• 検索結果がありません。

― ― 鮎川信夫と『新領土』(その )

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "― ― 鮎川信夫と『新領土』(その )"

Copied!
26
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

       

鮎川信夫と『新領土』(その 9 )

1

中 井   晨

40. 出版新体制―新聞雑誌用紙統制委員会の設置―

 『新領土』1940年4月号、池田時雄の「最後の頌歌」。末尾に1940年1月8日 の日付がある。

地殻の扉を明け放たれて 僞はらぬ歎きに立ちあがる 微光の如き涙のしじまから 古風な奏樂は訪れて來る

限りない欲望の中に誘惑された 美しくもはかない行爲のうち 淨化され行くものさへもなく 救はれない苦しみは訪れて來る

怠惰な君の愛は亡びよ 美くしい虐待はもはやないが 肉のみの恍惚の中にも 新らしい知性は耀やいて來る2

 池田の連作「最後の頌歌」は、この1月8日付の第17歌が最後となった。彼 は、鮎川、田村隆一、永田助太郎らが新宿ジュラクで開いた送別会で送られ、

1月10日に入隊した。そして、3月には、すでに内蒙古にあった3。満21歳。

『言語文化』11-2:245-270ページ 2008.

同志社大学言語文化学会 ©中井 晨

(2)

一年若い鮎川は、4月から大学生となる。

 長谷川巳之吉は3月23日の「日本詩の夕べ」を「アポロの復活する時」と 呼んだが、芸術の擁護者アポロの耀きには、すでに陰りが忍びよっていた。

 以下、出版新体制確立へいたる経緯を追うこととする。気は重いが、それ が、『セルパン』編輯長春山行夫の更迭、『新領土』廃刊、第一書房の廃業の 背景にもなるからである。

 先にみたとおり、前年1939年の夏、8月16日に、出版懇話会に急遽設置さ れた強化実行委員会は、「出版文化中央聨盟創立趣意書」と「事業項目(試案)」

をまとめ、「官製の統制機關」が出現するまえに民間「出版人」による機関 の創立を提唱したが、実現にはいたらなかった。だが、この年1940年12月18 日、「出版文化中央聨盟創立趣意書」の草案にあった機関の名称「日本出版 文化協會」4は、そのまま、官製の「社團法人日本出版文化協會」となって実 現し、さらに、22項目からなる「事業項目(試案)」もまた、この協会、通 称「文協」の事業に受けつがれるのである。

 この「未曾有の大變革」のなかで、業界誌『出版タイムス』を廃刊とした 小島新生は、翌1941年の夏7月、『出版新體制の全貌』に、出版新体制の発端 について生々しく証言している。傍点は引用者。

出版懇話會強化實行委員會提唱の中央聨盟設立案に就ては、當初軍部 方面に於ける出版一元的團體の必要の希望を體してゐたものの如く而て 直接出版物取締の衝に當る内務省檢閲當局は毎月の懇話會に出席して之 等の經過に就ては知悉した結果、民間業者の自主的方法では到底一元的 團體の設立は不可能と見て政府自身に於て之が實現を決意するに至つ た。而て之が實行に當つては内務省丈けでなく陸軍、海軍、商工、文部0 0 0 0 0 0 0 0 0 00 0 00 0 00 0 0 等の關係省との連繋協力0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0を必要とする關係上、新聞雜誌用紙統制委員會 に諮り、その決定を以て旣存の出版各團體を解消し出版文化に關する一 元的綜合的機關の設立に依る出版新體制確立に乘り出すに至つたのであ る5

 「民間業者の自主的方法では到底一元的團體の設立は不可能」と見た政府、

(3)

すなわち、内務省図書課は、この年、1940年3月ごろから、國鹽耕一郎事務 官が中心となって出版懇話会の西村辰五郎、金亨燦らと検討をはじめ、配給 機構についても、誠文堂新光社の小川菊松に内密に取次店の状況にかかわる 資料と情報を求めて、「出版界改革試案」を用意しつつあった6

 戦時下の政策を担当する企画院も動いていた。「新聞雑誌用紙の統制問題」

について「各省と企画院で委員会を開くことになつた」7のも、このころであ る。4月、企画院で調整が成立した

 用紙問題は、もちろん報道政策と結びついていた。内閣情報部の田代金宣 は、内閣情報部と出版新体制との関係について記している。

當時の内閣情報部は政府の國策の宣傳啓發事務に就て、これに關する政 府の方針を一本にして曲りなく國民に傳へるための各省の連絡調整をす ることを建前としてゐたのであつた。ところが、新聞、雜誌の用紙が軍 需關係とか輸入制限、禁止といふやうな戰時下の資材制限によつて次第 に不足の率を高めて來て、今迄商工省限りで「物」としてだけ扱つて來 た用紙の供給が「報道政策」の見地で決めて行かねばならなくなり、新 聞雜誌用紙統制委員會なるものを内閣に設け、その庶務を内閣情報部で 扱ふことになつたのである9

 出版新体制は、報道政策とからみながら、出版物資たる用紙の供給体制、

さらに、書籍雑誌の配給体制にまで多方面にわたるが、以下、できるかぎり、

時系列で眺めることとする。なだれを打った事態の推移を確認するためであ る。

 春山がアカシアの白い花を英国大使館脇の小公園に見たころ、定例閣議は、

企画院総裁の提案を受けて、「新聞雑誌用紙統制委員会」の設置を決定した10。  1940年5月17日、閣議に諮られた資料「新聞雜誌用紙統制委員會設置理由」

である。

支那事變以來諸種ノ理由ニヨリ洋紙ノ供給減トナリ昭和十三年八月以降 商工省ニ於テ新聞雜誌用紙ノ供給制度ヲ實施セルガ、用紙問題ハ文化政

(4)

策、報導政策ト關聨スルトコロ尠カラザルヲ以テ當時企畫院ヲ中心トシ テ内閣情報部、内務省、陸軍省、(滿支關係)商工省、拓務省等ノ關係 聽協議參劃セリ、爾后之ガ制限率ノ改正ニ際シ、又新聞用紙ノ新規配給、

増配申請等ノ處理ニ付随時企畫院に集合協議ヲナシ來レルガ、ソノ會合 數十囘餘ニ及ビ最近ハ陸海軍情報部關係官の參加ヲモ見ルニ至レリ。

用紙問題は、田代がいうように内閣情報部のみならず、「陸海軍情報部關係官」

も関与するところであった。「設置理由」はつづいて、報道政策と用紙問題 に言及する。

本年ニ入リ印刷用紙ノ供給益々窮屈トナルニ伴ヒ新聞雜誌ノ用紙配給問 題ハ言論界對政府間ニ於ケル相當面倒ナル問題トナル傾向ニアリ。且ツ 時局ノ進展ニ伴ヒ新聞雜誌用紙ノ配給ハ政府ノ報導政策トモ併セ考慮ス ル必要アリ、依ツテ今囘在來企畫院ニ於ケル非公式ノ協議會ヲ強化スル タメ内閣ニ委員會ヲ設ケ内閣書記官長ヲ委員長トシテ關係各聽高等官ヲ 委員トシ、報道ママ政策トノ調和ヲ緊密ナラシムル為爾今内閣情報部ヲシテ 之ニ關スル庶務ヲ掌ラシメ、政府内部ノ各方面ノ意見ヲ綜合調整シ、以 テ新聞雜誌用紙配給ノ萬全ヲ期スベシトノ意見關係聽ノ間ニ起リ別紙案 ノ如キ新聞雜誌用紙統制委員會ヲ設置セントスルニ到リタルモノナリ。

 同日の閣議資料、新聞雑誌用紙統制委員会設置に伴う「諒解事項」はつぎ のとおり。

一、 委員會は新聞雜誌用紙ノ一般的統制方針竝ニ今後創刊セントスル新 聞雜誌又ハ現在發行セラレ居ル新聞雜誌ニシテ用紙ノ新規配給又ハ 使用紙量ノ増加ヲ申請セルモノニ付供給ノ要不要及供給数量ニ關シ 協議スルモノトス

二、 委員會ハ内外地及滿州支那ニ於ケル新聞雜誌用紙ノ調整ニ就テモ協 議スルモノトス

三、 委員會ハ必要ニ應ジ單行本ノ用紙ノ統制ニ就キ協議ヲ為スコトヲ得

(5)

ルモノトス

四、 商工省ハ委員會ノ協議決定ニ基キ供給者ヲシテ用紙ノ配給ヲ為サシ ムルモノトス11

 新聞雑誌用紙統制委員会は文字どおり、事変下の用紙不足に対処するため のものであったが、用紙統制に加えて、出版界の一元化が打ちだされるのも、

時間の問題であった。

 5月22日、委員と幹事が決定した。委員長は内閣書記官長、幹事長に内閣 情報部長を配し、委員は企画院第二部長、同第三部長、外務省情報部長、陸 軍省情報部長、海軍軍事普及部委員長、内務省警保局長、文部省普通学務局 長、商工省繊維局長、拓務省管理局長ら、関係官庁の勅任級が任命または委 嘱された。委員会規定によって委員会の庶務は内閣情報部が担当することと 定められた12

 ただし、運営の実体は、委員所属の官庁から幹事を出し、幹事会が委員会 のお膳立てをした13。幹事長は内閣情報部長熊谷憲一。幹事14名のなかに、

内閣情報部情報官田代金宣、内務事務官國鹽耕一郎、そして、軍からは、陸 軍輜重兵少佐鈴木庫くらぞう三、海軍中佐高瀬五郎が含まれていた。

 鈴木庫三のもとには、執務室から階段まで長蛇の行列ができたという。委 員会設置が決定された直後、彼の5月20日の日記である。

新聞雑誌の用紙統制委員会の幹事を内閣から委嘱されるといふことが新 聞に出たら、利にさとい雑誌会社が、うるさい程国策協力などと今にな つて唱え出してやつてくる14

 田代金宣もまた、「委員會の幹事の一人になつたので、急に新聞、雜誌關 係者の陳情責めに遭つて」閉口したひとりである。委員会の庶務をあつかう 内閣情報部に「今まではまるで顔を見せたこともない大新聞、大雑誌社の社 長級のお偉方が陸續として内閣情報部に見參に及」んだ15

 6月1日、委員会の設置にあわせて、内閣情報部が改組された。構成は課 から課となり、第課の分掌に「新聞雜誌用紙統制委員会ニ関スル事項」

(6)

が加わった。田代は、第課の「新聞出版係」の主任となった16。彼は、出 版新体制づくりの官庁側の推進役のひとりとなる。

 その田代は記す。「五月末に事務を執り出した新聞雜誌用紙統制委員會幹 事會は、間もなく内務省圖書課の出版界改革試案を參考として動き出すこと にした17」と。

 6月10日、イタリアは英仏に宣戦を布告した。14日、パリは陥落した。

 6月15日付、鮎川の「形相」から。

ドアの外では しずかな炎のむれが 物のかたちを壊してゆく 地下を流れる水の音は

ほんのわずかに震へる根を支へてゐる18  6月17日、鈴木の日記。

午前十時から新聞雑誌用紙の会議が開かれた。陸軍の言論界に対する勢 力を殺がんとする内務省側の伏線を看破して大いに戦つた。内務省の言 論指導は時の内閣指針で右へでも左へでも動く。それが真に国家の為な ら致し方ないが、国策が左様に変化する筈はない。真に強力な一元的内 閣が出現せざる限り言論の指導上に軍部と内務省側との摩擦は避けられ ぬだらう19

この日、内務省図書課が準備した「出版界改革試案」が提出されたことがう かがえる。鈴木のいう「内務省側の伏線」とは具体的には不明だが、出版界 改革試案の背後にあった民間側への配慮とも推測できる。

 この日、17日、新聞雜誌用紙統制委員会は、「新聞雑誌用紙配給ト言論報 道政策トノ調和及新聞用紙統制要綱」を決定した。

 24日、軽井沢から帰京した近衛文麿は「新體制の確立の為に微力をさゝげ 度いと思ふ」と語った。

(7)

 26日、新聞雜誌用紙統制委員会の委員長は、17日に決定した「新聞雑誌用 紙配給ト言論報道政策トノ調和及新聞用紙統制要綱」を閣議に報告した。出 版新体制の要である。あえて、全文を引用する。

事変発生以来全国ノ有力新聞ハ概ネ政府ニ協力シ国策ノ遂行ニ順応シツ ツアルトコロ未ダ過去ノ批判的、客観的態度ヲ脱却シ得ズ、国家国民ト 一体トナリテ時局ヲ打開セントスル熱意ニ乏シキ為稍々モスレバ新聞雑 誌経営ノ営利的競争的心理ニ禍セラレテ政治、外交経済其ノ他各般ノ方 面ニ於テ内外ニ与フル影響ヲ顧慮スルコトナク興味本位ニ無責任ナル報 道ヲナスコト尠カラズ、其ノ原因ハ根ザス慮深ク、抜本塞源的対策ヲ講 ズルニ非ザレバ、之ヲ是正セシムルコトハ不可能トモ云フベキモ、翻ッ テ考フルニ未ダ其ノ応急対策無キニアラズ、其ノ第一ハ新聞雑誌ノ整理 統合ノ問題ニシテ、其ノ第二ハ新聞雑誌ノ質ニ基ク用紙配給調節ノ問題 ナリ。

諸般ノ事業ヲ観察スルニ国家的公共的性質ヲ有スルモノハ概ネ国家ト ノ間ニ何等カノ形式ノ関連ヲ有スルニ拘ラズ、独リ新聞雑誌事業ノミハ 無統制ノ状態ニ放任セラレアルガ之、新聞雑誌事業ノ経営上或ハ編集上 ニ幾多ノ弊害禍根醸成ノ因ヲ為スモノニシテ、国策遂行ニ関スル大ナル 障害亦之ヨリ発生スル処尠カラザルナリ。サレバ此ノ乱雑過多ノ混乱状 態ニアル新聞雑誌事業ヲ整理刷新シ、有害ナル新聞雑誌或ハ社会的ニ存 在価値無キ新聞雑誌ハ之ヲ廃シ、国家的使命ノ担当者タルノ実質ヲ備フ ル健全ナル新聞雑誌ノ発達ヲ援助スルハ今日ノ急務ナリ。之ガ実現ノ方 法ハ幾多アルべキモ、新聞雑誌用紙ノ配給ヲ為スニ当リテモ斯ノ点ニ充 分留意シ、適当ナル施策ヲ講ズルノ要アリ。

又新聞雑誌ノ紙面ノ内容健実ニシテ国運ノ進展ニ大イニ努力スルモノ ニアリテハ、其ノ発展ヲ図ルコト即チ国論ヲ誘掖シ、国民ヲ指導啓発ス ル所以トモナルモノナルヲ以テ、此ノ種新聞雑誌ニ対シテハ用紙ノ配給 上特別ナル考慮ヲ施スコト亦緊要ナリ。

依ッテ爾今新聞雑誌用紙統制委員会ハ右ノ趣旨ニ従ヒ用紙配給ニ関ス ル審議ヲ行フモノトス20

(8)

 翌日、6月27日、新聞雑誌用紙統制委員会は、新聞用紙について、従来の 最高一割五分の制限をさらに一割強化することを決定し、商工省はこの方針 に基づき供給制限規則を改定した21

 日本雑誌協会は、この措置が雑誌用紙におよぶことを危惧し、新聞雑誌用 紙統制委員宛「陳情書」を提出した。その最終段。

仰ギ願ハクバ雑誌ハ国民精神総動員ノ一翼トシテ、最モ強力ナル任務 ヲ担当シツゝアル事実ヲ御認メ下サレ、雑誌ノ重要性ニ鑑ミ新聞用紙以 上ノ減量無之ヤウ特別ノ御詮議ヲ賜リ度、日本雑誌協会評議員会ノ決議 ニ依リ此段陳情ニ及ビ候也22

 7月3日、委員会では、全国各官庁の出版物にたいしても、紙の統制を実施 し、用紙難に対応する具体案が練られた23。用紙不足は官民両者の懸案であっ た。 

 同日、7月3日。幹事会で、鈴木は「時局に鑑み雑誌新聞の検閲を一層強化 し、之に応じて紙を配給することを提案」した。彼は「賛成者も多い」とつ づけている24

 7月7日、日支事変勃発から3年、この日、「奢侈品等製造販売制限規則」が 施行され、東京各所に「日本人ならぜいたくはできないはずだ」の立て看板 が登場した。このころ、春山は蝶の採集に熱中していた。贅沢な趣味であっ た。

 7月16日、米内内閣が総辞職し、22日、第二次近衛内閣が成立した。翌日、

近衛は組閣直後、初の記者会見で、内閣情報部の改組拡充について、その「実 行を目標として考慮中」であるとした25

 7月26日、近衛内閣は閣議で「基本国策要綱」を決定した。

 7月27日、大本営政府連絡会議は「世界情勢ノ推移ニ伴フ時局処理要綱」

を決定した。その「方針」。

帝国ハ世界情勢ノ変局ニ対処シ内外ノ情勢ヲ改善シ速ニ支那事変ノ解決

(9)

ヲ促進スルト共ニ好機ヲ捕捉シ対南方問題ヲ解決ス

支那事変ノ処理未タ終ラサル場合ニ於テ対南方施策ヲ重点トスル態勢転 換ニ関シテハ内外諸般ノ情勢ヲ考慮シ之ヲ定ム26

すなわち、中国での戦争を続けながら、南方へ進出することが、大本営と政 府のあいだで決定されたのである。その「要綱骨子」は、同日の閣議で決定 された27

 8月1日、「基本国策要綱」が新聞に発表されることになった。

世界ハ今ヤ歷史的一大轉機ニ際會シ數箇ノ國家群ノ生成發展ヲ基調トス ル新ナル政治經済文化ノ創成ヲ見ントシ、皇國亦有史以來ノ大試練ニ直 面ス、コノ秋ニ當リ眞ニ肇國ノ大精神ニ基ク皇國ノ國是ヲ完遂セントセ バ右世界史的發展ノ必然的動向ヲ把握シテ庶政百般二亙リ速ニ根本的刷 新ヲ加へ萬難ヲ排シテ國防國家體制ノ完成ニ邁進スルコトヲ以テ刻下喫 緊ノ要務トス、依ツテ基本國策ノ大綱ヲ策定スルコト左ノ如シ

その「一、根本方針」。

  皇國ノ國是ハ八紘ヲ一宇トスル肇國の大精神ニ基キ世界平和ノ確立ヲ 招來スルコトヲ以テ根本トシ先ヅ皇國を核心トシ日滿支の強固ナル結 合ヲ根幹トスル大東亞ノ新秩序ヲ建設スルニ在リ

  之ガ為皇國自ラ速ニ新事態ニ即應スル不抜ノ國家態勢ヲ確立シ國家の 總力ヲ擧ゲテ右國是ノ具現ニ邁進ス28

 田代金宣はいう。「愉快だつたのは」発表されたこの「基本國策要綱」が「僕 等が一足先に具體的に着手した「出版新體制の趣旨」にピツタリと符合して ゐたことである29」と。

 8月15日、民政党が解党し、すべての政党は解党を終えた。以降、無政党 の状態となる。大政翼賛会は、10月12日に発足した。

(10)

 第12回日本英文学会は、10月12日と13日に早稲田大学で開催された。斎藤 勇会長は開会の辞で、会員中、一年間のあいだの応召者は25名、戦死者は1名、

と報告した30

 『英語靑年』10月15日号は、「緊急社告」を掲載した。

最近新聞雜誌類の用紙制限が益々強化されて參りました。そこで本誌 も進んで國策に沿ひ、用紙の無駄を省くため、十一月一日號(第八十四 巻第三號)より豫約制度を採ることになりました。卽ち今迄のやうに書 店に行けばいつにても買へるといふことでなく、豫約申込者のみに本誌 を頒つことになります31

41. 出版新体制―「出協雑協改組案」―

 7月26日、新聞雑誌用紙統制委員会の意向が、あらかじめ業者側に伝えら れた。奇しくも「基本国策要綱」が決定された、その日であった。この日、

内務省警保局図書課の國鹽事務官は、「東京出版協会」と「日本雑誌協会」

の代表を個別に招き、口頭で、「出版統制に關する當局の方針を傳達して至 急實行に着手を要望」32した。内務省の事務官國鹽は、委員会の幹事のひと りである。

 翌日27日、新聞雑誌用紙統制委員会の幹事会は、出版新体制案に関して、「官 聽側」の小委員会を設置することを決定し、以後、出版界改革案の審議は連 日のようにすすめられた33

 31日、「中等教科書協会」は、内務省の招命によって正副会長が出頭し、

國鹽事務官から当局の要望を受けた。記録によれば、要望はつぎのとおり。

豫て商工省より東京出版協會に對し商業組合設立の希望があり多少進行 せる模様なるも、企畫院方面としては配給統制物資確保と云ふ如き程度 には滿足せず日本の出版文化の新體制と云ふ見地より寧ろ現在の出協、

雜協、中協が解散して大同團結せられんことを要望する、中協がその團 体に加入しては存在の意義を失ふとか中協獨自の仕事が出來ぬとか云ふ

(11)

強い理由があれば敢て加盟せよとは云はぬが薄弱なる理由では困る、然 も今後防諜その他國家的指示事項は右の一元的協會に傳達するから加盟 した方が便利であらうと思ふ云々34

 翌日8月1日、中等教科書協会の正副会長は、文部省へ出頭し、この内務省 の要望について懇談した35。「基本国策要綱」が、新聞に発表された日のこ とである。

 8月3日、新聞雑誌用紙統制委員会は、東京出0版協0会と日本雑0誌協0会に関す る、「出協雜協改組案」を決定した。

 5日、内務省の國鹽事務官は、東京出版協会と日本雑誌協会の代表を再度 招致して、この改組案を示し、「現存の出版各團體を解消して強力なる出版 統制機關假稱出版文化協會を設立」して「高度國防國家の確立と日本新文化 建設のため、出版新體制の確立に對する當局の強乎なる方針を闡明して業者 の積極的協力を要望」36した。

 同日5日、中等教科書協会は、内務省から、出版新体制の団結に加盟する ことは差し支えない、新協会設立へ参加されたき旨の、文部省の意向を得る。

8日、同協会の正副会長は文部省に出頭し、松下発行課長と面会し出版新体 制について回答を得る。「内務省の意向は出版文化の新體制確立を目的とす るものなれば中等教科書協會も新協會設立に是非參加するやう希望する、但 し加盟するに當つては中等教科書の特異性を十分主張せられたし」と37。  内務省が8月5日に東京出版協会と日本雑誌協会に示した、新聞雑誌用紙統 制委員会の決定案、「出協雜協改組案」38は、つぎのとおり。

東京出版協會、日本雑誌協會は卽時解散し改めて社團法人出版文化協會

(假稱)に合流す その「目的」、

一、 用紙を一般出版業者に對し文化的見地から實情に卽し合理的に割當 するの任に當らしむること

(12)

二、文化的使命を積極的に擔當せしむること

三、 現在の書籍雑誌配給機構の缺陥を是正し圓滑なる配給を行ふの任務 を擔當せしむること

四、官聽との連携を緊密ならしむること

最後の項は、不釣りあいだが、もちろん、それが要であった。

 組織には「文化部」と「事業部」が置かれることになっていた。文化部は

「編輯に關し官聽との連絡を取り」、出版文化の向上策に関する政策、有料出 版物の出版と普及の助成、そして「無用出版物の自治抑制」を担う。事業部 は、書籍配給、用紙割当に関する事項を担当する。

 このとき、新しい組織が提示されていた。

「組織」の三、

書籍配給機構としては事業部の連絡下に新たに獨立したる書籍配給機 關を設立し出版業者取次業者の出資に依り之を一元的に經營す

 また、出版業者にとって最大の関心である「用紙配給方法」について、改 組案はいう。

一、 各出版業者の實績に基き之を審査して自治的に各出版業者の使用量 を決定すること

二、 決定されたる使用量に就ては出版文化協會に於て切符を發行し之に 依り出版業者は用紙販賣店より用紙を購入すること

そして、

三、 用紙の割當決定に關しては新聞雑誌用紙統制委員会に於て監督する こと

 「出協雜協改組案」は、文字どおりには、東京出版協会と日本雑誌協会に

(13)

たいするものであったが、中等教科書協会はもちろん、各地の出版社に及ぶ ものであった。さらに、示された「書籍配給機關」は、書籍の流通制度に及 ぶため、取次業者にとっては死活問題であった。改組案は、出版業者と取次 業者、それぞれの業界の方向を左右する。すべては、ここにはじまったので ある。

 のちに誠文堂新光社の小川菊松が記すところによれば、業界は7月26日の 申渡しには「何を云つてやがる」という気で、これまでに行われた内務省や 軍報道部の出版干渉に対する異議の申立てなどさえ持ちだされたほどであっ

たが、8月5日の新聞雑誌用紙統制委員会の決定事項の申渡しをうけて、「果然、

これは容易でないという緊迫感に包まれた」のであった39

 ただし、大手取次店の解体にいたる書籍配給機構の体制づくりにあたって、

情報部の田代金宣、内山賢治、商工省の樺島事務官、内務省の國鹽、正本ら の諮問に対して、専務倉本長治を通じて資料を提供することになるのは、他 ならぬ、小川菊松であった40

 8月10日、用紙を担当する商工省は、「洋紙配給機構整備要綱」を公布し、

同日施行された。この年の年間用紙供給量の削減を指示するものであった41。 さらに、8月31日、新聞雑誌用紙統制委員会は同月以降四半期の雑誌用紙使 用量の10%削減を決定し、商工省はこれを指示した42。日本雑誌協会の「陳 情書」は功を奏さなかったのである。

 この間、内閣情報部の改組が進んでいた。

 8月13日、「内閣情報部機構改革ニ関スル件43」が閣議で決定され、情報局 への途が開かれた。「内閣情報部ノ機構ヲ改メ外務省情報部、陸軍省情報部、

海軍省海軍軍事普及部及内務省警保局図書課ノ事務等ヲ統合シ情報竝ニ啓発 宣伝統一及敏活ヲ期スル」ための機構である。

 この日、8月13日、内閣情報部長熊谷が厚生省に移り、伊藤述史が後任となっ た。「伊藤部長は出版新體制に熱意を集注し、爾來終始僕等を督勵して來て くれた44」と、田代情報官は記す。田代たちの意気は揚がらざるをえない。

 8月19日、幹事会で決めた「出版新体制案」は、臨時の新聞雑誌用紙統制 委員会で承認され、「官民合同の出版新體制準備會をつくつて具體化にすす むことになつた」45

(14)

 この8月ごろ、田代によれば、「日本出版文化協會の成案は十月頃、配給會 社の方は翌昭和十六年の二月頃に造り上げるといふ胸算用だつた。商工省で は別にこの出版新體制に呼應して、用紙の生産元たる製紙會社を一元的に統 制するため、全國大小二百の製紙會社の統制機關洋紙共販會社をつくること になり、この方は九月中に出來るといふ見透しであった46。」

 事実、商工省は動いていた。同省は、8月22日、洋紙共販株式会社設立準 備会を主催し、全国から35社の代表が参加した47。田代のいう「九月中」と いう見透しは、少しばかりはずれたが、10月1日には定款48が整い、洋紙共 販株式会社が56社の出資によって11月30日に設立された49。出版のための洋 紙を供給する製紙業界の統制が確立されたのである。

 出版物の流通に関わる配給会社については、のちに見るように、その準備 委員会は10月から始まったものの業界は混乱し、翌年2月24日の設立委員会 でようやく結論をえた。日本出版配給株式会社の創立総会は5月5日50となる。

「二月頃に造り上げるといふ胸算用」ははずれたものの、遅れは二ヶ月である。

 注目すべきは、日本出版文化協会と連動する二つの統制機関が、いずれも、

ほぼその見透しと胸算用どおりに設立されたことである。しかも、内閣情報 部の機構改革が拍車をかけた。田代は記す。

内閣情報部の改組擴充問題も急に具體化し、十二月六日に陸軍、海軍、

外務、内務、逓信各省の情報宣傳啓發關係事務が一元的に統轄されて、

これまでの内閣情報部は「情報局」と昇格し、すつかり面目を一新した。

伊藤部長は親任官となりその親任式が當日擧行された。これまで勅任官 は定員二名だつた内閣情報部は急に大臣級の親任官を筆頭に五名の勅任 官を抱擁した。僕等の仕事も自然大變化を來して、これまで離ればなれ でやつてゐたのが、こんどは机を並べて一緒に仕事をやることになつた。

仕事が強化し迅速化して來た。甚だ結構なことである。僕等の出版新體 制運動は内閣情報部が情報局にならうとどうしようと一向動揺すること なく、むしろ積極的となつた。日本出版文化協會を社團法人として十二 月中につくらうとの議が具體化し、先づ創立総會の手續きを整へるため 會長と理事若干名を至急決定することにした51

(15)

 12月19日、会長には当初、「文化方面に理解の深い某侯爵」すなわち細川 護立を内定したが果たせず、公爵鷹司信輔52をおいて、社団法人日本出版文 化協会の創立総会が開催された。

 12月24日、第76回帝国議会が召集された。「近衛公を中心とする新体制運 動に応じて大政翼賛会の誕生を見、政党またこれに応じて伝統的歴史を一擲し て各政党とも解消し、ここに党派なき翼賛議会の出現となった」のである53。  年が終わろうとする28日、商工省令をもって、「洋紙配給統制規則」が公 布され、翌1月21日から実施されることになった54。これは、11月30日に創 立された洋紙共販株式会社の業務に関わるものであった。その業務は「法令 ノ定ムル所ニ從ヒ且政府指示ノ下ニ我國内ニ於テ生産スル洋紙ノ製造並販賣 ヲ統制シ以テ之カ配給ノ圓滑及價格ノ適正ヲ圖ル55」ことにあった。ここに いう「政府指示」とは、もちろん、日本出版文化協会の名において立案され、

情報局と関連官庁の決定によって行われるものであった。

 翌1941年。1月15日の『週報』に、田代は「發足した出版新體制―日本 出版文化協會創立す―」を寄せた。

昨年八月以來、情報局を中心に關係官民が相寄つて審議を續けてきた 歷史的な出版新體制組織運動は同年十二月十九日、社團法人日本出版文 化協會の創立によつて發足した。こゝに出版新體制の目的、内容等を記 述して國民各位の理解と協力とを期待する次第である56

その詳細な経過をのべて、彼は、こう結ぶ。

出版新體制は、情報局を主とする監督官聽の指導監督の下に、民間の 自主的統制指導團體たる日本出版文化協會が中核となつて具現化するわ けであつて、同協會の任務、情報局の責任は誠に重大といはざるを得な いのである57

 筆には隙がない。しかし明確である。「民間の自主的統制指導團體たる日

(16)

本出版文化協會」は、「[内閣情報部ついで]情報局を中心に關係官民が相寄 つて審議を續けてきた」結果、創立された。しかしながら、それは「情報局 を主とする監督官聽の指導監督の下に」ある。「民間の自主的統制指導團體」

を指導する「情報局の責任」がある所以である58

 田代はづづけていう。彼の視点は、あくまでも情報官のものである。

目下は戰時下當然の事柄として、出版物の糧かてたる用紙が頗る窮屈な狀態 にあり、勢ひ冗費排除の鐡則に基づき用紙の需給も統制し、これが生産 部面においても昨年十二月統制機關を確立した。今後、出版界は、その 製造原料たる用紙の統制から出版、配給、販賣―すなはち用紙製造業、

出版業、配給機關、小賣商と一貫して横にも縦にも隙す き ま間なく一元的に統 制されることになつたわけである。

出版界の一元的な統制の発端は、用紙の不足にあった。が、それは、発端に すぎない。

しかしながら、用紙の問題は考へやうによつては一時的現象とも言へる。

若しパルプ資源に不足を生じなくなれば統制の意義が薄くなる。

ということもできよう。だが、用紙不足の問題は、すでに、国をあげての新 体制運動のなかに取りこまれていたのだ。

出版新體制の要請の根本義は用紙の不足ではなくして、世界轉換に伴ふ

必然の歸き す う趨であること、前にも記したやうに日本國家の全的新體制要請

と全く軌を一にするものなのである。だから、出版新體制の眼目はあく まで「良書を安く全國民に普及する」ことにあらねばならない。從來の 書籍小賣商がその性格を一變して地方における出版文化の第一線的指導 者の役やくわり割を持たねばならなくなることなど、出版新體制下の顯著な新現 象であらう。

かくして、出版新體制は近く歷史的な巨歩を全國的に進めるであらう

(17)

が、問題はその時期にあるのではない。むしろその適てきせい正如何にある。そ れを思へば、出版新體制の重要性はすべて今後にかゝることが分るので ある59

 この1月15日付『週報』には、田代の記事につづいて、「戰陣訓」の全文が おかれた。その前書き。

皇軍將兵が座右において實踐すべき「戰陣訓」を陸軍省で制定、一月八 日全軍に示達した。その訓へる所は則ち銃後國民の心とすべきものであ るから、以下にその全文を掲げる60

たとえば、「本訓其の二」から。ルビは省略。

第七 生死観 

  死生を貫くものは崇高なる献身奉公の精神なり。

   生死を超越し一意任務の完遂に邁進すべし。

   身心一切の力を盡くし、從容として悠久の大義に生くることを悦び とすべし。

第八 名を惜しむ

   恥を知る者は強し。常に郷黨家門の面目を思ひ、愈々奮勵して其の 期待に答ふべし。

  生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を殘すこと勿れ61

 この号の『週報』の特輯は、文部省による「國民學校制の解説」であった。

その「國民學校制の根本趣旨」にいう。

今囘實施しようとする國民學校制の根本精神は、國體明徴に基づくわ が國獨自の教育制度の確立にあるのであつて、具體的には、國民全般に 對する基礎教育を擴充整備して、國運進展の根こ ん き基を培ばいやう養するため、義務 教育年限六年を八年とし、他面、皇國の道に則のつとつて、教育の内容に根本

(18)

的刷新を加へ、教材を統合して、皇國の道の修練に歸一せしめ、教育の 徹底を圖り、國民精神の昂揚に努め、知徳、心身を一體として國民を 錬れんせい

成し以て内に國力を充實し、外そとに八紘一宇の肇國の精神を顕現すべき 次代の大國民を育成しようといふ點にあるのである62

 「國民學校令」は、3月1日に公布され、同4月1日より施行されることになっ た。「第一章 目的」、その第一条。

國民學校ハ皇國ノ道ニ則リテ初等普通教育ヲ施シ國民ノ基礎的錬成ヲ為 スヲ以テ目的トス63

 14日、「國民學校令施行規則」が公布され、4月1日から施行された。「総則  第一条 三」。

我ガ國文化ノ特質ヲ明ナラシムルト共ニ東亞及世界ノ大勢ニ付テ知ラシ メ皇國ノ地位ト使命トノ自覺ニ基キ大國民タルノ資質ヲ啓培スルニ力ム ベシ64

 『新領土』1941年3月号の「囲繞地」が、鮎川の最後の作品となった。その 結び。

知識があなたを盲ひにした

街の雜音はあなたの耳を不注意にした

だがあなたは僅かに口を利くことが出來る筈だ

(まだ見ねばならぬ まだ聞かねばならぬ)65

 4月、「小学校」は「国民学校」となった。一年生の修身教科書から。

日本ハ、春夏秋冬ノ ナガメノ美シイ國デス。

山ヤ 川ヤ 海ノ キレイナ國デス。

(19)

コノ ヨイ 國ニ 私タチハ 生マレマシタ。

オトウサンモ、オカアサンモ、コノ國ニ オ生マレニ ナリマシタ。

オヂイサンモ、オバアサンモ、コノ國ニ オ生マレニナリマシタ。

 日本 ヨイ國、キヨイ國。世界ニ 一ツノ 神ノ國。

 日本 ヨイ國、強イ國。世界ニ カガヤク エライ國66。  奈切哲夫は、春をむかえた。『新領土』5月号、「地理 五月」欄。

花が咲いてゐるから春に違ひない。ざわめき乍ら生れ變つてゆく日月 の中で人たちは偶然に會ひ、そして必然のやうに別れてゆく。今朝は冷 たいがしかし冷たさの中にもしみじみ味へば詩の音がある。騒音の中で の花の色は赤でもなく白でもなく、又靑でもない。一個の美しい生き物 であり、ペン先から流れ出るインキすらも何かの長くて盡きない哀しみ である67

 

この号に村野四郎は「楕圓形の春」と題して、詩を二つ寄せた。そのひとつ。

花はすつかり散つて了つた ふるへる若嫩が

受胎した蕾たちの生理を隠してゐる けふの新しい蔭

その靑い翳かげの中で 古い幹は沈黙し

ひつそり歷史のやうにひねくれてゐる

ゲンゲ畑は

一枚の手巾のやうに乾く 果樹園を出る

ムギワラ帽子は熱く 園丁の大きい掌が焦げる

(20)

かくして田園の 泡だつ政治のかげへ 昨日の鶯の

弱々しい聲は沈んだ68

 池田時雄は、戦地から近況を寄せた。

 内地は櫻も散らうといふこの頃、やうやく春が訪れて參りました。支 那の農夫たちも新しい今年の耕作に黙々と働きはじめました。雲雀が故 國と變らぬ聲で鳴いてをります。耕地の中を流れるクリイクの水に涼し さを感じる日も近いでせう。

 最近本を讀むチヤンスも殆んどありませんが、この頃考へてゐること は、今迄と違つた「ひとの心に訴へる」詩が書きたいといふことです。

戰爭がかへたことかも知れませんが、これは果して退歩でせうか。

 もうすぐこちらにも夏が參ります。北支の春の短かさはおどろく程で す69

詩誌『新領土』は、この5月号をもって終刊となった。

1 本稿は、拙稿「鮎川信夫と『新領土』(その)」『言語文化』第2巻第4号(2000

年3月)、491-532、「鮎川信夫と『新領土』(その)」『言語文化』第3巻第4号(2001 年3月)、497-554、「鮎川信夫と『新領土』(その)」『言語文化』第4巻第1号(2001 年8月)、89-178、「鮎川信夫と『新領土』(その)」『言語文化』第5巻第2号(2002 年12月)、231-274、「鮎川信夫と『新領土』(その)」『言語文化』第6巻第1号(2003 年8月)、1-90、「鮎川信夫と『新領土』(その)」『言語文化』第7巻第1号(2004 年8月)、1-56、「鮎川信夫と『新領土』(その)」『言語文化』第7巻第号(2005 年3月)、415-482、および、「鮎川信夫と『新領土』(その)」『言語文化』第8巻 第1号(2005年8月)、117-138を受けている。

2 池田時雄「最後の頌歌 XVII」『新領土』第6巻第36号(1940年4月1日)、331。

(21)

末尾に「1940. 1. 8」と記載。

3 「池田時雄年譜」『海と貝殻(再版作品1933-1935)』(BOHEMIAN CLUB、1986年 7月15日)、70頁。

4 小島新生編纂『出版新體制の全貌』(出版タイムス社、1941年7月18日);奥平康

弘監修『言論統制文献資料集成 12』(日本図書センター、1992年)所収、3頁。

5 小島新生編纂『出版新體制の全貌』、9頁。

6 荘司徳太郎・清水文吉編著『資料年表 日配時代史―現代出版流通の原点』(出

版ニュース社、1980年)、6頁、および、小川菊松『出版興亡五十年』(誠文堂新 光社、1953年8月、復刻版:誠文堂新光社、1992年)、453-454頁。小川の記述に も触れた詳細は、荘司徳太郎『私家版・日配史 出版業界の戦中・戦後を解明す る年代記』(出版ニュース社、1995年)、84頁。

7 1940年2月29日付「鈴木庫三日記」佐藤卓己『言論統制―情報官・鈴木庫三と 教育の国防国家』[中公新書 1759a](中央公論新社、2004年)、306-307頁。

8 佐藤卓己『言論統制』、307頁。

9 田代金宣『出版新體制の話』(日本電報通信社出版部、1942年2月1日)、7頁。

10 「内閣に用紙統制委員會新設 制限更に強化」『東京朝日新聞(夕刊)』(1940年5 月18日)、第1面。

11 「新聞雜誌用紙統制委員會設置理由」および「諒解事項」、「新聞雑誌用紙統制委 員会ヲ設置ス」アジア歴史資料センター:【レファレンスコード】A02030164500。

12 「新聞雜誌用紙統制委員会設置 新聞雜誌用紙統制委員会規定」および「新聞雜 誌用紙統制委員会委員、幹事任命、嘱託」『官報』第4011号(1940年5月23日)、

924、および、田代金宣『出版新體制の話』、7頁。

13 田代金宣『出版新體制の話』、7頁。

14 佐藤卓己『言論統制』、308頁、および、同頁、1940年5月20日付「鈴木庫三日記」。

15 田代金宣『出版新體制の話』、8頁。

16 「内閣情報部分課規定(昭和十五年六月一日施行)」および「内閣情報部事務分 掌区分」奥平康弘監修『戦前の情報機構要覧 言論統制文献資料集成 20』(日本 図書センター、1992年)、98-103頁。

17 田代金宣『出版新體制の話』、8-9頁。 

18 鮎川信夫「形相」『LE BAL』第24輯(1940年8月1日)95。末尾に「6.15.1940」

と記載。

19 1940年6月17日付「鈴木庫三日記」、佐藤卓己『言論統制』、310頁。

20 「新聞雑誌用紙配給ト言論報道政策トノ調和」『戦前の情報機構要覧』、209頁、

および、「新聞雑誌用紙統制委員会委員長報告新聞雑誌用紙配給ト言論報道政策 トノ調和及新聞用紙統制要綱」国立公文書館デジタルアーカイブ:【Identifier】纂 02502100-00700。

21 日本雑誌協会「陳情書(昭和十五年七月付)」日本雑誌協会史編集委員会編『日

(22)

本雑誌協会史 第一部 大正・昭和前期』(日本雑誌協会、1968年9月1日)、380頁、

および、「さらに新聞用紙の制限強化、最高一割」『東京日日新聞』(1940年6月29 日)、『昭和ニュース事典 第7巻』(毎日コミュニケーションズ、1994年)所収、

286頁。

22 日本雑誌協会「陳情書(昭和十五年七月付)」、380-381頁。

23 「官庁の出版物も統制、用紙難に対処」『東京朝日新聞(夕刊)』(1940年7月4日)、

『昭和ニュース事典 第7巻』、268頁。

24 1940年7月3日付「鈴木庫三日記」、佐藤卓己『言論統制』、306-307頁。

25 内川芳美「解題 昭和前期マス・メディア統制の法と機構」『現代史資料 40  マス・メディア統制 』(みすず書房、1973年)、xxvi頁。

26 「世界情勢ノ推移ニ伴フ時局処理要綱 昭和一五、七、二七 大本営政府連絡会 議決定」『重要国策決定綴 巻一』、「大本営政府連絡会議・大本営政府連絡懇談会」:

「インターネット特別展 公文書による日米交渉―開戦への経緯―」アジア 歴史センター:<http://www.jacar.go.jp/nichibei/djvu/reference_index12_02/index.

djvu2008年10月現在。

27 「世界情勢の推移に伴う時局処理要綱骨子」国立公文書館デジタルアーカイブ:

【Identifier】平11法務03194100-02500。

28 「基本国策要綱(昭和一五、八、一 新聞発表)」企画院「基本国策要綱(昭和 16年7月)」アジア歴史センター:【レファレンスコード】A06033004700。

29 田代金宣『出版新體制の話』、9頁。

30 高村忠明「日本英文学会五十年の沿革・年譜」『日本英文学会五十年小史』(日 本英文学会、1978年)、175頁。

31 「緊急社告」『英語靑年』第84号巻第2号(1940年10月15日)、63。

32 小島新生編纂『出版新體制の全貌』、9頁。

33 同上、9頁。

34 「年次紀要」中等教科書協會編纂『中等教科書協會有終史』(中等教科書協會、

1941年6月30日)、285-286頁。

35 同上、286頁。

36 小島新生編纂『出版新體制の全貌』、10頁。

37「年次紀要」『中等教科書協會有終史』、286頁。

38「出協雜協改組案」小島新生編纂『出版新體制の全貌』、10-13頁。

39 小川菊松『出版興亡五十年』、450頁。

40 同上、453頁。

41 「年表」荘司徳太郎・清水文吉編著『資料年表 日配時代史―現代出版流通の 原点』、(6)、および、岩波書店編『岩波書店八十年』(岩波書店、1997年)、207頁。

42 岩波書店編『岩波書店八十年』、207頁。

43「内閣情報部機構改革ニ関スル閣議決定」『戦前の情報機構要覧』、181頁。

(23)

44 田代金宣『出版新體制の話』、11頁。

45 同上、11頁。

46 田代金宣『出版新體制の話』、11頁。

47 「年表」荘司徳太郎・清水文吉編著『資料年表 日配時代史―現代出版流通の 原点』、(6)。

48 「洋紙共販株式會社」「出版關係官廳・團體要覧」共同出版社編纂部『日本出版 年鑑(昭和十八年度版)』(共同出版社、1943年12月6日);奥平康弘監修『言論統 制文献資料集成 12』所収、1038頁。

49「年表」『王子製紙社史 本編』(王子製紙株式会社、2001年)、524頁。

50 小島新生編纂『出版新體制の全貌』、240頁。

51 同上、26-27頁。

52 同上、27頁、および、小島新生編纂『出版新體制の全貌』、100-101頁。

53 「初の翼賛議会召集される」『朝日新聞(夕刊)』(1940年12月25日)、『昭和ニュー ス事典 第7巻』493頁。

54 「用紙配給統制規則を公布」『朝日新聞』(1940年12月28日)、『昭和ニュース事典  第7巻』、668頁。

55「洋紙共版株式會社業務要綱」田代金宣『出版新體制の話』、239頁。

56 [田代金宣]「發足した出版新體制―日本出版文化協會創立す―」情報局編輯

『週報』第223号(1941年1月15日)、21。無署名だが、田代の筆になることは、田 代金宣『出版新體制の話』、28-29頁。この稿は、田代金宣『随記 變わる時世』(六 盟館、1942年12月15日)、282-289頁に再録。

57 同上、26。

58 田代のいう情報局の「責任」は、[情報局内部資料]「情報局ノ組織ト機能(昭 和十五年十二月)」『戦前の情報機構要覧』、207頁の、「出版新体制の監督、指導 系統」によれば、さらに明確である。

イ)日本出版文化協会 この協会の主務監督官庁は情報局である。情報局部 内では、第二部第二課が之に当る。日本出版文化協会で立案する出版業者へ の用紙割当は新聞雑誌用紙統制委員会で最後の決定を為す建前であるが、こ の委員会は情報局内に在り、その専務は矢張り第二部第二課で処理する。出 版物の内容審査は重大案件であるが、これも日本出版文化協会の内容審査機 関(文化局、出版文化委員会等)と情報局、内務省、文部省等関係官庁と連 絡協議して万全を期することになっている。

59[田代金宣]「發足した出版新體制―日本出版文化協會創立す―」、26。

60[まえがき]「戰陣訓」『週報』第223号、27。

61「戰陣訓」『週報』第223号、30。

62 文部省「國民學校制の解説」『週報』第223号、41。

63 「國民學校令(昭和十六年勅令第一四八号 三月一日公布・四月一日施行)」『官

(24)

報』第4243号(1941年3月1日)、2。

64 「國民學校令施行規則(昭和十六年三月十四日文部省令第四号 三月十四日公布・

四月一日施行)」『官報』第4254号(1941年3月14日)、479。

65 鮎川信夫「囲繞地」『新領土』第8巻第46号(1941年3月1日)、180。

66 「日本の國」『ヨイコドモ下』入江曜子『日本が「神の国」だった時代 国民学 校の教科書をよむ』[岩波新書 赤版764](岩波書店、2001年)、99頁。

67 奈切哲夫「地理 五月」『新領土』第8巻第48号(1941年5月1日)、31。

68 村野四郎「楕圓形の春」『新領土』第8巻第48号、12。

69 池田時雄「地理 五月」『新領土』第8巻第48号、30。

Nobuo Ayukawa and Shin-Ryodo (9)

Akira NAKAI

Keywords: Publishing business in 1940, the “Paper Control Committee on Newspapers and Magazines”, the “Japan Culture Association of Publishers”, the “New Order” of Konoe Cabinet

Shin-Ryodo came to an end by the May-number of 1941. There was, in the background, an unprecedented scale of reformation in the publishing business, not to mention of a tightening censorship. Present paper traces the period from the installation of the “Paper Control Committee on Newspapers and Magazines,” in the Cabinet Intelligence Committee, on the 17th of May 1940, to the foundation of the “Japan Culture Association of Publishers” on the 19th of December. The association was to be put under the supervision of the Intelligence Bureau, established on the 6th of the same month.

In the spring of 1940, the Archives Division of Home Office, finding that publishers were unable to cope with the shortage of paper, began drafting on

(25)

their part a proposal for an integrated body. Based on the proposal the Paper Control Committee started its mission in May.

On the 26th of July, the representatives of the Tokyo Book Publishers Association and the Japan Magazine Publishers Association were called in to the Home Office and informed about the outline of the forthcoming plan.

It happened to be the same day the Konoe Cabinet agreed on the “Basic Guideline for National Policy”, due to be publicised on the 1st of August.

On the 3rd of August, the Paper Control Committee outlined a plan that the two associations be disbanded to incorporate as a “Japan Culture Association of Publishers.” Two days later, on the 5th, the Office called them in again to present the plan as final, and “requested” their cooperation.

The objectives of the association read: to allot paper quotas among its members in accordance with a project’s cultural importance; to carry out a mission as cultural mentors; to take responsibility for smooth and efficient circulation of books and magazines, re-structuring the existing distribution system; and last but not least, to work in full cooperation with the government agencies concerned.

The associations concerned found the Committee determined, and, ten days later, on the 15th, decided to dissolve. The others in Tokyo and other regional cities followed suit. It is remarkable that it took less than a month to get to the first stage. A working committee was set up, as scheduled, on the 6th of October. The committee, comprised of twenty-three representatives of publishers and ten government officials, including the two from military, first met on the 11th to pave the way towards its goal.

In the meantime the Ministry of Commerce and Industry, together with the Paper Control Committee, was working on the supply side of paper.

On the 22nd of August, a meeting of paper manufactures was held to constitute a new integrated body. The Combined Paper Sales Company was established on the last day of November.

As to the distribution system, the executive meeting of the Paper Control

(26)

Committee, started to draft another unified body in mid September. The plan was to have far-reaching effects on wholesale dealers and general retailers. The Japan Book Distribution Company was founded, two month behind the schedule, on the 5th of May, and started its business the next month.

Thus, while Shin-Ryodo was deteriorating, the New Order in publishing business was ready to exert its full power. Paper became available only when a publisher was admitted as a member of the Japan Culture Association of Publishers. What is more, there was no way to purchase its allotted paper other than from a member of the Combined Paper Sales Company. And, books and magazines were distributed by the Distribution Company only when its publisher was registered as such.

参照

関連したドキュメント

[r]

Later, Iwahashi returned to Japan to become a teacher at Kwansei Gakuin University and devoted his life for the welfare and enlightenment of the blind and visually impaired..

A part of the Tamagawa-Josui was broken by the 1921 Ryugasaki earthquake that occurred in the southwest part of Ibaraki prefecture and caused water outage on Tokyo for three

Some artists have also depicted themselves within the landscape, whether showing themselves painting or walking, and that means that there have been two types of viewpoints,

The outline of the deliberation process and contents of the Master Plan advanced with such a rapid pace is outlined from the viewpoint of harmony with thoroughness of

In the latter half of the 3rd period, which the author feels inclined to characterize as a overblown time, studies and reports much increased in several branches,

The copyrights of content available on the KeiO Associated Repository of Academic resources (KOARA) belong to the respective authors, academic societies, or

Introducing Isherwood’s “The War in China,” (NSN, 25 June 1938) in its September issue, Haruyama noted that those “champions of modern literature” now in Hankou were