被差別部落教育史研究への視点
一とくに融和教育史研究に寄せて一
川 向 秀 武
は じ め に
私は,修士論文『被差別部落の教育にかんする研究一とくに「融和教育」の成 立過程を中心として一』において,明治4年のいわゆる「解放令」から,昭和7 年10月の文部次官通牒「国民融和二関スル件」にいたる被差別部落の歴史をたど (1)
りながら,「融和教育」が,どのような過程をとおって成立してきたかを,きわ めて不十分ながらもあきらかにした。その中で,「融和教育」の成立と展開過程 をとらえるために,次のような時代区分を試みている。
(2)
1 感化教育期(明治期から,大正七年の騒動期まで)
2 融和教育への移行期(米騒動期から,昭和二年ごろまで)
3 融和教育の成立期(昭和三年ごろから,昭和八年ごろまで)
前記論文は,最初日本フアシズムの形成過程にそくして,r融和教育の成立と 展開過程』というテーマのもとに,米騒動期から終戦時までの期間についてほり さげようとしたものであったが,資料調査の段階でとまどってしまい,結局その 目的を果すことができなかった。 そのため,前記のような時代区分にもとずい て,いわば被差別部落の教育の歴史を中途半端に,通史的に羅列したにとらま
り,わずかに融和教育の成立して来る過程を分析しえたのみであった。 そのう え,十分留意しながら,教育に重点をおきつつもきわめて不十分な一般的部落史 研究に陥ってしまっている。また,資料的限界とはいえ,解放運動の原資料を検 討することが乏しく,必然的に第二次資料に依拠せぎるをえなかったことなど,
後日に期さなければならない多くの問題もあげられる。
以上のよう娠省に立って,ひきつづいて「融和教育」棚壊する織購で
の融和教育史研究を完了させるため,あらためてここに若干の問題点を検討する ことにした。すなわち,前記論文にみられる被差別部落教育史の歴史的事実にお ける問題点の整理とともに,部落教育史研究を行なうことがなぜ必要なのか,と りわけこれまで顧みられることが少なかった融和教育史研究をしなければならな い理由は何か,その現代的意味はどこにあるのかなど,以下「覚え書」的に素描 することにする。
1 被差別部落教育史における諸問題
(1)感化教育期の問題
日本資本主義の帝国主義化にともなう国内矛盾の激化に対応して,自主的な解 放へのいぶきをつみとり,「感化救済事業」あるいは「矯風事業」の対象とし て,治安維持を目的とした部落対策が,ようやく全国化(地方行政レベルから,
全国的行政レベルへの進展にみられる)する明治四十年初頭を,1つのメルクマ ークとして前期と後期に分けてとらえる。
前期においてとりあげた問題は,主として次のような点にある。
①「学問は身を立るの財本」であり,「貧乏破産喪家」を防ぐたSUに「人たる ものは学ばずんばあるべからず」という r学制」にみられる受益者負担の原則 は,一般的にみても,人民大衆を苦しめ,学校うちこわしなどの積極的な反抗を 生んだ。とりわけ,身分,職業,地域の三位一体による激しい差別をうけていた 被差別部落では,わずかに伝統的部落産業による経済的基盤をもっていた地方に おいて,自力で学校づくりをした例を見るほか,大部分は公教育から排除されて きたのである。この事実は,あきらかに,たてまえとしての公教育制度の欺隔性 をうきぼりにしている。
② 差別による公教育からの断絶,排除にもかかわらず,被差別部落民の教育要
求は,差別からの解放への願いをこめて,しだいに高まる。たしかに,一般に比
較して相対的にはごく低い就学率を示していたが,当時の部落差別の実態を考慮
にいれるならば,けっして低いものとはいえない。このことは,いかに教育にた
いする期待がこめられていたかを示している。しかしながら,各地で展開した学 校づくりも,厳しい差別のために,その多くが,部落民のみを対象としたいわゆ
る「部落学校」の形態を余儀なくされていたのである。
③明治19年の「小学簡易科要領」の制定は,尋常小学校の基準に達しない「部 落学校」などを,一応学校として認めることによって,貧児教育が益んになるぎ
っかけをつくった。すなわち,部落の教育にたいして,制度的にも着手する契機 となったものと思われる。しかし,本質的には,同年公布された「小学校令」の 基準に達しないものを,その基準にひきあげようとはせずに,あえてそのまま容 認しようとはかったものであったといえる。
④明治21年に始まる地方制度の実施,そして23年の「小学校令」改正などは
「部落学校」に大きな影響を与えた。とくに,上からの公権力によって推進され た「部落学校」の統廃合の問題は,部落差別をよりいっそう顕在化させたのであ
る。これに対して,各地で部落差別撤廃の斗いが,根強く斗われている。その基 底には,教育諸条件の悪い差別された「部落学校」ではなく,正規の学校教育を 要求する声が高まっていたことを示していた。
⑤明治30年代に入り,それまで顧みられることが少なかった部落改善策が,各 地でとりあげられるようになると,重要な実践項目として「教育ノ奨励」が注目
されるようになる。小規模の部落では,この時期になってはじめて公教育に接し たという事実もみられた(たとえば,新潟県佐渡の相川町など)。
部落にたいする教化政策は,具体的に社会教育の場において展開されている が,風俗改善,衛生改善,勤勉・貯蓄の励行などとともに,精神的改善策が重視
され警察官がその中心となるなど,警察力の果した役割は,きわめて大きい。こ の事実は,「教育ノ奨励」をその中に含む部落対策の本質を規定しているといえ
よう。
後期において,とりあげた問題は次のようなものであった。
① 国内的予盾の激化に対応して,社会政策上から見ても,民間依存による「慈
善事業」から,国家権力を背景とした「救済事業」への転換を迫られていた。そ
の具体策の1つとして,国家権力による部落改善策が,推進されることになる。
学校教育,社会教育をとおしての部落にたいする「教育ノ奨励」は,ますます治 安対策的色採を濃くしていった。それは,「家」制度や,隣…保制度を基本として 封建的共同体制を強化しようとする天皇制絶対主義権力の意図を,あらわしてい
たのである。
② 各地で警察官を中心とする改善団体が誕生し,補習教育や通俗教育を推進し
℃いた。現象的にみれば「熱心な警察官がいた地方ほどその事業の成績があがっ て」 (新版『部落の歴史と解放運動』239頁)いたが,ただたんに警察官個人の 熱心さやヒt,・・一マニズムに帰せられるものではなく,共同体的諸関係の崩壊をお
しとどめようとする部落内部の有産者層との強い結びつきあってこそ,はじめて (4)
警察官の働きを十分なものにしたのである。
③ 教育行政の整備が進行するとともに天皇制教育の貫徹がすすめられた結果,
それまで排除されてきた部落民が,強制力をもって公教育の中に送りこまれるよ
うになる。
各地にその例を見ることができるが,部落の親たちを「役場に郡役所に召喚」
して学校への出席を強要していたのである。これはあきらかに,国内的矛盾のも っとも顕在する被差別部落の自然発生的な解放へのめぎめを,天皇制イデオロギ ーの注入をはかることによって,圧殺しようとしたものであるといえよう。
④ 階級対立への止揚を隠弊すべく登場した融和運動によって,「教育の奨励之 が根本たり」(「大日本同胞融和会」の大会趣意書)として,積極的なとりくみ がおこなわれるようになる。
各地において結成された融和団体は,いずれも教育問題を表看板にかかげてい るが,その背景には次のことが考えられる。
(ア)民権論的解放論が,その政治的基盤を喪失することによって,自主的解放 運動が挫折し,しだいに精神運動に転化していったこと。
ω 力による制圧から,有産者層を媒介とする内部的な改善策によって,階級 的対立の融和を達成しようとする傾向が,強まったこと。
(ウ)一般に比較して低い就学率,あるいは,たとえ就学率が上昇したとしても
高学年に集中的に見られる低い出席率などは,国.民思想の統一を教育に託し
た国家権力にとって,見すC せないものとなってきた。そのうえ,支配機構 に組み入れるための中堅人物の養成の必要から,中等教育以上へのみちすじ をつけなければならなくなってきたこと。
国 融和運動をになう末端に,教育者が関係するようになったこと。
⑤大正デモフラシー期に入っても,ブルジョアジーの要請が優先され,貧民対 策があとまわしにされるという状況の中から,部落対策は,もっぱら 「矯風事 業」の対象として,ひきつづいて警察力(そのうちでも,特高課において担当)
によって推進されていた。
⑥ ブルジョアジーや寄生地主を基盤とする支配権力は, 「部落学校」の存在 が,「独り不経済なるものににあらず教化上に於て」その妨げとなっていること を認識することによって,強力に統一学校への指導を行なうようになる。このこ とは,現象的な差別別事象撤廃への動きを見せながらも,本質的には,部落差別 をよりいっそう顕在化させたにすぎなかった。
⑦ 前近代的な徒弟教育制度が,近代産業から排除された部落民子弟の年少労働 の利用形態として残存した。それは,部落改善事業の一環としてすすめられてい たものであったが,その実施にあたって,官吏が「徒弟監護」として任命され,
徒弟として送りこまれた部落民子弟を監視するなど,まさしく感化教育的形態を とっていた(三重県「職業改善徒弟養成規程」)。
地方によっては,昭和に入ってなお,ひきつづいて推進されていた。その要因 は,まず第1に,徒弟制度がもつている親方,小方的人間関係にみられるような 身分的秩序の温存と,家族制度イデオロギー・が重視されたこと,第2に,近代産 業からしめだされた被差別部落民と,近代化することのできない伝統的職業や,
下請零細企業からの要請とが結びつけられたことなどがあげられる。
(2)融和教育への移行期の問題
米騒動以降,防貧と教化を二大主柱とする社会政策の展開から,被差別部落民
大衆の自主的な解放運動の結昌として,ほとばしるおいをもって具体化した水平
社の創立,それに対応してうちだされた「地方改善事業」,また,それを具体的
に推進するために,地方融和団体を媒介としながら,全国的な掌握をはかり積極
的な融和政策の展開を意図した中央融和事業協会の確立までの時期をとりあつか
っている。
①米騒動は,被差別部落において「家ぐるみ,町ぐるみ,部落ぐるみ」の形態 をとって激しく斗われた。それは,もっとも抑圧された人民がもっとも激しい斗 いを示したものといえる。自然発生的ではあったが,被差別部落にとって権力と の大象的な斗いを経験することにより,解放運動への手がかりをつかむ契機とな っている。とくに,年少者が少からずこの斗いに参加していたことは,天皇制支 配体制にとって,見すごせない問題となったといえよう。
②国家権力による社会政策としての部落改善策が,具体的にとりくまれるよう
になる。
(5)
「救済事業調査会」の答申,あるいは,内務省による「民力瀕養運動」の実践 項目の中に,部落問題を含んでいたことは,米騒動期の状況を敏感に反映してい たものといえる。
帝国議会においても,始めて部落対策の予算化がなされるようになったし,部 落の有産者層を代表して 「部落改善二関スル建議」 もだされるようになった。
「物質的改善」の要求とともに,「精神的改善」の方策として,「何よりも大切 なのは…t・・信念が根本」であるから「常に説教,講演」を「親切に聴かせると云
うことが必要」であることを要請し,上からの教化運動を支える基盤を明確にし ていたのである。
③ 米騒動期に開催されていた「臨時教育会議」では,教育制度全体にわたり再 検討が加えられ,それ以後の帝国主義的教育政策の基幹となり,指針となった。
会議の討論の過程において,復古思想を中心とした国体観念の強調を主張する保 守派と,大正デモフラシー思想の影響をうけたブルジ・ア的革新派との若干の対 立が見られるが,結局は,保守派のヘゲモニーのもとに,妥協の産物としての9 項目の答申と2つの建議を生みだしている。そのうちの「教育ノ効果ヲ完カシム ルー般施設二関スル建議」がだされた過程をみると,体制的危機感にもとずいて
「禍根ヲ未然二防邊」するという視点から,階級融和の方策をめぐって激しい論
議がおこなわれていることがわかる。結論的に見るならば,「富貴階級」と「貧
賎階級」との協調,「資本ト労働トノ調和」が「刻下ノ急務」として位置づけら れていた。とくにこの特別委員会の委員長が,当時検事総長であり,のちに各種 の教化団体「修養団」や「国本社」などの責任者をつとめ,融和団体の最高機関 である中央融和事業協会会長ともなった。平沼慰一郎であったことは,この建議 のおかれた意味を象徴的に物語っている。
また,植民地教育においても, 「万歳事件」などの民旅独立運動が激しく斗わ れる状況が生みだされると,形式的,現象的な変革をはかることによって,植民 地人民の覚醒を融和することをめざすようになった。だがそれは,民族の独立を 圧殺し,天皇制思想にもとずく同化教育のよりいっそうの強化をねらったもので あり,日本の資本主義の帝国主義的収奪を拡大するものにほかならなかった。こ の事実こそ,融和政策の本質を示している。
帝国議会における部落問題のとりあつかいは,国内的な融和と「内鮮融和」と を結びつけて登場しているのである。
④ 哀願的差別撤廃運動にすぎなかった「収奪的融和運動」を克服し,被差別部 落民の主体的な解放運動として,全国水平社が発足した。それは,輝やかしい人 権宣言を旗印として,いっさいの差別を許さない激しい差別糾弾斗争を各地に展 開させる本源となったのである。このような自主的な解放運動の誕生は,天皇制 支配体制をして震憾せしめ,それまで「地方委任」によって実施していた改善事 業を,実質的に「国家直接」のものへと移行を余儀なくさせることになった。そ して各地で融和団体の育成をはかり,これを媒介として,いろいろな融和政策の 展開を推進している。とりわけ,部落統治の有力な媒介項としての中堅人物の有 成をめぎして発足した「育英奨励事業」,青年団・処女会などを対象とした教化 策,師範学校・巡査講習所などにおける融和問題講演会などにみられるように・
融和政策は,多様な展開を示すようになった。
⑤ 被差別部落民大衆は,主体的な解放運動の展開に照応して・それまでの天皇 制教育のもつ差別性を徹底的に告発した。そして・教育権・学習権の確立を要求 する立場から,みずからの教育要求をつぎつぎにうちだしている。
大正12年に,文部当局に提出された「国民教育に関する意見書」,また同14年
の「無産政党組織準備会」の組織化の過程においてだされた「水平社青年同盟」
の教育綱領,さらに同15年の第5回全国水平社大会に提起された「水平社教育方 針」などは,一定の限界をもちながらも,差別の隠弊をはかり,欺隔的な中堅人 物養成などを主眼とする融和政策側からの教育政策に,真向うから対決する姿勢
を示すものであった。
⇔ 融和教育の成立期の問題
この時期は,「融和教育」という言葉が,始めて用いられるとともに,その概 念が定着する時期である。それは,融和事業の中において始めて「融和教育」
が,独立した領域を与えられたことを意味していた。
「融和教育」の内容と方法について理論化がすすめられるとともに,「融和教 育」研究のための組織化もはかられるようになる。そして,それをとりあつかう 機関としての融和団体の全国的な組織整備が行なわれるなど,「融和教育」成立 の諸条件が出そろう時期である。
①自主的な解放運動が,差別糾弾闘争を展開する過程において,その基盤を部 落の有産者層からプロレタリアートに移行していくにつれ,しだいに階級的視点
を明確なものにしていった。勿論,それは労働者,農民運動との連携のもとにな しえたものであったが,地方によっては,水平社が運動の牽引力となっていると ころも見られる。これらの状況を反映して,融和政策は,国家権力によって,強 引に制度的な整備をとげることになるのである。
「融和教育」の具体的な推進母体である地方融和団体を統轄するところの中央 融和事業協会の再編(内務省へと直結),「融和教育」の内容と方法を定式化した
「社会事業調査会!の答申(「融和促進に関する施設要綱」),また精神教育の重視
を強調したところの第2次内務大臣訓令(昭和3年4月29日内務省訓令第6号)
などは,いずれも「融和教育」が成立してくる条件をととのえるものであった。
②融和促進に関する教育が,「融和教育」という名称で呼ばれるようになるの (6)
は,昭和3年と思われる。「融和教育」研究のための組織が誕生してくるし,融 和運動家や,部落差別に直面する現場の教師たちによって,「融和教育」論が登
場してくる。
その具体的な展開をみるならば,学校教育の場において,融和観念を導入する ために,修身教科書の改訂のさい,末梢的な融和精神をおりこませること(昭和 5年「高等小学修身書巻一」の改訂)や,師範学校における啓蒙活動の強化をは かることにはじめられている。社会教育においては,融和思想の普及を目的とし て,中堅青年,婦人を対象とした各種講演会,講習会が,質的な考慮をはらわれ ながら,頻繁に実施されるようになった。そして,この運動のテコ入れのため に,融和団体の圧力のもとに,全国的に「融和教育」への関心をひきだすことを ねらった,はじめての部落問題に関する文部省の通牒(昭和7年10月30日発社第 22号「国民融和二関スル件」)が出されたのであった。
それは,天皇制教育を強化すればするほど内部矛盾が露呈し,軍事教育に象徴 的に見られるように,「差別」は解消されるどころかますます拡大再生産されて いることにたいする,政策の側の糊塗策として,あらわれてきたということがで きよう。すなわち,天皇制教育の事実上の破綻の結果,その補完としてとりあげ られるようになったのが,「融和教育」なのである。したがって,前期において は,一般にたいする啓蒙に力点をおいていたものから,この時になると,「内部
カルト」に表現されるように,部落内部に向けての教化策に重点がおかれるよう になった。
③ 昭和3年の3・15事件は,労働者,農民運動によってになわれてきた階級的 な闘いを,根こそぎ弾圧した。先進的な闘いをすすめていた団体の一つである水 平社では,この弾圧によって中心的な活動家の多くが,獄窓に追いやられたので ある。部落第一主義や,国家権力による分裂策によって停滞を余儀なくされてい た水平社運動は,もっともラディカルな部分が弾圧されるに及んで,かなり苦況 に追いこまれていた。体制側ではこの期をとらえて融和団体を補強するために,
各種の融和政策を推進している。
融和運動の諸要求をとりあげるようなポーズを貫ぬくために,全国融和団体連 合大会を開催(そこにおいて,教育問題は重要な位置をしめていた)したり,部 落の生活実態に対応して,社会局から 「融和促進に関する生業資金融通の件」
(昭和4年3月28日発社第19号)が,関係各地方長官あてに示されたりした。ま
た教化策もますます活発化して,「修養団」方式によるきわめて精神主義的な青 年,婦人融和運動を推進している。この時期の融和団体は,かなり水平社運動の イメージをみずからの運動にとり入れようとしていた。なぜならば,下層部落民 の要求をとりあげようとするポーズを示すことによって,差別からの解放への幼 想を与え,水平社運動の無力化をねらったのである。
このような背景の中で,中等教育以上の者を対象とする「育英奨励事業」 (内 務省真轄)と,義務教育,補補習教育の者を対象とする「教育奨励」(融和団体 管轄)とは,有力な融和策としてかなり滲透させられるようになった。
④権力による融和運動の展開にもかかわらず,のちの闘いの発展にみられるよ うに,解放運動は,けっして屈服していたのではない。
停滞を余儀なくされながらも,労働者,農民運動との結びつきを深める中で,
部落の教育運動も,すぐれた実践を展開している。古い伝統をもつ京都の田中夜 学校や,東京水平社支部による「浅草プロレタリア学校」の運営などをあげるこ
とができる。とくに,水平社によって指導されたピオニール運動は,質的な面に おいて高く評価されるものであった(この点については,中村拡三「少年運動と
『新教』『教労』」〈『教育運動史研究』第10号所収〉のすぐれた研究がある)。
水平社運動初期の頃において,差別糾弾闘争の一つの手段としての同盟休校とい う戦術から,経済的,政治的諸矛盾に直面するなかで,天皇制教育を克服する視 点をつかむような成長がみられるようになったことは,あきらかに「融和教育」
に対決する子どもづくりを実践していたのである。
2 被差別部落教育史研究の意義
近代国家の成立は,原則的に封建遺制を排除することによって,近代化をなし とげるものであるが,日本の資本主義は,むしろそれを温存するばかりか,それ に依拠しかつ拡大再生産をはかることによって,飛躍的にその資本を増大させる とともに,支配秩序の維持を貫徹させてきた。したがって,身分差別の具体的な あらわれである被差別部落が,「解放令」によっても少しも解放されることな
く,むしろ極端な差別の中におしこめられてきた歴史は,日本資本主義の一つの
特質を示すものであり,密接な構造的関連をもっている。日本資本主義のこのよ うな特質が,被差別部落の教育にどのようにあらわれたかを明らかにすること は,日本の公教育の一つの特質をとらえる手がかりとして,きわめて重要な課題
といえる。
日本資本主義の矛盾をもっとも集中的に表現しているところの,被差別部落の 教育の歴史を明らかにすることは,近代日本教育史の全体像を明らかにするうえ で,欠くことのできない重要な課題である。
第1に,日本の公教育制度における差別の歴史を明かにすることによって,教
り ■
育制度のめざましい発展と,その量的拡大を無上の誇りとしてきた資本制の論理 の欺隔性(ひいてはその階級性)を浮きぼりにすることができる。
たてまえとしての単一学校制度が,まず第1に底辺の労働者,農民の子弟を排 除してきたし,そのうえ,さらに苛酷な部落差別という二重の苦しみによって,
部落民子弟を排除してきた事実は,すぐれて階級的である。また,現象的な就学 率の高さという欺隔性も,被差別部落の実態にそくして,その事実が追求されな
(7)
くてはならない。下からの教育要求の高まりの中から,たとえ一定の就学率に達 したとしても,その出席状況に注意を払うならば,きわめて多くの問題を提起し ている。昭和に入ってさえ,尋常小学校高学年の異状なまでの低さ(和歌山県朝 来尋常高等小学校における5年生と6年生の出席率は,昭和4年から9年にかけ て平均して,50%¢割り,6年では30%代を示した年も見られる。同校編『児童 融和教育の理論と実際』昭和11年)を示していることは,注目しなければならな い。すなわち,絶対的貧困と苛酷な部落差別,それに児童労働へのかりだしとい う,これらの実態の総和として,出席率の低さのもつ意味を,あらためて再検討 する必要があろう。
第2に,天皇制絶対主義の動揺とその危機の深化に対応してうちだされてくる ところの教育政策の特質を明らかにすることである。帝国主義的進展をとげる日 本資本主義が,階級的諸矛盾を露呈する状況に直面すると,天皇制イデオロギー
を媒介として,矢つぎばやに各種の教化政策を展開する。それが,被差別部落に
おいてもっとも顕著に写し出されているのである。とくに,融和教育が一一般的に
は存在しえず,部落差別にかかわって登場していることは,きわめて象徴的なこ とといえよう。
第3に,部落差別からの解放の闘いに結集した人民の歴史を明らかにし,その 闘いが部落の教育にどのように結びつき,またどのようにきりはなされていたか 明らかにするとともに,これに対応する各種の懐柔政策,恩恵的,慈恵的な社会 政策への抵抗と,そして愈着せぎるを得なかったプロセスを透視することによっ て,国家と教育との関係をこえることが必要である。
天皇制絶対主義に対する非妥協的なかずかずの闘いに見られるような部落民大 象のプリミティブではあるが,創造的なエネルギーを明らかにすることは,日本 人民の抵抗の歴史をあきらかにするうえで欠かすことはできない。そして,それ と同時に,それが何故屈折させられていったかを明らかにすることも,また重要 である。「解放令」が「聖旨」によって出されたというデマゴギーを最大限に利 用し天皇の赤子としての平等という,天皇制を媒介とした凝制的な平等観をふり
まくことによって,天皇制絶対主義権力は,部落差別によって生みだされる諸矛 盾を隠弊し,中和することをはかった。さらに一歩すすめ,融和政策を具体的に 推進することによって,国家意志への積極的な支持をはかり,それらのことをと おして,部落差別からの解放への幼想を与え,部落民大衆の裏返しにされた解放 への願いを吸い上げていった権力の構造を分析しなければならない。そのため に,部落における教育がどのように機能したかを知ることは,きわめて重要であ
る。
第4に,民間教育運動と部落問題とのかかわりあいかたを明らかにすることに よって,日本の教育運動のもつ性格の一端をあきらかにしうることである。部落 解放運動と労働者農民運動との結びつきは,闘いの原点において,かずかずの連 帯のきずなを深めた事実の中に見い出すことができる。しかし,教育運動と部落 問題との結びつきは,ピオニール活動において特徴的に見ることができるほか,
きわめて限定されているといわぎるを得ない。とくに教育関係者や教育研究者か ら,融和主義を克服したところの部落解放を主張した者は,ほとんど見あたらな (8)
いし,融和教育の欺臓性を暴露してその粉砕を主張した者も,皆無に等しい。む
しろ,部落差別をおおい隠すための融和教育の熱心な協力者として,あるいは直 接の担当者として活躍しているのである。教育運動あるいは教育研究にとって,
何故に部落問題がその対衆になりえなかったかを検討することは,重要な課題の 一つとなろう。
第5に,きわめて現代的な課題として,ここi数年来,同和教育運動の中に著し くあらわれてきた融和主義的傾向を克服するために,今日どうしても戦前の融和 教育の歴史を総括しておかなくてはならないのである。
戦後,部落解放を課題として出発した同和教育運動も,当初より融和主義的傾 向を潜在させてきたが,解放運動との結びつきを深める中で,紆余曲折をへなが らもしだいに克服し,少くとも隅のほうに追いやられていたといえる。だが,近 代化を装った融和政策が展開されて来るに及んで,これに照応するかのように,
同和教育運動における融和主義的傾向は,きわめて積極的にみずからの立場を主 (9)
張するようになってきた。 したがって,融和教育の歴史を総括することによっ て,ここにたちあらわれた論理の欺隔性を明確にすることにより,当面,次の若 干の問題点を克服していくための手だてといたしたい。
(1)戦後,部落解放をめぎして,民間教育運動として発展してきた同和教育運 動がますます反動化する文教政策にもとずいて,「心がけ主義」の心情的な 道徳教育の中に解消させている傾向を深めている。
(2)文部省の「同和教育研究協議会」及び「同和教育研究指定」に見られるよ うに,同和教育を「部落」だけを対象とする特殊な教育におしこめようとす る傾向が一層深まってきている。
(3)戦後の同和教育のもっとも生命ともいうべき,教育と運動との結びつきを 否定しようとする傾向が強くあらわれている。
3 融和教育史研究の現状と問題点
部落問題研究が,歴史学を中心としてめざましい進展をみせているのに対し
て,融和教育史の研究は,著しくたち遅れている。とくに,融和教育を近代日本
教育史の中に位置づけることについては,ほとんど手がつけられていないといっ
ても過言ではない。問題点として考えられることは
1 被差別部落問題が,いまなお全国民的な課題となりえていないという事実 を反映して,教育研究者の研究対象になりえていない。
2 従来の教育制度を中心としてきた日本教育史研究からは,その視界に入り
えなかった。
3 融和教育研究のたち遅れは,全体としてのマイナスの教育遣産にたいする 研究のたち遅れを示している。融和教育は,すぐれて皇民化教育の補完の役 割をになわされていたため,たんに否定の対象としかとりあつかわれなかっ
た。
などをあげることができる。しかしながらこのような困難な状況にもかかわら ず,すぐれた業績がある。それは,盛田嘉徳氏による「同和教育の変遷」(講座
『部落』第4巻「同和教育」所収昭和35年)であるが,私達が融和教育の研究を すすめるにあたって,まず欠かすことのできない貴重なものである。啓蒙書とい う制約を受けながらも,氏はその中で,各種の発掘した資料にもとずいて,被差 別部落の教育の歴史をほぼフル・スケールの形でとりあげ,それまで知ることの できなかった歴史的事実をあきらかにしたばかりでなく,重要な問題を行なっ た。そこで,部落教育史の時代区分を次のように明らかにしている。
1 同情教育期(明治16・7年a うから大正末年まで)
明治期を前期,大正期を後期とする。
2 融和教育期(昭和元年から10年まで)
3 同和教育期(昭和11年から20年まで)
(10)
この時代区分は,それ以来ほぼ定説となっている。私は,この盛田氏の時期区
分を対象として,再検討の必要があるのではないかという問題意識に立って,非
力をも顧みず,前記論文においてとりあげたのである。(にもかかわらず,完全
には果すことはできなかった)そこで問題点としてあげらたことは,次の諸点で
ある。
1 被差別部落の教育の歴史を,近代日本教育史において,いかなる役割をに なってきたかという位置づけに乏しく,1つの「特殊」教育史となってしま っているのではないか。
2 時代区分の論拠が,いささか静態的すぎるのではないか。とくに同情教育 期において明治期,大正期をとおしてそれぞれ1期としてとりあつかってい る点などは,自主的解放運動や融和運動のすう勢,およびそれに対する政策 の側の対応のしかたなどについて,もっと動態的にとらえることが必要では
なかったか。
3 同情教育期という名称は,治安維持的部落対策の一環としてうちだされる 教育政策の主体(たとえそれが,良心的な教師,僧侶,警察官によってすす
められたとしても)をぼかしてしまうのではないか,そのうえ全体として,
融和教育の成立過程を不明確にしてしまうのではないか。このようなとらえ 方だと,社会政策概念でいうところの「慈善事業」→「救済事業」→「社会 事業」へと質的転換をとげるはずのこの時期の意味,つまり政策主体の意図 を,あきらかにできないと思われる。
4 融和教育期から同和教育期への移行の位置づけが,必らずしも明確ではな く,その教育的意味が埋没してしまっているのではないか。すなわち,同和
教育は,融和教育のたどるべき帰結点として,いわば融和教育の完成として の形態をとって登場する。それはまた,部落懐柔政策から部落統制政策への 質的転換を示す教育的表現であると同時に,内務行政を主体とした融和教育 から,文部行政を主体としたた同和教育へと転換することも示しているので
ある。
以上の点を私自身の反省をもふまえてさらに検討を加えるならば,次のことが
考えられる。
第1に,部落教育史全体を,融和教育史としておさえることに基本的な問題が あるということである。部落教育史一般と,融和教育史とは,相互に密接不可分 な関係をもちながらも,それぞれ相対的独自性をもっていることを,明確に区分 すべきであると考える。両者を重合させてとらえることは,その独自的な意義を 埋没させることになる。とくに近代日本教育史に位置づけるにあたっては,それ ぞれの独自的な意義をこそ明確にしておくことが,問題の所在をよりいっそうあ
きらかにするうえで必要であろう。
たとえば,部落教育史二融和教育史とのみおさえる視点からは,「教育令」や
「改正教育令」が,部落の教育にどのように影響を与え,意味をもっていたかな どをとらえることを不可能にしているといわなくてはならない。すでに,安達五 男氏は,盛田氏が「明治16・7年項から部落の中にも教育についての要求が高ま
り,各地に私設の学校が作られるようになった」 (前掲「同和教育の変遷」) と して,被差別部落民の教育要求の昂揚という一面性においてのみ,評価を与えて いることにたいして疑問を提出 (安達五男 「近代教育の誕生と部落問題につい て」 「兵庫史学』第41号所収)している。 これらの私校や分校という 「部落学 校」が,被差別部落民の要求だけから出たものでなく,地方行政が「教育令」制 定などの中央の文教政策にもとずいて,かえって部落差別を強力に推進しようと した事実とそれに対して,不当な差別行政に対する非妥協的な斗いをおしすすめ ることによって,差別的な分校設置方針を葬りさることに成攻した事実を,あき らかにしている。また,同様に考察するならば,明治19年の「小学校令」や,
「小学簡易科要領」がもたらしたところの部落の教育にたいする影響と,その意 義,とくに貧民教育を制度化した小学簡易科と「部落学校」との関連など,まだ
まだ解明されていない。さらに,明治21年の市制及び町村制の実施,あるいは23
年の「小学校令」改正がもたらしている意味なども同様に明らかにされていな
い。とくに,市町村合併,学校の整理統合などにより発生したかずかずの部落差
別事件のもつ教育史的意味,あるいはまた, 「小学校令」改正にともなう小学簡
易科廃止と「部落学校」との経違などほついても,さらに深く検討していかなく
てはならない。
少くともこれらの問題点は,「同情教育期」という範囲や概念ではとらえるこ とができないのであるが,これは盛田氏の問題点というよりも,教育研究者が当 然になわなければならない問題点というべきであろう。
第2に,解放運動の側から,「同和」教育という言葉を排して,「解放」教育 への言葉の変更について提起されていることの意味を,十分に考慮しなければな e らないということである。それは,体制の言葉である「同和」という言葉を告発 する問題だけではなく,現在の同和教育が,部落解放に奉仕する教育ではなく,
かえって解放を阻害する傾向が強くなってきたことに対するプロテストとして提 起されているものと見なければならない。さらにまた,これまで無原則に,「同 和教育」=「部落解放の教育」としてきたことへの痛烈な批判として,受けとめ
る必要がある。まさに,同和教育の質が問われているのである。
だが,たんに名称を変えることによって,解放への教育に近づきうるという幻 想は,もってはなるまい。なぜならば,それは体制の論理の裏返しにすぎないか らである。「解放」教育を真に部落解放の教育にあらしめんとするならば,すで に概念規定の定着しつつある「同和」教育との,連続と非連続の問題点をあきら かにし,それを克服していくみちすじを明確にすることによって,部落解放の教 育像を国民的な課題にひきつけていくことが必要である。そのためは,幾多の試 行錯誤おかしながらも,差別からの解放をめぎして実践を積み重さねてきた戦後