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鮎川信夫と 『新領土』 (その3)

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(1)

鮎川信夫と 『新領土』 (その3)

著者 中井 晨

雑誌名 言語文化

巻 4

号 1

ページ 89‑178

発行年 2001‑08‑20

権利 同志社大学言語文化学会

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000004360

(2)

鮎川信夫と『新領土』 (その3)

1

中 井   晨

8. 戦争への旅

W・H・オーデンは、かつて、内乱のスペインへ出掛けた。その産物が、

小冊子の詩『スペイン』2であった。1937年5月。『新領土』が創刊された月の ことである。この夏、オーデンとクリストファー・イシャーウッドは旅行記 を依頼された。出版社の条件はアジアの国であればいい、というものであっ たが、彼らは中国を選んだ3。わが国が 日支事変 と呼ぶ新たな戦争 the

Sino-Japanese War 4が勃発したからである。1938年1月、二人は香港に向け

て船出した。

オーデンの第一報は、その年、1938年7月の Chinese Soldier 5であった。

1939年1月号『新領土』に、名切哲夫訳「支那にて」6が登場する。その冒頭。

そこに文化はなかつた

彼は上官に見捨てられたそして虱たちにさへも 蒲團の下で彼はその瞼を閉ぢた

そして息絶えた

奇妙である。 蒲團の下 で息絶えることができれば、すくなくとも そこ には、文化あるいは文明があると考えられなければならない。原詩はこうで ある。

Far from the heart of culture he was used:

Abandoned by his general and his lice,

「言語文化」4-1:89−178ページ 2001.

同志社大学言語文化学会©中井 晨

(3)

Under a padded quilt he closed his eyes And vanished.

些細なことだが、正確には、 蒲團 とは中国風の刺し子の 兵服 7のこと である。 彼 は、 文化の中心から遙かな僻地で使われて そのうえ 見捨 てられ 8兵服のまま 息絶えた のである。原題のとおり、彼は 支那の兵 士 であった。しかも少年であった。6行以下を示す。

Professors of Europe, hostess, citizen, Respect this boy. Unknown to your reporters He turned to dust in China. . .

ヨーロッパのプロフェッサーたちや宿屋のおかみさんや市民たちは この少年に敬意を表する 諸君の報道者たちには無視されて 彼は支那の埃ホ コ リとなつた

詩人は、 文化の中心 を自負するヨーロッパの知識人やご婦人方や大衆に 向かって、新聞の片隅にも扱われることなく死んだ「この少年を讃えよ」と いうのである。誤訳である。しかしながら、訳者は詩人のメッセージを正確 に受けとめていた。最後にもう一度、「彼は支那の埃ホ コ リとなつた」と繰りかえ される。それは原詩にはない一行である。

オーデンは中国から、ヨーロッパへ向かって語りかける。ただし、同じ 1938年夏、内閣情報部から同じ国に派遣された ペンの戦士 たち9の眼に、

少年兵の死は映らなかった。

1939年1月号の翻訳で表題の Chinese Soldier を「支那にて」としたのは なぜか。相手国の兵士を表題とすることがはばかられたからである。訳者、

あるいは、編輯者の、日支事変下の 時局 にたいする配慮があったことは 明白である。2月、「全国ラヂヲ体操の会」が結成される。大学では、4月か ら軍事教練が必修科目となる。鮎川信夫が大学に進む1年まえのことである。

9月、ドイツがポーランドへ進駐し、英仏は宣戦を布告した。同月、厚生省

(4)

が作った大日本体操四部作のひとつが、大日本国民体操として制定され、12 月から「ラヂヲ体操第三」10として加わった。

オーデンたちの中国旅行記が刊行されるのは、イギリス版で1939年3月、

アメリカ版では8月である。春山行夫が手にしたのは前者であったと推測さ れる。彼は11月号の『新領土』にこの『戰爭への旅』を紹介する予定であっ たが、 急に滿州と北支 へ行くことになり11準備に追われた。のちの記述 では、 十月から約一ヶ月、「日本雑誌記者団満州国調査団」に加わり、ハル ビンまで行き、そこで調査団と別れ、ひとりで熱河を経て北京に入り、さら に大同まで 足をのばすことになった12のである。ただし、正確には、「日 本雜誌記者團満州國調査隊、

13であった。同行雑誌記者たちの思惑はともか く、「調査隊」が編成された理由は明白である。 滿州と北支 14は中国にお ける重要拠点であったのだ。

予定されたオーデンたちの旅行記紹介は、帰国後に書かれ、『新領土』

1940年2月号に掲載された。その末尾。

この旅行記を讀んで數ケ月したら英獨間に宣戰が布告された。しばら くしてオーデンとイシヤウツドがニユウヨオクに移住したといふ報道が はいつた。彼等がどうしてイギリスを去つたかは、そのうち彼等自身の ペンによつて傳へられるであらう15

ただし、春山の旅行中に『新領土』の編輯は進んでいた。すでに、前号、1 月号に、オーデンのアメリカからの、もうひとつの第一報「一九三九年・九 月」16が掲載されていたのである。オーデンはここで、1930年代の挫折を歌 っていた。

鮎川は、この1940年4月、早稲田大学文学部英文科に進む。日支事変勃発 から3年を経た7月、第二次近衛内閣の発足とともに、「基本国策要綱」が決 定される。鮎川の大学生活は、いわゆる「新体制」のもとに送られることに なる。

春山の中国旅行の産物は、『セルパン』2月号からの連載「滿州國の印象」17 についで、11月末の『滿州風物詩』18となる。しかし、新体制は論壇を包囲

(5)

していた。『セルパン』 編輯長更迭 19となり、9月、春山は発行元の第一書 房を退社20する。編輯は10月号から大島豊が担当する。彼は、 後継者から 一言のねぎらいもなく、「石で追われる」21ことになったという。

『新領土』とならぶ 進歩的詩誌 『VOU』は、1940年10月、巻頭にこの ように宣言して、『新技術』となる。わが国が 新體制の確立を斷行する時 国家の一員として これに協力するは當然の責務 である。

われわれは過去六年間に亘る從來の藝術運動を本號を以て終了し、直ち に民族精神の振興に寄與する 新比類なき民族藝術理論の樹立とその 適正なる實踐のために發足することを宣言する22

『セルパン』を離れた春山は、以降、その精力を『新領土』にそそぐ。しか し、『新領土』は、1941年5月号をもって終刊となる。1937年5月からかぞえ て、4年の歴史であった。

1941年10月16日、第三次近衛内閣総辞職。同日、「大學・専門學校在學年 限短縮決定」23が公布された。ひとことでいえば、卒業繰上げである。翌日、

東条英機に組閣の大命が下された。その10月17日、鮎川の日記。

今日こそ街から帰ってN・Tの滅亡を予言することが出来る。この悲 しむべき事実の予兆を一体誰が考へてゐるだらうか。私の数年前からの 危惧が漸く明瞭りした形となって次第にこれから現れてくるであらう24

『文藝汎論』1941年12月号、鮎川の「 神こころ」である。

すさまじい寒さが吹きつけてくる かしこより辷りでて

蛇は力を盡してしろがねの枝をのぼる ねむれる草のうへに

脱ぎすてた分身が く光る25

(6)

12月8日の日記は一行。「日、英米の戦闘開始せらる。」

開戦を受けて、日本詩人協会の代表者、村野四郎は、『讀賣新聞』に「撃 滅の賦」26を書く。12月24日、「文學者愛國大會」27が開催され、「日本文學者 會」の設立準備が決議された。早稲田大学で1942年3月卒業予定者にたいし て卒業式が行われたのは、翌日、25日である。

翌1942年、『文藝汎論』1月新年号に村野は「大學生」を寄せた。

大學生 君等はなぜ

遠く出發しようとしないのか そこらで渦巻き

ひし

めきながら

しかも、どつと燃え上ることを望んでゐる おびただしい鰯の眼よ

おお 可燃性の い群 燻

いぶ

る未來よ28

2月号の『文藝汎論』は 愛國詩特輯號 であった。同誌3月号特輯「献納全 日本愛國詩集」の巻頭を飾ったのが、村野の「愛國詩」である。

私はしづかに夜の椅子に坐る

すると 兵士たちの聲がきこゑてくる

それから机により 洋燈覆の光に頭を浸すと 波の音がきこゑる 兵士たちの聲と共に

私は愛國詩を書きはじめる

すると すべての日本の人達の聲がきこゑる

むれ

(7)

湧きたつて

私の身體か ら だの中で29

『文藝汎論』はつづいて、4月号、5月号の特輯をそれぞれ「愛國詩指導理論」

「愛國詩實踐理論」とした。『蝋人形』の投稿欄は西條八十選「戰時歌謡」を 設けていたが、2月号からこれを「愛國詩」と変更した。

文学者愛国大会で設立決議された日本文学者会は、1942年5月26日、日本 文学報国会として創設30され、日本詩人協会は諸団体とともに解散し統合31 された。村野は、報国会の詩部会常任幹事32となった。春山は評論随筆部会 に属し、常任幹事33となる。春山のあとを継いで『セルパン』そして後続誌

『新文化』の編輯長となった大島は、12月、徳富蘇峰を会長とする大日本言 論報国会の理事34となる。

鮎川が卒業論文に選んだのはエリオットであった。早稲田大学の卒業証書 授与式は繰上げ措置によって、1942年9月27日に行われた。だが、教練には 三年間を通じて一時間も出ていなかった ので落第35となった。卒業式に 先立つ9月15日、『英語 年』の「早稲田大學英文科卒業論文題目覧」に、本 名、上村隆一の卒業論文題「T. S. Eliot」36が残されているのは、せめてもの 慰めである。10月1日、鮎川は近衛歩兵四連隊に入営する37。「アメリカ」の 冒頭に書いたように、

それは一九四二年の初秋であつた38

発行が遅れがちになっていた日本英文学会の『英文學研究』が、「各大學英 文科卒業論文題目」のなかに、同じように彼の卒業論文名を記載したのが、

翌年、1943年7月39である。鮎川はすでに、その4月、一歩兵として、すでに、

スマトラへ向かって宇品港から船出していた。時間は、繰上げと遅れを絡ま せながら、鮎川をつき動かしてゆく。

『新領土』は、福原麟太郎がいうように、 英國の新しい文學思潮を翻譯 して紹介 し 詩論の翻譯などがかなり早く 掲載されていた40が、新しい 詩の翻訳では遅れをとっていた。1938年8月号の『荒地』第1部「死者の埋葬」

(8)

は、新しい作品ではなかったが、読者にとっては待望の翻訳であった。第2 部「將棋遊び」が掲載されるのは、1939年6月号である。そして、話題の作 品、オーデンの「スペイン」は、発表後2年遅れて、ようやく、翌月、7月号 に登場した。そして、ニューヨークからの第一報、1939年10月の新作41は、

時を移さず、「一九三九年・九月」として翻訳され、1940年1月号の『新領土』

に掲載された。オーデンたちが どうしてイギリスを去つたか その理由の 一端を、ここにうかがうことができるのだ。『新領土』に掲載されたこれら 主要な詩作品は、間接的直接的に戦争を歌ったものであった。戦後の幻滅、

スペインの闘争、そして、新たな戦争へいたった挫折感。1920年代にはじま り1930年代末に終わろうとするヨーロッパのパノラマが、凝縮されて読者の まえに展開されたのである。

わが国にあっても、もちろん、戦争はすでにそこにあった。大学予科にあ った鮎川は、『新領土』1939年9月号、「戰爭詩に關聨して」にいう。 戰爭詩 についても一時はとやかく頻りにうるさく論議せられたものなのに、どうい ふ結論にも達しない中にいつの間にか殆んど立消えのかたちになつてしまつ た 42と。事柄は、わが国に移植されたシュール・レアリスム、ひろくは、

モダニズムの変貌にかかわっていた。やがて、戦争詩は愛国詩へと変貌して ゆくのである。

『荒地』第2部「將棋遊び」を掲載した同じ1939年6月号に、春山の「英米 の戰爭文學」43がある。何気なく書かれた一節に、書き手の予期しない意味 がふくまれることがある。これは、その一例である。

春山はその冒頭で、 最近廣く讀まれてゐるアメリカの小説『風と共に去 る』 を採りあげて、 戰後の社會や、文化の變化が文學に及ぼす影響 44を 英米の文学に検討する。戦争小説とは 單なる「つくり上げられた物語」で はいけないので、作者の戰爭に對する批判や人間性の究極に觸れたものでな くてはならない 45のである。大戦後、アメリカに残った作家は アメリカ 自身が戰爭から受けた社會的反動や幻滅を文學の題材として成長した 46の であった。他方、ヘミングウエイの『武器よ、さよなら』、フオクナアの

『兵士の報償』、ガートルード・スタインの『アリス・トクラスの自傳』など がある。しかし、これらが 戰爭の直接の息吹から相當の距離が生じてゐる

(9)

のはなぜか。彼らの多くは 戰爭終了後再び歐州に渡るか、乃至はそのまま 歐州に居殘るかして、その文學的第一歩を歐州ではじめるものがすくなくな かつた ため、 歐州の、主としてパリの新しいモダアニズムの影響を受け ることになったからである。 アメリカ文學にモダアニズムの文學を輸入し た 47のがこれらの作家であた。

アメリカの戦争文学に見られる 一種のコスモポリテイスム に触れて、

春山はこう結ぶ。

この傾向はどこか日本に於けるモダアニズムの影響にも似通つてゐ る。日本のモダアニズムが歐州大戰直後の所謂戰後文學の間接の影響で あることはかくれもない事實であつた。しかし戰爭の現實と反映とが殆 んどなかつたといふことが、思想的な發展を遂げ得なかった最大の理由 であつたといへよう48

春山は、いわゆる1930年代の 失われた世代 の作家たちが描いた戦争小説 にモダニズムの影響を見るのである。そして、わが国のモダニズムに向けた 視点も妥当である。

ただし、春山の指摘は、深刻な問題を孕んでいた。ひとつには、日本回帰 を志向する環境にあって、モダニズムがいかにして 思想的な發展 を遂げ うるか、という難問である。事柄は、『新領土』創刊にあたって力説された シンセリティ にどこまで固執しうるか否かに関わるであろう。そして、

もうひとつ、鮎川が人目をはばかりながら予言した N・Tの滅亡 すなわ ち日本帝国の滅亡が 戰爭の現實 となったとき、モダニズムの 思想的な 發展 を、だれが担うか、という問題が潜んでいたのだ。

9.  時勢

南京が陥落した翌年、1938年は新しい国民歌「愛國行進曲」で明けた。

春山行夫が 最近廣く讀まれてゐる という『風と共に去る』は、この年 1月号『セルパン』に、深澤正策の「梗概」で紹介されていた。編輯部は、

原作が1936年のピューリッアー受賞後200万部を売りつくし、ハリウッドで

(10)

は映画化の準備にすでに入り配役を選考中であることを伝え、邦訳の出版を 予告49した。「梗概」は、『セルパン』を刊行する第一書房の、映画化の動き にあわせた戦略でもあった。その、結びである。

故郷の農園に往つて、明日、考へよう。きつと方法がある。要するに 明日は別の日なのだ!50

1938年12月、深澤正策訳『風と共に去る』は、第一書房から第一巻、翌 1939年2月に第二巻がそれぞれ 戰時體制版 51として発行された。刊行に先 だち『セルパン』は、「世紀の大小説待望空しからず遂に第一書房版出づ!!

『大地』と共に現代アメリカが生んだ最大の世界的傑作!!」52と広告した。大 作の映画、のちにいう『風と共に去りぬ』は、アメリカでこの年1939年12月 末に公開され、翌年1940年初頭からロングランに入った。

『セルパン』1940年4月号、角田敏夫「ハリウツド通信」は、 二十五日

(一月)の夕刊 が筆をそろえて大見出しで、「日本、米國を恐喝す」「通商 條約終り新なる危機發展す」 とあり ひやりとさせられ た、とはじめて いる。 こちらの新聞の編輯者どもは眼を皿のやうにしてzみかからうとし てゐる感じです 53と。前年7月26日、アメリカは 日支事変 にたいする対 日制裁措置として日米通商航海条約の廃棄を通告していたが、更新のための 調整がならず、通告どおり、この1月26日に廃棄された。鉄鋼、石油など日 支事変を遂行するための必要物資の輸入はこれによって途絶えることになっ た54のである。

1940年のアメリカは話題の新作映画に沸いていた。宣伝用に飾られた 大 小道具類を見て、その立派さに壓倒され た角田は、さらに実際の映画に圧 倒される。 こと程映畫は美しく、極度に美しく、樂しく、巧みな轉換と山 に依つて物語を進めてゐる のであった。しかしながら、 嵐の如く襲ひく る轉廻期に示された一女性の心理 に 眞實感が少しも迫つてこない こと も事実である。 恐らく現在の日本の評論家の眼からいふならば、(映畫「風 と共に去りぬ」は、豪華、華麗なれど、結局アメリカ映畫である)と結ぶの ではないかと思ひます。 だが、 テクニカラーもいままでに見たもののなか

(11)

で最高のもの であり、 例へばヴイヴイアン・レイの皮膚の色は、私が常 に見るアメリカの美しい人のそれそのまま であった。

テクニカラーに關して、こんなことがいへると思ふのです。それは、ア メリカに來てはじめていへる感じではないかと思ふのですがアメリカの 風物、建築物、フアニチユアー、人物の顔、服装などが日本のそれらに 比して、非常に多彩であり、私達は街を歩いてゐて、泰西名畫の額縁か ら抜け出したやうな鮮やかな女性、鮮やかな多彩な風物に現實に出遭ふ といふことです55

アメリカに住む角田は、つづいて 濕氣の多い素朴、單彩の日本 の風物と 対照するのだが、前年11月末満州旅行から帰国した春山の眼に、東京の「色 彩」56はこのように映った。

東京の市中でも、協和會の制服57らしいものを着てゐるひとをよく見 かける。最近は日本にも國民服が制定されて百貨店のシヨウウインドオ を飾つてゐる。國民服は服だけがカーキ色であるのでなく、ネクタイも 手袋もカーキ色のを着けてゐるひとがある。しかし帽子と靴は制定され てゐないから、民間であれを着るには恰好がとれないといふ意見がある。

この1939年末の風物が『新領土』に掲載されたのは1940年9月号である。そ の9月、「部落町内會等整備要領」が公布され隣組が全国的に整備されるとと もに、11月に公布された「國民服令」によって、帽子、靴のみならず、外套 も 制定 58された。

わが国で『風と共に去りぬ』が公開されたのは、1952年9月59のことであ る。時を移さず上映されていたならば、第一書房版『風と共に去る』もまた ベストセラーになったであろう。

わたしたちは、あらためて、1938年を起点としてはじめねばならない。そ れは、18歳の鮎川がモダニストを自覚した年であり、『新領土』が充実して いたのは、『荒地』第1部「死者の埋葬」を掲載したこの年から、オーデンの

(12)

「一九三九年・九月」を掲載した1940年1月号前後、さらには、7月からの

「新体制」のもと、その10月号まで、と考えられるからだ。その間、鮎川は さまざまな詩の方法に接し、また、その実践を目撃することになる。この期 間は、はやくも、1938年12月26日付「覺書―現代詩の性格的變化と方向―」

に明確となった新しい詩の試みへの疑惑60が、1940年2月9日付「近代詩につ いて(1)」の、『新領土』を中心とする詩と詩法への訣別への過程と重なるの である。それはまた、鮎川の、戦前を生きるため、より正確には、死にそな えるための、内部の模索の過程であった。

「また明日お會ひしませう もしも明日があるのなら」

誰かが誰かにむかつてさう言つた61

これは、1947年5月30日の2行である。敗戦後にふたたびモダニストとして詩 に向かおうとするとき、鮎川は生き残った者として生きるために、その根拠 を模索することからはじめなければならなかったのである。

日支事変以降、1938年を通して、わが国の読書界を風靡したのが、『荒地』

ならぬ、小説『大地』であった。第一書房は、新居格訳『大地』三部作62に つづいて深澤正策訳『母』と『戰へる使徒』を刊行していたが、 増刷する ものが片つ端から全部羽が生へて品切れ 63のありさまであった。『セルパン』

1937年11月号、「出版部便り」から。

何といつても、バツク女史のものが、異常な關心を以て貪るやうに讀ま れるやうになつたのは、勿論、支那事變の影響です。さらに、メトロ社 が映畫權を獲得した映畫が、事變發生直前に輸入され、計らずも事變に 際會して、檢閲難が傳へられ、その間、約二ケ月、未だ世上に現はれな い以前に同映畫に對する評判は、非常な反響を生んでゐます64

同じ『セルパン』1937年11月号は、映画広告『大地』に、パール・バック 代表選集全六巻『大地』の予約受付の広告を重ねた。 九月末までに封切豫 定 65の作品が、ようやく、年内に上映されることになったのである。翌12

(13)

月号によれば、 東京では『大地』公開と同時に、どの館も大入滿員 であ り、 映畫と小説とで、この一ト月ばかりは、毎日の新聞を見ても、どこか に『大地』の批評の出てゐない日はありません 6 6というほどであった。

1938年1月号の北載河「洋畫ベストテン」は、これを1937年度第6位とした。

支那の風土と農民の關係が重要なのにも拘らず その表現が粗雑であり、

とりわけ、後半部は 三文小説の映畫化のやうで馬鹿げて いるけれども、

何よりもアメリカ映畫資本の威力に感嘆する。前半に表現された「支那」

の匂ひだけでも嘗てアメリカ映畫史上になかつたもの 67である。1月中旬以 降、このプリントの 全國的爭奪戰の渦中 で各地方主要都市で上映68され る。原作の舞台化69も盛んであった。この間、高田保は新国劇の島田省吾か ら 『大地』の脚色物はどんなものでせうか と相談されて構想を練ったが、

折柄の「時勢」といふものをも、考慮の中へ入れなければ ならずついに ペンを投げてしまつた 70という。

第一書房は『大地』を 大増刷 しその 普及運動に着手 71する。その ひとつが、日本ビクター蓄音機会社と共同の「大地の歌」72の歌詞募集であ る。3月10日の締切に応募投稿は二千を越え、二つの入選作に曲がつけられ てレコード化された。第一書房社主長谷川巳之吉の、あの国民歌の例になら った発案であったろう。まことに、『大地』は 刻下の支那認識の書である と共に、一時代を劃すあらゆる名作に一致する人間性の書 73であったのだ。

長谷川から『大地』を贈られた日清生命常務取締役、à次一郎は、『セル パン』4月号にこう記した。

「大地」は支那の農民・軍閥・社會を精緻なリアリズムで描いてゐる が、我々日本人の教へらるる所は、如何にして支那の宿弊禍根を一掃し 其の民衆を救濟すべきかといふ點である。支那の根本的な建直しに最も 必要なものは、法と秩序、正義と潔癖である。これを與へるものが皇軍 今次の聖戰であり、我々全體に課せられた使命でなければならないと思ふ74

同4月号は、 日支事變が發生した直後、イギリスの社會思想書籍出版社ゴ オランツ社が 三越にたいして 事變終了まで 取引を中止するとした書簡

(14)

による交渉経過75を紹介している。同月、『英語 年』は、「日本讀書新聞」

の報ずるところとして、このように紹介した。

イギリスのヴィクタア・ゴランツ社が突如日本からの書籍の註文を一切 拒絶して來た、理由は「支那の良民を苦しめるやうな野蠻國とは取引出 來ない」といふのである。これに對し三越洋書部では早速社長ゴランツ 氏に宛てその認識不足を是正せしむべき嚴重な抗議文を送つた。元來ゴ ランツ氏は左翼的思想の把持者で排日家で聞えた人、三越からの抗議が 到着するや英國の出版界讀書界でもゴランツ氏の暴言は囂々たる非難を 浴びるに至つたさうである76

鮎川の 支那認識 は、『新領土』1938年3月号、最初の作品「遊園地區」

の末尾に窺うことができる。日記によれば、1938年2月6日に清書された。

アヘン、、、

の煙が立のぼる 花の中で

昆蟲は死んだ

ジヤケツを着て歩み去る 遊園地區に火が消えた77

これは、連作、「亞細亞」への構想となったと思われる。

『LUNA』4月号、3月9日付「花―『亞細亞』の一部―」がそのひとつで ある。「爆發したセルロイドの匂」が残る「蜂蜜のやうな午後」に、「モグラ、、、

の生活は嫌だね と/地面からそんな聲」がする。「碧ひ眼をした人形を抱 へた」少女は、「泥まみれの鐡兜に水を汲んで/花を沈めた」。

それから赤い排日ポスターを 阿片の廣告の下にベタベタ貼つた ヨーロツパは〝黄昏〟である

飛行機がそんなビラを散らしていつたが

(15)

フント丁寧に洟をかみました78

鮎川の 支那認識 は、àたちのいう 聖戰 に対抗するものであった。さ らに、末尾に ――「亞細亞の一部」 と記し、3月26日、『新領土』5月号の ために送付された「河」がある。

ジヤンクの帆が蝙蝠のごとく羽搏いて ランプの虹がひろがる あたり 見知らぬ老婆が咳をするのはわれらにかゝはりのないことであるか

その結びである。

まだ阿片でぼうぼうと煙つた眼よ

あ見給へ 昏い河の上を齒をÏいた白馬が亂れるではないか79

これらは一種の 戰爭詩 であるが、村野四郎がいったように、詩人の 認識 は、 戰場の經驗 をもたぬ以上は、 觀念的な素材としての戰爭 80 になってしまうだろう。それは、その肯定と否定の差にもかかわらず、結果 としてはàの認識とおなじ地平にあることになろう。村野の戦略はその認識 をサタイアに転換することであった。たとえば、同じ5月号の作品「近代修 身」の後半部である。

おお 年たち

しかも君らは詩人であることを欲するか だがそれは近代的ではありえない 君らはむしろ

詩人たちをして嘆かせよ 遠い世界からの

か細いボイコツトの歌をわらひ 機械學會誌の中から

神々の言葉を引用して

(16)

リベツトの方法の中に 新しい定理を探したまへ おお君らの新しい定理を 發見したまへ81

新しい定理 とはもちろん詩の方法である。が、同時に、 折柄の「時勢」

に対応する方法でもあった。村野の定理は、身近な世界あるいは環境を 遠 い世界 に転換し、それを わら うことであった。

一方、饒正太郎のいう、 環境を改造し、修正 する82ための 新しい定 理 を示していたのが、W・H・オーデンであった。 寓意 あるいは 譬 話 83である。この年、『大地』普及運動のさなか、『セルパン』1938年3月号 は、オーデンが 王室金牌詩賞(King’s Medal for Poetry) を受賞したこと を報じた。山田次郎はこう書いた。

今囘の授賞は、現代詩に興味を持つ人々の注意を著しく喚起した。その 理由は云ふまでもなく、オーデンがスペンダアやデイ・ルイスと共にア イアン・スクールと呼ばれる一派を作り、彼等の作品がその晦渋なスタ イルと左翼的な色彩のため、激しい攻撃を受けてゐたからであり、しか もこの授賞によりそのメンバーの一人が初めて公式に認められたからで ある84

創刊号にオーデンの「ODE」を掲載した『新領土』は、この詩人について 折々に言及してきたが、本格的な紹介は、オーデンが受賞によって、 初め て公式に認められた ことが契機となったと思われる。

『荒地』に先立ち、鮎川の「河」と村野の「近代修身」を掲載した同じ 1938年5月号に、奈切哲夫訳 W・H・オーデン「雜詠歌」85が登場する。しか も、この作品は、この年1月に発表されたばかりであり、1939年1月の「支那 にて」と同じく、まだ詩集に収められていない最新作86であったのだ。

「夕暮れの中を散歩に出掛け(As I walked out one evening)」にはじまる、

現在ではよく知られた作品である。鉄橋の下で、男が求愛している。

(17)

一戀に終りはないよ

僕は君を愛するよ あゝ 僕は君を愛するよ 支那とアフリカが合する日まで

河が山を跳び越え 鮭が街で唄ふ日まで

(二連略)

だけど都會の時計はどれもこれも チーンカーンと鳴り始めたよ おゝ君は時勢に騙されてはいけないね

君は時勢を征服することは出來ないよ

“Love has no ending.

I’ll love you, dear, I’ll love you Till China and Africa meet, And the river jumps over the mountain

And the salmon sing in the street.

. . .  But all the clocks in the city

Began to whirr and chime:

Oh let not Time deceive you, You cannot conquer Time.

男が、ためらう女を口説く。男は 支那とアフリカ が地続きになったり 鮭が街で唄う 日までも、変わらず永遠に愛する、という。しかし、肝心 なのは、いまの答えである。時間がいつも今の時に迫っているからである。

ためらっているあいだに、時がすぎてゆく。明日を考えてはいけない。時の 勢いに、人間は勝てないのである。ただし、 支那とアフリカ の取りあわ

(18)

87に、詩人の政治的な関心が潜んでいた可能性は否めない。すでにイタリ アはエチオピアに侵入しており、日本も中国に侵略していたのである。

注目すべきは、 Time が 時勢 と訳出されていることだ。たしかに、

大文字ではじまる 時間 は恋歌を支配する主役である。ただし、それを 時勢 と訳すことによって、時間は、時代の意識に転化されるのである。

辞典によれば、 時勢 とは、「時代の推移してゆくいきおい」あるいは「世 の中のなりゆき」をいう。まさしく、 時勢を征服することは出來ない の だ。「時勢のなりゆき」を、 時局 と呼ぶ。訳者の念頭にも、 折柄の「時 勢」といふもの があったのだ。

惡魔の居穴の中の

何處にほんとの正義はあるかね 時勢は物蔭からじつと見詰めてゐるよ

そして君がキツスするとき咳拂ひをするよ

病みつゝそして惱みつゝ 生活は漠然と消えてゆくよ そして時勢は 明日或は今日

その妄想を持つだらうよ

In the burrows of the Nightmare Where Justice naked is, Time watches from the shadow

And coughs when you would kiss.

In headaches and in worry Vaguely life leaks away, And Time will have his fancy

To-morrow or to-day.

(19)

訳の出来を云々するのではない。奈切訳では、ユーモラスな語り口が失われ、

隠されたメッセージが表出されているのだ。オーデンの詩は、 時勢 に翻 弄される読者に、直裁に語りかけるであろう。 時間 とは、わが国にあっ ては 時勢 の寓意であった。

おゝ見給へ 鏡を見給へ おゝ君の衣裳を見給へ 生活は本來幸福だよ

だけど君は祝福することは出來ないね

おゝ立ち給へ 窓に立ち給へ 熱い涙が湧きそして流れるとき 君はいぢけた隣人を愛するだらうよ

君のいぢけた心でね――

O look, look in the mirror, O look in your distress;

Life remains a blessing Although you cannot bless.

O stand, stand at the window As the tears scald and start;

You shall love your crooked neighbour With your crooked heart.”

鏡に映るのは、「不安/苦悩」の顔がふさわしい。読みちがいである。

しかし、誤訳を指摘しておかねばならない。正確には、 君は祝福するこ とは出來ない けれども、、、、

生活は本來幸福 なのだ。失望のあまり 熱い涙 が湧きそして流れるとき があろうとも、そんな 君のいぢけた心で もい いから、僕は いぢけた隣人を愛する ことができるようにしてあげよう

(20)

( You shall love your crooked neighbour )、と求愛する男は語っているのだ。

オーデンの恋歌は、ひとひねりして、二人の愛を越えて確立される人間の絆 を願うのである。このころのオーデンにとっては、 隣人 とは 仲間 で あり、政治的にいえば、 明日 をともに拓く 同志 であった。これが、

オーデンの 左翼的な色彩 である。奈切訳に詠嘆の調子がひびくのは、

時勢 を 祝福することは出來ない 気持ちがあったためかも知れない。

10.  Parable Phantasy

かつて、『新領土』創刊号に、饒正太郎は 環境を改造し、修正 するこ とを希望し、また、春山行夫は 主知の規律を選んで、環境の撰擇と適應と を發見しようとする と書いた。これが彼らの 主知的活動 であった。春 山は、こうも書いていた。 環境が詩人に對して敵對的で邪惡であるやうに見 える場合、詩人は狂氣になることも、教訓的な詩に向ふことも容易である 88 と。ただし、教訓的な詩に向かうことなく 環境 を唄うことは可能であっ た。それが、 主知的活動 としてのサタイアである。

だが、「雜詠歌」は村野たちのサタイアとは趣を異にする。オーデンの詩 法はなにか。「雜詠歌」と呼応するように『新領土』に置かれた二つの評論 は、その詩法を解く鍵を用意していた。

「雜詠歌」を掲載した同じ『新領土』5月号に、岡橋祐「マイケル・ロバ アツの『近代精神』」がある。ロバアツによれば、 詩には二種のファンタジ ィがある。一は escape-phantasyであり そして 他はparable-phantasy で ある89。岡橋によれば、この parable-phantasyで構成された詩 が、ニュ ー・カントリー派の詩人たちが目的とする90ものである。

翌月6月号、阿比留信訳ルイズ・マクニイス「現代詩に於ける主題」91によ れば、オーデンの詩法の原点は、彼のこの一節にある。

藝術には常に二つの種類のものがある筈だ。それは逃避藝術エ ス ケ イ フ ゚ ・ ア ア ト

と(何故な ら人は食物と深い眠りとを必要とする如く、逃避を必要とするから)、

そして寓話藝術ハ ゚ ラ フ ゙ ル ・ ア ア ト

とである。そしてその寓話藝術は人に、憎むことを忘れ て愛することを知るように教へるだらう92

(21)

マクニイスは オウデン及びスペンダアに於いては寓話藝術がその支配權を 有つてゐる という。「雜詠歌」は、その 寓話によるファンタジィ の一 種として理解されるのである。

ただし、ロバアツは、ふたつの方法には、 善い場合もあれば、惡い場合 もある と、慎重であった。

リアリテイの危險な否定に導くescape-phantasyもあれば、エネルギイを 指導してより善き道にではなくより惡い道に向はせるparable-phantasy もある。重要なのはファンタジィを拒否することではなく、善惡の區別 を付けるといふことである93

現実逃避の詩は、満たされぬものを幻想に転化して詩の世界に酔わせる。他 方、現実を寓話に転換することは、もちろん、逃避ではない。しかしながら、

現実をみつめるエネルギーを誤るならば、これもまた、現実を蔑ろにするこ とになり、現実逃避に陥るであろう。

岡橋の見るところによれば、ニュー・カントリー派は 政治の面に於て著 しく行動的 であり、作品においても、オーデンの『スペイン』は 明らさ まに政治的關心を示してゐる 94のである。

オォデンその他の人々の政治的行動は彼等の社會的情熱の現はれであつ て、その眞摯さは誰しも疑ふ必要は毫もないが、現在の社會情勢と照し 合せて考へる時、彼等はやがて政治か藝術かの二者選一を強ひられるや うになりはしないか、といふ懸念を僕達は抱かせられる95

寓意によるファンタジィ は、 社會情勢 へむけるエネルギーの 眞摯さ から生まれる。だが、要は、現実にいかに立ち向かうか、にある。現実のな かに、いかに リアリテイ を見るか、ということにかかっている。ただし、

両者が短絡的に結びつくとき、詩における リアリテイ は放棄される危険 が潜んでいる。そこから生まれるのは 教訓的な詩 すなわちプロパガンダ

(22)

としての詩であろう。1938年5月、岡橋は、すでに、 parable-phantasy のた どる道を予言していた96

しかしながら、寓話の方法は、サタイアとともに、わが国の 時勢 のさ なか 社會情勢 を歌う武器となりえたのである。それは、 教訓的な詩 を避けるための、限られた方法のひとつであった。寓意はサタイアを越える 可能性を秘めていた。『詩法』のエコル を『新領土』へ引き継ごうとした 村野と、 僕等には同時代が必要である とする『20世紀』97から合流した饒 とのちがいは明かである。たとえば、『新領土』1937年7月、『20世紀』から の饒の連作「 年の計畫(5)」の結びである。

向日葵の咲いた丘から

自轉車に乘つた 年たちが現れる 諸君の投票所は左側だ

彼等の後で太陽よ響け98

創刊号の「 年の計畫」に 議會擁護の輕氣球 を歌った99ように、詩人は、

明快、かつ、屈託なく明るい100。饒は『セルパン』1939年1月号に、こうも 歌っている。

ハアプシコオドの朝

年は太陽と共に政治を忘れるな

サロンの主知主義者もドラムに合せて新しい穀物を運べ 古きものは君のカンカン帽の如く去れ

茶色の馬はゴムの木の如く太り

ロオルス・ロイスから出てくるガソリンの如く空は れたり101

サロンの主知主義者 が詩人として政治を語るならばサタイアとなるであ ろう。饒の詩法は、村野のサタイアと対極にある。ただし、寓話の詩法に政 治的関心が表出されるとき、 寓話 と 教訓 とを截然と分かつことは難 しい。したがって、 時勢 が やがて政治か藝術かの二者選一 を迫ると

(23)

き、サタイアは 莫迦々々しい企て に化すことはあれ、寓話の詩法が 危 険な企て となることは必至である。饒は沈黙せざるをえないであろう。

『新領土』5月号、オーデンの「雜詠歌」を読み、5月7日、春山の「抒情 詩の本質」を日記に引用した鮎川は、前後して、同じ創刊号、阿比留信訳

「ODE」を読みあわせたはずだ。

中庭を見渡す部屋から、

飛んでゐる三つの飛行機の姿の中に、私は見つめてゐた、

その年が朽ち行き、

の根株は燻りて冬の灰となり、

最後の日が落ちて行くのを、

まづい 味の「翼」102のごとく、三つの飛行機が飛んでゆく。まさしく、

ヨーロッパは〝黄昏〟である 。しかしながら、オーデンはその夜の悪夢に、

一瞬ながら、夏の 遊園地區 を見る詩人でもあった。

夏は一つの氾濫のやうにやつて來た、どんな慾張つた 園丁だつて、これほど一時に花を咲かせるなんて

ことはしやしない。

日曜日とは多くの人々には湖水を意味した、日に燒かれて 少しでも餘計に褐色になつた肉體の

美しさ103

鮎川は新しい詩と詩論を読みながらも、わが国のモダニストの詩法を追っ ていた。その夏休みの作品、8月19日までに書かれた二つの「夏のSouvenir」

104は直截な 支那認識 の影をひそめつつ、依然として、 屈託のない少年 の詩作のよろこび 105が支配するファンタジックな詩の域を出るものではな い。9月号の「田園の祭禮」でも、なお、そうである。

もはや皮膚をはぢず

(24)

アザミ色の道を駈けると 川では雲が獲れ

夏の田園は、オーデンの夏のように屈託がない。しかし、鮎川はこう結ぶ。

永遠に單純なコーラスを ヒバリのために歌ふ 君たちに

やがて最後の鐘がなり 不透明な夜がとざすまで たえずレンズは廻轉し 惡いドラムが續くだらう106

やがて、 時勢 のなかで、このファンタジィは変質を遂げるであろう。ロ バアツは二つのファンタジィに等距離をおいている。しかしながら、「新領 土の会」の翌日、8月5日の日記に、「新領土」は対社会に於ける場合につい てもっと研究すべきである と書いた鮎川が、ニュー・カントリー派の詩法 に惹かれることがあったとすれば、もちろん、 parable phantasy であろう。

この詩法は 春山対萩原 の抒情詩論争を越えていたからである。だだし、

ここには 政治か藝術かの二者選一 の罠が控えているのだ。

鮎川の「夏の Souvenir」と「田園の祭禮」を載せた『新領土』9月号に、

外山定男訳エドマンド・ウイルスン「オーデン論」が掲載された。

ただし、冒頭に、オーデンの最近の作品に 實は少しく失望させられた と論者はいうのである。失望感はまた、そのグループにも向けられた。彼ら オクスフォード出身のインテリ詩人たちは、

社會改革への一頃の情熱を失つて、漠然とした弛緩の時期に、冷却の時 期に入つて來てゐるやうに思はせられるのである107

It looks as if the group to which Auden belongs––the school of young Oxford

(25)

poets. . . ––had lapsed, after their first lift of enthusiasm for the clean sweep of society promised by communism, of repudiation of the world to which they belong, into a period of relaxation into vagueness, of cooling down and marking time.108

下線部を対照されたい。ウイルスンの失望感は詩人たちの政治的立場の弛緩 へ向けられていたことが明確である。「社會改革」への情熱とは、コミュニ ズムによる改革、現状の社会を否定する情熱のことである。彼らは当初の情 熱を失い停滞している、とウイルスンはいうのである。

この優秀にして熱心な若い學生が、初めて運動の第一線に立つた時は、

實に雄々しく花々しかつたが、やがて間もなく自分等の良い家庭と融通 のきかない教師のゐる學校へ戻つて行くのである。彼の夢見てゐる權力 の獲得といふことは、結局教場における學生の亂暴に過ぎないのだ109

When this brilliant and engaging young student first came out so strongly for the class struggle it seemed a bold and exhilarating step; but then he simply remained under the roof of his nice family and in classroom with his stuffy professors; and the seizure of power which he dreams of is an insurrection in the schoolroom by the students:110

ウイルスンは、 階級闘争 への情熱、 コミュニズムによる権力獲得 の夢 はどこに行ったのか、問うのである。それは学生さんのお遊びだったのか、

と。テクストを正確に訳出することは危険なことであった。

しかしながら、評者はオーデンたちを否定するのではない。

しかしオーデンとその一派は、他のインテリグループに較べるとまだ いゝ方である。尠くとも彼等は、彼等の時代と彼等の環境とについて、

見事なまた忠實な表現を試みた111

(26)

Not, however, that Auden and his group are any worse off than other Left intellectuals. And they have given expression to their plight and their time much more brilliantly and honestly than most.112

オーデンたちは他の 左翼 のインテリ思想家より優れているのである。彼 らは、その 時代と環境 (their plight and their time) を、詩によって、見事 に正直に、表現しえたからである。オーデンたちには嘘がない。ウイルスン が、いま足踏み状態にある若い詩人たちの、これからの作品に期待をかける のはそのためである。

オーデンをたたえて、最後に引用されるのが、「さればこの激變と恐慌の 秋において」とはじまる詩行である。

擴まり行く恐怖、無殘なる災厄に抗ふべき 違

たが

はぬ洞察を與ふる者は誰であるか?

これが私の誕生日の君への希望だ。

今、四階の狹い窓から 夜の中へ煙草を送りつゝ

港に擴まる反射光を眺めてゐる。

家々の小さなピアノは閉められ 時計が時を報じた。

しかも萬物はみな睡りもせず死にもせず 一瞬停めらるゝやその手を燒く

危險なる 史の潮流な が れの方かたへ押し進み行く113

これは、8月に「四月は最も殘酷な月である」と歌った『荒地』のエリオッ トとともに、18歳の誕生日をむかえたばかりの鮎川への、『新領土』に託さ れたオーデンの贈り物でもあった。

だが、時計が告げる 時 とは 史の潮流 におかれた、まさに 時勢 であった。そしてまた、外山の訳文に見るように、 苦悩/苦境(plight)

(27)

は、 時代 と 環境 と同義であった。そして、国家総動員のなかで「明 日は別の日なのだ」ということができぬまま、日支事変から1年が経過して いたのである。

「オーデン論」の翻訳に関して注目すべきことがある。いわゆる 左翼的 思想の保持者 ウイルスンは、 左翼的な色彩 が希薄になったことを嘆き、

かつ、期待をかけるのである。このウイルスンの立場は明確に訳出されてい ない。これに対して、オーデンの作品の訳は忠実である。ウイルスンの発言 は、意図的に、曖昧にされたのである。政治を語ることは、すでに、危険な ことであった。しかしながら、詩の翻訳は許容の範囲にあった。なぜなら、

それは 寓話 であるからだ。ただし、その寓話が呼びかける 行動 は許 されていない。わが国にあっては、 政治か藝術かの二者選一 のなかで、

寓話によるファンタジィ は政治性を希薄にして 藝術 へ向かうであろ う。しかし、それは、サタイアと同じく、 時勢 を歌うことはできても、

それを論ずることはできないであろう。

『新領土』11月号、「パスカルの『感想録』」論に「絶望と幻滅は理知的な こゝろの發展に於ける缺くべからざるモメントだ」というエリオットを受け て、 強靱な神経を持たない限り文学の健全な発展完成は見られるものでは ない と日記に書きつけた114のは12月2日のことであった。時勢にあって、

オーデンがいう 違はぬ洞察を與ふる者 は、むしろ、『荒地』の詩人であ った。

この年、1938年12月26日、詩人たちに 主知的的な批判精神 の弛緩を読 みとった鮎川は、「覺書―現代詩の性格的變化と方向―」を書きあげた。戦 時体制版『風と共に去る』第一巻が刊行されたのは、この月のことである。

11. 詩と散文

永田助太郎は『詩法』を経由して、 僕等には同時代が必要である とい う、『20世紀』の同人115となった。合流した『新領土』に「空間」「時間」と 題する永田の一連の作品が掲載されている。たとえば、創刊号の「空間」は、

このように終わる。

(28)

グラジオラス 紀元節 毛虱 留汽室 寒雀 リイトヴイノフ外務人民委員長 硬膏

摺鉢 施療病院 オネガ湖 面角 現代文 

プログラム――《新しき土》116

この難解な作品をどのように理解すべきか。もちろん抒情詩などではない。

のちの鮎川のことばを借りれば、 この詩はサタイアではない。 もしそうだ としたならば、 この詩は少しも面白くでないどころでなく非常につまらな い 117のだ。わたしたちは、スターリン体制の外交を左右する「リイトヴイ ノフ外務人民委員長」を配して、永田が同時代に触れようとしたのだ、と弁 護してもいい。しかも、「オネガ湖」の「施療病院」118には、その体制下の 思想犯が収容されていたではないか。詩人は「プログラム」に未来への期待 を賭けているのではないか。しかし、それだけのことなので、確かに、つま らない。羅列された「ことば」が「物」と化し、その断片が紙面にひしめき あっているばかりである。しかしながら、息づかいや抑揚に工夫を凝らして 音読を試みるならば、断片は時間軸のうえに展開され、聴き手の耳に、「紀 元節」への反歌、「新しき土」への賛歌を語りかけるかもしれない。

詩とはなにか。散文とはなにか。1938年新年1月号『蝋人形』が「アンケ ート」に、「今回の戰爭に際して、所謂戰爭詩は我國に興起するや、否や?」

とともに、「詩精神と散文精神との最も簡單な區別について?」119と問いかけ たように、詩と散文の区分はモダニズムにとっては克服されるべき問いであ った。ただし、すでに1937年8月、マイケル・ロバアツ「詩と批評の領域」

は、明快にその関係を論じていた。鮎川が『新領土』に加盟するまえのもの だが、彼は合冊本でこれを読むことができた120のである。

ロバアツによれば、 散文家は、自分の影像イ メ チ ゙の反應だけでものたりなくな つて來ると韻文のリズムを用ひる 121ことがある。だから、散文でも、行に 分けてみると、詩として通用するものもある。たとえば、 第五行の五歩格ヘ ゚ ン タ ミ タ ア

(29)

の後の休止は明らかにうま

、、

が合つてゐる 例である。外山定男の訳である。

細かな注意をもつて彼はカアドを並べ、あらゆるエイスの價値と、

護衞つきのキングと慰安を與へるクヰーンの價値とをよく考へる。

ヂャックとテンに山をかけ

、、

、自分の手のうちをよく計算し、

全體のねうちを定める。遂に

一枚のカアドが投げ出された。他の三人も素早くそれにならつた122

この翻訳から、詩としての構造を判断することは難しい。しかも、ただ、ポ ーカー遊びの一駒、その一瞬を描いたにすぎない。しかしながら、ここには、

決断をまえにした緊張感がみなぎっている。この 詩行 をもとに戻すなら、

これも立派な散文となる、とロバアツはいうのだ。わたしたちは、さらに、

音読されるならば、活字の配列が必ずしも詩と散文とを分かつものではない ということができる。

詩の朗読は、現代詩に関しては、とりわけ困難である。だが、ラジオはひ とつの突破口を拓くものであった。1938年5月7日、鮎川は日記に、『新領土』

創刊号、春山行夫「抒情詩の本質」から書きとめる。「現にラヂオによる詩 の放送が二三試られてゐる。そこでは詩人はその声を他人の咽喉によって、

その朗読者の個性によって差し引かれる。そのことによって、詩人たること に一つの非個性化が加へられる」123と。 非個性化 は 抒情詩 からの脱 却を意味していた。

『セルパン』1938年4月号、市川猿之助や水谷八重子ら『大地』の俳優を 囲む座談会124を掲載した同じ号に、「詩人とラヂオ」と題する小さな翻訳記 事がある。アメリカの詩人アーチボルド・マクリーシユが書いた詩劇『都市 の没落』が放送され、これが 相當の成功を収めて以來、詩の新しい表現手 段としてのラヂオの問題は一般の注意を惹く 125ことになった。

最近數年間に於ける詩劇の復興には、實に目覺ましいものがあるが、

その表現手段として、ラヂオを利用しようとする詩人が、殆んど現はれ ないのは不思議である。しかもマイクロフオンは、詩の演劇化に對して

(30)

絶好の機會を提供してゐやうに思はれる。

有名な詩人でも、 その詩集に對して、數千部以上のサーキユレイシヨンを 期待することは不可能であるが、ラヂオを利用すれば、數百萬の聴衆に近づ くことができる 126のである。詩人は、少数の読者のために歌いかけるだけ でなく、朗読という 詩の演劇化 によって、多数、あるいは無数の大衆に 語りかけることができるのだ。

活字の『大地』は映画や劇化によって多くの観客に浸透した。その間、ラ ジオは孤立する詩人をさらに多くの聴衆に結びつけることを可能としたので ある。そればかりではない。同号『セルパン』が伝えるように、イギリスで は、街頭で突きつけられたマイクに向かって 郵便配達夫、株式取引員、魚 商人、助手、喫茶店と衣裳店の給仕娘 などが、新年の挨拶を語る127ことさ え可能であった。

オルテガがいう大衆の時代128であった。マクリーシユはPublic Speech:

Poems129の詩人であり、その評論 Public Speech and Private Speech in Poetry 130 は、やがて『新領土』の読者のまえに、「現代詩に就いて―公衆のことばと 私のことば―」と翻訳されて登場することになろう。もちろん、 Public を「人民」と訳すことは、すでに、はばかられる時代であった。

鮎川が加盟した翌月、『新領土』1938年4月号の「詩の新領土 朗讀詩に關 する二三のノオト」に、近藤東はこのように記した。

ラヂオは公的な傳達を持つ。文字はそれを讀むといふ意慾の發動によ つて存在づけられる。デイスクも亦同様である。ラヂオは聴者の行動を 必要としない。文字でも蓄音器でも、讀者が行動しない場合は、それを 拒否した場合に等しいが、ラヂオに於ては拒否する時にはじめて行動が ある131

詩は、ラジオ体操のように、聴者の行動を左右することはできない。しかし ながら、ラジオの朗読によって、 行動主義文学 132としての詩が可能とな るのである。

(31)

黙讀詩が、詩を個人的にするに役立つたことは事實であるが、(この 關係は必しも不可避的ではない)ラヂオは、秘密的であり得ないから、

個人的・非社會的な詩人は棲息の餘地がない。しかし、假へ個人的でな い場合でも、ラヂオが巨大な資本を前提とする限り、その資本を操作す る階級なり集團なり個人なりが許容しないでは、彼の作品は生命を得る ことは出來ぬ。ここに於て、詩人は曲げてその志向するところに迎合す るか、然らずんば、その權覇を獲得すべく認識せねばならぬ。詩人は、

詩作家であると同時に、依然として生活機構に於ける革新家であらねば ならぬ133

このとき、近藤は、ラジオをいわゆる階級闘争のための武器と考えていた。

黙讀詩 からの脱皮は、ラジオだけでなく、詩の朗読会ですでに試みら れていた。東京詩人クラブ主催、丸ノ内電氣講堂で第二回「詩の夕」が開催 されたのが、1938年1月29日。鮎川が「遊園地區」の原稿を送り『新領土』

の会費を払う一週間前のことである。

『日本詩壇』4月号の「東京詩人クラブニユウス」に、『VOU』の同人で 同クラブ常任幹事長、長田恒雄は、この「詩の夕」を記録している。 約五 百の聴衆を得て、盛大に 行われた 四時間に亘る間、緊張した詩的精神に よつて、持續された夕べは、日本詩史の上に何物かをプラスしたであらう 134 と。当日、多数の聴衆のために、拡声装置が用いられたことは想像に難くな い。かつて黙読された詩は、呟くような口誦、少数の仲間のあいだの朗読を 越えて、ラジオの朗読と同じように、一挙に、近藤がいう 公的な傳達 手 段を展開しつつあった。それは、詩の 非個性化 であり、ここに、新しい 詩の展開が約束されていた。しかしながら、近藤が思い描いた 生活機構に 於ける革新家 としての詩人は、 時勢 によって、 その權覇を獲得 する ことは困難となるであろう。

この秋、10月26日、同クラブ主催で「戰爭詩の夕」が開催された。衣巻省 三は『文藝汎論』に、このように記録した。

(32)

十月二十六日は絶好の秋日和であつた。それにもまして、つい先頃廣 東は陥落してゐたし、今又漢口の一角に皇軍が突入したのは昨日であつ たし、武漢三鎭完全攻略の公表は翌二十七日午後六時半であつたが、當 二十六日夜は占領したも同然で、この夜丸ノ内蠶 會館で文藝汎論後 援、東京詩人倶樂部主催、軍部のお骨折りに依つた詩の夕があつたこと は、時節柄眞に意義の深いものがあつた135

「時節」は「時勢」と同義である。 時間 は寓話でなく、現実であった。衣 巻は 前回の詩の夕を憶ひ出 す。その時主催者側は かかる夕を催すこと に於て何か文化にプラスしたい意向を持つと云ふ様な稍弱氣の漫然たる言い わけ をしていたが、 當夜は戰爭と云ふ現實の前にある感動の統一があつ たと想ふ。 もちろん、 前回の時にも、會場の外を應召兵が通り、萬歳の喚 聲や喇叭の音が街に溢れ、二、三直接戰爭を歌つた詩もあり、戰前の夕を憶 はす雰圍氣を孕んでゐた のだが、 今度の夕はそれが爆發してゐた 136の である。

しかしながら、衣巻は、本音を隠せない。長い引用になるが、精読にあた いする。 純粹詩 が侵されることへの逡巡から決断にいたる過程は、多く の詩人たちに共有されていたと思われる。

筆者は朗讀に就いて今談らうとは考へないが、確に、それは一つの卑 俗な方法であると思つてゐる。卑俗とはヴアレリイが用ひた言葉である が、又文字通りとられても困るが、音樂を少し冒し寧ろ用具としてポエ ジイを耳から訴へる當座の方法を、ポエジイ本來の純粹さに比して卑俗 と筆者は云つてゐるのである。ここでは詩の本質は多少妨害され、又一 面、詩のリズム的特質は所謂音樂に依つて破壊されれてゐるのである [。]  街頭の大衆が目的である朗讀では、詩の孤高、詩の美哲、詩の浪漫 と云ふものも、この道徳の爲には忍從しなければならないのは云ふをま たない。窓を閉ざした瞑意も茲に於ては科學とならなければ無力だし、

思想への沈潜よりは感動の高揚でなければならない。この戰爭詩の夕に は幾分でもそれが成し遂げられたことは幸であつたと思ふ137[。 ]

(33)

ここには、前の立場を否定する「だが」「しかし」、あるいは、譲歩を含む判 断を示す「しかしながら」という接続詞が欠落している。語順を変えていえ ば、 藝術か政治かの二者選一を強ひられ ながら、衣巻は、逡巡している のだ。これを断ち切れずに、 思想への沈潜よりは感動の高揚 が、「より」

望ましいものと定位される。論理的な思考から彼を解放し一種の決断に導い た理由は明白である。 街頭の大衆が目的である朗讀 にとって、 感動の高 揚 を大衆と共有することが その道徳 であるからだ。

だが、この 大衆 とは、近藤がいう 資本を操作する階級なり集團なり 個人なり に立ち向かうものではなく、 軍部のお骨折り で集まった当夜 の聴衆であり、街頭には皇軍に参加する 應召兵 があり、また、 萬歳の 喚聲や喇叭の音 で見送る人々があふれていた。 街頭の大衆 は、結集さ れた 国民 であった。衣巻の「幸」にいたる論理を可能にする根拠は、唯 一、詩の純粋性は大衆/国民の道徳のために「忍從」しなければならない、

というところにあった。時勢がそれを求めているからである。 忍從 を 感動の高揚 に昇華するところに、いわゆる 愛国詩 は生まれる。

村野四郎のことばを借りれば、衣巻の逡巡は 純粹派 から一挙に 人生 派 に転じたのである。鮎川は、 この戦争詩の夕べに対して期待して来たで あらう異れる二種の観客層のいづれをも失望させたのではないだらうか 138と 書いた。12月26日付「覺書―現代詩の性格的變化と方向―」にいうように、

飛躍性を失つてしまつた精神など慘めなもので、 その 表現手段がたちま ち類型化してしまひ彈力性を失つてしまふことは當然である 139のだ。詩だ けではない、散文にも同じことがいえるのだ。しかし、マイクロフォンに向 かって語られた 類型化 された「ことば」は、放送によってイギリス20年 代最大のゼネストを解体140させたし、また、ドイツ総督の「ことば」の 演 劇化 については、この頃のニュース映画でよく知られていたはずだ。

ラジオよりも蓄音器の歴史は古い。その伝達機能は、「愛國行進曲」や

「大地の歌」にとどまらず、詩の朗読にまで広がるであろう。エリオットが

The Hollow Men と Gerontion を朗読したレコード141はすでにあった。

阿比留信はこう記す。

参照

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