第7章 黒龍江地区における新石器時代の墓
第2節 各地域の墓地変遷
(1) 嫩江流域の墓地
靶山墓地(吉林省文物考古研究所
1988)は吉林省白城市西郊のトウル河流域に位置し、白城・
通遼地区に位置する。ただし、埋葬形態と副葬品の種類から見ると、黒龍江地区と類似するため、
嫩江流域の墓地と同様に分析したい。墓は
5
基ある(図7-8)
。M5
を中心として、半円形で並び、すべて長方形土壙墓、伸展葬である。
M1
は成年女性2
体と小児2
体の合葬墓、M2
とM3
はすべ て成年女性墓、M4
は青年男性と未成年者の合葬墓、M5
は成年男性墓である。副葬品は主に細石 刃石器、骨器、蚌器、植刃器である。植刃器4
点は、M5で1
点、M4でも1
点、M1では2
点が 副葬されていた。M5とM4
の被葬者は男性で、女性墓であるM2
とM3
は植刃器が副葬されな い。従って、植刃器の副葬の有無は性差に基づくと考えられる。同様な区別は、シベリアでも認 められるという(小畑2001)
。M1の植刃器2
点については、3
体並ぶ成人の内、中央に埋葬され た成人の右側に1
点。もう1
点が3
体の下、東南部の小児の頭上に副葬されていた。スクレーパ ーも、植刃器を持つ2
体に副葬されていたが、蚌管珠を繋いだ項飾は、ほかの2
体の頸部に副葬 されていた。スクレーパー、植刃器と、蚌管珠は排他的に副葬されていたことからすると、M1 は成年男・女と小児2
体の合葬墓と考えられる。この場合、小児における性差も反映されている ようである(図7-9)
。昂昂渓遺跡(梁思永
1959)が位置する嫩江中流域は湿地であり、遺跡は砂丘に散布する。梁思
永とルカシュキン氏は第3
砂丘で墓4
基、第4
砂丘で墓1
基を発見したが、第3
砂丘の墓2
基だ けが報告されている。墓2
基は攪乱されているため、墓壙と性別と埋葬形態が不明である。副葬 品は主に石鏃、骨器、土器、植刃器である。二克浅遺跡(安路・賈偉明
1986)は墓 1
基(M6)、土壙墓、伸展葬である。副葬品は石鏃3
点 と骨器4
点である。- 121 -
図7-8 靶山墓地平面図 図7-9 靶山墓地M1
李家崗遺跡(杜爾伯特蒙古族自治県博物館
1991)には墓 2
基(M1、2)があり、すべて土壙墓、
伸展葬である。墓
2
基は東西に並んで、3m隔たっている。 M2
は単人葬、頭は西向きで、M1(図7-10)は四人合葬墓、すべての頭位は東に向いている。つまり、両墓の被葬者の頭は互いに向き
合っているのである。M1
には成人3
体、小児1
体がある。M2
は壊されたため、副葬品がみられ ない。M1
の副葬品の種類と位置は図7-9
のようになる。骨匕と玉璧は各人にすべて副葬され、植 刃器は成人すべて副葬されている。また、骨匕と玉璧の埋葬位置はそれぞれ左手と肩部、小児の 玉璧1
点は腰部に位置し、植刃器の埋葬位置は手の附近に存在する。なお、そのうち、中部の二 人がでは右手に、南部の一人が左手に植刃器を副葬する。イノシシ牙飾は中部の二人の頸部に副 葬されている。北から2
番目の被葬者には、大型玉璧・半球形玉器・骨簪・イノシシ上顎が、北 から四番目の被葬者には石斧・石鏃がそれぞれ副葬されていた。これらのうち、大型玉璧と半球 形玉器の埋葬位置は、先の小児の玉璧と似て、腰部に副葬され、束髪器としての骨簪が頭上に副 葬されている。石斧と石鏃の埋葬位置は右手近くに副葬されている。以上から見ると、両手でそ れぞれ植刃器と骨匕を持って、腰や肩部に玉璧を付けているという組み合わせが基本的な器具で あり、時折、頸・頭部に装身具を付けていると考えられる。滕家崗墓地(馬利民等
2005)では墓 2
基が発見され、94ATM1は成年女性の伸展葬、副葬品には玉璧
2、イノシシ牙飾 2、骨錐 1、石鏃 2
点がある。97ATM1
は壊されたため、性別と副葬品- 122 -
が不明である。94ATM1の副葬品の種類では、李家崗の
M1
と類似しているが、植刃器が副葬さ れていない。これは、靶山墓地と同じように、男性にだけ植刃器が副葬されていたと考えられる。墓
2
基とも墓坑の埋土はすべて、赤色土であった。図7-10 李家崗墓地M1
(2)三江平原の墓地
新開流墓地(黒龍江省文物考古工作隊
1979)では墓 32
基がある(図7-11)
。墓形態には長方 形と円形土壙墓、埋葬形態には伸展葬と屈葬と二次葬、埋葬方法には単人葬と多人葬がある。そ のうち、単人葬と多人合葬墓は常にセットとして出現し、多人合葬墓の埋葬形態は主に二次葬で ある。副葬品は主に細石刃石器、骨器、土器、植刃器である。他には墓地の中に魚を保存するた めの貯蔵穴数基があり、穴の中からは大量の魚骨が発見された。前の石鏃に関する分析、土器編年(大貫
2011)および墓の切り合い関係に基づき、早・晩期に分けられる。早期の墓向は西北に
向き、晩期の墓は東を向く。表
7-3
の通り、早期の墓は9
基があり、M27以外はすべて墓2
基ず つで分布して、毎組に一次葬と二次葬の墓1
基があり、一次葬の被葬者はすべて成年男性である。M25
とM13
以外の墓は東北-西南に並び、中央のM3
の副葬品数(35点)が一番多い(図7-12)
。晩期の墓は10
基があり、早期と同じように各組に一次葬と二次葬が含まれ(M28 とM19
以外)、一次葬の被葬者はすべて成年男性である。図7-11
から見ると、M6
を中心として半円形で 並んでいる。これは靶山墓地と似た並びである。副葬品は中心位置のM6(100
点)が一番多い(図
7-13)。一次葬は主に豊富な副葬品を持つ成年男性墓で、二次葬は双人葬と多人葬に分けら
れ、双人葬は成年男性と未成年者が合葬され、多人葬は成年男女ともに含まれている。なお、成 年男女の合葬墓は発見されていない。
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図7-11 新 開 流 墓 地 編 年図
図7-12 新開流墓地M3 図7-13 新開流墓地M6
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倭肯哈達墓地(東北博物館
1954)は洞窟墓である。洞窟墓は天然の石壁を利用しつつ、大型石
板で構築した、長さ12m・幅 1.1-1.5m・高さ 2mの建物である。居住址として使用、廃棄後に埋
葬施設として利用したものとして、報告されている。入口から後壁まで、洞口人骨、中部人骨、第一号人骨、第二号人骨という
4
体が石板地面に埋葬されていた。また、後壁では人骨1
体以外 に成人と小児の下顎骨各1
点が発見され、第一・二号人骨の埋葬形態は蹲踞葬である(図7-14)
。 毎人骨の周辺に幾つかの玉器が副葬され、第二号人骨の腰部には、有孔骨板30
点余りを繋げる装 飾品が副葬されていた。小南山墓地(佳木斯市文物管理站など
1996)では双人合葬土壙墓 1
基が発見され、墓底に5
㎝ 厚さの紅土が敷かれていた。副葬品は石器56
点(石鏃39
点、他17
点)、玉器66
点(玉環・璧46
点、珠玦11
点、他9
点)、骨器4
点である。玉斧が身長の高い方の人骨の胸に、玉簪が低い方 の頭上に副葬されており、成年男・女の合葬墓と判断されている。ほかの玉器は主に身長の高い 方の人骨の周辺にあり、石鏃は足下から発見された。墓坑底部の埋土は赤色土である。図7-14 倭肯哈達洞窟墓 図7-15 章毛勿素墓地M1
(3)フルンボイル盟の墓地
フルンボイル盟では団結学校・団結村・烏朱爾という三つの墓地が発見され、団結学校と烏朱 爾墓地では、それぞれ墓
1
基が発見され、団結村で採集した遺物と墓間の対応関係は不明である。団結学校墓地(王成
1996)の成年男性墓 1
基については、埋葬形態が不明である。副葬品は植 刃器1
点・石鏃79
点ある。- 125 -
団結村墓地(中国社会科学院考古研究所内蒙古工作隊
2001)の墓は攪乱されており、包含層で
人骨、石鏃、植刃器、玉器が発見された。団結村墓地では弧辺凹三角低石鏃BcⅢが副葬されてい
たが、同様のものが、ウランチャブ盟商都県の章毛勿素遺跡の墓1
基(内蒙古文物考古研究所など
1994)で発見された。章毛勿素遺跡の墓は、4
人が合葬された楕円形土壙墓であり、副葬品は骨針・骨針筒・石鏃・細石器刃石器・頭蓋骨制鉢である。図
7-15
の左から順に、一・二・三・四 号人骨とすると、三号人骨以外では、各人骨に骨針筒・骨針・石鏃・細石刃石器1
点が伴う。三 号人骨の頭上には、頭蓋骨制鉢と細石刃石器130
点余が副葬されていた。骨針筒・骨針との相関 作業、細石刃石器を作るという二種類の作業間に性別差があれば、合葬された被葬者は、成年男 性1
人と女性3
人であるかもしれない。烏朱爾墓地(王成
1988)では攪乱された土壙墓 1
基が発見されたが、性別と埋葬形態は不明で ある。副葬品は細石刃石器55
点、石鏃148
点、植刃器3
点、骨器52
点である。墓坑底部の埋土 は赤色土である。
ドキュメント内
中国東北地方の新石器時代における社会形態変遷の 研究
(ページ 132-137)