1938年2月8日、鮎川の「日記」によれば、『新領土』の会費を納め、最初 の作品を送った、その日、彼のもとに『LUNA』第10輯が送られてきた。印 刷納本は1月20日、発行日は1月25日である。編輯兼発行者は東湊区の白神鑛 一。印刷人は佃忠三郎。印刷所は、湊区の佃商店印刷事務所である123。「印 刷屋の職工が感冒のためかく遅延した」のであった。小規模な印刷所であろ う。当初は謄写版であったが、第7輯から活版印刷となった。それが仇とな ったというべきか。
3月13日、『LUNA』に参加した池田時雄が鮎川に働きかけて、東京でのク ラブ結成の動きがはじまる。29日、東京在住の同人全員に、案内状を発送し、
4月17日に、「東京LUNA CLUB」の第1回パーティが開かれた。東京駅近く の八重洲園の二階一室を借りきり、参加者九名であった。のちに鮎川は、文 学的な会合に出席した最初の経験であった、と記している。ただし、彼は、
その案内状を発送したその翌日、3月30日に新宿エルテルで開かれた新領土 の会に出席しており、最初とはいえまい。あるいは、はじめて参加した新領 土の会では先輩詩人の話を拝聴するだけであったから、パーティの呼びかけ
人であった鮎川にとっては、こちらが最初というべきかも知れない。5月1日 の第2回パーティ会場は、新領土の会が行われた新宿エルテルであった。こ の日、以降、「本拠」をバルザックとすることに決定した。参加者は五名。
ついで、5月15日の臨時総会の会場は、バルザックであった。総会とはいえ、
当初七人のところ、二人が早く帰り、実質は五人である124。真剣、しかも、
微笑ましく思えるほどの純粋さである。「バルザック」は、新宿駅東口前の 路地を入ったところの、四、五人の集まりにつごうのいい喫茶店のひとつで あった125。
『LUNA』は、4月25日を発行日とする第13輯のあと、途切れた。第14輯 が届くのは6月17日である。印刷納本は6月10日、発行日は同月15日126。早速 に神戸から送られたのである。ただし、『LUNA』は「新しい酒を新しい嚢 にといふ意味で」、『LE BAL』と解題された。「編輯兼発行人」の名義はない が、発行所は、白神方LUNAクラブである。「新しい酒」を入れた雑誌の印 刷所もまた、佃商店印刷事務所である。用紙不足にもかかわらず用紙は確保 されていた。雑誌の遅延の理由は、おそらく、鮎川たちが結成した東京ルナ クラブのメンバーとの確執にあったのであろう。その『LE BAL』を手にし た鮎川がその作品批評を日記に記していた同じ6月17日、オーデンとイシャ ーウッドは帝国ホテルに宿泊していた。彼らが前日、中桐が住む神戸で見た のは、空襲に備えるとして街灯を消した夜景であった127。
日支事変から一年もすぎた頃、『蝋人形』1938年9月号は「詩人職場隨筆集」
を組んだ。春山は「選んだ職業」と題してこう記した。
十五六種類來てゐる外國の新聞、雜誌にも一通り目を通します。時事 的なものは雜誌に選擇しますし、出版廣告やグママツクレビユーは、よく讀 んでおいて、翻譯書の出版のときに參考にします。家へ持ち歸つて讀む ときもあります。
自分の原稿は勿論自宅で書きます。原稿を依頼する電話が、社へかか つてくるのは、どうも仕方がありません。
いかなる意味に於いても間違ひをしないこと、これが僕のモツトオで す。原稿を失くしたり、期日を間違へたり、etc たくさんの人が集つて
ゐると、間違ひをお互ひが防止しなければ秩序が立ちません。
睡眠と食事時間の外は、何かをしやべつてゐるか、見てゐるか、讀ん でゐるか、書いてゐるかです。そのいづれもが若干スピード的であるこ とは止むを得ません。話すこと、書くこと、見るもの、讀むものが非常 に多いのは仕事の性質以外に、僕自身の性質にも由るでせう。
春山はこう結ぶ。
「詩以外の職業」と原稿の依頼 にありましたが、僕の職業は詩人 の職業として僕が選んだもので、外の詩人の場合のやうに、何らかの偶 然か、受動的理由でやつてゐる職業とは違ふと思ひます128。
村野には、「詩を書くこと以外に詩人が職業を持たねば生きてゆけない事 實」があった。彼は、サラリーマン生活の一日を記す。
僕は朝七時、昨夜の古い原稿の中から起きあがる。忽ち夢みる世界か ら産業メカニズムの中に突進する。八時出社。こゝからは一方日比谷公 園の樹木と宮城が見え、一方に銀座の消費街と丸の内ビジユネス・セン ターを俯瞰することができる。
こゝは傍系會社四十社を統卒する理研コンツエルンの中樞であり、工 業經營と理研の智能とが始めて交流する地帶である。僕は朝の純白な椅 子につき、一杯のコツプの冷水を飲みほすと完全に武裝して身構えるの である。
僕は此處で異つた二つの會社を兼務してゐる。二つの卓上電話が待ち 構えた様に一齊に鳴り出す。
午後も多忙である。
會議室で月刊「科学主義工業」や單行本の編輯方針や出版方法の打合に 出席していると、日比谷の森でジイジイ素朴なCがないてゐる。
やがて、引け時となる。
洗面所で顔を拭ふと僕は完全に詩人である。近藤東か長田恒雄が、ミ ユンヘンの冷房でクサメをしながら待つてゐるだらう129。
この夏、7月17日、鮎川も詩の仲間と会っていた。
午後池田と会ひ話をした。軍需関係で景気が良いとの話である。
池田は、荒川区のアパートに住んで、近くの工場に勤め、事務をとっていた という130。鮎川は予科の学生であった。ほどなく、彼らの許に、『荒地』の 第一部を掲載した『新領土』8月号が届くであろう。創刊2年目に入った『新 領土』は、いよいよ順調であった。
8月5日、新領土の会に出席した日、鮎川は「灯火管制でネオン、及び少数 の街灯が消された」と記している。そして、「「LE BAL」の委託販売。紀伊 国屋はどうも駄目らしい」とあるように、この夜の会合で委託販売の可能性 を探ったようである。紀伊国屋書店は、その出版部から春山たちの『詩法』
を発行していたし、ボン書店の詩集も並んでいた131こともあって、詩人たち への支援態勢があったからであろう。ただし、委託販売は困難であっても、
同人誌の刊行はまだ可能であったのだ。しかし、検閲の問題とはべつに、出 版・刊行に不可欠な物資、用紙の不足は深刻の度を深めていた。
『セルパン』8月号の「後記」に、春山は「長期戰下の現在は、パルプを 出來るだけ輸入しない方針を立てねばならない關係上、當然紙が大切になり、
飢饉が生じる」と現状を述べている。しかし、彼によれば、統制はやむをえ ないとしても「文化・思想統制と經濟統制との限界を、能ふかぎり明瞭に區 別して行くことが肝要であらうと思ふ」132のである。つまり、文化・思想統 制は経済統制と相互の関係にたって進行していたのである。ただし、現実に、
用紙不足は深刻であった。経済統制は不可避であった。
『新領土』8月号がエリオットの『荒地』第一部の翻訳を掲載した頃、7月
27日、商工省は、新聞・雑誌用紙の「自主的消費制限の方針」を示し、つづ いて、8月12日、新聞用紙供給制限令を発令し、同日公布された。同省は、
さらに9月3日、この新聞用紙供給制限令にもとづき、使用量の多い雑誌社に 20%の節約を通牒、同時に製紙会社にたいして配給統制の実施を通牒し、用 紙制限を強化した133。
『セルパン』10月号、吉村新一郎「雜誌用紙の制限」によれば、「パルプ の輸入を出來る限り減らして、金の國外流出を防ぐことは、戰時經濟の體制 上當然のことで、木綿やガソリンと同様に、新聞、雜誌の用紙に使用量制限 が加えられることは當然」134であった。戎山次郎も同号の「用紙制限と新聞」
にいう。「綿禁制とス・フの登場が街頭にあるひは家庭にさまざまの戰時風 俗を描き出してゐるように、新聞、雜誌その他出版物の用紙制限が愈〃九月 一日から實施され」ることになった。新聞については「ジヤーナリズムの物 質的基礎の一つである紙が制限され」たことにより各社の間では「抽象的な 言論統制の問題は、一時影をひそめ、最近は専らこの問題が現實の課題」と なった135のである。
吉村によれば、着々と統制がすすめられているにもかかわらず、「文化の 第一線に立つ、新聞、雜誌社がこれに對して、一向具體的な方法をとつてゐ ないことは、一方からいへば、政府がこの問題の文化に及ぼす影響のすくな からぬことを慮つて、その解決案を、新聞、雜誌いづれも民間の業者團體に 一任してゐるがために、仲々民間の意見がまとまらぬといふ事情にあるがた めである。」吉村にいわせれば、「政府が出版物を統制したり、出版物を許可 制度にするといふやうな話は、この場合、紙の使用制限とは切離して、別個 のもの」として考えるべきなのだ136。しかし、吉村はいう。「現在のところ、
商工省は民間當事者團體の合議的、自發的使用量制限に信頼して、その實行 を待つてゐるが、その結果實際的な効果が上らない場合は、直接統制に乘り 出すであらうといはれてゐる」137のである。
ただし、商工省の動きに対する民間側の対応が遅いとはいえ、出版物検閲 の統制強化を図る内務省は、警視庁と連絡をとり、「出版物統制連絡会議」を 開催し、第一線の取締りと思想対策の連携を強化したのである。8月12日138、 商工省が新聞用紙供給制限令を公布した、同じ日のことである。この動きは、