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「国民教育論」の「国民」概念について   一戦後教育思想史研究ノート(一)一

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「国民教育論」の「国民」概念について   一戦後教育思想史研究ノート(一)一

渡部忠治

はじめに

 日本において、国民教育という概念は戦前 から使用されてきた。しかし、1950年代から 政府によって復古的な教育政策が次々と押し 出されてくる中で、民間教育運動は主権在民 の立場に立つ国民のための教育を国民教育と

し、その理論と運動を展開したのである。

 その理論である「国民教育論」に対して、今 日、その限界性がいくつかの角度から指摘さ れている。その一つとして、「民族」(エスニッ ク・グループ)の視点がある。最も辛辣な批 判を加えているサ健次によると1)、戦後日本 の教育は、アジアと日本との関係について歪 んだ歴史認識を作り出す役割を果たしてきた。

とりわけ、在日朝鮮人の視点から振り返ると き、それは一貫して自民族中心主義であった。

「国民教育論」においても、こうした意識や戦 争責任意識の脆弱さが内包されていたという。

 7は、「民主教育運動の側が『国民教育論』

を説きつづけた戦後教育においては、体制側 は、過去のアジア侵略の責任を容易に放棄し つつ、労せずして国民=国家意識の形成を手 中にすることができた」2}と指摘する。その要 因として、「国民」概念が階級闘争を隠蔽する イデオロギー一一一性を帯びているにもかかわらず、

「国民教育論」がそこに反権力としての意味を ア・プリオリに含意させたことや、「ブルジョ ア民主主義の枠内のもの」であり、「歴史的存 在である民族集団としての日本人が果たすべ

き、戦争体験の思想化や戦争責任の自覚と いったものを、直接読みとること」3)が困難な 教育基本法(=教基法)を、国民教育の教育 原則としたこと等をあげている。

 このような議論には、戦争責任意識の脆弱 さという日本社会固有の問題と、国民国家の

枠組みの自明性に対する懐疑という近年の国 民国家一般の問題とが包含されている。しか し、後者については、1.ウォーラーステインも いうように、国民国家は世界資本主義システ ムと結びついて実際に機能している4}。した がって、その国民国家の枠組みを早急にかつ 無前提に相対化した議論は非現実的であり、

むしろその枠組みを前提とした議論を現代的 に再構成することが当面必要であろう。ここ に、戦後国民国家システムの下で形成された

「国民教育論」を今日の時点で批判的に継承す る意味がある。

 この課題意識からみたとき、先の「国民教 育論」批判は告発的段階にあり、歴史的連続 の上にある現在において、継承すべき「国民 教育論」の価値を明らかにしていない。本稿 では、1950年代中葉の「国民教育論」の提唱 から60年代中葉の展開までを考察の対象と

し、まず「国民教育論」を規定した時代背景 を素描し、その歴史的性格を押さえたい。次 に、「民族」問題、とりわけ在日朝鮮人の視座 から、「国民教育論」の「国民」概念を検討す る。その際、以下の相互に連関を持った視点 を、他「民族」に開かれたものであるかどう かのメルクマールとして、その視点に沿って

「国民」概念の内実を分析していく。

 ①「国民」内部の多様な緊張関係(被支配 階級や女性、障害者、被差別部落民、アイヌ、

沖縄県民など各種の被抑圧者の存在)、②対外

認識、③戦争責任、④経済的な社会的諸関係

である。①は「国民」概念のイデオロギー性

への認識、②と③はアジア観、戦争責任意識

と関わっている。また、④については、日本

の経済発展が、アジア諸国人民への経済的抑

圧を内に含む5)という次元のみならず、国内

では労働者の体制内化6)や、価値意識の一元

(2)

化による同質性と異質なものを排除する閉鎖 性とを促進する7)という次元において、いか にそれを問題化し、有効な論点を提示しえた かという意味連関で問題にする。

1.復古的政策と「国民教育論」の提唱

 (1)サンフランシスコ体制と憲法「改正」

 1950年代の「国民教育論」形成に関わる国 際的情勢として、第一に、東西冷戦体制の形 成があげられる。敗戦後の事実上アメリカに よる単独占領から、アメリカの世界戦略であ る「グローバリズム」の下、日本はサンフラ ンシスコ体制に組み込まれていった8)。

 第二に、植民地諸国の独立である。戦後、中 華人民共和国が成立し、他のアジア諸国でも、

植民地支配からの独立運動が盛んになり、

次々と独立が達成された。55年のバンドンで のアジア・アフリカ会議は、植民地制度への 反対、大国中心の権力主義的世界政治への反 対、世界平和の確保などを宣言し、第三世界 運動や非同盟運動隆盛の転機になった。

 こうした動きは、民族の独立と解放の原理 の世界的な確認であり、米ソ対立の激化とそ れに伴う核軍拡競争の危機に対する世界的な 平和運動と結びついていた。そのことが日本 では、平和運動や民間教育運動に、平和のた めの「民族の独立」の重要性を強く意識させ たのである。 冷戦の激化や朝鮮戦争を背景 に日本国内において、「国民教育論」形成に とって、直接的に大きな影響を与えたのは、第 一に、講和を境に日本の支配層が策動した、憲 法「改正」に代表される復古的政策である。教 育政策において、その復古的政策は、54年の いわゆる「教育二法」の制定、56年の「教育 三法案」などに現れた。民間の教育運動の側 は、それらの策動を「憲法・教育基本法体制 の空洞化」として理解したのである。

 第二に、護憲勢力の確立があげられる。改 憲問題を主な争点として、保守合同と社会党 の統一が行われ、いわゆる「55年体制」が形 成された。共産党においても、第六回全国協 議会を契機に、憲法尊重と護憲の立場が決定

された。これは一方で、日本社会の中で天皇 の戦争責任や天皇制問題の議論がより後景に

退くことに繋がった。また、他方で、在日朝 鮮人自身の運動の路線転換もあって、これを 機に在日朝鮮人共産党員は離党することとな り、日本人と在日朝鮮人との関係は民族自決・

内政不干渉の原則によって「異なる『主権国 家』とその『国民』同士の関係として律せら れ」9}るという秩序を形成したのである。

 (2)「国民教育論」の提唱

 1955年、清水幾太郎は『思想』(8月号)に、

「国民教育について」を載せている。そこでは、

戦前の国民教育という言葉が戦争と結びつい た否定的イメージであるのに対して、戦後の 国民教育概念は、新教育でも平和教育でもな い、「日本の教育が到達しつつある新しい自覚 の段階を現わすもの」(清水1955、p.2)として 積極的にとらえられている。

 そして、清水は、「われわれの経験、問題、

願望を誠実な態度で国民教育というものに委 ねようとすれば、その基礎は憲法以外の地点 に置くことは出来ない」(同上、p.2)として、

憲法の重要性を主張する。清水にとって、憲 法は、日本の教育が当時、新しく「国民教育」

として自覚される際に、充足されなければな らない諸条件を備えているのである。それは、

国民教育が①普遍的価値や理想によって貫か れていなければならない、②国民的拡がり、あ るいは国民的規模を持つ必要がある、そして

③対外的主体性を持たねばならないからであ

る。

 このような清水の所論は、「民主教育を守り 発展させるということに、父母、国民ととも

にとり組まなければならないと考えた広汎な 教師、教育関係者の教育的良心に応える思想

であった」10)とされた。

 清水論文が掲載された同じ「思想』8月号に は、勝田守一の論文「国民教育の課題」も発 表されている。勝田は、近代の国民教育一般 を、「国民大衆のすべてが、その性別や貧富や 身分などに拘わりなく、教育の対象として含

まれている制度」であり、「日本の場合でも明 治初年の学制以前の時代を考えれば、国民教 育のこういう意味はやはり重要だ」(勝田

1973、PP.190−191)と、まず制度として評価す

る。だが、「国民教育は、…中略…単に、国家

(3)

的配慮にもとつく制度の名ではなく、実質に よってみたされた国民のための教育という意 味をになう」(同上、p.212)として、最終的に 国民教育に価値を含意させるのである。

 また、勝田は、自由主義的原則の重要性を 強調し、この自由主義的原則は、近代市民社 会の国民教育の展開の中で、多様な信条や価 値観を調整する役割を果たし、階級対立の顕 在化を迎えた段階においても、有効なものと している。そこには次のような意味が含まれ

ている。

 ①国家は国民教育に対してそれに必要な外 的条件整備はするが、その教育の価値内容に 対しては禁欲的に自己抑制しなければならな いこと。②教育の目的は、子どもたちの可能 性を最大限自由に伸ばすこと。③すべての子 どもは、自由に自己の幸福のために学習を行 うこと。④教師は自己の「学的良心や確信」に したがった自由な教育活動をすること。⑤親 は子どもの教育に責任があると同時に、子ど もの人権を無視しないかぎり、自己の信条に したがった教育の自由があることである。こ のうち、①の原則がすべての自由の意味を満 たすための前提になっている。

 さらに、勝田は、「民族の独立」を課題とす る国民教育においては、教育の自由主義的原 則を守ることの実質は、民族に対する教育の 責任であるという。勝田によると、それは一 つは、保守と進歩の対立の中で共通の課題が 必要であり、権力維持や戦争も辞さないとい うニヒリズムに対するヒューマニズムの課題 の意味を見出だすこと。もう一つは、国民教 育が民族に責任を持つということのなかに、

国民一人ひとりの自立や解放が含まれるとい うことである。つまり、今日の国民教育が民 族に対して責任をもつのは、国民一人ひとり の幸福や社会進歩の保障に裏打ちされた平和 のためなのである。

 この勝田の自由主義的原則についての議論 は、権力からの自由を実質的に方向づけるた めに、「教育基本法の『教育は不当な支配に服 することなく』という規定」ll)の歴史的意義を 確認するものとされ、憲法・教基法一般を擁 護する議論とは一一Wtを画すものである。

  また、この時期の代表的な「国民教育論」者

に、宮原誠一がいる。宮原の「平和のための 国民教育」では、日本のように「独立を全う していない民族にとっては、民族の独立なく して平和への希求を国際関係のうえにも自民 族の生活のうえにも実現していくことは不可 能であるから、教育の領域においても、当然、

平和 と 独立 とは不可分の中心的目標と してもとめられる」(宮原1976、p.227)。

 この平和教育の内容は、学校教育のみなら ず社会教育の全般を通じた「平和と独立のた めの国民教育という立場から編成される教育 課程ないし教育活動のいっさい」(同上、

p.228)である 2}。その構造の基本的視点は、①

人権尊重の教育、②生産と労働を尊重する教 育、③科学・技術尊重の教育、④芸術尊重の 教育、⑤共働尊重の教育である。

 また、この時期の宮原には、アジア諸国の 独立の動きに対する羨望の意識を見ることが できる。例えばそれは、「平和と独立のための 国民教育は、日本国民が、民族の幸福と人類 の幸福とをひとつにむすびあわせる方向でア ジア諸民族に伍して、賢明に、誠実に生きぬ いてゆくことをめざして、青少年にその基礎 となるべきもろもろの力をやしなわせようと いう観念にもとついていとなまれる」(同上、

P.231)といった記述から窺える・

 そして、憲法・教育基本法については、「国 際理解の教育は、教師と父母と、そして青少 年自身が、いまアジアにうこいている民族の 独立と平和的共存の現実を、呼吸し、感じ、直 視するようになるときに、ほんとうのあゆみ

をあゆみだすものであることを、みさだめな くてはならない。そして、これは特定の政治 的イデオロギーや政党とのかかわりなしに、

憲法と教育基本法にもとついて、すべての公 立学校の教育のうえに成り立つことができる」

(同上、p.239)とする。ここには、宮原の憲法・

教基法観が示されており、それは、清水や勝 田が、とりわけ勝田のいう教基法の自由主義 的原則のように、その価値を具体的に指摘す るのに比べて、やや一般的な理解である。

 (3)初期「国民教育論」の思想的特質

 これまで見たように、清水幾太郎、勝田守

一、宮原誠一の「国民教育論」から、いくつ

(4)

かの特徴が指摘できる。それらを整理すると、

それは第一に、「国民」内部の多様性に基づく 緊張関係の視座の弱さである。もとより、勝 田および宮原においては、階級関係の観点は 一定備えていたということができる。勝田は、

「国民教育について」と題する論文のなかで、

親や子どもの要求の多様性が、時に対立的に 現れ、それは階級的なものと関係すると述べ ている。そして、教育が「国民」の教育とし て「国民」の形成を課題にするなら、「階級の 問題をうちに含みながら、もっと広い基盤を 国民的な統一にもとめなければならない」(勝 田前掲、P.256)という13)。宮原も、「平和と独 立のための国民教育」を展開する以前に発表

された「教育の本質」(1949年)では、「支配 階級が被支配階級に現状保存の手段としてあ たえた、あるいはゆるした教育が、被支配階 級による現状批判の手段に転化する」(宮原前 掲、P.19)ととらえている。

 しかしながら、後に検討する同時代の小川 太郎による被差別部落への視座を内包させた

「国民」把握からする時、総じて彼らの「国民」

理解は、「民族の独立」の課題や国家権力の教 育への介入阻止など、日本の「近代」化の課 題に関心が集中したため、上述の「国民」の 多様な側面についての視点が弱い抽象的なも のであったといえるのではないか。

 次に、第二には、「国民」外との関係の多様 性、つまり、アメリカとアジア諸国とでは、日 本との関係性において質的に異なるという視 点が脆弱なことである。清水、勝田、宮原の 所論では、「民族の独立」の課題が共有されて いる。それは、日本が戦争に巻き込まれない ために、さらに世界平和の実現・維持のため に、東西冷戦のどちらにも与しない日本は、ア メリカから独立する必要があるといったかた ちの世界認識である。また、「アジア・アフリ カの諸国民のあゆみが、私たち日本国民の眼 をひらかせずにはいない」(宮原前掲、p.226)

とした宮原のアジア諸国に対する認識につい ては、それらの諸国への一定の尊敬意識は見 られるが、過去の侵略への反省を踏まえたも のとまで理解することはできない。

 すなわち、第三に、彼らの戦争責任の意識 は被害者意識が支配的であることが指摘でき

る。それぞれの所論に関する限り、国民教育 の「国民」形成の内実を規定する戦争責任意 識の位置づけを直接的に読み取ることはでき ない。勝田守一は、「教育とナショナリズム」

や「国民教育について」の論文の中で、加害 責任を若干示してはいる。しかし、それも課 題としての加害責任意識の形成の観点からは、

充分といえるものではない14)。

 最後に、第四に指摘できる点は、経済的な 社会的諸関係への視点の問題である。清水と 勝田の上記所論に関する限り、経済的な社会 的諸関係と国民教育の関連はみられない。こ の時期、日本独占資本主義は復活を果たして いたが、そこから派生する矛盾は、それほど 深刻化していなかった。むしろ、階級矛盾は 権威主義的国家政策といった、政治問題とし て顕在化していたといってよい。その中で、宮 原は、「平和と独立のための国民教育」におい て、「平和は生産的労働と本質的に不可分のも のであり、アジアにおける平和な産業国とし て独立しようとする私たち民族の歴史的な課 題にこたえる教育の立場として」(宮原前掲、

pp.228−229)、生産と労働を尊重する教育を重 視した。藤岡貞彦によれば、50年代前後まで

は生産主義教育計画論の実践と実現の可能性 が存在していた。しかし、1950年代から朝鮮 戦争による特需景気を機に、産業教育振興法 のような総資本の要求する産業教育・職業教 育政策が展開される。このような中で、宮原 の「生産労働と教育の結合」の命題は、生産 教育への懐疑的批判を受け、後に受け継がれ

なかったという15}。

 宮原のこの議論は、今日から見た時、50年 代後半からはじまる高度経済成長と企業社会 の出現に対し、企業支配という労働者階級の 階級馴化にどれだけ有効な視点を提起しえた か詳細な検討が必要であるが16)、経済生活と 平和の問題を結びつけて論じる視座は貴重で あり、その後より展開されるべきであったと 考えられる。

2.勤務評定と構造改革論の台頭

(1)勤務評定・新日米安全保障条約と高度

 経済成長

(5)

 1950年代半ば以降の「国民教育論」をめぐ る国際的情勢としては、アメリカの世界戦略 に変化が生まれ、経済的側面からの反共封じ 込め政策、「ロストウ路線」が登場したことが あげられる。アジア・アフリカ諸国は、ソ連・

中国の社会主義建設を後進国開発のモデルと し、両国の経済的・文化的援助を歓迎した。こ の動きに対して、アメリカは一方で、軍事干 渉や政権転覆といった従来の直接的干渉を謀 りつつ、他方で、革命勢力の基盤である伝統 的社会構造の解体のため、これらの国に開発 政策を新たに導入したのである17)。

 日本国内の情勢としては、「国民教育論」を めぐって、第一に、その戦略の下、1950年代 から60年代にかけて生まれた高度経済成長と その政策があげられる。60年代日本支配層は、

勤評闘争や三井三池闘争、そして安保闘争を 経る中で、従来の復古的政策から経済成長政 策へと重心を移動した。渡辺治によれば、「安 全保障政策において、自前の軍備による日米 対等同盟化=日本の大国化が放棄され、安保 による対米従属+ 軽武装 路線が確立した ことに伴い、憲法九条改正の必要性が後退し

た」18)のである。

 そして、第二に、この高度経済成長によっ て起こされた大きな社会的変容である。それ は急速な産業構造の転換、労働力構成の変化 として現れた。また、全国総合開発計画にも とつく地域開発政策は、独占資本の利益を実 現する商品生産と消費のシステムに多くの 人々を巻き込んでいった。ここから、競争社 会、企業支配社会が全社会的規模で展開され ていくのである。さらに、在日朝鮮人にとっ てこの変容の過程は、基幹産業から排除され た中で進行したものであった。

 第三に、日本国内の保守支配が再編・強化 されたことである。戦後の日本の保守支配は、

その主要な環を地域支配においており、それ は地域開発と補助金行政によって進められた。

この地域支配構造を変革する勢力の中で、教 員組合運動は有力なものであった。勤務評定 は、安保条約改定をもくろむ支配層によって そうした教員組合の分断・弱体化を企図して 導入されたのである。

 (2)矢川「国民教育論」をめぐる論争  50年代後半の代表的な「国民教育論」に、矢 川徳光の『国民教育学』(明治図書1957)があ げられる。そこでは、国民教育は民主主義的 な教育のことを指し、「その教育の教育学原理 は、民族の抑圧に反対し・民族独立を要求す

るものである」(矢川1973a、 p.22)とされ、「民 族解放」、「民族独立」が重視されている。こ れは、矢川の1959年の論文の「国民教育論」

でも、安保「改定」情勢への危機意識を反映 しながら継承されている。

 そこでは、「国民」は「現行の日本国憲法に よって守られているすべての人びと」であり、

支配者階級、政治的権力者を除いた概念とさ れ、〈「国民」=善〉という価値が含意されて いる。矢川の「民族」はアメリカ帝国主義に

よる従属化という対外的視点で、「国民」は日 本独占資本・支配者階級による抑圧という国 内的関係の視点でとらえられる。

 憲法については、「日本国民の国際平和と民 主主義とのねがいをりっぱに生かすことがで きる条文をそなえたもの」(同上、p.16)とし て積極的に評価する。「国民教育とは、まず憲 法と教基法とによる保障のもとで、主権者た

る国民がそのような教育を下から実現し、さ らには、いっそう発展させていくもの」(矢川

1973b、 p.49)なのである。

 また、憲法擁護の闘いが、「当面の民主主義 的闘争と統一戦線を発展させる上での中心的 な任務の一つ」(同上、p.14)と位置づけられ る。憲法(特に前文)は、日本国民のみなら ず世界、特にアジア諸民族に恒久平和を誓っ たものであり、改憲・新安保による軍国主義 化に対して、憲法擁護は平和実現の具体的方 策とされる。憲法の平和的・民主的精神の自 覚化を「国民」形成の中心に据えているので

ある。

 さらに、この矢川の所論は、戦争責任に関 して総体的に被害者意識が色濃いが、加害の 側面についても若干ではあるが言及する。例

えば、日本の「侵略政策をイデオロギー的に

合理化する原理は、教育勅語によるr国民教

育』というものであった。それは朝鮮民族や

台湾民族にたいしては、皇民化教育として強

制された」(矢川1973a、 p.22)という認識が示

(6)

されている。この加害者意識が深化するのは、

日韓条約の締結が議論になり始める頃の1962 年の「国民教育運動とインタナショナリズム」

(『文化評論』1962.12)においてである。そこ では、「かつての日本帝国主義者の犠牲とされ た朝鮮人民や中国人民の立場に自分の心身を 置いてみる」(矢川1973b、 p.307)という、加 害責任を踏まえた倫理性を主体的に受け止め ることを国民教育運動に位置づけている。

 最後に、矢川の所論の特色として、清水、勝 田、宮原の所論に比べ、インターナショナリ ズムの視角が鮮明な点が指摘できる。矢川は、

国民教育運動を民族独立闘争として位置づけ ることによって世界平和へ貢献しようとする。

「アメリカ帝国主義の庇護のもとでの日本軍国 主義のこんにちの復活が、朝鮮人民にとって はいうまでもなく、中国およびソ連邦の人民 にとっても危険の増大である」(同上、p.296)

ため、なによりもアメリカ帝国主義からの独 立、アメリカ帝国主義との闘争がアジア諸民 族間のインターナショナリズムの精神の実現

になるという。

 このような矢川「国民教育論」に対して、階 級の視点からいくつかの批判がなされた。矢 川の「国民教育論」が収められている、同じ

『講座 教育』3(青木書店1959)に横田三郎 の「国民教育における階級の問題」がある。横 田は、矢川の所論の積極的な意義を一定認め つつ、国民教育運動を階級的性格によって糊 塗する危険を避けながら、「国民的統一運動と しての国民教育運動は、現在の日本の特殊な 歴史的・階級的・民族的条件の下における階 級闘争の一形態であるにもかかわらず、それ を階級闘争と峻別する思想が存在する」(横田 1959、pp.16−17)と批判する。それは、階級的 党派性を棄てることであり、私有財産的・ブ ルジョア的偏見にとらわれることなのである。

 これは、「国民」内の階級関係とその矛盾の 視点を強調したものである。横田の階級への 強い拘りは、抽象的な「国民」理解に対して 一定の批判的視角を有している。

 また、「構造改革論」の側から「国民教育論」

を論じた、長洲一二は、横田の矢川批判につ いて、両者の問題を指摘しつつ、「現代の労働 者階級の基本的利益は、反権力・反独占の国

民的統一の樹立にある」(長洲1960、p.16)と いう。長洲の構想は、「直接には資本主義体制 の変革を問題としないままで、上部構造の性 格を修正し、権力現象としての教育の性格を 改造して、教育権の主体を国家から、被支配 階級である民衆の手に移そうとする」(同上、

p.26)ものである。長洲によれば、ブルジョア 民主主義に内在する二重性は、内容と形式の 矛盾であるという。資本主義社会では、その 内容はブルジョア階級の支配であり、その物 質的土台である資本主義的商品生産関係それ 自体が抽象的で形式的な万人の自由・平等を 必要とする。この形式的平等性は、実質的な 階級支配の根拠であるが、同時にその普遍性 ゆえにプロレタリアートにとっても武器とな るものである。この矛盾は資本主義社会の国 民教育にも貫徹するため、国民教育運動は「資 本主義教育という上部構造に一定の侵入と変 更をくわえようとするもの」(同上、pp.37−38)

である。この長洲の議論では、矢川が問題に した「民族の独立」の問題意識は後退してい

る。

 矢川の議論に対して、海老原治善も「日本 の教育の現実の教育政策を解明し、国民教育 論をしてゆく場合、主要矛盾を民族矛盾とし ておさえるという方向で、はたしてその本質 を明らかにすることができるだろうか」(海老 原1960、p.22)と疑問を提出する。そして、「日 本帝国主義の復活」が、土台においても、上 部構造においても完了したといわれる中で、

教育課程改定の発想は、教育政策における帝 国主義的復活の問題であると指摘する。

 だが、その反独占闘争の提起は、平和擁i護 の闘争や主権擁i護、独立の闘いの軽視ではな く、反独占闘争を通じて、平和・独立の課題 を実現するという段階的な戦略論なのである。

また、海老原のこうした国民教育運動では、勤 評闘争の経験から、「各地域における地方自治 体への教育の要求をこめた地域住民の闘いが 重要なもの」(同上、p.28)となっている。

 さらに、矢川「国民教育論」に対する批判 として、伊藤元雄の「国民教育と教育運動」

(「唯物論研究』1961.No.7)がある。伊藤は「国

民教育というのは歴史的なはんちゅうであっ

て、その内容、組織形態は歴史的に変化する

(7)

もの」(伊藤1961、P.18)という概念規定から、

矢川の国民教育概念を「一個の政治的アジ テーションとしては若干の意味をもつとして も、科学的な国民概念の規定とは無縁である」

(同上、p.23)と批判している。

 この60年代には、長洲一二のように教育学 者以外の様々な分野の研究者による「国民教 育論」が展開された且9}。それは、安保条約改 定、高度経済成長へという時代の中で、「国民 教育論」が日本社会に影響を与え、関心や期 待を集めていたことを物語っている。

 (3)60年代「国民教育論」の理論的傾向  60年代前後の「国民教育論」の特質を50年 代中葉のそれと比べると次のようにいうこと

ができる。

 それは第一に、「国民」概念の位置づけをめ ぐって、具体的把握が一定進んだことである。

60年代前後のそれは、当時の国家論論争を背 景に労働者階級と「国民」をどう関連させる かをめぐって関心が寄せられた。矢川徳光の

「国民教育論」では、国民教育運動は民族民主 革命のための教育運動であり、「国民」概念は 反権力の性格を持ち、多分に価値を含んだも のということができる。これに対して、横田 三郎が論じた階級教育的視点は、「国民」内の 階級対立と階級的自覚の重要性を提起したこ

とによって、「国民」概念の具体的把握を促し た。しかし、その階級への拘りの強さは、階 級一元化的な傾向を示し、より多様な関係を 視野の外においてしまったといえる。

 第二に、国民教育と対外関係における認識 の変化があげられる。矢川は、日韓会議とい

う政治状況を機にアジアと日本の歴史的関係 の認識を発展させている。また、上述のよう に矢川の所論は、国民教育をインターナショ ナリズムと内的連関をもってとらえている。

五十嵐顕は、「民主主義教育の思想原理がたん に特定の個人や国民の創造物としてとどまる のではなく、諸民族諸国民の多年にわたる努 力によって蓄積された成果であることを矢川 は強調したのであった。ここにも、国際的協 力の見地が示されていたとすることができる」

と評し、「国際連帯の精神と活動は、国民教育 運動が民主主義的教育運動たることの現代史

的資格」2°)という視座を矢川の所論から読み とっている。これに対して、矢川を批判した 階級教育論や構造改革論は、一国内の問題、つ まり階級関係を重視するあまり、対外的視点 が脆弱なものとなったと指摘できる。

 そして第二の議論と関わって、60年代前後 から戦争責任の加害者意識が徐々に「国民教 育論」に定着していることが、第三の特徴と してあげられる。五十嵐は、在日朝鮮人の民 族教育に関心を寄せながら、「他民族の独立や 自決にたいする尊重と、自己民族の独立や自 決にたいする責任とは深く結びあうもの」21)

であり、こうした問題意識が、矢川の議論に は含まれているという。「民衆的政治主体確立 のための方法として、内発的な戦争責任論の 深化が求められた時代」22)を反映するものと

して矢川の所論をみることができる。

 最後に第四点目として、経済的な社会的諸 関係への視座・認識の一定の深化をあげるこ とができる。階級関係に重大な関心を寄せる 階級教育論や構造改革論が、ある意味でこれ を促進したといえる。だが、この経済的な階 級関係・闘争の視点がどのような文脈で語ら れるかによって、その議論が真に個人の解放 を内包する普遍性を持つかどうかが決まって くる。とりわけ、アジアと日本との関係や日 本国内の他「民族」に対する視点は、日本の 階級闘争の質を規定する。こうした観点から すると、当時の階級教育論や構造改革論の議 論は、階級闘争至上主義的傾向が強く、「国民」

内の多様性の把握や対外認識については貧弱 であり、単一民族イデオロギーの蔓延に消極 的にせよ荷担するものであったといえよう。

3.現代における「国民教育論」の可能性

 (1)「国民教育論」の限界性

 これまで、清水幾太郎、勝田守一、宮原誠 一、矢川徳光、そして階級教育論や構造改革 論の「国民教育論」を見てきた。ここでは、小 川太郎の所論を紹介し、比較検討しながら、そ れら所論を分析してきた視点からそれらの歴 史的・理論的性格を論じてみたい。

 なにより小川の所論の特徴は、1955年の「国

民のための教育の課題」(『部落』1955.ll)で

(8)

言及した、資本主義的な競争原理と差別の問 題や部落差別の視角である。それは、以下の ような論点への展開を見せる。一つは、1957 年の『立身出世主義の教育』(黎明書房1957)

で指摘した、「日本の民衆は、そうして朝鮮人 を奴隷とする身に立身することによって、奴 隷の自覚を妨げられ、それだけ自己の解放の ときをおくらせることになった」(小川1979b、

p.163)という戦争責任である。

 二つ目は、60年代に示された、「日本人の民 族意識は、部落差別によって傷ついているが、

それはまた他民族の差別と支配によって汚さ れている」(小川1980、P。26)といった、戦後 の在日朝鮮人の置かれた状況を視野に入れた 戦後責任的な認識である。

 そして三つ目は、支配層とその権力に対し て、人権の自覚をもって闘うことがまだ弱い とき、「圧迫してきた他民族にたいする差別と 支配の意識が残存し、そのことがまた、自国 を支配する権力への従属を強めることになる」

(小川1979a、 p.17)という、他「民族」抑圧 と「国民」内の抑圧との内的連関である。

 小川の「国民教育論」とその他の論者の所 論とを比較する時、まず第一の「国民」概念

をめぐる内部の緊張関係の視点において大き な違いが見られる。勝田や清水らの「国民」概 念は、近代市民社会の主体としての個人とい

う色合いが強い近代主義的な議論といえる。

 また第三の戦争責任の視点とも関連して、

第二の「国民」概念の対外的な緊張関係、と りわけアジア認識の問題においても、矢川の 所論は留保されるとしても、その差異は明ら かである。50年代半ば以降の日本は、いわば

「先進国」へのターニング・ポイントに位置し ており、それは、「日本近現代史におけるまさ に二度目の『アジアからの離脱』、しかもアジ アを跳躍台とするものであった」23)。アジァを 跳躍台として経済発展を享受しながら、アジ アの視点が稀薄な「国民教育論」のいう平和 的・民主的主体は、決してアジア・世界に通

じるとはいえないであろう。

 第四の資本主義社会の社会的諸関係につい ては、矢川の所論とそれをめぐって展開され た論争には比較的、経済的な社会的諸関係の 視野が含まれていた。しかし、論争の過程で

は階級闘争至上主義的な傾向がみられ、その 階級に結集する主体についての現実的な認識 は不十分であり、「民族」につながる視野を提 示することができなかったといえよう。

 (2)上原專隷における「地域」概念

 50年代後半から60年代にかけて、「国民教 育論」に大きな影響を与えた論者に、上原專 緑がいる。上原は、1957年に日本教職員組合 が設立した国民教育研究所の初代運営委員長 を務め、その日教組の第10次教研集会で「民 族の独立と国民教育の課題」(『教育評論』

1961.3)と題する講演を行った。その中で上原 は、当時の世界の全人類的課題を、世界平和 の確立、民族独立の達成、社会民主化の実現、

貧困の根絶としている。そして、それらの課 題は民族の独立に凝集されるのである。この 民族の独立論は、50年代初頭より展開されて きたものであり、勝田守一などの所論にも大 きな影響を与えた24)。この民族の独立を歴史 的・現実的に担う主体が「国民」であり、国 民教育とは、高次の「政治」として創造され

るべき「国民」形成なのである。

 このような上原の「国民教育論」の中で、今 日の日本社会と「民族共生の教育」において も示唆に富む視座として「地域」概念があげ られる。50年代から60年代の日本の社会状況 をとらえて、上原は「地域」というものが、「中 央にとっての、利益追求の手段としてのたん なる『地方』というものに抽象化される。つ まり、中央の権力や独占資本の考えているこ とは、地域を地方化していこうとすることな のです」(上原1989、p.353)という。

 これにたいして上原は、一方で、日本につ いての全体認識を持とうとする際、「地域」の 諸問題の複合物として理解するという認識方 法の面と、他方で、「地域」の「地方化」を座 視できないという実際問題の面との両面から

「地域」を考察する重要性を提起する。そして、

歴史や伝統をもつ「地域」を、旧態のままで はなく、どの「地域」にも存在する矛盾を主 体的に克服することによって新しいものへと 変革する必要を説く。

 この「地域」概念については、佐貫浩によ

れば、「上原は、勤評闘争を経るなかでしだい

(9)

に明確に据えられはじめてきていた地域とい う概念を、政府・独占資本による1960年代の 開発政策とその労働力養成政策、その一環と しての教育政策に対する抵抗と国民教育創造 のための価値と方法を示す概念として浮上さ

せようとした」25)とされる。

 さらに、この上原の視点はこれに止まらな い、二つの歴史的な意味を有していたと考え られる。一つは、保守的地域支配構造を変革 する視野を内在していたということである。

戦後、最初に伝統的な地域支配構造に大きな 衝撃を与えたのは、勤評闘争である。勤評闘 争後、地域支配構造は、高度経済成長政策の 地域開発と補助金行政によって再編・強化さ れることになるが、上原の「地域」概念は、地 域支配構造の変革を問題にしていた。

 もう一つは、上原の「地域」概念は、アジ ア諸国への抑圧に対する問題意識と結びつい ていた。上原の自国史認識は、つねに世界史 に有機的に関連づけられているといわれてい る26}。上原の「地域の地方化」は、アメリカ の世界戦略である「グローバリズムと『アジ ア・アフリカ地域』の間のたたかいが、日本 では、共闘による地域変革と補助金行政との 対抗という現象形態をとって現れ」27)ている

という認識を含意していたと考えられる。

 今日、地方分権が叫ばれつつも、未だに「地 域の地方化」が日本社会でリアリティを持つ

中で、上記の上原の「地域」概念、とりわけ 差別的競争主義の価値体系との対抗力、保守 的地域支配構造の変革、アジア諸国との連関 の視野は、今なお課題性を有し、「民族共生の 教育」の展望に際して示唆的である。これに ついては、稿を改めて検討する必要がある。

 (3)五十嵐顕による近代批判の視座

 五十嵐顕の1961年の「国民教育」(『社会科 教育大系』2三一書房1961初出)は、近代公 教育(歴史的現実としての国民教育)を止揚 する視点を提起している。それは、まず一つ 目として、国民教育の概念規定について、五 十嵐がそれを客観的・科学的にとらえ、歴史 的形態として理解する点に見られる。五十嵐 は、「教育概念としての国民教育に反映された 現実の教育とその現実関係の歴史的変化を客

観的に認識しなければならない」(五十嵐

1973、p.7)という。それは、古典的なブルジョ ア民族国家における国民教育から、反帝国主 義・反植民地闘争において勝利した新しい独 立国における現在の国民教育への世界史的な 変化である。五十嵐によると、日本の国民教 育に反映されている現実は、進歩的な国民教 育運動に対立する国家権力による統制が支配 的地位をたもっている。その国家権力は、国 民教育の帝国主義形態であり、ブルジョア自 身にとって民主主義であったものまでも抑圧 する。この支配的地位は、アメリカ帝国主義 によって強化されたため、国民教育は、帝国 主義と闘争し帝国主義と敵対する国ぐにの国 民教育に対する、非友好的・敵対的関係を日 本人の教育に強制する。よって、「日本国内の 国民教育の民主主義的性質とは、日本の戦前 教育を国民教育の名において動員した帝国主 義・植民地主義との闘争をさけることのない 民主主義において、把握される」(同上、p.35)

のである。

 以上からも分かるように、二つ目は、「国民」

の多様性についての理解に表れている。その 理解は、階級相互の利害対立についての認識 を含んでおり、民主主義的性質を担う中心的 主体として、具体的には労働者と農民を想定 している。その認識は、「国民」にア・プリオ リに積極的な価値を含意させる「国民教育論」

に比べ、より科学的なものといえる。

 三つ目は、憲法や教基法の見方である。五 十嵐は、近代法としての憲法・教基法がブル

ジョア民主主義的性格としての限界を持つと しながら、「ブルジョアジーにとって民主主義 でなくなっている状況」(同上、p.36)である 現代の歴史的文脈において、その平和的・民 主的条項の意義を評価する。ブルジョア民主 主義がすでに確認している教育の民主的条項、

つまり教育機会の均等や無償教育等を国民教 育の各階級・階層が教育の権利として主張し、

それを獲得・確保するという闘争の過程にお いては、それは単に静的な民主主義ではない、

「発展性を含んだ人民民主主義」(同上p.36)

であるという。これがすなわち、「国民教育の 現実諸関係にたいする実践による批判闘争」

(同上、p.11)ということなのだろう。五十嵐

(10)

は近代法としての憲法・教基法のもつ限界と 矛盾を実践・闘争の中で揚棄することを構想 しているのである。同時にそれは、国際的視 野とも有機的な連関を有している。「国民教育 の民主主義は国内の民族的・階級関係の視点 によってのみ規定され、あるいはその意義が 限定されるのではなくして、世界的な反帝反 植民地の闘争と民主主義擁護の国際的連帯の 視野において重々しく確認されるのである」

(同上、P.37)。

 四つ目は、戦争責任の加害的側面の位置づ けについてである28}。五十嵐においては、朝 鮮人・中国人に対する植民地支配の問題が日 本の国民教育と内的連関をもって展開される という特徴がある。五十嵐は、「国民教育の基 本的矛盾は、日本人が朝鮮人の母国語による 教育を抑圧…中略…、弾圧し…中略…、また、

朝鮮人じしんの教育機会普及の物的基礎を収 奪するにつれて、日本の国内においては日本 語による真実表明の自由が弾圧され、教育に おける国民公益が少数の支配階級の利益のも とに統制されていった過程においてきわめて 明瞭である」(同上、p.13)という。さらにそれ は、「敗戦後の在日朝鮮人の民族教育にたいす る圧迫を圧倒的な日本人の要望によって屈服 させるほどには、戦前教育にたいする戦後教 育における反省の民主主義は成長していない」

(同上、p.33)といった戦後責任の視点をも含 むものとなっている。

 五つ目は、労働と教育の結合についてであ る。五十嵐は以前に、生産手段の私有制とい う資本主義社会が「教育機会を形式的なもの にし、公の教育機会を私的なものにしている」

(五十嵐1960PP.102−103)ことを問題にし、

「資本主義的私有制を変革する民主主義的な志 向や実践において、物的生産と教育の結びつ

き」(同上、p.103)を提起している。五十嵐に は、資本主義社会における教育が「国民の連 帯的能力」を「個人主義に分散破棄」し、さ もなければ「排外的侵略的な集団能力に転化」

(同上、p.4Dするという危険性が認識されて いたのである。

 このように五十嵐の所論は、「民族」に開か れた理論的条件として先にあげた四つの視点 を一定備えている点で、この時代の諸「国民

教育論」の中では出色であるといえよう。そ れらの視点は、現代的な課題である、「国民」

内の多様な利害の認識とその統一や、アジア・

世界に通じる歴史認識の形成、世界および国 内の「中心・周辺」の問題と関連しており、こ れは五十嵐「国民教育論」の今日的積極性を 示している。

まとめにかえて

 50年代の日本社会は、おもに改憲をめぐる 攻防が大きな政治問題であり、初期「国民教 育論」は共通してこれに多くの関心を払った。

同時にそれは、民族自決・内政不干渉の原則 を体現するものであった。60年前後は、勤評 闘争、新安保闘争などを経て、高度経済成長 へと向かう時期であり、そこで派生した問題 のとらえ方の違いによって、様々な「国民教 育論」が展開された。

 しかし、戦後在日朝鮮人は政治的に排除さ れ、経済的にも日本経済の復興・高度成長の 過程でほぼ完全に排除されていた。さらに、外 国人労働力に依存することなく成長を続ける 日本企業の労働者は、「民族」的に均質な構成 となり、それが単一民族観・異質への排他的 観念を拡大再生産する役割を果たした。この ような事実に対しては、ほとんどの「国民教 育論」は限界性を持っていたといえる。

 今日、「民族」問題と資本主義システムとは 密接な関係にあるといわれている。その資本 主義社会の現実に最も冷徹な五十嵐の議論は、

今後「民族共生」社会を構想する際、示唆に 富んでいるといえよう。詳細な検討が必要で あるが、それは別稿にゆずりたい。

<注>

1)サ健次『異質との共存』岩波書店1987、『孤絶  の歴史意識』岩波書店1990、『民族幻想の蹉跣』

 岩波書店1994、『日本国民論』筑摩書房1997、参  照。他に笹川孝一「アジアのなかの日本文化と  『国民教育』の問題性」山住正己編『文化と教育  をつなぐ』国土社1994、等がある。

2)サ前掲1990、p.78 3)同上、p.60

4)E.バリバール・1.ウォーラーステイン『人種・

 国民・階級[新装版]』大村書店1997、参照。

(11)

5)佐貫浩『平和を創る教育』新日本出版社1994、

 参照。

6)渡辺治『講座現代日本』1大月書店1996、参照。

7)吉田悟郎『自立と共生の世界史学』青木書店  1990、参照。

8)佐々木隆爾『世界の中のアジアと日本』御茶の  水書房1988、参照。

9)文京沫「在日朝鮮人にとっての『戦後』」中村  正則他編『戦後日本』5岩波書店1995、pp.195−196 10)柳久雄他編『現代日本の教育思想 戦後編』黎  明書房1963、P.357

11)同上、p.356

12)この視座は、宮原の教育本質論から引き継がれ  ているという(藤岡貞彦「解題」宮原1976、参

 照)。

13)勝田には、部落問題についての言及も若干見ら

 れる(大田尭他「抑圧された部落」『教育』1952.4、

 参照)。

14)「平和教育をねがうものは、まず、おかした戦  争と戦争協力的態度をきびしくしなければなら  ない。『ゆがめられた対外意識』を『平和のため  の教育』のために反省分析することは、まず、何  よりも教育学者と教育心理学者と、そして『ふ  たたび教え子を戦場に送るな』とさけぶ現場教  師のなすべき義務である。それが日本の平和教  育論に欠如していたということは、ふしぎなこ  とであった」(船山謙次『戦後日本教育論争史』

 東洋館出版社1963、pp.83−84)。

15)藤岡「解題」宮原1976、p.415

16)例えば佐藤修司は、宮原の生産教育計画論につ  いて、「資本主義経済の諸矛盾の解決を目指しな  がら、資本主義経済のメカニズムを、特に階級  的対立関係の中に位置づけて理解せず、もっぱ   ら現象としての不平等や、労働力需給の不均衡  を問題にしていたこと」(佐藤修司「教育計画論  における『資本主義的計画化』概念の考察」『東  京大学教育行政学研究室紀要』第9号1989、p.103  )を指摘する。

17)歴史学研究会編『日本同時代史』3青木書店1990、

 参照。

18)渡辺治『政治改革と憲法改正』青木書店1994、

 P.261

19)例えば、『思想』1961年4月号には、日高六郎   「国民教育をめぐって」、小林直樹「憲法と国民   教育」が載っている。

20)五十嵐顕「解説」矢川1973b、 pp.343−344 21)同上、P.347

22)荒井信一『戦争責任論』岩波書店1995、p.202   しかし、それはまだ日本の天皇を中心とする支   配者層の責任が問われている段階に止まってお   り、教育学(とりわけ矢川自身)や教育者の戦

 争責任という点については、充分に思想内在化  したものとはいえない。

23)歴史学研究会前掲、p.189

24)草野滋之「1950年代における平和教育論の分析」

 『和光大学人文学部紀要』27、1992、参照。

25)佐貫浩「競争社会の中での学校の変質と新たな  学校づくり」『講座学校』2柏書房1996、p.151 26)末川清他『現代日本社会の構造変化と国際化』

 有斐閣1986、参照。

27)佐々木前掲、p.16

28)戦争責任をめぐって、五十嵐は、晩年、自己の  戦争責任と教育学理論を厳しく自己批判してい  る(安川寿之輔『日本の近代化と戦争責任』明  石書店1997、参照)。それは、五十嵐が自らの理  論を戦争責任に貫かれた民主主義的理論ではな  いとするものである。本稿の五十嵐評価では、本  人の晩年の評価と60年代の理論水準とをひとま  ず分けて考えたい。

参考文献

 ・清水1955:清水幾太郎「国民教育について」『思

 想』1955年8月号

 ・勝田1973:勝田守一「国民教育の課題」『勝田  守一著作集』2国土社1973

 ・宮原1976:宮原誠一『宮原誠一教育論集』1国  土社1976

 ・矢川1973a:矢川徳光『矢川徳光教育学著作集』

 4青木書店1973

 ・矢川1973b:矢川徳光『矢川徳光教育学著作集』

 5青木書店1973

 ・横田1959:横田三郎「国民教育における階級の  問題」『講座教育』3青木書店1959

 ・長洲1960:長洲一一二『国民教育論序説』新評論

 1960

 ・海老原1960:海老原治善「国民教育運動におけ  る反独占の問題」『唯物論研究』1960no.3  ・伊藤1961:伊藤元雄「国民教育を教育運動」『唯  物論研究』1961.no.7

 ・小川1979a:小川太郎『小川太郎教育学著作集』

  1青木書店1979

 ・小川1979b:小川太郎『小川太郎教育学著作集』

 2青木書店1979

 ・小川1980:小川太郎『小川太郎教育学著作集』

 5青木書店1980

 ・上原1989:上原專緑『上原專豫著作集』14評論   社1989

 ・五十嵐1960:五十嵐顕「戦後教育の上部構造的   性質」『講座教育』1青木書店1960

 ・五十嵐1973:五十嵐顕『国家と教育』明治図書

  1973

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