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河上丈太郎の信仰と思想形成についての一考察 : 関西学院教授時代

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河上丈太郎の信仰と思想形成についての一考察 :

関西学院教授時代

著者

中村 和光

雑誌名

関西学院史紀要

21

ページ

35-76

発行年

2015-03-15

URL

http://hdl.handle.net/10236/13027

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一  はじめに   河上丈太郎は、一九二八︵昭和三︶年二月におこなわれた第一回普通選挙で衆議院議員に当選 して以来、十五年戦争の時期を経て一九六五年に至るまで、社会正義の実現をめざし、社会民主 主義を掲げて闘った政治家であり、日本社会党のリー ダ ーとして﹁十字架委員長﹂とも呼 ば れた 人 物 で あ る。 彼 は、 ﹁ 党 派 を 超 え て 信 頼 さ れ た、 誠 実 な ク リ ス チ ャ ン 政 治 家 ﹂ で あ っ た と 評 さ れ るのが常であり、その政治活動はキリスト教信仰に根ざしていた。   筆者は、二〇一三年四月に神戸で﹁河上民雄記念会﹂がもたれた際、その準備にあたった。河 上民 雄 は河上丈太郎の子息で、衆議院議員を七期二十年務めた人物であるが、日本基督教団神戸 栄 光 教 会 の 教 会 員 で あ っ た 時 期 が あ り、 筆 者 が 長 年 勤 務 し た 神 戸 Y M C A の 評 議 員 で も あ っ た。 教会と神戸 YM C A の双方に関係しているということから、記念会の準備にあたるよう要請され たのである。その準備のために河上民雄の著作を読み、そこに書かれた河上丈太郎について、は

察 

  

∼関西学院教授時代∼

中村

和光

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じめて深く知ることになった。そこで発見したのは、近代日本の激動の中で、歩むべき道を正そ うと叫び続けた一人の政治家の姿であった。 そこには、 今日の日本のキリスト教会が失ってしまっ た何かがあるのではないかという思いから、河上丈太郎について研究してみようと考えるに至っ たのである。   河上丈太郎に 焦点をあてた先行研究としては、福永文夫に よる﹃河上丈太郎日記 ﹄ がある。こ れは、戦後の一九四五年から一九六五年にかけてのメモを翻刻したものである。戦前の河上につ いては、大阪労働学校や神戸労働学校、政治研究会に関連して幾つかの資料に名前が挙がってい るが、どのように関与したか、その詳細は明かにされていない。子息である河上民雄による論評 は、いずれも貴重なものであるが、伝記的なエッセイとしての性格が強い。丈太郎の父新太郎に ついては、文屋敬に よる研 究 があるが、新太郎の日記の翻刻を通して﹁明治期に おける東京下町 のある平信徒の信仰﹂ を明らかにしようとするもので、 河上丈太郎について考察したものではない。   研究資料は、 本人の手によるものとして、 演説数点、 論文二点、 新聞に連載した﹁私の履歴書﹂ がある。他に、関西学院の﹁禮拝日記﹂として記録された説教メモ、学生新聞に寄せた論壇記事 が残されている。 講演については、 日時と演題が分かる程度である。 日本社会党機関紙局発行の ﹃河 上丈太郎 : 十字架委員長の人と生涯 ﹄ は、没後一年の記念誌であるため断片的なエピソードの域 にとどまってはいるが、河上に関するもっとも幅広い資料である。   本 稿 で は 紙 数 の 関 係 か ら、 河 上 丈 太 郎 自 身 が 最 も 影 響 を 受 け た と い う 内 村 鑑 三、 新 渡 戸 稲 造、 高野岩三郎、そして父新太郎については、あえて触れない。河上の関西学院在任中の十年間に限 定し、赴任にあたっての使命感及び普通選挙立候補に 至る信仰と思想形成に ついて考察すること

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としたい。 二  使命感を抱いての関西学院赴任   河 上 丈 太 郎 は、 一 九 一 五︵ 大 正 四 ︶ 年 三 月 に 東 京 帝 国 大 学 法 科 大 学 政 治 学 科 を 卒 業 し て い る。 文官高等試験に合格して、大学の先輩から農商務省に誘われ、立教中学の先輩から朝鮮総督府へ の就職を斡旋されたが、いずれも断って立教大学講師となって法学通論などを教えた 。   大学卒業三年後の関西学院への赴任は、まったく偶然のきっかけから起こった。立教大学の卒 業謝恩パーティで同席した外岡︵そとおか︶松五 郎 から、懇願されたためであった。外岡は、一 緒に関西学院に赴任するはずであった友人が他に就職したため、穴埋めに困っていた。河上は一 晩 考 え た す え、 ﹁ 若 い う ち に 東 京 を 離 れ て 暮 ら し て み る の も い い 経 験 ﹂、 ﹁ 関 西 学 院 は 立 教 と 同 じ ミッション・スクールでもある﹂と、承諾している 。 こうして、一九一八︵大正七︶年四月、河 上は関西学院に赴任している。このとき河上は二十九歳であり、その後関西学院で十年間教鞭を とり、衆議院議員になってからも生涯この神戸を選挙地盤とすることになる。   関西学院に赴任したとき、河上の心境はどのようなものであっただろうか。三宮駅に降り立っ た 河 上 は、 ﹁ 駅 や 町 並 み の み す ぼ ら し さ に あ き れ、 ち ょ っ ぴ り 都 落 ち の 悲 哀 を 感 じ た ﹂ と 回 想 し て い る。 文 学 部 長 ア ー ム ス ト ロ ン グ と の 対 面 で は、 次 の よ う に 述 べ た と い う。 ﹁ 米 国 は 多 く の 人 間と財力を投じて、日本の教化のために つくしている。私の父もそれに感激している一人だ。私 はあなた方の、日本を教化する仕事を援助するためにここへきたのであって、決してあなたに雇

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われるためにきたのではない﹂ 。    ま た 河 上 は ミ ッ シ ョ ン・ ス ク ー ル の 意 義 に つ い て、 次 の よ う に 述 べ て い る。 ﹁ 私 は 官 学 の 出 身 者 で あ り ま す が、 私 学 の 意 義 を 高 く 評 価 し て い ま し た。 mission school の 日 本 文 化 に 対 す る 意 義 ― 基督教の教育の日本社会に於ける価値を強く意識していたものであります。私は色々と他に就 職の勧誘もありましたが、これを断り立教大学、明治学院の講師をしていましたのも、こんな理 由によるものであります。 ﹂   河上は関西学院赴任の一年後に平岩末子と結婚するが、結婚式の前夜、将来リンカーンのよう な政治家になることを夢見ていると打ち明ける。このとき﹁政治家とは国民の公僕である ば かり でなく、民衆の教育者であるはずだ。だから精神的には関西学院に赴任したことで僕の理想の第 一歩を踏み出したつもりだ ﹂ と語ったという。   関西学院への赴任を偶然のことのように語るのは、河上らしい含羞の表現にすぎない。河上に とって関西学院赴任は、宣教師のような強い使命感によるものであり、ミッション・スクールの 意義を高く評価し、民衆の教育者たらんとした決断だったのである。   関西学院は、一八八九︵明治二二︶年に南メソ ヂ スト監督教会の宣教師 W ・ R ・ ランバスによっ て神戸市の東隣の原田村に創立された学校で、道一つ隔てた西隣りには一九〇三年に設立された 神戸高等商業学校︵神戸大学の前身︶があった。一九一〇︵明治四三︶年五月、関西学院の経営 にカナ ダ ・メソ ヂ スト教会が参加することになり、一九一二︵明治四五︶年四月には高等学部を 創設して商科三六名文科三名の入学者を迎えている。原田の森時代の関西学院はキリスト教色が きわめて濃厚であり、河上が赴任する前年の一九一七︵大正六︶年度の場合、高等学部学生八百

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名中百二十五名、中学部八百八名中百五十五名、中学部寮生四十三名中二十二名がキリスト者で あ っ た 。 河 上 が 赴 任 し た 頃 は、 神 学 部、 高 等 学 部︵ 文 科・ 商 科 ︶、 中 学 部 か ら な り、 商 科 と 中 学 部は盛況であったものの文科は少数であり、社会学科の専任教員は河上ただ一人にすぎなかった。   この頃の社会学科の苦しさを、一九二九年発行の﹃開校四十年記念関西学院史﹄は、以下のよ うに伝えている。 ﹁社会学科は、 当初基督教青年会、 地方青年団、 其他の社会教育団体の職員の養成、 職業紹介、労働調査等の事業に 携わるもの、若しくは操觚者として、新聞雑誌等に関係する者を 養成するため設置せられしものなれど、其学科目徒らに雑駁に過ぎて、政治経済科にも非ず、社 会問題の討究をこととするにも非ず、又商科に似て商科にも非ざる分科なりしが漸次学科内容の 整 備 ﹂ が お こ な わ れ た。 ま た、 河 上 の 奮 闘 ぶ り を 次 の よ う に 伝 え て い る。 ﹁ 大 正 七 年 四 月 学 院 に 入り、高等学部に於て国家学、憲法学を講ず。大正一〇年四月文商両学部成立後は、文学部付と なり、殊に社会学科の助長に 努む。彼はまた学生監として、学生等をして邪路に迷ふ事なからし めん事を期し、更にまた講演部顧問としても、熱心尽力して倦む所を知らず、日として、席煖ま る 處 な き 程 な り き。 ﹂ 社 会 学 科 が 最 初 の 卒 業 生 十 名 を 出 す の は、 赴 任 か ら 四 年 後 の 一 九 二 二︵ 大 正一一︶年のことであり 、 河上の苦労がたいへんなものであったことが想像できる。   一 九 二 一 年 に 関 西 学 院 に 赴 任 し、 東 北 帝 国 大 学 に 転 ず る ま で 五 年 間 同 僚 で あ っ た 新 明 正 道 は、 当時の河上について次のように記している。   ﹁ 河 上 さ ん の お 名 前 を 聞 い た の は、 私 が 赴 任 す る 直 前 恩 師 の 吉 野 作 造 先 生 の と こ ろ へ ご あ い さ つに伺った時のことで、先生からは河上さんは信頼に値する人だから赴任したらよろしく指導を お願いするがよいというお言葉があった︵中略︶社会学科の先生は河上さんと私の二人きり。私

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は政治学を主として社会学の講義も委嘱され、そのころ社会学について皆目知識がなかった私は にわか勉強で転手古舞いをさせられていたが、河上さんは憲法、民法、刑法等々、およそ法とい う名のつく科目を全部引受け、いま考えてみてもたしかに過剰の負担だったにかかわらず、一向 悲鳴はあげられず、結構余裕をもって楽しみながら講義をされていた様子であった。一九二二年 には新たに松沢兼人君がやって来て社会政策論を受持つことになり、そのうち阪本勝君も講師と して参加するようになり、社会学科も大分にぎやかになったが、河上さんが一切若い者のやるこ とに口出しをされないので、私たちは学内や学外で勝手なことを自由奔放に主張したり実行して いた ﹂   新明正道は、松沢兼人や阪本勝とともに吉野作造に師事して新人会で活躍し、関西学院時代に は大阪や神戸の労働学校の講師を務めた人物である。河上を含めてこの四人は、この時期から労 働 学 校 や 政 治 研 究 会 な ど に お い て、 ﹁ 関 西 学 院 教 授 グ ル ー プ ﹂ と し て リ ー ダ ー シ ッ プ を 発 揮 す る ようになる。のちに綜合社会学をうちたてて日本の社会学をリードしていく新明が、関西学院に 着任した当座は、にわか勉強で社会学を講義していたとは愉快なエピソードである。   ところで、河上は関西学院に赴任した時、懐かしい人物と再会している。立教中学時代の恩師 で、五年間のうち四年間学級担任であった野々村戒 三 である。野々村は、このとき関西学院の文 科長・中学部長となっていた。外岡から誘いを受けたとき、立教関係者でもあり、責任者でもあ る野々村の名前が挙がった可能性は大きい。河上自身は関西学院への赴任について、野々村に触 れないで偶然としか言わない。これは、のちに義兄となった野々村からの誘いであったと誤解さ れるのを避けようとしたからであろう。

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  野々村は大分県杵築生まれで、 一九〇一 ︵明治三四︶ 年に 東京帝国大学文科大学史学科を卒業し、 その翌年から母校立教中学の教師となった 。 河上が立教中学に 入学した頃、野々村はちょうどフ ランス革命前後を扱った三部作を、 ﹃十九世紀史﹄ として民友社から刊行した ば かりであった。 ヨー ロッパのキリスト教史を熱く語る青年教師は、少年丈太郎に大きな影響を与えたのである 。    河 上は 野 々村 と の再 会を 喜 び 、 の ちに そ の妻 敏 子か ら妹 で ある 平 岩末 子 を 紹介 さ れて 結婚 す る。 末子は、 日本メソ ヂ スト教会第二代監督であった平岩愃 保 の四女である。 なお、 末子の長姉は、 内ヶ 崎作三 郎 の妻である。   こ の 平 岩 末 子 と の 結 婚 は、 い か に も 型 破 り で あ り、 河 上 の 人 柄 を よ く 伝 え て い る。 末 子 は 山 梨英和女学院、東洋英和女学院に学んだのち、病める人々への奉仕を決意しロンドンの看護学校 に入学手続きをしたがリウマチのために断念、東京 Y W C A に幹事として勤務していた。二十六 歳 の 夏、 会 長 の 河 井 道 に 従 っ て 神 戸 女 学 院 で 開 催 さ れ た Y W C A の 修 養 会 に 出 席、 こ の と き 姉 の 野々村敏子から河上の話を聞かされた。河上は、恩師から結婚を勧められて当初は断ったものの、 再三にわたって勧められ、ついに意を決して末子に書状を送る。それをキッカケに文通が始まり、 意気投合する。結納などにお金を包むのは馬鹿らしいと考えた河上は、二銭で奉書紙を買って結 婚誓約文をしたため、平岩愃保のもとへ送ったという。こうして、一度も会わないまま婚約が成 立する。二人が出会ったのは、婚約後の正月休みに帰京したときが初めてである。   この見合いの直前に、河上から野々村敏子宛に 出された手 紙 が残っている。消印は︵大正︶七 年一二月三〇日、速達である。この手紙は、河上の両親に縁談を承諾してもらうために、正月二 日にお出でいただきたいと要請する内容である。平岩愃保は幕臣の家柄であり、下町の材木商の

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せがれとでは釣り合わないと心配する河上の両親を納得させるためであった。この手紙には、関 西 学 院 に 赴 任 し て 一 年、 多 く の 良 き 出 会 い が あ っ た こ と、 ﹁ 殊 に 奥 様 と は 心 お き な く 御 話 が 出 来 る事は随分うれしいこと﹂と書かれている。文面からは、恩師であり上司である野々村の妻と打 ち解けた関係にあることを、心から喜んでいる様子がうかがえる。   こ の 手 紙 で、 キ リ ス ト 教 信 仰 に つ い て、 河 上 は 次 の よ う に 触 れ て い る。 ﹁ ヒ ル テ ー と い ふ 人 は 大思想に生きよ   而して現代の大思想は基督教の形式に於ける神に対する信仰であると申してゐ ます。私はこの思想に生きてゐれ ば よいと信じてゐます。 ﹂   さ ら に 関 西 学 院 教 師 と し て の 使 命 感 に つ い て、 次 の よ う に 述 べ て い る。 ﹁ 私 の 講 義 な ど は 貧 弱 を通り越してゐます。然し私自身法律や経済そのものを教ゆるよりももっと深いもの高いものを 与へたいのです。それは学生の標準を高めたいといふ一念であります。学生の思想、学生の見識、 学生の生活、その他一切の標準を高めたいと存ずるのであります。若し私をしてこのことの幾分 で も 実 現 出 来 た な ら ば 、 私 の 学 校 に 対 す る 御 恩 返 し は 出 来 た 事 と な り ま す。 ﹂ 確 固 た る 思 想 や 見 識を学生に与えることこそ、自分の使命であると語る河上の言葉が、関西学院に赴任して一年足 らずの時期のものであることに注目しておきたい。   この手紙には、 ﹁私が東京に ゐるうちに 、 御妹様の事が一段落つくとよいと願ってゐます。祈っ て ゐ ま す。 ﹂ と い う 言 葉 が 続 い て い る。 そ こ に は、 関 西 学 院 で の 仕 事 を 神 か ら 与 え ら れ た 使 命 と 受 け と め、 末 子 と の 結 婚 を 神 の 導 き と 信 じ る、 河 上 の 真 情 が つ づ ら れ て い る。 こ う し て 河 上 は、 一九一九︵大正八︶年二月二四日、青山学院ハリス館で平岩末子と結婚式をあげる。関西学院赴 任の十一ヵ月後のことである。

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三  関西學院高等商學部 禮拝日記﹄か ら   関 西 學 院 高 等 商 學 部 で 授 業 が あ る 日 は 必 ず 守 ら れ て い た 礼 拝 の 記 録 ﹃ 禮 拝 日 記 ﹄ が 、 一 九 二 三 年 か ら 一 九 二 八 年 ま で 残 さ れ て い る 。 一 九 二 三 年 度 の 冒 頭 に は 、﹁ 恵 豊 カ ナ 天 光 ヲ 降 シ 、 学 院 商 科 七 百 ノ 霊 生 ヲ 、 培 ヒ 給 ハ ン コ ト ヲ ﹂ と 記 さ れ 、﹁ 記 者  那 須 生 平 、 中 沢 慶 之 助 ﹂ と の 署 名 が ある 。 こ の 記録によると、 ベーツ院長と神崎驥一部長がそれぞれ週一回、 残りの日は他の教 員が交代で説教している。ときには、遠来のゲストや近隣の牧師が担当することがあり、年に数 回は学生が担当している。   この﹃禮拝日記﹄は、 本人の原稿ではなく、 同僚教師によるメモである。しかし、 使命感をもっ て記録されており、かなり信頼のおける記録であると考えられる。   河上は、 一九二三年に 二回、 一九二五年に 三回、 一九二六年に二回、 一九二七年に 二回、 計九回、 説教を担当している。一九二三年一〇月三日︵水︶の聖書箇所は、マタイ福音書六章十八節﹁こ れ斷食することの人に顯れずして、隱れたるに在す汝の父にあらはれん爲なり。さら ば 隱れたる に 見 た ま ふ 汝 の 父 は 報 い 給 は ん。 ﹂ で あ る。 河 上 は フ ラ ン シ ス・ ブ レ ー ス の 言 葉﹁ 最 善 の 事 業 を 速 進 せ し め ん が た め、 静 か な る 力 に よ る。 ﹂ を 引 き、 ま た﹁ 福 沢 諭 吉 先 生 の 維 新 政 界 に 登 竜 門 を 求めずして、 新銭座の一隅に静かにウエーラントの経済史を講ぜしこと﹂ に言及している。そして、 ﹁建設は擾乱の間に成らず、最善の事業は静かなる力によりて速進さる。 ﹂として、教育には﹁國 家 國 民 し た が い て 全 世 界 の 光 明 の 動 力 の 秘 れ た る を 知 れ る 悦 び が あ る が ゆ え に ﹂、 ﹁ 吾 等 は ﹂﹁ 感 謝と希望とをもって之に努むる也﹂と述べている。ここで河上は、教育は地味で遠回 りに思える

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が、人材の育成を通して必ず社会の将来に希望をもたらすものであると、自らの信念を述べ、学 生たちを励ましている。   同年一〇月二十三日︵火︶には、ヨブ記一章十三∼二十二節によりヨブが全てを失った際の言 葉、 ﹁ 我 裸 に て 母 の 胎 を 出 た り、 又 裸 に て 彼 處 に 歸 ら ん。 ヱ ホ バ 與 へ ヱ ホ バ 取 た ま ふ な り、 ヱ ホ バ の 御 名 は 讚 べ き か な。 ﹂ を 引 い て、 説 教 し て い る。 関 東 大 震 災 に お い て 多 く の 人 が 焼 け 出 さ れ たが、 ﹁数日ならずして焼木をもってバラックを作り、 旧の職業にいそしんでいる﹂人がいた。 ﹁自 分はそこに、人間の強さ、神の強さを見出した。その生真面目なる人生の態度の中に﹃労働の神 聖﹄が働いている。自分の人生観も、享楽主義、資本主義に満足できず、あの神々しい知人の心 の中に大いなる光明を与えられた思いがする。 ﹂と述べている。   この二つの説教の一ヵ月前、九月一日に起こった関東大震災では、十万五千人余が死亡あるい は行方不明になった。河上は、この日の朝十一時頃、芝愛宕下の実家に帰省したところで震災に 遭遇している 。 震災後に 起こった火災に 追われて、一家は転々と避難し、古材木商であった父新 太郎は、 この震災ですべての財産を失っている。過酷な被災のなかにあっても、 父新太郎はかえっ て 深 く 信 仰 に 立 ち、 ﹁ 震 災 の と き は 丸 焼 け に な っ て、 實 印 一 つ 持 た ず 飛 び 出 し た 位 で あ る が、 地 震は却て私を幸福に した ﹂ と語っている。父のこうした姿や、いち早く立ち上げられた賀川豊彦 らの救援活動を見て、河上も深く期するところがあったに違いない。   一九二五年一一月一一日 ︵水︶ は、 傳道之書十二章十二節 ﹁多く學べ ば 體疲る﹂ からで百八十名。 ﹁ 人 生 の 事 業 に は 論 理 的 根 底 を 必 要 と す。 そ の 湧 出 の 基 礎 は 読 書 に あ り。 青 年 時 代 は 神 聖 に し て 純 な る 理 想 に 燃 ゆ る 時 代 な り。 こ の 時 代 に 培 わ れ た る 思 想 は、 よ く 一 生 支 配 す る 思 想 と な る。 ﹂

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青年期にあっては、 ﹁充分読書の趣味を体得し、 一生の支配する思想の根底に提えよ﹂ 。この年六月、 政治研究会神戸支部の結成にあたって、河上は支部長を引き受けている。初の普通選挙に備えて、 無産政党を準備する動きであった。社会のために働こうとするなら、熱い理想だけでは行き詰ま る、読書によって論理的な思想形成に努めなけれ ば ならないと、学生たちに説いているのである。   一九二六年九月二一日︵火︶には、マタイ十三章三十一∼三十三節からで二百八十名。 ﹁﹃天國 は一粒の芥種のごとし、人これを取りてその畑に播くときは、萬の種よりも小けれど、育ちては 他 の 野 菜 よ り も 大 く、 樹 と な り て、 空 の 鳥 き た り 其 の 枝 に 宿 る ほ ど な り ﹄ 、﹃ 天 國 は パ ン だ ね の ごとし、女これを取りて、三斗の粉の中に 入るれ ば 、ことごとく脹れいだすなり﹄と。これ、天 国の無限の発達、成長力を語るものなり。精神の発達、成長、助長機関たる学校にありて、無限 の発達、成長力を有し、かつ成長するものとならざるべからず。 ﹂   この年一月一五日に、河上は京都学連事件の関連で家宅捜索を受けている。警察から左翼教授 とみなされて、マークされるようになっていたのである。芥種のように、またパン種のようにき わめて小さなものであっても、やがて世を動かす大きな働きをなすものになるのだと学生たちに 説きつつ、自らを鼓舞しているように思える。   一九二七年四月二一日︵木︶は、マタイ六章二十二節以下で五百名。イエスの思想とその教義 は、 ﹁ 若 々 し さ と 熱 を も っ て 満 つ。 イ エ ス の 教 え を 社 会 的 の 立 場 に お い て 解 釈 し、 そ の 社 会 的 生 命の存在を闡明︵せんめい︶すること、現代青年の任務なり。諸君青年は、血をもって戦える若 きイエスの思想、宗教の中に若さと熱と純情の去らざる間に、速く入れ。 ﹂  この年三月に金融恐 慌が発生し、三菱・三井と並ぶ大商社に成長していた鈴木商店が四月五日に破綻している。間近

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となった初の普通選挙に打って出るかどうか、密かに思いめぐらしていた時期である。学生たち を激励しつつ、自らを叱咤している河上の心情が、ここにも表れている。   河 上 は、 神 戸 で は 日 本 メ ソ ヂ ス ト 関 西 学 院 教 会 に 出 席 し て い た が、 関 西 学 院 に 赴 任 し た 一 九 一 九 年 の 六 月 二 九 日、 こ の 教 会 の 主 日 礼 拝 で 説 教 し て い る 。 そ の 説 教 題 は﹁ 光 タ レ 塩 タ レ ﹂ であった。マタイ福音書五章十三∼十六節によって、世の光、地の塩として、それぞれに与えら れた使命を世に果たしていこうと説いたものと思われる。内面的な心の平安を求めるにとどまら ず、イエスにしたがって世のために働く者として生きるという信仰が、一貫して変わらなかった ことがうかがえる。   ところで不思議なことに、河上がいつどこで洗礼を受けたかは不明である。葬儀の式次第を確 認 し た が、 受 洗 日 は 記 載 さ れ て い な い。 ﹁ 丈 太 郎 が 受 洗 し た の は 二 十 才 の と き で あ っ た ﹂ と い う 記 述 が、 日 本 社 会 党 機 関 紙 局 発 行 の﹃ 河 上 丈 太 郎 字 架 委 員 長 の 人 と 生 涯 ﹄ に 残 さ れ て い る だ けである。二十歳といえ ば 、一高在学中であるが、数え年であれ ば 立教中学の五年生であった可 能性もある。教会は、父新太郎と同じ芝浸礼教会と思われる。芝浸礼教会は、関東大震災で全壊 している。子息の民雄が、丈太郎の洗礼について色々調べたが、分からずじまいであったという。 今回、河上家を通して、戦後ずっと教会員として礼拝に出席していた銀座教会の長山信夫牧師に 問い合わせたが、教会員原簿にはいつどの教会から転入会したか、受洗日はいつかなど、記載さ れるはずの事項が記載されていないとのことであった。関西学院時代は日本メソ ヂ スト関西学院 教 会 の 礼 拝 に 出 席 し て お り 、 戦 後 は 銀 座 教 会 の 教 会 員 で あ っ た が 、 一 九 三 二 年 に 東 京 に 引 き 揚 げ て か ら 、 一 九 四 五 年 戦 争 が 終 わ る ま で の 河 上 の 教 会 生 活 が 不 明 で あ り 、 今 後 の 調 査 が 課 題 で

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ある 。 四  森戸辰男   河上丈太郎は、一九一一︵明治四四︶年六月に一高を卒業し、九月に東京帝国大学法科大学政 治 学 科 に 進 ん だ 。 大 学 で の 四 年 間 、 河 上 は 高 野 岩 三 郎 の 下 で 学 業 に 専 念 し た 。﹁ 当 時 の 法 科 大 学 は 、 憲 法 論 に し ろ 何 に し ろ 官 吏 の 養 成 に 必 要 な 学 問 と い う 範 囲 を 出 な か っ た が 、 高 野 先 生 の ゾ ン バ ル ト の 輪 読 会 に 顔 を 出 し て 以 来 、 先 生 の 学 問 に 対 す る 態 度 に 強 く 魅 せ ら れ る よ う に な っ た 。 ︵ 中 略 ︶ 当時帝大にはまだ新人会もできず、 社会主義運動の動きもなかった。 ﹂ のちに ﹁民本主義﹂ を唱えて﹁大正デモクラシー﹂の旗頭となる吉野作造は、このころヨーロッパに留学して不在で あった 。   河 上 が 高 野 か ら 学 ん だ の は、 社 会 正 義 を 実 現 す る た め に は 理 想 を 掲 げ る だ け で は 限 界 が あ り、 政策提言していくためには社会調査など実証的アプローチが欠かせないということであった。高 野の学問的信念、リベラルな姿勢、温かい包容 力 は、河上のその後の生き方に 大きな影響を与え、 バックボーンともなった。   河 上 に と っ て、 社 会 科 学 へ の 学 問 の 師 が 高 野 岩 三 郎 で あ る と す る と、 教 育 者 へ の 道 を 先 導 し、 さ ら に 勞 働 學 校 か ら 政 治 活 動 へ と 誘 い 込 ん だ の は 森 戸 辰 男 で あ っ た。 森 戸 は、 一 八 八 八︵ 明 治 二一︶年福山に生まれ、一高では河上の一年先輩で、弁論部でも一緒であった。この頃の一高生 には新渡戸稲造に心服しその影響で内村鑑三の研究会に参加した者が多数出ているが、森戸もそ

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の一人で柏 会 のメンバーであった。   森戸は高野の一番弟子ともいうべき存在であり、河上が高野のもとで学ぶにあたっては、森戸 の勧めがあったと考えられる。河上が官途につかず私学の講師になることを選択したのも、助手 を務めながら学問に励む森戸の姿を好ましく思ったからであろう。   ﹁自分を理解してくれる相手と結婚して、摩耶山頂にでも庵を結んで二人で一緒に勉強したい。 そのわれわれの机の上の灯が長く遠く光って世の中を少しでもよくすることができたら、僕がこ の 世 に 生 ま れ て き た 目 的 は 達 し た の だ と 思 う ﹂。 と い う 言 葉 に も、 学 問 を 通 し て 世 の 人 々 の 役 に 立ちたいとの河上の思いが表れている。   森戸は二年間助手を務めたのち、東京帝国大学法科大学経済学科の助教授に就任する。経済学 部が独立した一九一九︵大正八︶年の暮れ、一二月末に経済学部の機関誌﹃経済學研究﹄が創刊 される。当時、新しい社会思想として注目されていたのが無政府主義とボルシェヴィズムであり、 創刊号に森戸が﹁クロポトキンの社会思想の研究﹂を、櫛田民蔵が﹁共産党宣言﹂の翻訳を掲載 して、この二大潮流を紹介しようとした 。 この論文が、事件を引き起こす。   森戸は、この論文の趣旨を以下のように説明している。 ﹁社会政策とか社会運動というものは、 人間の計画的な組織的な行動ですから、それには目標となる社会理念・社会像が必要であり︵中 略︶各人が権力の圧制がなく、資本の搾取がなく、また宗教的権威の拘束もなしに、自由な人間 として、共同生活の中に自由と福祉をたのしむことのできるような社会こそが、社会運動や社会 政 策 の 最 後 に 行 き つ く と こ ろ の 理 想 社 会 で あ る︵ 中 略 ︶ そ こ で 私 は、 ︵ 中 略 ︶ ク ロ ポ ト キ ン の 無 政 府 共 産 主 義 の 理 論 を、 社 会 理 想 の 一 つ の 形 態 と し て と り あ げ た ﹂。 森 戸 は、 究 極 の 理 想 と そ れ

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を実現する方法や道程とは、きびしく分けて考えなけれ ば ならないことをわきまえていた。事実、 論 文 の 結 び 近 く で 次 の よ う に 述 べ て い る。 ﹁ 社 会 理 想 と し て の 無 政 府 共 産 主 義 と、 実 行 方 針 と し ての無政府共産主義とは、之を区別して考へなけれ ば ならぬ。而して此の第二の点に関して、特 に無政府共産主義の欠陥が存して居るやうである。 ﹂   と こ ろ が、 無 政 府 主 義 も 共 産 主 義 も、 政 府 の き び し い 検 閲 と 弾 圧 の 下 で、 国 民 の 目 か ら 隠 さ れてきたものであった。ロシア革命によって現実に社会体制を変革する原理となった社会主義は、 政府の容認するものではなかった。発行された ば かりの﹃経済學研究﹄に、右翼学生団体、興国 同 志 会 が 非 難 の 声 を 上 げ た。 森 戸 の 論 文 は﹁ ﹃ 学 術 の 研 究 に 非 ず、 純 然 た る 無 政 府 主 義 の 宣 伝 ﹄ であり、このような﹃危険なる思想を掲載せる雑誌﹄を店頭に放置しているのは、まさしく当局 の怠慢ではないかと、内務省に迫り、この森戸を海外留学生︵一月一〇日出発予定︶に決定して い る 文 部 省、 東 大 当 局 の 態 度 を 攻 撃 ﹂ し た 。 こ う し て、 ﹃ 経 済 學 研 究 ﹄ は 回 収 処 分 の ち 発 売 禁 止 となった。経済学部教授会は、起訴を免れさせようとして休職処分を決議する。原敬首相︵法相 兼務︶は、 ﹁国家はデモクラシーと﹃新思想﹄に対し、 ﹃国家の根本﹄のため﹃此際断然たる処置 を取る﹄ ﹂ ことを決断、 一月一四日、 新聞紙法第四十二条の朝憲紊乱罪により、 森戸は編集人であっ た大内兵衛とともに起訴される。   こ れ を き っ か け に 東 大 新 人 会 が 森 戸 ら を 擁 護、 さ ら に 各 大 学 の 学 生 団 体 も 森 戸 を 擁 護 し 新 聞・ 雑誌も大きく取り上げ、言論界は大論争となった。裁判では主任弁護士に今村力三、特別弁護人 に三宅雪嶺、吉野作造、佐々木惣一、安部磯雄ら錚々たるメンバーが揃い、大審院まで行ったが、 一〇月二二日には上告は棄却され有罪が確定、森戸は禁錮三ヵ月罰金七十円、大内は禁錮一ヵ月

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罰金二十円で二年の執行猶予。こうして二人は失職し、森戸は巣鴨の独房で三ヵ月を過ごすこと になる。ちなみに﹁共産党宣言﹂を翻訳した櫛田民蔵は、要注意箇所を用心深く削除していたた め追及を受けることがなかった。   ﹁ 森 戸 事 件 ﹂ が 起 こ っ た の は、 河 上 が 関 西 学 院 で 二 度 目 の 冬 を 迎 え た と き で あ っ た。 こ の 事 件 の衝撃は、河上にとってどれほど大きかったことだろう。森戸は、一高入学以来の友人であるだ けでなく、高野岩三郎門下として共に学び、社会思想やキリスト教信仰についても相通じるとこ ろの多い存在であった。河上の眼に森戸は、職を賭してまで自らの信念を曲げず、ついに獄に囚 わ れ た 人 物 と し て 写 っ た は ず で あ り、 学 園 で 安 穏 に 暮 ら す 自 分 を こ れ で い い の か と 問 う 契 機 に なったことであろう。大学を追われて大原社会問題研究所に職を得、労働者に接しながら社会問 題に迫ろうとする森戸の姿は、河上にとってまぶしいものであっただろう。森戸自身が、この頃 を 次 の よ う に 振 り 返 っ て い る。 ﹁ 窮 極 の 社 会 理 想 を い よ い よ 高 く 掲 げ る だ け で な く、 そ の 理 想 を 実現して行く道程を、私自身がこの眼で見、この肌で感じて、生きた現実の人間と社会との中か らどのように探り出し、 打ち固めていくかという課題が、 私を強くとらえて離れがたいものとなっ た ﹂   晩 年 の 森 戸 は、 ﹁ 家 永 教 科 書 裁 判 ﹂ に お い て 国 側 証 人 と な っ た ほ か、 中 央 教 育 審 議 会 の 会 長 と して﹁期待される人間像﹂を答申するなど、自民党寄りの文部行政を推進した。そのため、野党 のリー ダ ーであった河上との関係の近さが言及されることはなかった。しかし、以下のように多 くの点で、河上は森戸とは深い信頼関係で結 ば れていたと考えることができる。①一高入学時の 入寮の記述で、一番に 森戸の名前を挙げていること 、 ②一高弁論部の一年先輩であること、③共

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に高野岩三郎門下生であること、④大阪勞働學校や神戸勞働學校で共に教えていること、⑤河上 の末の妹栄子が、関西学院の教え子である永江一夫と恋仲になった時、森戸が仲人役を買って出 ていること 、 ⑥第一回普選の際、森戸が応援演説したのは大山郁夫、藤森成吉と河上の三人だけ であ るこ と 、 ⑦二度目の選挙で惜敗し苦境に あったとき、森戸の呼びかけで﹁宕麓会﹂を作り河 上をサポートしていること 、 ⑧一九三一年暮れに 神戸から引き上げたとき、引っ越し荷物を出し た後河上一家が泊まったのは芦屋の森戸宅であること 、 ⑨戦後、参議院選挙に 出馬するよう河上 が森戸を口説いたと、美村貞夫が証言していること 、 ⑩初当選の一年後に 森戸が文部大臣に 就任 したのは、追放中の河上の名代としてであったと考えられること。   一 九 二 二︵ 大 正 一 一 ︶ 年 六 月、 大 阪 勞 働 學 校 開 設 に あ た っ て 河 上 が 講 師 を 務 め た の は、 森 戸 からの要請による。もちろん、一年前に関西学院に着任していた新明正道から、新人会時代の仲 間である勞働學校主事の松沢兼人に推薦があったであろうし、賀川豊彦からの推薦も考えられる。 しかし、看板講師である森戸との信頼関係が基礎となっていたことを無視することはできない。   河上が思想的に影響を受けたのは誰かという点に関しては、本人自身が内村鑑三、新渡戸稲造、 高野岩三郎の三人から、それぞれキリスト教、人格主義、社会科学を教えられた、だが一番影響 を与えたのは父新太郎であると述べており 、 これが定説となっている。しかし、同世代の人物に ついては、あえて言及しなかったのではないかと思われる。   す な わ ち、 五 十 年 以 上 の 友 人 で あ る 森 戸 辰 男 か ら 相 当 な 影 響 を 受 け て い る と い う こ と で あ る。 晩年に なって森戸が自民党寄りとなったため、誤解を避けて言及しなかっただけではないか。上 記の四人に加えて、森戸辰男を加えなけれ ば 、河上の歩みはとうてい理解出来ないと考えるので

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ある。河上は少年の頃から政治家として一身を捧げたいと夢見ながらも、自分のように﹁腰の弱 い、性格の弱いものはだめだ ﹂ と考えていた。そんな河上がついに 政治の世界に 踏み出すに 至る のは、旧制高校以来の友人である森戸が社会科学研究によって獄につながれ、なおも志を持ち続 けて労働問題の研究に取り組む姿を見たからである。森戸の苦闘する姿を見て、友情に熱い河上 の心が揺さぶられ、預言者のような使命感が燃えて、穏やかな生活を続けることを許さなかった と考えることができる。 五  賀川豊彦と大阪勞働學校   河上丈太郎が関西学院に赴任したのは、一九一八︵大正七︶年四月だが、その年の夏に米騒動 が起こっている。 ﹃日本勞働年鑑 ﹄ によれ ば 、物価指数は一九一四︵大正三︶年を一〇〇とすると、 以後毎年一〇三、 一四四、 一七九、 二三〇と急騰している。しかし、賃金の上昇が抑えられたため、 実 質 賃 金 指 数 は、 九 七、 七 四、 七 一、 六 八 と 急 速 に 低 下 し て い る。 未 曾 有 の 戦 争 景 気 で、 に わ か 成 金が輩出する一方で、民衆は生活難に見舞われていたのである。特に注目すべきは米価の動きで、 せいぜい一升十四銭から二十銭程度であった米が三倍以上に値上がりして、一升五十銭に暴騰し た 。 これが引き金に なって富山県下に 米騒動が起こり、全国に 波及したのである。神戸では、三 菱・三井と並ぶ大商社に 成長した鈴木商店の本店が焼き討ちされ 、 河上に とっても大きな衝撃で あったと思われる。   賀川豊彦の﹃死線を越えて﹄が改造社から出版されてベストセラーになるのは、一九二〇︵大

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正九︶年のことである。この年、一〇月一五日に、関西学院では C ・ J ・ L ・ベーツが第四代院 長に就任している。ベーツは、賀川の新川での働きを高く評価して、たびたび賀川を礼拝や講演 の講師に招いており、河上も賀川に何度も会っている。当時、原田の森にあった関西学院と、賀 川の活動拠点であった新川とは、徒歩で三十分ほどの近さであった。   一九二一年︵大正一〇︶年五月二六日から二八日まで三日連続で行われた賀川の学内講演会の ポスターが、関西学院に残されている。これを見ると、実物大の右手が大きくイラストで描かれ、 上方に﹁人その友の爲に己の命を損︵す︶つる、これより大なる愛はなし﹂とのヨハネ 15章 13節 の 言 葉 が 掲 げ ら れ て い る。 そ し て、 右 下 に 枠 囲 み で 以 下 の 注 意 書 き が あ る。 ﹁ 1 . 五 指 の 中 へ 友 の名を記されよ、 2 .友の属せる部及学級を明記せられよ、 3 .片腕運動会合の時には友と共に 出席せられよ、 4 .五指の友は学院内にて選 ば れよ ﹂   このポスターから講演は、イエスにならって、互いに友のために命をささげるような、深い愛 と友情に包まれた関係に生きようと呼びかけるものだったと思われる。この賀川の講演は、学生 だけでなく河上の心にも深く響いたはずである。   不 思 議 な こ と に、 賀 川 が 世 に 出 る 前 に 、 河 上 は 彼 の 原 稿 を 読 ん で い た と い う。 ﹁ 賀 川 さ ん が 有 名になるキッカケを作った﹃貧民心理の研究﹄は私の友人福永一良君の実父が経営していた警醒 社から出版された。当時、大学生だった私は、印刷前の原稿を福永君から見せられ﹃これは偉い 人 が い る ﹄ と 感 心 し た も の だ っ た。 ﹂ 賀 川 は 一 八 八 八 年 生 ま れ で 河 上 の 一 歳 年 長 で あ り、 ほ ぼ 同 時代を生きたキリスト者であった。   ところで、この学内講演の初日、五月二六日に消費組合の先駆けである灘購買組合︵コープこ

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うべの前身︶が住吉村で設立され、賀川は顧問に就任している。川崎・三菱造船所の大争議が起 こ る の は、 こ の 翌 月 の こ と で あ る。 こ の 争 議 は、 ﹁ 三 万 人 の 労 働 者 た ち が、 賃 上 げ と 労 働 組 合 の 公認などを要求して、 四十五日間の長期にわたって、 全神戸を血と脂でそめた大争議であった。 ︵中 略︶一時は神戸全市がゼ ネスト前夜の様相となり、争議団の﹃工場管理宣言﹄をめぐって、軍隊 ま で 出 動 す る と い う 切 迫 し た 事 態 に ま で 発 展 し た。 ﹂ 指 導 部 の 一 斉 検 挙、 流 血 の 衝 突 の の ち、 工 場は操業を再開し、争議団は﹁惨敗宣言﹂を発して、ストライキは幕を閉じる。このとき、賀川 豊 彦 は﹁ 神 戸 連 合 会、 関 西 労 働 同 盟 会 の 理 論 的・ 実 践 的 指 導 者 と し て、 ︵ 中 略 ︶ ギ ル ド 社 会 主 義 の立場から、工場管理や工場委員会、あるいは議会制度をつうじて、着実な社会主義に移行する 方 向 を 主 張 し た。 ﹂ し か し、 直 接 行 動 主 義 を と な え る サ ン ジ カ リ ズ ム の 思 想 が 関 西 の 労 働 運 動 に も波及し、争議で会社の懐柔と官憲の弾圧の前に手痛い敗北を経験した労働者たちは、賀川に激 しく反発するようになる。   河上は、関西学院の教授として学生の面倒をよく見たので、学生から父親のように慕われてい た。時代の流れに敏感で、新しい思想を学生に注入し、進歩的な姿勢をとっていた。しかし、そ の活動はあくまで学内関係に留まっていて、積極的に外の舞台に立つことはなかった。そんな河 上 が、 学 外 の 社 会 主 義 運 動 に 関 係 す る の は、 関 西 学 院 に 赴 任 し て 四 年 後 の 一 九 二 二︵ 大 正 一 一 ︶ 年六月、大阪勞働學校がスタートしてからである 。    そもそも勞働學校は、鈴木文治がユニテリアン教會の幹事であったとき、同教會内に人事相談 所 お よ び 勞 働 者 倶 楽 部 と 並 立 し て、 一 九 一 二︵ 明 治 四 五 ︶ 年 一 月、 ﹁ 通 俗 講 話 會 ﹂ を 設 立 し た こ とに 始まる 。 そこでは﹁種々の餘興を取揃へて大衆の興味を呼び、且つは慰安の一助として傍ら

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學者・教育家・宗教家・ 會事業家等に依嘱して、一般民衆の常識の修養啓蒙に資するに足る講 話會﹂が催された。この講話會をきっかけにして、その年の八月、友愛会が結成されるのである。 鈴木はこの事情を﹁ 會運動としての友愛會のスタートは元来一種の勞働教育運動であった。友 愛會の前身たる通俗講話會は勞働大衆に對する啓蒙の機關であった ﹂ と記している。   一九一四年以後、 講話會は ﹃勞働問題講演會﹄ 、﹃勞働問題研究會﹄ 、さらに ﹃東京勞働組合研究會﹄ と改称されたが、惟一館を中心とするものであった。ところが一九二〇年、友愛會東京聯合會は ﹃東京勞働講習所﹄を神田に開設し、各期三百名を越える聴講者を得るようになる 。    東京の動きに刺激され、一九二〇︵大正九︶年一一月二〇日創立の關西勞働組合聯合會は、運 動方針として普選要求運動とともに﹁大阪勞働會館の建設、勞働講座の開設、勞働祭の挙行、勞 働新聞の發刊﹂をかかげた。この關西勞働組合聯合會は短命に終わったが、労働講座を前後七回、 共益社において開催している。賀川豊彦、村島歸之、西尾末広、山名義鶴らは、一九二一年一一 月 に、 ﹁ 勞 働 會 館 豫 定 計 畫 一 般 ﹂ と﹁ 勞 働 學 校 設 立 趣 意 書 ﹂ を 発 表 し、 そ の 実 現 を め ざ し た。 こ の計画が財源不足で行き詰まっているとき、賀川が﹃死線を越えて﹄の印税で得た五千円余の大 金を提供したのである 。   こうして、一九二二︵大正一一︶年六月一日、日本基督教會安治川教 會 に おいて大阪勞働學校 が 開 校 し た。 翌 日 の 大 阪 朝 日 新 聞 は、 午 後 七 時、 ﹁ 生 徒 六 〇 名 は カ ー キ 色 の 工 場 服 そ の ま ま に 着 席し、校長賀川豊彦氏から砕けた然し力強い開講の辞を受け更に山名︵義鶴︶ 、松沢︵兼人︶ 、村 島︵ 歸 之 ︶、 川 崎 等 の 各 講 師、 労 働 組 合 代 表、 新 聞 記 者 代 表 達 の 挨 拶 が あ っ て 式 を 閉 じ た。 式 後 直ちに日課 新明︵正道︶講師の社会学講義を聞いた﹂と報じている。

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  大阪勞働學校は、 夜間、 週三回の開講で、 三ヵ月を一期︵三十六回九十時間︶とした。創設当時、 会場となった安治川教会について、花香実が丹念に調査を行っている。そして、安治川教会の性 格を﹁都市雑業的で、庶民性、労働者性﹂ととらえ、それが﹁地域自体の性格でもあった﹂と指 摘 し て い る。 ﹁ 学 校 に も 満 足 に 行 っ て い な い 人 々 の た め に 、 教 会 で は 二 階 を 仕 切 っ て 読 み 書 き の 教 育 や 補 習 教 育 を し て い た ﹂ こ の 教 会 が、 ﹁ 勞 働 學 校 を 受 け 入 れ る こ と は、 そ れ 程 特 別 な こ と で は な か っ た 筈 で あ る ﹂ と 推 定 し て い る 。 に も か か わ ら ず 花 香 は 、﹁ 設 立 の た め に 実 際 に 奔 走 し た の は 、 山 名 義 鶴 、 村 島 歸 之 、 西 尾 末 広 等 で ﹂、 賀 川 は ﹁ 後 援 者 と で も い う べ き 位 置 に し か い な か っ た ﹂ と 結論づけ、大阪勞働學校がキリスト教色を帯びて発足したとの説を退けている 。   しかし、この大阪勞働學校の看板講師の一人であった森戸辰男は、成立要件としてキリスト教 的 要 素 が 濃 厚 で あ っ た こ と を 次 の よ う に 述 べ て い る。 ﹁ 大 阪 勞 働 學 校 創 立 の 背 後 に は 賀 川 氏 と 近 しい關係の友愛會があつた ば かりでなく、その創立委員中にはキリスト教信者又はその影響下に おった者が相當あり、最後の難關を突破せしめた創立資金は賀川氏より出で、主事に擬せられた 村島氏まだ受洗してゐなかったが初代主事松沢兼人 氏 はキリスト教信者であり、最初の校舎は安 治 川 教 會 の 樓 上 で あ り、 さ ら に 講 師 中 に も 多 数 の ク リ ス チ ャ ン が 見 出 さ れ た 等 々 の 事 實 か ら 見 て、大阪勞働學校においてキリスト教的要素の支持協力がその重大な成立要件たりしことを知り うる ﹂   一 九 三 一︵ 昭 和 六 ︶ 年 六 月 六 日、 大 阪 勞 働 學 校 の 十 周 年 に 際 し て﹁ プ ロ レ タ リ ア 学 術 大 講 演 会﹂が開 催 されたが、 その講演者と講演題は、 以下の通りである 。 河上丈太郎﹁独裁政治の諸相﹂ 松沢兼人﹁知識階級問題﹂ 、 森戸辰男﹁無産階級教育論﹂ 、 賀川豊彦﹁植民地問題﹂ 、 住谷悦治﹁経

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済 学 の 終 焉 ﹂、 田 万 清 臣﹁ 法 律 の 階 級 制 ﹂、 杉 山 元 治 郎﹁ 日 本 米 価 問 題 ﹂。 講 演 し た 七 名 中、 田 万 清臣を除く六名がキリスト者であることからも、森戸が指摘する通り、キリスト者の存在が重大 な成立要件であったことは明らかである。河上は、この大阪勞働學校において労働者と直に接し、 つ い に 政 治 活 動 へ と 転 じ て い く。 そ の キ ッ カ ケ を 作 っ た の は 一 高 以 来 の 友 人 で あ る 森 戸 で あ り、 前年に関西学院に赴任していた新明正道であった。勞働學校で、さらに深く賀川と出会い、学院 内に留まらず広く社会に出て活動する方向へと押し出されていくのである。   なお、神戸でも勞働學校が二校開かれて、河上は両校で講師を務めている 。 一つは神戸連合会 が主催するもので、 一九二三 ︵大正一二︶ 年四月から一九二六 ︵大正一五︶ 年五月まで開設された。 もう一つは勞働文化協会の主催するもので、一九二四年四月から一九二六年一一月までに百八人 の修了者を出している。なお、後者の伝統を継承する勞働學校が、一九二九年二月一二日に高野 岩 三 郎 を 経 営 委 員 長 と し て 再 興 さ れ る が 、 そ の た め の 会 合 は 河 上 の 自 宅 兼 事 務 所 で 開 か れ て い る 。   一九二七︵昭和二︶年二月一一日、賀川は杉山元治郎と一緒に、西宮の瓦木村で日本農民福音 學校を始めているが、講師の中に 河上の名前がある 。 日本農民組合を結成してから、六年近くが 経っていた。   河上は、一九三〇︵昭和五︶年二月に行われた二回目の普選で苦杯をなめ、その後三月二一日 に三女瑠璃子を二歳で亡くしている。悲しみにひたる暇もなく、四月から五月は鐘紡争議のため に奔走、その過労から倒れ胆石に苦しむ。このとき妻末子は猩紅熱、長男民雄は肺炎という苦境 に見舞われる。弱りはてた河上に賀川が手を差しのべ、瓦木の別宅を提供し、河上一家は瑠璃子

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の 骨壺 を 抱 い て 半 年間 そ こに 身 を 寄 せ てい る 。 こ の瓦 木 の 家こ そ、 あ の日 本 農 民 福音 學 校 が開 か れた場所であった。   賀川には、雑誌﹃雲の柱﹄に掲載した﹃身辺雑記﹄という細々した生活記録があるが、そこに 河上の名前が登場するのは、上記の選挙で河上の応援演説をし た ときだけである。新明正道や松 沢兼人の場合は、賀川のところで日曜礼拝に 出席したとの記録があ る が、河上の場合はそうした 記 述 を 発 見 す る こ と が 出 来 な い。 河 上 が 賀 川 に 接 近 し た 唯 一 の 例 外 が、 瓦 木 村 の 賀 川 の 家 に 身 を寄せた出来事であるが、それだけ追い詰められていたのであろう。河上は、賀川に対して深い 敬意を抱き、接点が多々あったにもかかわらず、近づき過ぎないように一定の距離を保っていた。 子息の民雄によると、あるとき案内状の宛名に﹁賀川豊彦様﹂と書いたところ、必ず﹁賀川豊彦 先生﹂と書くよう河上から注意されたという。このエピソードにも、河上の賀川への距離感が示 されている 。 この態度は、内村鑑三に 対する場合と同様で、激しい磁力をもつ人物に 近づきすぎ るとその奴隷になると考える、河上の慎重かつ賢明な態度の表れである。杉山元治郎が、政界に おいて賀川の代弁者のように行動したのと比べて、対照的であると言えよう。 六  演説﹁アナトテの予言者﹂と論壇記事﹁確信を持つ生涯へ﹂   河上が書き残した文章は少ないが、学生新聞に寄せた﹁確信を持つ生涯へ﹂という記事がある。 一九二四︵大正一三︶年一一月二五日発行の﹃學院時報﹄第十二 号 の七頁に 掲載された千二百字 ほどの論壇記事である 。

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  河上は、西洋人が自己の思想を強い信念で主張するのに対して、日本人は確信がもてないでい つ も 動 揺 し て い る と 述 べ て、 次 の よ う に 結 ん で い る。 ﹁ こ う し た 不 徹 底 な る 思 想 状 態 か ら、 私 は 到底免れる事の出来得ない者であるなら ば 、私は唯正直でありたい。自分の身を忘れても道端に 倒れた子供を助け上げる事の出来るものでありたい。自己を、職分の前に、公衆の前に投げ出す だけの道徳を持つ者でありたい。私は不幸にも未だこうした道徳の持主でない事を非常に悲しく 思ふものである。けれども私は、いつかこうした道徳の所有者となり、私の輿へられたる使命の 為にいさゝかでも盡す事が出来るなら ば 、私は非常に喜ぶものである。 ﹂   自 己 を 犠 牲 に し て、 人 々 の た め に 一 身 を 捧 げ る と い う 生 き 方 は、 一 高 弁 論 部 三 年 の と き に お こ な っ た 河 上 の 演 説﹁ ア ナ ト テ の 予 言 者 ﹂ を 思 わ せ る も の が あ る。 こ の 演 説 は 一 九 一 〇︵ 明 治 四三︶年一〇月二九日、東京府下の専門学校の連合演説会が一高の主催で開催されたときのもの で、 一 九 一 三︵ 大 正 二 ︶ 年 刊 の﹃ 青 年 雄 辯 集 ﹄︵ 大 日 本 雄 弁 会 編 ︶ に 収 録 さ れ て い る 。 河 上 は こ の演説を、 ﹁我等笛ふけども汝等踊らず悲歌をすれども汝等哭せずと、これ予言者の悲哀である。 一粒の麦もし地に落ちて死なず ば 唯一にてあらん、もし死な ば 多くの実を結ぶべしと、これ予言 者 の 光 栄 で あ る。 ﹂ と い う 言 葉 で 始 め、 次 の 言 葉 で 締 め く く っ て い る 。 ﹁ 彼 は 地 に 落 ち て 死 ん だ 種である。悲哀の生んだ光栄の生涯である。余がエレミヤを追想して其の偉大を嘆美するも、真 の政治家、永遠に生きんとする生命の宣伝者予言者の現出を欲する小さき要求である。全日本国 民の人格的努力が宇宙の実在の人格的生活に触れ、大弦小弦相調和する時、初めて国民の不窮の 大 使 命 を 遂 げ 得 る の で あ る。 願 く ば 諸 君 尊 き 日 本 を し て 永 遠 の 生 命 に 捧 げ て Higher Japan を 作 り、わが歴史をして eternity より eternity に渡る divine scripture たらしめよ。 ﹂

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  ﹁ ア ナ ト テ の 予 言 者 ﹂ と は、 旧 約 聖 書 エ レ ミ ヤ 書 に 出 て く る 預 言 者 エ レ ミ ヤ の こ と で あ り、 ア ナトテは彼の生地である。河上は、預言者エレミヤの故事をひきつつ、預言者は神の召命によっ て立つものであること、国民を道徳的倫理的に指導することこそ預言者の務めであること、たと えどのような非難を浴びようとも、預言者は神の審きと愛とを宣べ伝える使命を引き受けて生き ると語っている。   と こ ろ で、 こ の 河 上 の 演 説 は、 内 村 鑑 三 の エ レ ミ ヤ 研 究 か ら 着 想 を 得 た も の と 考 え ら れ る。 こ の 時 期 ま で の 内 村 の エ レ ミ ヤ に 関 す る 著 作 と し て は、 一 九 〇 六︵ 明 治 三 九 ︶ 年 に﹃ 新 希 望 ﹄ 七十四号と ﹃聖書之研究﹄ 七十五号に 掲載された ﹁耶利亜記感想 ﹂と、 一九〇九 ︵明治四二︶ 年に ﹃聖 書 之研 究 ﹄ 百 八号に 掲 載 の﹁ 天 然 詩 人と し て の預 言 者 ヱレ ミ ヤ ﹂ の 二つ が あ る 。 後 者は 英 文 の 注 解 書 を 内 村 が 翻 訳 し た も の で 、 現 著 者 は オ ッ ク ス フ ォ ー ド 大 学 教 授 Sa m ue l R oll es D riv er で あ る 。   河上の演説で、内村と相通じるところをいくつかあげてみよう。内村は﹁余はイザヤを尊崇し、 ヱ ゼ キ エ ル を 敬 畏 し 、 ダ ニ エ ル を 歎 賞 す る 、 然 か し ヱ レ ミ ヤ に 至 て は 余 は 彼 を 親 愛 す る ﹂ と 言 う ﹁ 婦 人 の 情 性 ﹂ を 持 ち ﹁ 細 美 な る 所 ﹂ が あ り 、﹁ 彼 の 愛 は 婦 人 の そ れ に 似 て ﹂﹁ 深 く し て 濃 ︵ こ ま や ︶ か ﹂ な故に、 エレミヤに ﹁親しき友人として近づく﹂ことが出来ると述べるのである。一方、 河上もエレミヤを、 ﹁婦人の如き柔和の詩人的若者﹂と表現している。   内村が青年エレミヤを次のように 描写するとき、河上は自らをエレミヤに 重ね合わせて受けと め た は ず で あ る。 ﹁ 彼 は 内 気 の 青 年 で あ っ た、 彼 は 性 来 の 格 闘 家 で は な か っ た、 彼 は 寧 ろ 憶 病 者 であった、彼は公的生涯を忌んだ、若し彼の意志其儘を云はしめしなら ば 、彼はユ ダ の山地に橄

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欖を植え、其の谷問に麦を蒔き、前の雨と後の雨とを待って、穂にヱホバの恵の実るを視て、彼 を讃めまつらんことを望んだで︵あ︶らふ。 ﹂   だ か ら こ そ 内 村 が 、 エ レ ミ ヤ の 力 の 源 泉 を 次 の よ う に 捉 え る と き 、 河 上 は 深 く 共 感 し た こ と で あ ろ う 。﹁ 預 言 者 に 世 に 克 つ の 力 が あ る の で は な い 、 彼 は 神 に 従 ふ が 故 に 神 と 偕 に 世 に 克 つ の で あ る 、 預 言 者 は 世 に 克 つ の 秘 訣 を 知 る 者 で あ る 、 彼 の 強 者 の 故 を 以 て 彼 を 褒 ︵ ほ ︶ む べ き で は な い 、 彼 の 聖 き 智 慧 を 讃 す べ き で あ る 、 然 り 、 彼 に 賜 は り し 信 仰 の 故 を 以 て 彼 を 羨 む べ き で あ る 。﹂    こうして、河上は自分もエレミヤのように 神の力を得て立ちたいと願い、エレミヤの力と権威 は 信 仰 に よ る と し て、 次 の よ う に 述 べ る。 ﹁ 彼 は 人 の 声 に 動 い た 人 で は な い。 神 の 力 に 動 い た 人 で あ る ﹂﹁ 義 人 は 信 仰 に よ り て 立 つ と か い う。 彼 は 真 に 信 仰 の 人 で あ る。 彼 の 権 威 の 姿 は 信 仰 の 姿である。全国民より敵視せられてなお愛国の情に かられて真理を伝えた其の原動力は信仰に あ る ﹂   一 方、 河 上 の 演 説 に 独 自 な 点 を、 以 下 に 見 出 す こ と が で き る。 一 つ は、 ﹁ 一 粒 の 麦 と し て 一 身 を 捧 げ る こ と に よ っ て、 多 く の 実 を 結 ぶ ﹂ と こ ろ に 預 言 者 の 光 栄 が あ っ た と し、 ﹁ 自 己 の 生 活 を 棄てて人のため﹂に生きるところに人生の意義を見出す信仰理解である。また、人々を導く預言 者 の 使 命 を、 政 治 家 の 本 務 と 結 び 付 け て、 次 の よ う に 述 べ る 点 で あ る。 ﹁ 愛 国 は 正 義 の 声 で な く てはならぬ。 ︵中略︶国民に阿る叫びではない、 国民を導くの声である﹂ 。そして、 エレミヤを﹁熱 烈 火 の 如 き 愛 国 者 で あ っ た が、 亦 尊 き 意 義 の 政 治 家 で あ っ た ﹂ と 位 置 づ け、 ﹁ 政 治 は 国 家 的 倫 理 であ﹂り、 ﹁議会と国民との調和策﹂ではなく、 ﹁政治家の本務は国民の道徳的倫理的指導にある﹂

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とする。   こうして河上は、エレミヤにならって﹁一粒の麦﹂として生きようと呼びかける。愛する祖国 とその民のために一身を犠牲にして語る預言者エレミヤの姿は、河上の社会に対する姿勢と深く 通じている。理想の政治家とはいかなるものか、政治家の使命とは何か、国を愛するとはどうい うことか、のちに﹁十字架委員長﹂と呼 ば れた河上の政治姿勢の原型が、一高時代にすでに表れ ているのである。   関西学院に赴任して七年目を迎え、 教壇に留まるべきか、 使命を果たすために政治の世界に打っ て出るべきか、河上は神の召しを受けてなお自らの弱さに逡巡する青年エレミヤのように苦悩し ていた。世の中を何とかしなけれ ば という思いと、自分のような柔弱な性格では政治の世界でと うてい通用しないという思いとの間で、迷い、葛藤していた。   河上は、大阪勞働學校で講義するようになって三年目を迎えていた。また、関東大震災の惨事 を目の当たりにして一年経っていた。学生たちに慕われ、同僚から信頼されて教壇に立ちながら も、苦しむ人々を見棄てて安穏な生活を送っているのではないかとの思いが深くなっていた。社 会科学を研究すれ ば するほど、学術研究を社会政策に生かしていくために政治の世界へ出て行く べきだという思いが強くなっていたものと思われる。論壇記事﹁確信を持つ生涯へ﹂には、使命 に生きるべきかどうか葛藤する河上の姿が示されているのである。   大阪と神戸で勞働學校に関係するようになって、河上の労働運動への理解が現場に即したもの に鍛えられていく。仕事を終えた後の疲れた体で熱心に学ぶ労働者の姿に、河上は深く心うたれ たことであろう。東京の下町育ちであったから、職人や働く人たちの暮らしや気持ちがよく理解

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出来た。勞働學校は労働組合の幹部養成の場でもあったから、労働運動の中堅指導者のあいだに 河上ファンが生まれていた。また、気鋭の講師陣と交際を重ねていくうちに、政治への情熱が静 かに燃え上がっていた。   直接行動主義を主張するサンジカリズムによって、一時低迷していた思想界、労働界だが、大 き な 転 機 が 訪 れ よ う と し て い た。 一 九 二 三︵ 大 正 一 二 ︶ 年 九 月 に 起 こ っ た 関 東 大 震 災 と、 震 災 直後に 成立した第二次山本権兵衛内閣が公約した普選実施方針である 。 翌一九二四年六月二八日、 東京で政治研究会の創立大会が開かれた。一二名の執行委員には、賀川豊彦と村島歸之が名を連 ねている。なお、この政治研究会は右から左まで幅広く参加していたため、一年ほどで分裂する。 神戸では新明正道が松沢兼人と相談して、河上を支部長に担ぎ出し、一九二五︵大正一四︶年六 月二八日に神戸支部を発足させている 。   一 九 二 六︵ 大 正 一 五 ︶ 年 一 月 一 五 日 早 朝、 河 上 は 家 宅 捜 索 を 受 け て い る。 前 年 の 一 二 月 一 日 に 起こった京都学連事 件 に 関連して、全国一斉に 強制捜査が行われたものである。京大の河上肇、 同大の山本宣治・河野密、関西学院では河上のほか、新明正道、松沢兼人、田村市郎の各教授と 学生数名が家宅捜索を受け、書籍や書類が押収された 。   この事件は、治安維持法が適用された初めての事件であった。学生の思想研究団体に治安維持 法 を 適 用 す る の は 無 理 が あ っ た が、 ﹁ 私 有 財 産 制 度 の 破 壊 ﹂ を 同 法 第 二 条 の 協 議 罪 に 適 用 し た の である。この事件を受けて、六月には文部大臣が学生による社会科学研究の禁止を通達した。こ の捜索を理由に、同志社大学では山本宣治を免職処分にしている。山本は大阪勞働學校での講師 仲間であり顔見知りであったから、このことも心に重くのしかかってきたものと思われる。関西

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学院では表だって問題にされることはなかったが、河上らに対して次第に風当たりが強くなって いったのは確かであろう。   ﹁ 私 が こ の よ う に 無 産 運 動 に 関 係 し て も 関 西 学 院 で は あ ま り 問 題 に し な か っ た。 こ れ は 主 と し て当時の院長ベーツ博士のおかげである。博士はカナ ダ から来日した当初、岳父平岩愃保と親交 を結んだ関係などもあって、私には特別目をかけてくれ、私の運動の良き理解者でもあった。博 士は同僚の松沢君が市議になったときも阪本勝君︵現兵庫県知事︶が県議になったときも講師を やめさせなかった。 ﹂   河上は選挙に備えるため、一九二七︵昭和二︶年一〇月に関西学院教授を辞して、弁護士事務 所を開業。翌年一九二八︵昭和三︶年二月二〇日の第一回普通選挙に際し、兵庫県第一区︵神戸 市︶に日本労農党から立候補して当選、政治家の道を歩み始める。本稿は、河上の政治活動をた どるものではないので、政界進出の経緯には触れない。ただ、立候補の際の河上の心境をうかが わせるものとして、選挙事務長を務めた阪本勝が残したエピソード に ふれておこう。   ﹁ そ の こ ろ の 河 上 家 は 上 筒 井 に あ っ た。 暗 く て せ ま い 階 段 の あ る 粗 末 な 三 階 建 て だ っ た。 さ て いよいよ立候補宣言演説会の日の夕方、家のなかをいくら捜しても候補者の姿が見えない。時問 は追ってくるし、わたしは気が気でなく、まさかと思いながら三階の納屋みたいな小部屋を開け ると、河上夫婦が畳にひざをついて、お祈りをしていられた。その瞬間の崇高な光景は、いまも わたしのまぶたの裏に くっきり焼きついている。 ﹂   立候補を前にして、河上は妻とともに密室で長時間祈っていた。神の導きをひたすら求めての 祈りであったはずである。河上の働きの陰には、いつも妻末子の熱い祈りが捧げられていた。二

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人は、あのアナトテの預言者エレミヤのように、神の意志を問いつつ祈ったのである。   ﹁ 起 て よ 腰 に 帯 し て、 我 が 大 な る 宇 宙 の 霊 の 導 く 如 く に 往 き て 国 民 に 伝 え よ、 決 し て 懼︵ お そ る る ︶ 勿 れ と。 ﹂ こ う し て、 エ レ ミ ヤ の よ う に 使 命 に 召 し 出 さ れ て、 河 上 は 政 治 の 世 界 に 乗 り 出 していく。おだやかな学園の生活を捨てて政治の荒海へと踏み出した河上のこの決断は、彼の信 仰と思想の必然の結果であった。学生時代に﹁一粒の麦﹂として﹁アナトテの予言者﹂のように 自らの使命を引き受けて生きたいと願ったその願いが、この選択に結び付いていたのである。 七  結び   以上、河上丈太郎が関西学院に赴任した一九一八︵大正七︶年から、教授を辞して第一回普通 選挙に立候補する一九二八︵昭和三︶年までの十年間を中心に、河上の信仰と思想がいかにして 形成され政治活動へ乗り出していったかを辿ってきた。これまで言及されることがなく、本稿に より明らかになった点を以下にまとめ、結びとしたい。   まず第一に、河上丈太郎に影響を与えた人物として、本人が挙げる内村鑑三、新渡戸稲造、高 野岩三郎と父新太郎の四人に加えて、森戸辰男を挙げるべきであるということである。森戸は一 高以来の親しい友人だが、無政府主義を紹介した学術論文によって獄につながれ、その後も労働 者に接しながら社会問題に迫ろうとした。河上が学園から政治活動に乗り出すうえで、この森戸 の姿が大きな契機となったのである。   第二に、河上は政治活動に乗り出すにあたって、使命の前に自らの弱さを自覚して逡巡するも

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のがあり、その葛藤ぶりが学内礼拝の説教記録や学生新聞に寄せた記事に示されていることであ る。その萌芽は、一高時代の演説﹁アナトテの予言者﹂に見出すことができる。   第三に、河上は関東大震災を東京の実家に帰省していて直接体験し、深い衝撃を受けた。父新 太郎が震災ですべての財産を失いながらもかえって信仰を深めた姿や、いち早く救援活動を立ち 上げた賀川豊彦の姿から、多くを学んだことである。河上は、それまでに学内集会や大阪勞働學 校などで賀川にたびたび出会っていたが、深い敬意を抱きながらも近づき過ぎないよう一定の距 離を保っていた。   第四に、河上の関西学院への赴任は、立教中学において四年間学級担任であった恩師の野々村 戒三が関西学院の要職にあることを知ってのことであると考えられることである。河上自身がこ のことに触れていないのは、個人的関係からの決断であると誤解されることを避けようとしたか らである。   最後に、本稿作成にあたって神田健次教授から助言を受け、河上京子さんから貴重な資料の提 供を受けたことに対して、心よりお礼申し上げたい。 ︻注︼ ︵ 1 ︶ 河 上 民 雄 は、 一 九 二 五︵ 大 正 一 四 ︶ 年 七 月 一 二 日、 河 上 丈 太 郎 と 末 子 の 長 男 と し て 神 戸 で 出 生。 一 九 四 五︵ 昭 和 二 〇 ︶ 年 七 月 一 日、 静 岡 高 校 在 学 中 に 応 召、 逗 子 に て 終 戦 を 迎 え る。 東 京 大 学 文 学 部 西 洋 史 学 科 を 卒 業、 河 上 丈 太 郎 の 政 治 秘 書 を 務 め る。 コ ロ ン ビ ア 大 学 留 学 後、 東 海 大 学 政 経 学 部 教 授 と な っ た が、 父 の 死 去 を 受 け て、 一 九 六 七︵ 昭 和 四 二 ︶ 年、 兵 庫 一 区 か ら 衆 議 院 議 員 に 初 当 選。 一 九 九 〇 年 に 政 界 を 引 退 す る ま で、 日 本 社 会 党 国 際 局 長 な ど を 務 め た。 引 退 後

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