101
ノールとシュプランガーの教育学における 主観と客観の関係について
教育学研究室 菊池龍三郎
(昭和49年10月12日受理)
に結びついた教育学的思考のもつ弁証法的構造に関する 洞察は,自立的な精神科学的教育学の基礎的認識に属す
1はじめに る」とされ認っ劾精神科学的教育学の聴家たちの
ヴィルヘルム・ディルタイ(DHthey・W・1833一 思考構造は,基本的には弁証法的であり,しかもそれは,
1911)の教えを受けた子弟の中でも,特にヘルマン・ 「教育現実」の構造自体が弁証法的であることと相関的 ノール(Nohl・H・1879−1960)とエデュアルト・シ に結びついている,というのである。たしかに,クラフ ユプランガー(Spranger・E・1882−1963)は,特 キ自身も断っているように,精神科学的教育学の代表者 筆に値する多彩な業績を残した。これら二人の思想家は たちに於いては,リットなど若干の例外を除けば,その その生きた時代もほとんど同じなら,精力を傾注した問 思考の基本的な枠組ないし構造が弁証法的なものとして明 題領域も互いに交又する。しかしこれまで,少なくとも 確に定式化されていたわげでは嵐(。実祭,たとえばノール自 わが国では,この二入の思想の比較を試みた論考は,ほ 身,かれの教育学的思考を弁証法的であるとはどこで
とんど無かったと言ってよい。注1)一っには,両者の理 も言ってはいないのである。しかし,そうした事実にも 論的実践的営為が極めて多岐にわたり,比較が困難であ かかわらず,クラフキの指摘は妥当性を有していると言 るということ,そして何よりもわが国ではノールの思想 い得るであろう。なぜなら,クラフキが的確に述べてい と実践及びそれが現代ドイツ教育学に及ぼした影響がほ るように,「自己の方法論的な考察を弁証法的なもので とんど知られていなかったことによる。本稿では,この あると理解しなかったところの,そして,部分的にはそ 両者の思想の比較を真正面から取扱うことが主題ではな う理解されることを望まなかった自立的な精神科学的教 く.あくまでも,意図するところはノールの思想の把握 育学のあの代表者たちにおいても,弁証法的な意味に知 にある。ただ筆者としては,これまでのささやかなノー いてのみ適切に追求しうる思考の運用のあることを指摘 ル研究において,かれの位置ずけを,特に他の思想家と できただげでなく,さらに,また,特定の教育的な連関 の関連に澄いて取扱ったことがなかったために,ここで や問題は,その認識や思想上の解決のためには,弁証法 敢えてシュプランガーとの相違を,とりわけ教育学にお 的な思考命題が必要であると指摘できたのである」2)っ ける「主観」と「客観」の関係の把握というありふれた, まリクラフキは,弁証法が精神科学的教育学の思考の基
しかも極めて困難な問題に的をしぼって考察してみるご 本的性格として潜在していることを指摘しているのであ とにした。しかし,あらかじめ断っておけば,本稿が両 る。注2)これが,ノールの女弟子の_人であるエリカ.
者の主客関係の理解を正しくとらえているかどうか問題 ホフマン(Hof fmann・E)あたりになると,一層断定 点もあろうし,ましてや,これによってかれらの思想の 的に,精神科学的教育学が弁証法的思考をとることを指 全領域にわたってこの小論の「比較」が妥当しうるとは 摘している。とはいえ,ホフマンにおいても,ここでひ 筆者も考えてはいない。 と口に弁証法とは言っても,それは,いわゆるヘーゲル
弁証法に厳密に相即し得るものではなく,むしろ,シュ 1.教育学における弁証法的思考 ライエルマッヘルの「両極弁証法」に親近性を有してい
ノールもシュプランガーも,同じいわゆる精神科学派 ると言うのである曾さらに思考の方法論に澄けるよりも に属する。ところで,精神科学派の基本的な考え方の特 むしろ,教育現実への視座や構え方において,精神科学的教育 質は,クラフキによれば,「教育現実及びそれと相関的 学は,シュライエルマッヘルに多くのものを負うている。
つまり,シュライエルマッヘルの遺した教育学の講義録 考えるかにかかっているという前提があるからである。
を満たす「生き生きとした経験と教育的な関係の現実へ 以下の論述は,これをノールとシュプランガーの教育理 の偏見のない没頭」がはじめて明らかにした「教育的矛 解を比較する中で論証しようとするものである。
盾のほとんどすべての輪郭」は,その「現実的矛盾的性 ところで,両者の教育理解は,どちらもドイツ教育改 格」において深くとらえられたからである。いわば現象 革運動の解釈から発展したものである。なぜなら主観と 学的矛盾の記述に於いて,今日シュライエルマツヘルを 客観の関係そのものが教育改革運動の基本的テーマに属 超えることはできないにしても,シュライエルマッヘル し,それとともに,これから見ていくように,この運動 の知見は,現代の精神科学的教育学のいわば基本的態度 の解釈は同時に主観と客観の関係の解釈をも意味してい を成していると言うのである2ホフマンは,現代教育学 るからである。
における弁証法的思想の代表者として,リツト,コーン,
ノ_ル,そして少なくともその基本的態度においてはシ 皿 ノロルにおける主観と客観の関係
1.教育運動の構造ユプランガーを挙げている。しかし,かれらにとって,
論理的に構築された認識体系は本来余り問題ではなかった ノールの教育運動についての研究,及びかれの陶冶論 ため,かれらの思考の枠組が明確に弁証法的構造を有して が,教育改革運動の成果を集約した「教育学テキスト」
いるとは認めがたい。かれらが取り組んだ具体的な生の (Handbuch der Pヨdagogik全5巻,1928年一1933年)
諸問題を了解しようとするその努力に即してのみ読みと の第一巻に載せられた頃ρシュプランガーはシュミット ることができる,と言ってよいのである。かかる具体的 =オットのための記念論文集「50年間のドイツの学問」
生への接近の手続きの体系,すなわち「了解の体系」 (Aus f伽fzig Jahren Deutscher Wissenschaft,1930)
(System des Verstehens)に至る手がかりは,生そ の中に,1880年から1930年にいたる50年間のドイソ れ自体の中に存在している。しかし,ここでは精神科学 教育学の発展を取扱った論文を公けにした。この論文は 的教育学一般の弁証法的思考の特質を明らかにすること 単にドイツの教育科学及び教育理論の発展を述べるにと が目的ではない。注2) どまらず,学校内外の教育的な改革の努力や教育観・陶
さて,先にクラフキがのべたように,精神科学的教育 冶観の変化がもたらしたドイツ教育界全体の新たな展開 学者たちが,どの程度自己の教育学的思考の弁証法的性 をも取扱っている。それによってこの論文はノールのぞ 格を自覚していたかどうかは別にしても,少なくともか れと同じく,そのまま教育改革運動の叙述にもなってい れらは,この具体的な教育的生,すなわち教育現実に立 る。
ち現われる教育的な連関や問題が,あるいは弁証法的思 両者の叙述を比較するとき,そこには共通性もあるが,
考によってのみ明らかにしうるのかもしれないというこ 同時に教育改革運動の理解に輸いては決定的な相違も見 とは知っていた。実は,ドイソ教育改革運動の開始以来, られる。両者がこれらの論文を著した時期が,ドイツ教 とくに客観的な文化内容に対する子どもの関係,文化的 育改革運動に対して批判的な声が生じ,さまざまの所で 社会的要求と子どもの関係をどう考えるべきかとして, 運動に対する反動が拡がり始めた時期と重なるため,こ 教育学的省察の基本的テーマの一つになった主観(Sub一 のことを教育改革運動の新しい局面に対して両者が下した jekt)と客観(Objekt)の関係もまた,この教育現実に 判断に即して述べてみる必要がある。ノールもシュプランガ 立ち現われる連関や問題のうち重要性の最たるものに入 一もどちらも,かれらが教育改革運動を取扱った論文を る。ここでは次のことが試みられねばならない。っまり, 著した年に,ドイツ教育学の発展に於いて新しい段落が 比較を進めていく中で,教育にとって基本的に重要な関 区切られたことを承知していた。この新しい段落を区切 係を弁証法的に理解することの必要性を明らかにするこ るものは,人間の教育や陶冶に対して文化や社会が果す と,更に,教育の課題や教育理論の特質の理解のしかた 役割についての新しい意識である。ノールはこれを「あ に現われるさまざまな相違には,常に主観と客観の関係 る新しい客観性への意志」(Wmen zu einer neuen についての理解の相違が伏在していることを明らかにす Objektivi tヨt)と呼びρ)シュプランガーは「倫理的なもの ることである。しかし,こう考えるのも,教育における への転回」(Wendung zum Ethischen)と表現し麗)そ 主観と客観の関係が教育にとって本質規定的であり,そ の際二人の念頭にあったのは,それまでの教育改革運動
してそれゆえに,教育をどう考えるかはこの関係をどう において代表的であった思想に対して廃棄をもとめ,新
菊池:ノールとシュプランガーの教育学における主観と客観の関係について 103
しく人間の有能性と権威を要求し,社会や文化の中の客 (Pers6nhchkeit)である。
観的な諸力に個人が完全に一体化することを主張する政 2.第二段階 第二段階は社会的民主々義的な方向 治的な力や方向一しのび寄るナチズムの影であった。 に向う。個入が得たものは,すべての人に役立てな
むろんノールは,その中に教育改革運動の成果を根こ くてはならないとする考えから,第二段階のスロー そぎにする危険な反動の芽が現われたことを見逃しては ガンは,「共同体」(Gemeinschaft)となる。これ いない。そして1932年10月の講演「教育運動か教育 ら二つの段階に共通する教育学的原理は,「すべて 反動か」の中で,次第にその輪郭をあらわし始めたかか の能力を覚醒し,生き生きとさせる」ことである。
る反動的傾向に対して決定的な態度を取るにいたる曽し じかし,ノールも言うように,ここで次のような問 かしノールは,人間の有能性や権威知識や訓練,社会 題が出てくる。もって生まれた能力を覚醒するなど 的文化的課題への個人の義務を,完全に否認したわけで と言っても,内容(Gehalt)を与えずに能力が覚醒 は決してなく,他方ではこうした要求の正しさを理解し されうるのかどうか,また能力というものは方向や ようと試みてもいたのである。つまりかれは,これらの 重点を持ってはならないのか,といった問題であり,
要求が「教育反動」としてだけでは片付けられないとい ここに運動は第三段階へと展開する。
うことを知っていたのである。なぜなら,これらの要求 3.第三段階 人間の自己実現に客観的内容が必要 は20年代の半ばごろから子どもの固有の権利や独自性に であることは言うまでもない。そのために内容や方 ついての一面的な強調への批判として現われはじめ,子 向や能力の統合というものが要求されるのである。
どもの発達に対する客観的世界の要請や権利を一層強く ここに「新しい客観性への意志」が生ずる。ノール 主張する運動の表現でもあったからである。ノールは, はこの第三段階の特徴を「奉仕」(Dienst),つま
こうした新しい動きを教育改革運動の全体的な関係から り「客観的なものへの日常の献身」(die t蓋tige 説明し,それによってこれを,教育改革運動の展開の一 礪ngabe an ein ObJektives)とよんでいる。
様相として位置ずけようと試みた。 ノールは,いかなる教育運動といえども,これらの段 教育運動の概念は,精神科学的概念であり,同時に精 階をたどると考える。それはソフィストからプラトンに 神史的な概念である。それは,教育学の歴史内における 至る,またロツクやルソーからペスタロツチを経て新人 特定の時代を指し示すだけではなく,同時に歴史の中に 文主義に至る教育学がたどった道でもあり,ドイソ教育 表現され,多様な現象を精神史的な運動の統一体として 改革運動においては,リーツやガウディヒから社会的教 包摂する体系的な精神的連関をも指し示すものである。 育学を経て20年代半ばから明確に区別されつつある新し
したがって教育運動とは言っても,それは今世紀初頭の い客観性への転回に至るまでの道でもある。
いわゆるドイツ教育改革運動にのみ限られるものではな
2 教育の両極的構造い。それは「教育的生」(P湘agogisches Leben)の運
動の一つの歴史的な形態にすぎない。それゆえ,教育運 教育運動の概念が精神科学的概念であり精神史的概念 動は現存する「陶冶形式」が「無益なもの」と感じられ, であることは先にも述べた。そしてその概念は,教育学
「死滅し,硬直したまま伝達される」にすぎないとき, の歴史内部における特定の時期を指示するだけでなく,
いつでもどこにでも出現する。 同時に体系的精神的連関をも意味するものであった。ノー また社会的な面から見ても,教育運動は社会に決定的 ルによれば,三つの段階の流れの中に存する教育運動の な変革が生じ,伝統的な生活の秩序や形式が,変〔ヒしつつ 法則は,同時に「教育的生一般の構造」(die S truktur ある社会的現実にもはや対応しきれなくなったときに出 des p塩agogis chenムebens篭berhaupt)をも表わしてい 現する。ノールによれば教育運動は大体において次の三 る。つまり,「……歴史的生の背後に,いつでも超時間 つの段階を脳曽 的姓(。㎞、e、tl。、e, L,b,。)棚われる.」・・)この超
1.第一段階 教育運動の第一段階を特徴ずけるも 時間的な生は,したがって教育的生は「両極的な構造」
のは,もはや単に硬直して伝承されているにすぎな (die polare S truktur)を持つ。ノールの教育理論にお い現存の陶冶形式と,自立的なそして自分の力で生 いてこの「両極性」(Polarit苔t)の概念は決定的に重要
きていく個入を要求する新しい陶冶理想との間の対 である。注3)教育的生の梼造は,両極的途あるが故に,
立である。第一段階の運動のスローガンは「人格」 歴史的に常に同一である,とノールは言う。そも「両極
性」とは何を意味するか。「これらの運動のそれぞれは, かれは「正しい客観化」の必要をいたるところで主張し 生の体系の中に横たわる教育的な諸要因(Pヨdagogischen ているからである。ここでは両極性の概念は,教育の自 Momente)の一つを代表し,そしてそれゆえに,全体連 立性を保持する積極的な意味に澄いて使われている。し 関の一つの必須の項なのである。」11)あたかも磁石の両 かし後の方の引用は,そのままでは,いわゆる歴史主義 極のように,一方の極だけが存在するということはあり 的相対主義の危険性,ないし教育理論としてはある種の 得ず,二つの極が同時に存在してはじめて全体が存在す ひ弱さを感じさせる。要するにかれは,ある時には主観 る,というこの考え方をノールは,そのまま教育運動のぞ 的な極に,またある時には客観的な極にアクセントが置 れそれの段階の解釈に適用する。「常に{臥の自己価値 かれる可能性を否定してはいないのである。そして教育 とかれの小さな生活は,かれの犠牲と奉仕を要求する大 学にも主観的的側面を強調する体系と,客観的側面を強 なる客観性に対立する。つまり覚醒される能力及びその 調する体系の二つがあり得るとする。
総体をまとまりのある存在にすることが肝要なのであり,
いつでもこれらの能力の両極的な陶冶力としての愛と権 3 教育的関係
威が大切であり,いつでもこれらの能力の発展の両極的 ノールの陶冶論の中でも重要な位置を占めているのが
な形式としての遊戯と労働が大切なのである。」②しかし 「教育的関係」(P菖dago廊s chen Bezug)の理論である。
ノールも考えているように,この両極的な構造の二つの 教育的関係とは,言ってみれば教師と生徒との関係であ 項あるいは要因のどちらも必須であるとは言っても,ア る。とくに,この関係の中で教育者がとるべき態度が問 クセントの置き方は時代的にさまざまに異なってくる。 題となる。そしてここでも教育の主観的側面と客観的側 だから教育運動の流れに即して言えぱ,第一段階及び第 面が問題になってくる。「生徒の主観的な生活に狙いを 二段階では,教育の主観的側面つまり個人の自己価値 つけることは,生徒を今ある状態において指導するだけ や愛や能力の覚醒が強調され,これに対し第三段階では, でなく,同時にかれをあるべき状態に指導する。」16)っ 教育の客観的側面,つまり客観性や能力のまとまり,権 まり,子どもの理想をめざすのである。それゆえ教育者 威や有能性が強調される。しかし,ノールの理解によれ の子どもに対する,教師の生徒に対する関係は,「現実 ぱ,一方の極が強調されるとき他の極が消え去ることは の子どもに対する愛」と「子どもの目標や理想に対する 許されない。もしも他の極が完全に否定しつくされてし 愛」の双方によって二重に規定される。そこで教師が持 まうなら,それはこの極を真剣に守ろうとすることの中に つべき眼は,子どもを「あるべき状態において見る理想 のみ存在す磁育の永遠の課題を放棄したことになるから 的な見方」つまり父親のような眼と,子どもを「現在あ であるき3) る状態において見る現実的な見方」つまり母親のような
ノールの論述を検討すると次のような問題が生じてく 眼の「独特な混合」であり}7)そのとるべき態度は,「子 る。つまり教育の独自の課題についてのノールの規定が, どもの完成せる生活を顧慮しつつ,子どもや子どもの素
教育的生の構造の二つの極のうち一つを強調することを 質,子どもの陶冶可能性に教育的な愛を注ぎこむこと」
セい表わしているのか,それとも,両極的な構造の主観 である。18)ノールはさらに次のように言っている。「現 的側面と客観的側面の間の対立を,弁証法的な意味で仲 実における子どもへの愛と,かれの高きものへの愛の二 介し,さらにその対立を包み込むような位置から発した 重性に対応して,教育的共同体(die p馳agogische
ものであるかどうかという問題である。かれは次のよう Gemeinschaft)をになっている力も,愛と権威子ども に言っている。「教育独自の目標は人間である。教育者 から見れば愛と服従の二つがある。」19)
は人間に対して有能性や犠牲や帰依を要求する客観的諸 以上の教育的関係についての引用から,再びノールに 力の要求に対して,一人一人の人間の生活の発展の権利 おける主観と客観の問題について吟味してみよう。ここで明確
を擁護する。」14)またこれとは別に次のようにも言う訳教 に区別された教育者の態度や教育的な愛の二重性にその 育的生の)両極的な緊張関係の中でその時その時にどち 特質を持つノールの教育学は,確かに,教育的生の構造
らの極にアクセントが置かれるべきかを決定するのは歴 に詮ける主観と客観の極の間の対立をまったき意味で止 史的時間である。」15)前の方の引用は,たしかに,子ども 場はしないまでも,その対立を子どもの将来の決定,つ
単に一面的に主観的極を強調したものではない。 観的な諸力の要求に対して,教師が主張する子どもの理
菊池:ノールとシュプランガーの教育学における主観と客観の関係について 105
想的な方向の中で仲介する。したがって前節で出された 構造が思考において弁証法的なものとして示されるよう 問題に対して,ノールが教育的生のうち単に一方の極を な関係であると考えられる」とされる。20)たしかに,ノ 強調することを考えているのではなく,少なくとも弁証 一ルが両極性という概念のもとで教育の一連の基本的な 法的な意味で対立を仲介あるいは調停するような立場で 弁証法的な関係や構造連関を示している,というクラフ
考えていることは確かであろう。つまり,教育の独自の課題 キの見解には一応同意できるにしても,両極性や両極的 . 印
についてのノールの固有の理解は,教育的生の両極的な な関係の概念がもっぱら弁証法的な意味においてのみ使 構造についての一定の解釈を表わしている。その解釈は われている,とのかれの見解には問題がある。両極性の概 教育的な関係に基ずく教育的な位置,すなわち両極的な 念は,ノールにおいては教育連関の二律背反的な理解と弁証 構造の中でひき起される緊張や対立を弁証法的な仲介と 法的な理解のいわぱ境界に位置していると言える。言いか いう意味で生産的に解決することを教育者に課題として えるなら両極性の概念は二つの面に向って開かれている。
迫るような教育学的な位置あるいは立場を示している。 それゆえ教育的生の構造は主として二律背反的な意味に しかしこのことから見れば次のこともまた明らかであ 知いて表現されるが,しかし同時にその構造が両極的な ろう。教育的生の構造の中に与えられている極のさまざ ものとよばれるがゆえに弁証法的な理解にも通じている。
まの強調の置き方の可能性についての前節のノールの言 ノールが教育的な対立の規定にあたって教育的な二律背 は,教育の,あるいは教育者の独自の課題についてのか 反の概念を必らずしも完全に捨て去ったわけではないこ れ自身の理解と本来は矛盾するものである,ということで とは,たとえかれが教育的対立をかれ固有の陶冶及び教 ある。教育や教育者の独自の課題にみられるノールの考 育の理解において弁証法的な意味においてとらえ,さら え方が,仲介や調停への一定の立場を示していることか に対立の弁証法的な仲介を実践的な課題として教育者に
らすれば,両極のうちいずれかを強調する可能性を肯定 課したにしても見逃されてはならないことである。
することはできないはずである。しかしこの矛盾は決し とは言っても,結局のところノールが教育的対立の間 て偶然に生じたものではない。それはノールがかれの教 に存在する緊張の「生産的な解決」を得ようと努力した
育現実(die erziehedsche Wirklichkeit)の分析において ことと,,そして教育の自立性についてのノールの考え方の
充分に堅持しなかった思考モデルから出発したことによ 基礎となっている「対立を覆うような教育的な位置」にるのである。 立ってこの解決を企図したということは重要なことであ 教育的な連関が持つ対立的な構造の洞察は,ノールの る。加えて一層重要なことは,教育的連関についてのノ 教育理論にとって確かに本質規定的である。これらの対 一ルの表現や解釈は,たとえばかれがそれとは明確に規 立は一般的には教育学的な二律背反(Ant恥o血en) 定していないにせよ,全体として見れば,弁証法的思考 として,したがって止場しがたい対立として理解される。 の特質として理解し得るということである。
それらは教育的生における自立的なそして互いに排他的 したがってここで再び教育改革運動についてのノール な諸原理及び諸要求として現われる。しかし対立のこの の理解に還るなら,かれが区分した教育運動の発展段階 ような二律背反的な理解は,対立を連関内部の交互に関 は弁証法的な意味でのみ適切に理解することができる。
係し合っているモメントとして理解する教育的連関の考え方 それゆえ,かれは第三段階の意義が正しく理解されるこ を排除してしまいがちである。したがってノールは,対 とに非常に重点を置いている。とは言っても第三段階は,
立の二律背反的な理解にとどまり得なかった。 先行する第一と第二段階との関連においてのみ,そして 第一,第二段階の真理を正しく保持しつづけることによ
4 両極性の概念 ってのみ,その意義を有するのである。したがって,「教
1930年の論文「教授学における両極性」(Die Pola一 育運動」と「教育反動」を分ける基準は,第三段階がそ rit翫in der Didak甑)の中で始めて中心的に用いられ れ以前の段階の真理を保持しているかどうかである。も た野両極性ρ概念は,ノールが弁証法的な理解を目指した し保持していないならば,客観性への新しい転回,有能 重要な一歩である。クラフキも指摘するように,この論文 性や権威知識や訓練といった教育の客観的側面の要求 によってノールは,対立の二律背反的な理解を超えたの はそれ自体「教育的反動」であることになる。
である。クラフキによれば,ノールにおげる両極性の概 かれの弁証法的思考一たしかにそれは弁証法的思考で 念,及び両極的な関係の概念は「本来は,その内面的な あるといってよい一は,対立矛盾に対する鋭い認識を
ψ
本来的には欠いているとの批判もある。次の言は,そうし 次にシュプランガーがかれの「倫理的なものへの転回」
たかれの態度を明快にあらわしている。「理論の対立ば一実 という主張から教育学に関して引き出した帰結を述べて 践の対立に齢いてもと補うこと力鞭きる一生の構造の中に含ま みたい。かれによれば,すべての真の教育ば入間の中に
れる諸要因の,その緊張対立をつくり上ける諸要因の一 「積極的な価値の充満」を促し,自己の形式を持つよう 面的な強調にほかならない。」21)たしかにそこに,歴史 に指導することである。しかし人間は,自己の形式とは 主義に不可避的な相対主義の危険をみることができるか 言っても,それを自ら創り出すことはできず,もっぱら
もしれない。しかし,ヴェーニガーは,ノールに澄いて 各文化領域に固有な「事実的な構造法則」(sachl iche は「教育学的思考,(したがって,教育理論もまた)は, Struk Ulgese枕e)を自己の内に受容することによってし 意志決定を迫り,そして あるひとつの立場からの単な か獲得できない。シュプランガー自身,「陶冶は客観的 る理論的理解を許さないところの与えられた課題に対し な精神の領域の法則を自己の心の中に取り入れることで て具体的に答える責任に結びついていることによって相 ある」と言っている。25)それゆえ,かれにとって教育の永 対主義の危険を脱している。」と弁護している。22) 遠の課題は,各文化領域の事実的な構造法則に適合した
内的諸力を覚醒することである。
皿.シュプランガーにおける主観と客観の関係
1. 教育改革運動における「倫理的なものへの転向」 Z 文化教育学における主観一客観関係
ノールと同じくシュプランガーもまた,教育運動の展 シュプランガーがここで述べている教育理解は,先行 開に三つの段階を区分しているQシュプランガーに診い する二つの世代の単なる教育学的な印象主義(体験教育
ては,これらの段階は実は単なる段階としてではなく, 学)や表現主義(表現教育学)を超えるものであろう。か 三つの異なる世代の帰結として現われている。かれは最 れが1930年までに構築したいわゆる文化教育学との関 初の二つの世代をそれぞれの世代が生きた時代の芸術の 連で見るなら,第三の世代の教育学的主張の正当性の主 発展との関連で見ている。「印象主義の時代に表現主義 張は,そのままかれ自身の文化教育学の正当性の主張で 的な基本様式がつながった」23)そしてこれら二つには体 もある。すなわち,第三の世代における客観的ないし倫 験教育学(Erlebnisp馳agogik)と表現教育学(ausd市cks一 理的なものへの転回によって,ここにはじめてシュプラ p冒dagogik)が属する。体験教育学と表現教育学の中で試 ガー教育学の出発点ともなった立場が確立されたのであ みられた「美的体験の充満」と「表現文化」は,第三の る。そしてこの立場は,疑いなく教育の客観的側面つま 世代から見れば,もはや究極的な目標とは考えられなく り文化の側面に置かれている。前にも述べたように,か なった。第三の世代にとっては「倫理的なものへの決然 れが教育とは人間の中に積極的に価値を満たし,それに たる転回」(ehle entschiedene Wendung zum Ethischen) よって形式を獲得させることだと言ったにせよ,教育さ こそ緊要であると思われたのである。こうした転回をシ せるべき人間は主として文化の側面からのみとらえられ ユプランガーは,「入間は社会がとりわけ道徳的文化の るわけであり,重点は文化に置かれている。このような 意味内容がかれに要求する倫理的な義務に対する究極的 教育理解の背後にあるのは,かれが「生の形式」(Leber
な責任から決意すること」勾というふうに理解している。 slb rme、)の中で展開した「個人の精神構造」と「客観 シュプランガーがここから教育学に関して引き出したい 的精神の構造」との,あるいは「個入の感性の方向」(Siザ くつかの帰結に立ち入る前に,かれにおいては文化の持 nrichtugen)と「文化の価値諸領域」(W磁gebieten der つ客観的な価値にアクセントが置かれていること,また Khltur)との一致左いし予定調和という前提である。か 社会や文化というものが文化の持つ「倫理的な内実」か かる前提に立ってはじめてシュプランガーは,教育の課 らのみ問題にされていることに注意を向ける必要がある。 題は個々の文化領域の構造法則に適合する内的諸力の覚 つまり文化というものを倫理的観点から規定する傾向が 醒であると言い得たのである。一見して,かかる前提は 強いということである。これは大いに問題とされ 新人文主義にまで遡り,またその根の一つをヘーゲルの るべきであろう。なぜなら,社会や文化をその倫理的な 客観的精神に持つことは明らかであり,またそれゆえに,
諸関係にすべて還元し得るかということは、はなはだ疑 そこにはシュプランガーでさえももはや今日では抱いて 問であるからである。しかしこの問題はさしあたりここ いない陶冶のオプティミズムが潜んでいる。
では論究を避けたい。 したがって本稿のテーマに即して言えぱ,見逃してはな
菊池:ノールとシュプランガーの教育学における主観と客観の関係について 107
らないことは,シュプランガーの文化教育学が単にその立 は,もはや文化教育学とは呼び得ないほどの変化を見せ 場を客観的な側面に持っていることだけではなく,かれ ているのである。
が主観と客観の対立や子どもと文化の対立をもともと認
識しては瞳かった,ということであり,それゆえにノ 3文化に対する責任一対立克服の可能性一 一ルの場合には,教育理論沖教育者は,主観と客観の対立が 1945年以後に公刊されたシュプランガーの著作にお ひき起すさまざまの緊張を解消へと導くという課題の前 いても,客観的文化に対する人間の関係は,かれの哲学 に立たされているのに対し,かれにあってはそうした課 的・教育学的考察の中心的テーマを成している。しかし 題意識はない。くり返し述べるまでもなく,かれの文化 この関係は,20年代とちがい鋭い問題性をはらんだ現代 教育学は,その理想主義的な文化概念のゆえに文化を個 文化の状況を強く反映している。現代文化の問題性はど 々の文化領域の事実法則性(Sac㎏ese¢lichke辻en)に還 こにあるかといえば,それは人間が文化過程(Kultur一 元し,主観の側では臥をその事実法則性に適合した感 prozess)に主体的燗与する(eing把ifen)ことがます 性の法貝1性(Sinngesetオichkeiten)の担い手へと抽象化 ます困難になり,文化が人間に対して自立してしまった
した。それゆえかれは本来主観と客観の対立は認識して ことにある。「文化は今日われわれにとっては超個入的 いなかったと言えるのである。 な形成物である。確かにそれは人類の歴史の流れの中で 前にも述べたように,ノールとシュプランガーの教育 産み出されたものではあるが,今や人類にとっては,独 理解は教育改革運動についての解釈に依拠している。な 立した力として立ち現われる。その内的な複雑さは,所 ぜ両者ともその教育理論を構築するにあたって教育改革 属する個人を抑圧し,圧迫するところの独自の法則に基 運動に足場を求めたかと言えぱ,主観と客観の関係が教 ずいている。文化は独自の実質を持ち続けてきた。現代 育改革運動の基本テーマに属し,また同時にこの運動の の人間はこれまでかれが自分で,そして自分のために発 解釈は同時にこの関係の解釈でもあるからである。した 動してきた文化過程をもはや自分のために導くことがで がってノールとシュプランガーの教育理解の比較は,教 きないという恐しい運命に曝されている自分に気ずくj26)
育改革運動の時代に限定されてしまっている。ノールの しかしシュプランガーは,決してこの運命が不可避なも 場合には,その教育理解は主として教育改革運動の解釈 のであるとは考えてはいない。したがって「現代の文化 から発展したものであり,ノール自身,運動の解釈自体 過程は,未だ指導可能であるか」という問題に対しては,
をこの運動の理論であるとし,加えて,その解釈はいわ 肯定的に答えるのである。つまり現代文化がそれぞれの ゆる教育改革運動の本来の時代を超えて歴史的に不変な 領域の固有法則性を持つにもかかわらず,同時に現代文 ものであるとしたのである。それゆえかれの教育理解ひ 化は文化過程を人間の手に取りもどすための出発点を指 いては教育理論は,かれの運動の解釈から直接に説明す し示している。それはもはや文化にのみ固有に内在する ることができる。 ものではなく,文化を超え,文化をまず何よりも倫理的
ノールと同じことがシュプランガーについても言える 要請のもとにおく「審判」を下す地点でもある。
かというとそうではない。その理由としては,第一に, 人間の文化に対する関係は今日根本的に破壊されてし その哲学的教育学的研究から教育改革運動に注ぎ込まれ まっている。文化と人間は対立関係に陥り,人間は個々 たかれの多様な衝動にもかかわらず,教育改革運動がそ の文化領域の事実一固有法則性によって脅かされている。
の教育理解に対して持つ意義は,ノールほど決定的なも しかしかかる対立をもたらした原因を探ることだけでは,
のではないからである。第二の理由としては,1930年 つまり反省だけでは,この対立を止揚できないのであって の論文に知ける教育改革運動の解釈からは,文化教育学 不十分である。むしろ現代文化の状況は,人間に対して,
の概念が固着している部分しか展開されてはいないから 対立の中に生起するもろもろの緊張を自らの行為によっ である。しかし1945年以降の著作になると2(年代の文 て克服する努力を要求しているのである。言いかえれば,
化教育学に比べてさまざまの点で変化を見せている。そ 人間が文化全体に対して引き受ける「責任」こそ重視さ の変化の一つに客観的文化に対する人間の関係がある。 れるべき左のである。「われわれは西洋においてば一 20年代に比べ激変した現代文化の問題性を踏まえて,こ 定のタイプの人間を,すなわち文化運動の全体に対して の関係はシュプランガーに澄いてとらえ直されている。 共同責任を自覚する人間のタイプを終始必要としてい詔 そしてそれとともに,シュプランガーの晩年の教育理解 かかる責任を持つことの中に,客観的文化と文化を担う
108 茨城大学教育学部 第24巻
個人の間の対立を克服する可能性への芽が育つものとシ 客観的側面のアクセントの置き方の移動ととられるかも ユプランガーは期待しているのである。しかしまたかれ しれない。しかしそうではない。たしかにかれに澄いて は,「文化は確かにかかる責任の受容を要求するが,同 は,教育の独自の課題は,今日,文化からのみ見られて 時に受容を困難にしている。」という問題を指摘する。 いるわけではなく,子どもからも見られている。教育の課
責任を担っているのはつねに一人一人の人間である。 題は子どもの自己実現であり,子どもを自分自身へと導く
「道徳的な意志決定は人格の狐独の中でのみ行なわれ司 ことである。しかしこの自己は「その現実におげる子ども1 から文化に対する責任は「自分自身のうちに中心点を有 ではなく,その中に覚醒されるべき「高次の自己」(das する人間,つまり自分自身を照査(kontro脱rende)しつ }もhere Selbst)である。高次の自己は,その機能から見 つ知る自己,われわれが覚醒された良心と名付け,そし れば,覚醒された良心であり,これをかれは人間の「内 て世俗的なものよりもより以上のものに関係ずけられて 的な調節作用」(innere Regul ier肥rk)と呼ぶ。それは いる自己を前提としている。」28)しかしかかる覚醒され 「知る自己」として世界に妥当する「道徳的規範」や「事 た良心を持つ人間は稀になっている。現代文化において 実規範」に関係づけられており,「価値づける自己」と 支配的な人間とは,人間的な良心や道徳的な責任のない して精神の「形而上学的義務」に関係づけられている。3D 人間,シュプランガーの言う「大衆人」(Massenmens一 事実規範,道徳的価値や超越的なものは,高次の自己に chen)である。 おいて発現する。シュプランガーの高次の自己の概念の
中で,教育の主観的側面と客観的側面はひとつのものに
4 文化過程の逆転 なる。高次の自己の覚醒として理解される教育は,かく
それゆえ,すべてはこの文化過程を逆転できるかどう して教育の主観的側面と客観的側面の双方に対して,次 かにかかっていると言えよう。現代文化において明らか のような帰結をひきだす。それは,子どもを事実規範や に稀になりつつある人間のタイプを「新しく蘇生させる 道徳的な価値や超越的なものに関連ずけて見ること,ま こと」こそ重要なのである。シュプランガーに於いては, た反対に,これらを子どもに関連ずけて見ることである。
文化過程の逆転はもっぱら宗教と教育の二つの力に対し 高次の自己は,子どもの中に現われる他者,すなわち事 て期待される。逆転の契機となる変革は先ず宗教の力に 実世界の規範性と道徳的世界の規定性と超越的なものに
よる。「本質的な変化は,……根本的な宗教的倫理的な よってのみ実現可能なのである。
変革によってのみ期待され得る。すべての実際の文化抗
争を克服するに充分なほど深く達する変革である。」2Φ 皿・結 語
教育がこの変革の過程にどの程度協働できるかについ ノールにとって教育の主観的側面と客観的側面の対立 てかれは必らずしも明確に答えてはいない。しかし文化 は存在していた。かれは教育を対立的に構造化した。し 問題は,その解決のためには「新しい教育」が必要であ かしかれは単に対立の指摘にとどまらず,教育の独自の るというかれの理解は一貫している。新しい教育の中心 課題を教育的生の両極的構造の弁証法的解決の中に見る 的にして最高の課題は,成長しつつある入間の中に,「自 ことによって,とりわけその弁証法を教育者に期待する 己を照査しつつ知る自己」(sich selbst kontrollierende ことによって,対立を克服しようとしたのである。教育 wiss㎝de S elbst)を覚醒し,それが支配する自己の確立 的関係の理論はその典型である。これに対して,シュプ であるとされる。そのための前提は,成長しつつある人 ランガーの文化教育学は,その立場を教育の客観的側面 間が文化全体に対して責任を分ち合い,文化過程を人間 すなわち文化に置いている。それゆえ教育の課題は客観 の幸福へと切り換えることに主体的に関わる準備と能力 的な側面から見られる。子どもと文化が本来対立するも を持たせることである。新しい教育は,「良心への教創 のであるという考え方はここにはない。シユプランガーの てErziehung zum Gewissen)であり,したがって責任へ 晩年の教育理解は,現代文化の発展によって文化と の教育であり,終極的には「広範な文化責任への教育」 人間の間に生じた対立から出発している。この対立から,
(Erziehung zur we甦ausgreifenden Kulturverant冊一 教育の最高のそして独自の課題は良心への教育とされる。
tung)でなければならない。30) 良心への教育によって教育の客観的側面(事実世界や道 シュプランガーの今日の教育理解は,20年代及び30年 徳的世界の規範性,超越的なもの)と主観的な側面は高 代のかれの教育理解に比べて教育の主観的側面に対する 次の自己の概念において仲介されている。
菊池:ノールとシュプランガーの教育学における主観と客観の関係について 109
6) H.Nbh、 a.a.0.,S.219.H. Nohl, Pヨdagogisd拾
■o
@ Bewegmg oder Padagogis6he Re3ktion?, h注 ..
:Padago9並【aus d陀iss㎏ Jahr㎝,1949,S.241 f:
1,シュプラソガーとノールの主観と客観の関係に論及し 7)ESpranger, Aus宙㎡zig Jahr∫n Deutscher Wissens−
たものとしては,高久清吉「教授学」(昭和43年)が 山aft−Die Entwi(1dung ihロer Fachge_
ある。とくにここではシュプラソガーについて戦後の biete in Einzeldarstellungen,(}. Abb
著書「国民学校の根本精神」(1956)を,したがって hrsg,)1930,S.103.
・■
甯繧フ変化したシュプラソガーを取扱っている。同書 8)H.Nbhl,Pa]agogik aus dreissig Jahrα1,S.237−244.
P116〜119参照 9)H.Nbh1,載a.0.,S.240 f.
2.クラフキは精神科学的教育学の主な代表者たちの思考 10) H.N)hl, a.a.0., S.242.
の特質を次のように分類している。iL揚可能な矛盾に 11)H.Nbh1,Die庫dagogis(he Bewegu ng in Deuしschl and
†直面した思考(エリカ・ホフマソ),両極性の中での und ihre Theorie,S.11.
思考(ノール),構造論的思考(ブリッツ・カソニン 12) H.Noh1, P諫㎏Pgik aus dreissig Jah1捨n, S.242.
グ),現象学的思考(マルチヌス・ラソゲフェルト), 13)H。Nohl, a. a.0., S.242.
弁証法的思考(リット,・マノ・ガルディー二),対 14)H.Nohl, a.a.0., S.242.
話的思考(マルチン・ブーパー),弁証法的・類型的 15)H.Nohl, a.a.0., S.242.
・構造論的思考(シュブラソガー),矛盾・弁証法(エ 16)H.Nohl,蝿dagogisd£Bewegu㎎in Deutschland u.
一リッヒ・ヴェーニガー),対話的,弁証法的思考(ヴ ih泥Theor le,S.135 f.
イルヘルム ブリットナー)WKIafki,a・a・0, S 58・ 17)H.Nbhl, Charakter u. S dlid6al−eineがi邉ago9董sd珍
3.「両極性」の概念が最初に使われたのは,193〔輝の論 Menscheh㎞曲一.1963.(6,Auf l.)S.16.
文「教授学における両極性」(Db Polarit翫in der 18)H.Nbhl, Pi脚gische脱wegung ln Deutschland u.
P灘agogik)においてである。ここでは両極性の概念 ih㎎Theorie,S.135 f.
を積極的な教授学的原理として若干の教授学的問題に 1g)H.Nohl, a. a.0., S.138.
適用している。大体ノールの初期の論文においては, 20)W.Klafki,a. a,0., S.73.
たとえば1914年の「教育学的対立」や「教育学にお 21)H.Nohl, Das Ver硲hnis der G(nerat{(扇al in der
ける世代の関係」においては,「対立」とか「矛盾」 露dagog斌in:P勧agogise㎞Auf§δtze,
といった観点が殊更に強調されている。これが十数年 192g,S.22.
後に「両極性」の概念にとってかわるということは, 22)E.Weniger, B ibliographie Hbman Noh1.(beaめ.
やはり20年代後半の教育改革運動の転機と結びつけて von E. Ahr郎,1.W〔池meyer u.E.
考えなくてはならないことであろうと考える. W。niger)1954, S.9.
24) E.Spran ger,a.a.0.,S.103.
1)W・Kl・fki,Di・1・㎞i・舳r朧・i・der P…池9㎏ik; 25)E.Spran g・・,。.。.0.,S.103.
in Geist u・Erz iehmg,1955,S・55・ 26) E.Spran ger,KUlturfrag団der Gegαlwart,1953,S.44五 2) Wl Klaf1(i, a, a.0., S.56。 27) E.Spran ger,a.a.0.,S.61.
3)E・H・ffm・m, r鵬di・1曲i曲・・1㎞㎞㎞曲・P蝕9・− 28)E.Sp・細9・・,。.a.0., S.64.
g聾覧1929,S.81. 29) E.Spran ger,P苔dagogiscb Perspd蛇iven,(5.Au且),
4) E.Hoffmann, a.亀0.,S.53. 1958,S.17.
5)E恥M,Di・晦9・gi漉B・聰9㎎i・蹴㏄hl囮 30)E.Sp・㎝9・・, K㎝t曲ag。n由・G。g,n、曜t, S.65.
und ih鵜T1蛤orie,1961,(5Auf 1.) 31) E. Spran ger, Der geborene E毘ieheζ,(2.Auf 1)196D.S 72.
Zum Verh註ltnis von Subjekt und Objekt
in der P蕊dagogik H. Nohls und E.Sprangサrs
Ryusaburo Kikuti
Abstract
H.Nohl und E.Spranger waren die zur Diltheyschule gehδrigen P巨dagogen. Dieser Abhand一 lung behandelt den Vergleich des Verhaltnis von Subjekt und Objekt in Erziehungsverstand一
nis beider Denkern.
Einleitung
1.Das dialektisches Denken in der P護dagogik.
皿.Das Verh冒ltnis von Subjekt u. Objekt in der Padagogik H. Nohls 皿.Das Verh巨ltnis von Subjekt u. Objekt in der P百dagogik E. Sprangers.
W.Zusammenfassung