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埋葬比率と生業形態

第8章 東北地方における新石器時代の考古学文化の形成と展開

第3節 埋葬比率と生業形態

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第四段階の白城・通遼地区では、部分に発掘した哈民忙哈遺跡において、住居址

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軒と墓地

(被葬者

200

人以上)が発見されている。集落居住者全員が埋葬されていると考えられる。

本地区第五段階の南宝力皐吐文化では集落が発見されてないが、墓地の規模と副葬品から見て小 河沿文化と似た状況である。

第四段階の内蒙古中南部では、廟子溝文化の廟子溝遺跡において、住居址

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軒と墓地(被葬者

75

人)が見つかっている。この墓地には集落の居住者すべてが埋葬されていると考えられる。

第四段階の黒龍江地区では、墓地が発見されているが、集落は発見されていない。第四段階前 葉における新開流墓地は、その規模と構成から見ると、成年男性を中心とした小型血縁集団で構 成された氏族墓地である。第四段階中葉には倭肯哈達墓と李家崗墓地

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は、玉器を副葬する四 人合葬墓である。副葬品の種類と墓の形態から見て、社会集団の組織者とその親族だけが埋葬さ れたと考えられる。この状況は後葉の小南山墓地でも同様である。

以上の分析から見ると、集落の構成員全てを埋葬する墓地は遼西地区の小河西文化(第一段階)

から出現したが、存続せず、興隆窪・趙宝溝・紅山早中期(第四段階中期)はすべて部分的埋葬 である。第四段階の中晩期には遼東半島の埋葬比率が不明である以外、ほかの四つの地区では集 落の構成員全員が埋葬された墓地を持つ。第五段階では遼西と白城・通遼地区が集落の構成員全 員が埋葬された墓地であるが、黒龍江地区は部分的埋葬である。

(2)生業形態

集落形態と副葬品から見た地区間の関係や、埋葬比率の変化は、東北アジアの初期農耕化の変 化過程と合っている(宮本

2009)

。宮本氏が述べたように、最初に遼西地区の小河西文化・興隆 窪文化(第一・二段階)では旱作農耕が出現し、時期に従って旱作農耕が遼東半島の新楽文化(第 三段階)へ、白城・通遼地区と黒龍江地区の三江平原(第四段階)までへ伝播している。また、同 時(第四段階)に稲作農耕が山東半島から遼東半島南部へ伝播している。内蒙古中南部の農耕化 過程は東北アジアと異なるが、第四段階には環境の寒冷化に従って、牧畜が出現し、第五段階に この生業が遼西地区へ広がっていく(表

8-5)

文化 生業 墓地

人数 墓地 生業 墓

墓地 生業 墓

墓地 生業 墓 後套 1 1

双塔 1 1

後套木嗄三期 後套 13 14

李家崗 2 5

滕家崗 2 2

黒龍江地区

5 9 1 1 後套木嗄一期

章毛勿素 1 4 後套木嗄二期

白城・通遼地区

フルンボイル

三江平原 嫩江流域

哈民忙哈

靶山 二克浅

4 4

4 4

後套

1 2 烏珠爾 1 1

狩猟 採集

南宝力皐吐 南宝 395

双塔

哈民50 19 200+ 1 4

漁猟 採集

新開流 31 42 団結学校 1 1

狩猟 農耕

採集 小南山

倭肯哈達 漁猟 採集 後套 4

狩猟 採集

農耕

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(3)時空間における集落形態の変遷

以上のような農耕伝播に伴って、埋葬比率と居住形態が変化する。また、農耕の発展に従って、

集落遺跡の数・集落間の規模差・集落構成・住居址間の関係も変化し、特に遼西地区と内蒙古中 南部ではこの変化が顕著である(図

8-14)。

遼西地区では、第一段階の小河西文化で華北型農耕の道具(磨盤・磨棒・石鏟)が初めて出現 する。同時に小型定住集落が出現するが、集落規模と住居址間には大差がない、居住単位がすべ て

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単位である。第二段階の興隆窪文化では、農耕の発展に従って、集落の数と規模が大きくな り、二つの居住集団で構成された集落が出現した。集落間の規模差は小さいものの、住居址間の 面積差が顕在化している。早期の円形集落には、最大面積住居址が中心に位置しつつ、居住単位 が小河西文化と似て

1

単位であり、居住機能の他、最大面積住居址が集落の集会所としての機能 を持つようになった。晩期には、集落形態が円形から列状へ変化し、住居址間の面積差がもっと 大きくなりながら、大型住居址の居住単位が

2

単位になって、いわゆる多世帯家族で住んで、さ らに、血縁紐帯としての成年男性を室内で埋葬させている。第三段階の趙宝溝文化では、農耕具 が規範化しつつ、集落間の規模差が拡大した。居住列外に位置する大型住居址において、特別な 機能を持つ物(尊形器)が出土しつつ、居住単位が興隆窪文化と比べ小さくなって、1 単位であ る為、大型住居址の位置・規模・専有物などから見ると、住居址間の格差が生まれていた可能性 がある。第四段階の紅山文化においては、伝統的な磨盤・磨棒・石鏟以外に、石鋤・杵・臼・包 丁という耕作・加工・穂摘道具が出現しており、農耕の発展を示している。集落の数がさらに増 加し、集落間の規模差が最大になる。さらに、列状と半円形という二つの居住集団で構成された 白音長汗集落では、最大面積住居址(イ類)が半円形の中心に位置して、貯蔵用のピットが主に 中心と円周の住居址間に分布し、中型住居址(ウ類)と小型住居址(エ類)が主にそれぞれ半円 形と列状の居住集団で分布する為、集落の貯蔵物を管理する大型住居址を中心としての居住集団 に住居址間の格差が出現しつつ、二つ居住集団間の階層差も認められるという重層的な階層差が 生まれた。この重層的な階層差という社会形態は、異なる規模の積石塚がある牛河梁墓地で、各 階層の司祭者を異なる積石塚の塚台や塚壁で埋葬させていることと一致する。一方、紅山文化晩 期の老牛槽溝遺跡では、住居址が小型化しながら、住居址間の格差もなくなった為、等質社会に 逆行したということができよう。居住単位について、紅山文化の居住単位がすべて

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単位、さら に、これらの住居址が居住空間を性別分業により区分することができない、いわゆる核家族化に なって、この状況が半拉山墓地で出現した男女合葬の現象と一致している。最後に、小河沿文化 では、発掘された集落はないものの、集落遺跡の規模と規模差については興隆窪文化と類似する。

また、墓地における埋葬習俗と生業形態の変化からみても、社会の複雑化に関する退行現象が認 められる。以上の変化からすると、遼西地区は紅山文化まで、農耕の発展に伴い、集落の数と規 模、そして集落間の規模差が徐々に増加する。さらに、趙宝溝文化において住居址間の格差が、

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紅山文化において住居址と居住集団間の格差が出現し、社会の複雑度が徐々に高くなっていると 言えよう。

先述のように、内蒙古中南部における農耕化の過程は、東北アジアと異なっている。中原地域 との交流によって、第三段階の石虎山文化から小型定住集落が出現し、この段階では集落規模と 住居址間に大差がない。第四段階の王墓山坡下文化では、集落遺跡の数は遼西地区の興隆窪文化 と類似しているが、集落の規模差については興隆窪文化より大きい。大型住居址は面積が大きい が、居住単位が小さくて

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単位のみ為、大型住居址は居住機能以外に集落の集会所としての機能 も持っている。廟子溝文化においても、集落遺跡の数には大きな変化が見られないが、集落間の 規模差は小さくなっており、住居址間の面積差が小さくて、さらに、その間に格差も出現しない。

第五段階の老虎山文化では、窯洞式住居と石城集落の出現することから、環境と生業形態の変化 に適応した牧畜型農耕社会へと変化したことが考えられる(宮本

2000)

。集落遺跡の数が増加し つつ、集落間の規模差も顕著になった。石城・祭祀遺構・大型石築住居址を持つ集落が出現し始 め、集落と住居址間の格差も出現した。しかしながら、墓地が発見されてない為、明確な階層社 会に相当するかどうかは不明である。

遼東半島では、農耕の伝播に従って、第二段階の新楽文化で定住集落が出現する。集落遺跡の 数と集落間の規模差は不明であるが、集落形態は遼西地区の趙宝溝文化と類似し、等質的な社会 であり、晩期の大型住居址が居住列外に位置しつつ、室内では特別な機能を持つ物(鳥形木彫)

が出土しており、住居集団内で祭祀を行う様な集会所としての役割が想定される。

白城・通遼地区では、農耕の伝播に従って、第四段階の哈民忙哈文化で大型の定住集落が出現 する。しかしながら、集落遺跡の数と集落間の規模差は不明である。集落形態は遼西地区と似て いるが、住居址間の格差は存在せず、等質的な社会を構成している。