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鮎川信夫と 『新領土』 (その6)

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(1)

鮎川信夫と 『新領土』 (その6)

著者 中井 晨

雑誌名 言語文化

巻 7

号 1

ページ 1‑56

発行年 2004‑08‑20

権利 同志社大学言語文化学会

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000004693

(2)

鮎川信夫と『新領土』 (その6)

1

中 井   晨

29.  『新領土』創刊のころ

1937年、日支事変以前、物価はすでに高騰していた。『セルパン』4月号は、

「社告」に値上げを予告した。出版関係の材料工賃の急激な奔騰、「就中、紙 の値上げは全く息もつがせぬ矢繼早の驅足で、この一二ケ月の間に に三 割五分以上も上つて」おり、「紙はまだ上る」といわれているのである2

『英語 年』は、8月15日号から、価格を据えおき、頁削減に踏み切り、従来 の36頁から、12年前の32頁立てに復帰した。「今年に入り洋紙や印刷費が暴 騰して現下雜誌經營者の苦労」は想像外のものであり、大資本を擁する新聞 ですら「七月から二割乃至二割五分の定價値上げを斷行」したのである。値 上げは見送り「四頁減によつて生ずる費用の餘裕を以て、増大した經費の幾 分なりとも補ひたい」3という覚悟であった。

『セルパン』5月号は、定価を従前の20銭から25銭とした。同号、大宅壯 一「インフレ時代とサラリーマン」によれば、大学卒の初任給が百円以上、

ボーナスも何百割という景気のいいところもあるが、一般には著しく低下し ており、「大學専門學校を出て三十圓、四十圓などといふのが珍しくない」

のであった。「一方、物價は惡性インフレの波をうけて暴騰に暴騰をつづけ て」おり「この物價騰貴の打撃をもつとも多くうけるのは、このサラリーマ ン層である」4。つづく記事「サラリーマンの初給調べ」は、「物価が約二割 高くなつた」この時期の初任給の一覧を示している。たとえば、理研化学研 究所では帝大出で支給されるのは月60円、女子では、三菱重工業のタイピス トは30円であった。また、結婚相談所で女性の求める男性の条件は「一萬圓 以上の財産か、百五十圓以上の固定給があるもの」5であった。

「言語文化」7-1:1−56ページ 2004.

同志社大学言語文化学会©中井 晨

(3)

その、『セルパン』5月号は、『新領土』1937年5月創刊号の小さな広告を掲 載した。定価30銭、4月20日発売6。それは、25銭となった『セルパン』5月 号が書店にならぶ頃であった。

『新領土』5月創刊号に、村野四郎は「サラリーマン週間 陽氣なコーラ ス」7を寄せた。その冒頭、社内の一齣である。

グリセリン奔騰

モシ モシ買つてるヤツは誰です アア モシ モシ モシ モシ 切つて了つたナ

タイピストには沈丁の匂がする

グリセリンは化粧品にも使えるが、ノーベルが発見したように、ダイナマ イトなど爆薬の原材料ともなる。それが、品不足で価格が高騰した。どこか の買い占めにあったのだろう。だが、こんな焦臭い連想をさえぎるように、

タイピストの化粧の香りが室内にただよう。

詩人はタイプを打つ音をききながら、思う。

しかし君たちには君たちの打つリベツトについて考へたことことがある か

事務を執る社屋の外では、その書類をもとに、資材が供給され製品が作られ るのだ。

机上の書類を処理する青年もまた、社屋を離れた遠隔地を結ぶ。

見たまへ

黄色い支那領事インボイスには 署名が落ちてゐる

彼は旗を記載した船荷證券ピ ー エ ルのピンで 指先を傷けpolicyを血で汚した

(4)

書類の不備にいらだつ青年の指がすべって、ピンがささる。血は小さく書類 を汚す。ささいなことである。だが、仕様を満たした製品は、貨物船で支那 へ運ばれるであろう。詩人は、コメントを控えながら、時代を投影する。村 野おとくいの、サタイアである。

理化学興業は、1927年、理研化学研究所の発明を製品化する事業体として 発足した。そして、詩人はその総務部にいた。

「理研コンツエルン出版株式會社」から『科学主義工業』が創刊されたの は、奇しくも、『新領土』と同じ、5月のことである。村野はその編輯を担当 したひとりであった。つづく6月号も、その内容は「社報」と「交友倶楽部 報」をあわせたものである。創刊号「編輯後記」8によれば、「理研コンツエ ルンの傘下に集り又は新に生れる會社が多くなるに從つて、それ等の役員、

社員間の精神的、事務的に無連絡、不統一であつては、コンツエルンの威力 を發揮する上に寔に不利である」ので、「聨合社報」を発行する話があった ところ、「社員問の親睦を圖る目的」で各種の倶楽部が生まれたので、その

「部報」との合体となったのである。誌名を与えたのは、コンツェルンのリ ーダー、理化学研究所所長の大河内正敏である。村野は、「「科学主義工業」

は理研コンツエルンの使命をパラフレーズするもの」と記した。『科学主義 工業』は7月号から「工業経済総合雑誌」と陣形を一新して、前月に創設さ れた「科学主義工業株式會社」から刊行されることになった。同社の担当部 門は、出版と機械器具販売であった。

コンツェルンは拡大をつづけていた。7月には、電機抵抗器、無線機を製 造する理研電具が創業された。「コンツエルンの威力」は、国策の上にさら に発揮されてゆくであろう。詩人、村野がのちに関わるのが、この理研電具 である。彼はこう記している。「理研コンツェルン本社から派遣されて理研 電具株式会社の常務取締役となり、電気通信器部品の製造に当たる」と。彼 は「陸軍造兵廠、艦政本部、航空本部の共同管理工場の責任者」となったの である9。1940年12月のことである。この月、内閣情報部が情報局となり、

他方、出版新体制を担う日本出版文化協会が創設された。このとき、理研電 具の「若い重役」10村野は、新体制の下に創設された日本詩人協会の代表で

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もあった。

『新領土』創刊の年、そして、日支事変勃発の前、理研コンツェルンの本 部たる理化学興業の社内風景は、大変化の予兆をわずかに示しながら、なお も平和的であった。

若いサラリーマンの休日はこうだ。

彼の日曜はコダツクを持つて出かけた 頭の中で古い雲雀が歌つた

野原には豫告を意味するものは何もなく 樹はただ地から立ち

愛人は彼の手を執つて

‥‥に笑はれるたび毎に 年の肩のところで赤くなつた

恋人は、まさか、青年の値踏みをしていたわけではあるまい。二人が歩む

「野原には豫告を意味するもの」は何もない。ささやかな新家庭を夢みてい るのであろう。ただし、「‥‥」にあったのは、「兵士」であった。サラリー マンが兵士に出逢うのは珍しいことではなかった。しかし、戦いと無縁のと ころで幸せを夢みることに、ためらいがあったのだ。

村野の原稿には「‥‥」はなかったであろう。それは、発行に先立つ、編 輯あるいは印刷の過程で、何らかの配慮、すなわち、自己検閲が働いたこと を示している。他方、すでに、検閲に遭遇した経験をもつ詩人がいた。『セ ルパン』の春山である。

春山が編輯長に就任してほどない頃、1935年5月号『セルパン』は、二つ の特輯を組んだ。ひとつが、当時の新しい能動精神の勃興を受けた「能動精 神辭典」であり、もうひとつが、全訳特輯「スターリンとウエルズの討論」

であった。「討論」は1934年8月にH・G・ウェルズがロシア作家会議にペン クラブを代表して訪れたときのものであり、その内容はもちろん、共産主義 体制をめぐるものであった。編輯には工夫がしてあって、「それを繞るシヨ ウ・ウエルズ・トルレル・ケインズの批判と反駁」を加えて、一方的な視点

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を避け、さらに、批評と反駁をした4人の紹介を附したものであった。

翌6月号「編輯後記」によれば、この5月号は「劃期的成功を収め、特別號 編輯に關するいい經驗」となった。ただし、「討論」のうち5頁が「當局から 削除を命ぜられたことは遺憾」であった。春山は「「改訂版」のために書店 や讀者に對して尠なからぬ迷惑をかけたことは、僕の不明の致すところ」11 と詫びなければならなかった。この「改訂版」は削除ではなく文字を「×」

とすることによって処理されたものと思われる。

この「いい經驗」からえられた感想はこうである。

誤植のことは問題外として、伏字といふものが存在するのは、僕の知 つてゐる範圍では日本文化の特殊な事情でないかと思ひます。若し伏字 といふやむを得ない便法が雜誌の側に存在しなかつたら、今日の思想・

文化・文藝雜誌はどんな 態に陷るか、想像できない程です。この問題 は我々文化雜誌編輯者にとつて、可なり大きな宿題である筈だと思つて ゐます12

彼は、1935年、この「五月號から八月までに、三囘、當局の忌諱に觸れ」13 て呼出を受けたのである。「當局の忌諱」は、「編輯兼發行人」である第一書 房社主長谷川に累は及ぶことはなく、実質上の編輯者春山が対応したのであ ろう。『セルパン』は快調に売上げを伸ばしはじめており、長谷川と春山の、

いわば、蜜月時代であった。しかしながら、その後の『セルパン』には、慎 重な雰囲気が漂いはじめる。具体的には、伏字の減少がそれである。

『新領土』創刊の年、『セルパン』は、1937年の「はじめ頃から、大部分 の原稿を社内でつく」るようになった14。従来どおり海外の新聞雑誌の翻訳 があり、また、国内での依頼原稿も豊富であるが、その他の原稿を社内でつ くることは、スタッフが強化されて誌面の充実を図る体制が整ったことを意 味する。ただし、それは同時に、「當局の忌諱」に触れぬための「社内」で の、自己検閲をも意味していたのである。

創刊号以来、『新領土』が紹介しようとした海外の詩と評論が、ニューカ ントリー派、あるいはオーデンたちのグループのものであった。編輯には万

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全の方策が講じられなければならぬのである。

36頁立ての最後となった『英語 年』8月1日号は、日向堂主人「風雲を 孕む歐州」を掲載した。スペイン内乱の勃発一年後の状況、おそらく、ロン ドンの状況を、匿名の「わが國有數の外交批評家」15は、こうはじめた。

歐州の空を蔽ふ雲の色がだんだん くなつて來る。電が不氣味に閃く、

雷がとどろとどろと耳近く迫る。大粒の雨が今にも落ちて來さうな天氣 模様で、櫓の上にはとうから赤標識があがつてゐる。そこらを行交ふ 人々は、大戰直前そつくりだと言つて通る。それもその筈で、Harold Laskiの如きでさへ二年以内に戰爭があるかも知れぬと言つたさうだし、

今度Baldwinに代つてイギリスの首相になつたNeville  Chamberlainが保守 黨の黨首に選ばれた過日の席上謝辭の結句にThese  next  two  years  may well  be  critical  in  the  history  of  Europe. と言つてゐる。苟もせぬ筈の學者 や政治家の言葉だけに、こやつ唯ごとではない16

末尾に「七月八日」と記されている。それは、蘆溝橋での衝突の、翌日のこ とである。

32頁となった『英語 年』8月15日号、「英學時評」を福原麟太郎はこう はじめた。

日支風雲急ならんとして今日(七月二十三日)やうやく鎭靜の徴が見 える。どうなる事か解らないが、今度は、滿州事變の時よりも上海事變 の時よりも、國民の Response  が強かつたやうに感じる。すくなくとも この事件を機縁として,國民が國家的に感動し國家的に思考する經驗を しただけは確かである17

記事に日付を入れねばならぬほど、事態は急速に動きはじめたのである。

「サラリーマン週間 陽氣なコーラス」を書いた同じ村野がいうように、こ の年、1937年「下半期」の「戰爭による異常なニユースの汎濫」18がはじま るのだ。

(8)

洋書からの情報収集に関して『丸善百年史』によれば、1937年1月、輸入 為替許可制が採用され、洋書の輸入は実績によって無為替輸入許可証の交付 を受け、送金にあたってはその許可証番号を附して許可を受けることになっ た。さらに、6月、洋書の輸入取締が強化された19

日支事変勃発後、9月10日、輸出入品等臨時措置法の施行により、内務省 警保局は輸入されて市販されるものを検閲し、また、税関は通関に際して検 閲することになった20。国内の新聞雑誌についていえば、8月には事変勃発 の影響での発禁処分が激増した。発禁はもちろん書籍にもおよんだ。たとえ ば、第一書房版をひきついで岩波文庫から9月1日に発行された『ソヴェト紀 行記』も、そのひとつである21

9月16日、内務大臣は、出版業界の統制推進のため、大臣官邸に有力雑誌 10社の社長を招き、国民精神総動員運動の趣旨を述べ協力を要望し懇談した22。 そして9月24日、内務省警保局図書課と出版社有志によって「戦時出版取締 りに関する座談会」が開催された。この席でこの種の会合が有意義であると して、「取締り当局と意見の交換や相互連絡の場」を定期的に開催すること になり、10月15日に「出版懇話会」創立総会が開催された。同会は、出版関 係54社と検閲当局から構成され、図書課長を名誉理事長とし、毎月第三水曜 日に内務省会議室で懇談がおこなわれた。そこでは、毎回図書課から具体的 な「内示」があり、検閲の際発売禁止に触れる恐れのある事項がそのつど提 示・説明された23。内務省の動きは、国家総動員法のために国民精神総動員 の運動を開始した内閣情報部の戦略と表裏一体であった。

『文藝汎論』12月号に、「今年も遂にバンザイ、バンザイといふ悲痛な聲 と、あはたゞしい□□□の出征の旗の中に終らうとしてゐる」24と村野は書 いた。春山は、『セルパン』新年号の追い込みのさなか、こう書いた。

南京陷落の報とともに、この雜録を書いてゐると編輯室の前を、さか んな提灯行列が靖國神社に向つて行進してゐる25

『新領土』創刊の年、『セルパン』の印刷納本を翌日に控えた、12月14日の夜 のことである。

(9)

30. 『詩法』―『新領土』の前史として―

鮎川信夫がのちにいうところによれば、戦前のモダニズム運動は、『詩と 詩論』にはじまり『新領土』に終わる26とされる。運動には、その拠点とな る出版物が不可欠である。その拠点がこれらの詩誌であった。しかも、運動 を目指すならば、詩誌とはいえ、広い読者を獲得することが必要である。そ のとき、その出版社あるいは出版者を抜きにして語ることはできない。それ が詩誌をささえ、さらに流通を担うからである。以下、しばらく、これら詩 誌の刊行形態について、あらためてふり返ってみよう。

『新領土』に先行するのが、『詩と詩論』、それを継承する『文學』、そし て、これらに継ぐ『詩法』である。これらすべてに関わったのが春山、そし て、近藤東である。『詩と詩論』以降の、刊行形態を一瞥しておこう。

1928年に創刊された季刊誌『詩と詩論』は、同人制であった。近藤によれ ば、同人といっても準備金以外は徴収されず、個人間の交渉はあっても、同 人会議などはほとんどなく、「もっぱら春山の卓絶した編集手腕への信頼と、

発行所、厚生閣のバック・アップで刊行された。但し、厚生閣は編集方針に は一切不干渉」であった27。また、春山によれば、執筆者への原稿料も編輯 への報酬もなかった。厚生閣の仕事とは別に、広告文案も含めて「企画、原 稿集めから割付け・校正まで」すべてひとりで、帰宅後に自宅で行われた28の である。この形態は『文學』へひきつがれ、1933年6月で終わった。翌年 1934年、8月1日を刊行日として刊行されたのが、月刊誌『詩法』創刊号であ る。

1934年8月創刊号『詩法』の「後記」に、春山は、この雑誌の「成立した 動機や組織や經濟やなど、さういふことは實ははつきりしてゐない」という。

しかしながら、彼の目指す方向は明らかであった。すなわち、一年前に『文 學』を休刊してから、そこに集まっていた詩人たちがさまざまなグループを 作ったが、「いろいろの點で不便」であった。しかも、「純粹な詩の雜誌で一 般的なもの」がなかった。純粋な詩の雑誌の場合は「同人費の負擔が長くつ づき雜誌の販賣組織も不完全で僅かに市中の目ぼしい書店に並ぶ位」であり、

他方、「販賣組織の比較的完備したものは經營上どうしても商業的な色彩が

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加つて研究とか主張とかいふ機關ではなかつた」のである。同人雑誌と商業 的な雑誌をつなぐ方策としては、とにかく発行して、その間に雑誌の性格を 整えた上で「どつかの書店に經營して貰つたらどうだらうかといふので、仲 間で應分の負擔額をきめて雜誌を出す」ことになった。この話を紀伊國屋書 店の田邊茂一にしたら「 座に發行を引受けて」くれたのである。ただし、

春山の希望で「どの程度まで經濟的に成立つてゆくかが判るまではやはり半 同人組織で、欠損の負擔もその都度合理的に解決してみたらといふ暫定的な」

ものであった。もちろん、利益は見込めないので、軌道に乗るまで田邊がそ の大部分の負担を支えざるを得ない。出版社には迷惑をかけるが、それでも

「雜誌の配給といふ上からも現在の詩の雜誌では最も理想的」な態勢が整っ たのである。出版社がもつ配給販売のルートに乗ることによって、雑誌は閉 ざされた同人雑誌ではなく、読者層を拡大することができるのであった。

紙質が普通の詩の雜誌から見ると惡いのは經濟的條件が決定的なもの でなく出來るだけ永續のできる條件と、頁數を多くすること、配給を擴 く持つことなどの理由によるもので、若し幾分でも賣れるやうな事情に 出逢つたらこのままで百二十頁位までの雜誌をつくりたいと思つてゐ る。僕はこれらの點のすべてに無理のないことを基礎として、歪みに歪 んだ日本の詩壇の外部的習慣を修正してゆきたいと思ふ29

『詩法』の刊行を引きうけた田邊の紀伊國屋出版部は、能動精神あるいは 行動主義の拠点となった雑誌『行動』を出しており、春山もその執筆者のグ ループの一員でもあったから、「 座に」きまったのであろう。

春山のいう仲間の「應分の負擔額」がどれほどであったか判らないが、近 藤の回想記によれば、さらに、毎月二名ほどの地方の詩人たちをスカウトし、

一回2円ほどの掲載料を徴収したという。編輯事務は近藤が担当し、「「詩と 詩論」の方式を踏襲し」て、紀伊國屋が「編集には一切不干渉、印刷費と販 売事務だけを引受け」たのである。『詩法』に同人格として関わったのが、

春山、村野四郎、渡辺修、坂本越郎、安西均、そして近藤であった30。誌名 は、マックス・ジャコブのL’art Poetiqueを借りた。エリオットのThe Waste

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Landが登場した年、1922年のものだが、堀口大學訳『詩法』として、第一 書房から1931年6月に刊行されていた。話題の書であった。

こうして、『詩法』創刊号は、編輯者を近藤東、発行者を田邊茂一、印刷 者を深町正人、印刷所を郁文堂印刷所として、「紀伊國屋書店」から刊行さ れた。創刊号は、82頁、一部50銭であった。ただし、次号の奥付からは、田 邊の名前は消えて、近藤が「編輯者兼発行者」となり、発行所は「紀伊國屋 書店出版部」となる。体制が整ったのである。同号が記すように、少数なが ら第1号から上製本も作られていたようで、これは見本を紀伊國屋の店頭に おいて、予約を受けることとなった31

発行部数は不明だが、多くなかったことは確かである。同じ『詩法』第2 号はいう。

『詩法』は雜誌の性質として大量の印刷が不可能なので、全國書店に 充分配給するだけの數はありません。出來るだけ豫約を望みます。この 種の雜誌はよく途中で休刊して豫約者に迷惑が及ぶことがありますが、

『詩法』の會計は全部紀伊國屋に所屬してゐて編輯とは別ですから、こ ういふ迷惑を及ぼすことはありません32

「この種の雜誌」としてはやはり、広範囲にわたる配給は困難であった。打 開策が予約制の活用である。そして、経営には紀伊國屋が背後に控えていた のである。

もちろん、編輯所は紀伊國屋とは別であり、「編輯上の用件」は近藤方

「『詩法』編輯所宛」と明記された33。『詩法』の編輯者兼発行者は近藤だが、

「印刷所がすぐ近くなので、校了が近づくと」中野区に住んでいた春山が出 掛けて「全部の仕上げ」をした34。まさしく『詩法』は「半同人組織」であ った。

1934年8月からはじまる『詩法』は、この年の終わりに春山が『セルパン』

の編輯長となったために、「企画から発送まで」「隔日に二十四時間徹宵で勤 務といふ、一寸一般人には想像がつかない」定職35、すなわち、国鉄の車掌 であった近藤が奮闘することになった。1935年5月1日発行の第10号までは、

(12)

毎月、発行を1日、印刷納本を前月28日として、順調に刊行されていた。そ して、つづく第11号は、印刷納本を5月28日とし、6月1日の発行となるはず であった。しかし、奥付は、印刷納本6月5日、発行は7月1日となった。近藤 は記す。

發行が五日おくれたので、デイトを二十五日くり上げた。不惡36

予定されていた発行日、6月1日を6月5日としたから、「五日おくれ」であ る。他方、実際の発行日、7月1日を規準として6月5日を見れば、発行を「二 十五日くり上げた」ことになる。ただし、その6月5日は、印刷納本日なので ある。つまり、近藤は、印刷納本日を逆手にとりこれを実際の発行日と強弁 することによって、辻褄あわせをしたのである。しかも、発行日を7月1日と しておけば、次号の発行日予定日8月1日との間に齟齬はなくなる。巧妙であ る。この方策で『詩法』は月刊誌の体裁をつくろうことができる。紀伊國屋 は講読予約を受けており、「半同人組織」でありながらも「半商業的な經營」

に影響を及ぼすことはできないのである。

次号第12号は、印刷納本を、従来の28日から若干くり上げて、7月25日と し、発行日を8月1日とした。つづく第13号も、それぞれ、8月25日、9月1日 である。従来に復帰したのである。ただし、この1935年の第13号で、『詩法』

は途切れる。

『詩法』の終刊は突然であった。終刊宣言のようなものはない。事実、編 輯者近藤がその「後記」に記すように、この号にはいつもどおり「原稿の洪 水に會つて、内心は喜んだが、仲仲面喰つた」のである。近藤はつづける。

頁數を限定するなんてことは良い雜誌を出すといふことには全然比例 しない條件ではあるが、百か二百の雜誌ならばとにかく、半商業的な經 營をとつて行くには、やはり或る程度の自制がないと永續して行かぬと 思ふ37

『行動』もまた、同年、9月号をもって終刊となった。その理由も判然と

(13)

しない。『行動』終刊を受けて、『セルパン』10月号は特輯記事「行動主義の 前途」を組んだ。記事を寄せたひとり、 野季吉は雑誌の廃刊の理由を、

「たぶん商品としての見透しが持てなかつた為であらうと、簡單に理解」38す る。「たぶん」ということばは微妙である。特輯を組んだ編輯長春山の視点 は、「雜誌「行動」の廢刊によつてエポツクに達した行動主義の、一方に於 て經過批判であり、他方に於ては前進計畫」39であった。ただし、行動主義 の「前進計畫」については、執筆者は触れることがない。まさに、行動主義 運動のエポックが『行動』廃刊によって画されたのである。あるいは、行動 主義は「商品としての見透しが持てなかつた」といいかえてもいい。しかし ながら、廃刊の理由は不透明である。他方、のちに『新文化』の編輯長とな る十返一の回想によれば、「赤字つづきで、さすがの田辺茂一もお手あげに なり、残念ながら廃刊に踏み切った」40といわれる。

「原稿の洪水」のさなかにありながら、『詩法』の終刊もまた、「商品とし ての見透しが持てなかつた」から、と「簡単に理解」しておくべきであろう か。それ以上のことは本稿が関知するところではないが、間違いないことが ある。商品としての雑誌を可能にする決定的な物資、用紙の不足が理由では ない、ということである。

後年、近藤は、『詩法』は「出版元も編集陣もダレ気味になって十三号で 廃刊した」41と記している。だが、「編輯人」たる近藤の活躍を誌面にたどれ ば、別の要因も考えられる。彼は、発行が遅れた第11号にこう書いていた。

言論が壓迫されるとレトリツクとジエスチヤが發達する。僕たちが言 い度いことを功利的に言ふには、いろいろな身振りと言い廻しを工夫し なければならない。これは非常に悲しいことである。しかし同時に愉快 なことである。この内面的な世界と外的條件の矛盾によつてサテイルも 生まれるのだ。僕は言ひたいことだけは全部言ひたい。そして全部言ふ にはウマク言はねばならない42

これは近藤のサタイアの詩法として読むべきだが、「いろいろな身振りと 言い廻しを工夫しなければならない」悲しい状況が存在していた。サタイア

(14)

はそれを逆手にとる方法であった。つづいて近藤が記す、アメリカ映画『情 熱なき犯罪』の主人公の科白「法によつて罰せられるもの、それは愚鈍であ る」を借りれば、無防備な詩人は、「法によつて罰せられる」状況があった のだ。

第13号の「後記」が書かれたのは、近藤が「原稿の洪水」と格闘して編輯 を終え、郁文堂印刷で仕上げをしていた頃、おそらく、8月20日前後と推測 できる。

天災地變が各地に相亞いで起つて、誌上から御見舞申上げる。別に關 係はないことは判つてゐるが、かう續いて突發すると、そこには何か我 我の社會機構によくない點がある爲ではないかなどと、考へられぬこと もない。昔、支那では洪水などが優に《惡政の天罰》と意義づけられて、

政治變革の原動力になつてゐる。近頃頻發する天異が、惡政のしからし むるところでなければ幸ひである43

この夏の気象は異常であった。6月29日の京都大水害を皮切りに水害は大阪 におよび、ついで、筑後川が決壊して福岡地区に大きな被害が発生した。翌 7月3日には小豆島付近を航行中の大阪商船みどり丸が大連汽船千山丸と衝 突・沈没し、犠牲者は100名をこえた。5日、関西地区は台風のため、ふたた び集中豪雨となった。15日、三井田川炭鉱でのガス爆発事故、台湾では、17 日、4月21日の大地震につぐ大余震が発生した。8月になっても異常気象はお さまらず、10日からの豪雨で東海道線は京都大阪間が不通となった。鉄道人 ならずとも嬉しいことは、この事態にもかかわらず、特急つばめは、その威 信をかけて、奈良経由で乗客を運んだのであった。

ただし、出版社とその配給ルートを断たれたならば、『詩法』はその読者 を失うことになる。それを予期していたのではあるまいが、《詩法の會》が 開催されたといわれる。印刷納本8月25日、発行9月1日の、終刊号となった 第13号、近藤の同じ「後記」である。

七月初旬、《詩法の會》といふものをやつた。皆さん集つて戴いて大

(15)

いに感謝してゐる。厚く御禮申し上げます。詩法の會といつても何も我 我のマニフエスト發表やプロパガンダではない。顔見知りになつておい た方が便利でもあり、又平素無沙汰同志の連中が纏つて會談した方が時 間の節約にもならうと思ふのである。今後毎月やりたく思つてゐるが、

會の名は或は變へやうかとも考へてゐる。要するに文學雜談會の世話役 を《詩法》が買つて出たにすぎない程度に考へて戴きたい。そして是非 お出かけ下さい44

「詩法の會」、近藤のいう「文學雜談會」がその後どうなったかは不明だ が、翌1936年、2・26事件の翌月、3月に発足する近藤や村野らを会員とす る東京詩人倶楽部45へのひとつの流れとなったとも推測される。奇妙なこと だが、この種のクラブが各地にできることを歓迎していたその春山は、この 会員にはならなかった。彼は、この年、松本学が7月1日に開催した会合に出 席し、10月13日に結成された「詩歌懇話会」の会員となった。「詩人懇話会」

の前身である46

雑誌が終刊あるいは廃刊となる原因は、『詩法』のように、出版者側のな んらかの都合による場合がある。『セルパン』の場合は、編輯長を交替しな がら『新文化』と改題して続けられるが、これもまた、突然の廃刊となる。

出版元の廃業がその理由である。しかし、『新領土』の場合は趣を異にする。

その経緯については、のちに詳細に検討するが、出版者も印刷者も存在しな がら、終刊となる例となるであろう。あらかじめいえば、末期の『新領土』

の立て直しのために考えられたのが「新領土の會」の再編であった。「詩法 の會」の例が、すでにあったのだ。

『詩法』は『新領土』の前身となり、発行形態も受けつがれた。近藤によ れば、『詩法』に登場した新しい詩人たちが、その「詩欄の原動力」となっ た47。その若い詩人の多くが、同人誌『20世紀』の詩人たち48であった。

最後に、彼らの立場を手短に見ておかねばならない。

『20世紀』は1936年12月1日を発行日として終刊となった。名切哲夫は、

11月4日付の評論「純粹への訣別」を、こう結んだ。

(16)

われわれの新たな創作意慾を表現するに適した新しい方法がなければな らない。詩に於ける社會性と詩に於ける純粹性との衝突の爲に苦しんで ゐる人たちも多い様であるが、これはたゝき毀すべき 成概念に於ける 純粹をそのまゝ固守し、其處へ新しい意慾の對象を盛らうとして矛盾か ら來る澁面である。放擲すべきものは潔よく放擲してわれわれは新しい 發見に向つて進まなければならぬ。こゝにこそ、今後に於けるわれわれ の難關があり課題がある49

永田助太郎は「後記」に記した。

文學のrevolutionか、revolutionの文學か。文學のsubstanceが現象面と 接觸する時、何時もこれ等の問題が文化問題として喚起される。文學の progressive evolution 史的發展はこの點甚だ直線的でない50

『新領土』創刊号の饒正太郎の「後記」は、『20世紀』からひきつがれ た、『新領土』のための、マニフェストとして読みなおすことができる。

われわれは單に知識の収拾者ではない。環境を改造し、修正するシンセ リテを持つことは、われわればかりではなく、今日では凡ての知識階級 に必要なのである。第一號はすでに『新領土』の新しい出發を正確に約 束してゐる51

創刊号の詩篇は、村野の「サラリーマン週間 陽氣なコーラス」を冒頭に おき、春山の「ニンフの嘆き」で終わる。その間に新しい顔ぶれがならんだ。

そのひとつ、名切の「新しい大地」から一部を示す。

歐州の空に人民戰線の聲は高く、響いて來るのは‥‥の唄聲か 僕等は僕等は僕等は僕等は

國境を越へ海岸を渡り

仰いだ夕空に私は落ちてゆく眞赤な太陽を見た52

(17)

若い詩人たちにとって、「新領土」はスペインに約束された、人民戦線の

「革命、、

の唄聲」がひびく「新しい大地」であった。若い、しかも、無防備な 詩人たちにとって、「文學のrevolution」と「revolutionの文學」は、ひとつで あった。『詩と詩論』が「文學のrevolution」としてのモダニズム運動を展開 したものとすれば、『新領土』の運動は新たな段階に入ったのである。創刊 号が、特輯記事のひとつ「イギリスの新詩人」に、オーデン、スペンダー、

デイ・ルイスの詩と評論を訳出したことは、故なしとしない。

近藤は、この『新領土』創刊号の「後記」に記している。

『新領土』をはじめるプランだけやうやく纏めたが、それが軌道に乘 るか乘らぬうちに、私自身が戀愛の側線に進入してしまつたので、目下 戀愛中にて、雜事・俗事、一切應接謝絶の 態である53

彼一流の韜晦とはいえまい。おそらく、そのとおりであったろう。いずれに せよ、一筋縄ではゆかぬ近藤であった。

31. 詩人と出版者

1937年5月創刊号『新領土』の「後記」に春山が記すところによれば、「今 日の詩そのものを、集團的に主張し、擁護してゆく上には、當然一つの機關 雜誌が必要」54であった。すなわち、『新領土』は、「今日の詩」の運動のた めの「機關雜誌」であった。

村野は「後記」にいう。

われわれは過去の同人雜誌がもつた偏狭な不潔さは疾に棄てゐる。われ われは極めてフランクな態度で、生長を豫約する新しい詩人たちの參加 を希望してゐる55

『新領土』も、『詩法』と同じように、同人制をとり、アオイ書房から発

(18)

行された。この詩誌と出版社との関係はどのようなものであったか。

春山は同じ「後記」に、雑誌の刊行形態についていう。「この雜誌は所謂 同人雜誌でも、商賣雜誌でも、そのどちらでもない」と。彼の考えでは「前 者から後者への過渡期の形態で、前者の純粹性と、後者の積極性とをもつた もの」であり、「その意味で、内容的には最も高い世界的水準を目標」とし ており「發行部數の上から云つても、現在の日本では最高位にあるもの」56 であった。彼は、「二三十頁の雜誌を二三百部刷つて一人一頁なんていふ姑 息な犬小舎のやうな詩の雜誌には我慢ができぬ」のであり、「そんな世界で 本當の詩人が育つものならいつでも頭を下げる」57という気概で臨んだので あった。

『新領土』創刊号の奥付によれば、「編輯者兼発行者」は上田保、「『新領 土』編輯所」は上田方、「印刷者」は松村保、そして、「発行所」はアオイ書 房である。名義人のそれぞれに住所が記載されていることはいうまでもない。

「原稿はすべて編輯所宛」とされた。78頁立、一部30錢。送料は3錢。3ヶ月、

6ヶ月、12ヶ月の講読の場合は、送料込みで各号30錢の扱いである。「印刷納 本」は4月18日、「発行日」は5月1日である。

1909年、すなわち明治42年6月に制定されて以降、拘束力をもっていた

「新聞紙法」58によれば、「新聞紙」とは第一条に「一定ノ題号ヲ用ヰ時期ヲ 定メ又ハ六箇月以内ノ期間ニ於テ時期ヲ定メスシテ発行スル著作物及定時期 以外ニ本著作物ト同一題号ヲ用ヰテ臨時発行スル著作物ヲ謂フ」とされてお り、月刊の『新領土』は、それが「商賣雜誌」であるとすれば、その合本も また、この法律の条文によって規定されるものである。また、第十条は「発 行人、編輯人、印刷人ノ氏名及発行所ヲ掲載スヘシ」としていたから、『新 領土』の奥付は、慣例からも、これによっていたのである。他に、納本が義 務づけられていたことは、「印刷納本」を毎月15日として20日前後に書店に おかれる『セルパン』の例に見たとおりである59

第十一条 新聞紙ハ発行ト同時ニ内務省ニ二部、管轄地方官庁、地方裁 判所検事局及区裁判所検事局ニ各一部ヲ納ムヘシ

(19)

「納本ニ就テノ注意」によれば、納本先の内務省は警保局検閲課であり、

管轄地方官庁とは警視庁検閲課である。これら5部の提出先はそれぞれの検 閲課である。納本を怠った場合は新聞紙法違反で処罰されることになってい た60

なお、「時事ニ関スル事項ヲ掲載スル新聞紙ハ管轄地方官庁ニ保証トシテ」

東京市の場合は「二千円」を納めることになっており、「一箇月三回以下発 行スルモノニ在リテハ其ノ半額」とされていた。したがって月刊誌『セルパ ン』の場合は、半額の千円である。『新領土』は事時に関する事項を扱うも のではないから、「保証金」は不要である。しかしながら、これらの事項の ほかにも、「安寧秩序ヲ紊シ又ハ風俗ヲ害スル事項」や「皇室ノ尊厳ヲ冒涜 シ政体ヲ変改シ又ハ朝憲ヲ紊乱セムトスルノ事項」を含め、すべての事項に ついて罰則が設けられていたことはいうまでもない。

納本は「発行と同時」とされてはいるが、現実には発行日以前に行われて いた。昭和9年、すなわち1934年に改正された「出版法」61によれば、書籍は

「発行ノ日ヨリ到達スヘキ日数ヲ除キ三日前ニ製本二部ヲ添ヘ内務省ニ届出」

することになっており、出版法の適用は「新聞紙又ハ定期ニ発行スル雑誌ヲ 除ク」とされているものの、「学術、技芸、統計、広告ノ類ヲ記載スル雑誌」

については、出版法が適用されたから、事前検閲は、日刊紙はともかく、定 期刊行物に適用することが可能である。雑誌の「納本印刷」が「発行日」よ り以前におかれているのは、そのためであろう。この場合、納本は内務省へ 二冊届けるだけでいい62。ただし、部数は問題ではない。事前であれ事後で あれ、検閲があったのだ63

同人誌についても、納本は、以前から慣行となっていた。たとえば、1934 年頃、神戸で謄写版の文芸雑誌をつくっていた島尾敏雄は、「編輯、印刷、

発行の一切の仕事を自分一人でして」、その「うすっぺらな文芸雑誌」を

「内務省に二部の納本をした」64のである。おそらく、納本は「発行と同時」

と見るべきであろう。1937年、『新領土』の創刊と前後して、神戸在住の中 桐雅夫が同じように謄写版刷りの『LUNA』をはじめた。その中桐も、慣例 にならったはずである。

『新領土』は、5月創刊号に少し遅れて、8月号から第三種郵便物として認

(20)

可された。認可日は1937年7月10日である。同人組織による『新領土』もま た、商業誌たる定期刊行物としての形態を整えたのである。この措置により、

一部30錢にたいする送料は、3銭から1銭となった。

『新領土』の財政は、春山がのちに記すところによれば、「創刊のとき一 定の基礎をつくつてそれでやつてゆけるやうにしておいた」ので、編輯者は

「經營上のことは餘り氣にかけないで」刊行をつづけることができた。そし て、「念のため印刷者の松村君」には「物質上の責任は私個人で引受けると は云つておいたが」大体収支を償うことができたのである65

発行所をアオイ書房としつつも、印刷経費の工面あるいは補填は春山がお こなったと考えられる。商業誌でありながら、やはり、『新領土』は同人誌 であった。印刷用紙については、印刷者に手持ちがあればいいが、その不足 が深刻化するにつれ、用紙の供給を受けるのは、発行者となるのである。

「印刷者 松村保」、すなわち松村印刷所は、当時の事情に詳しい山本夏彦 によれば、活字を組んで製版をするだけの町工場で、印刷は刷り専門の町工 場に出していたという。松村は、雑誌『作品』の印刷を担当したことがあり、

今は、『四季』の仕事をしていた66。詩誌『新領土』を担当するための実績 があったのである。そして、松村は、ときおりアオイ書房の印刷を請け負っ ていた。

『新領土』がアオイ書房から刊行されるにいたった経緯は不明だが、すで に、その雑誌『書窓』に原稿を寄せていた、北園克衛との関係もあったので あろう67

『新領土』の発行者アオイ書房は、小規模な個人経営であった。酒販売店

「伊勢元」を経営するかたわら、志茂太郎が設立したものである68。最初に 刊行されたのが、『詩法』が創刊される年、1934年の、印刷と造本に拘りを 尽くした徳川夢声の二つの書であった。3月に刊行された『くらがり二十年』

は好評で版を重ね、数万部の発行となり、7月刊行の第二の書『閑散無双』

は千部限定とされた。「所詮酒屋のオヤジの余技、それが何万部も売れると は不気味だ」というのが志茂の立場であった69

恩地孝四郎の協力をえて、アオイ書房、すなわち、志茂が創刊したのが、

『書窓』である70。春山が、「當局の忌諱」に遭遇する『セルパン』5月号の

(21)

編輯を終える頃、1935年4月10日に発行された。会員制による限定版の月刊 誌である。その創刊号「雜用手帳」に、志茂はいう。

「書窓」は讀む雜誌であると同時に、眺めても樂しめる雜誌たらしめ るべく、視的効果を高める爲紙質印刷等には、實は人知れぬ費用を投じ てをるのであります。果して苦心しただけの効果が出るかどうかは、刷 り上つて見ないと解りませんが、紙面から受ける感じに、他の雜誌より、

ずぬけて雅味に富んだ落着いた調子をもたせるために、發行日を延して まで色々苦心して見ました。(略)

アオイ書房は純粹にわたしの道樂仕事です。本を作つて儲けようなど とは、私はかつて一度も考へて見た事もありません。此の「書窓」も皆 さんからお預りした會費に、私の財政として、身分不相應に陷らぬほど ほどに、月々何分かづゝの足し前をして、その範圍で極力いゝ雜誌を作 つて皆さんとご一緒に樂しまうと申すのが僞りない私の眞意でありま す。恩地先生もまた、私の道樂相手のおつもりで、全くの御好意から、

御手傳ひ下さつてゐる事を合せて御披露申上げておかねばなりません71

創刊号の編輯は恩地が予定どおり仕上げたが、「印刷係り」の志茂が「思 はず凝り性を出し過ぎた爲」に、5日遅れて、発行は10日となった。「印刷者」

の村井若太郎に、注文をつけたり、紙質に拘ったためであろう。

志茂は大言壮語していたのではない。しかし、彼は不満であった。1935年 5月10日発行『書窓』第2号とともに送られた5月付「アオイ書房消息」の

「私信」72によれば、「創刊號の印刷は、まことに不出來で何とも辯解の豫地 ない完全な失敗」であった。しかし、「道樂から色々苦心してゐるのに同情」

した大手美術印刷会社の専務市川憲次から申し出があり、第2号から印刷製 本の一切をここに頼ることになった。その事務一切は市川がすべてとった。

市川は「幾晩も、深更に至るまで會社に居殘つて」志茂とともに「製版工場 の鼻をつく薬品の臭氣の中に、烈々たるアークの照り返しに目をそばめ乍ら、

自ら工員を督勵」したという。雑誌は、編輯を終えたあとも、出版者と印刷 者の緊密な協力から生まれるのである。

(22)

創刊号と第2号は「特殊な構造を有する特許タイプライターで印字し、そ れから寫眞製版により原版を作る方法」であったが、つづく第3号6月号から、

「一旦正式に活字で組版し、それから更に寫眞製版に附してオフセツトの原 版を作ると云ふ非常に手のかゝる方法を敢へてやつて見る」ことになった。

一度活字で組む程ならスグに活版で刷つたらよからうと思はれる方があ りませうが、オフセツト印刷獨特の温雅な風韻を出すために、尠からぬ 經費と手數とを敢へていとはないでやつてゐる苦心をお察し願ひたいの であります。

志茂は次号、第3号6月号の編輯にとりかかっていた。

遲刊は何よりも恥と云ふ私の持論ですから如何なる奮闘をつゞけても六 月十日には絶對間違なく第三號を發行いたします。

『書窓』と『セルパン』は部数を異にするとはいえ、いずれも、刊行の遅れ は許されぬことであった。

『書窓』は、1935年4月創刊の巻頭に北原白秋の詩をおいたように、文芸 誌と書物に関する記事を掲載してはじまったが、ほどなく、「詩歌筆蹟」「装 本研究」「新聞小説挿絵」「児童本」「印刷研究」「出版創作」「夢二追憶」「詩 集の挿画」など、つぎつぎに特輯号を挟んで、しかも毎月、着実に刊行され ていた。

1937年5月号からはじまる月刊の詩誌『新領土』は、印刷者を松村保とし て、普通紙に活版で印刷された。紙質も印刷も、アオイ書房すなわち志茂の 愛書趣味にはかならずしも馴染まない。だが、詩の愛好家でもある志茂にと っては、アオイ書房の名を委ねるに値する存在であった。

『新領土』創刊号は、裏表紙をアオイ書房の『書窓』の広告にあて、1935 年4月創刊号以降、1937年3月15日発行の「第二十輯」までの、既刊号を掲載 した。既刊号一覧によれば、毎月、欠けることなく刊行されていた。ただし、

直前の、2月15日発行の「第十九輯」は、わずか6頁、10錢である。遅刊ある

(23)

いは欠号をさけるための、はじめての措置であった。志茂にとっては「遲刊 は何よりも恥」であったのだ。既刊号一覧の最後におかれたのが、78頁立て の3月15日である。そして、『新領土』が創刊されて以降、4月15日、5月21日 刊行の『書窓』は、それぞれ、わずか、8頁立て10銭、4頁立て5銭であった。

この間、志茂は、新たな特輯号までの時間を稼いでいたように思える。

『新領土』6月号の裏表紙は、『書窓』「六月第二十輯」として「紙の研究 號」の広告とした。その冒頭である。

書物は本來印刷された紙の集積であり、紙と印刷こそ其の主體であ る。 ち、美しき書物は美しき紙に美しき印刷を施せるものであるべ きだ73

つづいて「見給へ、ハンドバツグの如く、ベントー箱の如き本が幅を利かせ てゐる事の何ぞ甚しきや。恥しい事である」と嘆く口調からして、その手は 明らかに志茂のものである。

この「紙の研究號」は、志茂の奮闘にもかかわらず、さらに時間がかかっ た。6月刊行の予定は実現せず、『書窓』は欠号となった。はじめてのことで ある。

予告された特輯号は「紙の輯」となって7月15日に発行された。160頁立て、

2円50銭。『新領土』8月号に、村野は記す。

今月、アオイ書房から『書窓』の特輯《紙の輯》が出た。これはあら ゆる紙に關する研究輯録であつて、かくの如き珍奇な、そして豪勢な仕 事はアオイ書房得意の領域であらうが、これには讃嘆すべき主人志茂氏 の苦心の跡が見られる。

にユーテイリテイ萬能のコルビヂエ的美學は古い。假にも新しい 詩集の出版でも心がける詩人諸氏には用紙に對する一つの感覺も必要で ある。この特輯本の一讀は必須の要件でありうるとおもふ74

そして、村野は意欲満々であった。

(24)

『新領土』も四號を出した。日本で一番新しく、最も有意義な、然し 最も危險な問題を提出するこの詩のムーヴメントの為に、非常な決斷と、

廣い理解を示されるアオイ書房に、僕らは心から尊敬の念を禁じ得ない75

この間、『新領土』7月号は『書窓』「七月第廿三輯」の「夏の輯」を広告 したが、遅刊となった。それに替わるものが、7月15日発行の「紙の輯」で あった。8月号の『新領土』は、ふたたび、「夏の輯」を広告したが、これも 8月に刊行されなかった。それに替わるものが、8月31日発行の、4頁立て5銭 の号であった。

夏の企画は10月15日刊行の『書窓』としてようやく実った。ただし、もは や「夏の輯」とは呼べない。その執筆陣には、北園、山中散生のほかに、

『新領土』の春山も村野も稿を寄せた。さらに、彼ら新しい中堅詩人の写真 は「超現実主義者諸像」として掲載された。『書窓』は創刊号の白秋につづ いて、以降も、知名度の高い詩人の稿を載せていたが、『新領土』との関わ りで、志茂と新しい詩人たちとの関係が、密接となったのである。村野がい うように、超現実主義、あるいは、「最も危險な問題を提出するこの詩のム ーヴメント」へ、志茂は「廣い理解」を示したのである。しかも、この間、

アオイ書房は、北園の『夏の手紙』を、9月5日に刊行していた。志茂は、こ の号に、北園の詩集に触れた文章、「白い手紙」を寄せている。

『新領土』9月号の裏表紙、『夏の手紙』の広告についで、10月号の広告は、

「アオイ書房版詩集刊行に就て」となった。もちろん、志茂の筆である。

愛書極まつて遂に本造りの聖戰士となつたアオイ書房、かつての愛書狂 時代に、詩集の蒐集には特別執心した(無論現在とても其の熱心の度に 變りないが。)本を觀る眼のやゝ成長した今にして見直すと失禮ながら 推服に値する詩集は一冊もない(ムロン内容の話しではない)。詩集こ そ、立派な本を造るには、あらゆる條件に最も恵まれてゐる筈なのにこ の現象はいさゝか解し難い。諸賢士にも色々そのワケを尋ねて見たが、

かつて滿足な解答を得たタメシがない。ヨロシイ、では一つ、此を見

(25)

よ! と云ふ、豪華詩集の見本を一冊提供しよう。勿論、それだけの本 ならば堂々たる其の外裝にふさはしいだけの立派な内容を盛らねばなら ない。

かくして登場したのが、北園の詩集であった。志茂はつづける。

幸ひにして此が諸君子の推讃を博したなら、よき詩人を選んで、今後 續々かう云ふ立派な詩集を刊行し、詩集は絶對アオイ書房に限ると云ふ ところまで精進をつゞける決心である。御支援を給へ76

第一書房の長谷川巳之吉に負けぬ、詩人のために一肌ぬごうとする、小さな 出版社アオイ書房、志茂太郎の気概であった。『新領土』終刊にいたるまで、

裏表紙の広告欄は、その彼の発言の場となったのである。

ただし、アオイ書房の広告欄には、ときおり、別人が執筆することがあっ た。たとえば、翌年1938年2月号の広告、「Modern Poetry of Japan Edited by

The Tokyo Poets’ Club」である。長田恒雄の筆は、「國際版詩華集 東京詩人

倶樂部編」と題して、「今度日本で初めての英語のアンソロジイが、我等の 手で刊行される運びになつた」と謳う。会員が作品を自ら英訳して持ちより、

「英語としての完璧を期するためにも、あらゆる方法を講じて愼重に愼重を かさねて約一年の日子を費やした」もので、約30名の作品を集め、装幀は北 園が担当することになった。その出版社が、アオイ書房である。

幸いにもアオイ書房の志茂太郎氏がこのアンソロジイに滿腔の賛意を 表して、その出版を引受けてくれた。志茂氏がどんな書物を作る人であ るかは今更喋々するまでもない、僕等は安心してこの人に委ねることが できる77

志茂のことである。海外に出してもひけをとらぬ印字と用紙で刊行されるは ずであった。ただし、この「日本で初めての英語のアンソロジイ」が実現し たか否かは、未詳である78

(26)

『新領土』の第一書房の広告もまた、注目されねばならない。創刊以降し ばらくの間、『新領土』の誌面で際だっていたのは同社の刊行物の広告であ る。『セルパン』の広告に劣らぬ、派手なものであった。

『新領土』は、5月創刊号の裏表紙の内側に、第一書房から3月20日に刊行 されたアンドレ・ジイド『ソヴェト旅行記』の広告を配した。これは、4月1 日、4月15日と版を重ねつつあった話題の書であった。この広告の活字の組 み方と宣伝文句は『セルパン』5月号の二頁立て広告と酷似している。それ ばかりではない。『新領土』6月号は、最終頁を押しあげて二面にわたり、5 月20日に刊行された第一書房のジヤン・コクトオ『僕の初旅 世界一周』を 広告した。それは、『セルパン』同月、6月号の広告とまったく同じである。

明らかに、同じ紙型が流用されたのである。以降、折々に同社の書物が広告 される。もちろん、『大地』や『ソヴェト旅行修正』の広告もそうである。

『セルパン』の出版元第一書房との縁は浅からぬものがあったのである。

『セルパン』に第一書房の広告があまりにも多いことは周知のことである が、『新領土』も同人詩誌とは異なり少数ながら広告が挿入される。その意 味でも、『新領土』は、「所謂同人雜誌」と「商売雜誌」の間にあった。第一 書房の広告は、『新領土』の財政的な援助であったことも考えられる。社主 の長谷川巳之吉はその第一書房の歩みに反映されているように、詩や絵画、

音楽活動にもわたる支援者であったからだ。春山は印刷者への「物質上の責 任」は自分でとったというが、第一書房から、広告の代償とし財政的なバッ クアップがあったことも推測される。誌面づくりと出版形態を異にする二つ の雑誌、『新領土』と『セルパン』をつなぐ春山の存在をあらためて認識さ せられるのである。

『セルパン』の広告は、第一書房のものを除けば、広告代理店が担当して いた。しかし、その『セルパン』に『新領土』の広告が割りこんだことは、

編輯長たる春山の意向であったと判断していい。

『新領土』の5月創刊号の広告は、すでに見たように、『セルパン』5月号 に掲載された。その位置は、右頁からはじまる「フランス人民戦線内閣の危 機」を伝える記事につづく左頁、金丸重嶺撮影の写真の下である。それは、

「人民戰線は我等を裏切つた」と書かれたファシスト派のポスターが、「貼ら

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れると人民戰線派が破つてしまふ」ありさまを撮したものである79。さらに、

『セルパン』8月号は、『新領土』の8月号の広告を掲載した。W・H・オーデ ンのスペインからの第一報、右頁からはじまる「ヴァレンシアの印象」の左 頁、その下である。上にはオーデンの肖像がおかれている。編輯部の紹介に よれば、オーデンは「現在イギリスに於ける新詩人の第一人者で、セシル・

デイ・ルイス、ステイヴン・スペンダアなどと共に『ニユー・カントリイ派』

とも呼ばれてゐる」のである。そして、肖像画は、彼が「スペインに赴く直 前」のものであった80

二つのレイアウトから、『新領土』のメッセージが浮かびあがってくる。

『セルパン』8月号に掲載された『新領土』の広告は、その8月号の内容を示 して、謳う。

現在日本で最も新鋭で最も大部數を發行してゐる詩と海外文學の中心誌 新しく世に出んとする新人よ來れ81

『新領土』のメンバーは、『詩法』と、『20世紀』の「若い世代が中心と なった」82とされるが、さらに新人を迎えようとした。創刊号に春山は記し ている。

『新領土』には、同人募集とかアンデパンダンとかいつた子供じみた 規則はなにひとつない。ただ現在の詩の雜誌に滿足できない新しいジエ ネレエシヨンによろこんで手を伸べる。

現在のところさういふ問題についてはなにもきまつてはゐないが、グ ループの人々にはかつて、なんらかの方法を講じたいと思つてゐる83

「今日の詩そのものを、集團的に主張し、擁護してゆく」ためには、

「片々たる詩の雜誌にボソボソと詩を書くことだけで滿足」するわけにはい かない。『新領土』は「新しいジエネレエシヨン」を包括する「一つの機關 雜誌」であるからだ。したがって、正確にいえば、詩人は同人ではなく、グ ループのメンバーでなければならない。そして、『新領土』の方向をさぐる

(28)

ための「なんらかの方法」として講じられたのが、「新領土の会」であった。

「新領土の会」がはじまった時期は不明だが、9月号に春山が「『新領土』

の會は近頃だんだんユニツクな空氣が出はじめた」と記しているように、創 刊ほどなくしてはじまったことは疑いえない。彼は「在京の詩人は奮つて出 席してほしい」とつづける84。その会は、翌年にこの会に主席した鮎川の日 記によれば、『新領土』のメンバーに必ずしも限定されぬ、自由な集まりで あったと推測される。また、開催日あるいは曜日は固定されず、雑誌の刊行 ののち、月末あるいは翌月初めに、銀座エルテルで開催されていたようであ る85

『新領土』は、刊行の面でも順調であった。10月号に春山は記す。

『新領土』もこの號で六ヶ月になる。かういふ雜誌として、この六ヶ月 定期的に出たのは恐らく本誌だけで、その他の詩の雜誌(投稿雜誌は別 として)はどれも遲刊か休刊を繰返してゐるやうに思ふ86

『新領土』の詳細な発行部数は不明であるが、創刊号以来の奥付によれば、

東京堂、東海堂、北隆館、大東館が「大賣捌所」とされている。予約を除き、

『新領土』はこれら取次店を経由して、小売りの書店で販売されたのである。

しかも、「大賣捌所」というとおり、大手の取次店であった。『新領土』は流 通の基盤を備えた、堂々たる「商賣雜誌」であった。村野によれば、8月に 創刊号の売上げを集計したところ、「市場に出した大半を賣りつくしたとい つていい」のであった。彼はつづける。

これほど賣れた詩の雜誌が今まで嘗てあつたらうか。詩の雜誌は賣れな い、などと言ふことは、結局、無力な詩人のいふことである。

僕等の方向に沿うて、いかに多くの新しい精神が動いてゐるか。これ はもはや否定しがたい實證であるから仕方がない87

12月号「後記」に、「編輯者兼発行者」である上田は、「『新領土』は 時 代的であるがために、厖大なサーキュレイションを持ち得る」とするある批

(29)

評家の評価を記している88。「時代意識の缺除」した発言者のものであるか ら「厖大」ということばに注意しなければならぬが、大きな反響があったこ とは事実であろう。また、村野によれば、「多くの妨害にも拘わらず、とに かく今まで嘗て我國に現れなかつた詩の發展を實證した」ことは、誰にも

「異議を唱へることが出来」ない89ところであった。1935年7月にはじまる北 園の『VOU』は別としても、『若草』『日本詩壇』『蝋人形』『文藝汎論』な ど大手の詩誌に満たされぬ若い読者を惹きつけて、部数を伸ばしたことは疑 いえない。

年があらたまる1938年1月号に、村野はまた記す。

『新領土』が我國の文學の上にのこす新しい、生々しい軌跡は益々鮮 明に今年も續けられるだらう。僕らはこの仕事の經營の上には、種々な 好條件の下に何らの不安を持たなくなつた。たゞ僕らの不安は形而上學 的なものの中にある。僕らがこの不安に對して、如何に追求し、如何に たたかふかを見ていたゞきたいと思ふ。

また僕らは、いつも言ふやうに、一人でも多くの協力者があらはれる ことを希望してゐる。くだらない詩壇的な名聲などを考慮する必要は少 しもない。またそんな時代ではない。詩人はいつもその力によつて新し い 態に置かれなくてはならないとおもふ90

2月号の村野によれば、1月号は非常な好評で、出版元の「アオイ書房扱の 直接註文が百二三十部を遙に突破した」のである。「全國の書店でどの位賣 れてゐるかはまだ見當がつかないが、とにかく我々の運動が所期の段階には いつてきてゐることは事實」91であった。

鮎川が『新領土』に参加することになった経緯については、いまとなって は証言を得る術はない。注目すべきは、『新領土』10月号の「後記」に、編 輯者兼発行者である上田保が新しい二人の詩人が「我々の陣營」に加わった ことを告げ、「『新領土』に參加しようとする積極的な詩人は編輯部まで作品 を提出されたい」92と結んでいることである。村野もまた呼びかけた。

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僕らの詩を理解するものは、 に「新領土」の詩人であるから、無名 の詩人諸氏と雖も怖れることはない。遠慮なく參加されることを希望す る。自分の方向に逡巡することは に現代詩人の精神ではない93

この年の秋、『LUNA』のメンバーとなりながら、さらに、上にあげた

『若草』『日本詩壇』『蝋人形』『文藝汎論』にも投稿をつづけていた94鮎川が、

上田に宛てて作品を送ったことは、考えられないことではない。しかも、

『LUNA』は純然たる同人誌であり、他方、『新領土』は全国に販路をひろげ る商業誌であった。いずれにせよ、「新しく世に出んとする新人よ來れ」と、

新しい詩人の登場を待つ『新領土』は、彼を迎えたのである。

翌年1938年3月号に、鮎川の最初の作品が登場した。彼の手許に送られて きたのは、3月2日である。その号に、春山は「『新領土』の諸君の詩も、現 在のところ一番いいと思ふ」95と書いた。また、「『新領土』の會」も、順調 であった。鮎川は、3月1日の会には「試験中では行きたくとも行かれない」

ので見送ったが、3月30日に銀座エルテルで開かれた会に、はじめて出席し た。創刊後一年となった5月号に春山は記す。「『新領土』のパアテイも、だ んだん新しい顔がふへて落着きのある會になつた。なんとなく集つて、それ で雰圍氣ができればそれだけで充分である」96と。「新しい顔」、鮎川もその ひとりである。

1938年6月号で『新領土』は創刊後二年目入った。春山にとっては、その 意義はさらに大きかった。彼の「後記」である。

『詩と詩論』からこれで十年目だ。『詩と詩論』から『詩法』『新領土』

へと、絶へまなく書きつづけてきた。かういふ高い傳統と眞面目な精神 がなくては詩の雜誌などやれるものではない97

32. 予兆

『新領土』創刊号に「サラリーマン週間 陽氣なコーラス」を書いた村野 は、『セルパン』1937年7月号に「露が乾く田園」を寄せた。その終わりの部

参照

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