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鮎川信夫と 『新領土』 (その4)

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(1)

鮎川信夫と 『新領土』 (その4)

著者 中井 晨

雑誌名 言語文化

巻 5

号 2

ページ 231‑274

発行年 2002‑12‑31

権利 同志社大学言語文化学会

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000004388

(2)

鮎川信夫と『新領土』 (その4)

1

中 井   晨

15. 1939年の晩秋

1939年の秋、鮎川が贔屓にしていたベティ・デーヴィス主演の『黒蘭の女』

が上映された。のちに彼が記すところによれば、「これが最後と思い、封切 りに駆けつけた」のである。鮎川にとってはアメリカ映画の「見収め」2の 気持ちであった。かつて『モダン・タイムス』を観た新宿の武蔵野館であれ ば、その封切りは11月8日3のことであった。この日、彼は観客とともに、ニ ュース映画も観たはずである。4月に公布された映画法が10月1日に施行され ており、外国映画の上映制限とともに、文化映画とニュース映画の上映を義 務づけていたのである。日支事変下のニュースに加えて、8月末の独ソ不可 侵条約、つづく9月の英仏対独宣戦以降の映像も、検閲済みのものが、映し だされたかもしれない。

この年、鮎川は19才。予科の学生であった。他方、春山行夫は、37才。働 き盛りであった。彼は詩誌『新領土』の主要メンバーであるばかりか、総合 文化雑誌『セルパン』の編輯長であった。

編輯者の日常は読書人とは決定的に異なる。「雜誌の編輯者には、締切り といふどうにもならない難關が控へてゐて人知れぬ苦心がある」4のだ。か つて、春山が記したところによれば、『セルパン』は「十九日の夜か、廿日 の朝全國の店頭に現れるが、校了にして印刷を終へるのはその一週間もまへ」

である。もちろん、各号の企画がこれに先立つ。それにしたがって、前月の

「二十日頃までに大體の原稿を依頼してしまふ」のである。この年もこのス ケジュールで刊行されていたと考えてさしつかえない。

奥付は各月の「一日発行」とされているが、『セルパン』が実際に読者の

「言語文化」5-2:231−274ページ 2002.

同志社大学言語文化学会©中井 晨

(3)

手に届くのは前の月の20日頃であった。しかしながら、現場では、発売日の 一週間前、すなわち、13日前後に印刷を終えねばならない。新聞紙法5によ って、印刷と同時に、内務省に二部、管轄地方官庁、地方裁判所検事局、お よび、区裁判所検事局に各一部を納めることになっていたからである。奥付 の「十五日印刷納本」は実際のデッド・ラインであった。その後、書籍配給 会社を経て店頭に並ぶのである。前月の20日頃に原稿依頼をすませてから読 者の手に渡るまで、4週間。ただし、原稿を入手して誌面づくりを終え、入 稿し校了・印刷となるまで、実質は3週間であった。「執筆者の椅子」は、毎 号の編輯意図と執筆者を紹介することになっていたから、20日以降に書くこ とができる。他方、編輯後記、すなわち「編輯者の角度」は、入稿直前、あ るいは、追い込みで書かれたものである。

『セルパン』は国内の時事的なものにかぎらず、海外の文化、社会、経済、

政治さらに思想についての情報を売り物にしていた。また、小さな時事的な 記事は、スクラップ帖として「雄鳥通信」欄に紹介された。これらの主たる 情報源は海外の新聞や週刊誌、そして月刊誌、季刊誌であった。海外の文芸 状況についても同様であった。ただし、遠隔地からの情報には、もちろん、

時差が生じる。春山は、「締切りといふどうにもならない難關」のみならず、

最新の情報が海外から到来する時間とも闘っていたのである。

1939年の秋。10月20日に発売された『セルパン』11号は、特輯に「獨ソ協 定の批判」を組んだ。そのひとつ「地理政治學と獨ソ協定」は、8月27日付

『ニュー・ステイツマン・アンド・ネイション』の記事であり、23日に結ば れた同協定へのすばやい反応であった。特輯はさらに、大戦勃発に際しての 各国の宣言を紹介した。そして、同号の「雄鳥通信」もまた「大戰特輯」と して海外の新聞雑誌から8月から9月に至る激動期の記事を紹介した。

春山は「編輯者の角度」にその間の事情について、このように記している。

ここにいう「この八日」とは、10月8日のことである。

八月廿七日號かぎりで來なくなつたイギリスの『N・ステイツマン』

(週刊)の九月十六日號が、ひよつこりとこの八日に到着した。スカン デイナヴイア廻りでシベリア線に連絡されるといふ噂であつたが、それ

(4)

が實現したものらしい。かなり疲れて

、、、

、皺だらけになつてゐる。宣戰直 後の九月二日と九日の號はカナダ廻りにでもなつたものか未だ届かな い。或ひは潜水艦にやられて海底に沈んだのかも知れない6

春山が信頼を寄せていた『セルパン』の重要な情報源のひとつ、ロンドンか ら土曜日に刊行される週刊誌の9月16日号は、「ひよつこりと」翌月8日に東 京に到着した。その間、3週間。それでも良しとしなければならない。だが、

この日は、入稿直前であった。もし、「皺だらけ」の誌面に重要な情報を見 つけて急遽掲載するとしても、翻訳の作業が必要である。よほどのことがな いかぎり、つぎの号で扱わざるをえないであろう。とすれば、9月16日号の 情報が読者の眼にとまるのは、11月20日に発売される『セルパン』12月号と なる。その間、さらに6週間以上の遅れを加えて10週間となる。情報の到着 日は、そのまま編輯現場でのさらなる時間差をうむのである。幸いなことに、

8月27日号は順調に届いており、10月20日発売の11月号で「地理政治學と獨 ソ協定」となった。その間は、およそ7週間であった。これも良しとしなけ ればならない。しかしながら、春山のいらだちを思うべきである。独ソ協定 についで、ヨーロッパの地理に、宣戦布告という新たな政治状況とともに英 仏が重ねられたのである。彼は到着を待ち切れぬ思いで『セルパン』の編輯 にあたっていたのだ。その春山の身辺は慌ただしくなっていた。日本雑誌記 者団満州国調査隊の一員として旅立つことになったのである。

春山が『新領土』の同人たちに見送られて東京駅を発ったのが10月26日午 前7。次号、12月号『セルパン』の編輯手配を済ませてのことである。その 特輯は「世界とアメリカの動き」であった。出発を控えて書かれた「執筆者 の椅子」にいうように、「今次大戰で最も注目すべきは、ルーズベルトのア メリカ合衆國の動向」であった。その大統領が「遂に中立法を修正し、事實 上英佛側を援助するに至つた」8からである。

鮎川がアメリカ映画はこれから見られなくなるだろうと思いこんだのは、

日支事変以降の為替制限による外国映画の制限に加えて、一連の欧州の動乱、

さらに、アメリカの動向を察知してのことであったかも知れない。『黒蘭の 女』はそのような背景を担わされていたのである。しかも、事変が勃発して

(5)

からすでに2年以上が経過していた。鮎川にとって、あこがれのアメリカ女 優の姿を眺めることはささやかな贅沢であった。

その頃、一方の春山は、下関経由で新京に到着し、5日間の滞在のあと、

11月2日、ハルビンへ向かう。翌3日、ハルビンで書かれた編輯後記「編輯者 の角度」は、留守中の第一書房に届き、『セルパン』12月号に掲載されるこ とになった。原稿が到着したのは10日前後のことであろう。ぎりぎりで印刷 にまにあうという、綱渡りであった。

大陸からの春山の第一報は「新京は世界で最も政治がさかんに論じられて ゐるところでないかと思ふほどであつた」とはじまる。

新京はまだ世界で最も新しい首都で、見渡す限り廣々した高原に大き な政府機關が立つてゐる。一九三九年のドノゴ・トンカである9

ジュール・ロマンの主人公、地理学者トルデアックが訪れた架空の都市ドノ ゴ・トンカ10は満州国に実在した。長春は1932年に満州国の新しい首都、新 京と名を変えて、春山たちの現前に、まさしく新領土の首都として屹立して いたのである。

この年初夏に大陸開拓文芸懇話会のペン部隊11の一員として新京を訪れた 伊藤整も、同じような印象を記していた。

道路は鋪装して出來あがつてゐるのだが、この大きな平地には、まだ 都市そのものは出來てゐない。この大街路を中心に、まはりには同じや うな街路が縦横にのびてゐるが、見える建物は、東京の議事堂にやや似 てゐる國務院をはじめ、九段の軍人會館に似たやうな半ば東洋風な大き なビルデイングが幾つか怪物のやうに、平原の都市のあちこちに蹲つて ゐるのだ。(以下略)

これらのビルデイングは、平原の中だから裾から全體が地面に浮かん で、それぞれ特色を全部表現してゐる。首都の大きな力を象徴的にあら はしてゐる感じがする12

(6)

ただし、旅行中の春山には、足らないものがあった。海外の情報である。

新聞は毎日拾ひ讀みしてゐるが、海外の新聞を讀むことができないの で、なにか物足りない。これは歸京してから追ひつくことにしなければ ならない13

東京を離れて旅の8日目。春山にとって海外の新聞や週刊誌を読むことは、

たんなる知識を求めることにとどまらず、編輯者としての仕事であったのだ。

ハルビンで調査隊とわかれ、大連ついで旅順、さらに各地14を訪れて、春 山が33日の旅を終えて帰京したのが11月23日の夜である。帰京後、ただちに

『セルパン』1940年新年号の編輯の仕事が待ちかまえていた15。「二千六百年 の課題」を巻頭においた同号の特輯が「戰時下の世界文化」である。

その特輯の情報源のひとつが、『ニュー・ステイツマン・アンド・ネイシ ョン』10月7日号である。この号がロンドンから何らかのルートを選びなが ら到着したのは、春山が出発した10月26日以降11月23日に帰京するまでの一 ヶ月の間16のことであった。春山はここに掲載された記事を眼にし、新年号 の『セルパン』に掲載されることになったのである。

セシル・コノリイ、正しくはシリル・コノリイ「文學者は何を書くべきか」17 がそれである。出典は記されていないが、10月7日号の記事、Cyril  Connolly, The Ivory Shelter 18である。春山は、宣戦が布告されて「しばらくしてオー デンとイシヤウツドがニユウヨオクに移住したという報道がはいつた」19

『新領土』翌年2月号に記すが、この記事もまた、二人の詩人の近況を伝える ものであった。10月7日号の週刊誌が東京に到着し、その記事が抄訳作業と 編輯作業を経て、12月20日に書店に現れるまでの期間は、およそ11週間。だ が、2頁にも足りない記事にコノリイが伝えるオーデンの動向は、『セルパン』

にとっては一種のスクープであった。「ニュー・カントリー派」のヒーロー、

『新領土』が精力的に紹介してきたあの、オーデンが国を捨てたのである。

8月23日の独ソ協定、ついで、9月3日のドイツへの宣戦布告と急激に展開 した状況を踏まえて、10月7日、コノリイはいう。「數週間のあひだに、二つ の専制主義が廢止され、イギリスの藝術家の多數を拘束してゐた桎梏が除去

(7)

され」て、彼らは「反フアシズム的活動の重荷とコミユニズム贔屓の意見」

から解放された。そして、戦争がはじまったいま、芸術家に発言の余地はな い。「フアシズムに對する戰ひは、參謀本部の手に委ねられ、小豫言者たち の必要がなくなつた」20のである。

コノリイはいう。このような状況にたち至ったいま、

私が作家に與へ得る忠告は、……から手を引けといふことである。彼等 が書き得るものは、……を勝利に導くにはたいした役割を演じないであ らう。(小略)反フアシズムが政府の公認政策となつた現在、その言葉 は全く無用の長物となつてきた21

伏字は原文では「戦争」である。コノリイは、 keep  off  the  war つまり

「戦争」に関与するな、と忠告するのである。思い起こせば、「過ぐる世界大 戰のあひだ、逃避家たち (the  escapists) は文學上のルネッサンスを維持した」

のである。作家は「戦争から手を引」くべきである。

例へば、急進的な二人の豫備軍曹のオーデンとイシヤーウツドがどこ へ行つたかを考へて見給へ。これまで彼等が盛んに攻撃してきた人々の 多くが「今日の闘爭」に參加しつつあるとき、嘗てのベルリン、バルセ ロナ、揚子江に於けるこの二人の古兵は、現在のヨオロツパの戰爭がま るで地方的で取るに足らないものであるかのやうに、永久にアメリカに 定住してしまつた。

かつてオーデンは to-day  the  struggle と「今日の闘爭」を呼びかけたが、

ヨーロッパがソ連と協定を結んだドイツとの戦場となったいままさに、その オーデンが「逃避」したのである。

この記事は、オーデンたちのアメリカ定住を伝えるニュースであったばか りか、おそらく最も早くわが国に紹介された、オーデン・グループの転向を 伝え、それを是認するものであった。

(8)

しかしこの點で彼等を責めてはならない。明日の平和主義者が今日の 戰闘家になるやうに、戰闘家はまた……になるものである。人生を愛し 理解しようとする欲望が、人生を變革するために戰はうとする野心に代 つて來る。

かつての「戰闘家」は「……」、すなわち「平和主義者」となった。政治が 無力であることが明らかになり戦争がはじまったいま、詩人の内部こそが描 かれるべきなのだ。

コノリイは結びにいう。

……は文明の尻尾に結び付けられたブリキ罐であり、それはまた藝術家 に最上のもの以外のものを我々に與へさせないやうにする一つの機會で ある22

原文を添えなければ伏字の部分は理解できないであろう。

War is a tin-can tied to the tail of civilisation, it is also an opportunity for the artist to give us nothing but the best, and to stop his ears.23

コノリイにとっては、その表題 The  Ivory  Shelter が暗示するように、戦 争に関与せず耳をふさぎ、文学の搭へと逃避することが肝要であった。

オーデンの転向を是認するコノリイの背後には、明らかに、独ソ協定によ る左翼陣営の混乱と、戦争勃発の衝撃があった。彼らは「反フアシズム的活 動の重荷とコミユニズム贔屓の意見」から解放され、「フアシズムに對する 戰ひは、參謀本部の手に委ねられ」たのである。残されたものは芸術しかな い。「文學者は何を書くべきか」は抄訳であり、30年代、とりわけスペイン 内乱に投影されたコミュニズム志向への具体的な総括は省略されている。そ れでもなお、「……の方法(Communist  methods)」「……の活動(Communist action)」「……の價値(Communist  values)」「……な運動(Revolutionary movements)」に訣別するコノリイの立場は読みとれる。政治を奪われ、戦

(9)

争が軍人に委ねられた以上、「戰闘家」としての作家は「平和主義者」とな らざるをえないのである。

コミュニズムと革命思想が否定的な文脈で語られているにもかかわらず、

これらが伏字とされていことは、当然の配慮であったとはいえる。しかし、

注目すべきは他の伏字である。「戦争から手を引け」という忠告、作家が何 を書いても「戦争を勝利に導く」ことはできぬという立場、そして、「戦争 は文明の尻尾に結び付けられたブリキ罐」であるとして文学に専念する立場 は、紀元二千六百年を迎えようとする1939年晩秋の「時勢」にふさわしくな いものであった。戦争から逃避する「平和主義者」も同断であった。

すべては、戦争へ向かっていた。伏字はこの時勢を配慮する訳者あるいは 編輯長の立場を反映していた。さらにまた、この年8月15日に東京詩人クラ ブが『戰爭詩集』を刊行したように、詩人たちもまた「明日の平和主義者が 今日の戰闘家になるやうに」戦争の貫徹へと、いやおうもなく、進みつつあ ったのである。戦闘家ですらない鮎川たちにとっても、森川義信が唄ったよ うに、1939年の秋、「季節はすでに終りであつた」。

16.  時空の瓶の底

19才の鮎川はまだ大学予科にいたが、この1939年春、映画法の公布と同じ く、4月から大学では軍事教練が必修となっていた。国家総動員法にもとづ き、国民徴用令24が7月8日に公布され、ただちに、15日に施行された。大学 生はまだ免除されていた。だが、文部省は「學生生徒」の夏期休暇も「從來 の業を休む觀念を改訂して鍛錬期」25と位置づけた。6月10日26のことである。

『セルパン』7月号、金子鷹之助によれば、「學生の休暇は頭腦を一新する こと、見聞を博めること、肉體を鍛錬すること等のためにある」のだから、

「集團勤行は是非とも一週間」は必要である。それは「精神と肉體との鍛錬 が一緒にできること、時局の認識を深めること等に大切である。これからは 文字通り國民皆兵になるのだから、運動選手の合宿訓練のやうに明朗にこの 準備をやつておく必要がある」27のである。大学で教える金子は提案する。

學生の服装も來年の新入生から、國防色の準軍服型、帽子は戰闘帽に

(10)

校章をつけたものに統一されると好いと思ふ。文部省か精動で考案せら れたい。但し今着てゐるのを無駄にするのは金錢及び資源濫費の點から いけない。國防服だと精神もひきしまるし、街頭に於ける行動も愼重に なる。外國人が準軍服の學生を見たら嫌がるだらうが、同時に日本の容 易ならぬ決心を見て彼等も反省するであらう。

金子によれば「小中學では、毎朝國旗と校旗とに禮拝し、ラヂオ體操等をや るので、國體や 史に對する感情が強いが、上の學校へ行くほどそれを忘 れて行くやうであるが、これではならない」のである。

金子がいう「精動」とはもちろん「國民精神總動員運動」である。しかし、

『セルパン』同号に、山浦貫一はこの運動が国民と遊離していることを嘆く。

そのひとつは、時局の現状が伝えられていないことにあった。

殆んどニユースらしいニユースは禁止事項になつてゐる。支那との關係 は實際はどうなつてゐるのか、長期戰と云ふが何故長期に亙るのか、そ れには物がどの位不足で、どう節約し、生産する豫定なのか、さつぱり 判らない。(略)第三國の新聞にちやんと出てゐるやうなニユースでも、

日本の新聞には載らないのだ。知らぬは國民ばかりである28

文部省が学生競技について改革意見29を発表したのは、この春の六大学野 球の加熱ぶりもその引き金になったかもしれない。春山は7月号の「執筆者 の椅子」に、早慶戦のあと、早稲田が慶應を下して優勝したおそらくその夜、

「戰時下の街頭(それも特に盛り場をねらつて)」に溢れた学生に触れる。

學生諸君の醉亂した態度はどうか。日本は本當の意味の近代的な社會生 活の基準が定まらない裡に社會主義がはいつてきた。そしてそれがノル マルな社會常識を殺し、社會主義自身も刈りとられてしまつた。今日の 若いジエネレーシヨンの社會觀念を埋めてゐるものはニヒルかアナアキ イだ30

(11)

しかし、不良学生ばかりであったわけではない。事変記念日の7月7日、春山 は第一書房の窓から、英語のスローガンを掲げた幕をもつ二人の学生を先頭 に、多くの学生たちが「目と鼻とのところにある」イギリス大使館の方に向 かうのを目撃する。

學生は三,四百名で、腕に愛國學生聨盟と染めたバンドをまき、スロ ーガンを掲げた幕の外に、學校の旗かなにかを四,五本かかげてゐる。

スローガンには「汝の老獪なる假面を脱ぎ、誠實を以て萬事に當れ」と いふ意味が書いてある31

社屋から駆けつけて、騎馬巡査と多数の警官の警戒のなか、大使館前の小競 りあいののち代表者が決議文をもって大使館の内に消えるまで、その顛末を 見とどけた春山の心境は不明である。明らかなのは、警官の退去命令にもか かわらず「警官にも權力があれば、國民にも國民の權利がある」として譲ら ぬ春山の雑誌編輯者の心意気である。彼はルポルタージュの現場に立ち会っ ていたのである。

『セルパン』7月号で国民精神総動員を支持する金子とともにそれに懐疑 的な山浦の書き物を同時に掲載した春山は、雑誌の立場が一方的になること を避けようとしていたと思われる。つづく同誌8月号の誌面の三分の二を占 める、特輯アドルフ・ヒツトラア「我が闘爭」32もまた、その目的は、紹介 文にいうように「對英關係の如き、今日の讀者にとつて留意すべき部分」を 強調し「我が國に於いては殆んど明らかにせられてゐない」ポーランド問題 をめぐる東方政策の「根本的な立脚點」をはじめて紹介することにあった。

もちろんこれは「ヒツトラアの個人的述作」であり、しかも、彼が政権を掌 握するはるか以前に書かれたものである。

しかし廣い意味に於けるドイツ民族の血の問題を中心として、ナチスの 外交、政治、教育、經濟、文化等、あらゆる問題を理解する鍵が示され てゐるし、本書を通じてイギリスの歐州に於ける過去の政治的策謀を知 ることだけでも、我々にとつて今日の書として多くの意義を含んでゐる

(12)

ことを見逃してはならないと思ふ33

梅雨が去り本格的な夏となって「何か暑氣を吹きとばすやうな仕事をした いと思つてゐた折柄」アメリカ訳が送られてきたので、「夏の暑さと闘ふに は恰好の仕事と全スタツフを動員して」翻訳の仕事にとりかかった34のであ った。春山たちが「我が闘爭」を掲載することになったのは、ひとつの偶然 であり、また、ベストセラーの翻訳以上の意図はなかったかもしれない。し かしながら、アメリカの7月5日付週刊誌『ニュー・リパブリック』が、「ヨ オロツパでは収穫(小麥)がはじまつてゐる。正統派の軍事的法則によると、

収穫がすんだ後が、ドイツにとつて事件を惹起するに最も適當な時期と見ら れてゐる」35と伝えたとおり、9月のドイツのポーランド侵攻となって現実 となった。そして、『セルパン』の仕事が、イギリス大使館へ押しかけた愛 国学生連盟の諸君を激励することになったことは想像に難くない。

溯れば2年半前、1936年12月号の『セルパン』に見る編輯方針とは距たり がある。その「執筆者の椅子」に記すところによれば、「期せずして、ナ チ・ドイツの批判が集まつた」36のであるが、その批判のひとつが、フラン スのグラフ週刊誌『ヴュ』から転載した「全歐の戰慄 ナチスの恐怖政治」

であった。

ナチスの暗 政治の如き、本誌に紹介した記事の如く實に噂以上に惨憺 たるもので、恐らく、歐州のフアツシヨ國家と日本の新聞を除いては、

かうした暗 政治の犠牲者の消息が出てゐない新聞は一つもない程であ る。挿畫が示してゐるドイツ國内の汚點を見て、我々は到底ナチス讃美 者には同感を示し得ない37

ここにあるのは、ナチスにたいする反撥と、10月25日に調印された日独防共 協定への批判38であった。

だがいま、1939年の夏、春山の姿勢は微妙である。話題の書物を採りあげ たにすぎなかったとはいえ、また、紋切り型とはいえ、イギリスの「過去の 政治的策謀」を語る彼には、「我が闘爭」にたいする批判的姿勢が欠けてい

(13)

るのだ。だが、それは「転向」39と断定すべき性質のものではない。1936年 の日独協定は日伊協定とともに、すでに、わが国の政策としてすでに反映さ れ、この翌年、1940年9月27日の日独伊三国同盟へと進みつつあったことを 思わねばならない。しかしながら、転向とはいわぬまでも、春山が時局の推 移に順応せざるをえなかったことは否めない。コノリイの「文學者は何を書 くべきか」の、「戰爭」あるいは「平和主義者」が伏字とされたことも、そ の例となるであろう。伏字を求めるのは春山をとりまく「公衆のことば」で あった。それは「平和主義者」を語彙から抹消し、同時に、現実の「戰爭」

を隠蔽するものであった。9月4日付の鮎川の「雜音の形態」を『新領土』10 月号に掲載するとき、「武器」を「もの」と置きかえた詩誌編輯者の判断40 も、おそらく、同じものであった。

国民徴用令が施行された7月、村野四郎が月末26日から8月24日まで、通勤 とはいえ「豫備役召集で近衛第一聨隊にはいらなければならない」ことにな って、「戰闘帽や圖嚢や皮脚絆を整へ」た41ように、時局は逼迫していた。

LUNAクラブの同人、そして『新領土』の同人でもあった池田時雄は、社会 人として工場に勤めており、徴兵検査を終わって入営を待つ身であった42。 池田の詩集『戀とポエジイ』43の刊行のために原稿をあずかり印刷所に話を つけたのが鮎川であった。奥付によれば、7月15日の発行である。鮎川は池 田の状況を知らぬまま、『新領土』の書評に「僕は、池田時雄が手を擧げ、

戰場が見えると云ふかどうかは知らない」と彼のモダニズムの限界を裁断し た。その池田は、やがて、現実の戦場へと召集されてゆくのである。この年 12月に早稲田第二高等学院を中退する森川も、学生の身分を離れる以上、徴 兵をまぬがれえないであろう。他方、徴兵を猶予されている鮎川たちにも、

集団的訓練は避けがたく及んでいたのである。

森川の「勾配」を掲載した『荒地』第4輯は、奥付によれば、10月25日印 刷、発行は11月1日である。春山が旅に出発した直後、そして、鮎川が「こ れが最後と思い、封切りに駆けつけた」あの『黒蘭の女』が上映される少し 前のことであった。

鮎川は「後記」に記す。「最近になつて 年指導の様々な機關が頓に活發 になつて頻りと團體的訓練に努力している」ということを「友人からも聞い

(14)

た」と。歯切れのわるい語り口は、わずか200部ほどの同人誌ながら、検閲 あるいは警視庁からの呼出44を避けるための配慮であったろう。

一般的に政治の優位が認められる現在であるから、集團的な 年訓練 にも、ある程度それに對する意識を都合よく統一してをくため、一方的 な思想の流布が行はれてゐるであらうといふことは充分頷かれるのであ る。又そこに集團的訓練をもつて 年を指導せんとする、目的がある のかも知れない。それはむしろ今日にあつては必然的な一つの運命を暗 示するものと云つて良からうと思ふ。

しかし、「集團的訓練をもつて 年を指導せんとする」活発な動きは、当事 者たる青年にとっては「必然的な一つの運命を暗示するもの」であった。

集團に對する新らしい意義が、今日のやうな 勢にあつて、政治の側 から充分に認められ、その行動性によつて獲得しうるであらう成果に關 しては、全體の觀念から出發してゐるだけに對社會的な意味あひに於て も、個人の自由意志尊重などのある種の缺陥を、避けることが出來る上 に、更に行動に於ても一層強力な振幅を期待されるのであらう。しかし、

それらを指導せんとする者が、時代に對する眞の洞察力を缺き、個人の 盲目的意志をもつて、集團を導いてゆく時、その弊害も又倍加するので ある45

「集團的訓練」は、「個人の自由意志尊重などのある種の缺陥」を正すことに なる。だが、事実は、指導者たちによる「個人の自由意志」の締めつけ、あ るいは、否定であった。この年8月、『戰爭詩集』に大東亜の「前線」を歌い、

『新領土』10月号に「一齊に炸裂する」「僕らの若き論理」46を歌うモダニス ト村野は、この「全体の觀念から出發」する「行動」を、「公衆のことば」

として是認するものであった。

この『荒地』第4輯の目次裏に、デイ・ルイスの詩行が掲げられていた。

(15)

Bayonets are closing round.

I shrink; yet I must wring A living from despair And out of steel a song.

Though song, though breath be short.

I'll share not the disgrace Of those that ran away Or never left the base.

Comrades, my tongue can speak No comfortable words, Calls to a forlorn hope, Gives work and not rewards.

From C. Day Lewis' TEMPT ME NO MORE47

銃剣に包囲されて僕はたじろく。しかし、絶望を生き抜き、武器に鍛えられ て歌わねばならぬ。とぎれとぎれの歌だが、僕は逃げたり裏切ったりはしな い。同志諸君、僕には御機嫌とりはできない。僕は彼方の希望へ歌いかけ、

無償の行為に賭けるのだ。―大意はこうであろうか。明らかに、詩は革命 であり革命は詩である。しかも、 comrades とは左翼のことばにほかなら ない。しかも、デイ・ルイスは官憲には危険視された詩人であった。英語で あることによって、検閲の眼を欺くことができたのであろうか。

この危険な詩行を掲げることを思いついたのは誰であったろう。もし、鮎 川であったとすれば、わが国における「戰爭と詩」をめぐる詩壇にたいして 不満を述べた鮎川が、オーデン・グループの戦争詩を示し、一矢を報いるつ もりであったかもしれない。時期は、『新領土』9月号の彼の寸評「戰爭詩に 関聨して」と、同誌翌10月号に掲載された、オーデンの「スペイン」を思わ せる9月4日付の作品「雜音の形態」と重なるからである。デイ・ルイスを引 用した鮎川たちの『荒地』もまた、『新領土』創刊以来の、詩と革命、すく

(16)

なくとも詩と行動の一致を願っていたと考えることができる。

しかしながら、わが国にあっては、「銃剣」は日常を包囲しており、若い 詩人たちは大東亜への希望が席巻するなかで、とぎれとぎれに歌うしかなか った。同号『荒地』に、森川が歌ったように、「季節はすでに終わりであつ た」。なおも「いくつもの道ははじまつてゐる」としても、それは絶望を生 き抜くための気力にゆだねられていた。希望が閉ざされ絶望すらもなくなっ た「非望のきはみ」から「非望のいのち」を絞りだし詩を書きつづけること しかない。それが可能な唯一の行為であった。その彼らに、行動主義の詩人 たるデイ・ルイスが根拠を与えたのだ。 I  must  wring  /  A  life  out  of  despair  / And out of steel a song. ―これは、「この石地から生れ出るものは何か」と 問いかけたエリオットへの回答でもあった48

だが、「絶望を生き抜き、武器に鍛えられて歌わねばならぬ」と唄うデ イ・ルイスの詩を掲げながら、同号の鮎川の「室内」は、『新領土』に掲載 された「雜音の形態」とはまったくかけ離れた心象を見せていた。

時空の瓶の底に

もう齒ぎしりする怒もなく 凭れかかる椅子もない49

これは、わが国の「團體的訓練」とイギリスの詩人たちの行動主義との狭間 におかれた、鮎川の肉声であった。検閲は閉塞状態におかれた精神に介入す ることはないであろう。

17.  転調あるいは転向

鮎川たちが引用したデイ・ルイスの詩は、1933年のThe Magnetic Mountain に収められていた。このとき詩人は詩と革命の一致を信じていた。彼は1937 年5月、『新領土』創刊号に「詩に對する希望」によって登場した。ついで翌 6月号の特輯「政治と文學」に、岩崎良三訳で「劔とペン」50が掲載された。

ここで彼は、ファシズムにたいする「文化的爭闘」の必要性を主張したので あった。同号の詩に彼が唄うように、「過去と未來とが出會ふ」二つの世界

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51をつなぐのが、行動であった。だが、鮎川たちは、そのデイ・ルイスの変 貌、裏切り、あるいは、転向を知らない。のちに明らかになるように、オー デン・グループを代表するこの論客は、すでに前年、1938年の夏以降、一切 の政治活動から身をひいていたのである。その1月のロンドンでの反ファシ スト集会の講演が契機となり、同年7月、パリでの人民戦線集会の体験が決 定的となったとされる52。詩人は、行動することを放棄していた。政治から の後退は、彼が、鮎川のいう、「個人の自由意志」を尊重したからであった。

『新領土』1937年6月号には、デイ・ルイスの「劔とペン」のあとに、岡 山東訳でスペンダーの「内面旅行」53がつづいた。この年1月に刊行されたば かりの、Forward from Liberalism54にもとづく抄訳である。その「その社會で は藝術はどうなるか」( And  what  do  you  imagine  will  be  the  art  of  a  classless society? )という問いにはじまる問答がそれである。「階級なき社会」では、

シュールレアリズムは克服される、とスペンダーは答える。

それはシユルレアリズムが未來の藝術ではたしかにあらうけれど も、××ではないからだ。だが現段階では、シユルレアリズムは尊重の 防寨と聨想のブルジヨア的秩序を破棄する唯一の實踐的ジヨークであ り、衝撃的戰術だ。

この書物は俺の意志の行為だ。俺の非常に大切にしてゐる正義と詩の 二つのものゝための定言だ。××は詩的正義のある典型であらねばなら ぬと信じる55

伏せられた記号に revolutionary と revolution を補えば、文意はただち に理解される。「正義と詩」をひとつにしうる「詩的正義」とは「革命」と 同義であり、その成就するところ、「階級なき社会」こそ、スペンダーの新 領土であった。

『新領土』の「内面旅行」は、このように結ばれる。

詩人が詩の眞理を見棄てるのは自己への裏切りのみでなく社會への裏 切りだらう。俺は警告するために散文を書く、さうしてオウエンの戰爭

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中に書いた數行はまだ眞だらう、「すべての詩人と云ふものが今日なす ことのできるのは警告することだ、この理由で眞の詩人は偽りを云はぬ ものでなくてはならぬのだ」56

このとき、スペンダーにとっては、階級なき社会のために革命を語る自己と、

詩人の内部は矛盾していない。だが、そのスペンダーもまた、方向を転じた のである。

『新領土』がオーデンたちを精力的に紹介していたこの年、1939年5月、

スペンダーは新しい評論The New Realismを刊行した。彼はトマス・マンの ことば、 In our time the destiny of man presents itself in political terms を引用 し、あらゆるものが政治と関わりを持つ状況を確認57する。だが、スペンダ ーは、政治状況の分析から導かれる結論と政治的行動について、疑義を唱え るのである。彼は結びにいう。詩人は状況に自己の存在を託そうとして、自 己を見失ったのではないか58、と。内部を描くこと、新たな「内面への旅」

がスペンダーの方向となる。さらに、同じ5月、新しい詩を収めた詩集Still

Centreの序文に、彼は、より個人的な詩に還ることを意図した59、と記す。

スペンダーがいう「新しいリアリズム」とは内面の矛盾をそのままに見る精 神にほかならない。アーチボルド・マックリーシユの図式を逆転していえば、

「公衆のことば」のなかに失われた「私のことば」にたち帰ったのである。

それは、彼がかつて記した「社會への裏切り」でもあった。

ふり返って見れば、『新領土』の1939年は、その詩人たちが戦争詩へと動 きはじめており、また、オーデン・グループの詩人たちが後退をはじめてい たにもかかわらず、かつてのニュー・カントリーの理念に執着していたこと は皮肉といわざるをえない。たとえば、その5月号に「公衆のことば」を訴 えるマックリーシュである。

トマス・マンは現代のもつ特質に就いて我々の時代では人間の運命の眞 意は政治上の言葉で現はされてはじめて意味をもつと云つてゐる。政治 の領域、及び政治上の言葉で現はれた人間の運命は十九世紀詩人の無氣 力が到底扱へ得なかつた領域であり、運命であつた。この政治の領域と

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運命こそ、恐らく現代詩が最も適應した領域であり、運命であらう60

Thomas Mann. . . says of the nature of our time, that in our time the destiny of man presents  its  meanings  in  political  terms. 61―「我々の時代では人間の運命の 眞意は政治上の言葉で現はされてはじめて意味をもつ」。『新領土』に同じト マス・マンの立場からマックリーシュが導きだした詩の方法を、この5月、

彼方のスペンダーは拒否していたのである。

注目すべきは、マックリーシュの批評はこの1年前、1938年3月に登場した ものであった。彼はここでW・B・イエイツを「公衆のことば」で唄う先駆 者と位置づけた。これを読んだイエイツは、その5月、 In  our  time  the destiny of man presents its meanings in political terms をエピグラフにして詩を 書いた。その Politics 62はこの一行への反駁であった。その心境はデイ・

ルイスが回帰したものであり、また、スペンダーも曲折を経てそこに至った のである。

1939年1月イエイツが没する。バルセロナが陥落した直後のことである。

ニューヨークのオーデンは詩人を追悼しつつ、アイルランドのために闘った イエイツに、彼らの30年代を重ねる。

You were silly like us; your gift survived it all:

イエイツはあくまでも詩人として生きるほかなかったのである。なぜなら、

詩は社会を変えることはできないからである。

For poetry makes nothing happen:63

この In Memory of W. B. Yeats を掲載したのが、R・A・スコット−ジェ イムスが主宰する『ロンドン・マーキュリー』の1939年4月号である。エリ オットの主宰した『クライテリオン』の1月終刊号を追うように、同誌もこ れをもって終刊となった。『英語 年』はこの夏、山本修二の訳注をつけて、

スコット−ジェイムスの廃刊の辞を掲載64した。成田成壽によれば『クライ

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テリオン』廃刊後、「純文藝の雜誌としては……殆ど唯一のもの」65であり、

これもまた、『セルパン』のみならず『新領土』の重要な情報源のひとつで あった。

ただし、『セルパン』も『新領土』もまた、イエイツを追悼する新しい作 品に投影されたオーデンの転調に気づくことはなかった。だが、『新領土』

は、同号の『ロンドン・マーキュリー』に掲載されたスペンダーのオーデン 論、 The  Importance  of  W.  H.  Auden を採りあげたのである。9月号の安藤 一郎訳スティーヴン・スペンダア「W・H・オーデンの重要性」66は、話題 の詩人でありながらなお評価の定まらぬオーデンの全貌をとらえようとした 好論文であり、1939年度の『新領土』の核として位置づけられるものである。

スペンダーはオーデンの詩の技法と魅力の背後には、「素材に近附く三つ の主な道」(three  main  approaches  to  his  material)がある、と指摘する。「心理 解剖的なもの」「政治的なもの」そして、「最も眼につかない道であるが宗教 的なもの」である。スペンダーが力説するのは、第三の道である。

何故といふに、彼の詩の主動力は人生の宗教的見解に基づく人生哲學を 立てることだからである―これが無かつたら、臨床觀察や政治的理論 も靜止的に留まるだらう67

オーデンに寄りそいながら、スペンダーはいう。

吾々は生きて居るといふ、また吾々は生活のあらゆるものが自分たちに 關心を喚び起し精神的意義を與へられるやうに欲してゐるといふ事實か ら、どうしても脱れ得ない。吾々は、難破船となつて無意味の海の上を 漂ふことは欲しないのである。

多分近代詩の課題はこの場合にあたつて、獨斷的になることでなく、

徐々として生きた價値の領土を、吾々がゐる實在の世界の上に擴大して ゆくことである68

ささやかではあるが、誤訳を指摘しておかねばならない。 to  extend  the

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domain of living values over the world of actuality in which we live  69は、「生き いきとした価値の領域/領土を、現実の社会へと拡大すること」の意である。

「實在の世界」とすれば形而上の世界である。スペンダーのいう世界は「獨 斷的」な立場を賦与すべき対象ではなく、どこまでも「現実」でありつづけ る。その「現実の世界」を照射するのが、生きいきとした内面の価値にほか ならない。訳者はスペンダーの一行に潜む、政治的逃避を逆転する微妙なメ ッセージを把握できなかったのである。

しかしながら、そのスペンダーに非なしとはいえない。なぜなら、「最も 眼につかない道であるが宗教的なもの」を指摘しながら、それはなお不明確 であり、むしろ、「心理解剖的なもの」と「政治的なもの」の分析に力を置 いているからである。この『ロンドン・マーキュリー』1939年4月号の

「W・H・オーデンの重要性」は、フロイドとマルクスを根拠とした従来の オーデン論を大きく出るものではなかったのである。だが、その5月の彼の

The New Realismは、やがて東京に到着し、翌年、1940年7月号の『新領土』

に登場するであろう。

スペンダーの新しい評論と同じ月に刊行されたルイス・マックニースの

Autumn Journal70に見るのは、ミュンヘン危機から始まりスペインの人民戦

線が崩壊へ向かう1938年の晩秋12月の、挫折の思いである。彼はかつて、

『新領土』1938年6月号に、「あらゆる人は、價値のあるそして彼に關係のあ る現代の組織の中に生きてゐる。直接的にしろ間ママ接的にしろ、彼の書く可き 生活はそれである」71と書いた。そのマックニースはスペインへ義勇兵とし て出発した。だが、すべては、9月の大戦勃発の前に終わっていたのである。

1939年秋10月、コノリイはスペンダーとともに新しい雑誌を刊行する準備 をはじめた72。1940年1月の創刊号につづく2月号のHorizonで、コノリイは オーデンとイシャーウッドのアメリカ移住を、スペイン戦争勃発以来の最も 大きな文学的事件73と呼んだ。

最後のアメリカ映画となるかもしれないと『黒蘭の女』の封切りに鮎川が 駈けつけてほぼ一月後、そして、春山が「文學者は何を書くべきか」を掲載 する『セルパン』新年号の編輯に追われていた頃、12月5日付「十二月の椅 子」に投影された鮎川の心象はこうであった。

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もう花などどんな世界にも垂れはしない ここには古くからの橋がある

そこを行くものを歩みといひ 流れてゐるものは何處の岸へゆくか74

エリオットはロンドン橋を職場へと歩む人々を死者の群れと見た。鮎川もま た、橋の上を歩む人々に滅びの群れを見ていた。その東京は色彩と輪郭を失 った「實體のない都市」75として浮遊していた。春山が新京に見た、「大きな 政府機關」が屹立する「一九三九年のドノゴ・トンカ」とは無縁の都市であ る。その新京の印象を伊藤は、こう結んでいた。

街の性格が近代日本都市のそれだ。そこを歩いてゐる日本人は、内地に ゐる日本人よりももつと積極的に自分を信じ、自分のすることを信じて 生きてゐるやうに、J剌とした表情をしてゐる76

伊藤が新京という虚構の都市に溌剌とした人々の幻影を見ていたように、鮎 川の見る東京の風景は、これもまた、虚構にすぎなかったのである。

満州への出発まで「あと十日程しかない」と春山が記した『新領土』の

「後記」に、近藤東は「村野四郎君が詩集を企んでゐる」77と記した。写真の 選択も終わり、「運動シヤツが光と風の匂」を放つ78ことを狙った『體操詩 集』は12月20日に発行された。詩につけられた写真15葉のうち5葉は、レ ニ・リーフェンシュタールによる1936年のベルリン・オリンピックの写真集

79からとられた。

村野が「日暮ひ ぐ れれの人」を書いたのは『體操詩集』の刊行に備えていた頃の ことであろう。『文藝汎論』新年号へ受けつがれたのは、1939年晩秋の心象 である。

あなたは無關心のやうだつた あなたは顔さへあげなかつた

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さむい さむい空間 空は幕のやうに

そして風は冬の鳥たちのやうに あはただしい音で彼方あ ち らへ落ちていつた そこに何がおこつてゐたらう

倒れるおとと

踏みにぢる音とが聞えた

それは單なる夕とどろきではなかつたらう80

ここには「光と風の匂」を運ぶ爽やかな輪郭はない。村野の肉声は、はから ずも、鮎川に近づくのである。そして、「倒れるおとと/踏みにぢる音」が 響くなか、まさに、森川が唄ったように「季節はすでに終わりであつた」の である。

だが、村野は「新しい秩序のために/新しい 史をひらく/民族の冷たい 意志」81を担うべき「弟」、すなわち若い世代への期待を唄う詩人でもあった。

これもまた転向と呼ぶべきではない。なぜなら、「公衆のことば」を借りて

「民族の冷たい意志」を唄う詩人と「倒れるおと」を「私のことば」として 唄う詩人もまた、春山のように、時局の推移に翻弄されていたのである。し かし、鮎川たちにとっては、おそらく、それはモダニストの裏切りであった。

オーデンとイシャーウッドが「永久にアメリカに定住してしまつた」と

『セルパン』1940年1月号が伝える記事を、鮎川が眼にしたか否かは判然とし ない。ただし、『新領土』の2月号、春山の「戰爭への旅」で、「オーデンと イシヤウツドがニユウヨオクに移住した」ことを知るであろう。彼らの動向 に触れた春山は、つづけて「彼等がどうしてイギリスを去つたかは、そのう ち彼等自身のペンによつて傳へられるであらう」と書いた。しかしながら、

情報はとぎれとぎれになりつつあった雑誌や週刊誌に登場する作品を追うし かなく、そこから文学的大事件を察知することは困難であった。

オーデンの転調を告げる In Memory of W. B. Yeats は見逃されたが、し かし、イエツを論じた文章、 The Public v. the Late Mr. William Butler Yeats 82 は、春山たちの眼にとまった。これは、追悼詩を書いた数日後、3月18日83

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アメリカの『パーティザン・レヴュー』春季号のために送られたものであっ た。それが、1年近く経過して、『セルパン』1940年4月号の「ニユースの脚 光に浮ぶ人々」欄に紹介されたのである。「この偉大な先輩について、今日 のイギリスが持つ最も有望な新進詩人オーデンは檢事と辯護人の二人の口を 籍りて、次のやうに書いてゐる」84と。

検察側の主張は、「偉大な詩人は彼の時代を惱ましてゐる種々の問題に、

正しい答へを與へねばならないが、病ママ人は間違つた答へを與へた。從つて病 人は偉大な詩人ではなかった」85とほぼ忠実に紹介されている。この判断は、

追悼詩に唄った一行、 You  were  silly  like  us と響きあう。ただし、弁護側 の反論は入念に読みとられたものではない。オーデンは、追悼詩と同じこと ば poetry makes nothing happen を響かせながら、弁護側にこう語らせてい たのである。

The  case  for  the  prosecution  rests  on  the  fallacious  belief  that  art  ever  makes anything happen, whereas the honest truth, gentlemen, is that, if not a poem had been written, not a picture painted, not a bar of music composed, the history of man would be materially unchanged.86

この一節が見逃されたことを咎めることはできない。英語圏においても、追 悼詩 In  Memory  of  W.  B.  Yeats と散文 The  Public  v.  the  Late  Mr.  William Butler  Yeats が重大視されるようになるのも、あとのことである。そのこ とは、デイ・ルイスやスペンダーの転向についても同じであった。

だが、ニューヨークから届いたオーデンのひとつの作品は、『新領土』に 受けとめられたのであった。エリオットの『荒地』の翻訳とともに、オーデ ンの「一九三九年・九月」によって『新領土』は記憶されるべきである。

W・H・オーデンの September:  1939 は、アメリカの週刊誌『ニュー・

リパブリック』10月28日号に掲載された。コノリイが「人生を愛し理解しよ うとする欲望が、人生を變革するために戰はうとする野心に代つて來る

(The desire to love and understand life replaces the ambition to fight to alter it)」87 と10月7日付でロンドンから書いたとき、彼ははからずも、そのその3週間後

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に、大西洋を挟んで向かいあう都市から響く声を予測していたのである。

―「我々は互に愛し合はねばならぬ、でなければ死ぬよりほかにはない」88。 オーデンの最新作を掲載した10月28日の週刊誌はニューヨークから鉄路で 西海岸に運ばれ、ついで、太平洋を渡って到着する。そして、阿比留信訳

「一九三九年・九月」となって1940年1月号の『新領土』に登場する。鮎川が 参加した頃、『新領土』は月末に発売されていたから、状況に変化がなけれ ば、1939年12月末にはオーデンの新作を翻訳で読むことができたのである。

一つのテクストがもう一つのテクストとして生まれ、読者の眼に触れるまで、

およそ二ヶ月。しかも、そのあいだに、地理的な距離があった。そして、そ の距離には、極めて政治的な意味が関与していたのである。

18. 洋書飢饉

『ニュー・ステイツマン・アンド・ネイション』の1939年9月16日号が

「かなり疲れて、、、

、皺だらけ」になって春山の手許に届いたのは、3週間と少し 後、10月8日のことであった。その頃、「英米文學新聲」を担当していた成田 成壽も、11月15日号の『英語 年』に同じような経験を記している。

今度のヨーロツパ戰爭が始ると、船の都合ででもあらうか、イギリス の新聞雜誌類の着くのが遅くなり始めた。もとは廿日位で來たのだが今 は一月近くかかる。最惡の場合には新聞雜誌も圖書も來なくなることす ら考へられる。戰爭は思ひもかけない處に影響を持つものである89

スペイン戦争が勃発した1936年の秋、イギリスとフランスの雑誌がシベリア 鉄道を経由して春山の手許に到着するまでが17日90であったことを思えば、

20日、さらに3週間少々の遅れは良しとしなければならない。だが、1939年 晩秋、到着が遅れはじめたのである。シベリア鉄道で運ぶとしてもドイツを 避けざるをえない事態になっており、場合によっては大西洋を経由して太平 洋を渡って到来する可能性すら生じていた。急がぬもの、たとえば、図書の 類は船便が利用されたが、図書輸入は、すでに、1939年元旦号『英語 年』

の「片々録」が記すように、日支事変以降にはじまった為替管理がますます

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強化されたため、「洋書飢饉」91に陥っていたのである。しかも、戦争勃発後、

ヨーロッパ諸国の船はほとんど東洋海域から撤退した。残るわが国の欧州航 路は存続したが、翌年1940年6月、イタリアが参戦したため、地中海とスエ ズ運河の航行は事実上不可能となり、ケープタウン経由によって辛うじて維 持された。しかし、9月以降、全面的に休止となる。開戦一年後のことであ る92。この間、1940年5月に、丸善が新たに古書課を創設したのは、和・洋 書の流通が困難になった状況に対応するためであった93

ニューヨークからの情報についていえば、輸入図書類はパナマ運河を経由 するとしても、為替管理のため事態は同様であった。他方、新聞雑誌は、従 前どおり、鉄道で運ばれ太平洋を渡って横浜に到着し、20日ほど94で手許に 届いていたと思われる。しかしながら、これで良し、ということはできない。

新聞雑誌についても、為替管理と検閲が強化され、店頭から姿を消していた からである。予約についても同様であった。

1年前、1938年の晩秋、『セルパン』12月号に、高村信太郎は「最近の洋書 界」95を寄せた。その詳細な報告によれば、外国雑誌は、この7月頃からどの 店にも消えてなくなった。雑誌が一冊も現れなくなったのは丸善である。三 越は売場を閉じた。それでも、東京で印刷される二三の英字雑誌にまじって 三四種類のものがあったが、これも漸次なくなった。アメリカの雑誌が比較 的残っている教文館では、アメリカと特殊契約があるらしく婦人雑誌と大衆 雑誌が主として並んでいるが、これも12月が切り替え時であるから来年はど うなるか判らない。その予約についてはどうか。高村は記す。「毎年年末の 恒例となつてゐる外國雜誌の展覧會や、外國雜誌のカタログといつたものは、

今年は勿論中止となつた」と。取次書店からは葉書で「貴殿御豫約のX誌、

本年十二月を以て前金切れと相成候も、為替管理のため、豫約不可能と相成 り」云々という通知状が送られたのであった。

『セルパン』が「最近の洋書界」の惨憺たる状況を伝える頃、成田は『英 語 年』1939年1月1日号のために「秋以來英米文壇は色とりどりの出版物 で賑つてゐるが、特に嘗て並んで文壇に出た Stephen  Spender,  W.  H.  Auden, C.  Day  Lewis の活動がやはり目ざましい」と書いた。だが、この1939年、一 般の読者がその詳細を知ることは不可能になっていた。したがって、成田が

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雑誌類は「もとは廿日位で來たのだが今は一月近くかかる」と書き、春山が、

『ニュー・ステイツマン』の「十月二十一日號は十一月の廿日頃に到着した が、その後半月も經つてゐるのに、その次の號が來ない。最近の歐州事情の 一つの現象として附記しておく」96といらだち記したのは、たんなる読書人 としてではなく『英語 年』と『セルパン』誌上に海外の「新聲」を伝え る使命があったからである。そして、それを可能としたのは、その背後の新 聞紙法にもとづく雑誌の存在であった。

新聞紙法は時事的な記事を掲載するものに有利であったが、文芸詩誌にす ぎぬ『新領土』の情報源は、洋書が店頭から姿を消し、新聞雑誌の予約も不 可能となったいま、困難な事態に立ち至るであろう。たとえば、わずか1頁 の September:  1939 を掲載した『ニュー・リパブリック』10月18日号は、

どのような経由を経て、それを翻訳する豊田泉一郎、すなわち、阿比留信の 手に渡ったのであろうか。可能性のひとつが、『セルパン』の編輯部に届い た一冊である。しかも、上田保はこの頃、『新領土』の編輯を永田助太郎に あずけ97、『セルパン』の「海外文化情報の翻訳編集スタッフ」の仕事を担 当98していたから、充分に考えられることである。『ニュー・ステイツマン』

にコノリイの The  Ivory  Shelter を発見したのは、帰京した春山ではなく て、留守中の上田であったとさえ推測できるのだ。

September:  1939 は September  1st  1939 と改題されて、 Spain  1937 とともに、オーデンの新しい詩集Another Timeに収録される。アメリカで 1940年2月、イギリスでは6月の出版である。だが、アメリカ版を手にするこ とは、従来の為替管理に加えて、1月に日米通商条約が破棄されたため、ほ とんど不可能であった。また、イギリス版については、9月までケープタウ ン経由で可能であったとはいえ、文学書しかも詩集など運ぶ余裕はないであ ろう。しかも、すでに8月、内閣情報部、外務省、大蔵省、商工省が洋書輸 入新体制の確立を協議し、その方針が決定され99、これまで洋書輸入業者の 自粛に委されていたものが停止されることになった100のである。皮肉なこと に、停止するまでもなく、文学書の輸入などは、すでに不可能になっていた。

『新領土』1940年1月号に登場した「一九三九年・九月」は、オーデンの最新、

そして、最後の作品となったのである。

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19.  国旗のガウン

1939年1月号『新領土』に、村野は「神たちは國旗のガウンを着て/キラ キラする果樹園の間を彷徨」する、と唄った。この「一九三九年の田園」101 は、そのまま1年後、1940年1月号の『日本詩壇』102に転載された。不吉な予 感を告げたテクストは、その予感が現実となって形を現わす年、1940年を展 望することになった。

皇紀二千六百年を祝う紀元節をまえにした2月9日、鮎川は「近代詩につい て(1)」103を書きあげる。この稿が『LE  BAL』に掲載されたその4月、彼は大 学の英文科へ進む。

『新領土』7月号は、前号につづいて、石橋孫一郎訳C・D・ルイス「詩 への希望(2)」を掲載した。その結語である。

今日詩人の二つの理想である社會的正義と藝術的完全との間に、私たち が繼承してきた傳統にふさはしく、且つ私たちの或る者が希望し、現に 闘つてゐる社會にも不似合いでない詩の將來のためには、一つの基礎が 置かれねばならないのである104

創刊号にデイ・ルイスの「詩に對する希望」を載せた『新領土』は、ふたた び同じA Hope for Poetryに依拠して、その A Postscript を訳出したのであ る。ただし、出典は1936年9月のものであった。「現に闘つてゐる社會にも不 似合いでない詩の將來」―。しかし、「社會的正義」を語ったデイ・ルイ スはすでに沈黙していた。そのテクストを4年後に採用する1940年の『新領 土』もまた、「詩の將來」を可能とする「基礎」が存在しないことを知って いた。語り手を失ったテクストはかつて華やかであった詩誌の断末魔の声の ように響く。だが、編輯者は、おそらくその対照の皮肉に気づかぬまま、ス ペンダーの新しい立場を、同号に紹介していたのである。

澤茂訳ステイーヴン・スペンダ

マ マ

「新しいリアリズム」は、前年1939年5 月に刊行されたわずか24頁のパンフレットThe New Realismの抄訳である。

かつてニュー・カントリー派を支えた言説、 communism  insists  on  the

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overthrow  of  the  bourgeoisie  by  the  working  class 、あるいは、マンの In  our time the destiny of man presents itself in political terms 105などは、巧妙に避けら れていることはいうまでもない。しかし、これらの言説は否定的な文脈に置 かれているのである。スペンダーの立場は明快である。

アンドレ・マルロウは、支那次いでスペインで激しい活動の中にとび 込んで、その眞中から、重大な意義をもつ作品を造り出した。しかし、

自己の環境を投捨てゝ、この世界に入つた他の作家は、身を亡ぼし、殺 されたり、文學を離れて政治家になつたに過ぎない。彼らは、後になつ てはじめて貴さを知るその生活を犠牲にし、そこでは確實に知ることの 出來るものは一つとしてない旋風の中へふみこんだのである。

こんな結果になるだらうと云ふことは、藝術家が體驗を最も鋭く感ず るのは幼少の頃と 年時代であると云ふことを考へれば、また彼の境遇 を良心の訓練によつても變へることが出來ないのだから、はじめから想 像される筈である106

その、結語である。

作家は政壇に立つたり、彼らが何も知らぬ生活の様子を書いたりするこ とをやめて、彼らが最もよく承知してゐる種類の生活に就て、出來るだ け學び、眞實と信ずることを見せびらかすことなく、描く様になるだら う。あまりにも多くの作家や美術家が、彼らの眞の興味の中心から離れ て外廓の半ば創造的、半ば煽動的な周邊の世界に行きすぎた。文化を救 ふことに就て多くのことが云はれるが、眞に大事なことは救ふべき文化 を持つことである107

政治と切れたところから新しいリアリズムがはじまる。これは遅ればせなが ら、コノリイの「文學者は何を書くべきか」を補完する、スペンダーの転向 宣言であった。大戦が勃発する以前に書かれた1939年5月のテクストが、

1940年7月号の『新領土』に、ニュー・カントリー派の挫折と新たな出発を

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告げていたのである。

春山は海外の情報をひたすら待ち望んでいた。1940年が「すつかり新緑と なつた」頃、「昨年九月歐州に戰亂が起きてから、數ケ月の間、入手困難あ であつた英佛の新聞雜誌類が一通り揃ふやうになった」ので、『セルパン』6 月号は「久しぶりに世界文化展望を特輯」108することになった。その記事の ひとつが、T・S・エリオット「チヤーチルとウエルズ」109である。紹介文 が出典を『ニユウ・イングリツシユ・ウイークリー』と記すように、これは、

その2月8日号の文芸時評110である。ロンドンから届いた記事が翻訳されて6 月号の『セルパン』に登場するまで、三ヶ月以上かかっているが、健闘をた たえるべきである。

訳者はおそらく上田であろう。記事はこのように結ばれる。

我々は世界的な慘禍と堕落の暗 時代がいかに長く續かうとも、この時 代を生きのびて眞價を保持し得る大きな抱負を死滅させないやうに努力 してゐる111

we must  keep alive aspirations which can remain valid throughout the longest and darkest period of universal calamity and degradation.112

原文の調子は翻訳に欠けているが、 O dark dark dark. They all go into the dark と唄ったエリオットを偲ばせるであろう。

We must be still and still moving Into another intensity

For a further union, a deeper communion

Through the dark cold and the empty desolation.113

エリオットの最新作 East  Coker は、上の文芸時評から6週間後、同じく

『ニユウ・イングリツシユ・ウイークリー』の3月21日号114に登場した。ニュ ーヨークからは少し遅れて『パーティザン・レヴュー』5・6月合併号115に掲

参照

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