本論における遼東半島(地区)とは、西端が遼河流域、北端が渾河上流域、東端が鴨緑江、南 端が遼東半島南端である(図
4-1)。この地区は真ん中に東北-西南方向の千山山脈があり、山脈
の西麓は遼河平原と海岸近頃の低地、東麓は鴨緑江下流域平原と海岸近頃の低地である。西麓で は、遼河平原は遼河を隔てて遼西地区に向かい、低地は遼西回廊とともに遼東湾に向かう。東麓 では、低地と鴨緑江下流域平原は、朝鮮半島の西北地区と同じく、西朝鮮湾に向かっている。ま た、遼東半島の南端は渤海海峡を隔てて山東半島に対している。従って、本地区は遼西・山東半 島・西北朝鮮という三つの地区との交流があったことが予想される。先行研究(宮本1995)はお
もに土器の分析から地区間の関係を解明したが(表4-1)
、ここではそれらを基盤として、集落と 住居址の段階ごとの形態に基づき、本地区の特徴および、周辺地区とのの関係を解明したい。1新楽遺跡 2北呉屯遺跡 3後窪遺跡 4小珠山遺跡 5三堂村遺跡 6大潘家遺跡
図 4-1 遼東半 島集落遺跡分布
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第 1 節 各考古学文化の集落形態
遼東半島新石器時代の土器編年は
1980
年代から始まり(許玉林・許明網1982、小川(大貫)
1982、宮本 1985)
、1990年代に吉長(吉林・長春市)・遼寧・華北北部の三地域を含む編年(宮本
1995)
、2000年以降にはさらに詳細な編年(古澤2007、宮本 2014)が発表された。本章は、
宮本氏(2014)の編年に基づくと同時に、遼西地区の考古学文化系譜に参考しながら、遼東半島 新石器時代を三段階に区分した。第一段階は新楽期と小珠山下層期(7000-6000B.P.)、第二段階 は小珠山中層期と呉家村期(6000-5000B.P)、第三段階が偏堡期と小珠山上層期(5000-4000B.P.)
である(表
1)
。この三段階は遼西地域の趙宝溝・紅山・小河沿文化におおよそ対応している。表4-1 遼東半島編年表
(1)一段階 新楽遺跡
新楽遺跡は瀋陽市北陵区に位置し、
1973
年から現在まで、住居址30
棟が発見され、内19
棟の 住居址が報告されている。これらはすべて、長方形の半地下式住居址である。床面で出土した土 器が報告されている住居址は12
棟あり(瀋陽市文物管理事務所1978、 1985、 1990)
、土器の編 年に基づいて二期に分けられる。早期の住居址は、73F1、80F8、81F3、 81F5、 81F6
で、晩期の 住居址は83CDF1-4、 830六 F2、 870六 F4、78F2
である。これ以外の住居址は、その形態や分 布に基づくと、81F4、7、10、11が早期に、84CDF5-9、Fx、830六F1、880六 F5
が晩期に属 すると考えられる。早期の住居址は二つの炉(双炉)を持ち、晩期の住居址は単一の炉(単炉)で ある(図4-2)
。早期の住居址
9
棟は、二列に分けられる。一列目の80F8
と73F1
は東西に並び、二列目の住 居址7
棟(81F3・4・5・6・7・10・11)も同方向である。一列目の80F8 と 73F1
の面積はそれぞれ
90
㎡と23.92
㎡である。二列目は、住居址間の距離に基づいて二組に分けられ、一組には81F6・11・7・10、二組には 81F3・4・5
が該当する。一組では、81F6の面積が26.54
㎡である 以外は、住居址面積が不明であるが、図4-2
から見ると住居址間の面積は大差ない。二組では、81F3・4・5
の面積はそれぞれ72.38
㎡・17.16㎡・12.8㎡である。このように、二組の住居址間 には面積差が存在する。なお、最大面積の住居址80F8
は列外に位置している。晩期の住居址
15
棟は、最大面積の住居址78F2(95.46
㎡)を除き、東西両区に分けられる。新楽早期 新楽期
新楽晩期 小珠山下層 後窪下層 小珠山下層期 馬城子 小珠山中層 後窪上層 小珠山中層期
北呉屯上層 呉家村期
三堂村1期 偏堡期
大潘家村 小珠山上層期
5000-4000
遼河下流域 遼東半島 鴨緑江下流域 時期 分 布
編年(BP)
7000-6000 6000-5000
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西区の住居址は
10
棟あり(83CDF1-5、84CDF5-9、Fx)、東区の住居址は4
棟(870六F4、 88
0六
F5、830六 F1・2)ある。西区の住居址は、およそ東西方向に三列に並び、各列東端の住居
址はその列の最大面積を持つ。東区の住居址は二列に並び、一列の住居址は
1
棟、二列の住居址 は3
棟で、最大面積の住居址830六 F2(51.66
㎡)が中央に位置している。また、最大面積の住 居址78F2
は二つの区の間に位置するが、やや西区に近い(図4-2)
。図4-2 新楽遺跡 北呉屯遺跡
北呉屯遺跡は荘河市黒島鎮西陽宮村北呉屯に位置し、北呉屯下層に属する住居址
5
棟はすべて 円形である(図4-3)
。住居址の面積に基づき、大・中・小型という三類に分けられる。大型であ るF6
は52.78
㎡、中型のF4
とF8
はそれぞれ24.27
㎡と32.96
㎡、小型のF3
とF5
はそれぞ れ18.09
㎡と12.56
㎡である。また、F3がF4
を壊すという前後関係がみられるものの、住居址 の床面で出土した土器があまり報告されておらず、住居址の編年は困難である。また、部分的に しか発掘されておらず、住居址の並び方や集落形態も不明である。図4-3 北呉屯遺跡
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小珠山遺跡小珠山遺跡は大連市長海県広鹿島に位置し、中国社会科学院考古研究所が
2006、2008、2009
年、三回の発掘を行った(遼寧省博物館1981、社会科学院考古研究所 2009、 2010)。小珠山下層
期に属する住居址は10
基で、それらの形態は主に方形で、部分的に円形がある。また、それらは 列状に並んでおり、一列目5
基、二列目3
基、三列目2
基である。後窪遺跡
後窪遺跡は丹東市東溝県馬家店鎮三家子村後窪屯に位置し、後窪下層に属する住居址
31
基が ある。そのうち、方形大型住居址が5
基(60㎡左右)、円形小型住居址が26
基(20㎡左右)あ る(許玉林・傅仁義1989)。住居址間の切り合い関係があるという報告があるが、住居址の配列
を含めた、集落形態の詳細は不明である。(2)二段階 北呉屯遺跡
北呉屯上層に属する住居址 3 基があり、すべて長方形である(遼寧省文物考古研究所
1994)
。 図4-3
のとおり、F2とF1
とF7
はそれぞれ50.56
㎡、17.43㎡、12.96㎡である。これらは、北 呉屯下層(第一段階)の大・小型に対応し、大型住居址 F2 は、下層の大型F6
と同様の位置にあ るが、部分的にしか発掘されていないため、住居址の並び方は不明瞭である。小珠山遺跡
小珠山遺跡では、小珠山中層に属する住居址
5
基が二列に並ぶ。一列目には3
基、二列目には2
基があり、住居址の形態は方形が主で、円形のものもある。後窪遺跡
後窪遺跡で後窪上層に属する遺構は、住居址
12
基、大型住居址5
基(約48
㎡)、中型住居址4
基(30-35㎡)、小型住居址3
基(9-16㎡)である。住居址の並び方は不明。大型と小型住居址の 面積差は北呉屯上層と似ているが、北呉屯遺跡には中型住居址がない。(3)三段階 三堂村遺跡
三堂村遺跡は長興島三堂卿に位置する。三堂村一期に属する遺構は、住居址
3
基、ピット9
点、子供墓
2
基であり、これらの遺構が20×20mの発掘区に分布している(遼寧省文物考古研究所
1992)
。住居址の形態はすべて楕円形、面積は10
㎡以下である。また、墓の方向と住居址の門向は対面する。ピットの分布は不明である。遺構の種類と分布状況が大潘家遺跡と似ており、集落 形態も同様の可能性がある。
大潘家遺跡
大潘家遺跡は大連市旅順口区江西鎮大潘家村に位置し、住居址7基、ピット
7
点、小児墓1
基- 74 -
から成る。住居址は、F1 が二空間に区分される以 外は、すべて単間楕円形で、
面積は
10
㎡以下である(図4-4)
。ピットは住居址と同 じ空間に分布し、両者の組 み合わせがみられる。住居 址の並び方について、発掘 された住居址が西北-東南 方向であるが、この段階に集落形態がはっきりと言 えない。
図4-4 大潘家遺跡
(4)集落形態のモデル
以上で扱った集落 の住居址の面積を、
遼西地区の基準(ア 類が
80
㎡以上、イ類 が50-80
㎡、ウ類が20-50
㎡、エ類が20
㎡以下)に従って分 類した(図
4-5)
。ア 類は新楽早・晩期(新 楽1・2)に各 1
棟が あり、北呉屯下・上層 ではおもにイ・ウ・エ 類で、大潘家遺跡は すべてエ類であった。従って、時期が下る
に つ れ て 、
図4-5 遼東半島住居址面積分類 住居址の面積は段々 小さくなることがわかる。
0 2 4 6 8 10 12
0 2 4 6 8 10 12
新楽1 新楽2 北呉屯下層 北呉屯上層 大潘家
50-80㎡
幅
(m
)
80㎡以上
20-50㎡
20㎡以下
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以上に基づき、遼東半島の集落形態は以下のように纏められる。新楽早期は幾つかの居住組で 構成された居住列、居住列外にア類
1
棟があり、遼西地区の趙宝溝文化晩期の集落形態と似てい る。新楽晩期は幾つかの居住列と、居住列外のア類 1 棟で構成され、遼西地区の紅山文化-白音長 汗遺跡の集落形態と類似する(図4-6)
。北呉屯下・上層の集落形態は不明であるが、住居址の形 態は円形あるいは楕円形から長方形へ変化する。大潘家遺跡はすべて楕円形のエ類が並び方不明、住居址とピットがセットになっている(図
4-4)
。図4-6 新楽文化の集落形態モデル
第 2 節 各考古学文化の居住単位
(1)一段階
新楽早期の住居址床面で出土した遺物の分布図は報告されていないが、各住居址の遺物の種類 と数量はおおよそわかる。73F1には細石器刃石器
120
点・打製石器36
点・磨製石器78
点・土 器189
点・煤精97
点がある。一方、81F3・4・5・6
の計4
棟では併せて、細石器刃石器128
点・打製石器
120
点・磨製石器76
点・土器381
点・煤精72
点が出土したと報告された。平均すると 各住居址は、細石器刃石器32
点・打製石器30
点・磨製石器19
点・土器95
点・煤精18
点を持 つことになる。この数量は、一つ以上の消費単位に所産と考えられる。各住居址の居住単位は、遼西地区における興隆窪文化、趙宝溝文化早期と似ていると考えられる。
新楽晩期について、大貫氏(1998)は、使用状況を反映していると考えられる火災住居址
78F2
床面の遺物分布を分析し、手前(東側)が作業・貯蔵空間、奥(西側)が食事場所を含めた居住空 間とした。また、最大級の住居址が、権威の象徴のような鳥形木彫を持つために、78F2
(図4-7)
は集落の指導者及びその家族が居住していたかもしれないと指摘した。西側ではおもに土器(17 点)と磨盤・磨棒(2セット以上)があるため、食事を含めた居住空間と判断できるが、東側でも 土器(13点)と磨盤・磨棒(1セット)が出土しており、西側と同じく、食物加工や貯蔵の空間 と考えられる。同時に、東側では、細石器刃石器(300点以上)、穀物(キビ)、磨製石器・骨器が それぞれ中部・中南部・南部に分布するので、多様な種類の作業場であったことが予想される。