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鮎川信夫と『新領土』 (その7)

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(1)

鮎川信夫と『新領土』 (その7)

著者 中井 晨

雑誌名 言語文化

巻 7

号 4

ページ 415‑482

発行年 2005‑03‑10

権利 同志社大学言語文化学会

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000007585

(2)

鮎川信夫と『新領土』 (その7)

1

中 井   晨

34.  1938年の出版界―出版新体制の前夜1―

1938年1月25日、内務省は外来の出版物の取締強化を決定した。第二次人 民戦線事件の日、2月1日、同省は、関係者の新刊・重版の発行を禁止する方 針を明らかにした2。2月7日、岩波書店は、当局からの指示で、岩波文庫の 社会科学書などについて、「自発的に」増刷・増製本を見合わせることにな った3

岩波文庫のためにT・S・エリオットの翻訳『文藝批評論』を進めていた 矢本貞幹は、「昭和十三年立春の日」と末尾に記した「解説」に、こう記し た。

エリオットの理論は、凡そ實行とは縁遠いやうな抽象的理論ではなく、

實踐に移されてその意義を發揮してゐるのである。ここに實踐を重んず るイギリス的性格が見られる。さうしてこれは問題の提出に餘念がない かのやうに見える我が國の評壇にも何かの示唆を與へるものと思ふ4

理論と実践の一致。それがイギリス的性格であるか否か。また、エリオッ トの文芸理論が自らの詩作に実践されたか否か。これは、すでに若手のスペ ンダーなどが疑問視したところであった。注目すべきは、矢本が、理論と実 践の乖離をわが国の論壇に見ていることである。彼のいう「問題」とはまさ に「抽象的」であって、具体的に何を指しているのかは不明である。しかし ながら、実践に移すことができぬまま、「問題の提出に餘念がない」知的閉 塞状況を、矢本も充分に認識していたのである。

「言語文化」7-4:415−482ページ 2005.

同志社大学言語文化学会©中井 晨

(3)

『中央公論』3月号が発禁となった直後、2月23日、東京出版協会は、商工 省の課長による用紙節約推進の講演会を開催し、つづく懇談会で、書籍は原 則として並製、背皮・総革製の廃止、売切買切り制、そして、規格判用紙の 採用など、8項目を決定した。5月14日、商工省は、東京出版協会と日本雑誌 協会にたいして、念を押すかのように、書籍・雑誌用紙を日本標準規格に準 拠することを通知し、他方、日本製紙連合会には、特別の理由のない限り、

規格用紙のみを抄造する旨を通牒した5

日常の暮らしについていえば、国家総動員法が公布されたその4月1日、事 変課税によって、「汽車に乗っても映画を観ても、さては一本のマッチに至 るまで」物価は一斉に騰貴のスタートを切った6。17日に鮎川たちが、第一 回の東京ルナ・クラブのパーティをもった八重洲園の支払いにも響いたであ ろう。岩波文庫に『文藝批評論』が加わった5月1日、ガソリンは切符制とな った。木炭自動車の実験がはじまったのがこの頃である。ビールについては しばらくの間、値上げは据えおかれていた。しかし、村野四郎が仕事を終え て、「ミュンヘン」でビールを飲んだ夏、8月1日のあとならば、料金は改定 されていたはずである。しかも、ほんとうに、「冷房でクサメ」7をするほど に効いていたとすれば、日支事変勃発後一年後、とてつもない贅沢な夏であ った。

鮎川が登場し、また、志茂太郎が発行者となった『新領土』3月号、その 裏表紙の広告欄に、アオイ書房は、恩地孝四郎のデザインになる「菊倍大判、

プロセス製版オフセツト印刷」の原稿用紙の発売を告げた8。市販原稿紙の

「低調凡庸を極めてる」のに飽きたらぬ志茂が「驚異的新創見になれる革命 的新原稿紙を創案 賣」することになったのである。筆記用紙、模造紙、図 画用紙については、この年3月には前年度比で5割の削減となった9から、そ の時勢では、ささやかな贅沢である。新聞用紙と雑誌用紙は、すでに供給不 足となっていたため、特に生産制限は行われなかったが、商工省によって、

消費制限は着実に実行されていた。岩波文庫は、6月頃から、印刷部数を削 減することになった。用紙不足のためである10

この夏、8月12日、内務省は、出版物検閲の統制強化を図るため、警視庁 と緊密に連絡をとり、出版物統制連絡会議を開催し第一線の取締と思想対策

(4)

の連繋を強化11することになった。

夏休みの鮎川は、読書をつづけていた。8月18日付で、彼は森川義信に報 告する。

今年は何処へも行かず、家で本を読みました。一日平均1・5冊ほどづ つ単行本を読んで居ます。図書館で。一年に少なくとも300冊以上は 読みたく思つてゐます12

この年、書籍や雑誌を提供する側の、出版者はどのように対応したか。

志茂は、『新領土』4月号の広告に、署名入りで、『書窓』を印刷研究号と することを告げた。

需要者が印刷の趣味に目覺め、印刷物に對して今少しく知見眼識を養ひ、

業者に鞭撻を加ふるならば、現在あるがまゝの設備技術を以てして尚よ く吾が印刷物は速かに面目を一新するに相違ない―此が僕年來の信念 であり、印刷趣味振起運動の指標である13

志茂は、「現在あるがまゝの設備技術を以てして」も、「業者に鞭撻を加ふる ならば」良質の印刷物は可能と信じていたのである。趣味人志茂は、信念の 人でもあった。

『新領土』5月号の広告に、アオイ書房は、北園克衛詩集『サボテン島』

の刊行を予告した。「豫約者のみに頒ち直ちに絶版とする。頒價二圓以内」

というものであった。

西脇順三郎の「サボテン島風光」と題した小文もある。

北園克衞氏がまた過去數年間に亙つて鉛筆を舐めながら書いたものが集 められてサボテン島となる。

石炭とガソリンの高楼ママで、彼は乾いた木琴をたゝいて、「すべてのアレ ゴリイはロマネスクの糞である」といつていきんでゐるところなどはサ ボテン島の風光の一つである14

(5)

超現実主義の詩人、西脇の脳髄だって、物資不足の世間と無縁ではない。

本造りを道楽とする志茂もまた、同時に、世間から隔絶していたわけではな い。翌月6月号の広告、「アオイ書房消息」である。

北園克衞新詩集「サボテン島」は前號本欄で廣告の通り、本邦最初の 試みたる、部數を豫定せぬ限定出版― ち、あらかじめ豫約をつのつ て申込數だけ刊行し、發行と同時に絶版とする方法をとる事とした。

志茂はつづける。

これは近頃の大企業化された資本主義出版の眞裏に位する行き方であ る。賣れもしない本をムヤミに出版生産する事が出版界百弊の根源にし て、パルプ資源の保持が國策的重要性を帶びて來た當今、いやしくも出 版の事に携はるほどの者は、思ひをこゝに致して自肅自戒―などとイ キムほどのこともないが、僕如き非商賣の、好きの道の本造りにとつて は、賣れ殘りの本くらゐ淺ましいものはない。自藏用一冊だけ手許に殘 してトツトとはけてしまはないと折角手鹽にかけて樂しんで造つた本が 樂しくないのである。それには今囘の「サボテン島」に於けるやり方が 最もよろしからうと考へる。本を買ふのはアワテなさるな、オツツケ夜 店に並びやんす―なんて世俗的な甘チヨロイ量見は、アオイ書房の刊 本にだけには絶對に適用出來んちゆう事を再應念のために警告しとく次 第である。豫約受付六月十日限り15

政府が臨時閣議を開催し、物資需給調整計画を決定したのは、この6月、

その23日のことである。声明はいう。

国家凡百の施策を戦争目的貫徹に集中し、官民一体、長期持久の戦時体 制を確立し、もって時局に対処せざるべからず。これがため当面の急務 は物資の統制、運用を最も有効、適切ならしむるにあり。すなわち万難

(6)

を排し、輸出の振興、生産の増加、配給の統制に関する政策の徹底、強 化をはかるの要ますます緊切なりとす。ここにおいて政府は事態に即応 し、軍需品および輸出原料充足を優先とする物資需給の計画を立て、こ れが遂行上緊要と認むる下記の諸方策の徹底的実行を期し、もって国防 の安固、国民経済の維持を図ることに決せり。

方策は10項目からなり、付帯事項として、「一般国内需要につき使用制限を 強化すべき主なる資源」が、具体的に示された。

鋼材、銑鉄、金、白金、銅、黄銅、亜鉛、鉛、錫、ニッケル、アンチモ ン、水銀、アルミニューム、石綿、綿花、羊毛、パルプ、紙、麻類、皮 革、木材、重油、揮発油、生ゴム、タンニン材料、工業塩、ベンゾール、

トリオール、石炭酸、硝酸、曹達、加里、燐鉱石16

これらのなかに、出版に不可欠な品目はもちろん、さらに、印刷そのものに 関わるものもはいっていた。書籍の装幀については、つづいて7月1日、皮革 制限規則が公布実施され、禁止となった17

7月9日、日本雑誌協会は臨時総会を開催し、「政府当局ガ雑誌使命ノ特殊 性ニ鑑ミ用紙ノ使用ニ特別ノ考慮ヲ払ハレツツアルニ対シ本協会ハ誠心誠意 一致協力ヲ以テ国策ニ応ヘンコトヲ期ス」と決議した。同協会は、当局に

「先手を打って」対応したのである18。同じ7月、大手の王子製紙は上質紙の 生産を制限し、雑誌用にザラ紙の供給をする決定をした19

この頃、第一書房は、6月25日から翌7月25日の間、300点を越える同書房 刊行物の特価販売を行った。無名の出版人として長谷川巳之吉が起こした創 業15年記念行事であった。行事にあわせて、「内容見本」が頒布された20。 その挨拶文にいう。

第一書房は新しき時代のエスプリと感覚・ 剌たる水先案内だ。書物を 愛する人々にとつて一日も忘れることのできない友だ。第一書房は哲学、

文化、思想、宗教、創作、音楽、随筆、エッセイと、あらゆる分野を展

(7)

望し開拓する。茲に第一書房創業十五周年を記念し、全代表的出版物を 特価提供して些か謝意を表する次第です。

あるいは、「内容見本」の「第一書房の十五年」に、また、いう。

第一書房の終始一貫したモットオは、知識階級の最も信頼し得る書物を 社長自ら厳選して、責任を以て出版するといふことにある。この大方針 により、更に良書にふさはしい組方、製本、装幀が第一書房のユニック な良識と感覚の代名詞となつた21

第一書房の出版は「社長自ら」の責任において行われた。志茂が愛書家であ るとすれば、長谷川巳之吉もまたそうであった。

しかしながら、創業15年は第一書房の転機であった。廉価な「戦時体制版」

の企画を打ちだしたのである。

第一書房が創業記念の特価販売をしていた頃、『セルパン』7月号の「出版 部便り」はいう。「長期應戰下、物資總動員の日本の現 から見て、個人的 な利益や趣味の問題を捨て、紙質、裝幀に於いて出來る限り、「物の經濟」

に立つた戰時版とでもいふべき出版をはじめなければならないのではないか と思ふのです」と。この欄「出版部便り」をいつものように2頁に収めるた めであろう、つづけて、小さなポイントで記される。

かの大戰中、フランスがこの困難を克服し、現在日本で使つてゐる雜 誌ザラと同じ紙質の紙で文學書を出版した時期があり、恰もその當時出 現したマルセル・プルーストは、本當の作家は藁紙に印刷された本で充 分だ、立派な本は作品さへよければ死んでから全集として出したらよい といつたといふ逸話さへあります22

『セルパン』9月号の「出版部便り」は、「世紀の新動向 戰時體制版」の 見出しで、新しい企画を発表した。

(8)

十五周年を迎へ、 年期より更に本格的成長に向ふことをマニフエ ストしたわが第一書房は、戰時下日本の燃え上る擧國精神と、さらに精 神、物資を一丸とする綜合的長期建設時代を表徴する文化的使命に、一 大革新と轉廻を與ふる計畫として茲に待望の第一書房「戰時體制版」の 刊行を發表する。(一段略)

國民精神總動員は、物資調整の嚴乎たる國民的一致によつて高揚され、

強調されねばならない。しかも一方、國民の讀書力、知識慾、さらに世 界に對する認識の要望は、一日もこれを忽せにすべきでない。一寸の後 退も、一瞬間の萎縮も許されない。進まねばならぬ。猛烈な讀書と吸収 が、日本の大陸政策を充實し、發展せしめる。その糧として、種子とし て選ばれたのはわが第一書房の「戰時體制版」に外ならぬ23

「物資調整」のために、「まづ紙の問題を解決し、現下の情勢に適應する態勢 に魁する」ことが謳われ、フレッシュな装幀とともに、この戦時体制版に

「最高度の意義を與へるものは思ひ切つた定價の切り下げ」であった24。 戦時体制版は従来刊行されたものを、簡素な紙表紙の、今風にいえばペー パーバック版としたもので、たとえば、この年、「大地の歌」を募集して宣 伝に本格的に力をいれはじめた頃25、『セルパン』5月号に掲載された「第一 書房刊行圖書目録」で、四六判、1円30銭だった『大地』第一部は、第二 部・第三部と共に、菊判となり78銭と大幅に価格が下げられた26。そして、

紙については、「國策用紙使用」27と謳われた。『大地』の爆発的な売れゆき の背後には、用紙制限を逆手にとった戦略があったのである。

長谷川には、良書を出版する自負があった。10月に刊行された戦時体制版、

猪狩又藏謹撰、杉浦重剛著『選集 倫理御進講草案』がそのひとつである。

通常の体制版の菊判ではなく、四六判で、78銭であった。

この刊行を契機に、「第一書房 長谷川巳之吉」と署名した「戰時體制版の 宣言」が『セルパン』11月号の広告欄に掲載された。

凡そ出版の事業たる一國文化のバロメエタアを成すは言ふまでもあり ませんが、特に現下の如き戰時下の非常時局に當つては、その責任益〃

(9)

重大なるを自覺し、茲に物資經濟の根幹を成す用紙統制に則ると共に、

大局からの國策に順應する新日本文化の創造に進んて協力寄與すべき決 意愈〃固きを信じてやまない次第です。私は第一書房設立以來十五年、

一意或る理想をもつて出版を續けて來たのでありますが、特に今日に於 いて一層、良書出版の意義とその必要の大なるを思ひ、出版報國を第一 義とする戰時體制版の刊行に邁進するに至つたのであります28

猪狩又藏編纂杉浦重剛著『倫理御進講草案』はすでに版を重ねて、1936年 4月には杉浦重剛先生倫理御進講草案刊行會から刊行されていた29が、この

「選集」は、その普及版を出版したいとの長谷川の意向をうけて「編纂」さ れたのである。彼には特別の思いがあった。『セルパン』11月号の広告は

「至上高の帝王學にしてまた國民倫理の大本。現下の超非常時を打開する大 精神はこれだ!!」30と自負し、また、「日の丸の翻る處、菊花の香る處、非常 な反響又反響」とその売れゆきを謳った。この書には、「本書の最大生命た る「教育勅語」の義解全文」、65頁が収められた31

岩波書店も、この年にはいってから新しい叢書の計画をたて、春から執筆 依頼を開始した。岩波新書の名称は9月20日に決定され、刊行がはじまった のが11月20日である32。従来の文庫版は菊判半裁であったが、新書版はペン ギンブックスと同型の小四六判で、50銭という価格をつけた。これは第一書 房の廉価版とは異なり、書きおろしである。これは「今日の問題に焦点をあ わせ」て、「3〜4年、長くとも5年保てばよい」33という考えであったとさ れる。

叢書の最初の20点のなかに含まれたのが、矢内原忠雄訳クリスティ『奉天 三十年』の上下二冊である。上野の図書館から借り出した原書を持って、吉 野源三郎が翻訳を依頼すべく、大学を追われた矢内原が使っていた大学の図 書館の一室に訪れたのは、この年、まだ薄ら寒い春先の午後であった34

『奉天三十年』は、『岩波書店八十年』によれば、「満州の民衆のために献 身的に奉仕した一伝道者の生涯を紹介して、これを通じて日本の満州侵略と 満州国の虚偽とに対する批判を促す意味」を込めた、当時としては勇気ある

「抗議」であった35、とされる。

(10)

しかしながら、巻末につけられた「岩波新書を刊行するに際して」36に、

岩波茂雄が、「東亞民族の指導者を持つて任ずる日本に課せられたる世界的 義務」から「日支事變の目標も亦茲にあらねばならぬ」と記すように、「明 治に生れ、明治に育ち來れる」彼の思いは、「非常時に於ける擧國一致國民 精神總動員」の貫徹にあったのである。

岩波にとっては、明治維新五ケ条の御誓文は開国の指標であり日本の国是 として永遠に輝く理念である。これをもって「國體の明徴も八紘一宇の理想 も完きをえる」のである。しかし、である。彼はつづける。

然るに現今の情勢は如何。批判的精神と良心的行動に乏しく、やゝとも すれば世に阿り權勢に媚びる風なきか。偏狹なる思想を以て進歩的なる 忠誠の士を排し、國策の線に沿はざるとなして言論の統制に民意の暢達 を妨ぐる嫌ひなきか。これ實に我國文化の昂揚に微力を尽さんとする吾 人の竊に憂ふる所である。吾人は歐州功利の風潮を排して東洋道義の精 神を高調する點に於て決して人後に落つる者でないが、驕慢なる態度を 以て徒らに歐米の文物を排撃して忠君愛國となす者の如き徒に與するこ とは出來ない。近代文化の歐米に學ぶべきものは寸尺と雖も謙虚なる態 度を以て之に學び、皇國の發展に資する心こそ大和魂の本質であり、日 本精神の骨髄であると信ずる者である37

ここで、岩波が、民間側の立場を強調していることは重要である。―「國 策の線に沿はざるとなして言論の統制に民意の暢達を妨ぐる嫌ひなきか。」

上からではなく、下から、民間側からの動きがあってこそ国策になりうるの である。国策の、いわば先取りを目指すところに岩波の基本的な立場があっ たのだ。

そして、第一書房についても、「大局からの國策に順應する新日本文化の 創造に進んて協力寄與すべき決意」を宣言する長谷川の国策への順応もまた、

必ずしも強制されたものではなく、自らの決意からなされたことに注意され ねばならぬ。彼は、新日本文化の創造のために、進んで、打って出たのであ る。岩波も長谷川も、商工省の国策を、たんなる物資不足によるものとして

(11)

とらえていなかったのだ。

さらにまた、長谷川は、「國民の讀書力、知識慾、さらに世界に對する認 識の要望」に応えることを使命とし、岩波もまた、「驕慢なる態度を以て徒 らに歐米の文物を排撃して忠君愛國となす」傾向にたいして、「近代文化の 歐米に學ぶべきものは寸尺と雖も謙虚なる態度を以て之に學」ぶことの必要 を説く。出版者の使命は、重い。しかも、新しい海外の情報は涸渇しはじめ ていた。この年、『セルパン』8月号に、春山が記すように、外国の書籍雑誌 の輸入は、為替管理のために統制され、「實際の輸入業者には爲替の許可を 與へてゐないので、事實上の禁止」となった38。洋書飢饉から杜絶へいたる、

鎖国の過程は、すでに、詳細にみたとおりである。

35. 1938年の出版界―出版新体制の前夜2―

アオイ書房から刊行される『新領土』は、快調であった。さらに、1938年 4月20日に発行された創刊号からの6冊からなる合本も、「書店で殆ど賣切れ て了つた。地方の方は直接編輯所かアオイ書房へ申込んで頂き度いと思ふ」

と村野四郎は記している。

その『新領土』8月号の「後記」に、村野は勤め人と詩人のあいだのジレ ンマを記している。

今月は二度も惶しい仕事で旅行した。溶解爐の煙と高速度鋼の匂の中 を見廻つた。それ故、草花のやうな詩人たちの詩にもあまり接する暇も なかつた39

「草花のやうな詩人たち」の前に示されたのが、同号、エリオットの『荒地』

第一部であった。この翻訳の登場によって『新領土』は文学史に記憶される べきである。しかしながら、この8月号の編輯者の関心は、むしろ、新しい 詩論の紹介にあったことは注目されねばならない。上田は「後記」に記す。

最近イギリスに於ける新しい文學運動として多大の關心を持たれてゐる

「マス・オブザヴエイシヨン」の全貌を紹介することができた。これは、

(12)

新進詩人チヤールズ・マツヂとハリスンとの共同提唱になる新運動で、

文學に於ける報告的要素への大衆的參加を促がすものである40

近藤東も、こう書いている。

記録とか報告とかが、文學の毒であるかの如く考へてゐる若い文學者も 居るには居る。しかし社會の感覺が要求する魅力を、文學も亦滿足させ ないで置いていいものであらうか。この意味に於て「集團觀察」の方法 を考慮するも面白いと思ふ41

同号の近藤訳、チヤアルズ・マツヂ「詩的記述と『 集 團 觀 察マツス・オブザアヴェイション

』」に よれば、「集団觀察」とは「人間の行為に關して客觀的敍述を獲得する技術」

である。この方法の「効用」は、多数つまり集団的に行われることによって、

「社会意識の基礎たる觀察の考察の交換」がなされるところにある。

詩の方面にも亦、この叙述は有用である。今日 に見られる如く、人は 一群の神秘的演奏者に制約されない詩を作り出す。集團觀察の直接の効 果は、「詩人」といふ肖像を減価する。それは「詩人」といふ言葉を、

その作品にでなく、その商売に適用せしめる。恰も「蹴球者」といふ言 葉のやうに。

Poetically, the statements are also useful. They produce a poetry which is not, as at present, restricted to a handful of esoteric performers. The immediate effect of Mass-Observation is to de-value considerably the status of the ‘poet’.

It makes the term ‘poet’ apply, not to his performance, but to his profession, like ‘footballer’.

難解な翻訳だが、観察がいかに大切かは明らかである。

觀察の過程は各人をして主觀から客觀へと止揚する。親密に知り過ぎて

(13)

ゐるために注意しないやうになつたことも、再び意識せられるやうにな る42

現在では1930年代の文学史の一齣になってしまった運動であるが、それが どのような立場であったかは、同号の、外山定男訳、G・W・ストーニァ

「マス・オヴザヴェイションと文學」によって覗うことができる。集団観察 の立場は、シュルレアリスムと手段は異なるが「どちらも科學的であること を主張し、眞理を表現する」ことを目指している。論者は、それは「藝術に 對する根本的な不信から生れたものだ」という。

例へば、書くことについて、彼等の目的とするのは新しい方法を提供 しようといふのではなくて、文學そのものにとつて代らうとする程それ 程文學を信用しないのである。詩と小説とが攻撃の目標になつてゐる。

我々は、詩の創作に及ぼした「無意識」の絶大な働きを知つてゐる。無 意識を獨立せしめよ、とシュルレアリストは言ふ。その下に降れ、それ をして汝を支配せしめよ、しからば人間の心の眞實の記録が生れるであ らう。それのみが唯一の現實である。マス・オブザアヴァも亦文學をち らりと横眼で眺め乍ら、反對の角度から見た現實から出發する。小説家 は社會の繪畫を與へる。しかしこの繪はどれ程の眞實を含んでゐるか?

と彼は反問する。そしてそれが事實の不正確な記録である限り、眞實で はないと決定する。それで、小説を書くことや、文學的なあて推量に、

事實の集團的報告といふことを企てる。そしてシュルレアリストと同じ やうに、彼の方法が正しいと主張する。

かくて我々は、こゝに主觀的な現實と客觀的な事實といふものとを持 つことになる。そして文學といふものは街の電車のやうに姿を消してし まふのである。科學が結局文學にとつて代るといふ考は、(それはこれ 等の運動が科學的と言ひ得るといふことにして推論するのだが)この世 紀に特殊のものであると思ふ43

ストーニァが、いずれにも否定的であることは覗えるが、しかし、近藤の

(14)

いう「記録とか報告とか」が社会性を発揮しうるのはこの技術であった。そ れは、さらに価値があるもののための、詩の放棄である。だが、たとえば、

「「詩のない時代」には詩を作らないのが眞の詩人である。或は「散文的な時 代」には散文的な時代の詩を作るのが眞の詩人である」44とする近藤にとっ ては、詩の方法にもなりうるであろう。あるいは、観察によって詩人が「主 觀から客觀へと止揚」されるときに、詩は社会的な効用を持つ、ともいいう るであろう。そして同時に、観察は「親密に知り過ぎてゐるために注意しな いやうになつたことも、再び意識」させることによって、「社会意識」を啓 発することにもなろう。しかしながら、わが国にあっては、一方では、村野 のいう「草花のやうな詩人たちの詩」の存在が薄くなる反面、批判すること を拒まれた詩の社会性は、時局を唄うことによって発揮されようとしていた のである。

村野は、用紙不足が深刻化するなかで、不吉な思いにとらわれていた。

『新領土』9月号に彼は記す。内務省が警視庁と連絡をとり、出版物統制連絡 会議を開催することになった頃である。

詩集の出版に許可制が施行される場合を考へてみることは興味があ る。恐らく現代詩人の著書が殆どすべて却下されることは想像するに難 くない。詩人たちはこういふ情勢に當面して初めて彼らが如何に何もな らない事を書いてゐたかを知つて愕然とするであらう。

しかしながら、それは、詩人の転機にもなるはずであった。

詩人の仕事が商工省や文部省の査定を基準として企てられるといふこ とは考へる丈で誠に滑稽であるが、從來の詩に於ける社會的、時代的價 値の缺如が此處に於て曝露されることを知るのも愉快であらう。また事 實斯る情勢がつゞくとすれば吾々は或は軈て、從來の目標を喪失した現 代詩の中から、何か新しくて逞しい創造的な一種の詩の出現が期待し得 られるのではないかといふ様な氣もするのである45

(15)

用紙不足は、戦時経済がもたらしたものである。そして、現実に戦争は、

日常に及んでいた。「社會的、時代的價値」を反映した「創造的な」詩は、

『新領土』とは異なる方向を要請していたのである。それはまた、「鉛筆を舐 めながら」書かれた、超現実主義や、あるいは、純粋詩の方向とも異なるも のであった。

10月26日に開催された「傷兵におくる 戰爭詩の夕」のテーマは、「戰爭 は如何なる詩を生み、詩人は如何に戰爭をうたつたか? 傷ける勇士に詩人 は何をおくらうとするか?」46であった。この「戰爭詩の夕」は、「文藝汎論 後援、東京詩人倶樂部主催、軍部のお骨折りに依つた」もの47であった。時 節柄、主催と後援側が、「軍部」に先手をとろうとしたのか、あるいは、先 手をとられたか、詳細は不明である。

「當夜は戰爭と云ふ現實の前にある感動の統一があつたと想ふ」48と衣巻 省三は記録し、また、主催者側のひとり近藤東も「可成り成功であつた」と 総括する。ただし、近藤によれば、「嚴密な檢閲(これは當方から特に依頼 した)と自粛のために、幾分モノトナスになつて本質的には不滿であつただ らうが、むしろ已むを得ない」49ところもあったのである。「戦争」を唄う以 上、配慮を欠くことは許されないのである。

『文藝汎論』の主宰者は、岩佐東一郎と城左門であった。岩佐は、10月の この夕べに、「簡素な言葉」を朗読した。その冒頭部である。

いま

僕には二つの現實がある あらゆる僕の日常茶飯事の中に

戰ひする大陸の大きな影が被さつてゐる 僕は一つの思考力が

二つの電波を受けて光るのを知る 机の上のペンが

しばしば鋭い劍尖となつて紙にささり インキのやうな秋の空に

白い砲彈の炸裂した雲を見出す50

(16)

志茂が用意した上質の原稿用紙なら、ペンが刺さることはあるまい、粗悪な 紙でも鉛筆ならそんなことはあるまいに、などと散文的な冗談は控えねばな らない。ペン先は、「日常」と「大陸」という二つの現実をひとつにし、剣 となって紙に刺さり、光るのである。

剣となったペンは、たとえば、同じ日の、城左門の「戰する弟へ」の一節 を語りだすことすらできるであろう。

此の耳に聴えて來るのだ、―まざまざと、

砲彈の炸裂する響きを、その唸りを、

天地

あめつち

を一ひとつに籠むる大おほいなる忿怒ふ ん ぬの雄詰をたけびを、

―彼の大陸の大河た い がの畔ほとりで、

おまへの耳を撃つであらう戰いくさを!51

二人の詩人が、軍歌とは異なる作品を目指していたことは明かである。た だし、剣となったペンは、日常を守るべき、本来の使命を奪われているのだ。

その意味で、これらは、戦争詩と呼ばれるべきであろう。矢本貞幹が危惧す る、論壇の理論と実践の乖離は、「軍部のお骨折り」によって解消されたの である。詩人たちの詩の理論は、聴衆をえて、実践されたのである。

鮎川は、この夜の感想をこう記した。

一般に無味乾燥な朗読が多く退屈極まるものであった。恐らく、この戦 争詩の夕べに対して期待して来たであらう異れる二種の観客層のいづれ をも失望させたのではないだらうか52

鮎川たちのあいだで新しい同人雑誌、『荒地』を刊行しようとする話が持 ちあがったのは、この頃である。エルテルで打合せの集まりがあった11月5 日、彼は、日記にこう記した。

我々の芸術文学に対する新らしい認識、未知なる(しかも厳然として人

(17)

間の内部の血を貫ぬいていづれかへ流れてゐるところの)世界観の獲得 をなさんとして時代の辛酸、苦痛をなめても追求し欲求してやまぬ我々 の知性の中に発見せねばならぬであらう。

「知性」のなかに発見されるべき、文学の「認識」や「世界観」が、果たし て実践されうるかは疑わしい。だが、鮎川たちは、すでに実践が不可能な状 況をまえにして、「未知なる」ものを求めようとする。これは、引き籠もり ではない。持っていないものを確立するための、準備の行為であった。

11月11日付、鮎川「夢の使用時間」は、こうはじまる。

靴の溢れる廊下では 夢みることを許されない 掌は紅い薔薇の花を デスクの上に植ゑてみたが 白い大理石はやはり冷たい53

鮎川は、12月17日付で森川に手紙を書く。

純粋芸術的に詩論を形成することのつまらなさを最近特に感じてゐま す。あまりに美麗なレトリックに対する技術としてしか詩が理解されな くなるのです。又その造形的な美学性は単なる装飾に堕する危険がある のです。北園などの云ふ純理的な探究は結局偏つた芸術至上主義であり、

益々詩を自殺に導くものであるやうに思はれます。勿論、これは北園克 衛を全的に否定するのではありませんが。現在のVOUの態度には賛成 出来ません。

あまりに遊戯的であり、生活との離れた距離に於てしか詩を見出さな い彼等を軽蔑します。

鮎川は、詩誌のなかでは、『新領土』が「最もいいのではないかと思ひます」

と告げる。彼は、また、いう。

(18)

最近の僕には近代人的悒鬱とか、近代人と夢とかいふ文学的なモラルの 方がより興味をひくのです。

学校の方のグループで同人誌を出すつもりでいます。12人です。

雑誌は2月初旬に出します。表題は「荒地」としました。ふとエリ オットの「荒地」といふ20世紀の最もすぐれた詩を想ひ出したわけ です54

この年、『新領土』5月号に予告された『サボテン島』は、例によって遅れ た。「やりはじめると、隅から隅まで氣に入るまだママ何べんでも組立てなほし やり直しする」55いつもの志茂の拘りのためであった。刊行されたのは、岩 波新書が刊行された月、11月10日である。予告どおり「發行と同時に絶版」

となったはずである。恩地の構成で50頁立て、カバー付きの上製本で、A5 判であった56。アオイ書房のことだから、造本上の趣味から、たまたま日本 標準規格となったのであろう。

商工省は、5月に、東京出版協会と日本雑誌協会の業者に、書籍・雑誌用 紙を日本標準規格に準拠することを通知し、他方、日本製紙連合会には、特 別の理由のない限り、規格用紙のみを抄造する旨を通牒したが、この商工省 の統制とともに、文部省の動きも見逃せない。村野がいうように、詩集の出 版を商工省と文部省が許可制にするということはなかったが、まず、教科書 が対象になったのである。

6月30日、文部省は中等教科書協会に「教科書ノ規格ニ關スル件」を通達 した。「現下ノ時局ニ鑑ミ資源ノ愛護竝ニ物資ノ消費節約ハ國策上極メテ緊 要」であり、教科書用紙についても「可及的之ガ使用ノ合理化ヲ圖リ節約ヲ 勵行」することが必要であった。それによれば、製本仕上げ寸法は、小学校 を含め、中等学校教科書は翌年1939年以降、特殊な判を必要とするもの以外 は、次年度検定出願のものから「日本標準規格」による、とするものであっ た57。これを受けて、同協会は11月30日、全国の中学校へ用紙供給状況を伝 える書面を送付した。そこには、用紙規格統制の趣旨とともに、標準規格が、

的確にかつ明快に語られている。

(19)

時局下に於ける物資調達の國策的見地より、文部省は去る六月教科書 用紙の統制を圖る趣旨によつて、爾今中等教科書は總べて昭和六年二月 商工省制定の規格判(從来の菊判、四六判よりも天地が僅に詰つたもの)

に據るべきことに定められました58

文部省の通達は、もちろん、商工省の意向を体したものであり、用紙を供給 する製紙会社の合理化、あるいは、統制がその背後にあった。規格判とは、

A・B判である。A判は菊判より、B判は四六判より、それぞれ「天地が僅 に詰つたもの」である。しかし、それが、「物資調達の國策的見地」にかな うのであった。

規格は翌年度から出版される小学校と中等教科書に適用されることになっ たが、「戦時体制版」も岩波新書も、上にみたように、まだ「日本標準規格」

を採用していない。だが、商工省は、やがて、すべての出版物に、この規格 の統制を及ぼすであろう。

用紙不足、規格の統制化の動き、そして、製本上の制約という状況で、志 茂が遭遇したのは、まず、表紙の材料の問題であった。皮類による書籍装幀 の禁止があったからだ。

『新領土』10月号、「アオイ書房十月だより」59に、志茂は、来年度の『書 窓日記』を準備中と記す。「今年は皮革統制のため豪華日記を中止される向 が多いやうだが」「此際なればこそ、一層のこと日本に此の日記ありの氣を 吐かねばおかぬ覺悟で」であった。彼は、11月号の広告欄、「書窓日記 昭 和十四年度版」にいう。

こゝにひとつ心を惱ましつゝあるのは表紙の材料である。毎年使つて來 た皮が目下使用制限中、のみならず現下の非常經濟下では自ら進んでも 不足物資は遠慮すべきで、皮は當然問題外としてサテ皮を使はないとす ると頗る窮屈を訴へざるを得ない。そこで早速考へたのが、最近獣皮代 用で浮び上つてゐる魚の皮である。氣負ひ込んで色々見本をとりよせて 研究して見たところ、ナルホド使ひ途によつては結構であらうが目下の

(20)

製品ではドウモ裝本材料としてはマスターしにくい。ヘタをすると忽ち ハンドバツグくさくなる危險が多く、ゲテ排撃の建前からも一議に及ば ず水産皮はやめ。目下更めて表紙材料の探索に苦心最中である60

「魚の皮」あるいは「水産皮」とは、おそらく、鯨や鮫皮であろう。ただし、

鯨は「差し当って軍需に向けた残りをもって民需に充当」61することになっ ていたから、鮫皮に類するものであったろう。残念ながら、『書窓日記』の 仕上がりは未詳である。

志茂は、なお、その意気軒昂であった。12月14日、彼は銀座で北園克衛に 会い、『書窓』特輯号のプランを依頼する62。恩地にかわって北園が編輯し た「現代書物文化」特輯号が発行されるのが、翌年1939年2月28日である。

これは、印刷者を『新領土』と同じく、松村保とする「書窓としてはハジメ テの活字組」63であった。

志茂は、「昨今印刷界でヨリヨリ親族會義の議題に上つてゐる「活字の統 制」問題」64について書いた。彼は、前年1938年6月23日の、物資需給調整計 画の影響に触れる。1938年、すなわち、

去年の七月、鐡の使用制限によつて印刷、製本機械は製造禁止といふ空 前の大イタゴトをくらつた。と同時に、ナマリ、アンチモンなど、活字 用の非鐡金属の使用制限がはじまり、しかも此は次第に強化されつゝあ る。幸にして今のところ不自由ながら配給されてはゐるが、いつドウな る事か知れたものではない。こゝにおいて、活字の整理統一により、地 金の死藏を少なくして不足をおぎなひ、作業をカンタンにして勞動力の ムダをはぶく必要がにわかに押しかぶさつて來たのである65

活字の統制への動きで彼が我慢ならぬのは、「統制ばやりのシリウマに乘り、

時局をカサに」した印刷業界の、「すなはち、明朝體以外の書體を禁止せよ といふが如き狂論がそれである。」

いろんな書體の活字があつては仕事がメンドウだし、デーイチもうから

(21)

ん、明朝一つでタクサンぢや、地金不足の此の際をいゝしほに、變體活 字はイツブシちまへ―何と諸君、本を讀ませると人民ドモがウルセエ てんで本を燒き拂つた王様があつたさうぢやが、昭和十四年の日本には、

活字の書體が色々あつてはモウカランとあつて、日本國中の變體活字の イツブシをガナリ立てゝゐる狂人が、ヒトリ、フタリならずゐるとは、

これなんまことにお國の恥である。かういふアホーがゐるからしてわが 神國日本がシヨーカイセキ如きにナメラレるのである。印刷術の尊嚴を けがし、吾々印刷需要家をはづかしむる、これらノサバリ屋こそ先づマ ツサキに釜の中にブチコンでイツブスべきである。今のうちにダマレば よし、マダぐずぐずぬかしをると、一々名前をあげて引つぱり出し愚論 をコツパミヂンにたゝきノメす用意のある事を宣言しておく。ボクは年 來自稱する如く印刷フアンである。印刷ズキで印刷を愛すること人百倍 なるが故に、印刷屋の不誠實不勉強フシダラ、ウソツキには齒をかみな らしてシンからフンガイする。印刷を愛すること深きが故に、印刷屋惡 をニクムことイヨイヨ深い。

志茂の怒りはとどまるところを知らぬ。

今囘の明朝單一論に至つては、かつてこれほどボクのイカリをかきたて たものはなく、印刷フアンとして印刷屋から此れだけ大なる屈辱をかう むつたゝめしはないのである。世間の常識ではトテモ信じ切れないやう な、かういふ暴論が、印刷界なる世界では大手をふるつて横行してゐる ことを聲を大にして警報し滿天下の愛書家の注意をうながしたい66

松村印刷がやりだまにあげられているのではない。志茂の怒りは「統制ばや りのシリウマに乘り、時局をカサに」して、変体活字の鋳つぶしへ向かう業 界に向けられていたのである。しかしながら、活字用地金の使用制限は、ま さに、時局の問題として厳然とあったのである。

愛書家志茂の怒りは統制の尻馬に乗っているものへ向けられてはいるが、

つまるところ、元凶は統制である。「官民一体」となって「戦争目的貫徹に

(22)

集中」する時局にあって、その「民」たる印刷業者を打つことは、必然的に

「官」に背くことを意味していた。

36. 1939年の出版界―『荒地』創刊のころ―

1939年の新領土の会は、1月17日に開催された。この日、鮎川は池田と会 い、『LE  BAL』の委託販売について話しあう。鮎川は欠席するが、池田は、

新領土の会に行って、「上田氏から、紀国屋マ  マ へ出して貰ふやうに頼んでくれ るかどうかを聞く」ために出かける。

上田の口添えがあったかは不明だが、同人誌は店頭に並んだ。3月15日付 森川義信宛、鮎川の葉書である。

BAL19輯を紀国屋(新宿、銀座)三省堂(神田)などに四十部置きまし た 三日ほどで半数軽く売れ、一週間で売りきれは完全だらうと思ひ、

大いに気を好くしました67

同人雑誌とはいえ、その存在を広げ、かつ多くの読者を求めることは、『新 領土』のみならず、詩人たちの願いであったのだ。

その『新領土』は、遅刊がはじまっていた。永田助太郎は、3月号「後記」

に、「發行日が月を越える習慣は改めたい」68と記している。彼は、『セルパ ン』の仕事で多忙となった上田に代わり、実質上の編輯者であった。

前年秋から準備された鮎川たちの『荒地』は、2月6日に編輯を終え、3月1 日を発行日として、「不安と混沌の時代の最唯中に出發」69した。「発行兼編 輯者」は、新宿区柏木町二丁目の上村隆一、「発行者」は、同じく上村方

「「荒地」発行所」、そして、「印刷所」は「安田頼太郎」、同じ柏木町一丁目 である。定価20銭70。印刷は2月23日とされているが、彼が手にしたのは27 日である。「発行部数二百くらいで、回覧雑誌に毛が生えた程度の同人誌」71 であった。

3月28日、国民精神総動員委員会が官制で誕生し、内閣情報部に事務局が 置かれた72。文部省は、30日、大学での軍事教練を必修とすることを通達し た。

(23)

『荒地』第2輯の発行日は5月1日である。扉の裏には、エリオットの『荒 地』が引用されていた。

しつかり んでゐるその根は何か。この石地から生れ出るものは何か。

人の子よ、汝は言ふことも、推測することも出來ぬ。汝は碎かれた影像 の一團しか知らないのだから。

同号に鮎川が寄せた「不安の貌」は、4月12日付である。

このやうな時代に要望されるのは、如何なる時代的な或は社會的な苦 惱の中に於てもあくまで生活態度を崩さずに藝術的良心を失はずに生き てゆくだけの精神の強靱さでなければならぬ73

同人誌『荒地』の奥付には、「印刷納本」についての記載はない。しかし、

「内務省と警視庁の検閲課に二部ずつ納本するきまり」74にしたがったはずで ある。「編集者である」鮎川が警視庁に呼びだされたのは、この『荒地』第2 輯、伊藤茂二の小説「滅落」のためであった。鮎川は「鉛筆で何カ所も印を つけられた頁をつきつけられて、/こんな創作を今度載せたら発禁にするぞ、

と検閲係から脅かされた」のである。「逃亡した娼婦の心理を描いた」のが、

「滅落」であった75

野季吉が巣鴨拘置所から保釈出獄したのは、鮎川が「検閲係から脅か された」頃、その、1939年の5月である76。彼が人民戦線の治安維持法違反 嫌疑で検挙されたのは、一年以上も前、2月1日のことであった。 野の妻 は、出獄にあわせて、庭に木犀を植えたという77

エリオットは『荒地』に、干からびた球根から芽がでるだろうか、と唄っ た。季節は、しかし、確実に訪れていた。『新領土』の同人、志村辰夫は新 潟へ向かう。目的のひとつは、花盛りのチューリップを見るためであった。

四月廿八日。夜十時三〇分發新潟行臨時列車は走る。應召兵たち歡送 のラプソディはディクレシエンドで沈黙し、戯曲的陰翳が斜くレールの

(24)

モノローグに噛みくだかれてゆく。闇のステイヂをしなをつくつて遁走 する列車。車内は超滿員で靖國神社臨時大祭參列の出征兵遺族達の東北 辯がしだひに物憂ひ睡眠を誘ふ。一人の小市民は痛む肩先を氣にしなが ら三等寝臺を夢みてゐる78

早朝、6時30分、到着。「距離四三〇・三粁。時間七時間」の旅であった。

新潟市。人口一三四萬餘を擁する北陸の文化都市は信濃川河口近くに 架せられた近代的橋梁萬代橋から展開する。前方川岸の右手に望む代ママ赭 色の塔が、植民地的なエキゾティシズムを囁きかける。こゝからメイ ン・ストリート古町には約十分で達する。一昨夏來たときからみると著 しい變貌を呈してゐる。デパートが一つふえた。

彼は、休憩をとって、歩きはじめる。

明るいペーヴメントを萬代橋にむかつて歩いてゆくと、河上の方面か らシンバルと太鼓の伴奏にのつて、歌聲と叫喚が街の透明なニユアンス を慄はせながらせまつてくる。橋から見下すと二雙の發動機船に分乘し た應召兵歡送隊である。交通の利便に缺けた邊鄙の土地からの人たちで 新潟驛から原隊へ送られてゆくのだらう。

翌日、満員のバスで河口にある新潟農園へ向かう。途中は工業地帯で「東 京で云へば目黒界隈と酷似してい」た。

日本石油と日東紡の工場があるとかねて聞いてゐたが、錆びついた大鐡 管や壊れた船のボデイが陽に露され、あちこちに煙突が 煙を上げて 如何にも活況を呈してゐる。港近い風景である。

辿りついた農園はチューリップの季節であった。「今では新潟のやうな栽培 適地の發見により本場のオランダと競爭でアメリカ市場を賑はしてゐると言

(25)

ふ」のである。屋外ホールでは青いドレスの淡谷のり子が唄っていた。

喫茶店で聽く彼女の唄聲は奇妙に廢頽の香りがあるが、こゝでこのやう にチューリップの花苑と太陽の下で、そこはかとなくひろがる唄聲は奇 妙にも又健康的だ。

翌5月1日、午後1時15分新潟発上野行急行に乗る。

志村の「新潟紀行」は、こう結ばれる。

午後八時二六分上野着。祝出征の大波、小波。東の夜は ずんで不潔 だつた79

記録と報告を旨とする志村の文体は、「主觀から客觀へと止揚する」観察 にもとづいたものであり、おそらくは、例の集団観察の方法に倣ったのであ ろう。あるいは、『セルパン』の「現地報告」、とりわけ、中国からのオーデ ンとイシャーウッドの報告に倣ったものであったかも知れない。いずれにせ よ、ドキュメンタリーの手法は、詩が書きにくくなった詩人たちに、新しい 散文の可能性を拓いたのである。

志村の「新潟紀行」は、『新領土』7月号に掲載された。同号に掲載された のが、足立重訳オーデンの「スペイン」である。ヨーロッパの若者たちは、

「祝出征の大波、小波」に送られることもなく、自らの意志で、スペインへ 向かったのであった。

彼等は小鳥のやうに長い急行列車にぶらさがつた、

そして列車は潜行した、夜を、アルプスの隧道トンネルを。

彼等は渡つた 大洋を。

彼等はいくつかの山路を越えた。みんな命いのちを的まとにしてゐた80

今日と明日をスペインに見て唄ったのが、オーデンであった。

(26)

昨日はダイナモとタービンの据付。

植民地に於ける鐡道の敷設。

昨日は人類の起源についての 古典的な講義。だが、今日は闘爭81

「スペイン」は、『新領土』創刊の月、1937年5月の作品であった。そして、

いまは1939年。オーデンたちが大雪のニューヨークに到着したその1月、マ ドリッドはフランコ陣営によって、すでに、陥落していたのである。闘争は 終わっていた。

エリオットの『クライテリオン』は、同じ年の1月号をもって、廃刊とな っていた。『セルパン』5月号は、組記事「歐州の前途」のひとつに、「ヨオ ロツパ精神の危機」と題して、終刊号のエリオットのことばを訳出した。前 年秋のミュンヘン危機とその後の和解策を目撃したエリオットは、「編輯者 としての仕事を續けて行く情熱がなくなつたことを確信するに至つた」82の である。エリオットは自らの判断で、雑誌を廃刊としたのであった。

春山が「この二三年間に書いた随筆」13篇を集めて『飾窓』を刊行83した のは、この『セルパン』5月号が発売される頃、4月20日である。

『新領土』6月号は、饒正太郎の書評を掲載した。彼は、春山の博学ぶり と饒舌を評価する。

春山氏がチエコ製の機關銃の如くおしやべりしなければならないのは分 析力や觀察力や批判力が旺盛であるためである。『飾窓』は春山氏の饒 舌を理解するためによき本である84

この評価は、同号に掲載されたもうひとつの書評、近藤東の「春山行夫の主 知的話術」と共通する85。しかしながら、饒は、『セルパン』で読んだエリ オットの発言を思わずにはおれない。彼は、最後の段落で、その記事を引用 していう。

今年の一月突然『クライテリオン』が廢刊になり、その廢刊の辭の中

(27)

でエリオットは、「現在のやうな世界の情勢は、私がこれまで五十年間 に經驗して來た如何なる氣持とも全然違つた新しい感情といふか、一種 の陰うつな氣持に私を滿たしてゐる。私はかうした氣持の下では、正し い文藝批評を指導してゆくといふやうな熱情を今日もはや感じることが 出來ない」といつてゐるが、これは決してエリオット一人の氣持ばかり ではなく今日ヨーロッパ全體を覆つてゐる知識人の吐息であることは確 かだ。われわれはエリオットの悲觀を直ちに賛成する譯にはゆかぬが、

少なくとも今日の世界の情勢からわれわれを孤立 態に置くことは不可 能である。詩人たちが脆弱性な精神と狹隘な世界を捨てゝ新しい文化建 設に加擔すべき理由がこゝにある。

一節は、このように結ばれる。

この意味で『飾窓』を讀んで不滿を持つ詩人たちはセルパンを讀むべき である。セルパン編輯長としての春山氏の意欲的な仕事は、『飾窓』よ りもはるかに文明的である86

事実、春山の「文明的」な仕事は、その『セルパン』5月号を例にとって も、精力的であった。ここには、海外の記事による「歐州の前途」ばかりか、

「動揺する歐州の現 」「イギリスは戰ひ得るか」「ドイツの東進政策」など、

国内の執筆者による記事も組まれていたのである。「雄鳥通信」もまた、時 間差と戦いながらも、毎号、刻々と海外の事情を伝えていた。

イギリスは来るべき戦争に備えていた。3月13日の新聞の報ずるところに よれば、保有のガスマスクに加えて、幼児用も用意されることになった。そ して、政府は戦争がはじまると大都市から直ちに母親と子供を避難させるべ く、地方でのその収容能力の調査を行っていた87。ドイツ軍がプラハへ進駐 したのは、その翌日、14日である。4月27日、英国下院は21歳と22歳男性に たいする徴兵制を可決した。徴兵は、戦時の防衛にあたる義勇軍に入隊すれ ば免除されるというので、多くの青年が殺到し、「新兵檢査醫の手が不足し、

民間醫が多數召集されたが、それでも全志願者の檢査が不可能であつた」と

(28)

いう88。これら「通信」は、『セルパン』7月号と8月号のものであるが、時 間差は、よしとしなければならない。

記事誌面にも、イギリスの近況は伝えられた。『セルパン』9月号は、6月 24日付『ニュー・ステイツマン』と、つづく『ニューヨーク・タイムズ』の 記事にもとづいて、「英國情報局の新設」と「英國對外宣傳の強化」を掲載 した。それはドイツの海外宣伝に対抗するための「外務省對外情報局」であ る89。その名称には驚かされるが、編輯部の反応を忍ばせる。正確には、10 月号の高倉共平「開始された外電戰」90がいうように、「内閣直屬の對外宣傳 部」であり、5月に設けられたのである。しかしながら、二つの記事に記さ れているように、政府は、戦争勃発時には情報省に昇格する予定であった。

そして、そのとおり、「情報省・Ministry  of  Information」となる91のである。

ただし、いま、国民精神総動員委員会の事務局をおく内閣情報部が、やがて 改組されて登場する「情報局」の権限は、イギリスの情報省を遙かに越えた 強力なものになるであろう。

ドイツはすでに戦時経済体制をとっていた。「雄鳥通信」によれば、7月1 日、「製紙、製本、婦人服、家具の被ひ、カーテン、敷物等に木綿の使用を 禁止」することになった。この使用制限は「ス・フ並びに人絹工業の増産を はかり、アメリカからの綿花の輸入を減少せしめることが目的」であった92

日支事変下のわが国でも、戦時経済体制が進行中であった。

6月16日、国民精神総動員委員会の「公私生活の戦時体制化」に関する小 委員会は、遊興営業の時間短縮・ネオン全廃・パーマネント廃止など、生活 刷新案を決定した93。6月10日に文部省が「學生生徒」の夏期休暇も「從來 の業を休む觀念を改訂して鍛錬期」としたのも、この総動員運動の一環であ った。

その翌月、7月に発行された『荒地』第3輯の目次裏に、「荒地将棋遊びよ り」として、エリオットの詩行が引用された。『新領土』6月号の上田保訳94 を借りたのである。

「私はなにをしたらよいのですか。

一體なにをしたら。

(29)

「外に飛び出し、髪毛を垂らして街を歩 いたらよいのですか。

明日になつたら、私たち何をしたら よいのでせうか。

「私たちは永久に何をしたらよいのでせ うか95

7月15日、国家総動員法に基づき、国民徴用令が実施された。その第四条。

本令ニ依リ徴用スル者ハ国ノ行フ総動員業務又ハ工場事業場管理令ニ 依リ政府ノ管理スル工場事業場其ノ他ノ施設(以下管理工場ト称ス)ニ於 テ行フ総動員業務ニ従事セシムルモノトス96

『LE BAL』の発行は遅れていた。2月に神戸から第19輯が出たあと、半年 近くの空白をおいて、第20輯は9月1日を発行日として刊行された。刊行地は、

東京となった。この間、中桐は神戸高商を落第して上京し、この秋、編入試 験を受けて日大芸術科に入る。「学生になっておかないと、兵隊にとられる から」97であった。「編輯兼発行者」は島田実、すなわち、牧野虚太郎。ただ し、実質は鮎川であった。彼が「大慌てで編集して、安田印刷をせかせて作 った」98のであった。『荒地』と同じ印刷所である。刊行の遅れは、紙の工面 のためではなく、仲間の間での体制を整えるためであった。

この『LE BAL』第20輯に掲載されたのが、7月20日付、鮎川の「椅子」で ある。

體温から去つてゆくひびきたち響たち 椅子は書籍の上に乘つてゐる99

『セルパン』編輯者の椅子に坐る春山は、梅雨が去り本格的な夏となって

「何か暑氣を吹きとばすやうな仕事をしたいと思つてゐた折柄」ヒットラー のアメリカ訳が送られてきたので、夏の暑さと闘ふには恰好の仕事と全スタ

(30)

ツフを動員して」翻訳の仕事にとりかかった100のであった。「我が闘爭」を 掲載した8月号が発売されたのは、「椅子」が書かれた7月20日の頃である。

この号は、発売と同時に追加注文が殺到した。これは、編輯部として思いも かけぬ反応であった。しかし、品切れに対応すべくこの号の再版を考えたが、

「時局柄紙の配給に限度があるので」あきらめざるをえなかった101のである。

季節は、夏であった。7月27日、鮎川は森川へ葉書を書く。

昨日からこちらへきました。妹と。

海岸で貝殻を拾つたり泳いだり。

砂の中で眠つたり102

村野は、通勤だが、「七月二十六日から八月二十四日まで、豫備役召集で 近衛第一連隊に」入ることになった103。徴用令の適用ではないが、予備役の 体制も、イギリスと同じように整いつつあったのだ。

永田家は、銃後の体制に備えていた。『新領土』8月号の「後記」である。

梅雨もからつとあけ、今年の夏は如何にも夏らしくブツブツと煮立つ てゐる。實に壯快だ。

今晩から燈下ママ管制。隣室ではそれのそなへに赤と の有り切れを綴り 合せてカアテンの製造中で、油 の聲と一緒にミシンの音。三二度。

梅雨明けの暑い夏の昼下がり、銃後の営みであった。永田は結ぶ。

支那事變も滿二年。いろいろな意味で教へられた。有形無形の刺激は 實に大きかつた。少なくとも僕の仕事の性質は能動的となつた104

「我が闘爭」の前書きに、「本書を通じてイギリスの歐州に於ける過去の 政治的策謀を知ることだけでも、我々にとつて今日の書として多くの意義を 含んでゐることを見逃してはならないと思ふ」105と記した、『セルパン』の

(31)

編輯長は、『新領土』では饒舌ぶりを発揮している。8月号「後記」の、春山 の鉛筆談義である。

近頃いろんな鉛筆を集めだした、4BからHBに轉向しようとしてゐ る。ことしの春つくつた原稿紙は上質の厚い紙なので、HBだと丁度ペ ンで書く位の太さに書ける。

押し入れに放りこんであるガラクタ鉛筆を削つてみると、どれもすら すらと書ける。

三省堂でHBの鉛筆をいろいろテストしてみて、恰度書きよささうな のがあつたので一打買ふ。二十錢である。いままでの4Bはムーン・ス ター印202號で一打九十錢位だつたと思ふが、昨年あたりから質が惡く なつて、反り返つたのなどもあり、はじめから最後まで蕊が折れてゐて 使はないでしまふものなどもある。そんなこともHBに轉向した一理由 であらう。

談義はつづく。

近頃、鉛筆の木質で素直に削れるのはすくない。カナダから輸入され てゐた白杉が來なくなつたためだといふが、一方どこの會社でも、學校 でも、鉛筆削機を備付けて、ぐるぐる廻すだけだから、木質はあまり氣 にならないと言つてゐる人もある。

物資不足は、春山の書斎に忍びよっていた。もうひとつの、鉛筆談義から。

私のところには七八十本の鉛筆がある。バヴアリアのフアーバーの色鉛 筆のやうに使はないで、觀賞用のために置いてあるものもあるが、そん なのの中にこれはまた「特選新聞記者用」といふ文字の入つたものが出 てきた。家の者にきいてみると、讀賣かどつかの販賣店が景品にくれた ものらしいが、使い手が自分であるといふことが一寸おかしい。この新 聞記者用といふのが、案外いい鉛筆だから、一層意外である106

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鉛筆談義は、焦臭い時勢には、清涼剤として愉しい読み物である。銃後の 日常には、贅沢な読み物でもある。春山は「上質の厚い紙」の原稿用紙をつ くらせたという。これも贅沢である。しかしこの年、各製紙会社の生産は、

製紙原料不足に加えて、電力制限と石炭不足のために、前年よりもさらに減 退していた107のだ。

8月1日、商工省は、雑誌用紙の使用制限に関する省令を公布し、即日施行 された108。書籍はすでに品不足であった。岩波書店についていえば、実質上 すでに返品はほとんどなくなっていたが、9月15日、文庫と新書をのぞいて、

すべての刊行物を書店の買切制とした109。10月14日、日本雑誌協会は、商工、

陸軍、海軍の各大臣に用紙供給の緩和を陳情するとともに、逓信大臣と電気 庁長官に電力制限の緩和を陳情した110。中等教科書協会もまた、16日、製紙 会社と洋紙販売店と協議のうえ、商工大臣、文部大臣、および、文部省図書 局長宛文書を用意して、用紙統制緩和を陳情した111。『セルパン』11月号の

「出版部便り」がいうように、「わが國も愈〃物資調整の本舞臺に入り、昨年 末の用紙二割使用制限に引きつづき、來年度はさらに新制限率が考慮されて ゐるといふ」112事態となったのである。

村野が「詩人の仕事が商工省や文部省の査定を基準として企てられるとい ふことは考へる丈で誠に滑稽である」と記したように、文部省は詩誌には介 入することはなかった。しかし、商工省の用紙統制とともに内務省側の検閲 は着々と浸透していた。『新領土』9月号の永田の語り口から、その様子は推 測される。

編輯部はBowdler氏(無暗に訂正削除する者)ではない。編輯部は各 寄稿を尊重すると同時に、一、二の寄稿のために雜誌の運行に支障をき たすことをのぞまない。多少の儀禮を缺いても時間といふものを犠牲に しない。 ち獨斷で處理しても、規定の時日に雜誌の發行をのぞむも のである。(いづれにしろ作品に損傷ある場合は一本にせられる節に御 修正御訂正あれ)

参照

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