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西欧近代との出会いと仏教の変容 : 仏教の未来に 関する一考察

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西欧近代との出会いと仏教の変容 : 仏教の未来に 関する一考察

著者 島 岩

雑誌名 北陸宗教文化

巻 10

ページ 1‑30

発行年 1998‑03‑01

URL http://hdl.handle.net/2297/3149

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西欧近代との出会いと仏教の変容         — 仏教の未来に関する一考察 —

島   岩

1. はじめに—パソコンと精神世界

最近でも本屋を訪れたとき、大きくなっている棚が二つあるのがど うも気 になる。それは「コンピュータ」関係の一角と「精神世界もの」と呼ばれる 一角である。私がこのことに初めて気づいたのは、「心の時代」と呼ばれた八

〇年代も半ばころだった。ちょうどそのころは、私自身も本格的にパソコン をやり始めたころで、パソコンをやりながら奇妙な感覚に襲われていたとき だった。すなわち、何事も自分の思うままにはならない現実世界のなかで、

パソコンの世界のなかだけでは、意味不明の記号をマスターしてキーボード で打ち込みさえすれば 、現実世界の持つリアリティーにも負けないほどのリ アリティー感を持って、自分の思いのままの世界が開けてくるという感覚を 持ち始めていたのだ。そしてこの感覚には、「精神世界」のなかで修行をし て、一定の技法や呪文をマスターすれば 、自分の思いのままの世界が開けて くる感覚とよく似たものがあった。つまり、近代科学の最先端のパソコンの 世界と宗教的な精神世界とが、それに関わる個人の感性の側から言えば 、と もに非合理的な呪術的世界に感じられてしまったというわけだ。

この一見対照的に見える二つの世界には、私がこんなふうに感じてしまっ たことが示すように、かなりの共通性があるように思われる。すなわちそれ は、日常的現実の目に見える世界とは異なる世界に対してリアリティーを感 じるという感性のあり方に関わるものである。すなわち、「パソコン 」の世 界で言えば 、インターネットを通して広がるもう一つの世界である情報とい

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う宇宙に対して感じるリアリティーであり、また、そのヴ ィジュアルな世界 の中で繰り広げられるヴァーチャルな世界が持つリアリティである。他方、

「精神世界」で言えば 、日常の現実を越えた高次の意識の世界が持つリアリ ティーであり、また、死後の世界や霊の世界に対して感じるリアリティーな のである。

この二つの世界に関わったときに感じるリアリティーのあり方は、これま でわれわれ近代人が日常的現実の目に見える世界に対してのみリアリティー を置いていたあり方とは 、明らかに異なったものである。さらにまたそれ は、テレビを通して見た日常的現実や小説などのフィクションに対して感じ るリアリティーのあり方とも、日常的現実と同等のあるいはそれ以上のリア リティーを感じることができるという点で、明らかに異なっている。その意 味では、この二つの世界が持つリアリティーはむしろ、近代以前に宗教が提 示していた世界の持っていたリアリティーに近いものだと言えるのかもしれ ない。つまり、言い替えれば 、それは、世界の近代化の歩みの中で、われわ れが切り捨てていったもう一つのリアリティー、すなわち宗教の世界が持っ ていたリアリティーが、現代において形を変えて復権しつつあるのだ、と見 ることも十分可能なもののように思えるのである。

とすれば 、問題は以下の二つだということになるだろう。すなわち、(1) 宗教はなぜ、またどのようにして、その近代化の歩みの中で、宗教の世界が 持つリアリティーを捨てざ るを得なかったのか、(2)宗教の世界が持つリア リティーが今後はたして、これまでとは形を変えて復権してくることになる のだろうか、もしそうだとすると、将来的にはどのような形をとっていくこ とになるのだろうか、という問題である。

このうち、第一の問題に関してはすでに多くのことが論じられてきた。た とえば 、中世的な宗教的世界観が、近代科学技術を生み出していった近代的 な科学的世界観にとってかわられていったとか、中世においては国家や社会 の統合の機能すらも果たしていた宗教的権威が、政教分離に基づく国民国家 の成立とともに、その多くの機能を国家に吸収されて、宗教的権威が分極化

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していき、宗教は近代市民社会に反しない範囲内での個人の救済という限ら れた領域に閉じ 込められていった、というような議論がそうである。だが 、 この種の議論はあくまで、時代と社会の変化が宗教を変化させていったとす る観点に立つもので、マクロにはきわめて正しいものではあるのだが、その 観点からは、現在の宗教の状況を生み出していった宗教の側の対応という観 点が抜け落ちてしまうという難点が認められる。すなわち、もう少しミクロ に、かつ逆の観点に立って、宗教の側から近代以降の宗教の変容を見てみる と、近代に対する宗教側の主体的対応、すなわち近代宗教改革運動自体に、

宗教の現況を生み出していった問題点があるのではないかとする観点が抜け 落ちてしまいがちなのである。そこで以下では、この第一の問題に関しては、

近代に対する宗教の側の主体的対応、すなわち近代宗教改革運動の側に焦点 を絞って考察していくことにしたいと考えている。それもなかでも特に、日 本にきわめてなじみが深いにもかかわらず、これまであまり論じられること のなかったが仏教の動きを中心に考えていくことにしたい。そしてその上で、

このアジアにおける仏教近代改革運動を西欧における仏教の受容と変容のあ り方と比較したのち、アジアと西欧における現代の仏教の同時代的動きを参 考にしながら、第二の問題に対する今後の見通しを簡単に提示していきたい。

2. 西欧近代との出会いとアジアにおける仏教の変容 2.1. インド における西欧近代との出会いと宗教の変容

[戦前] アジアにおいて西欧近代との出会いによる宗教の変容がもっと も早く起こったのは、インド においてだった。その動きは、「ヒンド ゥー・

ルネサンス」と呼ばれるヒンド ゥー教復興運動として現れ、古代の純粋なイ ンド 的精神にたちもど ろうとするものであったが、内容的には大きく二つに 分けることができる。一つは、ウパニシャッド やヴェーダといった古代以来 のインド 的精神に基づきながら、西欧的・近代的な形での社会改革を押し進 めようとする動きである。その代表的なものには、1828年に設立されたブ

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ラフマ協会や1875年に設立されたアーリア協会による寡婦殉死廃止やカー スト制反対の運動がある。もう一つは、精神主義的な動きで、ウパニシャッ ド 精神を復興したシャンカラ(700-750)的な一元論的神秘主義の中に、西 欧近代精神にも対抗し うる普遍的なインド 的精神を見いだそうとするもので ある。その代表的な人物には、ラーマクリシュナ、ヴ ィヴェーカーナンダ 、 オーロビンド ・ゴ ーシュ、ラマナ・マハリシ、ナーラーヤナ・グルなどがい る。そして、この二つの動きはともに、西欧近代との出会いのなかで、西欧 近代精神に対抗し うるものを求めて古代のインド 的精神に立ち戻ろうとする 原点回帰主義的な運動であり、かつ、西欧近代精神に触れることのできたイ ンド 知識人層の啓蒙主義的な運動であるという共通点を持っており、その後 は西欧近代精神とインド 的精神のはざ まで、両者に対する距離の取り方の差 異から、西欧開明派とインド 正統派との対立を生み出しながら、最後には、

ティラクとガンディーの登場によって、啓蒙主義的な限界を越えて大衆運動 と結びつき、インド 独立へとつながっていくことになるのである。

[戦後]  その後、第二次世界大戦後のインド 独立以降には、前者の社会 改革的運動のほうは、その役割を終えることになるのだが、他方、精神主義 的な動きのほうは逆に、形を変えて世界に広まっていくことになる。すなわ ち、1960年代以降の先進諸国におけるカウンター・カルチャーの中での「神 秘の国インド 」への関心の高まり、および 、その中で生まれてきたマハリシ・

マヘーシュ・ヨーギの超越瞑想法、バクティヴェーダンタ・スワーミのクリ シュナ意識運動や、ラジニーシあるいは最近のサティヤ・サイババなどのイ ンド 系新宗教の世界的広がりへと、つながっていくことになるのである。

2.2. 上座仏教圏における西欧近代との出会いと仏教の変容

[タイ]

インド の宗教近代改革運動「ヒンド ゥー・ルネサンス」が共通して持ってい た二つの特質、すなわち原点回帰主義と啓蒙主義は、アジアにおける仏教近

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代改革運動もまた共有した特質であった。アジアの仏教のなかで、近代主義 的な仏教改革がもっとも早く生じてきたのはやはり、西欧列強の侵略をもっ もと早く受けたスリランカ・東南アジアの上座仏教圏においてであったが 、 そのなかでももっとも早かったのが、タイのモンクット親王による仏教改革

(1830年代)であった。仏法が王権の正統性を支え、王権が仏法を保持する 教団を保護するという構造を持った仏教王国タイにおいては、仏教こそが国 家社会文化統合の鍵であり、西欧列強の侵略に対抗するナショナリズム形成 に欠くことのできない基盤だったのである。彼は、タマユット派という新た な派を作り出して仏教改革を押し進めていったのだが、その特質はまず、上 からの近代化という啓蒙主義的なものであった。さらに、その改革には、タ イ語の仏典に基づく仏教理解から釈迦のころのもともとのパーリ仏典に基づ く仏教理解へと立ち戻ろうとする原点(原典)回帰主義と、現世来世利益的 な功徳を積めば善いことがあるとする民衆仏教を否定して(合理主義的仏教 解釈、社会改革的)、戒律を重視し 、近代科学の合理主義に反しない形で仏 教を再解釈して( 合理主義的仏教解釈)、キリスト教のプロテスタントの伝 道と対抗していこうとする(キリスト教に対抗し うるものとしての仏教)特 徴も認められるのである。

[ミャンマー]

一方、独立を守ったタイとは異なってイギリスの植民地となり、仏教が国 民的レベルでのナショナリズムの基盤として成熟することのなかったミャ ンマーでは 、仏教は千年王国運動的な民衆の反乱を生み出す基盤として働 いた。すなわち、超能力者weikzaを信仰するセクトgaingを中心に、超人

weikzaを末法の世に現れる未来の仏である弥勒あるいは未来の王すなわち

輪転聖王として、イギリス支配を打ち破り、この地上に千年王国を築こうと する反乱が頻発した(なかでも1930年頃のサヤ・サンの反乱が有名)ので あった( 社会革命的)。またその一方では、これまでの出家のみが悟ること ができるとする考えを廃し 、在家でも瞑想により悟ることができるとする、

在家主義的な宗教的平等主義に基づく仏教改革も現れた。たとえば 、サヤ・

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テトギ(1873-1945)という在家の修行者が確立したヴ ィパッサナー内観瞑 想法がそれであり、この瞑想法は戦後、特に70年代以降には、欧米とイン ド を中心に、世界各地に広まっていったのである。

[スリランカ]

[戦前] だが、上座仏教圏における仏教改革のなかで、その後もっもと大 きな影響力を持った運動が現れてきたのは、スリランカにおいてであった。

それがダルマパーラ(1864-1933)の大菩提会(1891年設立)の運動である が、この運動はまた、それ以前のあるいはそれ以後の仏教近代改革運動の特 質をすべて、集約的に含み込んだものでもあった。この運動は、現在では、

西欧(なかでも特にイギリス)およびキリスト教(なかでも特にプロテスタ ント )にプロテスト(抵抗)する仏教であり、かつ、プロテスタント的な世俗 内的禁欲を説くという二重の意味で、「プロテスタント仏教」と呼ばれること が多いが、次のような五つの特質を備えたものであった。すなわち、(1)仏 陀ともともとのパーリ聖典に戻りそこから規範を選択する(原点・原典回帰 主義)、(2)仏陀を最高の人間ととらえ、また、民衆的な儀礼と呪術を非仏教 的なものとして排除する(合理主義的・人間主義的仏教解釈、社会改革的)、 (3)ピューリタン的な世俗内禁欲による救済を説く(在家主義的な宗教的平 等主義、キリスト教に対抗し うるものとしての仏教)、(4)仏教を中心にシン ハラ人がまとまって西欧列強支配に対抗することをめざすという意図を含む

(ナショナリズムの政治的・社会的・文化的基盤としての仏教)というもの であり、また、(5)パンフレットなど の活字による媒体を通して、大衆の教 化をはかるという啓蒙主義的なものでもあったのである。そして、この運動 はその後、スリランカという範囲を越えて広まり、インド における仏教復興 の動きや、ネパールにおける上座仏教の受容に大きな役割を果たしたばかり か、西欧および日本においても仏教に関心を抱く者のあいだでは好意的に受 けとめられたのであった。

[戦後] だが、スリランカ独立以降の戦後は、一方では、この運動が持っ ていた在家主義的傾向が、サルボーダヤ運動(仏教的世界観に基づく農村開

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発運動で、ここでは本来世俗とは関わらないはずの出家が労働や社会改革運 動と関わる)や、仏式結婚(ここでは出家が結婚という在家的・世俗的な事 柄に関わる)や、出家教団の持つ宗教的権威外のところで私度僧が出現して 社会的影響力をもつ、といった変化を生み出していくことにつながっていく とともに、他方では、そのナショナリズム的な思想が、シンハラ人仏教徒を 中心とする国家形成を目指す方向を支えるイデオロギー的基盤となり、シン ハラ人仏教徒とタミル人ヒンド ゥー教徒の民族紛争を生み出すことにもなっ ていったのである。

2.3. 東アジア大乗仏教圏における西欧近代との出会いと仏教の変容 1959年のダライラマのインド 亡命まで政教一致の体制を堅持した仏教国 チベット 、および 、ヒンド ゥー王国のなかの少数派であったネパールの仏教 という密教圏においては、仏教近代改革運動と呼べるようなものは生まれて こなかった。スリランカ・東南アジアの上座仏教圏におけるものとは少し遅 れるような形で、次に仏教近代改革運動が生じてきたのは、中国とベトナム と日本という東アジア大乗仏教圏においてのことであった。

[中国]

中国において、太虚(1889-1947)が、中国仏教協会を再建したのは、1929 年のことだが、その再建にあたっての主張は、仏教は、人道的・科学的・論 証的(人間主義的・合理主義的仏教解釈)で、世界的でなければならないと いうものであった。さらに彼は、仏教をこれまでの中国語訳の仏典(漢訳仏 典)に基づく研究から、もともとのインド のサンスクリット語の仏典に基づ く研究への転換の必要性を説き( 原点・原典回帰主義)、自らも原典に基づ きながら仏教の唯識思想の近代的解釈を行い、唯識的世界観は近代物理学の 世界観と矛盾するものではないとする主張を行ったのであった(合理主義的 仏教解釈)。この太虚の運動は、彼の死後、中国の共産化とともに、そのの ち中国国内ではほとんど 影響の跡をとどめることはなかったが、世界的な外

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遊を通して、特にベトナムの仏教に大きな影響を及ぼすことになった。

[ベト ナム]

太虚の訪問を契機に、ベトナムでは、1930年代に、仏教復興運動が展開さ れるようになった。ベトナムはもともと、上座仏教が主流の東南アジア仏教 諸国のなかでは例外的に、中国系統の禅が伝えられてベトナム的な形で発展 していたところであったが、そのなかから、大乗仏教と上座仏教とが協力し て仏教の国教化をはかり、遅れたベトナム社会の社会改革を行う(社会改革 的)とともに、フランス植民地支配に対抗してベトナムの独立をはかろうと する動き(ナショナリズムの政治的・社会的・文化的基盤としての仏教)が 生まれてきたのである。この動きは、共産主義勢力がそののち独立に際して 中心的役割を果たした独立運動のなかでは、それほど 大きな役割を果たすこ とはなかったが、戦後のベトナム戦争のなかで抗議の焼身自殺を行った僧た ちや、Thich Nhat Hanh(1926-)など の、反戦運動家としての仏教僧を生 み出していくことにつながっていったのであった。

[日本]

[戦前]  これまで日本以外の例で見てきたことから明らかなように、ア ジアにおける仏教近代改革運動は、(1)原点・原典回帰主義、(2)合理主義 的・人間主義的仏教解釈、(3)在家主義的な宗教的平等主義、(4)社会改革的 傾向、(5)知識人中心の啓蒙主義、(6)キリスト教に対抗しうるものとしての 仏教、(7)ナショナリズムの政治的・社会的・文化的基盤としての仏教という 特徴を、地域による程度の差や力点の置き方およびさまざ まな組み合わせ方 の違いは認められるものの、多かれ少なかれ備えたものであったと言うこと ができるだろう。そして、このような特徴は、日本における仏教近代改革運 動のなかにも、多かれ少なかれ共通に認めることのできるものなのである。

まず、原点・原典回帰主義的な動きとしては、日本における近代仏教学の 成立があげられる。明治初頭以来、南条文雄、高楠順次郎、渡辺海旭、荻原 雲来などにみられるように、多くの留学僧が西欧に渡航して、西欧の仏教研 究を日本に導入し 、漢訳からではなくパーリ語やサンスクリット語の原典か

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らの研究を行った( 原典回帰主義)。そして、原始仏典と大乗経典との比較 から、村上専精(1851-1929)や姉崎正治(1873-1949)の大乗非仏説が生ま れてきたのであった(原点回帰主義)。そして、このような主張の背後には、

人間釈迦の説いた合理的な仏教という人間主義的・合理主義的仏教解釈が認 められるのである。

一方、在家主義的な仏教改革運動としては、古河勇や渡辺海旭などを中心 とする新仏教運動があげられる。その動きは、彼らの「新仏教徒同志会」が 1899年の結成当時には、「仏教清教徒同志会」と名乗っていたことにも認め られるように、キリスト教のユニテリアンとの関わりが深いもので(キリス ト教に対抗し うるものとしての仏教)、近代市民道徳の建設をめざす、ピュー リタン的で、仏教社会事業による社会改革的志向の強いもの(社会改革的傾 向)であった。

他方、このような社会改革的傾向の強いものとは対照的な仏教改革運動に、

内面に沈潜して信仰仏教を樹立しようとした清沢満之(1863-1903)の精神 主義運動がある。この運動は、先の二つの動きが、西欧近代合理主義に矛盾 しないような形での仏教のあり方を求めたのとは対照的に、西欧哲学を吸収 しながらも、むしろ、西欧文明のもつ生存競争を伴う我執性を仏教的信仰に 基づいて克服しようとする、西欧近代合理主義との対決の姿勢を明確に打ち 出したものであった。その意味では、禅的な精神のなかに、日本的文化・東 洋的文化あるいは日本的精神・東洋的精神の根底となる宗教的生命を見いだ そうとした、後の鈴木大拙(1870-1966)や久松真一(1889-1980)の思想と もつながるものがあるものと思われる。

最後に、ナショナリズム(国家主義)の基盤としての仏教を説いたものに は、田中智学(1861-1939)や本田日生(1867-1931)がいる。彼らはともに、

日蓮主義の立場にたって、法華経の精神に基づく日本国家(仏国土)の建設 をめざ すことで、日蓮主義と国家主義との融合を計ったのであった。それに 対して、同じく日蓮主義に基づきながらもに立ちながらも、反国家主義的立 場に立ち、社会主義的活動を行ったものに、妹尾義朗(1889-1961)を中心

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とする「新興仏教青年同盟」(1930年結成)の活動がある。だが両者はとも に、前者は戦前のファシズムに吸収されるような形で、後者はファシズムの 弾圧を受けて壊滅するという形で、消滅していくこととなった。

なお、ここで最後に、日本における以上の動きはすべて、いわゆる既成宗 教側から生まれた仏教近代改革運動であり、知識人を中心とする啓蒙主義的 な仏教近代改革運動であった、という共通点を持っているということに注目 しておきたい。すなわちこれらの近代主義的な仏教改革運動は、逆に言えば 、 現実の生活のなかで、貧・病・争などの問題をかかえて、そこからの現世利 益的な形での救済を願う民衆が持つ宗教性や、霊の世界などの目には見えな い生命に対する土着的な信仰を、プロテスタント的な近代主義の影響をも受 けながら、前近代的な迷信として切り捨てることで成り立っていたのだ、と 考えることもできるのである。事実、明治末の日露戦争から昭和恐慌期の農 業国から工業国への日本の転換期において、このような社会変動のなかで迷 い苦しんでいた民衆をすくいあげて、大衆的広がりを見せたのは、上述のよ うな仏教近代改革運動というよりはむしろ、その直後に現れた大本教やひと のみちなどの新宗教のほうであり、そして、これらの新宗教は、仏教代改革 運動が前近代的な迷信として切り捨てた日本的民俗信仰(自然霊信仰や祖霊 信仰)のほうに基盤を置くような形で登場してきたのであった。そしてその のち、戦後の混乱期や高度経済成長に伴う都市化の時代に大きな役割を果た したのはむしろ、この新宗教のほうであったのである。

2.4. まとめ

ここまで述べてきたように、アジアにおける仏教近代改革運動には、地域 の違いを越えて多くの共通点が認められた。すなわち、それらの運動には、

(1)原点・原典回帰主義、(2)合理主義的・人間主義的仏教解釈、(3) 在家 主義的な宗教的平等主義、(4)社会改革的傾向、(5)知識人中心の啓蒙主義、

(6)キリスト教に対抗し うるものとしての仏教、(7)ナショナリズムの政治

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的・社会的・文化的基盤としての仏教という特徴が、多かれ少なかれ認めら れたのであった。そして、これらの特徴はすべて、対西欧近代合理主義、対 西欧列強、対キリスト教という対立軸に規定されたものであった。このよう な共通の特徴を備えたアジアの仏教近代改革運動は、戦前においては、仏教 の近代化を押し進めたという意味で、いずれも近代仏教の歴史の中で大きな 意味ある役割を果たしたのではあるが 、現時点から振り返ってみると逆に、

現在アジアの仏教が抱え込んでいる問題を生み出していくことになる問題点 をもその中に内在させていたというということにも、気づかざ るを得ないの である。

まずその一つは、上座仏教圏において特に強く認められる「ナショナリズ ムの政治的・社会的・文化的基盤としての仏教」という仏教のとらえ方であ る。このような仏教のとらえ方は、西欧列強支配下の戦前のアジアにおいて は確かに、国民的アイデンティティーの形成に役だって、独立運動とも結び ついていくという重要な役割を果たしたのではあったが、戦後は逆に、独立 後のスリランカにおいて端的に認められるように、仏教原理主義を生み出し て、シンハラ人仏教徒とタミル人ヒンド ゥー教徒の民族紛争を激化させるこ とへとつながっていった。そして、この問題点は、単に仏教においてだけ認 められるだけのものではなく、イスラーム原理主義の高まりがむしろ西欧の 近代教育を受けた層のほうから起こってきたという事実や、ソ連崩壊後の東 欧における民族紛争の背後には、民族あるいは国家のアイデンティティーの 核となる政治的イデオロギーとして宗教が用いられているという事態が認め られるという、現在の宗教原理主義や民族紛争の問題とも、思想的につながっ ていく質のものなのである。

次に、もう一つの問題点は、アジアの仏教近代改革運動が、合理主義的・

人間主義的な仏教理解に基づきながら、知識人の手によって啓蒙主義的な形 で押し進められたということに内在する問題である。このような形の運動は 確かに、戦前においては、それが在家主義的な宗教的平等主義とも結びつき ながら、前近代的な社会の改革に大きく役だっていったのではあるが、逆に

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それは、日本における仏教近代改革運動の民俗信仰のとらえ方に端的に現れ ていたように、プロテスタント的な近代主義の影響をも受けながら、貧・病・

争からの現世利益的な救済を願う民衆の宗教性や、霊の世界などの目に見え ない生命に対する土着的信仰を、前近代的な迷信として切り捨てていくもの でもあったのである。すなわち、言い替えれば 、その近代主義的・啓蒙主義 的仏教改革は、民衆の願いと宗教的世界が持っていた目に見えない生命に対 するリアリティーを成り立たせる感性的な土着的基盤を、仏教の側がみずか ら切り捨てていったということにも、通じるものだと思えるのである。

3.西欧近代における仏教の受容

次に一方、西欧におけるアジアの宗教、なかでも特に仏教に対する関心の あり方のほうに目を移してみると、その関心のあり方は、アジアの近代仏教 改革運動が基本的には対西欧近代合理主義、対西欧列強、対キリスト教とい う対立軸に規定されていたのとは対照的に、基本的にはロマンティシズムと オリエンタリズムに規定されていることが見えてくる。

3.1. 18世紀末–19世紀初頭(東洋ルネサンス)

大航海時代以降、世界各地に宣教師を送り込み、また植民地を作り上げて いった西欧諸国の人々が、一八世紀までアジアにたいして抱いていたイメー ジは主に、未開で野蛮な異教徒たちを、キリスト教や西欧文明を伝えること で文明化しなければならないとする、「白人の重荷」としてのアジアという ものであった。

このような否定的なアジア・イメージに対して、「古代の英知の宝庫」とし ての東洋という肯定的イメージが登場してくるのが、18世紀末から19世紀 初頭の「東洋ルネサンス」の時代のことで、その契機となったのが、それまで ヨーロッパ諸言語の起源と考えられていたギリシャ・ラテン語と多くの共通

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性を持つインド の古典語「サンスクリット語の発見」であった。そして、こ の「サンスクリット語の発見」は、西欧の人々に大きな衝撃を与えることと なった。というのは、この発見は、それまで西欧文明の起源だとされていた ギリシア・ローマ文明とキリスト教文明を越えてさらに、西欧文明の起源を さかのぼることができる(その一つの結果がヨーロッパとインド とペルシャ の共通の起源としてのアーリア人という概念である)ということを意味して いたからである。その結果、この西欧文明の起源を求めてのロマンティシズ ムの高まりのなかから、ヴェーダやウパニシャッド を中心とするインド 研究 への関心が強まり、さらにそのような研究の流れのなかから、ギリシア・ラ テンの古典にも比すことのできるような古代の英知が、インドばかりか中国 やエジプトなどにも見いだされることが明らかになっていったのである。

この西欧文明の起源を求めるロマンティシズムのなかから生まれてきた

「東洋の古代の英知」に対する関心は、そののち大きく二つの方向をとるこ とになる。一つは、「東洋の古代の英知」を、西欧におけるギ リシャ・ラテ ンの古典を理解するのと同じような方法で、理知的・学問的に理解していこ うとする方向である。このような方向から生まれてきたのが、インド および 仏教に関して言えば 、現在の欧米におけるインド 学であり、日本においては 近代仏教学の成立とともに生まれてきた現在の印度学仏教学なのである。だ が、この種のインド 宗教および仏教理解は、原典研究というきわめて客観的 な方法をとりながらも、1960年代以前には、かなりのイデオロギー的片寄 りを持ったものであったと考えられる。そして、その端的な例が 、1970年 代に入るまで、タントリズムが呪術的で儀礼主義的で非禁欲的な宗教の堕落 した形態ととらえられて、本格的にはほとんど 研究されなかったという点に 認められる。すなわち、神の恩寵による救済を説くキリスト教にはあまり認 められず、かつ、インド の「ヒンド ゥー・ルネサンス」のなかで普遍主義的 な形で提示された神秘主義に対する関心と、合理主義的・人間主義的な形で 理解し うる仏教をはじめとするインド の宗教に対する関心が高かったからこ そ逆に、近代主義的あるいはプロテスタント的な立場からは迷信としか言い

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ようのないような、呪術的なインド の宗教に対する関心は、低くならざ るを 得なかったのである。そしてこのうちの、合理主義的・人間主義的仏教解釈 が、先に述べたアジアの仏教近代改革運動における仏教理解のあり方に、大 きな影響を与えていくことになったのである。

このような理知的・学問的な「東洋の古代の英知」の理解のなかにもすで に、西欧にないものを東洋に求め、それによって西欧を補完しようとするロ マンティシズムやオリエンタリズムが底流としてほの見えるのではあるが 、 この東洋へのロマンティシズムに明らかに基づく動きこそが 、「東洋の古代 の英知」に対するもう一つの関心の方向なのである。そして、このような方 向を持った動き自体が 、「東洋ルネサンス」自体でもあるのだが 、この「東 洋ルネサンス」の高まりのなかで、もっもと重要な思想的役割を果たし 、か つ、後世への影響力がもっもと強かったのが、ド イツのショーペンハウアー

(1788-1860)であった。彼は、ウパニシャッド をペルシャ語からのラテン語 重訳で読んでその影響を受け、ウパニシャッド の思想を根本にすえながら「意 志の哲学」を形成するのだが、その彼の著書『意志と表象としての世界』は、

そののち東洋なかでも特にインド の宗教や思想に関心を抱く者たちに、大き な影響を与えつづけたのであった。だが、彼がこの本を著したころにはまだ、

仏教は西欧にはよく知られてはいなかった。西欧に仏教が紹介されて、彼が そのののち仏教へと傾斜していくようになるには、フランスのビュルヌフに よる1844年の『 インド 仏教史序説』の出版と、その出版が西欧で引き起こ した仏教への関心の高まりを待たねばならなかったのであった。

3.2. 19世紀後半(特に1870年代)

次に西欧で、東洋に対するロマン主義的な関心が高まるのは、1870年代 のことである。この時期には、イギリスのアーノルド 卿によって『アジアの 光』が出版されて、ヴ ィクトリア期のイギリス人たちのロマンティックな精 神的希求を満足させ、また、仏陀および仏教をそれぞれ、東洋のルターやプ

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ロテスタントに比するような理解も提示されて、イギリス人等の反カトリッ ク感情をも満たすような仏教理解が行われたのであった。さらに、この時期 には、キリスト教東方起源説も発表され、その説は、19世紀半ばまでに西欧 においてすでに十分流布していたヨーロッパ人の起源としてのアーリア人と いう考えともあいまって、キリスト教からユダヤ色をぬぐ いさろうという動 きとも重なり、「東洋ルネサンス」の持つロマン主義が 、ユダヤ人差別とも つながる人種差別的なナショナリズムと結びつくものとして、一方では批判 されるという事態も生じ始めていたのであった。

この時期、仏教に関わるもっとも注目すべき動きは、オルコット大佐とブ ラヴァツキー夫人によって1875年にニューヨークで設立された神智学協会 の運動である。この神秘主義的な運動は、一方では、古代の英知がチベット のマハートマーたちに伝えられ保持されており、それを発見すべきだという ような、今から見れば奇妙としか思えないロマンティシズムをも含むもので はあったが、他方では、スリランカの仏教復興運動に従事して後のダルマパー ラを生み出すのに貢献したり、クリシュナムールティを育てて彼を弥勒の化 身として次期の世界の師ととしたりという形で、その後の仏教および インド の神秘に関心を持つ者たちに計り知れない影響を及ぼすことになった。その ことはたとえば現在でも、人智学を唱えるシュタイナー運動が、もともとは この神智学の影響を受けたものであったという形で、認められるものなので ある。

3.3. 20世紀前半(特に1920年代)

次に東洋へのロマンティシズムが高まりを見せるのは、第一次世界大戦後 の1920年代のことであるが、その背後には、シュペングラーの『西欧の没 落』に代表的に認められるように、世界大戦を引き起こした西欧近代文明に 対する懐疑の念と危機感が認められる。すなわち、世界大戦を引き起こした 西欧近代文明に欠けたものを、東洋精神文明のなかに求めようとするような

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形でのオリエンタリズムが 、高まってきたのであった。

仏教に関するものに限って言えば 、この時期の動きは大きく二つに分ける ことができるだろう。すなわちまず一つは、それまでの仏教に対する知的・

思想的関心を越えて、実際にアジアの仏教国に出向いて出家して、僧となろ うとする者がはじめて現れてきたという動きである。たとえば 、ミャンマー で出家したベネット・マクレガー( イギリス人、1901年得度、比丘名アーナ ンダ・メッテヤ)、アントン・グート(ド イツ人、1903年に得度、比丘名ニ ヤーナティローカ)や、スリランカのダルマパーラのもとでアナーガーリカ

(在家の独身僧)となったホフマン(ド イツ人、1928年得度、僧名ゴーヴ ィン ダ 、後にチベット仏教に改宗)や、真の仏教を求めてアジア各地をさまよっ たフランス人女性アレクサンド ラ・ダヴ ィッド ・ニールなどがそうである。

この彼らにほぼ共通して認められる特徴にはまず、東洋の神秘および仏教へ と傾斜していく契機としてのショーペンウハワーと神智学協会と大菩提会の 影響の大きさがあげられる。そしてもう一つの特徴は、最初期に出家したマ クレガーとグートを除けばほとんどが、アジア各地の仏教遍歴を重ねている という点である。たとえば 、ダヴィッド・ニールを例にとれば 、彼女は、青春 期のグノーシス派などのキリスト教神秘主義への関心が、ロンドンでの神智 学協会との出会いを契機として東洋へと向かい、一方では、鈴木大拙と手紙 のやり取りを行いながら、他方では、スリランカでダルマパーラの影響を受 けて西洋で初の大菩提会の支部をライプチッヒに創設する。しかしのちに、

スリランカの一般的な仏教が持つ中世的迷信の世界に失望してチベット仏教 へと傾斜する。だがそこでも、ダライラマ体制という仏教的カトリシズムを 嫌悪して、オックスフォード で教育を受けた若いラマとともにシッキムでチ ベット仏教のプロテスタント的改革に取り組むが、結局はシッキムから国外 追放されてしまう。そしてそののちは、日本(鈴木大拙のところ)や中国へ 渡るといった遍歴を重ねたのち、フランスへ戻ったのである。

次に、この時期のもう一つの動きとしては、西欧各地に小規模ながらも仏 教センターが創設されていったということがある。たとえば 、ド イツではド

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イツ仏教教団(1921年創設)や仏教の家(1923年創設)などが、イギリスで は神智学協会支部(1924年創設)や大菩提会支部(1926年創設)が、フラン スでは仏教友の会(1929年創設)が、次々と創設されていったのであった。

3.4. まとめ

以上の第二次世界大戦以前の西欧における仏教の受容のおおまかな歩みを 振り返ってみると、その歩みは、学問的・思想的な仏教への知的な関心(18 世紀末ー19世紀初頭および19世紀後半)から、宗教的・実践的な関心(20 世紀前半)へと、着実な歩みを徐々に重ねてきてはいるが、やはり大きくは、

アジアの仏教近代改革運動が大きくは対西欧近代合理主義・対西欧列強・対 キリスト教という対立軸に規定されていたのと対照的な形で、各時代の変化 や要請に答えるような形でのロマンティシズムやオリエンタリズムに規定さ れたものであったと言えるだろう。だが 、戦後1960年代のカウンター・カ ルチャーのなかから高まってきた東洋に対する関心のなかから生まれてきた 西欧の仏教運動には、その発生の契機にはロマンティシズムやオリエンタリ ズムが大きく作用しているとは言え、日本の戦後の宗教の動きと対比してみ ると、西洋と東洋という対立軸を越えた同時代性のほうがむしろ多く認めら れるように思われる。そこで最後に、この同時代性を持った日本と西欧の仏 教の動きを対比させながら、その意味について考えてみることにしたい。

4. おわりに—戦後における西欧と日本の仏教の動きが持つ 同時代性と仏教の未来

まず、戦後なかでも特に1960年代以降に現れてきた西欧における仏教の 動きをながめてみると、それは理念的には大きく、瞑想を通して自己の意識 や身体の変容をめざ す「瞑想型」のものと、仏教的理念に基づく精神共同体 の創出や社会改革をめざ す「共同体志向型あるいは社会改革志向型」のもの

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の二つに分けることができるが、現実的には個々の動きそれぞれにこの二つ の要素がさまざ まな形で認められることが多い。

このうちまず「瞑想型」のものとしては、次のようなものが認められる。ま ず上座仏教系統のものには、タイのAjhan ChahによるイギリスのChithurst 森林僧院の活動があり、現在までに50人以上の比丘を生み出している。こ れはタイの伝統的な上座仏教が瞑想法を中心としてイギリスに導入されたも のだが、教義的には無我という西洋人にとっては消極的に見える方向よりも むしろ、瞑想を通して菩提心を磨き、仏性を開発していくというポジティブ な方向を重視している点に、その特徴が見られる。

一方、ミャンマーにおける仏教近代改革運動の流れのなかから生まれてき た在家の瞑想法としてのヴ ィパッサナー内観瞑想も、西欧各地に広まってお り、その代表的なものに、Satya Narayan GoenkaとMahasi Sayadau系統 のものがある。このヴ ィパッサナー内観瞑想法は、もともとは諸行無常・諸 法無我・一切皆苦といった仏教的真理を真に洞察するための技法であるが 、 現在ではむしろ、サイコセラピーやヒーリング(癒し )の技法あるいは自己 の意識や身体の変容を引き起こす自己改造のための技法として、西欧では受 け入れられているのである。

次に東アジアの大乗仏教系統のものには、曹洞禅系統のものとしては弟子 丸泰仙系統のものが各地に200の道場を持ち、また、日本で修行したイギリ ス女性Peggy Kennet系統のもの(Throssel Hole Prioty)がこれまですで に一二人の老師を生み出し 、イギリスだけでも約千人の在家信者を擁してい る。ただし 、この曹洞系の活動は、日本では正統なものとして十分には認知 されておらず、そのためKennetは最近では、中国臨済系のLin-chi Ch’an とのつながりを強めてきている。一方、臨済系統では山田光雲系統のものが ド イツ・オランダを中心に活動を展開しており、また、中国(台湾)の臨済の Lin-chi Ch’an系統の禅(Institutes of Chung Hwa Buddhist Culture)も盛 んである。さらに東欧には、韓国系のSeung Sahn Sunim系統の禅(Kwan Um Zen School)が広まっている。

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また、チベット仏教系統のものとしては、フランスのド ルド ーニュにニン マ派のDilgo Khyentse Rinpocheの道場とカルマ派のセンター(カギュ・リ ン )が、またイギリスにはカルマ派のChogyam Trungpa Rinpoche系統の 道場(サムエ・リン )がある。また、ダライラマ系統のゲルク派のものとし ては、Lama Thubten Yeshe系統のセンターが西欧各地に50あまりもある。

このチベット仏教系統のものの場合にも、重視されかつ西欧に受け入れられ ているのは、その教義というよりはむしろ瞑想法( 観想法)のほうであり、

上座仏教系のヴ ィパッサナー内観瞑想法の場合と同様に、サイコセラピーや ヒーリング(癒し )の技法あるいは自己の意識や身体の変容を引き起こす自 己改造のための技法として、その瞑想法がとらえられているという側面が強 い(その同じ傾向は禅の場合にも認められる)。また教義的には、無我や涅槃 といった一見消極的な見える価値よりも、仏性の開発を重視したり涅槃を宇 宙的真理や宇宙意識への目覚めとしてとらえようとしたりするというように、

仏教的真理をよりポジティブな形でとらえ直そうという傾向も、一般に強く 認められる。さらに、西欧的な形の仏教を生み出していこうとする志向も現 れてきており、それはたとえば 、チベット仏教のゲルク派のLama Thubten

Yesheの系統で、スペイン人やフランス人の活仏が生まれ変わりとして認め

られたり、ダライラマ指導のもとから離れて新たに「新カダム派」を形成し たりといったことが現れてきているという動きのなかに認められる。

次に「共同体志向型あるいは社会改革志向型」のものとしては、まず日本 の日蓮系新宗教の西欧での活動がある。その一つがまず、藤井日達の日本山 妙法寺系統のもので、核廃絶と世界平和を祈念する仏塔が各地に建てられて いる。もう一つは、創価学会系統のもので、仏教的理念に基づく仏国土の建 設の理念を掲げて、現在では西欧各地に約二万六千人の会員を擁している。

また、チベット仏教系では、カギュ派のラマChogyan Trungpa Rinpocheが 理想の仏国土シャンバラの理念を掲げてシャンバラ訓練プログラムを実施し ており、また、ニンマ派のNamkhai Norbu Rinpocheは、ゾ クチェン共同 体ネットワークの形成をめざしている。さらに、小乗(上座仏教)・大乗・金

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剛乗(チベット仏教)の三乗の統合と西欧型の仏教の設立をめざして、西欧 で初めて西欧人自身( イギリス人サンガラクシタ)の手によって創設された 仏教の一派である「西洋仏教僧団友の会」(Friendship of Western Buddhist Order)もまた、一方では、瞑想による高次の意識・存在(つまり仏陀その もの)へと意識変容・自己改造を行うことをめざして、性的禁欲を守る同性 の独身者たちによる精神共同体を形成するとともに、他方では、カルナ・ト ラストを通してインド の不可触民の支援も行っている。また、この種の動き は 、実にさまざ まな広がりを示しており、教戒師として刑務所での更正活 動にたずさわるもの(Agnulimala)、ホスピスやターミナル・ケアーに従事 するもの(Buddhist Hospice Trust)、仏教的理念に基づく教育活動を行う 者(Dhamma School Project)、ホームレス支援を行う者(サムエ・リンの Rokpa Charity)や、環境問題と関わって緑の党から立候補する者(ヴィパッ サナー内観瞑想法系統のCharistoper Titmuss)など をも生み出している。

そして、このような動きは、多少のニュアンスの差はあるものの、西欧ばか りかアメリカやオーストラリアの近年の仏教の動きの中にも、大きくは認め られるものなのである。

以上のような西欧における仏教の動きを概観してみると、それが、今のと ころはまだ、カウンター・カルチャーのなかでの東洋に対するロマンティシ ズムやオリエンタリズムの痕をかなりの程度ひきづりながらも、これまでの 西洋と東洋という対立軸を越えた世界的あるいは地球的問題、なかでも特に 日本をも含む先進諸国が現在共通に抱えている問題に対する同時代的対応と いう形を取り始めているのだということが、強く感じられる。すなわち、サ イコセラピー、ヒーリング( 癒し )、ホスピスとターミナル・ケアー、瞑想 を通しての自己の意識や身体の変容、精神共同体のネットワーク形成、核問 題や平和運動、環境問題といった、西欧における現在の仏教の動きが対応し ようとしている諸問題はほとんど すべて、一九七〇年代以降日本でも急速に 対応を迫られる問題として登場してきたものばかりなのである。

それに対して一方ここで、日本における戦後の仏教の動きを振り返ってみ

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ると、まず戦後から高度成長期までは、都市化の流れのなかで、一方では、

創価学会・霊友会・立正佼正会等の新宗教の伸びに見られるように、仏教近 代改革運動が戦前において切り捨てた、貧・病・争からの現世利益的な救済 を願う民衆の宗教性や霊の世界などの目に見えない生命に対する土着的信仰 が、すくいあげられて復興してくるという動きが見られた。それに対して、

仏教近代改革運動の流れを汲む既成仏教側の都市化への対応としては、「家 の宗教」から「個人の宗教」への転換をめざ すような形で、同朋会運動(浄 土真宗大谷派)、門信徒運動(浄土真宗本願寺派)、おてつぎ運動(浄土宗)、 一隅を照らす運動(天台宗)などのさまざ まな運動が生み出されてきた。だ が、これらの運動は総じてすべて、結局は、寺檀制度という「家の宗教」の 基盤に立つ寺院の側が押し進めざるを得ないという自己矛盾を克服すること も、また、現世利益や霊の世界への土着的な信仰を有効な形で取り入れてい くという方向を取ることもなく、下火になっていったのである。その後、オ イルショック以降の高度産業管理社会あるいは高度消費社会あるいは心の時 代においては、創価学会等の新宗教が「現世利益」路線から「生きがい」路 線へと変更を行うが、その教勢が拡大するということはもはやなかった。そ れに対してむしろ勢力を伸ばしたのは、自己の意識や身体の変容による自己 拡充や宇宙意識への目覚めや死後の世界の強調などの神秘的・呪術的な非合 理性を強調するような形の新新宗教のほうだったのだ。

このように戦後の西欧における仏教の動きと日本における仏教を中心とす る宗教の動きとを対比してみると、西欧における仏教の動きと日本における 新新宗教およびそれを支えた「精神世界」の動きとが顕著な同時代的共通性 を持っていることが見えてくる。たとえば 、自己の意識や身体の変容による 自己拡充や宇宙意識への目覚めといった神秘主義的傾向などがそうである。

そして、この共通性が注目に価するのは、すでに述べたようにそれが、西洋 と東洋あるいは西欧近代文明と東洋精神文明というこれまでの対立軸を越え るような同時代性を持って立ち現れてきているという点にある。そして、こ のことはまた、この二つの動きが、中世的な宗教と近代的な科学という対立

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軸をも越える可能性を持って立ち現れてきているという点とも結びついてい る。すなわち、この種の動きがともに、サイコセラピーやヒーリングなどと も結びついていくということに見られるように、トランスパーソナル心理学 やホリスティック医学などのニューサンエンスの動きとも密接にからみあっ ており、その意味でこれまでの宗教と科学といった対立的な枠組みのなかに 収まりきらないものをそのなかに含み込んでいるばかりか、近代科学的世界 観がこれまで提示してきた日常的現実が持つリアリティーを越えたもう一つ のリアリティーを提示し うる可能性をも秘めているのである。

確かにもちろん、このような神秘主義的傾向を持った動き(欧米では「ニュー エージ運動」と呼ばれ日本では「精神世界」と呼ばれる)のなかからは、ア メリカでは人民寺院や天国への門といったカルトや、日本ではオーム真理教 といった新新宗教という、センセーショナルな事件をまきおこしたものも生 み出されてきている。だがそれにもかかわらず、もし宗教が人間にとってこ れからも必要なものであり、かつ宗教のなかにこれまでのような近代を越え る可能性を見いだそうとするならやはり、西洋と東洋および宗教と科学とい うこれまでの対立軸を越える可能性を含んだ、このようなかなりの危うさを も伴う動きのいずれかに、宗教の未来を見いださざ るを得ないだろう。すな わち、アジアの仏教近代改革運動が一方で犯してしまった愚、つまり宗教的 世界が持っていた目に見えない生命に対するリアリティーを成り立たせる感 性的な土着的基盤を前近代的な迷信として自ら進んで切り捨てていったとい う愚に似たことを再び繰り返さないためにも、可能性とともに危うさをも含 むこの種の動きを、なんとか市民社会の中に軟着陸させていく方向に、これ から進んでいかなければならないだろうと思われる。そして、日本をはじめ とするアジアの仏教もまた、欧米における近年のこのような宗教の動きや前 述の仏教の動きと、これからも無縁でありつづけることはできないはずだと 思えるのである。

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参照

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