九州大学学術情報リポジトリ
Kyushu University Institutional Repository
中国東北地方の新石器時代における社会形態変遷の 研究
富, 宝財
https://doi.org/10.15017/1931670
出版情報:Kyushu University, 2017, 博士(文学), 課程博士 バージョン:
権利関係:
博士学位論文
中国東北地方の新石器時代における社会形態変遷の研究
富 宝 財
九州大学大学院人文科学府
2018 年
I
中国東北地方の新石器時代における社会形態変遷の研究
目 次
序言
………1第1章 先行研究における課題と本研究の目的、方法
………4第1節 地理特徴と考古学文化の枠組 (1)地理特徴………4
(2)考古学文化の枠組み………5
第2節 研究の現状 (1)集落形態に関する研究動向………8
集落遺跡の分布 集落形態 居住単位 (2)墓葬に関する研究動向………10
遼西地区 白城・通遼地区 黒龍江地区 内蒙古中南部 (3)社会構造に関する研究動向………12
第3節 問題の所在 (1)集落形態の研究における問題………12
(2)墓葬の研究における問題………13
(3)社会構造の研究における問題………14
第4節 本論における目的と方法 (1)各章で扱う資料と地区………14
(2)各章における研究方法………15
第2章 遼西地区における新石器時代の集落形態
第1節 各考古学文化の集落遺跡の分布 (1)小河西文化………19(2)興隆窪文化………19
(3)趙宝溝文化………20
(4)紅山文化………20
(5)小河沿文化………22
(6)小結………22
第2節 各考古学文化の集落形態 (1)小河西文化………23
(2)興隆窪文化………24
査海遺跡 白音長汗遺跡 小結 (3)趙宝溝文化………28
趙宝溝遺跡 南台地遺跡 小結 (4)紅山文化………30
西台遺跡 白音長汗遺跡 老牛槽溝遺跡 小結 (5)遼西地区の集落形態モデル………33
第3節 各考古学文化の居住単位 (1)小河西文化………35
(2)興隆窪文化………36 査海遺跡 白音長汗遺跡
II
(3)趙宝溝文化………38
(4)紅山文化………40
第4節 遼西地区新石器時代の集落分布・集落形態・居住単位の特徴 (1)小河西文化………41
(2)興隆窪文化………41
(3)趙宝溝文化………42
(4)紅山文化………43
(5)小河沿文化………43
(6)小結………44
(7)周辺の考古学文化との関係………44
第3章 内蒙古中南部における新石器時代の集落形態
第1節 各考古学文化の集落遺跡の分布 (1)石虎山文化………49(2)王墓山坡下文化………50
(3)廟子溝文化………50
(4)老虎山文化………51
第2節 各考古学文化の集落形態 (1)石虎山文化………52
(2)王墓山坡下文化………53
(3)廟子溝文化………54
大壩溝Ⅰ遺跡 廟子溝遺跡 (4)老虎山文化………57
石壁集落 非石壁集落 (5)内蒙古中南部の集落形態モデル………59
第3節 各考古学文化の居住単位 (1)石虎山文化………62
(2)王墓山坡下文化………62
(3)廟子溝文化………63
(4)老虎山文化………64
第4節 内蒙古中南部新石器時代の集落分布・集落形態・居住単位の特徴 (1)石虎山文化………66
(2)王墓山坡下文化………66
(3)廟子溝文化………66
(4)老虎山文化………68
第4章 遼東半島における新石器時代の集落形態
第1節 各考古学文化の集落形態 (1)一段階………71新楽遺跡 北呉屯遺跡 小珠山遺跡 後窪遺跡 (2)二段階………73
北呉屯遺跡 小珠山遺跡 後窪遺跡 (3)三段階………73
三堂村遺跡 大潘家遺跡 (4)集落形態のモデル………74
III
第2節 各考古学文化の居住単位(1)一段階………75
(2)二段階………76
(3)三段階………77
第3節 遼東半島新石器時代の集落形態と居住単位の特徴 (1)一段階………77
(2)二段階………78
(3)三段階………78
(4)小結………78
第5章 遼西地区における新石器時代の墓
第1節 各考古学文化の墓編年 (1)小河西文化の墓地………80(2)興隆窪文化の墓地………80
査海墓地 白音長汗墓地 興隆窪遺跡の室内墓 興隆溝遺跡の室内墓 小結 (3)趙宝溝文化………83
(4)紅山文化の墓地………83
玉器 積石塚と墓 一期の墓 二期の墓 三期の墓 四期の墓 五期の墓 小結 (5)小河沿文化の墓地………89
墓地編年 一期の墓 二期の墓 三期の墓 四期の墓 墓面積と副葬品 小結 第2節 各考古学文化の社会形態 (1)小河西文化………93
(2)興隆窪文化………93
(3)趙宝溝文化………94
(4)紅山文化………94
(5)小河沿文化………97
第3節 墓から見た遼西地区の社会形態の変遷………98
第6章 白城・通遼地区における新石器時代の墓と集落形態
第1節 考古学文化の編年………102第2節 各考古学文化の墓 (1)一段階………103
(2)二段階………103
(3)三段階………103
(4)四段階………103
後套木嗄四期の墓 双塔二期の墓 哈民忙哈遺跡の墓 (5)五段階………104
第3節 哈民忙哈文化の集落形態と居住単位 (1)集落形態………105
(2)居住単位………106
第4節 墓から見た白城・通遼地区の社会形態の変遷 (1)一段階………107
(2)二段階………108
(3)三段階………108
(4)四段階………108
(5)五段階………108
IV
第5節 白城・通遼と遼西地区の関係………109
第7章 黒龍江地区における新石器時代の墓
第1節 石鏃と玉器の編年と分布 (1)石鏃………112分類 編年 分布 (2)玉器………117
(3)年代枠組み………119
第2節 各地域の墓地変遷 (1)嫩江流域の墓地………120
(2)三江平原の墓地………122
(3)フルンボイル盟の墓地………124
第3節 墓から見た黒龍江地区の社会形態の変遷 (1)一段階………125
(2)二段階………126
(3)三段階………126
第4節 地域と地区間の関係 (1)一段階………127
(2)二段階………128
(3)三段階………128
(4)黒龍江と白城・通遼地区の関係………129
(5)小結………130
第8章 東北地方における新石器時代の考古学文化の形成と展開
第1節 集落形態から見た地区間の関係 (1)第一段階………132(2)第二段階………132
(3)第三段階………132
(4)第四段階………133
(5)第五段階………135
(6)地区間の関係………135
(7)小結………139
第2節 墓地形態から見た地区間の関係 (1)第一段階………141
(2)第二段階………141
(3)第三段階………142
(4)第四段階………142
(5)第五段階………143
第3節 埋葬比率と生業形態 (1)埋葬比率………144
(2)生業形態………145
(3)時空間における集落形態の変遷………146
終章 集落と墓地形態から見た東北地方における新石器時代の社会構造
(1)第一段階………149(2)第二段階………150
V
(3)第三段階………150
(4)第四段階………151
(5)第五段階………153
(6)各地区の特徴………154
結語
………157図版出典………160
表出典………165
参考文献………167
図版目次 図1-1 北方地区地形図………5
図1-2 北方地区遺跡分布図………6
図1-3 北方地区集落と墓地分布図………7
図 2-1 主要な関連遺跡………18
図 2-2 小河西文化の遺跡分布図………19
図 2-3 小河西文化遺跡の面積………19
図 2-4 興隆窪文化の遺跡分布図………19
図 2-5 興隆窪文化遺跡の面積………19
図 2-6 趙宝溝文化の遺跡分布図………20
図 2-7 趙宝溝文化遺跡の面積………20
図 2-8 紅山文化の遺跡区分と数量………20
図 2-9 紅山文化の敖漢旗遺跡分布図………21
図 2-10 紅山文化における遺跡分布………21
図 2-11 小河沿文化の遺跡分布図………22
図 2-12 小河沿文化遺跡の面積………22
図 2-13 各考古学文化の遺跡分類図………23
図 2-14 各考古学文化の平均・最大面積統計図………23
図 2-15 査海遺跡平面図………23
図 2-16 白音長汗遺跡平面図………23
図 2-17 興隆窪文化の筒形罐の容量分類………24
図 2-18 査海遺跡一期集落………25
図 2-19 査海遺跡二期集落………25
図 2-20 査海遺跡三期集落………26
図 2-21 白音長汗遺跡編年図………27
図 2-22 趙宝溝遺跡平面図………29
図 2-23 南台地遺跡平面図………30
VI
図 2-24 西台遺跡平面図………31
図 2-25 白音長汗遺跡平面図………32
図 2-26 老牛槽溝遺跡平面図………32
図 2-27 遼西地区住居址面積………33
図 2-28 小河西住居址面積………33
図 2-29 興隆窪早期住居址面積………34
図 2-30 興隆窪晩期住居址面積………34
図 2-31 趙宝溝住居址面積………34
図 2-32 紅山住居址面積………34
図 2-33 遼西地区の集落形態モデル………35
図 2-34 小河西-査海 F34………36
図 2-35 査海遺跡 F43………36
図 2-36 査海遺跡 F17………36
図 2-37 査海遺跡 F11………36
図 2-38 査海遺跡 F46………37
図 2-39 査海遺跡 F5………37
図 2-40 白音長汗遺跡 BF68………38
図 2-41 白音長汗遺跡 AF13………38
図 2-42 趙宝溝遺跡 F104………39
図 2-43 趙宝溝遺跡 F9………39
図 2-44 趙宝溝遺跡 F7………40
図 2-45 西台遺跡 F202………40
図 3-1 内蒙古中南部集落分布図………48
図 3-2 各考古学文化集落遺跡の最大・平均面積………49
図 3-3 石虎山文化の遺跡分布図………49
図 3-4 石虎山文化遺跡の面積………49
図 3-5 王墓山坡下文化の遺跡分布図………50
図 3-6 廟子溝文化の遺跡分布図………50
図 3-7 王墓山坡下文化遺跡の面積………51
図 3-8 廟子溝文化遺跡の面積………51
図 3-9 老虎山文化の遺跡分布図………51
図 3-10 老虎山文化遺跡の面積………52
図 3-11 石虎山Ⅱ遺跡編年図………52
図 3-12 王墓山坡下遺跡編年図………53
図 3-13 大壩溝Ⅰ遺跡一期集落………54
図 3-14 大壩溝Ⅰ遺跡二期集落………55
VII
図 3-15 大壩溝Ⅰ遺跡三期集落………55
図 3-16 廟子溝遺跡一・二期集落………56
図 3-17 廟子溝遺跡三期集落………57
図 3-18 廟子溝遺跡四期集落………57
図 3-19 莎木佳遺跡大型住居址………58
図 3-20 莎木佳遺跡祭祀遺構………58
図 3-21 園子溝遺跡編年図………59
図 3-22 内蒙古中南部住居址面積………60
図 3-23 石虎山Ⅱ遺跡住居址面積………60
図 3-24 王墓山坡下遺跡三期住居址面積……… 60
図 3-25 大壩溝Ⅰ遺跡一期住居址面積………60
図 3-26 廟子溝遺跡三・四期住居址面積………61
図 3-27 園子溝二期住居址面積………61
図 3-28 内蒙古中南部の集落形態モデル………61
図 3-29 石虎山Ⅱ遺跡 F3………62
図 3-30 王墓山坡下遺跡 F11………62
図 3-31 王墓山坡下遺跡 F6………63
図 3-32 廟子溝遺跡 F10………63
図 3-33 廟子溝遺跡 F23………64
図 3-34 廟子溝遺跡 F35………64
図 3-35 園子溝遺跡 F3032 と F3025………65
図 3-36 園子溝遺跡 F2016 と F2017………65
図 4-1 遼東半島集落遺跡分布………70
図 4-2 新楽遺跡………72
図 4-3 北呉屯遺跡………72
図 4-4 大潘家遺跡………74
図 4-5 遼東半島住居址面積分類………74
図 4-6 新楽文化の集落形態モデル………75
図 4-7 新楽遺跡 78F2………76
図 4-8 新楽遺跡 83CDF4………76
図 4-9 大潘家遺跡 F2………77
図 4-10 大潘家遺跡 F5………77
図 5-1 遼西地区墓地分布図………79
図 5-2 小河沿文化査海遺跡墓地………80
図 5-3 興隆窪文化査海遺跡墓地………80
VIII
図 5-4 興隆窪文化白音長汗遺跡墓地………81
図 5-5 紅山文化玉器編年図………83
図 5-6 牛河梁第二地点下層積石塚平面図(N2M6)………86
図 5-7 牛河梁第二地点一号積石塚平面図(N2Z1)………87
図 5-8 牛河梁第五地点一号積石塚平面図(N5Z1)………87
図 5-9 小河沿文化土器編年図………90
図 5-10 大南溝墓地一期墓………91
図 5-11 大南溝墓地二期墓………91
図 5-12 大南溝墓地三期墓………91
図 5-13 哈拉海溝墓地………91
図 5-14 大南溝墓地の墓分類図………92
図 5-15 哈拉海溝墓地の墓分類図………92
図 5-16 半拉山墓地平面図………96
図 6-1 白城・通遼地区遺跡分布図………102
図 6-2 南宝力皐吐 A 墓地平面図………104
図 6-3 南宝力皐吐 B 墓地平面図………105
図 6-4 南宝力皐吐 C 墓地平面図………105
図 6-5 哈民忙哈遺跡編年図………106
図 6-6 哈民忙哈遺跡 F21………107
図 6-7 哈民忙哈遺跡 F52………107
図 6-8 哈民忙哈文化の集落形態モデル………108
図 7-1 黒龍江地区墓地分布図………112
図 7-2 北方地区の石鏃編年図………114
図 7-3 一期石鏃分布図………115
図 7-4 二期石鏃分布図………116
図 7-5 三期石鏃分布図………117
図 7-6 黒龍江と白城・通遼地区墓の玉器………118
図 7-7 牙壁………119
図 7-8 靶山墓地平面図………121
図 7-9 靶山墓地 M1………121
図 7-10 李家崗墓地 M1………122
図 7-11 新開流墓地編年図………123
図 7-12 新開流墓地 M3………123
図 7-13 新開流墓地 M6………123
IX
図 7-14 倭肯哈達洞窟墓………124
図 7-15 章毛勿素墓地 M1………124
図 7-16 一段階地域・地区間関係図………127
図 7-17 二段階地域・地区間関係図………128
図 7-18 三段階地域・地区間関係図………129
図 8-1 興隆窪文化早期集落形態………134
図 8-2 紅山文化環濠集落形態………134
図 8-3 紅山文化半円形・列状集落形態………134
図 8-4 哈民忙哈文化集落形態………134
図 8-5 老虎山文化石壁集落形態………135
図 8-6 老虎山文化窯洞式集落形態………135
図 8-7 列状集落の細分………136
図 8-8 第一・二段階の集落形態………137
図 8-9 第三段階の集落形態………138
図 8-10 第四・五段階の集落形態………138
図 8-11 第二段階の副葬品………141
図 8-12 第四段階の副葬品………142
図 8-13 第五段階の副葬品………143
図 8-14 集落形態の変遷図………148
表目次 表 1-1 北方地区遺跡分布………6
表 1-2 北方地区考古学文化の枠組み………8
表1-3 本論における集落資料………15
表1-4 本論における墓地資料………15
表 2-1 紅山文化における遺跡統計表………21
表 2-2 興隆窪文化集落統計表………28
表 2-3 各考古学文化の要素統計表………44
表 2-4 遼西地区の住居址統計表………46
表 3-1 老虎山文化の石壁集落統計表………58
表 3-2 廟子溝遺跡墓統計表………69
表 4-1 遼東半島編年表………71
表 5-1 興隆窪文化の白音長汗遺跡墓と集落統計表………81
X
表 5-2 紅山文化玉器と玉料統計表………84
表 5-3 紅山文化特定型玉器統計表………85
表 5-4 小河沿文化葬儀統計表………90
表 5-5 紅山文化の積石塚と中心墓統計表………95
表 5-6 遼西地域各考古学文化の社会性質………98
表 5-7 紅山文化の半拉山墓地墓統計表………99
表 5-8 小河沿文化墓統計表………100
表 6-1 白城・通遼地区の墓統計表………111
表 7-1 黒龍江地区墓地編年表………120
表 7-2 黒龍江地区墓統計表………131
表 8-1 各地区の集落遺跡………132
表 8-2 各考古学文化の集落形態と居住単位………135
表 8-3 各地区の墓地………140
表 8-4 各考古学文化の副葬品………141
表 8-5 埋葬比率と生業形態統計表………144
表 9-1 考古学文化の枠組………149
- 1 -
序 言
本論は新石器時代の中国東北地方を中心とした社会構造についての研究である。東北地方にお いては、新石器時代中期から内蒙古中南部(廟子溝文化)との交流が始まり、内蒙古中南部の検 討は欠かせない。従って、本論では内蒙古中南部も含めて検討しており、対象地域は東北地方だ けでなく、長城以北ということが出来る。現在の行政区画から見ると、遼寧省、吉林省、黒竜江 省、そして内蒙古自治区である。この地域は黄河中下流域という中原地方に比べて辺彊地域と考 えられてきた経緯がある。本地域の社会形態が、中原地域の影響を受けながら進んでいくと考え られたのであるが、この見方はいわゆる中原中心論の産物である。一方で、蘇秉琦氏(1981)は 区系類型論を提唱した。氏の考えは、単一中心論から多中心論への変化を示すものである。燕山 南北、長城地帯を中心する北方は、蘇氏の
6
区分の地域の一つである。蘇氏の広義における北方 は、明確ではないものの、東北・北方・西北という三つの小区に分けられるという。狭義では、東 端が遼河、西端が隴山であり、遼西・内蒙古中南部・隴西という三小区に分けられ、遼西と内蒙 古中南部がその中心区とされる。蘇氏の広義の北方における、東北及び北方は本論の地域と同じ であるが、氏は詳しく論じていない。狭義の北方における、遼西と内蒙古中南部は、本論の地域 に比べて狭いものの、各小区に考古学文化の系譜が立てられている。このように、蘇氏は遼西と 内蒙古中南部を検討してはいるものの、遼東・吉林省・黒龍江省・大興安嶺西麓は扱っていない のである。これは、当時の資料的制限と研究の重点の置き方に関係があると考えられる。東北地方を独立地域とした全面的研究は、佟柱臣氏(1961)から始まり、佟氏は東北地方を熱 河山地・大興安嶺・遼東半島・松花江中上流域・牡丹江流域・豆満江流域という六つ地区に分け、
そのうち大興安嶺は山脈西麓と東麓の嫩江流域と林西地区という三つの小区に区分した。熱河山 地と林西地区は今までの研究から考えて、一つの地区(遼西地区)と考えられる。従って、大興 安嶺東麓は、遼西地区と嫩江流域に分けられる。遼東半島と松花江流域と牡丹江流域という三つ の地区がそれぞれ千山・長白山・シホット山脈の西麓に位置して、豆満江流域が日本海に向かっ ている。佟氏の分区は宮本氏(1985)が述べたように、現在まで用いられているものである。そ の後、日・中両国の学者によって、これらの地域は注目を集めることとなったが(宮本
1985、大
貫
1989、馮恩学 1991、趙兵福 2003)
、日本の学者は中国の東北地方を東北アジアの視点から研究した一方、中国の学者は主に中国の東北地方という視点に依っており、韓半島とロシアの極東 を扱うことは少なかった。特に大貫氏(2012)は東アジア的視点に立ち、環境、生業形態、遺物 を考察した。それによれば、東北アジアは定着的狩猟採集社会であり、狩猟と採集の対象はそれ ぞれイノシシ・シカと堅果類とされる。また、東シベリアは遊動的狩猟採集社会で、狩猟の対象 はイノシシがない、トナカイである。中国は定住的狩猟採集社会であるが、イノシシの家畜化が 進んでいるという。さらに、土器に関しては、早期では、シベリアと中国の長江流域がそれぞれ
- 2 -
尖丸底と丸底である一方、ロシアの極東と中国の東北地方は、新石器時代は一貫して平底筒形罐 が主要な器種として存在したとされる(大貫
1998)。大貫氏はこれらの地域を、平底筒形罐文化
区と名付けた。また、筒形罐の紋様である大体之字紋、隆起紋、編目紋という三つの土器群が、それぞれシラムレン-遼河、嫩江-黒龍江中流域、松花江-黒龍江下流域という分布を形成すること を示し、各群を小区および時期的に三段階に細分した。これによって、東北地方の区系型式学が 成立したといえよう。しかしながら、以上の東北地方についての研究は主に型式学方法で土器を 研究するものであり、各地区内の考古学文化系譜と地区間の関係や、遺跡(墓と住居址)につい ての検討により社会形態の解明はあまり行われてこなかった。
本論はおもに墓と住居址の研究より、時間空間軸上における社会構造を解明する為、墓地と集 落形態の研究を行う。東北地方においては、墓地と集落が共に検討された地区は遼西地区だけで ある。しかもこれらの研究は、考古学文化ごとに検討されており、整合性が不足している。
中国全体では、特に蘇秉琦氏の区系型式学提出以降、各区の考古学文化系譜を立てる一方、遺 構の研究より社会形態を解明することが盛んになっている。これは特に、黄河中下流域の中原地 域や長江中下流域と遼西地区で顕著である。
張忠培・朱延平氏(1994)は中原地域の墓地を対象とした研究で以下のような社会変化を提示 した。前廟底溝文化段階では、男女平等から女性優位の母系社会へという変化過程があり、基本 的な社会単位は母系血縁集団である。廟底溝文化から龍山文化までは、男女平等から男性優位の 父系社会への変化があり、基本的な社会単位は父系対偶婚であるとした(張忠培・朱延平
1994)
。厳文明氏(1989)は中国の新石器時代を四段階に分け、段階ごとに集落遺跡と社会形態を分析 した。一段階(BP9500-8000年)では、その集落遺跡は、おもに長江以南に分布する貝丘と洞窟 類の居住遺跡であり、生業形態は漁猟採集である。二段階(BP8000-7000年)には農業が出現し、
その集落遺跡は遼河・黄河中下流・長江中下流流域に分布する。また、単一の住居址および居住 列(興隆窪)、ロングハウス(河姆渡)、全体的な集落は、それぞれ対偶婚、家族、氏族に対応して いる。三段階(BP7000-5500年)では、生業における農業の比率が高くなる。本段階の集落遺跡 は中国全土に分布し、集落形態は凝集式と内向式に、集落区域は居住区・生産区・埋葬区に分け られる。居住区は幾つかの居住組で構成され、居住組は大型住居址
1
棟と複数の中・小型住居址 から成る。各中型住居址は数棟の小型住居址によって囲まれるという居住セットをなしている。居住セット、組、区はそれぞれ家族・氏族・公社(氏族連合体)に対応している。四段階には青銅 器が出現するが、本段階は早、晩期に分けられる。早期(BP5500-4600年)では、集落間の規模 差は前段階より大きくなり、集落間に中心、従属の関係が出現する。それと同時に、特別な機能 を持つ大型住居址と、専業化を示す、石器・土器製作の集落も現れ、階層社会に達したとされる。
四段階晩期(BP4600-4000年)には、早期から分化が進みっつ、都市と村落が分化し、文明社会 となった。以上に上げた、張忠培氏と厳文明氏はそれぞれ墓地と集落から社会形態の変化を考察 したものである。
- 3 -
宮本氏(2005)は生業形態の変化と人類学の理論を参考にしながら、中国全体における新石器 時代の社会形態を考察した。稲作と粟黍作農業は、補足的生業形態として、完新世から長江と黄 河中下流域でそれぞれ出現した。技術の向上と温暖化に伴って、これらは重要な生業形態となり、
集約的農業生産は、社会複雑度と性差関係を変化させた。新石器時代早期では、採集活動の延長 上、農業活動の参加者は主に女性であった。農業による食料の増加に伴い、女性の社会地位も高 くなった。新石器時代中期には、男性が農業活動に参与し、集約式生産が出現した。ここで、父 系の血縁組織を基盤とした家族形態が生まれた。生産単位はおもに血縁関係より構成された氏族 で、生産活動の細別化とともに、社会集団間の規模差が出現した。新石器時代晩期には、生産力 の高まりによって、血縁関係以外の、祭祀権や軍事権による社会集団の管理方法が出現した。ま た、特権階層専有の居住・埋葬址と遺物が出現し、首長制社会に達した。遼西地区は中原地域の 農業が伝播した地区として、生業形態が中原地域と類似している。ただし、興隆窪・趙宝溝文化 の集落形態は列状で、中原地域の向心式集落とは違っており、性差関係も不明である。紅山文化 は階層社会であるものの、祭祀権を持つ人々間の血縁関係が不明であり、首長制社会かどうかは 確認できない。
以上の研究は黄河と長江中下流域の社会形態を解明しつつ、有効的な研究方法も提示している。
例えば宮本氏(2005)は、住居址床面で出土した土器の型式学研究より姜寨遺跡集落を編年した。
これは、中国で一般的である、活動面に基づいて同時期の住居址を確認する方法に比べて有効性 が高いと考えられる。朱延平氏(1997)による、趙宝溝と新楽遺跡の居住列細分は、集落形態に 対する良好な認識である。また、岡村氏(1995)は住居址床面で出土した遺物の分布に基づいて、
居住空間を区分した。これは、居住単位の認識に有効な方法である。他では、被葬者の
DNA
につ いての研究(趙欣2009、李紅傑 2012)は世系関係を解明することに有効なデータを提供した。
区系類型論から見ると、東北地方は中国の一つ区であるとともに、内的な地域差も存在する。
そこで本論では、考古学文化の系譜関係と生業形態の差異などに基づき、扱う地域を六地区に細 分する。そして、地区ごとに集落遺跡の分布、集落形態、居住単位、及び墓地の構成と埋葬習慣 を分析することで、時間空間軸で各地域の社会形態を解明し、地域間の交流を考察する。以上に よって、東北地方の考古学文化の形成と展開を考えたい。
- 4 -
第 1 章 先行研究における課題と本研究の目的、方法
本論は東北地方における新石器時代の社会構造の研究であり、研究対象はおもに集落遺跡と墓 地である。集落遺跡についての研究は、おもに遺跡の分布と集落形態と居住単位の復元でありで、
墓地についての研究はおもに墓地の構成(編年)と埋葬習俗に関してである。以上の二つの方面 を併せて、社会構造を解明したい。従って、先行研究についての纏まりも以上の二方面を扱う。
第 1 節 地理的特徴と考古学文化の枠組
先ず、本文に扱う地域の地理特徴と考古学文化の枠組を紹介して、地理特徴と考古学文化の系 譜関係に基づいて分区している。分区した上に地区ごとに研究史と資料を紹介するつもりである。
(1)地理特徴
本論文で扱った地域は、行政区画から見ると、遼寧・吉林・黒龍江省と内蒙古自治区という四 つの省で構成されている。地理概念から見ると、大興安嶺以東の東北三省(遼寧・吉林・黒龍江)
と内蒙古自治区の東三盟(ヒンガン・ジェリム・ジョーウダ盟)は一般的に東北地方と名付けら れ、内蒙古自治区のほかの地域は蒙古高原に属している。東北地方と蒙古高原はともに北方地区 と名付けられる。
地形から見ると、東部の長白山と西部の大興安嶺は中部の東北平原を挟んで、大興安嶺の西部 は蒙古高原の東南部である。大興安嶺東麓は、海抜
1000-1500m、 500-1000m、 200-500m、 200
m以下という四つの段階に分けられ、長白山山脈西麓は主に500-1000
と200-500
と200m以下
という三つの段階に分けられる。東北地方は長白山北部のシホートアリンと長白山山脈が東部の、大興安嶺が西部の、さらに黒龍江が北部、七老図山と燕山山脈が南部の各障壁として、相対的に 独立した地理単位といえよう。大興安嶺西麓は、北から南まで海抜
500-1000mから 1000-1500m
へと変化していく。内蒙古中南部は西から東へ、オルドス高原1000-1500m、黄河平原 500-1000
m、岱海-黄旗海湖の丘陵1000-1500mという三つの部分に分けられる。
水系では、遼河と松花江は主に東北平原南・北部に位置する。大興安嶺からのシラムレン河と、
長白山に源を発する東遼河が、遼河平原の中部で合流し、渤海へ流入する。遼河下流域の東側で は、長白山中部に源を発する渾河は、遼河下流と並行して渤海へ流入している。松花江の上流域 にはそれぞれ大興安嶺北部と長白山中部に源を発する嫩江と第二松花江は、松嫩平原の中部で合 流し、松花江に沿って三江平原に流入する。この松嫩平原の合流点には、大興安嶺中部に源を発 するトウル河も合流している。さらには、ハバロフスク市で黒龍江と烏蘇里江と合流し、韃靼海 へ注ぐ。仮に松嫩平原と遼河平原の合流点を結ぶ線を引くと、東北平原は東西二つの部分に分け られる。この線はちょうど降雨量
150
㎜の境界線である。東部は北から南まで松花江・第二松花- 5 -
江・遼河下流域という北・中・南三つの部分に、西部は北から南まで嫩江・トウル河・シラムレン 河流域という北・中・南三つの部分に分けられる。東西の北・中部は松花江水系に属し、東西の 南部が遼河水系に属している。大興安嶺西麓のフルンボイル盟では、それぞれ大興安嶺北部と肯 特山に源を発するハラル河とヘルレン河が、フルン湖の北に合流する。シリンゴル盟の河はすべ て大興安嶺中部の西麓に源を発する内流河である。ほかに長白山山脈南部の東麓に源を発する鴨 緑江と陰山山脈の南麓に黄河がある。
東北地方は地形と水系から見ると、シホートアリン・長白山西麓と大興安嶺東麓と大興安嶺西 麓いう東西の三地域に分けられる。また、シラムレン河と渾河(遼河下流)、トウル河と第二松花 江、嫩江と松花江という南北の三地域にも分けられる。シラムレン河・トウル河・嫩江は大興安 嶺東麓に源を発して、渾河・第二松花江・松花江は長白山山脈西麓に源を発する。蒙古高原東南 部は大興安嶺西麓と陰山山脈南麓に分けられる。大興安嶺西麓はフルンボイルとシリンゴル盟に、
陰山南麓はオルドス高原、黄河平原、岱海-黄旗海湖の丘陵の 3 つに分けられる(図
1-1)
。図1-1 北方地区地形図
(2)考古学文化の枠組み
中国文物地図集の遼寧・吉林・黒龍江・内蒙古自治区分冊に基づくと、北方地区の新石器時代 の遺跡は
2283
箇所発見されている。前の地理単位に基づくと、大興安嶺東麓とシホートアリン・長白山西麓と遼東半島から成る東北地方では、遺跡
1788
箇所が発見され、これは北方地区全体の
78.31%を占めている。大興安嶺東麓の北から南へ、嫩江流域は 232
箇所、トウル流域は218
箇所、シラムレン流域は
908
箇所である。シホートアリン・長白山西麓に北から南まで、松花江- 6 -
流域は
120
箇所、第二松花江流域は31
箇所、遼河下流域は65
箇所である。二地域を比べると、大興安嶺東麓の遺跡数が多く、遺跡数は
1441
箇所で、東北地方の80.59%を占めている。このう
ち、シラムレン流域が908
箇所で、東北地方の50.78%を占めており、遺跡分布が偏ることがわ
かる(表1-1、図 1-2)。
また、表
1-1
における各地域の海抜をみると、シラムレン河流域は海抜200-1000mの丘陵地帯
である。つまり、東北地方で最も遺跡密度が濃いのは、この丘陵地帯なのである。表1-1 北方地区遺跡分布
図1-2 北方地区遺跡分布図
次には、考古学文化の枠組みと地理区画間の関係を検討している。フルンボイル・嫩江流域・
三江平原という三つの地域は一番北方に位置して、さらに、墓地のみが発見された為に、黒龍江 地区と名付けられ。白城・通遼地区はトウル河とシラムレン河下流域に、遼西地区はシラムレン 河中上流域に、三江平原は松花江に、吉長地区は第二松花江に対応している。遼東半島は遼河下 流域・半島南部・鴨緑江下流域三つの地域を含めいている。本文には主に住居址と墓を研究する
地域 遺跡数 流域 黄河
平原 オルド ス高原
ウラン チャブ
フルン ボイル
シリン ゴル
シラムレ ン河
トウ ル河
嫩 江
遼河 下流
第二松 花江
松花 江
半島 南部
鴨緑江 下流 遺跡数 130 185 88 62 19 908 218 232 65 31 120 33 36
海抜m 200-1000
陰山山脈南麓 403
遼東半島 69
500-1500 200以下 500以下
大興安嶺東麓 シホートアリンと 長白山西麓 大興安嶺西麓
1358 216 81
- 7 -
が、吉長地区とシリンゴル盟には発掘、及び報告された遺構があまりない、おもに調査された遺 跡である為に、独立な地区と言えない。また、遼西地区における考古学文化の系譜が最も長いこ とも、本地区における遺跡点分布の偏りを考えると肯ける。陰山南麓は三地域(高原、平原、丘 陵)に分けられるが、発掘・報告された住居址と墓がおもに丘陵地帯に位置して、一つの考古学 文化の系譜に従っている(図
1-3)
。その中で、遼西地区は一番豊富な資料を持つ地区で、研究も 多い。陳国慶氏(2006)はおもに土器の研究よりこの地区の考古学文化枠組みを解明し、各考古 学文化の形成と発展を論じた。宮本氏(1995、2000)は吉長地区、遼東半島、内蒙古中南部の土 器を研究し、長城地帯の新石器時代の枠組みを立てた。白城・通遼地区の遺跡は近年発見のもの が多いため、詳細な型式学研究がない。一方で、朱永剛氏を代表とした大規模な調査・発掘資料 と、炭化物年代を併せ、この地区の文化枠組みもおおよそ決められている(王立新2012、段天景
2013、朱永剛 2016)
。大貫氏(2011)はロシア極東の資料を中心として黒龍江地区の文化枠組みをほぼ作り上げた。この地区の遺構はおもに土器を持たない墓であるので、筆者は大貫氏の編年 を参考にしながら、副葬品(石鏃と玉器)を編年して墓の年代を確認した。
図1-3 北方地区集落と墓地分布図
北方地区の考古学文化の系譜は、大体五段階に分けられる。第一段階は
BP8000
以前に遡り、定着的な住居址、墓地が発見され、居住と埋葬機能を持つ集落が始まる。白城・通遼地区では墓
- 8 -
のみが発見され、住居址はない。第二段階は
BP8000-7000
で、遺跡分布は第一段階と同じであ る。遼西地区では居住と埋葬機能を持つ集落が、白城・通遼地区では墓が発見されている。第三段階は
BP7000-6500
で、黒龍江地区以外のすべての地区で遺跡が発見されている。白城・通遼地区では墓地、ほかの地区では集落が見つかっている。第四段階は
BP6500-5000。すべて地域で遺
跡が出現している、黒龍江地区では墓地のみである。第五段階はBP5000-4000
で、分布状況は第 四段階と同じである。この段階の集落は遼東半島と内蒙古中南部だけで発見され、ほかの地区の 遺跡はすべて墓地である(表1-2)
。表1-2 北方地区考古学文化の枠組み
第 2 節 研究の現状
(1)集落形態に関する研究動向
集落遺跡を持つ地区は、遼西地区、遼東半島、内蒙古中南部、そして白城・通遼地区の哈民忙 哈文化である。遼西、遼東、内蒙古中南部は東北地方の南側、いわゆる長城地帯に位置している。
これらは北側より低緯度に位置し、中原地域に隣接し、集落遺跡が多い。白城・通遼地区の後套 木嗄遺跡が、最も北方に位置する一定規模の集落である。
集落遺跡の分布
集落遺跡分布についての調査は
20
世紀80
年代から始まり、特に90
年代から米・中両国の共 同調査以来、報告書と研究論文が連続して発表された(Shelach 1999、赤峰中米聯合考古研究項 目2003、
岱海中米聯合考古隊2005、
中国社会科学院考古研究所2005、
滕銘予2007、
韓茂莉2010)
。 それらの対象地区は遼西と内蒙古中南部である。Shelach 氏は紅山文化が全社会の宗教活動を行 い、小河沿文化が過渡期の考古学文化であると述べた。赤峰中米聯合考古研究プロジェクトは『内 蒙古東部(赤峰)区域考古調査階段性報告』を出版、主にその目的と方法、そして各考古学文化 の遺跡数を定量的に紹介した他、人口規模の復元を試みた。中国社会科学院考古研究所は老哈河 と大凌河の支流流域(半支箭河・老虎山河上流域)における調査で、遺跡の分布と規模に基づき、遺跡をランクに区別し、ランク間の関係を考察した。滕銘予氏は中米両国の共同調査において、
フルンボイル 嫩江流域 三江平原
第一段階8000以前 小河西 後套木嗄一期
第二段階8000-7000 興隆窪 後套木嗄二期
第三段階7000-6500 石虎山 趙宝溝 新楽 後套木嗄三期
6500-6000 王墓山坡下 紅山早期 小珠山下層
6000-5500 廟子溝早期 紅山中期 小珠山中層 哈民忙哈早期 団結学校 昂昂渓 新開流
5500-5000 廟子溝晩期 紅山晩期 吴家村 哈民忙哈晩期 団結村 李・滕家崗 倭肯哈達
第五段階5000-4000 老虎山 小河沿 小珠山上層 南宝力皐吐 烏珠爾 小南山
第3章 第2・5章 第4章 第6章 第四段階
地 域 段階(BP)
章
遼西地区
第7章 黒龍江地区 白城・通遼地
遼東半島 区 内蒙古中南
部
- 9 -
考古学文化ごとに遺跡分布地域の地形・土壌・地質の特徴に基づいて、各考古学文化における居 住域選択の偏向性をまとめた。韓茂莉氏の研究は滕氏と類似するが、各考古学文化の生業形態と 環境の関係に重きを置いている。中・米聯合考古隊は岱海地域の遺跡を調査し、老虎山文化の時 期に中心性遺跡を見出している。
集落形態
集落形態についての研究は多いので地区ごとに紹介する。
遼西地区では、小河西文化について、索秀芬氏(2008)は遺跡の面積に基づいて、中型・小型・
最小型集落に区分した。興隆窪文化について、劉国祥氏(2001)は環濠集落集落と非環濠集落に 区分した以外に、遺跡の面積と住居址の数に基づいて、中心と非中心集落に分けた。他では、興 隆窪文化の集落形態が趙宝溝と紅山文化に影響し、趙宝溝と紅山文化の集落も環濠・非環濠と中 心・非中心集落に分かれることを示した。王立新氏(2005)は興隆窪文化の集落について、住居 址、住居組、集落という三階層を見出した。趙賓福氏(2006)は劉国祥氏と同じく、環濠・非環 濠集落に分け、住居址の分布に基づいて住居址・住居列・住居区・遺跡という区分を行った。索 秀芬氏(2010)は集落を居住区・祭祀区・埋葬区・生産区に分けた。また、居住区が向心式で構 成されることと、列状住居址が、面積に基づいて大・中・小型に分かれることを示した。小型住 居址は居住と生産、中型住居址は祭祀と居住、大型住居址が老人と子供の居住および集落の会議 場所という機能をそれぞれ持つと指摘した。
趙宝溝文化集落について、朱延平氏(1997)は趙宝溝遺跡が住居址・住居組・住居群・住居列 の四階層に分け、これは半坡文化の横陳墓地の構成と類似することを指摘した。趙賓福氏(2008)
は面積と住居址の数に基づいて、集落遺跡を大・中・小型に分けている。劉国祥氏(2001)は趙 賓福氏と同様に、趙宝溝文化の集落を大・中・小型に分け、趙宝溝文化の集落が興隆窪文化と紅 山文化の間の過渡的機能を持つと指摘した。
内蒙古中南部について、宮本氏(2001)は廟子溝文化に属する王墓山坡上遺跡に土器の編年に 基づき、集落形態を研究したほか、老虎山文化の石城遺跡についても多く検討した。魏堅氏(1999)
は石城の年代と形態に基づいて、祭祀遺構を持つ石城や大規模な石城を中心遺跡と名付けた。魏 俊氏(2003)は石城の年代・形態・住居址面積などに基づき、石城は、環境の変化と社会集団間 の緊張関係に適応するため構築されたとしたが、石城間には上下関係がないと指摘した。韓建業 氏(2008)は石城の機能と環境に着目し、寒冷化の段階において、細石刃石器を持つ人間集団が 南下するため、防御機能を持つ石城が生まれ、後代の長城と類似する機能を有するとした。
遼東半島では、朱延平氏(1997)が、新楽遺跡の住居址の分布と規模に基づき、住居・住居列・
居住群(区)という三区分を行った。
白城・通遼地区では、朱永剛氏が住居址の規模に基づいて四区分を行った。また、これらは、
列状集落であると指摘されている(朱永剛
2012)
。- 10 -
居住単位岡村氏(1995)は新楽遺跡の住居址床面の遺物分布に基づき、居住空間を性別より分けられる と指摘された。大貫氏(1998)は、興隆窪、趙宝溝、新楽文化の住居址に含まれる遺構と床面の 遺物分布に基づき、居住単位は核家族と複数核家族という二つの状況があることを示した。また、
居住空間は性差により分けられ、男・女の空間がそれぞれ聖と俗に対応しているとした。
(2)墓葬に関する研究動向
墓地の存在する地区は、遼西地区、白城・通遼地区、黒龍江地区、そして内蒙古中南部の廟子 溝文化である。遼西地区、白城・通遼地区、黒龍江地区の嫩江流域は大興安嶺の東麓に南北方向 で並んでいる。
以下、地区ごとに紹介する。
遼西地区
考古学文化ごとに記述する。
興隆窪文化の墓についての研究は、主に室内墓に関するものである。興隆窪遺跡で豊富な副葬 品を持つ室内墓
M118
について、被葬者が狩猟者として高い社会地位を持っているという見解(大貫
1998)
、世代家族の紐帯の機能を持っているという見解(宮本2005)
、氏族のリーダーであるという見解(劉国祥
2003)という三つがある。王闖氏は主に興隆溝遺跡の室内墓に基づき、興隆
窪文化時に小家族が出現したと指摘した(王闖2012)
。紅山文化の墓についての研究では、主に牛河梁遺跡の編年が注目されている(呂学明・朱達
2002、
張星徳
2005、索秀芬・李少兵 2007)
。当該社会については、権威を持つ個人が、宗教行為によって社会を束ねていたという指摘がある(大貫
1998、宮本 2005、Shelach 2015)
。さらに、LiuLi 氏(2012)は、紅山文化の社会が集落と墓地(牛河梁遺跡)両方で表現された、階層社会である と指摘した。劉国祥氏(2015)は紅山文化の集落と墓地の構成、祭祀遺構(廟・塚・壇)と遺物(玉器・筒形器)の出現に注目し、その晩期には文明社会に達していたとした。玉器に関して、
周暁晶氏(2014)は紅山文化の玉器について、形態・製作技術・玉材・副葬位置に注目した編年 や機能分析を行いつつ、周辺地域との交流状況を解明した。
小河沿文化についての研究では主に大南溝墓地が注目されている。陳暢氏(2008)は副葬品の 組み合わせと埋葬方法に注目し、墓地を三区に分け、B 区に三つの集団、A 区に二つの集団、C 区に一つの集団を想定した。鄭鈞夫氏(2012)は墓地の編年と副葬品に注目し、大南溝墓地が婚 姻関係で結ばれた二つの集団の墓地であること、そこでは男女間分業があり、男性優位であった ことを指摘した。
- 11 -
白城・通遼地区白城・通遼地区の後套木嗄遺跡は近年発掘された遺跡である(王立新
2012)
。本遺跡の四期遺 存は哈民忙哈文化に属し、二・三期遺存の年代はそれぞれ遼西地域の興隆窪・趙宝溝文化と対応 すると報告されている(王立新など2012)
。後套木嗄遺跡の各時期には墓が存在している。肖暁 鳴氏(2014)の博士論文「吉林大安後套木嗄遺跡人骨研究」は後套木嗄遺跡の墓に関して、形質 人類学的方法に基づいて分析し、本遺跡の古人類が古東北亜型に属すると指摘した。哈民忙哈文 化の室内葬の分析から、朱泓氏(2014)は疫病の流行の可能性を指摘した。南宝力皐吐文化につ いては、土器の形と紋様に基づくと、在地文化、小河沿文化、偏堡文化という三要素が含まれて いると指摘されている(朱永剛・吉平2011)
。鄭鈞夫氏(2012)は南宝力皐墓地の副葬品に基づ き、本墓地では、社会複雑度が紅山文化より簡単化しており、小河沿文化と同様、血縁・婚姻関 係に基づいて構成された氏族・家族墓地と指摘した。黒龍江地区
黒龍江地区では、墓の埋葬習俗から社会形態を研究した例は少ない。おもに、各墓地間の年代 関係が注目されている。
新開流文化について、宮本氏(1985)は新開流と昂昂渓遺跡の土器を比べ、二つの遺跡を同時 代とした。朱延平氏(1998)は新開流遺跡の土器紋様に基づいて、BP8000-7500年と判断して、
遼西地域の興隆窪文化と同時代と指摘した。大貫氏(2011)は、新開流遺跡がルドナヤ文化から バイカ文化の過渡期に位置するとした。
倭肯哈達遺跡について、馮恩学氏(2003)は、倭肯哈達遺跡と亜布力遺跡はボイスマン文化と 同時代であり、前者は後者よりやや早いと指摘した。
昂昂渓文化について、馮恩学氏(1997)はバイカル湖と嫩江流域にを比較し、昂昂渓遺跡は新 石器時代晩期に位置するとした。大貫氏(2001)は、額拉蘇遺跡と昂昂渓遺跡がそれぞれノヴォ ペトロフカ文化とオシノヴォエ湖文化と類似することを指摘した。趙賓福氏(2004)は石鏃と銛 の分析に基づき、靶山墓地は昂昂渓文化より早く、前者は
BP5500-5000
年、後者はBP4000
年 前後とした。玉器について、于建華氏(1992)は黒龍江省の新石器時代の玉器と紅山文化の玉器を比べ、倭 肯哈達遺跡と李家崗遺跡の玉器は紅山文化と似ているが、ほかの遺跡の玉器は地元の特徴を持つ と指摘した。周暁晶氏(2000)は吉林省東部・黒龍江省で出土した玉器と遼西地区の玉器を比較 し、両地域それぞれに独立的な玉器の起源地を求めている。また、紅山文化の玉器はその早期に 吉林・黒龍江省の影響を受け、晩期には逆に吉林・黒龍江省へ伝播したと指摘した。劉国祥氏(2000)
は黒龍江省の玉器を三段階に分け、小南山墓地が
BP7500-7000
年の一段階に、李家崗墓地がBP6000-5000
年の二段階に、倭肯哈達墓地がBP4000
年頃に属したとした。田華・王承海氏(2004)は倭肯哈達遺跡と小南山墓地の玉器を比べ、二つの遺跡間に年代と玉器の機能差があることを示
- 12 -
した。小南山墓地が時期的に早く、倭肯哈達遺跡と小南山遺跡の玉器がそれぞれ礼器と飾り物と したのである。
内蒙古中南部
内蒙古中南部の廟子溝文化では墓が発見され、形質人類学と人骨の炭素・窒素安定同位体につ いての研究(張全超・T.ENG・魏堅・朱泓
2010)がある。しかしながら、これらと考古学文化と
の関係は検討されていない。(3)社会形態に関する研究動向
社会形態については、すべての地区で研究されたわけではなく、おもに遼西地区の社会形態が 注目されている。索秀芬氏(2008)は小河西文化の集落遺跡を小家族・拡大家族・氏族三つのレ ベルに分け、興隆窪文化の集落を小家族・大家庭(居住列)・氏族・胞族・部族を五つの層に区分 した。朱延平氏は趙宝溝および新楽集落を住居・住居列・居住群(区)に分け、それぞれが核家 族・拡大家族・氏族に対応すると指摘した。宮本氏(2005)は遼西地域における各考古学文化の 集落と墓地の研究に基づき、興隆窪・趙宝溝・紅山文化がそれぞれ等質社会・氏族社会・階層社 会の過程を経ていることを指摘した。朱永剛氏(2003)は紅山文化の西台遺跡の形態に基づき、
これを婚姻関係で結ばれた双体集落と考えた。
第 3 節 問題の所在
(1)集落形態の研究における問題
集落遺跡の分布についての研究はおもに米・中共同調査から始まり、一定の地域で長期間の遺 跡分布・規模等の変化についての研究が行われ、それによって考古学文化の形成と発展が考察さ れた。しかしながら、以上の調査された地域は考古学文化の分布地域全域ではない。特に幾つの 考古学文化に扱って何千年を経た各考古学文化の分布地域は広いので、これを解決する方法は、
広い地域で調査を行わなければならない。『中国文物地図集』の遼寧・吉林・黒龍江省分冊および 内蒙古自治区分冊が現在では出版されており、特に遼西と内蒙古中南部は考古学文化ごとに遺跡 調査が行われている。考古学文化ごとに遺跡の数・規模などのついての研究を行う条件が整えら れたと考えられる。
集落形態研究における、最重要の問題は遺構の共存性に関してである。土器の編年と遺構の形 態に従って、同時期であるかを判断するしかない。同時期の遺構が確定すれば、遺構間の関係を 解明し、集落の構成が明らかになると考えられる。従来の研究では、遺跡と集落が同一概念とし て用いられているが、実際には一つの遺跡に幾つかの集落がある可能性がある。さらに、住居址 間の関係も解明されていない。宮本氏(2001)による、内蒙古中南部の王墓山坡上遺跡における
- 13 -
集落形態の研究は有効な方法と考えられる。しかしながら、氏の論攷以降に出版された、『廟子溝 与大壩溝-新石器時代集落遺跡発掘報告』はさらに豊富な資料を提供している。遼西地区の集落に ついての研究は多いが、住居址の編年があまり行われていない。従って、住居の同時性を求めた 上で、住居址間の関係について数量的分析を行った研究も少ない。
居住単位についての研究は岡村氏から始まり、床面で出土した遺物の分布に基づいて居住単位 を解明した。これは、住居址に居住可能な推定人数から、居住単位の構成を推測するよりも有効 的な方法と考えられる。しかしながら、氏によって検討された例は少なく、社会形態の変化につ いて十分なデータを示したとは言えない。
(2)墓葬研究における問題
墓地についての研究では一般に、副葬された土器を編年して墓地を分期する。しかしながら、
東北地方で一定規模かつ土器を副葬する墓地は、新石器晩期の遼西と白城・通遼地区に出現する ので、ほかの時期や地区では土器による分期は困難である。遼西地区の興隆窪文化は公共墓地と 住居址墓葬という二つの埋葬形態があるが、副葬品による墓の編年が困難で、埋葬習俗全体が解 明されたとはいえない。紅山文化では、大規模な墓地(牛河梁墓地)も発見されているものの、
埋葬形態が積石墓で、副葬品がすべて玉器であるため、墓地の編年が難しい。周暁晶氏による紅 山文化の玉器についての編年研究があるが、墓地の構成と墓間関係についての研究は行われてい ない。紅山文化と小河沿文化における人骨
DNA
に関する近年の研究(李紅傑2012、趙欣 2009)
は、被葬者間の血縁関係を解明し、社会と家族形態についての研究に有効的なデータを提供した。
白城・通遼地区の考古学文化の系譜は、遼西地区と対応したものである。南宝力皐文化以外で は、墓についての研究は行われていない。遼西地区の隣接地区として埋葬習俗を解明し、二つの 地区を比較する研究が必要である。
黒龍江地区は三江平原・嫩江流域・フルンボイル盟という三地域に分けられ、各地域の研究状 況から見ると、新石器時代の編年が確立している地域は三江平原のみである(大貫
2011)
。周暁 晶・田華・王承海・劉国祥氏の研究は、土器の編年に基づいて玉器の編年を行っているが、その 土器編年は、最近の研究と矛盾するところがある。昂昂渓文化の年代については、昂昂渓遺跡で 出土された土器が少ない上に、オシノヴォ湖文化の土器との型式学的比較も行われていない(大貫
2001)
。さらには、新石器時代晩期(馮恩学1997)は年代幅が広く、本地区における墓地間(李
家崗・滕家崗・標山墓地)の早晩関係もまた不明である。趙賓福氏(2004)は昂昂渓と靶山墓地 の石鏃と銛の地域差を年代差と同一視したが、同時期の地域差のみという可能性についても考え る必要がある。
さらに、細石器刃石器だけ伴う遺構も多く、この場合、土器・玉器・骨器の型式学的研究によ って全ての編年を行うことは出来ない。また、白城・通遼地区では、近年発掘された幾つかの遺 跡(後套木嗄・哈民忙哈遺跡など)で豊富な遺物を検出している。これらの資料によって、黒龍
- 14 -
江と遼西地区間の空白地帯を埋めることが出来、三つの地域間を比較することができるようにな っている。
(3)社会形態の研究における問題
社会形態の解明は、集落形態と埋葬習俗の研究が主となる。特に集落と墓地双方を持つ遺跡は、
良好な資料であると考えられる。この例が遼西地区の興隆窪文化と白城・通遼地区の哈民忙哈文 化と内蒙古中南部の廟子溝文化である。しかしながら、両者について統合的研究はあまり行われ ていない。東北地方の集落遺跡では、一般に住居址が列状に並び、幾つかの居住列で構成された 集落は住居址・居住列・居住区・集落という四つの部分に分けられる。前に述べたように、それ ぞれの部分は核家族や小家族・大家族・氏族・部族に対応しているという指摘がある。しかしな がら、従来では遺跡の編年を行うことは少なく、家族形態の認識はおもに住居址の面積より居住 可能人数、ひいては核家族や小家族といった家族形態を推測しているので、方法的に妥当でない 可能性がある。実際、住居址より家族形態を復元することは難しく、居住単位より判断した小家 族や大家族が生産単位のみに対応して、家族成員間の関係が不明である。例えば、性別による空 間区画の小家族は婚姻関係より構成する核家族や血縁関係より構成する世帯家族という二つの可 能性がある。この問題を解決するため、埋葬習俗特に合葬墓に対して注目しなければならない。
また、DNAの研究は被葬者間の血縁関係に対して有効データを提示した。集落形態・居住単位・
埋葬習俗・血縁関係という四つの方面を併せて、社会形態を解明することが重要である。
第 4 節 本論における目的と方法
(1)各章で扱う資料と地区
上に述べたように、本文で扱う資料は集落遺跡と墓地に分けられる。集落遺跡を持つ地区はお もに東西方向に、墓地を持つ地区はおもに南北方向に分布する。両方向の交差点である遼西地区 では、集落と墓地双方の遺構が発見されている。また、紅山文化と同時期の白城・通遼地区では 大規模な集落遺跡(哈民忙哈)が、内蒙古中南部では墓地(廟子溝)が出現した。集落と墓地遺構 分布の偏向性は自然環境・気候条件・生業形態などの諸要素との関係がある以外に、調査と発掘 作業の不足との関係もあるかもしれない。
表
1-3
と表1-4
は、本論対象の集落遺跡と墓地資料である。このうち、集落と墓地双方が含ま れる遺跡を持つ考古学文化は、遼西地区の小河西・興隆窪文化、白城・通遼地区の哈民忙哈文化、内蒙古中南部の廟子溝文化である。
最後に各地区の概況を示す。遼西地域とは南端が燕山山脈、北端がシラムレン河上流域、東端 が医巫閭山山脈、西端が大興安嶺南麓である。遼東半島とは西端が遼河流域、北端が渾河上流域、
東端が鴨緑江、南端が遼東半島南端である。内蒙古中南部の北端は陰山山脈、南端が長城、西端
- 15 -
がオルドスと包頭の連線、東端が張家口市とシリンハォトーの連線である。また、黄河と蛮汗山 を境界として三つの地域に分けられ、地域ごとに地形特徴を持っている。西部が主にオルドス高 原、中部が主に黄河平原、東部が主に丘陵をなしている。白城・通遼地区は遼西地区と黒龍江地 区の中間地帯として、重要な地区である。その範囲は北端が嫩江とトウル河の合流点の月亮泡湖、
東端が査干木倫湖と新開河下流域の連線地帯、南端がシラムレン河下流域、西端が大興安嶺東麓 である。黒龍江地区にはおもに嫩江流域・三江平原・フルンボイル盟という三つの地域が含まれ、
現行政区画では、黒龍江省と大興安嶺西麓のフルンボイル盟である。
表1-3 本論における集落資料
表1-4 本論における墓地資料
(2)各章における研究方法
第
2
章は遼西地区の集落遺跡を検討する。おもに集落遺跡の分布と集落形態と居住単位という 三方面から検討を行った。集落遺跡の分布について、中国文物地図集の内蒙古自治区と遼寧分冊文化 集落 住居 文化 集落 住
居 文化 集落 住
居 文化 集落 査海 4
白音長汗 2 査海 53 白音長汗 56
7000-6500 石虎山 石虎山Ⅱ 14 趙宝溝 趙宝溝 89 新楽 新楽 30
王墓山坡下 王墓山坡下 21 西台 15 小珠山下層 北呉屯下層 5 大壩溝Ⅰ 36 白音長汗 17 小珠山中層 小珠山 5 廟子溝 52 老牛槽溝 7 吴家村 北呉屯上層 3
莎木佳 2 三堂1期 三堂 2
園子溝 85 小珠山上層 大潘家 7
章
哈民忙 哈
哈民忙 哈50軒
第2章 第4章
第3章 第6章
小河沿 老虎山
白城・通遼地区
8000以前
8000-7000
5000-4000
遼西地区 遼東半島
内蒙古中南部 地 域
年代(BP)
小河西
6500-5000
興隆窪
廟子溝 紅山
文化 墓地 文化 墓地 墓 文化 墓地 墓 後套木嗄 1 双塔 1 査海 10
白音長汗 17 興隆窪 10 興隆溝 28
7000-6500 趙宝溝 後套木嗄
三期 後套木嗄 13
昂昂渓 5 靶山 5 牛河梁 49 哈民忙哈 20 二克浅 1 李家崗 2 滕家崗 2 大南溝 53
哈喇海溝 19 章
廟子溝 廟子溝 32基
不
双塔 4 団結村 明
後套木嗄 4 団結学
校 1 新開流31
倭肯哈 達 4
第3章
烏珠爾 1 小南山1
第5章 第6章 第7章
5000-4000 小河沿 南宝力皐
吐
南宝力皐 吐 395
8000-7000 興隆窪 後套木嗄
二期 後套木嗄 4
6500-5000 紅山
南台子 13
哈民忙哈 胡頭溝 2
8000以前 小河西
黒龍江地区 内蒙古中南部
フルンボ 嫩江流域 三江平原
査海 6 後套木嗄 一期 地 域
年代(BP)
遼西地区 白城・通遼地区
- 16 -
に基づき、年代・面積・遺構の種類を報告された遺跡を選び、考古学文化ごとに遺跡立地分布を 調べた。遺跡の分布と遺跡間の距離・面積差の他、考古学文化間の集落分布と面積の差異も検討 し、長期間の変化趨勢を明らかにした。集落形態に関しては、興隆窪文化では筒形罐の編年に基 づいて査海と白音長汗遺跡を三期に分けた。そして、各期の住居址の分布より集落形態を解明し た。同様に、趙宝溝文化の集落形態と居住単位についても検討したが、当該文化の編年は報告書 に従った。紅山文化の西台遺跡では土器は部分的にしか報告されていない。従って、住居址を切 り合い関係と方向に基づいて編年した。白音長汗遺跡は土器により遺構を分期した。老牛槽溝遺 跡では、住居址とピットの関係を考察した。
住居址における居住単位の認定について、以下にその方法と注意点を述べておく。土器の器種 によって、貯蔵・炊飯・飲食という機能が、石器の種類では、採取・狩猟・食物加工という機能が 想定できる。そこで、これらの組み合わせが、住居址床面にどのように分布しているかに基づい て、住居址
1
棟に居住単位あるいは消費単位が幾つ含まれるかを判断している。本論で扱う住居址はおもに比較的精密に発掘された集落遺跡であるので、床面直上の堆積につ いては、床面遺物、屋根、廃絶後という三つの層に分けられる。本論では、居住単位を、床面遺物 から分析しようとするのであるが、床面遺物は廃絶時のパターンであって、使用状況と直接に繋 がるかは不明である。このことに関しては、次のように理解できよう。遼西は、東北地方で最初 に雑穀農耕が出現する地域である。一方で、生産道具と集落の立地と構成、及び自然環境の分析 から見ると、その最初の段階(小河西文化、興隆窪文化、趙宝溝文化)では集落は未開地に作ら れ、多様な生業形態を含んでいた。ここでは、原始農耕生産(焼畑農耕の可能性)の安定性が低 く、数年で地力が低下したといわれる。また、気候の変動と狩猟圧などによって環境の人口支持 能力を長期にわたって保つことは出来ず、テリトリーを移す必要もあった(岡村1995)。さらに、
同一の考古学文化内では、集落や住居址間の切り合い関係がないので、集落が別の土地に転移し た後に、元の場所にに回帰することはなかったと考えられる。従って、移動に不便な重い生活用 具は、元の集落にそのまま廃棄していった可能性が考えられる。ほかでは、不慮の火災により廃 絶した住居址もあるが、この場合も床面遺物は直前の使用状況を反映している可能性が高い。以 上の可能性を考慮すれば、消費単位は床面遺物の分析によって確認できると考えられる。
第