学校における教育研究について (5)
関 勤
(1985年11月5日受理)
V 教育の意味を絶えず問い直すということ
教育の意味を絶えず問い直すということは,とくに改まって教育研究をするときにだけ必要なのだ というわけではない。むしろ,それは日常的な教育実践においてこそ必要であり,重要なことだと言わ なければならないのかも知れない。
たとえば,毎日のように繰り返し行なわれる授業にしても,授業とは一体何なのか,本物の授業を 構成し,展開するためにはどのような条件を整えたらよいのであろうか,というようなことが絶えず 問い直されていないと,その授業は固定化し,マンネリ化したものになってしまうだろう。同じこと
は,学校の行事として運営されている運動会,学芸会,展覧会,音楽会,遠足,旅行,というような ものにもあてはまるであろう。運動会とは何か,運動会にはどのような教育的意味があるのか,運動 会は何のためにやるのか,とうやったら子どもたちのためになる運動会になるのか,というような素 朴だが,しかし本質的な問い直しが絶えずなされることによって,運動会は初めて教育的に意味をも
ったものになるのであろう。
運動会は昔からやってきたんだからとか,どこの学校でも運動会はやっているんだから,というよ うな安直な理由では,今,この学校で,運動会をやるということの理由にはならない。運動会という 教育的行事(活動)についての教師たちによる主体的な意味付けの欠除が,運動会をしてマンネリ化 した,固定化した,常習化したものにしてしまうのであろう。運動会をほんとうに教育的に意味のあ るものにするためには,絶えず運動会のもっ教育的意味が問い直されなければならないのである。こ のことは運動会ばかりではなく,上にあげた学芸会にも展覧会にも音楽会にも遠足にも旅行にもあて はまることであり,とりわけ,入学式や卒業式に関してはより一層慎重に考える必要があるように思
われる。
教育実践に関する事柄について言えば,その事柄に対する教師の意識や認識や解釈というものがな によりも大切なことのように考えられる。これは教育者(保育者)自身が,自分の行なう教育活動
(保育活動)がどのような教育的意味や価値をもつのかを意識したり,認識したり,解釈したり,す ることが,教育実践においてなによりも大切なことであるということと同じである。たとえば,前に 述べた運動会について言えば,運動会に大きな教育的意義を認める教師集団の指導する運動会は,教 育的意味や価値の高い運動会になるだろうし,これに反して,運動会になんの教育的意義も価値も認 められない教師集団の指導する運動会は,なんの教育的意味も価値もない運動会になるに相違ない。
そんな運動会は,子どもにとっても,面白くもなんともない,きわめてつまらない運動会だろうと思 われる。
教育的意味や価値の高い運動会の考え方というのは, 「生徒が運動会をやることを思いたち,いろ
いろ相談して日取りをきめ,プログラムを作り,係をきめて準備をし,時間をきめて練習をし,父兄
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やお客さんに招待状を出し,そしていよいよ運動会の当日となって,計画通りに運動会が行なわれる。
それが無事にすむと,こんどは手分けをしてあと片づけをやり,さらに後日になって反省会などを開 き,反省録や一切の記録をまとめ上げ,それからまた経費の精算をやって会計上のあと始末をやる。
こうした複雑な一連の活動からなる運動会という行事」,1)というように運動会を捉え,立案,企画,
準備などすべてをなるべく生徒の手で行なわれるようにまかしていくやり方であろう。生徒がみずか ら立案し,企画し,準備し,運営していくのを尊重し,教師がそれを背後から指導し,援助し,生徒 の自主性や企画の能力の修練をはかる,というような運動会の考え方である。
これに反して,教育的意味も価値もない運動会の考え方というのは,ただ単に一日の運動会を要領 よくやってのければそれでよい,保護者の目に楽しく美しく華やかに印象づけることができればそれ でよい,というような捉え方をし,計画も準備も進行も一切合切教師が切りもりして,生徒はただ人 夫のように,手足となって働くだけ,というようなやり方であろう。運動会といっても,幼稚園,小 学校,中学校というように発達段階の相違があるから,どの学校段階でも同じような考え方をせよと いっても,それは無理であって,運動会のやり方について多様牲が認められて当然である。ただ強調 したいことは,教育者自身が,自分の行なう教育活動がどのような教育的意味や価値をもつかを意識 したり,認識したり,解釈したり,することが,教育実践においてなにより大切なことである,とい うことである。これらのものをできるだけ深めたり拡めたりすることが大切であるということである。
私は,このごろ,教育実践に関する事柄に関しては,教師の意識,教師の認識,教師の解釈から独 立した教育的事実というものは存在しないと考えている。教師がそれに対してどんな教育的意味づけ をし,どんな教育的価値づけをするかということと無関係に,客観的に存在する教育的事実というも のは,存在しないと考えている。授業が教育的に意味をもつかもたないか,価値をもつかもたないか は,教師の考え方次第である。教師の考え方,教師の意識からはなれて,それから独立して,教育的 意味をもつ授業とか,教育的に意味をもたない授業などというものは存在しないのである。これは,
勿論,授業ばかりのことではない。いままで言ってきたものすべてに,運動会,学芸会,展覧会,音 楽会,遠足,旅行,入学式,卒業式などのどれにもあてはまることである。人間(教師)から独立し た客観的事実としての教育的事実というものは存在しない。教育的意味づけや価値づけは教師次第な のである。教育については教師がもっとも大切な要素である,あるいは,教育においては教師がアル
ファであり,オメガである,といわれるのは,以上のような理由からである。教育の意味を絶えず問 い直すことが,日常的な教育実践においてこそ必要であり,重要なことだといわれるのも,以上のよ うな理由からである。
1.教育の意味を問い直す基本的な観点
これまで,日常的な教育実践において,教育の意味を絶えず問い直すことの必要性や重要牲につい て述べてきたが,教育研究においてはこのことが更に一層つよく求められるであろう。教育研究は,
教育を意識的に計画的に改善しよう,改革しよう,という意図のもとに行なわれる営みであるはずだ
が,ともすると何のたあの教育研究であるか,わけのわからないものになりかねないことがある。た
とえば,学校における教育研究が,教育とは一体何であるかという基本的な問い方を忘れ,教育の全
体的な構造や文脈における問題の位置づけを無視して,また教育内容や教育目的から切り離されたと
ころの,きわめて局部的な具体的な教授法に関する問題をとりあげたとしたら,それは一見実践に忠
実な,すぐれて現場向きの教育研究のように見えたとしても,結局は何のための教育研究であるかわ からないものになるであろうし,不毛な知的生産に終わらざるをえないことが予想できるのである。
東大教授であった故宗像誠也氏は,r教育研究法』において,科学としての教育学は局部的合理主 義の弊に陥ってはならぬという趣旨を,rそれは教育を一っの全体として捉えることに力めるもので なければならぬ。逆にいうならば,科学という名辞にひかれて,例えば数量的に取り扱われる,すな わち一見科学的に取り扱われ得る,領域のみを研究の対象とし,それのみが科学であると考えるよう な科学観にとらわれてはいけないということである。すると当然に,科学としての教育学は,局部的 末梢的な技術的側面のみに止まってはならないという結論が出る。局部的末梢的な技術的側面のみが
「科学化」されたとしても,より根本的,基底的な側面が不合理なままに放置されるとすれば,それ は本末軽重を見誤ったものであり,局部的合理主義に終ってしまうだろう。例えば智能検査や教育測 定は,その数量的取扱いにおいてたしかに科学的たる特徴を備えている。しかし同時にその数量的精 密さの外観にとらわれて,これに過当の信頼を置き,一回のテストで能力が残りなくとらえられると 信じ,その得点の僅少な差違に過大な意味を認めるようなことをするならば一それは選抜試験の場 合にしばしば実際に行われることであるが一それはまぎれもない局部的合理主義であるといわねば ならないだろう』,勾と述べているが,これは教育研究にもそっくりあてはまることであろう。教育研 究においても,教育を一つの全体として捉えること,教育とは一体何であるかと問うことを忘れて,
局部的末梢的な技術的側面のみが取り上げられても,正しい意味での教育研究にはならないのである。
氏はまた,局部的合理主義に関連して,「けれども教育技術面,例えば教授法は,教育内容なり教 育目的なりから切り離せるものであるかどうか一ある程度まではそれが可能だζしても全く分離で きるかどうか一は少なくともはなはだ疑問であり,したがって全体としての教育の考え方と無関係 ではないと考えられる。一つの技術の採用ないしは不採用も,全体としての教育の考え方に連関する ものとして考察された上で決定する用意が必要であろう」?と述べて,実践の名にかくれて技術面の みに考察を局限するのは間違っていると指摘しているが,これも教育研究において常に教育とは一体 何であるかという基本的な問いを忘れてはならない理由を明らかにしている。教育を一つの全体とし て捉えること,あるいは,全体としての教育の考え方,というのは,教育とは一体何であるのかとい う根元的な問いに対する答え,と一体のものとして現われてくるはずだからである。
社会学者の加藤秀俊氏は,大局を忘れて局部に熱中する「小さな完全主義」者の滑稽さを,つぎの ように描き出している。少し長いけれどもそのまま引用してみよう。
『日本の学者だの,さまざまな種類の「専門家」だのも,それぞれの仕方で「小さな完全主義」者であるよ うにわたしにはみえる。人間の知識は,じつのところ, 洋とひろがっていて,世界は,わからないことにみち ているのに,そのごく一部だけを,やたらに精密にしらべあげる。もちろん,「専門」というのは,そういう ことなので,その努力じたいは尊いものだけれども,それが度をすぎると,ちょうど,一円の過不足をチェッ クするために数十人が大さわぎするのと似た状況が発生する。一冊の本のある部分でつかわれていることばを,
どのように解釈するのが正しいのか,といったような,重箱の隅を突っつくような議論で毎日をすごしている
「専門家」がたくさんいる。そして,そういった微細なことに熱中しすぎると,いつのまにか,その特定のこ とばがつかわれている文脈だの,あるいは,その書物じたいがもっている意味だのをすっかり忘れて,小さな 部分の意味がやたらに肥大してしまう傾向があるのだ。
くどいようだが,わたしは,完全主義を非難しているわけではない。完全であろうとするのはよいことだし,
完全でありうるなら,それほどのぞましいことはない。しかし,完全であろうとする努力と,その結果,得ら
れるものをひきくらべてみるならば,ときとして,その努力は,客観的にみて,まったく愚かなものとならざ
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るをえないだろう。 「小さな完全主義」は,大きな全体の文脈のなかでは,しばしば滑稽なのだ。』4)
私は,加藤秀俊氏の示唆するように,教育研究においても,大局を忘れて局部に熱中する,いわゆる る「小さな完全主義」者であってはなるまいと思う。大きな全体の文脈のなかでみたとき,滑稽なも のとしか評価できないような教育研究をやるべきではないと思う。また,宗像誠也氏の指摘するよう に,教育研究においても,いわゆる局部的合理主義,すなわち,教育を一つの全体として捉えること を忘れ,また,全体としての教育の考えを捨てて,局部的末梢的な技術的側面のみの研究に陥るべき ではないと思う。教育研究においては,教育の意味を絶えず問い直すことが,とりわけ,教育とは一 体何であるかという根源的な問い直しが,その研究の指導原理として,その研究の基底に,その研究 の背景に,据えられていなければならないと考える。
私のこれまでの主張は,学校における教育研究は,どんな研究問題を設定してすすめても結構だが 絶えず教育とは一体何であるかという基本的な問い直しを忘れないでやってほしい,ということにつ きる。それを別の言葉で表現すると,学校における教育研究は,どんな研究問題を設定してすすめて も結構だが,教育の全体的な構造や文脈における位置づけを忘れないでやってほしい,また,教育を 一つの全体として捉えることと関連させてやってほしい,あるいは,全体としての教育の考えという ものと関連させてやってほしい,ということになる。それは,教育研究における局部的合理主義や
「小さな完全主義」への警戒であり,自己防衛でもある。学校における教育研究は,どんな具体的 な,とんな実践的な研究課題のもとに展開されても結構だが(具体的で実践的であればあるほとよい),
教育とは一体何であるかという根源的な問い直しを,その研究の指導原理として,その研究の基底に,
その研究の背景に,据えてやってほしい,ということである。
教育研究において,教育の意味を絶えず問い直すこと,とりわけ,教育とは一体何であるかという 根源的な問い直しをすることが,なぜ大切なのかを,私は以上のように考える。それでは,その問い 直しは現在,現実的にどのようになされているだろうか。これは入それぞれの教育観にしたがって,
きわめて多種多様なかたちで提示されるものであり,かならずしも一義的な問い直し方,答え方でな ければならないものではあるまいと思う。しかし,私がこれは基本的な観点をもった問い直し方だな と感じたものが1〜2あるので,ここに記述しておきたいと思う。
教育史の研究者で,r現代日本教育政策史』正・続, r民主教育実践史』, r現代日本教育実践史』
の著者であり,現在東京学芸大学教授の海老原治善氏は, r「近代日本教育学説史研究」にむけて』
という論説のなかで,「ところで今日になってみると,現実改革問題のなかでぎりぎりでてくる本質 論議は,結局のところ,教育とは何か,ということである。古くして新しい命題につきあたるのであ る。 (原文改行)そして教育といえば,学校教育,文化遺産の伝達に論議はかたより勝ちである。社 会教育,生涯教育を視野にふくめず現代の教育は語れない筈なのにである。この原因の根本のところ
に,教育の出発点を自己教育とおさえていないことがあると思えて仕方がない。だから自己教育の共 同化として,社会共同の事業として教育を把握する観点が弱くなり,教育は国家管理のものとする思 惟が常識化しているのではなかろうか。 (原文改行)このことをあきらかにするためには,やはり近 代日本の教育学説の史的検討を行う必要がでてくるし,さらに深めてゆくためには,日本における共 和制思想や,それに立脚する思想や運動があったのかどうかを調べる必要もおこってくる。現実の教 育改革により積極的にかかわってゆくためにもこうした原理的,基礎的な教育史研究に,残る学術的 情熱をもやしてみたいと思う昨今である」?という示唆にみちた提言をしている。
この海老原氏の提言は,教育史研究者としての氏が,自己の今後の研究の基本的観点や方向性,ま
た,抱負を述べたものであって,そのまま,ただちに学校現場における研究に役立つものとは考えら れない。けれども,そこには,教育の本質に対する根底的な問い直しの観点や欲求や態度がある。そ れが重要だと思う。氏は,教育とは何かということに関して,一方では常識化している思惟として,
学校教育一文化遺産の伝達一教育は国家管理のもの,という路線が存在し,他方では革新せられ るべき思惟として,教育の出発点は自己教育一社会教育,生涯教育一教育は自己教育の共同化と しての社会共同の事業,という路線が考えられるとしている。常識的,世俗的には教育は学校教育で あると観念されていて,ほとんど疑われさえもしないのに対して,教育の本質は自己教育にあると主 張したところに氏の提言の特徴があるわけである。教育の本質をこのように問い直すことを通して,
はじめて,学校教育の使命,役割,あり方,学校における研究のあるべき姿も,また問い直されてく ることになるはずである。この意味で氏の提言は,教育とは一体何であるかということに関する,基本 的な観点をもった示唆にみちた問い直し方を,示しているように思われるのである。
同じように,教育の意味の問い直しの観点を示すものとして,岩波書店刊行のr教育を改革すると はどういうことか』,についての新刊案内の文章がある。この本は大田尭・堀尾輝久の共著として発 刊される予定になっているが,そこでは「子育て・教育はどうあるべきか,その根源を問う!」とい う書きだしで,「政府主導の教育改革が強行されようとしているが,それはこれまでの政治や行政の 責任を問うことなく,現行世代が想定する二十一世紀社会への適応を一方的に青少年に求める発想に 基づいている。(原文改行)本書ではこれに対して,入とは何か,人の特質とは何か,その特質が持 続され発展させられることとのかかわりにおいて,子育て・教育はどうあるべきかという根本問題に 立ちかえって,教育を改善し改革することの意味を明らかにする」61ということが述べられている。
この一文の主張点は,実現せられるべき教育改革が,青少年に対して二十一世紀社会への単なる適 応を求める発想に基づくものであってはならないこと,および,それは教育の原点に立ちかえって,
4
l間の本質,人間性の望ましい持続と発展に奉仕する観点に立たねばならぬことを示している。たし かに,最近,二十一世紀の教育を論ずる人々は多いが,その多くは来るべき世紀を科学技術の高度に 発達した時代と捉え,無意識とはいえ,青少年を一方的にそれに適応させることをもって教育の使命 と考えている傾向がある。まことに人間不在の貧しい教育観,教育思想といわなければならない。教 育は人間性の発展に奉仕するものであって,科学や技術に奉仕するものではあるまい。科学や技術を こそ人間に奉仕させる,人間中心,人間尊重の教育をこそ構想しなければならないはずである。その 意味で,教育とは何かを問い直すことに,この一文の示唆するものは重要であると思われる。
2.教育の本質を,保守的なもの,文化遺産の伝達とする観点
これまで,教育実践において,また,教育研究において,教育の意味を問い直すことが何故必要なの か,どんな意味があるのかを考察してきた。そしてまた,現在,その教育の意味を問い直すための基 本的な観点として,どんなものが認められているか,私の主観的な判断と選択に基づくものだけれど も.海老原氏の論説と,r教育を改革するとはどういうことか』の新刊案内の文章をとりあげたわけ である。
しかし,わが国において,もっとも伝統的な教育観,またもっとも一般化している教育観は,教育
の本質を,年少の人間に民族の文化的遺産を伝達する仕事として捉えるそれであろう。教育の意味を
問い直すための基本的観点として上に述べてきたもののうち,教育についての常識化している思惟に
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ふくまれるとされたもの,すなわち,教育イコール学校教育,文化遺産の伝達,国家管理のもの,現 行世代が想定する二十一世紀社会への適応を一方的に青少年に求める発想,などとするものは,これ
に属しよう。
社会学者で高名な評論家の清水幾太郎氏は,昭和50年に,rもともと,先生と生徒との関係は,教 育に関する限り,全く不平等なものである。先生は,知識の蓄積や道徳の伝統を所有しているもので あり,生徒はそれを所有していないものである。教育とは,先生が右の蓄積や伝統を生徒に伝達し,
生徒がこれを受容するということである。その他に何があるにせよ,その他は,すべて第二次的なも の,アクセサリのようなものである。教育雑誌や新聞の投書欄には,時々,生徒に教えられたという 先生の経験が「美談」として紹介されているが,あれは珍しいから「美談」なのであって,生徒に教 えられるのが先生の本業ではない。伝達すべき内容を持たぬ先生と,それを受容する態度を持たぬ生 徒との間には,他のいろいろな関係は成り立っても,教育という関係だけは成り立たないであろう。
個性とか創造性とかいうのは,肝腎の伝達が確実に行われた後のことで,子供の個性や創造性を口実 にして肝腎の伝達を怠ったら,それはもう教育とは別のものになってしまう」71と主張している。こ の所論は,教育の本質を,文化遺産の伝達とするところの観点を,端的に素直に描き出したものとい えるであろう。
同氏は,さらに,昭和55年に,まったく同じ趣旨の教育本質観を,つぎのように語っている。
「第一の論点は,教育は根本的に保守的な仕事ではないかということです。教育の技術にっいては大いに進 歩的であり得ても,教育の本質は保守的なものではないかということです。もし教育にミニマムの定義を与え
ようとすれば,それには,「年少の人間の民族の文化的遺産を伝達する仕事」という言葉が必ず含まれるでし よう。この仕事が欠けていたら,そこには教育はないでしょうし,また,この仕事が不必要であったら,教育 という機能は要らないでしょう。最近は,子供の独創性や創造性ということが,非常に強調され,それはそれ で大切なことに違いありませんが,それは,学問,道徳,芸術など広く文化の全般に亙る民族の遺産の伝達と いう最低限の条件が満たされた後の「おまけ」のようなもので,実は,この最低限の条件を満たすこと自身,
容易ならぬ仕事だと思われます。そして,この容易ならぬ仕事を通じて,過去と現在と未来との間に確実な連 続性が打ち樹てられて行くのです。この仕事は,一方から見れば,地上に現れた幼い脆い生命に,それが社会 に生きて行くのに必要な知的,感情的,道徳的な形式を与えるものであり,他方から見れば,民族が時代を越 えて生き続けて行くのに必要な統一性を作り上げるものです。』⑳
教育の本質を,このように文化遺産の伝達にある,とする清水氏の主張に対して,何人といえども,
それは明らかに間違っていると批判することはできない。事実,教育の機能のなかには,それが基本 的なものとして含まれていることは否定できないからである。ただし,問題は,現代において,教育 の本質のそのような捉え方は必要にして十分なものであるかどうか,ということである。文化遺産の 伝達が必要条件であることは誰も異論はない。ただし,それで十分条件を満たしうるのか,というこ
とになると疑義が出そうである。
ここでは,教育の本質は文化遺産の伝達にある,という観点をさらに支持する理論を見ることにす る。木下涼一氏(佐賀大学名誉教授)は,rデューイ教育学への接近』において,伝統と創造との関 係,または,意図的教育の対象として伝統(文化遺産)をどうみるか,という問題について,デュー
イの所説を引用して,つぎのように述べている。r「伝統を手ほどきされることは,学習者の能力が
解放され指導される手段である」。しかしながら,つぎの条件を付加すべきである。「一つの仕事に
参加する個人の強い衝動,或いは必要感が伝統を力と自由との両方に於ての個人の成長の要素たらし
める必然的前提条件である。並びに,用いられる手段・方法と,達成された結果との間の関係を自分
自身のために,また自分自身の方法で見なければならぬということである」』9)このように引用しつ つ木下氏は,デューイの力点は,伝統の手ほどきは能力の解放ということにおかれているとみる。そ
して,能力の解放とは人間の可能性の実現ということであり,また創造性の実現である。このように 考えるなら,伝統の学習が創造性の啓培の手段といえることになると解釈している。
伝統(文化遺産)の伝達を尊重する点では,清水幾太郎氏の主張もデューイの理論も変わるところ はないのだが,つぎの点では大いに差異がある。清水氏の所説では,文化遺産の伝達は,子どもの個 性の伸長や独創性・創造性の発達と,一応別個のものとして切り離されて論じられているが,デュー イの理論においては,伝統の手ほどき(文化遺産の伝達)こそ,能力が解放される手段であり,人間 の可能性や創造性の実現の手段である。ただし,デューイの理論においては,文化遺産の伝達の場合 に,個人の強い衝動や必要感を前提条件にすべきこと,および,用いられる手段・方法と,達成され た結果との間の関係を学習者自身が主体的に認識すること,というきびしい条件がついていることを 忘れてはならない。
なお,木下氏は,上述のデューイの文章の意図について,それが,伝統への依存は,独創的見方や 創造的表現における本質的要素である,ことを主張するものであることをつぎのように説いている。
『過去からの文化遺産を吸収することによって,人間の可能性が現実化せられるということは常識である。
これを特に取り上げた理由は創造的能力のすぐれている芸術家の場合を考察せんとするものである。伝統と創 造とは元来相対立するような印象を与える言葉である。伝統の尊重とは創造を否定することであり,創造の強 調は伝統の無視という観念をわれわれに抱かせるのである。このような観点から右のデューイの文章を考える ならば,彼の意図するところが明らかになると思う。すなわちいかに独創性ある人といえども過去の伝統を学 習するにあらざれば,その独創性を現実化することは不可能である。伝統を離れて創造的芸術作品は生まれて こないというデューイの基本的態度がうかがわれる。さらに「芸術の流派は文学におけるよりも彫刻や建築や 絵画において,より著しい。しかし劇や詩や流暢な散文等の大家の作品によって養われない偉大な文学者はこ れまで存在しなかった。伝統への依存は芸術に限ったことではない。科学者も哲学者も技術者も,その実質を 文化の流れから汲みとっている。この依存は独創的見方や創造表現における本質的要素である」といっている が,これは説明の要はないように思う。』10)
日本の高名な国語教育者,大村はま氏も,「小学校では,中学へ行ったらという気持ちがかなりあ ると思いますけれども,けっしてそういうものではありません。小学校の時にやらなければならない ことがたくさんあると思うんです。教えなければならないこと,つけなければならない癖をきちんと つけるのでなければ,いかにあたたかな心で,子どもに優しいことばをかけても,それだけではただ の人間にすぎない,世にいう教育ママと同じだという気がします。職業人としての資格といいますか,
責任というものは全うできないと思います。教師の教師たるところがないと思います」11)と言ってい る。教えなければならないことは,きちんと教えなさい。っけなければならない癖は,きちんとつけ なさい。この主張は,教育の本質は文化遺産の伝達である,ことを深い意味において洞察している教 育実践家の言葉として受けとめねばならない。教育における伝統・文化遺産の尊重といっても,底の 浅い意味しかもたないものと深い意味を潜ませたものとあるので,一概に肯定または否定をするのは 危険である。
3.一人ひとりの子どもの内面にその子固有の権威が築かれていくのを助けるいとなみ
デューイのように,伝統の手ほどきは能力の解放であり,可能性や創造性の実現の手段であると認
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識し,そのために教育にきびしい条件をつける場合は別として,一般に教育の本質を文化遺産の伝達 とする観点は,教育作用における主役としての子どもよりも,客観的要素としての文化財(教科・教 材)を重視する傾向を生みだしやすい。それはごく自然に教師中心,教科書中心の授業に結びっくこ とにもなるであろう。また,過去の文化遺産の伝達に忠実であろうとする教育は,必然的に保守的な 性格をもつものとして,既成の社会秩序や価値観に青少年を一方的に適応させるように作用すること になるであろう。
他方において,過去の文化遺産の伝達を無視して,子どもを大切にする教育が可能であろうか,と いう問題がある。子どもは社会のなかに生まれ,社会のなかに育ち,社会的に存在する文化内容を身 につけつっ現実的に人間として成長する。とりわけ,幼児期から青少年期にかけて,いかなる言語的 習慣,行義作法(しつけ),趣味(美的鑑賞力),それらの総合としての価値観を身につけたかが,
その個人の一生を支配するほどの重要な意味をもっているとされる。いかなる文化遺産をどのように 伝達するかということと離れて,子どもを大切にする教育が可能だと思うのは,空想,幻想,神話に
すぎなかろう。
教育において文化遺産の伝達の大切さは周知のことである。問題はそれだけでよいのかということ になる。大田発氏(東大名誉教授・日本教育学会会長)は,『教育とは何かを問いつづけて』におい て,「人間の教育は,けっきょくこの一人ひとりの子どものユニークな選ぶ力をきたえる,その発達 を助けるということになるのではないでしょうか。もちろん人の子は教育によっていろいろな知識・
技術を教えられなければなりません。そうでないと,この複雑な仕組みの社会の中では,生きていく ことはできません。ですが,そういう知識や技術を教えることで人の教育はつきるのではなくて,そ れによってますます興味を深め,課題を自ら発見し,分別して生きぬく力を育てることこそ,人とし ての教育のあざすところではないでしょうか。自然,社会,人間自身への問いを深めることのために 学ぶのだといってもよいでしょう」12)と言って,人としての教育のめざすところを明らかにしている。
この著書における大田氏の主張は,子どもの内面からの自我の掘りおこしをすること,自己実現を
● ■
うながすことこそ,教育実践の本質である。そのためには,子どもをたばにして扱うのではなくて,
一人ひとりのかけがえのない存在としてとり扱うということ,子どもを目的として扱い,かつ目的と 感ずる,ことが大切だということを含んでいる。そして,太田氏は,「一人ひとりの子どもの内面に その子固有の権威が築かれていくのを助けるという,非常にデリケートなアート,一種の高度な芸術 というべき営為,それが教育実践というものの性質であります」13)という主張をもって,この書物の 根本的な首題として一貫させている。ここで教育実践というものの性質でありますといわれているこ
とは,教育の本質であると読み換えても,なんら差し支えないであろう。私も,現在における教育の 本質は,このように把握し,このように観念することが必要なのではないかと思う。大田氏の言うと ころは,結局,人間尊重の教育,子ども尊重の教育ということであろう。それはまた,真の意味での 子ども中心の教育であると思われる。
このような人間尊重の教育,子ども尊重の教育,言葉の真の意味での子ども中心の教育は,大田氏 個人の体験に即していえば,長い思索の旅の果てに辿りっいた認識ということになろうが・その教育 の考え方についての基本骨格は,教育思想史上にすでに明らかにされているところである。例えば,
アメリカにおける子ども中心の教育理論を提唱した代表者であるとみなされてきたデューイは,その ような教育観を,「教育は子どもが出発点であり,中心であり,かつ目的である。彼の自然の発達・
成長は理想的なものである。それらのみが教育上の基準をあたえる。子どもの成長にすべての学習は
追随する。……そこでの目標は知識や情報でなくて自己実現である。……学習の質と量を決定するの は子どもであって教師ではない」1のと説明しているが,子ども中心の教育の真髄が明らかにせられてい ると思う。
デューイの子ども中心の教育理論は,現実的な社会的状況のなかでより具体的には,「ところで,
アメリカの民主主義社会における産業的・都会的発展は,人間の個性を圧迫するようにもなってきた。
したがって,そのような社会的状況では,人間ひとりひとりの個性の維持と強化が重要な問題となっ てくる。デューイは,教育の主要な役割として,この個性の維持と強化を力説した。そのような教育 での学習方法として なすことによってまなぶ が提案されたわけである。いわゆる経験学習の強調 である。子ども・学習者は,かかる学習過程で,たとえささやかなりとも自己の存在を実感できる。
この存在感には知的なものと情感的なものがふくまれている。実は,この自己の存在を実感させる一 つまり自己実現を助成する一ような教育こそ,デューイがもとめてやまなかった教育であったとい えよう」15をいうように,実践的な認識と展開をとげたことが知られるのである。
教育評論家の林竹二氏も,「教育が子どもの心身の成長を助ける仕事であるかぎり,何を与えるか は成長する主体の内部から決定されてくるものである。何を求めているのかを察して,それを与える べきである。大人が子どもに,こういう人になってもらいたいから,こういうものを与えるというこ とは,子どもの成長を助ける仕事とはひじょうに違ったものになるおそれがある。国や社会が必要と するものを与えるのが教育なのではない。教育というものは,一番の根底においては, 子どもの心身 の成長を助ける仕事 なんだということを銘記すべきである」16)という趣旨の発言をされているが,
これも子ども中心の教育の主張として,大田氏,デューイらと同じ系列に属するものとみなしえよう。
なお,大田氏は,これまでの日本の学校制度の様態の端的な特徴を, 「日本の学校の果した役割は,
近代化に必要な人材の養成であり,その人材の分配機構そのものであったと私は思います。つまり,
日本の,急げ急げの近代化に対して,人材を供給していくパイプの役割をさせられた,と思うのです。
もちろん教育制度は,そういう社会的任務,社会的必要に応ずることは当然であります。でも,それ を十分視野に入れながらも,それに安易に左右されない,教育制度に固有の任務というものが,学校 制度の中にはなければならない。それは何かといえば,主として知育をとおして,どう生きるかとい う問題を考える,そういう力量をつける,ということであります」17)と,きびしく批判的に論じてい る。教育の意味を,また学校教育の意味を問い直すとき,傾聴し反省しなければならぬ内容と思われ
る。