鮎川信夫と『新領土』(その 11 − 1 )
1中 井 晨
46. 出版新体制の舞台裏
出版新体制の基礎を固めたのは官庁側、すなわち、官僚であった。彼らは 政権の交替と関わりなく、与えられた使命を達成するために、既存の法令に 則り作業をすすめる。そして、必要となれば、新たな法令を準備する。彼ら の作業は、しかし、出版業界はもちろん、日常にまで影響を及ぼす。
1940年。米内内閣のもとで新聞雑誌用紙統制委員会が発足したのが、5月 22日であった。用紙を担当するのが商工省繊維局である。商工省から委員に 嘱託されたのは、同局長田中重之であった。この委員会を実質的に動かすの が幹事会である。内閣情報部長熊谷憲一を幹事長として、内閣情報部情報官 田代金宣、内務省事務官国塩耕一郎、陸軍輜しちよう重兵少佐鈴木庫三らから構成さ れる14名の幹事として嘱託されたのが、商工省書記官樺島千春と同省事務官 水間光次の2名であった2。委員会の発足にあわせて6月1日、内閣情報部は改 組された3。新聞雑誌用紙統制委員会の事務を分掌することになったのが、
田代たちが所属するその第二課である。
すでに見たとおり、6月17日の委員会は「新聞雑誌用紙配給ト言論報道政 策トノ調和及新聞用紙統制要綱」に、「用紙配給ニ関スル審議ヲ行フ」こと を確認した4。この要綱は26日の閣議で報告された。
内務省図書課が出版界改革試案を纏めていたように、商工省もまた、出版 新体制の一翼を担う用紙規格について検討をはじめていた。
第二次近衛内閣が成立した7月22日、商工省で庶務課長会議が開催された。
その議事録は「樺島人造繊維課長説明」とする二件、「用紙規格ノ標準化ニ 関スル件」と「洋紙配給統制要綱ニ関スル件」を記録し、それぞれ7月18日
『言語文化』13-4:469−582ページ 2011.
同志社大学言語文化学会 ©中井 晨
付の説明資料を収めている5。
まず、「用紙規格ノ標準化ニ関スル件」。その説明要旨。以下、傍点は引用 者。
最近ニ於ケル用紙ノ逼迫ニ鑑ミ、之ガ規格版ママヲ決定シ用紙ノ節約ヲ図 リタシ。而シテ今回ハ仕上寸法ニ付取扱ヒタルモ紙質ニ関シテハ追テ考0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 究0致シ度シ
「規格判」を採用することによって、用紙の節約が可能となる。「紙質」へ の配慮も同様である。新聞雑誌用紙統制委員会の幹事でもある樺島課長は、
「紙質」はのちの検討事項として、まず、原紙の「規格判」と、あわせて、
その用紙を用いた「仕上寸法」を決定しようとしたのである。
その説明資料「用紙規格標準化要綱案」は、「製紙業者」にたいしては「規 格版ママ用原紙以外ノ抄造ヲ禁ズル0 0 0コト」とした。一方、印刷・出版・製本・雑 誌業者、および文房具製造業者にたいしては、その「仕上寸法」は原則とし て「紙ノ仕上寸法ニ関スル日本標準規格ニ據ルベキコトヲ命ズル0 0 0コト」とし た。
この「用紙規格標準化要綱案」にもとづいて二項目として条文化されたの が、もうひとつの資料、同じ7月18日付「用紙規格規則0 0案」である。注目す べきは、その「規則」に取消し線が施され、「令」と書き込まれていること である。これが当初から施されていたのか、あるいは、この日の会議で施さ れたか不明であるが、いずれにせよ、用紙規格の「規則」を「省令」とする 意図は明かである。
その項目「第一」は、「商工大臣ノ指定シタル用紙ハ左ニ掲グル規格ニ依 ルニ非ザレバ之ヲ抄造スルコトヲ得ズ」とした。掲げられた規格は、「紙ノ 仕上寸法(日本標準規格(JES)第92号P1)」にいう「原紙ノ標準寸法」に 準拠したものであった。のちにその経緯を見るように、この「日本標準規格」
は1929年に制定されていたが、法令化されたものは唯一、政府が購入・使用・
販売する物品の寸法はこの「規格ニ依ル」とする、1931年の商工省告示「紙 ノ仕上寸法ニ関スル日本標準規格」であった6。民間への標準規格の普及と
実施は、長年にわたる商工省の懸案事項であった。
「第二」は、物品の仕上寸法は、その「昭和六年商工省告示第十一号日本 標準規格第九二号紙ノ仕上寸法」「又ハ商工省用紙標準会委員会決定ノ規格 ニ依ル」とした。商工省用紙標準化委員会は日本標準規格の「紙ノ仕上寸法」
にもとづいて、すでに、書籍・雑誌など物品別に規格を定めていた。この項 の趣旨は、それ以外の仕上寸法を認めない、というところにある。
そして、「商工大臣ノ指定シタル用紙」については、「備考」として、「印 刷用紙」「筆記用紙」「図書用紙」「吸取紙」の四種が挙げられた。これらの 紙質については、すでに用紙標準化委員会が日本標準規格を制定していた。
出版物にかかわる「印刷用紙」については、四種、「印刷紙」「更紙(新聞用 紙ヲ除ク)」「模造紙(荷札用紙ヲ含ム)及薄口模造紙」そして「アート紙」
である7。これら四種の印刷用紙については、のちに見るように、前年、
1939年7月、臨時日本標準規格として改訂されていた。
7月22日の庶務課長会議で樺島は、「紙質ニ関シテハ追テ考究致シ度シ」と 述べたが、紙質についても臨時日本標準規格がすでに存在していた。したがっ て、この紙質について「追テ考究」するとは、主務大臣たる商工大臣がこれ を指定する、その方法であった。
この日、樺島課長が説明した「用紙規格ノ標準化ニ関スル件」の主旨は、「支 那事変勃発三周年を期して」7月7日に施行された「奢侈品等製造販売制限規 則」、いわゆる七・七禁令の目的、「消費規正の強化と所謂規格外品の禁止8」 にも適うものであった。「消費規正」はもちろん広範にわたる日常の贅沢品 に関わるものであるが、「規格外品の禁止」のために、この商工農林省令の 第4条は、「主務大臣が物品の規格又は品質を指定すると、当該規格又は品質 に該当するもの以外は、販売を禁止される9」ことを定めていた。
ただし、「用紙ノ逼迫ニ鑑ミ」て「用紙規格ノ標準化」によってその「規 格又は品質」を定め、規格外の原紙の抄造を禁止する方針だけでは終わらな い。その用紙の販売、すなわち配給経路を整理し統制しなければならない。
このことは、「用紙配給ニ関スル審議ヲ行フ」新聞雑誌用紙統制委員会、あ るいはその幹事会が向かうところと密接に関連していた。
樺島課長は「用紙規格ノ標準化ニ関スル件」につづいて「洋紙配給統制要
綱ニ関スル件」を説明した。
議事録の要旨。
従来何等ノ規制ヲ設ケザル洋紙ノ配給ニ関シ統制ヲ加ヘントス而シテ 本統制ニ於テハ元売、卸売及小売ノ各業者ヲ全テ同列ニ取扱ハントスル モノナリ
樺島が「現在元売業者ハソノ販売高ノ七割ヲ直接需要者ニ、三割ヲ卸売業者 ニ販売シ居ル状況ナリ」と補足するように、「従来何等ノ規制ヲ設ケザル」
結果に歯止めを掛けるために配給統制が必要とされる。その説明資料、おな じく7月18日付「洋紙配給統制要綱」には複雑な「現在取引経路」とともに、
「新取引経路」が図示されていた。この新取引経路図には、「製紙会社」と「道 府県洋紙商業組合員」との間に、「共販会社」がおかれていた。
注目すべきは、この日、「洋紙配給統制要綱」の説明にあたって、「又需要 者側ノ団体化モ追テ実施致シタシ」と樺島課長がつけ加えたことである。彼 は、新しい取引経路の末端に位置する出版業者、すなわち「需要者側ノ団体 化」について、新聞雑誌用紙統制委員会が進める「出版新体制」の審議を睨 んでいたのである。
新聞雑誌用紙統制委員会と出版業者との折衝は、まず、内務省図書課が窓 口となった。
商工省庶務課長会議から4日のち、7月26日、委員会の幹事でもある内務省 事務官国塩耕一郎が、「新聞雑誌用紙統制委員会の決定事項」として、東京 出版協会と日本雑誌協会の代表を同省に招致して伝達した内容、その冒頭。
一 、用紙販売機構の一元統制を計つた結果、今後書籍用紙は出協より、
雑誌用紙は雑協より、各実績に依り配給に当られ度。
二、生産品の配給を一元化され度。共販会社設立も一策であらう10 このとき、需要者側の団体としては東京出版協会と日本雑誌協会が構想され ていた。しかし、そののち、委員会がその二つの団体を「即時解散し改めて
社団法人出版文化協会(仮称)に合流す」と決定し、それが伝えられたのが、
一週間もたたぬ8月5日であった。
この日、「原案」として示された「社団法人出版文化協会(仮称)」の目的。
一 、用紙を一般出版業者に対し文化的見地から実情に即し合理的に割当 するの任に当らしむること
商工省側が構想する「需要者側ノ団体」は、日本出版文化協会として位置づ けられたのである。
そして、書籍雑誌の大手取次店を驚かせたのは、新しい配給機構であった。
すなわち、7月26日に、書籍雑誌たる「生産品の配給」を一元化する「共販 会社設立も一策であらう」とされていた、その組織の輪郭が明らかになった。
三 、現在の書籍雑誌配給機構の欠陥を是正し円滑なる配給を行ふの任務 を担当せしむること
日本出版文化協会との関係はまだ明確ではない。が、しかし、新しい書籍雑 誌配給機構は、「現在の取次店は全部解消し雑誌、書籍等全出版版物を包合 する一元的配給機関を設立せんとするもの」であった11。
日本雑誌協会、東京出版協会が解散し、中等教科書協会の解散方針の決定 にあわせて、出版新体制準備委員の顔触れが内閣情報部から発表された。
9月1日の出版新体制準備委員会につづく9月18日の第二回の委員会に「日 本出版文化協会要綱案」と「要綱説明案」が示された。前回の意見を参考に して田代たちが「練りに練つた」ものであった12。内閣情報委員会の第二課 が準備したのである。
同日、準備委員会は「日本出版文化協会要綱案13」を承認し、新体制の名 称は「社団法人日本出版文化協会」と決定された。一週間後、9月25日の第 三回最終準備会はその「設立要綱14」を承認した。冒頭におかれたのが、協 会の事業である。
本会は関係官庁との密接なる連絡のもとに主として左の如き事業を行ふ こと
(一)出版事業に関する改善指導、頁数、附録、発行日、発行回数、輸送、
紙質、規格等の指導を為すこと 広告の適正を図ること
頁数、附録、広告、これらを控えることは、ただちに用紙節約となる。紙質、
規格については、すでに見たように、「用紙ノ逼迫ニ鑑ミ」商工省がお膳立 てを整え、その法令化を進めていた。発行回数についても用紙節約につなが る。これらの指導改善を、「関係官庁との密接なる連絡のもとに」日本出版 文化協会が行う。発行日と輸送については、必ずしも用紙節約に結びつかな いが、新聞雑誌用紙統制委員会の審議の過程で懸案となったものと推測され る。その改善策は、やがて日本出版文化協会発足につづいて、のちの情報局 の指導のもとに示されるであろう。
そして、出版業者の最大の関心の的、その用紙の割当。傍点は引用者。
(二)新聞雑誌用紙統制委員会及用紙0 0共販会社との連絡並に用紙の割当 調整、会員の用紙使用実績(新規又は増加の要求を含む)に其発行せる 出版物の内容傾向に関する判断を加味して、割当案を作成し之を新聞雑 誌用紙統制委員会に提出し其の決定に基き用紙の配給斡旋を為すこと
用紙割当が、日本出版文化協会の要であることには変わりはない。その決 定権が新聞雑誌用紙統制委員会、すなわち、内閣情報部にあることは周知の ことであるが、ここには、製紙業者と需要者のあいだに立つ配給統制機関、「用0 紙0共販会社との連絡」が日本出版文化協会の役割として新たに加わっている。
7月22日の商工所庶務会議の説明資料、7月18日付「洋紙配給統制要綱」に示 された「共販会社」の構想が、出版新体制の一角に生かされたのである。し かも、その構想はすでに実行に移されていた。注目すべきは、その統制機関 の要となる「共販会社」が「洋紙」ではなく「用紙共販会社」とされている ことである。官庁側の文章に誤記はまずありえない。ほどなく見るように、
商工省側は「和紙」についてもその「共販会社」の構想をもっていたのであ る。
そして、出版物の取次業者にとって大きな影響を与える、配給体制と日本 出版文化協会の役割。
(三)雑誌、書籍配給会社の指導監督
日本出版文化協会との関係が不明確であった出版物の配給機構は、ここで協 会の指導監督のもとにおかれることが明確になった。
このとき、商工省側の構想がどこまで進んでいたかは未詳だが、この配給 機構づくりの土台となったのが同省が作成した「書籍雑誌配給統制要綱試案」
であった15。この試案について内閣情報部、企画院、内務省、商工省、文部 省の関係官から構成された官庁側特別委員会が検討を重ね、10月2日の委員 会案が10月9日の第一回出版配給新体制準備会に提出されることになる16。 この日、民間側、出版、取次商、小売商など21名と、官庁側からなる準備会 は満場一致、「申合せ」を可決した。
我等は新日本文化の建設並に国防国家の確立上に於ける国家的使命を 担当せんがため、自我功利の思想を排し、個々の立場に囚れず、公益優 先の新経済理念の基き、相提携して現在の配給機構を整理統合し、日本 出版文化協会の監督指導の下に優良書籍雑誌の徹底的普及を図り、以て 生産、配給、消費を貫く理想的、一元的配給機構を樹立完成せんことを 期す17。
出版新体制準備会に示された方針どおり、「雑誌、書籍配給会社」は日本出 版文化協会の「指導監督」の下におかれることが決まった。事柄は取引業者 の利害と生活に関係するため組織づくりは難航を極めたが、翌年5月5日に日 本出版配給株式会社が創立されることになる。
この間、日本出版文化協会が改善指導を行うはずの「紙質、規格」につい
ては、商工省が作業を進めていた。
7月22日の会議の7月18日付説明資料「用紙規格規則案」は整備され、日本 出版文化協会の第一回の創立準備委員会が開催された翌日、11月7日、商工 省令として「用紙規格規則」が公布された。その根拠は「昭和十二年法律第 九十二号」、すなわち罰則条項を備えた「輸出入品等ニ関スル臨時措置ニ関 スル法律」にあった。施行は翌年1月1日。同日、商工省令「用紙規格規則」
第一条にいう「商工大臣ノ指定シタル用紙」について、四種の印刷用紙が同 省告示によって指定された18。すでに存在していた日本標準規格と臨時日本 標準規格が、あらためて、強制力をもって法令化されたのである。
「用紙規格規則」の施行日は、翌年、1941年1月1日。この省令によって、
書籍・雑誌は、指定された用紙を用いて、規格判によって仕上げねばならな い。とりわけ、日本標準規格によらず従来の判型を採用していた大半の出版 業者にとっては、省令が定める「紙ノ仕上寸法」による規格に移行せざるを えず、その影響は大きい。第一書房の『セルパン』はもちろん、アオイ書房 の『新領土』もその例外ではない。
「用紙規格規則」は日本標準規格による原紙以外を抄造できぬ、としていた。
それでは出版業者はどのような経路でそれを入手するか。
その配給経路について示された同じ7月18日付資料「洋紙配給統制要綱」は、
8月10日に発表された「洋紙配給機構整備要綱」となり、商工省は22日に洋 紙共販株式会社準備会を開催した19。機構整備の要となる「洋紙共販株式会 社」は11月30日に発足した20。その業務は定款の「業務要綱」第一条が謳う ように、「我国内ニ於テ生産スル政府ノ指定洋紙全部ニ付之ヲ製造業者ヨリ 買取リ元売業者ニ売渡ス」ことであった21。
発足した「洋紙共販株式会社」を追って、商工省令「洋紙配給機構整備要 綱」が公布されたのが、この年が終わろうとするころ、12月28日であった。「用 紙規格規則」と同じく、その根拠は「輸出入品等ニ関スル臨時措置ニ関スル 法律」にあった。
その第一条、「本則ニ於テ洋紙トハ印刷用紙(新聞用巻取紙ヲ除ク)筆記 用紙、図書用紙及商工大臣ノ指定シタル洋紙ヲ謂フ」。用紙の供給の要とな る共販会社については、その施行は翌年1月21日。
洋紙共販株式会社は、「洋紙配給統制要綱」の実施日、翌年1月21日をもっ て業務を開始する22。2月分から洋紙配給の統制がはじまったのである。洋 紙共販株式会社から用紙の供給を受ける日本洋紙元売商業組合は、1月20日 に創立され、4月21日、業務を開始した23。元売商業組合から供給を受ける 組織として、同日、一道三府四十三県すべてに商業組合が指定された24。こ うして、「洋紙配給統制規則」による体制は、成就した。
この間、12月6日、内閣情報部は情報局となった。新聞雑誌用紙統制委員 会の委員長は内閣書記官長から情報局総裁となった。田代情報官が所属する 情報局第二部第二課は、「書籍、雑誌等ノ一般出版物ノ指導事務ヲ行フト共 ニ新聞雑誌用紙統制委員会ノ事務ヲ処理スル」ところであり、その「所管事 務中主ナル事項」は、日本出版文化協会、日本出版配給株式会社、書籍商組 合等の「指導監督ニ関スル」ものであった25。
1940年12月19日、情報局会議室で、社団法人日本出版文化協会は定款を定 めて創設された。その第二章、「目的及事業」。
第 三条 本会ハ日本文化建設竝ニ国防国家確立ニ関スル出版文化事業ノ 使命ヲ遂行シ斯業ノ適正ナル運営ヲ図リ以テ出版報国ノ実ヲ挙グルヲ 目的トス
第四条 本会ハ前条ノ目的ヲ達成スル為左ノ事業ヲ行フ 一 関係官庁竝ニ諸団体トノ連絡
二 出版事業ニ関スル改善指導
三 出版用紙統制機関トノ連絡竝ニ出版用紙ノ割当調整 四 出版物配給及販売機関ノ監督指導
五 無益出版物ノ抑制
六 優良出版物ノ奨励竝ニ普及26
事業の冒頭におかれたように、関係官庁竝に諸団体との連絡、すなわち日本 出版文化協会は有り体にいえば、関係官庁と関係する団体の指導監督の下に おかれる。この位置づけは、逓信省たる主務官庁のもとにおかれた、社団法 人日本放送協会と同じであった27。
日本出版文化協会は、翌年、1941年6月21日に施行される「洋紙配給割当 規程」と「出版物配給調整規程」の制定にいたる間、情報局のもとでその体 制づくりが進められた。
1月15日の『週報』に「発足した出版新体制」を寄せた田代は、『時局月報』
2月号の一問一答にいう。
問 「そこで具体的に質問したいんですが、出版文化協会の第一の狙ひ所 はなんですか、無用の出版物廃止といふことは、紙の節約といふこと を目的としてゐるのですか」
答 「さうぢやないんです。今日、紙不足で思ふやうに出版物が出来ない ために、物的な考へ方が出過ぎてゐるやうですが、高度国防国家建設 に即応する出版文化の役割は如何なるものかといふやうな大きな意味 からいへば物的見地から出版物を統制するといふやうなことは寧ろ第 二義的以下の問題です」
問 「すると出版物の内容が第一であって、この内容の良否に従つて紙を 配給して行くといふ方法を採る訳ですか」
答 「さうです。物の需給といふものは、時期々々によつて変るし、今後 物が十分あるやうな時代になつた場合に、出版新体制が意義を失ふと いふやうなことは失敗であるし、そんな短期間の機構ぢやいけません。
文化といふものは永久性を有つてゐるものですから、その永久性を度 外視して便宜的な処置で物を統制することは、全く誤つたことです。
今日は実際に於て紙が少いが、たとへ紙の供給が充分であつたとして も、従来の形では思想的に全く時代と離れてゐたのだから、統制指導 の必要があるわけです。―要するに時代が変つたのだから出版物も 変つた時代に即応するやうなものにするといふことが基本方針ですか ら、第一に内容の問題ですね。従つて、出版文化協会の機構も文化的 な指導統制を重点にする。そして、用紙の割当とか、書籍雑誌の配給 といふやうな物的な統制は、これはむしろ第一義の内容統制を助ける ための副次的なものにすると云ふ訳です28」
田代たち情報局側は、「出版物の内容が第一」とした。「文化的な指導統制」
が先で、用紙割当や書籍雑誌の配給はこれに附随する副次的なものであった。
1月16日、首脳陣の態勢を整えて第一回の日本出版文化協会の理事会が情 報局会議室で開催された。事務所は主婦之友社長石川武美が所有する旧薩摩 氏邸を借り受け、旧日本雑誌協会より受けついだ現在の事務所は分室にあて ることになった。職員については早急に人選に入ることになった29。30日、
第二回の理事会は、会員への用紙配給は実績主義によらず内容主義によるこ とを確認した30。内容主義の方針が「良書推薦」となって実現したことは、
すでに見たところである。この日、1月30日、「入会規程31」が承認された。
だが、しかし、問題はパルプの節減にあった。出版業者にとっては不可欠 な印刷用紙の確保であった。
12月30日、創立されてほどなく、日本出版文化協会は書籍の用紙使用量調 査を行うことになり、単行本出版業者に書類を発送した。協会としては最初 の事業であった32。
その「書籍用紙調査の件33」は、「商工省よりの御申越に依り」調査を行 うことになった旨を告げ、こうつけ加えた。
追右期日迄に提出無之又は後日不実の記載たること判明したる場合は将 来の用紙配給に不利益を受けらるゝことあるべく為念4 4申添え候
締切は2月15日(期限厳守4 4 4 4)。提出先は東京市神田区駿河台一ノ七番地、日本 出版文化協会。
調査事項は、1937年7月以降1940年12月までの用紙仕入量、1940年12月末 現在の在庫数量、1939年7月以降1940年12月までの用紙使用数量に関する詳 細なものであったが、さらに「仕入証明」を添えることとされた。
必ず仕入洋紙店より調査票記載の数量が正確なる旨其の証明(印刷所 持ちのものは其の旨を特記し当該印刷所を通じて仕入店の証明)を受け ること
注意
仕入先不明又は仕入先の証明なきもの或は虚偽の記入を為したるものは 今後用紙の配給上不利益有之べく特に御注意相成度、尚仕入先の廃業其 の他の事由に依り右の証明を受け得ざるときは当該店名及び其の事由を 特記せられ度し
その締切日、2月15日、協会は、「入会規定」にもとづいて「東京出協、日 本雑協、中協、大阪及京都出版組合員及東京書籍商組合員中の出版業者等」
へ「入会勧誘状」を発送した34。会員でなければ印刷用紙を確保できないこ とは自明のことであった。締切は同月28日35。その日、2月28日、協会は旧 日本雑誌協会事務所、雑誌会館に加えて、その本拠を隣接の駿河台二ノ三番 地の建物に移したのだ36。
協会はその後も入会者を募り、5月24日、日本出版文化協会と情報局との 共催で、第一種会員による初の会員大会が情報局の講堂で開催された37。出 版新体制は、現実に動きはじめたのである。
他方、5月5日、紆余曲折を経て日本出版配給株式会社の創立総会が、丸ノ 内鉄道協会38で開催された。『日配時代史』はいう。「日配に統合される全国 の取次業者は、大中小二四二に及んだ。これらが多年にわたる営業権を返上 して一本に統合されるということは、明治維新の藩籍奉還にも似た壮挙であ る反面非情で不自由な一大変革であり、業界人未経験の出版配給統制時代へ、
おそるおそる巨歩を踏み出す新しい試練の幕開けであった39」。
この新しい配給会社から配給を受ける小売商の組織化は、まず、東京書籍 雑誌小売商業組合となり、6月6日、九段下軍人会館で創立総会が開催され た40。情報局側から祝辞を述べたのは、田代情報官であった41。
6月4日、日本出版文化協会は、6月21日以降の出版物の奥付に必ず、配給 元としてその住所・東京市神田区淡路町二ノ九番地と、会社名・日本出版配 給株式会社を印刷することを全会員に通知した42。日本出版配給株式会社の
「出版物配給調整規程」はまだなかったが、その第四条となる事項であった。
予定されたその規程の施行日、6月21日に向かって準備が進められたのであ る。
日本出版配給株式会社は、現存する取次業者の整理を待ち、9月20日まで
の暫定期間43を設けることとし、6月12日に日本出版文化協会が作成して6月
20日に情報局の承認44をえた「出版物配給調整規程」を「暫定規程」とし、
その施行日、翌21日をもって業務を開始した。
同規程の第三条は、日本出版文化協会の会員の発行する出版物は、例外を 除いて「凡て日本出版配給株式会社を通ずるに非ざれば其の配給を為すこと を得ざるものとす」とした。
そして、奥付に関する事項。第一項は省略。
第四条 会員は其の出版物の各冊に付奥付又は一定の場所に必ず左の事 項を明示することを要す
二、 一般に発売するものにありては本会々員番号日本出版配給株式会 社名及其の所在地45
翌22日、同会社の発会式が軍人会館で開催された。官庁側は、情報局第二 部第二課長大熊海軍大佐と田代情報官が参列した46。
用紙の配給にかかわる「出版用紙配給割当規程47」は、6月13日に日本出 版文化協会が作成し、18日、情報局はこれを承認した48。情報局とは情報局 総裁をいう49。伊藤述史であった。この「暫定規程」の施行は、6月21日。
第 一条 本会は定款第四条に依り新聞雑誌用紙統制委員会の決定する書 籍、雑誌其の他の出版物用紙(以下之を出版用紙と称す)割当の範囲 内に於て当分の間本規程に従ひ第二種及第二種会員に対する出版用紙 の配給割当案を作成し常該委員会の議を経て之を実施するものとす 第 二条 本会が配給割当を行ふべき出版用紙の種類は昭和十五年十二月
二十八日商工省令第百十二号洋紙配給統制規則第一条に指定せられた る洋紙の内左の種類に限る
印刷用紙
イ、印刷紙 ロ、模造紙 ハ、更紙 ニ、アート紙
第四条は、印刷用紙の割当を二種類とする。「通常割当」は会員が継続的
に出版業務を行うために必要な出版用紙、「特別割当」は「優良出版物其ノ 他適当ト認ムル出版企画ニ対シ」通常割当以外に割り当てられる印刷用紙。
第六条は、「通常割当」を、「基準割当」と「査定割当」の二種とし、第七条 は、前者、「基準割当」については「出版企画ヲ審査スルコトナクシテ之ヲ 行フモノトス」とされた。後者、「査定割当」については、第八条が「出版 企画ヲ審査シテ」が行われるものとした。
会員が印刷用紙の割当を求めるためには手続きが必要とされた。そのひと つが、「出版企画ノ審査」のための、その「企画届」の提出である。その第 十四条。文言は一部省略。
一 書籍 書籍ハ特ニ定メタルモノヲ除ク外凡テ其ノ初版タルト重版 タルトヲ問ハズ企画決定毎ニ遅滞ナク「書籍企画届」ヲ提出スルコ ト
二 雑誌 雑誌ハ特ニ定メタルモノヲ除ク外凡テ毎号其ノ企画決定毎 ニ遅滞ナク「雑誌企画届」ヲ提出スルコト
ただし、日本出版文化協会の機関誌『出版文化』、8月1日創刊号は「出版 革新政策としての事前審査と企画届」にいう。「用紙配給割当規程第七条に
……「基準割当は予め出版企画を審査することなくして之を行ふものとす…
……」とあるのは、用紙の割当についてゞあつてその用紙を使用しての出版 に関しては、例外なく厳重な企画審査を行ふのである」と。
要するに、会員は書籍雑誌にあつては、その初版たると重版たるとを 問はず、また基準割当、査定割当、特別割当の区別なく、企画届を提出 しなければならず、協会もこれらすべての企画届に対して一定の方針を もつて洩れなく審査を行ふのである50。
割当用紙を獲得した会員には、報告義務が課せられた。
第 二十一条 会員は所定ノ様式ニ依リ毎月十日迄ニ其ノ前月中用紙取得
量、用紙使用量、用紙残存量其ノ他所定ノ事項ヲ記載シタル「用紙報 告書」ヲ本会ニ提出スルコトヲ要ス
日本出版文化協会の第一回定時総会は早稲田の大隈講堂で6月25日に開催 された。出席会員はおよそ二千人であった51。
その前日、6月24日、商工省繊維局長は、「書籍及雑誌用紙ノ使用節約ニ関 スル件」を各府県知事に通牒し、出版用紙の供給は協会の「割当通知書」に よる旨を管下の出版業者に周知させるとともにその実行を要請した。同日、
商工省繊維局長は、「雑誌及書籍用紙ノ供給ニ関スル件」を洋紙共販株式会 社に通達し、割当通知書の呈示のない場合は用紙を販売せぬこととした52」。
二つの文章を掲載して『出版文化』はいう。この措置により、以降、「日本 出版文化協会の会員でない限り書籍、雑誌の出版は事実上出来なくなつた訳 である53」と。
6月29日、日本出版文化協会は、銀座、交詢社前のビル、京橋区銀座七ノ 四に移転した。「事務多端の為駿河台の従来の事務所では狭隘となつた」た めである54。
用紙割当査定会議は、7月10日に開催された55。官庁側、警視庁検閲課、
文部省関係官らも出席することになったのが、同月17日の第二回査定会議か らである56。
前年の夏、第二次近衛内閣が成立した7月22日、商工省の樺島課長が庶務 課長会議で説明した「洋紙配給統制規則」の構想は、ここに成就した。その 奮闘、讃えるべきか。
1941年9月2日、商工書記官樺島千春は新聞雑誌用紙統制委員会の幹事を解 嘱された57。同年12月12日、商工書記官増岡尚士が新聞雑誌用紙統制委員会 幹事嘱託となった58。
しかしながら、用紙の供給は悪化した。1941年9月11日、日本出版文化協 会の理事会は「物動関係より愈々平均三割減の割当が決定」したため、「用 紙割当規程」を改定することとし、同日、「情報局に規程一部変更承認方の 申請をとつた59」。情報局総裁は9月19日、これを「許可」し、一部改定され た規程は21日から実施されることになった60。改定は第七条と第八条にかか
わるものであった。基準割当は、書籍については「通常割当」に八割、「査 定割当」に二割を充て、雑誌については、「通常割当」に九割を充て、その 一割を「査定割当」としていた。この改定は雑誌の配分はそのままとしたが、
書籍の配分は、企画審査によらぬ通常割当は半減して四割となり、一方の査 定割当は二割から六割となった。
この措置は「用紙配給割当規程」の第一条が定めたように、新聞雑誌用紙 統制委員会が決定した出版物用紙の「割当の範囲内に於て」日本出版文化協 会が「出版用紙の配給割当案を作成」したものにほかならない。それが、新 聞雑誌用紙統制委員会の「議を経て」その委員長である情報局総裁が許可す ることになったのである。
いま、「物動関係」すなわち商工省側の方針により協会への出版物用紙の 割当は三割減となり、その範囲で会員に配給割当が行われる。書籍用の用紙 の八割が企画届による「査定割当」とされたことは、日本出版文化協会の定 款にいう、「無益出版物の抑制」と「優良出版物の奨励竝に普及」に資する であろう。改定にあたって、「何れ将来は全部が査定割当に改定される予定 である」と『出版文化』はいう。そして、雑誌については割当比率は変更さ れないが「出版用紙使用量と出版内容を審査して割当量を決定することゝと なつた61」。新聞雑誌用紙統制委員会の要綱にいう「新聞雑誌用紙配給ト言 論報道政策トノ調和」が、日本出版文化協会によって可能になったのである。
これまでの込み入った議論は、田代金宣の記述で明快に整理できる。彼は いう62。「洋紙共販会社は我が国内に於ける洋紙製造会社を全部網羅したも ので、共販会社の許しが出なければ製紙会社はその製品たる用紙を勝手に売 れない、といふことになつたのである」と。
これを簡単に説明すると、新聞を除くすべての出版物の用紙は、監督 官庁の情報局と商工省が日本出版文化協会と話合つて作つた割当案に基 き、右文化協会は出版業者に対する用紙割当表を共販会社に送る。共販 会社はそれによつて全国の製紙工場の製造用紙を、元売、小売と下に流 して最後に出版業者の手に渡す、といふ筋合になるのである。
「出版業者はすべて日本出版文化協会の会員である」から、「要するに出版 業者は共販会社の手を経なければ紙を得ることが出来なくなつた」のである。
洋紙店から紙を貰ふのは日本出版協会からもらつた通帳とか切符によ る。用紙の割当を切符制にしたためである。かうした水も漏らさぬ組織 が円滑に運用されて行けば、今までのやうな不愉快極まる紙の闇取引は 絶対に出来なくなる。
ただし、「洋紙配給統制規則」は印刷用紙を洋紙としていた。これに基づき、
協会の「出版用紙配給割当規程」は、第二条に「本会ガ配当割当ヲ行フ出版 用紙ノ種類」は「洋紙配給統制規則」が定める「洋紙」としていた。書籍雑 誌に「和紙」を使うことは許されない。
しかしながら、用紙の統制は、洋紙だけでは不十分であった。田代はいう。
紙に就ての統制で残るところは和紙と厚紙であるが、これは洋紙の需 要に比して.は極く少ない。しかし、和紙は最近いろいろと製法に工夫 が凝らされ、一見、洋紙と判別のつきかねるやうなものも出来るやうに なり、立派な書物となるものもあるので、出版対策上からも等閑に附し ておけなくなつた。それで、商工省にママ和紙、厚紙の方にも洋紙同様の共 販会社をつくることになり、和紙の共販会社は昭和十六年の八月、厚紙 共販会社はそれから間もなく創立された63。
もちろん、商工省に手抜かりはなかった。同省はすでに、「洋紙配給機構 整備要綱」を決定したその1940年10月、「和紙配給統制基礎案」を発表し、
12月26日に「和紙配給機構整備要綱案」を提示していた64。「和紙配給機構
整備要綱」は遅れて翌年5月30日に整備された65。これにもとづいて、当局 と関係業者間の協議の結果、和紙製造者と問屋を包括する「日本和紙統制株 式会社」が創立された66。田代のいうとおり、1941年8日1日。
田代のいう「厚紙」とは「板紙」のことである。これは書籍用のケースに も用いられる67。1940年1月に創設された日本板紙連合会は、加入会社の製
品の配給を統制していた68が、「当局の慫慂によつて」翌年1941年10月6日、「日 本板紙共販株式会社」が設立された69。
田代はいう。
これで我が国内でつくられてゐる「紙」と名のつくものは、なにからな にまで全部統制されるやうになつて了つた。スピード時代の戦時下とは いへ、想へばここ一両年の出版界の統制振りの鮮やかさは慥かに見事だ つた70。
あとは、法的な整備である。
12月1日「洋紙配給統制規則」は廃止され、新たに商工省令「紙配給統制 規則71」が公布された。発令者は、第三次近衛内閣についで10月18日に発足 した東条英機内閣の商工大臣、岸信介。施行は12月21日。
第 一条 本則ニ於テ紙トハ洋紙、和紙又ハ板紙ニシテ商工大臣ノ指定シ タルモノヲ謂フ
同日、省令とともに商工省告示は、配給の要となる統制会社に「洋紙共販 株式会社」「日本和紙統制株式会社」と「日本板紙統制株式会社」を指定し、
遅れて、同月12月23日、洋紙と板紙の「元売組合」と和紙の「商業組合」、
そして、それぞれの「小売組合」が指定された72。
日本出版文化協会が創立されてから一年、事変が大東亜戦争と改称された 日をはさんで、新たな「紙配給統制規則」によって、「我が国内でつくられ てゐる「紙」と名のつくものは、なにからなにまで全部統制されるやうにな つて了つた」のである。「洋紙配給統制規則」から用紙のすべてに及ぶ「紙 配給統制規則」まで、一年、見事なスピードであった。
ただし、問題が残っていた。
6月21日から日本出版文化協会の会員でなけれれば印刷用紙を購入できな いことになったが、印刷所の印刷用紙は手つかずのままであった。田代金宣 によれば、「印刷業界統制問題は昭和十六年六月頃から漸く表面化した73」。
『印刷雑誌』6月号にアオイ書房の志茂太郎が、「印刷文化協会の創設を提唱す」
を寄せたのはこのころであった。副題を「変体活字廃止反対論反駁者への公 開状」としたように、志茂には、「出版文化協会」にならって「印刷文化協会」
が実現すれば、彼が一貫して反対してきた地金不足を理由とする活字の鋳つ ぶし運動も、より大きな、文化的かつ国家的な観点から検討されるはず、と いう思いがあった74。しかし、新聞雑誌用紙統制委員会、すなわち情報局に とっては、印刷新体制の要は、印刷業者が扱うその用紙の統制にあった。
田代によれば、洋紙共販株式会社によって紙の流れが整備され、出版文化 協会ができたのに、「どうしても匿して置いて分らないやうな闇の紙はまだ 相当ある75」。「未だ出版界に闇取引があるといふのは、皆印刷所に関る紙の 闇取引76」であった。
7月18日、印刷新体制のために、官庁側から商工省の樺島繊維課長、情報 局の大熊大佐、田代情報官と、東京、大阪、名古屋の印刷業界有力者による 一回打合会が開催された。ここで、「兎に角、紙の方だけでも中央に強い統 制力を持つやうな仕組みを早くつくらねばなぬ」ということになり、印刷新 体制の中央機関は仮に「印刷文化協会」とすることになった77。
やがて、8月2日、日本出版文化協会側も含めた協議会が情報局で開催され、
「出版文化的内容及出版統制上適当と認められるものは出版文化協会に於て 用紙の割当並に監督をする」ことが原則とされた。協議は煮詰まっていなかっ たが、「出版文化的内容の濃いものについては印刷文化協会から出版文化協 会へその企画書を提出して企画審査を経る必要が生じるであらう」と考えら れた78。
その「日本出版文化協会の弟分79」たる日本印刷文化協会は、10月27日に 結成された。印刷業界の規模は大小さまざま、しかも各種の組合があったた め組織づくりは遅れたが、しかし、日本印刷文化協会は、翌年、3月21日か ら切符制を実施することになった。その「会員に対する割当は、協会内に設 けられた用紙割当査定専門委員会が従前の使用実績などを勘案して審査決定 し、協会への割当総量は情報局内の内閣新聞雑誌用紙統制委員会が決定し た80」ものである。
日本印刷文化協会は、1942年6月15日から、「製品監査消費規正の徹底普及
等の見地より、総ての印刷物に印協会員番号を附する事にした81」。商工省 のことばを借りれば、「用紙ノ配給消費ノ情況ヲ明確ナラシムル為」であった。
商工省繊維局人造繊維課長増岡尚士が内閣官房総務課長に宛てた1942年6 月4日付文書、「印刷物ニ日本印刷文化協会会員番号ヲ附スルノ件82」にいう。
今般有害不急不要印刷物ノ抑制、印刷技術ノ向上ヲ期シ用紙ノ配給消費 ノ情況ヲ明確ナラシムル為昭和十七年六月十五日以降日本印刷文化協会 ヲシテ会員ノ作成スル各種ノ印刷物ニ左記ニ依リ会員番号ヲ附セシムル コトト相成候条御了知相成貴庁関係印刷物ニ付テモ御協力相煩度此段申 進候也
記
一、 会員番号ハ当方紙(印刷所持ノ紙)、先方紙(註文者持ノ紙)ノ別 ナク日本標準規格B列8番以上ノ印刷物ニハ必ズ之ヲ附スルコト 二、 軍又ハ官ノ印刷物ニシテ機密ニ属スルモノ其ノ他印刷物ノ性質上会
員番号ヲ印刷スルコト困難ナルモノニ付テハ除外スルモ差支ナキコ ト
この年、1942年2月21日、情報局は「旧帝劇から三宅坂の旧参謀本部」、東 京市麹町区永田町一丁目一番地に移転した83。4月7日、情報局第二部の部長 と課長に人事移動が行われ、つづいて、9日、同部第二課の鈴木庫三情報官 は免官となった84。『出版文化』は人事異動を告げ、こうつけ加えた。
尚本会創立前から何彼と本会のため御指導下されてゐた情報部第二部 第二課の情報官鈴木庫三中佐もこのほど転任せられた85。
東京市が最初の空襲を受けたのは、その4月、18日であった。日本海軍は6 月のミッドウェイの海戦に破れ、12月、ガダルカナル島の総力戦も敗北が決 定的となった。翌年、1943年2月9日、大本営発表。
ソロモン群島のガダルカナル島に作戦中の部隊は昨年八月以降引続き上
陸せる優勢なる敵軍を同島の一角に圧迫し激戦敢鬪克く敵戦力を撃摧し つつありしが其の目的を達成せるに依り二月上旬同島を徹し他に転進せ しめられたり86
この間、1942年8月6日、「出版事業に関係あるものみなが異常な関心を払 つてゐる出版企業の整備問題を俎上にのせて」、官庁側と日本出版文化協会 のあいだで出版企業整備懇談会が開催された。翌日の理事会は「企業整備の 必要なことは議論のないところであり、これを如何に実行するかその技術に つき十二分の自信と適正なる方策が用意されなければならぬ」として研究を 進めることになった87。出版企業の整備問題とは、もちろん、その統合と整 理であった。特殊法人日本出版会の創立への第一歩であった。12月17日、総 動員審議会は「出版事業に関する勅令案」を可決した88。
新体制下のもと社団法人日本出版文化協会は1940年12月19日に創立された が、「発足満一年を以て大東亜戦争の勃発となり国内の一切の組織は急速度 を以て必勝態勢を整へなばならなくなつた」。『日本出版年鑑』はいう。「自 由主義的な思想を払拭し、営利主義的な経営を蟬脱し、健全なる新日本文化 の建設並に高度国防国家の確立に挺身するといふ当時の指導目標は最早すで に手緩く、もつと端的に、出版界は思想戦の兵器廠たるべからずとの要求が 強く奔流して来た」のである。しかも、協会は「何等法的根拠を有するもの ではなかつた。協会の機構そのものにも、例へば民法上の社団法人組織に基 づく多数決制といふやうな脆弱面があつた」。「指導理念の確立と抜本的な統 制組織の設定が漸く真剣に政府当局並に文協首脳部との間に考慮せらるるに 至つた」のである89。
『日本出版年鑑』によれば、「政府当局並に文協首脳部との間」で「慎重に 準備が進めらるゝこと半歳、予測より約二ヶ月遅れて」90、1943年2月18日、
勅令「出版事業令」が公布、即日施行され、同日、その「施行細則」が公布 された。出版事業令は国家総動員法に第六条に基づくものであった91。日本 出版会に「国策立案並に遂行に協力せしむべき団体」として「法的根據」が 与えられたのである92。ただちに、翌日19日、内閣・内務省告示によって新 たな統制団体の設立命令が下り、設立委員が任命された。23日、首相官邸で
開催された設立委員会は作業をすすめ3月3日審議を終えた。3月11日、大隈 講堂で日本出版会創立総会と日本出版文化協会解散のための臨時総会が開催 された。ついで、政府によって任免された詮衡委員会は、26日、久富達夫を 会長に指名し、理事長と事務局長を兼務することになった会長が理事以下首 脳陣を任命して、その陣容が整う。
他方、2月13日、商工省は「印刷業の統制」を発表し、同日、商工次官は 道府県知事宛に「資材配給一元化」について通達した。22日、衆議院特別委 員会で政府委員の商工省繊維局長は、印刷文化協会と印刷関係工業組合を解 散し、両者を一丸とする統制組合に改組すること、また、企業整備を印刷業 についても強力に推進することを述べた。業界内には印刷文化協会には設立 の法的根拠がなく任意団体であるにもかかわらず権限のみは強大であること に不信感もあった。社団法人日本印刷文化協会の創立総会は3月3日に開催さ れた。その定款第三条。「印刷業ノ総力ヲ最モ有効ニ発揮セシムル為印刷並 ニ之ニ関連スル工業ノ統制ヲ図リ以テ国策ノ遂行ニ協力スル」93。
昨秋9月、鮎川信夫は大隈講堂で挙行された卒業式に出席することなく、
10月から三ヶ月にわたって「徹底的に上官の命令に従はねばならぬことを恐 怖を持って教へ」られた94。スマトラ島派遣と決定したのが、日本出版会が 成立したこの月、3月であった。広島の宇品港を出港したのが、4月22日。18 日の海軍元帥山本五十六の死は、まだ、秘密にされていた。その死が大本営 から発表されたのは5月21日である。
三好豊一郎の小さな雑誌『故園』の第2輯が出たのが5月、鮎川が船上にあっ たころである。中桐雅夫にあずけた「遺書のつもりで残してきた詩」が、こ こに活字となった。「橋上の人」はやがて、彼の船を追い、南方の陣地に届 くであろう。
夢みる橋上の人よ
この泥に塗れた水脈もいつかは
雷とともに海へ出て 空につらなる水平線をはしり この橋も海中に漂ひ去つて 躍りたつ青い形象となり 自然の声をあげる日がくるだらうか95
5月12日の主務大臣の認可を受けた「日本出版会統制規程」、「日本出版会 用紙配給調整規程」、そして「日本出版会出版物配給調整規程」は、5月14日、
『官報』で公布された。施行日は同日96。「日本出版会」に課せられた大きな 事業は、「出版事業令ニ基キ会員ノ事業ノ統制ニ関シ必要ナル事項」を定めた、
「日本出版会統制規程」による出版業者の整理と統合であった。
7月2日、三千余名を埋めた日比谷公会堂で、大日本出版報国団の結団式が 挙行された。開式の辞で、日本出版会総務部長留岡清男はこう述べた。
私共が奉公するところの出版は、その制作に於きましても配給に於きま しても、又国民がこれを利用する読書総てを悉く計画的に指導的に確立 しなければならないと存ずるのであります。この事は極めて言ひやすく、
併しながら実行することまことに難いものがあるのであります。私共は 只今結団式を挙行するに当りまして、十分私共の直面する障碍をはつき り認識致しまして、これを一挙に跳越えるところの覚悟を新たにしなけ ればならないと存ずるのであります。大日本出版報国団は今や国民運動 の一翼に列りました。私共三万の出版関係業者は悉く国民運動に挺身す る一員として、この障碍を乗切らなければならないと考へるのでありま す。
つづいて、4月20日に情報局総裁に就任した天あ も う羽英二、大政翼賛会副総裁後 藤文夫が祝辞を述べた。設立準備委員橋本求の設立経過の報告のあと、団長 に日本出版会理事長、久富建夫が推薦された。結団式が閉会したあと、結団 式に来賓として出席していた大日本言論報国会の理事長、鹿子木員信博士の 講演が行われた。
10月30日、商工省は「印刷業企業整備要綱」を発表し、同日、日本印刷文 化協会長宛て次官通達は、協力を要請した。これを受けた印刷文化協会はた だちに企業整備委員会を設け、都支部に企業整備実施委員会をおき、各県に は企業整備推進隊員を任命した97。
11月1日、商工省と農林省が廃止され、軍需省と農商省が設置された。パ
ルプ、用紙など繊維産業にかかわる統制事業は農商省に移った。
11月4日、閣議は「出版決戦体制ヲ確立」する方針により「出版事業整備 要綱」を決定した98。これを受けて、日本出版会は資格審議委員会と企業整 備委員会をおいた。「如何なる資格のものが、如何なる目標の下に統合を進 むべきか、又転廃業すべきか」これらが「資格審議会及企業整備委員会の審 議を経て決定されること」は「政府要綱の明記する通り」であった99。すべ ての始まりであり、また、終わりであった。
出版新体制の大きな遺産は、A列とB列の規格の定着と普及であった。日 支事変後に制定された「輸出入品等ニ関スル臨時措置ニ関スル法律」を根拠 として、強制力をもって実施されたのである。「用紙規格規則」は当初、
1941年1月1日としていたが、3月20日に改正されて4月1日から施行されるこ とになった。A列あるいはB列、それぞれの判型に区分された用紙の仕上寸 法を遵守すべきものされた品種は、書籍雑誌のみならず、ノート、原稿用紙、
書簡用紙、事務用封筒27種におよんだ100。
出版新体制の痕跡は、その推進役のひとり、田代金宣の著作の判型ととも にその奥付の記載事項にたどることができる。
田代金宣著『出版新体制の話』は、1941年11月に書かれた「自序」をおい て、翌年1942年2月1日、共同印刷株式会社を印刷所として、日本電報通信社 出版部から発行された。その奥付から、発行所が日本出版文化協会の会員で あることがわかる。配給元は、日本出版配給株式会社。B6判、もちろん規 格判である。出版新体制運動は着実に成果をあげつつあった。
つづく、情報局情報官田代金宣著、『随記 変わる時世』は、その1942年 の猛暑の夏、8月に書かれた「序101」をつけて、文化印刷株式会社で印刷され、
その冬、12月1日、六盟館から刊行された。A5判。その奥付けには日本出版 文化協会会員番号と配給元の記載に加えて、新しく「出文協承認」番号が附 され、印刷日と発行日の下に五〇〇部と記された。これはこの年3月17日か ら施行された新しい「出版用紙配給割当規程」に従ったものである。その骨 子は、書籍については従来の「基準割当」を全廃し、通常割当、すなわち査 定割当としたこと、「査定割当用紙使用申請制」を「発行承認制」と改めた
こと、そして、「発行承認番号」を必ず奥付に刷り込むことである102。さらに、
当該の版数と発行部数を記載することになった103のであった。もう一点、新 たに、印刷所には日本印刷文化協会の会員番号がつけられている。6月15日 からの措置に従ったのである。
翌年、1943年6月15日、情報局情報官田代金宣の「序」をつけた、瀧本英 雄著『物語 謀略戦』104が内外書房から出版された。B6判。発行者は同書房 の船越石治、印刷者は五十嵐良晃。それぞれに所属する会員番号が添えられ ている。10,000部。奥付には「文協」の承認番号にかわって「出版会承認番号」
が附された。ただし、その著者、情報局情報官田代金宣のその後の消息につ いては未詳である。
「用紙規格規則」は同人誌にも及んだ。
1943年5月に鮎川の「橋上の人」を掲載した三好豊一郎の『故園』は、つ づく第3輯を9月に出して廃刊となった。印刷屋が徴用され営業廃止になった ため、とされる。牟礼慶子によれば、「縦十二センチ横十八センチ」の活版 印刷の小型の雑誌であった105。厳密には、B6判、128×182㎜ ではなかったか。
雑誌については、A4・A5、B4・B5・B6以外の判型は許されず、違反したば あいは、製本業者にも罰金が課せられていたからである。
中桐雅夫の最初の著作は、本名白神鑛一の名で書かれた『海軍の父 山本 五十六元帥』である106。この年、1943年10月25日印刷、30日発行。上製本で 判型はA5判。ただし、表紙はA5判より少し大きい。しかし、本文は「用紙 規格規則」が書籍について定めた判型、A4・A5・A6・A7、B4・B5・B6・
B7のひとつ、A5判である。表紙が大きいのは問われない。上製本、すなわ ち装幀したものについては中味の大きさが仕上寸法とされていたからであ る。その奥付には、「出版会承認番号」が附され、発行部数は30,000部。定 価に添えられた価格停止の記号、その他の記載事項は日本出版会の用紙配給 規程によったものである。
注目すべきは、この書の文字の大きさである。最後に収められた「山本元 帥略年譜」をのぞいて、12ポイントで字間、行間に余裕もある。しかも、
A5判の14行であるから、読みやすい。なぜなら、これは「小国民のために」
書かれ、「児童をして、帝国海軍発展の歴史を認識せしむること」に目的があっ
た107からである。商工省が用紙供給の削減をつづけるなかで、このような書 物が出版されることができたのは、その背後に国の近視眼予防政策があった からである。
いわゆる「小国民」のための読み物の文字の大きさについては、すでに 1938年11月25日に内務省図書課が決定した「児童読物改善ニ関スル指示要 綱108」があり、その冒頭に、「六号及ビ八ポイント以下ノ活字ノ使用」を廃 止すること、「但シ幼児向ノモノニアリテハ十二ポイント以上タルコト」と された。この指示要綱の実施は、図書課のみならず、文部省、さらに厚生省 の近視眼予防政策を背景にして強力にすすめられた。学校における近視眼予 防を目指したものは、明治31年(1898年)10月14日の文部省告示第61号「検 定出願教科用図書ノ文字印刷等ニ関スル標準109」があった。文部省がのちに
「学生生徒ノ近視予防上教科用図書検定標準ノ件」と呼ぶものである。この 省令に改正が重ねられたが、1939年1月、中等学校と青年学校を新たな対象 として改正された。「近視眼予防上検定出願教科用図書ノ文字印刷等ニ関ス ル標準」である。そして、この年、1939年3月25日、厚生、文部両次官は「近 視予防思想普及ニ関スル件」を各地方長官に通牒した110。その項目のひとつ、
「印刷物の選択」にいう。
書籍、雑誌等ニシテ文字ノ過小ナルモノ見難キ色刷ノモノ或ハ不鮮明ナ ル印刷ノモノ又ハ紙質不良ナルモノハ之ヲ避クルコト
他方、1938年の秋に厚生省の肝いりで発足した「視力保健連盟」は12月か ら機関誌『視力』を発行し、厚生省と連繋して国策としての近視眼予防を進 めていたのである。
出版業界にとっても、文字の大きさを含む活字の規格統一は懸案事項で あった。しかし、すでに見たように、1938年夏、紙と活字資材の使用制限に ともない、活字の鋳つぶしの動きがはじまった。かつて、工業品格統一調査 会の「紙ノ仕上寸法(日本標準規格(JES)第92号P1)」制定に尽力したの は内閣印刷局研究所長、矢野道也であったが、日本印刷学会の会長でもある 彼が活字規格統一案の検討をはじめたのが、その秋のことであった。活字規
格調査委員会は委員長を矢野として検討をつづけ、1941年4月14日、印刷学 会案、すなわち「活字規格案」が決定された111。「用紙規格規則」が施行さ れたその4月のことである。
「用紙規格規則」が施行され、出版物の規格が統一されるようになると、
新たに問題が浮上した。田代金宣によれば、「紙の制限が強化されて紙面の 狭くなつた新聞や雑誌は、小さい活字を用ひ出して来たので、保健上由々し い問題だと、非難の声が次第に多くなつて来た」のである。彼はつづける。「こ の問題も前からの懸案で当然取り上げて解決してやらねばならぬ問題であ る112」と。日本出版文化協会の活字の新体制確立の動きは、情報局の指導の 下、1941年の秋、9月30日の連絡会議にはじまる。『出版文化』の行事欄にあ る、日本俱楽部で開催された「情報局二部二課との懇談会113」がそれであろ う。
日本出版文化協会の機関誌『出版文化』10月15日号、「活字の新体制 統 一規格案の審議114」はいう。
活字規格の統制については既に印刷業者並に印刷学会の間に於て相当研 究せられ、印刷学会案も出来てゐる訳であるが、これが実行の機熱さず 今日に及んでゐた。然し臨戦体制下に於ける活字資材の供給も益々困難 となり商工省当局に於ても活字規格統一により活字資材の節減を図らん とする必要にせまられ、一方厚生的見地から厚生省に於ても出版と活字 の関係等につき多大の関心をもつてゐることに鑑み、本会ではこの際情 報局の指導の下に活字規格統制案を作製し内閣の工業規格統一調査会に 提出するためその準備会として先づ左の関係官と九月三十日日本倶楽部 に於て下記の諸点につき連絡会議を開いた。
出席者した関係官は、情報局佐藤第二部第二課長、同課田代情報官、文部省 発行課長代理、厚生省予防課事務官、商工省総務局総務課長、内閣印刷局矢 野研究所長。協会からは、4名。
この日の主な議事は、まず、「活字規格統制の必要性(イ)活字資材の節 約(ロ)厚生的要請(眼の保健)」であった。すなわち、商工省側の資材節
約の方針115と、厚生省の近視眼予防政策、この両者の立場から活字規格の統 制が要請されたのである。そして、「活字統制の法的根拠(商工令の発動)」。
活字統制の強制力を与えるためには、法的根拠が必要となる。そのための新 たな商工省令の可能性が諮られたのである。
この準備会を経て、10月21日から「活字規格統制委員会」の検討がはじまっ た116。委員会は翌年、1942年6月1日に「一般書籍雑誌ノ組版及活字使用制限 等ニ関スル実施要項」をまとめ、日本出版文化協会は、まず、その近視眼予 防のための方策として掲げられた活字の大きさを、8月末までに「徹底的に 実施」することを会員に要請した117。この実施要綱は日本出版協会、ついで 日本出版会の指針となった、
委員会はさらに審議をつづけ、12月、最終的に「活字統一規格試案」を纏 めた。これは技術院に提出されることになった118。工業品格統一調査会は商 工省におかれていたが機構改革によって技術院に移管された。その調査会の 審議によって新たな日本標準規格の制定が目指されたのである。
『日本読書新聞』の記事119によれば、「活字統一規格試案」の輪郭はつぎの とおり。
同案の適用をうけるのは、新聞を除く雑誌、書籍その他の出版物、印刷 物で、資材の節約と近視予防の厚生的見地から現在大小四十種にのぼる 活字の字格を十三種に制限、固有名詞や特殊のものを除く振仮名文字の 全廃、一万字以上を数へる使用漢字を三千字以下に、また多画文字の使 用を制限して略字を使用、約十種の活字の書体を明朝、角ゴジツク、ア ンチツク、正楷の四種に統一し、変書体は一切全廃するなどその影響は 甚だ重大でこれにより浮き上がる鉛などの地金量四割は直接軍需へふり 向けられるわけである[。]
活字新体制の目指すところは合理化だけではない。それによって排除される 活字地金の四割が鋳つぶされ、砲弾となることが期待されたのである。
資材節約を目指しながら、しかし、厚生省の近視眼予防政策は堅持された。
「活字統一規格試案」の最終項目、「禁止予防策としての活字使用制限」の前