『新領土』創刊号に「サラリーマン週間 陽氣なコーラス」を書いた村野 は、『セルパン』1937年7月号に「露が乾く田園」を寄せた。その終わりの部
分である。
雲雀は死に 汚いものが炸裂し
汗にぬれた×馬の筋肉が鳴る ごらん 年たち
君らの前方に遠く茂つた一つの森 其處から
犬儒學者の精神の歌が聞えてくる98
物価高騰と「兵士」、そして、「軍馬」。「陽氣なコーラス」と「犬儒學者の精 神の歌」は、蘆溝橋事件以前に、すでに、重なって響いていたのである。
『新領土』は順調であった。しかしながら、二つの、不吉な徴候を見逃し てはならない。そのひとつは、創刊号がオーデンたちを紹介したように、そ の誌面に漂う政治性である。そして、もうひとつは、さらに悪化する紙の供 給である。
志茂が抱えた『新領土』は、村野が8月号に記したように、「日本で一番新 しく、最も有意義な、然し最も危險な問題を提出するこの詩のムーヴメント」
を目指していた。村野の抱負は、新しい詩の冒険を語ったものとしてもいい。
しかしながら、誌面からはニュー・カントリー派の拠点と見ることができる のである。それは、ファシズムに対抗する、いわゆる「人民戦線」の動きと からみあっていた。その意味では、『新領土』は「最も危險な問題を提出す る」ものであった。7月7日の蘆溝橋事件にはじまる新しい環境が、『新領土』
を覆うことになるのだ。
1937年5月に創刊されたばかりの『新領土』は、すでに、政治的姿勢を問 われていた。村野のいう「多くの妨害」は必ずしも詩人たちの異議ばかりで はなかったのである。11月号に村野は記す。
『新領土』が毎月多くの海外文學のエツセイと作品を掲載するのは、
たゞ、これに依つて文學に關する國際的な文化的仕事を遂行する爲であ
つて、たとへニュー・カントリー派の作品、エツセイを紹介したところ で、我々は決してニュー・カントリー派の運動に自身投入するのでも何 でもない。
村野によれば、ニュー・カントリー派の紹介をしたという理由で、
『新領土』がそれと特殊な關係に限定されて、批評されるといふことは、
我々にとつては甚しい迷惑である99。
「 時代的」と受けとめられた『新領土』は、村野がことわりを入れる必要 があったように、誌面づくりにより一層の慎重さが要求されていたのだ。
そればかりではない。同人であれ、グループのメンバーであれ、「現在の 詩の雜誌に滿足できない新しいジエネレエシヨンによろこんで手を伸べる」
ための、その新領土の会は、その会場についても、配慮が必要であったので ある。
当時としては、だれもが弁えていたことであろうが、本来は活字にしては 具合の悪い一節である。『新領土』創刊後、『セルパン』7月号、「編輯者の言 葉」、春山の筆である。
昨年末、新宿で文學雜誌の座談會をやつてゐた連中が、一括して検束 されたことがあるが、その理由は集會届が出てゐなかつたといふやうな 點にあつたときいてゐる。どういふ理由からか、新宿で會合を開くと、
どんな性質の會でも集會届が必要であり、集會届を出すと必ず係が來て 會の名稱、組織、事務所、目的、司會者、會費、會議の内容、提案とそ の決議、出席者の氏名住所等々の報告書の提出を要求する。それが銀座 でやれば集會届も要らないし報告も勿論要らない。だから近頃新宿では みんなが會合をやらぬことになつてゐる。いつか自分の關係してゐる同 人雜誌の同人會でこれに出逢つて、これぢやまるで報告を書くために集 つたやうなものだと笑つたことがあるが、それにしても、突然ドアを明 けて無斷で室内へとびこんで來られては、びつくりもするし、うつかり
冗談もいへないやうな氣がして重苦しい100。
書かれたのは、7月号の追い込みの頃、6月10日前後、すなわち、事変の前の ことである。彼が関係している「同人雜誌の同人會」は「新領土」のもので あったか否かは判然としない。だが、慎重な配慮は不可欠であった。
8月20日に第一書房から発行されたのが、春山の訳になる、レヂス・ミシ ヨオ『フランス現代文學の思想的對立』である。その二頁にわたる広告は
『セルパン』と『新領土』の9月号に掲載された。同じ紙型である。『セルパ ン』10月号のものは、文言を少し変えた二頁の広告である。『新領土』10月 号の広告は一頁に収められているが、それは扉のまえ、いつもは無地の表紙 の見返しにおかれた。異例のことである。
原著は英語で、表題は、Regis Michaud, Modern Thought and Literature in
France。アメリカから刊行されたのは1934年11月である101。「思想的對立」
ということばは、原著の内容に沿ったものではあるが、その内容は3年前で 終わっている。広告が、「一九三七年版の最新展望」と謳ったのは、ほかで もない、ここに「原著出版後今日に到る迄、人民戰線成立よりブルム内閣瓦 解後の今日迄の文學的問題を譯者が特に増補した」からである。この書の要 は、92頁にわたる「増補」、すなわち、「附録 人民戦線以後の文學 一九三 四年より一九三七年のはじめにいたる記録」である。
原著が刊行されたのが1934年11月だが、「記録」によれば、人民戦線は、
それ以前、2月の、左右陣営が衝突したパリ騒乱、スタヴィスキイ事件が発 端である。結成された「反フアシスト行動統一委員會」は、「社會黨とコミ ュニストとの「統一戰線」が中核となり、更に、コミュニストが社會黨大衆 に向つて「統一戰線」の擴張を提案」して、1935年1月18日に全体的な団体 となったのである102。ファシズムの脅威は人民戦線の結成によって一時後退 したので、作家たちは政治上の任務から一転して、文化擁護の使命の重大な ことを痛感して、その6月に「国際作家会議」を開催したのである103。
「記録」の詳細は別のこととして、注目すべきことがある。「人民戦線」
の動向は春山が編輯長として就任後、『セルパン』が刻々と追っていたこと である。しかも、その動きは、能動精神あるいは行動主義に立つ『行動』の
執筆者たちにとっても関心の的であったことだ。さらに注目すべきは、パリ で6月に開催された国際作家会議を『セルパン』が詳細に追ったことだ。し かも、その会議記録に各国の新聞雑誌の記事を加えて、同年11月1日に『文 化の擁護 國際作家會議報告』が刊行されたのである。本来なら、田邊茂一 編纂『能動精神パンフレツト』104をこの年2月20日に刊行した、その紀伊國 屋出版部が引きうけるところであろう。しかし、小松清が「編者の言葉」に、
「この重要な報告書を出版することのイニシアチヴをとられた長谷川巳之吉、
春山行夫氏に衷心の感謝を呈」する、と記しているように105、第一書房から 出版されたのであった。おそらくは、田邊が出版部から手を引いたためであ ろう。いま、『新領土』創刊の年、8月20日に刊行された『フランス現代文學 の思想的對立』は、このような、春山を含む、わが国の行動主義文学の軌跡 を背景にしていたのだ。
春山の「一九三四年より一九三七年のはじめにいたる記録」には、もちろ んスペイン内乱をめぐる左翼陣営、すなわち、人民戦線派の動向も含まれる。
そして、フランスの最新情報は、三つの事項が、「附記」として書き加えら れた。
一九三七年に於いて、二月二十日、スペインに對する義勇兵禁止が實 施された。
三月十七日、パリ郊外クリシイ、コミユニスト區域に於ける左右衝突 事件があつた。
六月廿一日、財政危機打開のための金融全權案が上院の反對に遇ひ、
ブルム内閣が總辭職し、翌日、急進社會黨領袖カミイユ・シヨオタン氏 が新内閣を組織し、ブルム前首相が副總理として入閣した106。
フランス人民戦線内閣の崩壊は、のちに、独ソ不可侵条約が衝撃を与える ように、人民戦線を実現しようとする、わが国の反ファシズム陣営に衝撃を 与えたのである。
しかしながら、スペンではいまなお、反ファシズムの戦いがつづいていた。
しかも、創刊号に名切哲夫が「歐州の空に人民戰線の聲は高く、響いて來る
のは‥‥の唄聲か」と唄い、また、饒正太郎が「 年の計畫」107に唄ったよ うに、『新領土』の若い詩人たちは、オーデン・グループが関心を寄せるス ペイン、そして人民戦線が拓く「新しい大地」を「新領土」と重ねていた。
その『新領土』9月号、ついで10月号の広告に掲載された『フランス現代文 學の思想的對立』は、第一書房の『セルパン』と、その編輯長、そして、
『新領土』の若い同人に共有された、ひとつの立場であり、明かな政治的姿 勢であった。だが、ほどなく、人民戦線を支持する人々、あるいは、それに 好意的な知識人たちは、潰滅的な打撃を受けることになろう。
12月14日、春山は、南京陥落の提灯行列が通り過ぎる社内で、『セルパン』
1月号の「編輯者の言葉」に記した。「近頃、大學教授がものを書くことをお それだしたことが、なんだか特別に目立つやうな氣がする」108と。すでに、
この月1日、矢内原忠雄は大学辞職を余儀なくされていた。発端は、『中央公 論』9月号、彼の「國家の理想」が、事変を批判したとの理由であった。さ らに、春山が「編輯者の言葉」を書いた翌々日、15日の第一次人民戦線事件 で検挙された者は400名をこえた。これが、内務省警保局図書検閲課による 雑誌編集企画への干渉の契機となったとされる109。
明けて1938年2月1日、内務省は、「出版懇話会」を通じ出版業者に時局教 育を行い、出版物取締対策として発行前の内閲制度を開き、非合法出版物の 根絶を期す方針を決定を伝えた110。「内閲制度」とは、検閲について疑問が あれば、あらかじめ検閲課に相談ができる、というものであった111。2月1日、
それは、大内兵衛、美濃部亮吉ら「教授グループ」11名を含む38名が治安維 持法違反で検挙された、その日である。そのなかに、『行動』に執筆し、『セ ルパン』にも欠かせない 野季吉もいた112。2月15日からはじまる学生狩り もまた、国家精神総動員運動の一環であった。
3月30日、鮎川は新宿エルテルで開かれた「新領土の会」にはじめて出席 する。6時半には誰もおらず、はじまったのは7時10分頃となった。その場に 居あわせた春山は、『セルパン』5月号のために、最終段階を迎えた国家総動 員法案の動向に関する記事の手配を終えた頃であった。国家総動員法は4月1 日に公布された。三日後、4月4日に「灯火管制規則」が公布され、ただちに 10日からが実施された113。国家総動員法が施行されたのは、5月5日である。