博 士 ( 文 学 ) 高 田 学 位 論 文 題 名
純
実践と相互人格陸―ドイツ観念論における承認論の展開 学位論文内容の要旨
〔 形式 〕 本 論 文は 、 「序 論」、 「第一 部自律 と共同 一カント におけ る承認 論の方 向づけ 」、
「 第二 部 自 律 と承 認 ― フ ィヒ テ に お ける 承 認 論 の定 礎 」 、 「第 三 部 承認 と共同 ―ヘー ゲル における承認論の展開」、「結語」、「引用について」、「注」、「索引」により構成され、A5版、
縦 書き 、 全363ぺー ジ で あ る。 一 ペ ー ジは900字 で あ り、400字 詰 原稿 用紙 に換算 して約770 枚に相当する。
〔 内 容 〕 本 論 文 の 意 図 は 、 ド イ ツ 観念 論 を 相 互人 格 性 な いし 相 互 主 観性 と い う 視点 か ら 把 握 す る こ と 、 特 に カ ン ト ー フ ア ヒテ ー ヘ ー ゲル の 実 践 哲学 を 相 互 承認 論 の 展 開と し て 解 釈 す るこ と に あ る。 著者は 先に、 『承認 と自由一 ヘーゲ ル実践 哲学の 再構成 』(未 来社、
1994年 ) に おい て 、 ヘーゲ ルの相 互承認 論の形 成と構 造につ いて考 察した が、本論 文では 、 さ ら に カン ト と フ ィヒ テの思 索の中 に相互 承認論の 系譜を 読みと ること によっ て、ド イツ観 念 諭 に は相 互 人 格 性( 相互主 観性) の問題 が欠落し ている という 従来の 一般的 解釈の 是正を 試み ようと してい る。
序論 で は 、 ドイ ツ 観念 論を本 質的に 「方法 論的な 独我論 」ないし 「独話 論」で あると 見る ハ ー バ ーマ ス や ア ーペ ルとい った現 代の有 カな哲学 者たち の理解 に対し て、へ ーゲル および フ ィ ヒ テに お け る 相互 承認論 の重要 性を指 摘する最 近の研 究成果 を踏ま えて、 カント の倫理 思 想 も また 相 互 人 格性 という 観点か ら体系 的に理解 するこ とがで きるで あろう 、とい う著者 の見 通しが 提示さ れる。
第一 部 で は カン ト の実 践哲学 が取り 扱われ る。カ ント倫 理学の基 本をな すのが 「自律 」の 思想 である という ことは 、一般 に認め られて いる。 自律と は理性の自己立法であり、これが 道 徳 法 則の 表 現 す ると ころで あると いうカ ントの思 想は、 それゆ えにま さに道 徳の領 域にお い て 他 者と の コ ミ ュニ ケーシ ョンを 排除し 、独我論 的な傾 向を強 く持っ と理解 されて きた。
し か し 著者 は 、 カ ント の倫理 思想の 形成過 程を辿り 直すこ とによ って、 自律思 想のう ちに意 志 の 自 発性 と 相 互 人格 性の結 合を見 て取り 、カント におい て道徳 法則は 、他者 との共 同存在 を 可 能 にす る 根 本 条件 である と主張 するこ とになる 。その 際の有 カな手 掛かり は、「 他人の 立場 に立つ 」(立 場の交 換)と いう視 点であ るが、著 者はこ の視点がアダ厶・スミスの影響の も と に カン ト 倫 理 学に 導入さ れたと 理解し 、実践哲 学の主 要な著 作の中 にこの 視点の 存在を 確認 しよう とする 。論証 の詳細 は省略 せざる をえない が、一 例とし て、カ ントfま 『道徳 形而 上学 』にお いて、 定言命 法の要 求であ る人格 の内、な る人間 性の尊重を「他人における尊厳の 承 認 」 と言 い 換 え てい るが、 こうし た思想 はまさに 、カン トにお いても 人格の 「相互 承認」
が 道 徳 性 の 基 礎 に 存 し て い る こ と を 示 し て い る 、 と 著 者 は 解 釈 す る の で あ る 。 第二 部 で は フア ヒ テの 実践哲 学が検 討され る。初 期のフ ィヒテは 、カン トが重 視した 意志 の 自 発 性を 徹 底 さ せ、 それを 自我の 絶対的 活動性と して捉 えてい たが、 この過 程で「 自我」
の 「 他 の自 我 」 に 対す る関係 をあら ためて 問題とせ ざるを えない と考え るよう になっ た。そ こ で フ ィヒ テ は 、 『全 知識学 の基礎 』にお いて自我 の原理 を深化 させる のと平 行して 、他の 論 考 に おい て は 他 我問 題と正 面から 取り組 むことに なった 。すな わち、 フアヒ テは、 カント の 自 律 思想 に お け る意 志の自 発性と 相互人 格性のそ れぞれ の側面 につい て考察 を深化 させ、
再び その両 面を統 一しよ うとし た、と 著者は 理解する 。
例えば、『自然法の基礎』において、フィヒテは、自我の非我に対する二重の関係から出発 して、自我と非我との一致は他我において可能であることを導き出す。自我の活動は自発的 ではあるが、その実現のためには、他我からの「促し」という契機によって規定される必要 がある。さらに、他我は自我の自由な活動に余地を与えるのであり、そのために自ら自由な 活動を制限しなければならない。しかし、他我が自我をこのような仕方で取り扱うのは、自 我もまた他我を同様に取り扱う場合である。このような相互関係が「相互承認」と呼ばれ、
法関係の基礎に置かれることになる。また『道徳論の体系』においては、良心に基づき、義 務の確信に従って行為することが自律的であるとされるが、しかしそれにとどまらず、フィ ヒテは、こうした確信を相互に伝達する共同体を構想する。このような共同体はカントの
「目的の国」を捉え直したものであると言えるであろう。また、この『道徳論の体系』で注目 されるのは、共同体全体に対する義務が最高の義務と語られていることであり、これ以降、
フィヒテにおいて全体優位の立場はいっそう顕著になる。このようにして著者は、フィヒテ の実践哲学において、確かに初期から後期へと進むにっれてその重点が自我の問題から全体 論へと移行するにもかかわらず、否むしろこうした移行それ自体が、自らの思索を相互承認 論 ヘ 定 礎 す る こ と に よ っ て 生 じ て き た も の で あ る 、 と 解 釈 す る の で あ る 。 第三部ではへーゲルの相互人格論が考察の対象となる。確かにへーゲルは、カントやフィ ヒテの倫理学の個人主義的性格に満足せず、倫理を現実の共同体のなかに見出すことを提唱 するが、しかしそれは両者の提起した問題の放棄を意味するのではナょい。むしろへーゲル は、個人の自発性と共同性とを結合するものとして相互承認を位置づけようとするのであ る。一般にへーゲルにあっては全体優位の思想が支配的であると理解されているが、そのな かで相互承認論は、全体を個人の側から捉え返すという意義をもっている、と著者は見る。
例えば、『精神現象学』の「自己意識」の章では、フィヒテの『自然法の基礎』に類似した 論法で、自己意識(自我)の実現が他の自己意識(他我)との関係において可能となること が示される。すなわち、自己意識の対象に対する肯定的および否定的な二重の関係から、自 己意識の他の自己意識に対する関係が導出される。だがへーゲルは、こうした相互承認の具 体的内容は現実の共同体(家族、市民社会、国家からなる「人倫」)において与えられると みなすのであり、後期の『法哲学』が「法―道徳ー人倫」の構成をとるのはこのゆえにであ る。ヘーゲルによれば、承認は、法的権利の保障や人格の尊厳の尊重にっきるのではなく、
相互に生活を支えあいながら、相手を自立的なものとして処遇することにある。これが人倫 における承認であり、現実的自由はこれによってもたらされる。著者はここに、社会システ ム 、 と り わ け 国 家 と 個 人 と の 自 由 な 関 係 の 可 能 性 が 示 唆 さ れ て い ると 理解 する 。 もちろん、ヘーゲルの倫理思想はきわめて多彩な内容を含んでおり、一面的な理解を許さ ないところがある。例えば、へーゲルの歴史観によれば、世界精神の自己展開としての世界 史はドイソ民族において完結し、そこからは狭隘な自民族中心主義が現われるという批判が ある。しかし著者によれば、一定の制約はありながらも、へーゲルのうちには平和のための 不 可 欠 の 条 件と して 諸民 族の 相互 承認 を評 価す る思 想 も見 いだ され うる ので ある 。 このようにして著者は、カントからへーゲルに至るドイツ観念論の潮流のなかに相互承認 論の起源と発展を後づけ、ドイツ観念論に対する近年の討議倫理学や自由主義からの批判に 対して十分応えることができると論じている。
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学位論文審査の要旨
学 位 論 文 題 名
実践と相互人格性―ドイツ観念論における承認論の展開
本 審 査 委 員会 は、 上記 申 請論 文を 審査 する にあ たり 、ド イツ 観念 論を 相互 承認 論 の 展 開 と し て読 み解 くと い う本 論文 の意 図が どれ だけ 説得 的に 論証 され てい るか 、 ま た こ れ が ドイ ツ観 念論 研 究に どの よう な貢 献を なし うる か、 とい う点 に焦 点を 当 て て 検 討 す るこ とに した 。 すな わち 、本 論文 は、 ドイ ツ観 念論 を相 互人 格性 ない し 相 互 主 観 性 とい う視 点か ら 統一 的に 把握 する こと 、特 にカ ント 、フ アヒ テ、 ヘー ゲ ル の 実 践 哲 学を 相互 承認 論 の展 開と して 解釈 する こと を目 指し てい るが 、し かし 現 代 の 有 カ な 哲学 者た ちの な かに は、 ドイ ツ観 念論 を本 質的 に「 方法 論的 な独 我論 」 で あ る と す る見 方が 根強 く 存在 して おり 、こ うし た批 判に 対し て、 著者 の解 釈は い か な る 論 拠 をも って 正当 化 され うる かと いう こと に関 して 、前 後四 回の 委員 会お よ び 口 述 諮 問 を 通 じ て 検 討 し た 。
ま ず 、 第 一 部 「 自 律 と 共 同 一 カ ン ト に お け る 承 認 論 の 方 向 づ け 」で ある が、 著 者 自 身 論 文 中で 指摘 して い るよ うに 、カ ント 倫理 学を 相互 人格 性と いう 観点 から 解 釈 す る こ と に関 して は、 い まだ 国際 的に も評 価が 定ま って はい ない 。む しろ 、カ ン ト の 自 律 思 想は 理性 一元 論 であ り、 相異 なっ た存 在者 間の 相互 承認 が道 徳性 の原 理 の 基 盤 に あ ると いう 発想 は カン トの うち には ない 、と いう のが これ まで の一 般的 な 理 解 で あ る 。こ れに 対し て 著者 は、 カン トの 実践 哲学 に関 する 諸著 作を 丹念 に検 討 し 、 関 連 す る国 内外 の多 く の研 究書 を参 照す るこ とに よっ て、 カン ト倫 理学 のう ち に 、 相 互 人 格性 とい う契 機 が深 く根 づい てい るこ と、 この 契機 を欠 くな らば 「目 的 の 国 」 や 「 自他 に対 する 義 務」 とい う重 要な 概念 が理 解不 可能 にな るこ とを 論証 し て い る 。 本 審査 委員 会で は 当初 、こ うし たカ ント 解釈 の成 否に つい ては 否定 的な 見 解 を も っ て いた が、 口述 諮 問、 およ びそ の後 の検 討に よっ て、 この 解釈 が相 応の 根 拠 を 有 し て おり 、新 たな カ ント 解釈 の可 能性 を示 す先 駆的 業績 であ るこ とを 確認 し た 。
第 二 部 「 自 律 と 承 認 一 フ ア ヒ テ に お け る 承 認 論 の 定 礎 」 に 関 し てい えば 、本 論 文 は 、 フ ア ヒテ を、 他者 の 存在 を説 明し 根拠 づけ ると いう 課題 に正 面か ら取 り組 ん だ 最 初 の 哲 学者 とし て位 置 づけ 、今 世紀 の哲 学を 特徴 づけ るキ ーワ ード のー つで あ
宏 彦
子 三
昭 孝
迪 貞
井
田
木
田
坂
新
植
山
授 授
授 授
教 教
教 教
査 査
査 査
主 副
副 副
る「我―汝関係」の原型を、これまで指摘されてきたフォイエルバッハを超えて、
フアヒテのうちに見出したこと、そしてまた、フアヒテ倫理学が、それを独我論的 と批判する現代の討議倫理学そのものの原型をなすような豊かな内容をもっている ことを指摘したことなどが、高く評価されうる。わが国では、カントやへーゲルに 比べてフィヒテ研究はそれほど進展しておらず、翻訳による全集も刊行途中である が、この第二部は、フアヒテ倫理学の全体に関する数少ないまとまった論述として も 、 今 後 の わ が 国 の フ ィ ヒ テ 研 究 に 大 き く 寄 与 す る こ と が 期 待 で き る 。 さらに第三部「承認と共同―ヘーゲルにおける承認論の展開」であるが、著者は 先に刊行した『承認と自由一ヘーゲル実践哲学の再構成』(未来社、1994年)にお いて、わが国におけるへーゲル承認論研究の第一人者としての地位を確立レている。
本論文では、カントおよびフィヒテ思想との対比という作業を行なうことによって、
相互人格性という視点のもとですらドイツ観念論の発展過程が決して直線的なもの ではなく、矛盾に満ちたダイナミックなものであることが自覚され、ドイソ観念論 およびへーゲル研究にいっそうの深みをもたらしたと評価することができる。ただ し、カントからへーゲルに至るまでの承認概念の多義性や、それぞれの相違につい て論究されることが少ないのは惜しまれるところである。
こうした考察を通じて、著者は、承認論という一貫した視点でのドイツ観念論解 釈の可能性を示し、討議倫理学や生命倫理といった現代倫理学の主要な潮流に対し てもドイツ観念論が新たな意義をもちうることを示唆している。この点で、本論文 は、ドイツ観念論研究に重要な一石を投じたものであり、本審査委員会は、本論文 の著者高田純氏にtま博士(文学)の学位を受けるにふさわしい資格があるとの結論 に達した。