巻頭言 「教育デザイン研究会」に寄せて
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(2) 「教育デザイン研究会」に寄せて. ような選択は教育学研究科という現在の大学院の性格について改めて問い直すという作業を要請するも のでありました。教育学研究科は、教育科学、教科教育学、教科内容学について高度な能力を有する初 等・中等の教員を養成し、また、教員養成の再生産、すなわち教員養成を行うための教員、多くの場合、 大学教員を産出することを大きな役割としてきました。後者の役割に関しては、東京学芸大学大学院連 合学校教育学研究科への参加によって、多大な貢献を果たしてきましたし、現在でもそれに変わりはあ りません。. しかし、前者の高度な能力を有する初等・中等の教員を養成するための仕掛けは、どうだったでしょ うか。研究志向の学生の能力に期待して、これまで制度的な整備を怠ってきたといわれても仕方ないよ うに思われます。このことに関する徴候は数年前から出ていました。教育学研究科に進学する学生の中 に、研究志向ではなく、学部卒業で教職に就くことにためらいを覚え、大学院でさらに教育のための実 践的な訓練を積みたいと希望する学生が増大していたのです。研究を志向する学生だけではなく、こう した学生の増大という現実を踏まえ、教育学研究科の制度設計をする必要に迫られていました。一方、 2007 年度から、修士課程の修了要件に「学位論文」だけではなく「特定の課題についての研究の成果」 が含まれるようになりました。従来のアカデミズム志向の学位論文だけではなく、実践に基盤を置いた 研究が修了要件としての身分を正式に与えられたのです。. 以上のような外的・内的状況を背景に、横浜国立大学教育学研究科ではそのカリキュラムをいかに編 成するのかということが焦眉の問題となってきました。2009 年 11 月に第1回の大会を開き、2010 年 3月に第2回の大会を予定している「教育デザイン研究会」は、大学教員と学生という閉じやすい環に、 国立大学法人の有する貴重な資源である附属学校の教員そして地域の教員という項を加え、三位一体で さまざまな課題に応えようとする開かれた場として生まれました。教員養成にあたって、教育の現場で 何が要求され何が問題とされているのか、それはアンケートでもある程度の答えが得られるかもしれま せん。しかし、教育の現場で要求される能力修得のために整備された学部や大学院の教育上の仕掛けが 有効に機能するのかどうか、それを検証するにはきめ細かい言葉たちの往還が必要でしょう。そのため には、附属学校の教員や地域の教員との連携が必須ですし、さらに、大学教員や学生との共同の研究に 支えられた現場での具体的な検証が必要となります。. 一方、教育に関して、もっと理念的な部分では、ゆとり教育の見直しが語られ、全教科にわたって 言語力の重視がうたわれるところとなりました。「生きる力」を基盤とした問題発見、問題解決能力 の育成も微妙な位置づけになっているようにも思われます。言語力の重視は、PISA(Programme for International Student Assessment)型の学力調査で、情報の取得、解釈、省察、表現に関わる読解力が 日本において主要国にあって相対的に低いことから提唱されたものでしょう。しかし、定量的な評価が. .
(3) 絶対視されて、思考について、与件を所与の現実ないし論理に基づいて処理するという、逆説的にも思 考しないための能力を鍛えることにつながっていくのではないかという危惧も払拭できません。. また、計画養成の中で教員養成を行っている学部と開放制の中で教員養成を行っている学部との関係 も変化してきました。開放制で教員免許状取得を可能にしている学部、学科、課程はこれまで必ずしも 自分たちの本来の任務として教員養成を位置づけてはこなかったように思います。しかし、2006 年の 中教審答申で「今後の教員養成・免許制度のあり方について」における教員養成カリキュラム委員会の 全学的な設置の推奨、そして教職実践演習の施行という制度的な要因に加え、それ以上に一般学部の意 識そのものの変化も顕著です。たとえば、理工系の学部を中心に、入学してくる学生の質の確保のため に、初等・中等の教育、そしてそれを支える教員養成にも関心を向けざるをえなくなっているのです。. こうした中、教員養成に携わる教員の意識も問い質されています。たとえば、あまりにも抽象的で多 様な意味を受け入れる「生きる力」という言葉をいかなる意味で使っているのだろうかと文部科学省の 意図を詮索し、どうせ深い意味はないのだろうからお題目として適当に利用しようとか、その意味を明 らかにするのは教育科学や教科教育学の任務であるとかと考え、多くの、とりわけ教科内容担当の教員 は思考を断念していたのではないでしょうか。言語力にしても、所詮 PISA 型の話にすぎないというよ うな態度も見られたのではないでしょうか。. しかし、「生きる力」といい、「言語力」といい、文化や社会を営んで次世代を育てる人類にとって基 本的な事柄が、教育に関する問いの前面に現れてきたことにはもっと深い意味があるようにも思えます。 「生きる力」や「言語力」というそれまでいわば暗黙の前提であったものが教育において前景化したこ とは、この人類にとっての基本的な事態に立ち向かう必要、あるいはそうした基本的な事態の失効を意 味するものだと思われるのです。そうであるならば、最終的な意味を保証する文部科学省という神の託 宣をいつまでも空しく待つ必要もないでしょう。教育科学や教科教育学以外の教科内容に関わる教員も、 こうした基本的な事態との関係で自分の学問の意味を考え続けてきたはずなのですから。その答えは簡 単に見出されるものではないでしょう。いやむしろ永遠に答えが見出されない類の問いであって、問い を受け継ぐことこそが文化や社会の営みを持続するために必要だという類の問いではないでしょうか。. 答えが見出されないのに答えを得ようとすること、これは私たちが思考というものを始める状況に似 ています。少し、生まれたばかりで言葉も習得していない子どもの状況を考えてみましょう。人間の場合、 大人と子どもの関係は非対称的です。大人が子どもの世話をするとき、身振りや振る舞いのうちに何ら かのメッセージ(たいがいの場合、無意識的なメッセージ)を込めながら、子どものうちに感覚的な効 果を生み出していきます。この謎のメッセージを解読し、翻訳しようとして、子どもは大人に対してさ. 教育デザイン研究 創刊号 .
(4) 「教育デザイン研究会」に寄せて. まざまな反応を返していきます。子どもの反応に大人が対応することで、翻訳が受け入れられたメッセー ジ、受け入れられなかったメッセージが生まれ、それが子どもの思考として、子どもの心の基層をなし ていきます。しかし、そもそも大人のメッセージが無意識的なものを含むのですから、翻訳には検証不 可能なずれが生じ、正解の決定は不可能にとどまります。こうした非対称の受け継ぎが、良くも悪くも、 文化や社会という複雑な制度に依存せざるをえない人間的世界をつくっていきます。ここで生まれるの は子どもっぽい思考にすぎないかもしれませんが、メッセージを直接やり取りするのではなく、自分の 身体に生み出されたメッセージの効果を解読し、翻訳していくことで生まれる思考、言い換えれば、身 体を通した思考なのです。それなくしては、現実や論理に即した思考は単なる計算にすぎない借り物の 思考に終わるでしょう 1)。. 学問的営みにもつながる思考、子どもの思考、現実や論理に即した思考、このようなものに基盤をも ちつつ、常に原点に立ち返ることが求められる分野こそ、まさに世代をつなげていくための教育ではな いでしょうか。おそらく、いまはじめて、言うことができるのでしょう。教育は人に楽しみを与えるお もちゃ箱であって、そうであることによって生き続ける。いま、教育は面白いものになりつつある、と。. 注 1)この段落の記述は、Christophe Dejours, Travail vivant 1 : Sexualité et travail , Éitions Payot & Rivages, 2009 の記述から、フ ロイト精神分析学に関わる論考を省略したものです。とくに 93 頁を参照のこと。. .
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