのか
、とあるいは問うひとがいるかもしれなレ。
答えはまことにかんたんである。
沖縄を傑く知るためにアシア、
中国をわれわれが必要としているからにほか
ならなレ。セクシ
ョナリズムにおちレら
ないために、
沖縄においてアシア
、中国をしなやかな知性と情感で
考えつ
ごつける必要がある
からにほかならない。
他者との交流史の遺産を捉えること
は、
角度を変えて見ると
つまりは自分たちの世界への旅であるといえる。
自
分を知らずして他者を認識することはできなレ。
同時こまた、
他者を知らずして自分を知ることもできなレ。
私たち
の社会の深奥を見るために、
そして、私たちの社会の可能
性を探るために
、肩の力をぬして、
アシアのなかに沖縄を 置いて考えてみたレ
V」れが私のひそかな決t目んである。
補説と参考11:]l芭
福州シンポジウムか、り 九八五年七月四日1五日の一口問、福建師範大学(福建省福州市)におレて「福建l沖縄学術・文化ゾ
ンポ
シウ
ム」(沖縄タイムス社主催)が開催された。
沖縄から四名、
福建側から二O名余の研究者が出席
し、熱つまし討論が
第9�
展開されたのであるが、
私もその席にいた。
このシンポシウムについて、
私なりの覚書を以下に記しておきたい。
琉球と中国の交流史の主要なテlマは
いうまでもなく一一一一七
年の察度による進貢の開始から一八七九年の琉球
し
-406- 407-
処分におよぶ丘0年間の冊封・進貢関係の展開てあろう。この関係は外交を前提とする公的な交流であり、それに
ともなう貿易・文化
の交流もまた公的なものであ
った。しかし、ここに着目すべきつの論点が横たわっている。そ
の aつは
琉球・中国の交流そのものは
七年以前にかのぼるのてはないかという問題であり、ムヴJつは、冊 封・進貢関係ドの公的交流時代こあって
も私的交流は多様こ存在した
のではないか、という問題である。この一
/フ
σコ
論点に関して
福建の歴史家の認識とわれわれの認識とは基木的に一致していた。
劉ぃ忠孫福建師範大学は『史記』の「檀州」琉球・中国の象形文字の
を琉球に比定する大胆な仮設を述べた後、
類似点などをあげ両者の交流ははるか漢代にまでさかのぎるのでまないか
と指摘した。沈玉水泉州市海外交通史
博物館)は、北宋代に福建産のレイシが口木・新羅・琉球に輸出
『筋枝譜
』元代に庄や、また
れた事例
禁裏
大淵が琉球と見られる島を見聞した事例(『島夷志略』)
両者の交流はすでこ卜
世紀ごろからはじまなどを,不して、
ってレたと力説した。
冊封・進貢関係ドの私的交流について、たとえば王連茂(泉州市歴史学会硲書長)ま、泉州なと聞南地方の住民の 間で琉球との私貿易が盛んにおこなわれていた状況を指摘しこま
「倣琉球
その根拠の一つに闘南とくに恵安県
(ツオ・リュウチュウごという言葉があり、その意味するところは「琉球貿易こ出かける」ことである、という事
例を示した。
学南洋研究所研究生)も、冊封・進貢関係は形式にすぎず私貿易が内であったと強調謝必震
1豆門
し、そのつの状況として闘人卜六性が故地とのコネク・ゾョンを活かして盛んに私貿易を展開したと考えられる、
と述べた。謝はそのほかに、間南でま海禁を破る中国Jが多かったこと、尚清王代の陳侃『使琉球録』の記述および
陳貴事件なとも例に出してしたが、私も全く同感であった。
福住の歴史家の窓見を聞きな庁ら、私の頭の中を去来したのは次のような問題であった。複雑で長い海岸線をもっ
福建の沿岸住民の立場から考
えると、東・γナ海を越えて琉球に出向
くことはさほどむずかしレことではなく
、たとえ
琉球
との関係が公
的・国家的なものであったにしても、
沿岸住民の活力はそれに完全に拘束されることはなかったの ではないか。歴史の
実際は国家聞
のタテマエにあるのではなく、住民間のニーズと行動
により重点を置いて
展開した
と考えるべきではないのか。私も報告の中で
、冊
封・進貢関係まタ
テマエであり
、その内部に私的交流を多様に含ん でいたはずだと力説し
この観点からすると、琉球・福建の交流史は、
さまざまな動向をはらんだ「環・γナ海地域」
の歴史として体化される必要がある
と述へた。
察度によ
る進貢開始以前
の琉球・中国交流の存在問題こしても、沖縄の各地から宋・元時代の磁器片が出土するζ
と
七a年に明が琉球を招諭する際に中国側はすでに琉球に関する情報をもっていたこと、
などの根拠をあげる
までもなく、当然
存在したと見なければならない。
察度の進貢開始は、
そうした歴年の私的交流に公的交流という作 組みをかぶせたにすぎないのではないだろうか。
以仁の基本認識を共有していることをともに確認できたこと
が、
少なくとも私にとっては今回のシンポジウムの収
穫の一つであったと考えている。
福州に琉球人墓が存在することは周知の事実であろ
う。
この琉球人墓に関する徐恭生(福建師範大学)
の報告はき
補説と参考問題
わめて詫けすべきものであった。
徐は琉球人墓の特徴を指摘した後、
ノ三基におよぶ墓碑の銘文を戴せた論文を提供
してくれた。「福州倉山区琉球墓初採」と題されたこの論文は、『福
建師範大学学報』哲学社会科学版ご九八五年第 期)に掲載されたものであるが
その中に九六三年と
九八O年の二度にわたって調査された琉球人墓碑銘八
第9章
件が紹介されている。琉球の地名・人名・
位階役職名に不案内のためいくつかの読みちがいはあるものの
、この仕事
は画期的といってよい
。な
ぜなら、この
仕事によりわれわれは大量の墓
碑銘を前提に琉球・中国交流史を論議できる
-408ー
-409-
ようになったからである。
徐の示した墓碑の一覧は沖縄タイムス
九八五年七月二十一日付の紙面に私の責任において発表したが、
その中か
らいくつかの重要な事実を確認することができ
る。
前々から問題になってレるように、
琉球人墓は十八世紀以後
の年
代をもつものしかなく、
それ以前の古い年代のものは一つも見当たらなレ。
被葬者は進貢貿易で渡航した
人が大半を
占めるが、
中には漂着者などのケlスもやはり含まれてい
る。
被葬者に慶良聞の人がかなり目立ち、
同地が進貢船の
水主の供給地であったとレう事実を一
点の疑レもなく例証してくれてレる
。興味深レのは、琉球処分後の脱清Aノ
亡 命者)が伺人か含まれていることだろう。
たとえば「湖城以恭」は脱清人調書史料に登場し、
明治十七年十二月現在
中国にとどまっていることがわかってレたが、
彼はその後も帰国せず、
)に客死し、福州市明治内十四年(
九 倉山区の墓地に葬られたことがわかる。
明治十三年二八八O)に死亡した内問筑登之親雲上(久高島
、屋
号「大里」)
-410-
は、
脱清人を乗せた馬艦船の船頭であった。
このように、
琉球処分という世替わりの歴史を異郷の地で身みずから刻 んで果てたiノ々の人生を、
墓碑はわれわれに示唆するのである。
徐の研究を参考にして私が知りえた事柄が三つある。
一つは、
去年沖縄タイムス社の大交易時代ツアl班が確認し た三基の琉球人墓は徐氏のリストに戴ってレないので、
それを加えて計八六基の墓碑が現段階で認知されたことであ る。七基が現存することである。内訳は倉山区に二一基、間基、福建省展
干山
つ目は八六基の墓碑のうち
覧館に一基である。三つHは、
現存しない残り五九基はおそらく拓本で福州市文物管理委員会に保存されているとみ られることである。その理由として、福建省展覧館に拓本占…が展示されてレること、倉山区でここ二、三年の間に 少なくとも二基の琉球人墓が拓本をもとに復元されていること、
などの点をあげることができる。
ゾンポシウムの席で、
琉球の指定港が泉州から福州に移された理由をめぐって中国歴史学界で
定の論議が交わさ
れていることを知った。
泉州后渚港が晋江の運ぶ土砂のため浅くなり港湾としての適性を欠いたためなのか、
それと
も、私貿易者の多い闘南の地を避けるための政治的配慮からなのか、今さかんに論議されているらしい。
泉州からンンポジウムに参加した三人の先生とは同宿であったため、食事の時間に親しくお話をうかがうことがで きた。三人の先生とも一口に福建とはいっても福州一帯と泉州など間南とでは言葉も習俗も異なると力説し、文化的 には琉球は闘南とのかかわりが深いと思う、とあれこれ例をあげて話していた。泉州歴史学界の長老である陳澗東(泉 州市文物管理委員会
は私を指して「間南人ことに漁民の顔つき、
体つきをしてレる」と評し笑っておられた。
おみやげに各先生方からたくさんの論文をレただいた。それにいま目を通しているところであるが、本格的な学術 交流をおこなう条件がようやく整いつつあることを痛感している。
4A守
四 沖縄近代史のなかの河上肇
補説と参考問題
とくに「沖縄見聞録河上肇が沖縄調査旅行に際して作成記述した三冊のノl卜のうち、明治四十四年四月」と題
する一冊は、河上の沖縄に対する関心を知るうえでわれわれに興味深い手がかりを与えてくれる。
第9言宗
河上は明治内十四年)四月一日那覇に上陸した。当日地元の新聞には「河上先生を迎ふ」と題する歓迎
九
の一文が掲載されたが、河上はこの文章をそっくりノl卜に写しとっているのである。伊波普猷などとの接触の模様、