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生徒一人一人を大切にする学級経営の研究 : シュタイナーの精神に基づいて

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Academic year: 2021

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(1)学位論文. 生徒一人一人を大切にする学級経営の研究 一シュタイナーの精神に基づいて一. 学校教育専攻 生徒指導コース. 学籍番号 M95161H. 福 元 將 介.

(2) 目 次 はじめに. 1. 第1章 シュタイナーに学ぶ理想的な教育の在り方 第1節 教育の長期的な視点. 2. 1 教育の長期的な視点の重要性. 2. 2 人間認識からの出発. 3. 3 教育の長期的な視点. 5. 第2節 子供一人一人を大切にする教育. 7 7. 1 自由と個性 2 個に応じる教育. 19. 1)子どもの発達段階に応じる教育. 19. 2)個性に応じる教育. 26 28. 第3節 シュタイナーから学ぶもの 1 教育の有機的な関連. 28. 2 子どもを教育の中心に据えること. 29. 3 子どもの集団を理想的なものにすること. 30. 第2章 生徒一人一人を大切にする学級経営 38. 第1節 学級経営 1 学級経営の捉え方. 38. 2 学級目標の重要性. 39. 3 肯定的評価の重要性. 、. 第2節 朝の会・帰りの会. 40 41. 1 教育課程における「朝の会・帰りの会1の位置づけと内容の変遷. 41. 2 朝の会・帰りの会の重要性. 44. 第3節 生徒一人一人を大切にする学級経営の在り方. 45. 1 生徒の意識調査. 46. 2 教師の意識・実態調査. 49. 3 生徒一人一人を大切にする学級経営の在り方. 53.

(3) 第3章 学級経営の実験 第1節 実験の目的と方法. 57. 1 目 的. 57. 2 方 法. 57. 第2節 実験の結果. 59. 1 学級目標づくりの授業について. 59. 2 朝の会・帰りの会での肯定的評価について. 60. 3 学級雰囲気について. 61. 4 自尊感情について. 64. 第3節 考 察. 65. 1 学級目標づくりの授業. 65. 2 朝の会・帰りの会での肯定的評価. 66. 第4章. 今後の課題と展望. 1. シュタイナーの視点から. 69. 2. 学級経営あ視点から. 71. おわりに. 74. 参考文献. 75. 資料. 77. 資料1アンケートの調査結果. 78. 資料2学級経営の実験内容. 81. 資料3学級経営の実験結果. 92.

(4) はじめに 現代の学校教育は、多くの問題を抱えている。依然として受験競争の過熱は続い ており、それに加えて、いじめや不登校、自殺、校内暴力等、数え上げればきりが ない。最近では、自殺予告をして、行事や定期テストを中止させようとする生徒ま で出てきている。このように教育が荒廃している状況にあって、教師は子どもたち と、どのように関わっていけばよいのであろうか。教師は子どもの何を育てていけ ばよいのであろうか。. シュタイナー教育においては、教育の長期的な視点と日々の教育活動が有機的に 関連しており、その意味でシュタイナー教育は、理想的な教育であるといえる。し かし、シュタイナー教育の人間観や教育方法は極めて特殊であり、日本の今の学校 教育に、これをそのまま取り入れることはできない。それゆえ、シュタイナー教育 を取り入れることではなく、そこから何を学ぶかが問題なのである。 本研究の目的は、シュタイナー教育によって理想的な教育の在り方を明らかにし、. それに基づいて、生徒一人一人を大切にする学級経営の在り方を究明することであ る。. 第1章では、まず、シュタイナー教育が人間認識から出発していることを示し、 その人間認識がどのようなものなのかを明らかにする。また、シュタイナー教育に おける長期的な視点とは何かを、広い視野で見ていく。さらに、シュタイナーが人 間の自由や個性をどのように捉えているのかを明らかにし、また、その教育がいか に一人一人の子どもに応じているかを具体的に示す。以上、シュタイナー教育とは どめようなものかを見た後、シュタイナー教育から学ぶべきものを明らかにする。. 第2章では、シュタイナー教育の精神をふまえた上で、学級経営とは何かを明確 にし、蜂屋の理論を手がかりにして、学級経営における学級目標の重要性を明らか にする。さらに、肯定的評価や朝の会・帰りの会の重要性を示す。そして、学級経 営に関係した意識・実態調査をもとに、生徒一人一人を大切にする学級経営の在り 方を探っていく。. 第3章では、生徒一人一人を大切にする学級経営の具体的な方法として、学級目 標づくりの授業と朝の会・帰りの会での肯定的評価を取り上げ、その実践が学級雰 囲気や生徒個々人の自尊感情にどのような影響を与えるかを検証する。. 第4章では、二つの視点、すなわち、シュタイナーの視点と学級経営の視点から 本研究の成果や意義をまとめる中で、今後の課題や展望を示す。. 一1一.

(5) 第1章 シュタイナーに学ぶ理想的な教育の在り方 第1節 教育の長期的な視点 1 教育の長期的な視点の重要性. 一人一人の教師は、具体的な日々の教育活動を通して、生徒の何を育てようと しているのであろうか。つまり、教師はどのような「教育の長期的な視点」を持 って、日々の教育活動に取り組んでいるのであろうか。. 教育の現状をみると、学習指導要領に掲げられている教育の目標や内容は多様 でしかも細分化されているために、ここからは一貫した教育の長期的な視点を読 みとるのが難しい。また、教育は人格の完成を目指しているとはいうものの、そ の目標と日々り教育活動が有機的に関連しているとは言い難い。日々の教育活動 において、教師は大人が社会生活に必要であると考えるものや人格の完成に影響 を及ぼすであろうと思われるものを、単に網羅的、機械的に子どもに与えている だけのように見える。さらに、教師の多忙さも問題である。教師は教科指導や様々. な行事の実施に加えて、いじめや不登校、その他の問題行動への対処に、日々追 われており、それらのことに忙殺されている感がある。このような状況において は、与えられたもの(教科内容や行事など)をいかに消化するか、目の前に起こっ た問題(生徒指導上の)をいかに処理するかが最大の関心事となってしまい、その. 方法論だけが問題となる。それゆえ、教師にとって自分自身の教育活動の意味を 問うことは、差し迫った問題とはなり得ず、教師はその多忙さゆえに、教育の長 期的な視点を持てなくなってしまっているのが現実なのである。. 教育において、教師が長期的な視点を持てなければ、具体的な指導自体も対症 療法的で一貫性がなく、高圧的もしくは自信のない指導になってしまう。長期的 な視点は教師の姿勢に関わり、また具体的な教育活動の課題や方法にまで深く関 わるがゆえにきわめて重要なものなのである。いじめや不登校、自殺などが大き. な社会問題となっている今B、教師が教育の長期的な視点を持って、一人一人の 生徒の成長と発達の支援のために具体的な手だてを考えていくことが、特に重視 されなければならない。. 本研究においては、長期的な視点に立った教育の一つのモデルとして、シュタ イナー(Rudolf Steiner1861∼1925)の教育理論・実践を取り上げることにする。. 一z一.

(6) 人智学に基づくシュタイナー教育においては、その人間観が日々の教育活動に徹 底されていて、生徒一人一人の成長・発達を重視した具体的な教育活動が展開さ れている。ここに、教育の長期的な視点と具体的な方策の理想的な結合がみられ るのである。このシュタイナー教育を参考にして、長期的視点に立った理想的な 教育の在り方を探ることにする。. 2 人間認識からの出発. シュタイナー教育は、徹底的に人間認識から出発している。シュタイナーは言 う。教育はいかにあるべきかを主張し教育改革を目指す団体が、雨後の竹の子の ように生じている中にあって、「私たちは未だいかに教育すべきかを知らない、し. たがって何よりもまず人間についての基本的な認識を獲得しなければならない、 という原理から出発するのであります」1。シュタイナー教育の根本原理は、人間. 認識からの出発であり、そこから、教育の課題や方法がきわめて具体的な形で引 き出されているのである。. では、その人間認識、つまり人智学に基づく人間観とはどのようなものなので あろうか。それは、人間を三層から成るもの、つまり、身体(Leib)と魂(心性Seele). と精神(霊Geist)とから成るものとして捉えることをその根本とする。精神(霊) とは、シュタイナーが、彼の主張する精神科学の上で、霊人(アートマン)、生命霊(プ ッディ)、霊我(マナス)と呼んでいる三つのものから成っているものであり、同様に、. 魂(心性)とは意識魂、悟性魂、感覚魂と呼ばれる三つのものから成っているもの. である2。さらに身体的性質の構成要素として、物質体、エーテル体(生命体、形 成力体)、アストラル体(感覚体)が挙げられており、人間はそれぞれ物質体を鉱物. と、エーテル体を植物と、アストラル体を動物と共有しているとシュタイナーは 述べている3。このようにして、人智学においては、全人としての人間は物質体、. エーテル体、アストラル体、意識魂、悟性魂、感覚魂、霊我、生命霊、霊人の九 つの構成要素から成るとされる。また、人間が地上の他の存在と共有することの ない第四の本質部分として、自我(私)の担い手である自我体を想定すると、人間. の本質はもっと単純化できる。つまり、人間の本質は、物質体、エーテル体、ア ストラル体、自我体の四部分から成っており、感覚魂、悟性魂、意識魂、および、. 霊我、生命霊、霊人は、この四部分が高められ姿を変えて現れたものであるとシ ュタイナーは言うのである4。. 一3一.

(7) ここで注意しておかなければならないのは、シュタイナーにとって、これらの 人間認識は、単なる幻想や空想、仮定なのではなく、実際に存在する実体である ということである。シュタイナーによれば、「エーテル体は一つのエネルギー体で ある。エー…テル体は動的な諸力から成るものであり、物質から出来ているもので. はない。そして、アストラル体または感覚体は内的に流動的な、色彩的で輝きを 発する心的映像より成る実体なのである。感覚体は形と大きさの点で肉体と異な っている。人間の場合は長めの卵形をしており、その中に肉体とエーテル体を包 容している。アストラル体は光の像の如きものとして両者の上に全面的にそびえ 立っている」5ものなのである。しかしながら、当然これらは自然科学的な認識方 法では認識できない。シュタイナー一・一によれば、より高次の認識能力、つまり超感. 覚的な認識能力が必要なのであるが、この超感覚的な認識能力は、誰でも獲得で きるものであり、それを獲得する方法をシュタイナーは具体的な形で提示してい るのである6。. シュタイナーは人間認識だけでなく、超感覚的・霊的な世界として、三界や霊 界についても、その細部にわたって具体的な実体として提示する。その一部を彼 の著書『神智学』7から拾い上げてみる。彼は言う。「われわれの胃、心臓、肺、. 脳を構成し支配している素材と力が物質界のものであるように、われわれの衝動、. 欲望、感情、情熱、願望、感覚といった魂の特性は二二世界のものである。人間 の魂は、肉体が物体的世界の一部分であるように、三二世界の一回分なのである」。 さらに彼は、「共感」と「反感」の二つが魂界の根本的な力であり、この二つの作用. が魂的構成体の種類を決定するとして、物質界での固体、液体、気体、光等と対 比させながら、魂の世界の七つの領域を具体的に描き出してみせる。また彼は、 霊界についても、「霊界が、人間の思考内容を織りなす素材とまったく同じ素材に よって、織りなされて」おり、霊界も二二と同様に、七つの領域から出来ているこ. とを、物質界の大陸、海、大気圏等と比較しながら具体的に記述している。そし て、彼は、人間が三つの世界(物質界、魂界、霊界)に住む市民であるとして、次 のようにまとめている。「魂界や霊界の構成体は、外的な感覚的知覚の対象となる. ことができない。感覚的知覚の対象は三界、霊界以外の第三の世界と見なされね ばならない。人間は体的存在であるときにも、この三つの世界の中を同時に生き ている。彼は感覚的世界の事物を知覚し、この事物に働きかける。魂界の構成体 は共感と反感の力を通して彼に影響し、そして彼自身の魂も愛着と反発、願望と 欲望を通して、魂界の中に波紋を投げかける。一方、事物の霊的本性は彼の思考 世界の中に自己を映し出しており、彼自身も思考する霊的存在として、霊界の市. m4m.

(8) 民であり、霊界領域に生きるすべてのものの仲間だといえる」。. さらに強調しておかなければならないことがある。それは、これらの人間認識 や世界観の背後にある壮大な宇宙的視野である。シュタイナー一一一一は、超感覚的な認. 識能力によって、「アーカーシャ年代記」8と呼ばれるものを読み解き、何百万年と いう壮大な人類の歴史や人間の運命と結びついている天体(地球)の歴史を明らか にしている。彼は言う。「人間の運命と結びついている天体は、過去に三つの段階. を通り抜け、現在はその第四段階にあり、これから人間が自己の内に持っている 可能性のすべてが発達し、また人間が完成の極に達するまでに、さらに三つの段 階を通り抜けねばならない。」9、「神秘学の命名方に従えば、レムリア人、アトラ. ンティス人、そしてアーリア人は、人類の根源人種である。そのような根源人種 が二種類、レムリア人に先行し、さらに将来において二種類がアーリア人に続く ことを思い描くならば、人は七という総和を得るJ iO。つまり、現在の人間は、地 球の進化過程の第四段階における、第五番目の根源人種(アーリア人)の段階にい. るというので幽る。そして、人類の発展過程の特定の時期には特定の課題があり、. それゆえ教育上の課題もその人類の発展段階の中で見いだされなければならない とシュタイナーは主張している11。. 以上述べてきたように、シュタイナー教育は人智学的人間観をその根底として、. そこから出発しており、その背後には、三界や霊界という超感覚的な世界観があ る。そして、そこにおける教育の長期的な視点は、壮大な宇宙的人類史の中に存 在しているのである。. 3 教育の長期的な視点. シュタイナー教育の長期的な視点は、宇宙的人類史の中にあるとはいえ、そこ における課題は、人智学的人間観に基づいた教育によって実現される。では、シ ュタイナーは、その人間観に基づいた教育によって、具体的には何を目指し、何 を実現しようとしたのであろうか。シュタイナーは言う。この教育の目的は「肉体、 魂、精神一体の全人を十分に育成する」12ことであり、「(ヴァルドルフ学校13は)子. どもたちを肉体の面では健康で強壮な人間にし、心(魂)の面では自由な人間にし、. 精神(霊性)の面では明晰な人間にすることを目指しております。肉体的な健康さ. と強壮さ、および心の自由と精神の明澄は、人類がその未来の発展の中で、社会 的な生活においても最も必要とするものでありましょう」!4。また、さらに、彼は. 一一. T一.

(9) 次のようにも言っている。「今日における社会悶題は、その最大のものは教育問題. であるといえるのであります。…今日の社会秩序や社会組織ほど悲劇的でなく有 害でもない、新しい社会秩序や社会組織がこの世に生まれ出るためには、…まず 最初に、精神(霊性)という観点から(すなわち精神的な営みによって)育て上げら. れた人間を、現実の生の中へ、つまり言いかえれば社会という共同体の中へ、送 り込んでやらねばならないのです」15。このようにシュタイナーは、人智学的人間. 観に基づいた教育によって、全人的人間の育成を目指すとともに、それによって、. 彼の時代の悪しき社会の改革をも目指していたのである。シュタイナーは、理想 的な社会として社会の三層化を提唱している。その三層化とはどのようなものな のか。それは、社会を精神生活の領域(教育はこの領域に属する)、経済生活の領. 域、国家生活もしくは政治生活の領域の三領域からなるものと捉える。そして、. これら三つが有機的に結びっきっっ、しかも各々が強い独立性を持つことが重要 であり、精神生活においては自由が、また、経済生活においては博愛が、さらに、. 国家生活もし≦は政治生活においては平等が最高の理想にならなければならない と主張するものである16。シュタイナーは、教育によって社会の改革を目指し、究. 極的には、社会の三層化という理想社会の実現をも目指していたのである。. シュタイナー教育の長期的な視点としては、それが子どもの全生涯を視野に入 れているという点も見逃せない。また、彼は、人智学的人間観に立って、人間の 誕生からおよそ二十一歳までの発達段階を明確にし、その発達段階に応じた教育 の課題や方法を具体的に提示してる。それゆえ、シュタイナー教育においては、. 目々の教育活動がその子どもの発達や全生涯にどのような影響を与えるのかが常 に意識されているのである。発達段階に応じた教育については、次飾で取り上げ ることにして、ここでは全生涯を視野に入れている点について述べる。シュタイ ナーは言う。「私たちが子どもに対して行うことは、単にその瞬間においてのみ意 味を持つのではなくその子の全生涯に作用を及ぼすのです。」17、「真の教育者にお きましては、…死に至るまでの全生涯を考えることが重要なのです」 18。そして彼. は、子どもの時期における教育が、後年の人生にいかに影響を与えるかを具体的 に指摘している。例えば、「この時期(七歳から十四歳の問)に、教育者を自明の権. 威として仰ぎ見ることができなかった子どもは、決して自由な人間になることが 出来ません。この時期に権威に帰依することを通して、人間は自由を獲得するの です。」19、「若い頃に人を尊敬することを学ばなかった者は、後年になって人に恵. みを与えることが出来ないのです。」20と彼は言う。さらに、彼は病気との関連も たびたび指摘する。例えば、「新陳代謝系の病気は、歩行開始時の愛情のない取り. 一6一一.

(10) 扱いの結果であり、消化器系の障害は、話し始めた頃に不誠実な取り扱いを受け た結果であり、神経症は、幼児期の環境における混乱した思考の結果」21であると. いう。また、五十歳の時と八歳、九歳の時は、互いに関連しており、八歳、九歳 の時に記憶力に負担をかけ過ぎると五十歳で動脈硬化になるという22。そして、彼 は、「様々な事例がありますが、:重要なのは、心魂的一精神的に自然に適つた授業. は、衛生学的に身体に作用するということです。」23と述べ、人智学的人間観に立 った授業の重要性を強調している。. 以上述べてきたように、シュタイナーは、理想社会の実現を目指し、教育にお いて、人智学的人間観に立った全人としての人間を育成しようとしている。そし て、この教育における長期的な視点は、人間の全生涯をも見通しているのである。 シュタイナー教育における教育理論は、緻密な人間認識から出発することによっ. て、その長期的な視点をきわめて具体的に描き出している。つまり、子どもの発 達段階のそれぞれにおける教育の課題や方法が明確であり、それらがすべて長期 的な視点につながっているのである。これこそ、シュタィナー教育が理想的な教 育である由縁であり、このような長期的な視点が教育には必要なのである。シュ タイナーは言う。「人智学は、場合によれば非常に不完全なものでありましょう。. それは十分にあり得ることでありますξそのときには、そう思う人が自ら正しい と思う別の世界観を生み出せばよろしいのです。但し、本当に教育芸術家として. 人間を扱っていこうとする者には、どうしても一つの世界観がなくてはなりませ ん」24。教育には世界観が不可欠なのである。人間認識を得させる世界観こそ、教. 育において最も重要なものであり、教育の課題や方法はそこから引き出されてく るべきものなのである。世界観・人間観と教育の有機的な関連、これこそシュタ イナーが最も重要視したものなのである。. 第2節 子供一人一人を大切にする教育 1 自由と個性. シュタイナーが人間の自由や個性について語るとき、それらは「認識」の問題と 深く関わっている。彼は言う。「感覚から自由な思考を、人間内部の純粋に霊的な ものとして認めない限り、決して(人間の)自由は理解できない。そして逆に、感 覚から自由な思考の現実性を洞察しさえずれば、直ちに(人間の)自由の概念を理. 一一. V一.

(11) 解することができる」25(括弧内筆者)。このように、彼は、「感覚から自由な思考」. の領域の問題として、人間の自由を捉えているのである。それゆえ、「感覚から自 由な思考」とはどのようなものなのかを明らかにするために、まず彼の認識論を取 り上げることにする。. シュタイナーによれば、「人間の認識には限界がある」という考えが当時の通念 となっていたのであるが、彼にとって、この考えはまったく受け入れ難いもので. あった。なぜなら、すでに、彼は感覚的世界を越えた世界を体験し、認識してい たからである%。それゆえ、彼にとって、この考えを乗り越え得る認識論を確立す. ることがきわめて重要なテーマであった。そして、研究に取り組む中で、彼はゲ ーテと出会い、彼自身の観点から発生する認識論がゲーテの世界観に他ならない ことを発見し、さらに詳細にゲーテ研究に取り組むことによって、ついに彼自身 の認識論を確立していったのである27。. 彼は、その著書『ゲーテ的世界観の認識論要綱』において、カントやヘーゲル、 ショーペンハウアーらと対決しながら、認識の限界について考察している。彼は、 ヘ. ヘ. ヘ. へ. まず経験と思考を取り上げ、それらをあらゆる精神行為の出発点とする。ここで の経験とは、純粋経験のことであって、現実を感覚によって把握するときに最初 に現れる内容や現象であり、そこにはまだ思考がまったく働きかけていないもの である。そして注目すべきは、彼が思考さえも経験の中に組み込んでいることで ある。彼は言う。「思考が、世界の中により深く入り込むための道具であるべきな ら、思考自身がまず経験になる必要がある」28、「哲学者の多くは、思考と経験の問 に対立を見出していた。しかし、私にとっては、思考そのものが経験であった」29。. このように、彼は思考自体も経験として捉えるのであるが、これによって初めて 「私たちの世界観に内的な統一性が与えられる」30と彼は主張する。彼は、徹底的に. 経験のみから幽囚することによって、統一的な世界観を打ち立てようとしたので ある。思考について彼は次のように述べている。「関連の全くない経験の混沌の中. で、私たちをこの無関連さから抜け出させてくれる要素もまた、先ず経験できる 事実として見出される。それは思考である。思考は経験の中でも、経験事実とし てすでに例外的な位置を占めている」31。思考という経験は、それ以外の経験とは. まったく異質なのである。では、思考はどのように異質なのか。シュタイナーに よれば、思考以外の経験の世界においては、もし感覚が提供するものにとどまる ならば、個々の事実の間の関連は見出されない。しかし、思考の場合は、例えば 我々が原因という考えを持てば、その考えは、それ自身の内容によって我々を結 果という考えに導いてくれる。我々は思考を、それが直接の経験として現れるそ. 一8一.

(12) の形のままで把らえるだけでよい。「そのときすでに思考は、法則性を持った規定 として現れるのである」32。つまり、思考以外の経験の場合には、その対象の本質. 的な部分は隠されたままであるが、思考の場合には、その本質的な部分も含めて 対象の全体が余すところなく開示されているのである。換言すれば、思考以外の 経験では、その対象の外面しか把握できないが、思考の場合には、それが我々の 完全に内的な経験であるが故に、その思考のすべてを体験し、把握することがで きるのである。このように、思考は、その他の経験とは異質な経験であって、そ の異質き故に、つまり、思考がそのすべてを開示しているが故に、我々は、思考 の最も本質的な特性を真に認識することができるのであり、それゆえ、思考は「確 実に、世界を考察するどんな方法にとっても出発点となり得る」33と彼は主張する。. そして、彼は次のように断言する。「私たちが本当の法則性、理念的な確実性を知 るのは思考の中だけである。それゆえ、その他の世界の法則性(これは世界自体か らは得られない)もすでに思考の内に存在するに違いない」34。. ここで、思考の主観性が問題となろう。つまり、思考は個人的、主観的なもの であるから、そこから世界の本質に迫っていくことは不可能ではないかという疑 問が起こってくる。このことに関して、彼は次のように述べている。「思考生成の. 過程の中で思考がどのような結合をするべきかを決定するのは私たちではない。. 私たちは、思考内容がその本性に従って展開できるように、場を提供するにすぎ ない」35。Aという考えとBという考えとの特定の関係を決定するのは我々の主観. 的な有機体組織ではなく、AとBの内容そのものだけが決定的であり、我々はそ こに何の影響も及ぼさない。従って、我々の思考世界は「全く自立的な本性であり、. 自ら完結した、完壁で完成された統一体」36であって、その登場する場が主観的で. あるだけで、内容自体は客観性をその本質とする、と彼は述べている。つまり、 彼は、思考という経験をよく観察してみれば、思考は恣意的なものではなく、我々. はそれによってただ導かれるだけである、と言っているのである。彼は、このよ うな思考のことを「感覚から自由な思考」37という言葉でも表現している。すなわち、. シュタイナーによれば、思考は本来二重の課題を負っている。その第一は「厳格に. 枠づけられた概念を創造することjであり、第二は「このようにして創造された 個々の概念を統一的な全体にまとめることである」38。第一の課題は識別する行為. であり、これは悟性によって為される。第二は結びつける行為であり、これは理 性によって為される。この理性によって結びつけられたものが理念であり、この 理念が先の思考世界でもある。彼が思考を経験として問題にするとき、思考の第 二の課題、つまり理性による思考を問題にしているのである。悟性は感覚的知覚. 一9一.

(13) と関与しているが、理性はそれとまったく関与していない。つまり、理性による 思考とは、感覚的知覚を超越した自由な思考活動なのであり、「感覚から自由な思 考」なのである。理念が主観的なものでないことは、それがどのようにして発生す るかを観察すれば明らかであると、彼は言う。すなわち、「理性はある特定のra 一一. を前提とするのではない。むしろ統一のための空虚な形式であり、もし対象自身 の内に調和が存在すれば、それを明るみへと引きtllす能力である。理性において 諸概念自体が自ら結合し理念となる」39。それゆえ、彼は、「感覚から自由な思考」 による認識は「体験」COを意味すると言い、人間の精神、意識をそれぞれ次のように. 捉える。我々の精神とは思考を取り入れるための単なる器ではなく、「思考を知覚 する器官」41と見なすべきであり、我々の意識とは思考をつくり出し保存する能力 ではなく、「思考(理念)を知覚する能力」42である。ここで、「感覚から自由な思考」. について付言すると、このような思考方法を徹底的に実践したのがゲーテである と彼は言う。ゲーテは、自然を観察する際、「まず対象をあるがままにとらえ、主. 観的な意見を全く遠ざけて対象の本質に徹底しようとする。そして諸対象が相互 に作用し得るような条件を作り上げ、そこで何が起こるかを待つ。ゲーテは、自. 然がその法則性を開示できるような特徴的な状況を作り上げることに努め、いわ ば自然がその法則性を自ら打ち明けるようにし向ける」43のであると彼は述べてい る。. 以上述べてきたことによって、「カントとショーペンハウアーの立場、そして 広い意味でのフィヒテの立場も反証された轡と彼は主張する。つまり、我々が世 界を解明するために仮定する法則は我々の精神の組織から派生するにすぎないと. する主観主義的な立場が反証されたというのである。また、彼はヘーゲルについ て次のように述べている。「思考の内的な堅実性と完壁さへの洞察を最もはっきり. と示しているのはヘーゲルの学問体系である。ヘーゲルは他の誰よりも思考に完 壁な力を認め、思考は自らの内より世界観を確立することができるとした」45。こ. のように、彼は、ヘーゲルを高く評価しながらも、ヘーゲルが思考の客観性のみ を強調したために、思考に対する混乱をもたらしたという。すなわち、「思考の法 則性が純粋に理念的なものでなく、事実的なものだ」caという誤解が生じたのであ る。しかし、これは誤解であり、これによって「思考世界の客観性が少しも失われ るものではない」47と彼は主張する。思考自体は、主観的なものでも、客観的なも. のでもないのである。なぜなら、主観一客観という対立は、思考によって初めて 設定されるものだからである。つまり、我々は思考によって主観となり得るので あり、我々の個的な主観が思考するのだとは言えない。思考自体はこうした対立. 一 10一.

(14) を越えているのである。シュタイナV一・一によれば、思考とは主観と客観という両概 念を越えたものであり、「主観と客観の彼方」「eにあるものなのである。. シュタイナーは、認識について次のように述べている。「私にとって認識とは、. 魂によって体験された霊的内容を、知覚された世界の中に再発見することを意味 した」49。魂によって体験された霊的内容とは、言い換えれば、「感覚から自由な思 考」によって体験された理念(思考世界)の内容のことである。彼は、感覚的世界に. 眼を向け、次に外部に向かって感覚的世界を突破することによって真の現実に到 達しようとする認識方法を否定する。「真の現実はそのような外部に向けての突破 ではなく、人間の内部への沈潜によって見出される」50ものであると彼は言う。シ ュタイナー・一一によれば、現実は二つの領域に分かたれてあり、一方は経験で、それ. は現実の半面にすぎない、もう一方は内的に完結した思考である。この両者の関 係を人間自らが、学問すなわち思考による認識によってつくり上げなければなら ない。「下から迫ってくる感覚世界、上から光り輝いてくる思考世界、…この両世 界を不可分の緯一体へと結合する」51こと、これが彼の言う現実認識なのである。 彼は、通常の認識論研究の立場を次のようにして退ける。普通、人は「認識とは経 験を加工処理することである」、「思考は内部(論理的)強制に基づいて、経験から. その背後に存する本質に迫っていく」と規定するが、これは単なる形式論にすぎな. い。形式的な認識学は、学問が得るものと森羅万象との関係について何の見解も 持っておらず、それは永久に実りをもたらさない。なぜなら、「そもそもこの関係 こそ認識論において解明されなければならない」52ものだからである。そして、彼 は「思考が世界の本質」53であることを、次のようにして結論づける。「学問的に何. かを確定するためには、私たちは意識の内に与えられたものの中に必ずとどまら なければならない」54。これを越えていくことはできない。意識を飛び越えると、 本質を見失ってしまうが、このことがわかったとしても、「事物の本質が私たちの. 意識の内で理念知覚という形で把らえられることを納得しないと、認識には限界 があるとする過誤が生じる」55。しかし、これは誤解であって、「そもそも思考は、. それ自身に固有な法則性を他の世界にも見出そうとする紛れもない傾向だけを持 っており、自分に全く知ることのできない何物かを求めようとしないj56。要する. に、事象の中に、思考の法則性が存在する場合にのみ、我々は問いを発するので あり、もともと事象にそのような法則性が存在しないような場合には、問いは起 こらない。つまり、そこに何らかの法則性が存在するから、人間はある種の不均 衡を感じ、認識への欲求が起こるというのである。このようにして、:事物の本質 は理念の中に存在するのであり、それゆえ、「思考が世界の本質」なのである。. 一11一.

(15) これまで、シュタイナーにとっての認識の意味やその限界について述べてきた。. 要するに、彼にとっては、感覚的世界は真の現実ではなく、感覚的世界を越えた 世界(思考世界あるいは理念世界)こそ真の意味での現実なのであり、人間は、「感. 覚から自由な思考」によってこの超感覚的世界をも認識することができるのであ る。そして、彼にとっての認識とは、この両世界、つまり感覚的世界と超感覚的 世界を融和させることであり、このような場合、認識の限界について語ることは 無意味なのである。なぜなら、認識の限界は「一時的なものにすぎず、知覚と思考 が進むにつれていっかは克服される」57ものだからである。以上のことを前提とし て、次に自由と個性について述べることにする。 シュタイナ・一一の著書『自由の哲学』における主要テーマは、「人間の自由とは. 何か」を解明することである。彼は、この著書の中で、自由と関わって、まず意志 行為を成立させる要因を二つ取り上げている。「個々の意志行為は常に動機と衝動. という二つの要因を持っている。動機は概念や表象による要因であり、衝動は人 体組織に直接制約された意志要因である」58。同じ概念や表象も一人一人の人間に. 同一の反応を引き起こすのではなく、個人の性格・素質の在り方によって異なる。 彼は、この個人の在り方のことをr性格(学)的素質」59 (括弧は筆者)と呼んでいる。. 要するに、性格的素質とは直接行動を引き起こすもの、つまり行動の原動力とな るもののうち、個人的なものなのである。それゆえ、意志行為を考察する場合に は二つの事柄を区別しなければならない。二つの事柄とは性格的素質それ自体と、. 動機となり得る表象や概念である。次に、この二つの事柄について述べることに する。まず性格的素質についてであるが、そもそも性格的素質は個人の持続的な 生活内容によって形成され、その個人生活は次の四つの要素から成り立っている。 個人生活のそれぞれの要素における性格的素質を見てみよう。 ①第一段階〈感覚による知覚の要素〉:知覚が直接意志に転化される場合。ここ では、衝動そのもの、つまり空腹や性的欲求などを満たすことが問題となる。. この段階の特徴は個別知覚が意志に転化される際の直接性にある。本来は低次 の感覚生活にのみ固有のこの意志決定は、高次の感覚の知覚吋容にも適用され うる。そのときの行動は、生き様、人間味と呼ばれる。知覚内容を直接行動に 転化させることが多ければ多い程、その人は純粋に自分の生き様にふさわしい 生活をしていることになる。言い換えれば、生き様が性格的素質になっている。 ②第二段階く感情の要素〉:特定の感情は、外界の知覚内容に結びついて行為の 原動力、つまり、性格的素質となり得る。例えば、同情、三二心、誇り、復讐、 愛情、義務感など。. 一12一.

(16) ③第三段階く思考と表象の要素〉:表象も概念も考慮することだけで行動の動機 となることが出来る。これまで同じような場合に自分が行ってきたことや、自. 分の周囲で行われてきたことに関する表象、このような表象が行為の決定に際 して手本として意識化されるが、それもまた、性格的素質の一部分となる。 ④最高段階く特定の知覚内容を顧慮することのない概念的思考の要素〉:概念内. 容を純粋直観を通して理念界から取り出し、この純粋直観の影響の下に行動す る場合には、純粋思考が行動の原動力となる。この純粋思考の能力が理性であ へ も ヘ へ. り、この段階の衝動は実践理性と呼ばれる。これは直観から直接生じてくる行 動への衝動である。このような衝動はもはや性格的素質の領域には入らない。 なぜなら、ここで原動力となって働くのは、私の直観の理念内容であり、従っ. て普遍的な内容となっており、もはや私の内なる単なる個的なものではあり得 ないからである。. 次に、動機となり得る表象と概念について述べる。彼はここでも段階的に述べ ている。第一二階は利己主義の段階で、自分または他人の満足感の表象が動機と なる場合である。ここにおける他人の満足感の表象とは、他人の幸せを願うこと は願うが、それは幸せな他人の存在によって間接的に自分に対する好ましい影響 を期待するためにそうしたり、あるいは他人を損なうことで自分の利害が脅かさ れるのを恐れてそうする場合のことである。. 第二段階は権威に服従する段階で、純概念的な行為内容が動機となる場合であ る。これは行為を体系づけられた道徳原則の基礎の上に置こうとするものであり、 その道徳的必然性の根拠を問うことなく、服従を求める道徳命令に従うことであ る。要するに、これは国家、社会道徳、教権、神の啓示等として認められる道徳 上の権威に服従する段階である。彼は、自分自身の内なる声である良心に従う場. 合もこの段階に含めている。彼は良心という語の中に、ある種の超越者の意志や 命令を感、じ’とり、そこにはすでに内発的な形式をとりながらも純粋に内発的であ. ることをやめて、外的権威に比較できるものが生じているとみるのである。. 第三段階は、認識によって行動する段階、すなわち外的もしぐは内的な権威の 命令を行動の動機にするのではなく、道徳生活の要求を意識化して、認識するこ とから個々の行動を決定しようとする段階である。彼はこの段階を、「権威によ る道徳」から「認識による行動」への道徳上の一大進歩を意味するものとして位置. づける。道徳生活の要求とは、①人類全体の幸福、②人類の道徳的進化もしくは 文化の進歩、③まったく直感的に把握された個人の道徳目標の三つである。この 段階においては、ある状況の下では文化の進歩を求め、他の事情の下では全体の. 一13一.

(17) 幸福を求め、第三の場合には自分の幸福に関心を寄せる。そのような個々の場合 に応じてその都度、行動の動機を決定する。. 第四段階は、概念的直観によって行動する場合である。第三段階では、三つの 道徳生活の要求を意識化して、その都度行動の動機を決定していた。しかし、す べてのそのような個別的道徳目標が副次的なものになってしまい、概念的直観そ のものが主役を演じる場合がある。概念的直観によって得られた行動の理念内容 だけが動機となって働くのである。このような場合こそが、考え得る最高の段階 である。 ヘ. ヘ. ヘ. ヘ. ヘ. ヘ. ヘ. へ. このようにして、性格的素質の二段階の場合は、純粋思考、実践理性として働 ヘ ヘ ヘ ヘ へ くものが最高のものであり、そして動機の場合の最高のものは概念的直観である. ことが示されたのであるが、この最高の段階においてはこのような衝動と動機が. 互いに結びつく。つまり、この段階においては、あらかじめ定められた性格的素 質も、規範的に働く外的な道徳原則も、そのいずれも我々の行動に働きかけない。 そこでは「もつ.ばら理念の内実から行動が為される」60のである。このような行動. の場合、その前提として「道徳的直観能力」が必要であり、この能力のない人、つ. まり「個々の場合にそれに応じた道徳原則を取り出す能力のない人は、決して真 に個的な意志を実現しないであろう」と彼は述べている61。このことによって、シ. ュタイナーはカントと正反対の立場をとるのである。すなわち、「『おまえの根. 本命題がすべての人間にも当てはまるような行動をせよ』とカントは言う。この 命題はすべての個的な行為を死へ追いやる。(しかし)すべての人がやるような行. 動の仕方が私にとっての規準なのではなく、個々の場合に何をしたらいいのかが 問題なのである」62(括弧は筆者)とシュタイナーは主張する。シュタイナーは、こ. のような自分の立場を「倫理的個人主義」であると宣言して、次のように述べてい. る。「私たちの中で活動している理念の総体、つまり私たちの直観の具体的内容 を形成しているものは、理念の世界が普遍的であるにもかかわらず、各人におい. て個別的な性質を帯びている。この直観の内容が行動に移される限りで、それは 個人の倫理的内容となる。この内容を生活の中で充分に発揮させることこそ、人 間の持ちうる最高の道徳的衝動であると共に、最高の動機なのだ。そのような人 は、他のあらゆる道徳的原則が、結局この内容において統合されることを見抜く であろう。この立場を、私たちは倫理的個人主義と名付けることができる」63。. ここで、個人主義という面に関して、次のような反論が出てくるかもしれない。. すなわち、すべての人が自分が好きなように行動したり、生きたりしたいと望む ならば、正しい行為と犯罪行為とが区別なく行動に移されてしまう。ある行為を. 一一. @14一.

(18) 理念に従って行うことではなく、それが善であるか悪であるかを吟味することが 道徳的であることの意味である、と。これに対して、彼は次のように答えている。 もちろん直観に発した意志行為はすべて個人的な行為なのであるが、犯罪行為ま. たは悪そのものが、純粋直観の実現と同じ意味で個体性の自己表現であると言え るのは、その盲目的衝動が人間個性の一つに数えられるときだけである。しかし、 「犯罪行為に駆り立てる盲目的な衝動は直観から発するものでも、人間個性に属. するものでもなく、人間における最も一般的なものに属する。…私の内なる個性 とは私の生体の衝動や感情のことではなく、私の生体の中に輝くかけがえのない. 理念界のことである。私の衝動や本能や情熱は、私が一般的な意味での人類の一 員であるということ以外の何事をも証明してくれない。衝動や情熱や感情の中に 理念的なものが特別な仕方で現れる事情こそが、私の個性を基礎づけている。私 の本能や衝動だけでは、私は一ダースの中の一員にすぎない。その十二人の中で、. 他ならぬ私がかけがえのない自我として現れることができるのは、特別な形式を 持った理念にきるのであり、それによってのみ私は個体なのである。…私は思考 を通して、言い換えれば私の生体内に働く理念的なものの積極的な把握を通して、 私自身を他の人から区別する」64。このように、シュタイナーにとって個性とは、. 理念的なものを直感によって把握するときに現れるものなのであり、従って盲目. 的衝動は直観から発するものではない故に、個性に属するものではない。それは 類に属するものであって、盲目的な衝動から犯罪を犯す人は個性的な人間なので はなく、むしろ全く個性のない人間のことなのである。. また、倫理的個人主義に対して次のような非難も予想される。それは、人間の 一人一人が自分の個性を主張しようとしているときに、一体どうして共同生活が 可能だといえるのか、というものである。このように言う人は、「私の中に働く. 理念界も私の隣人の中に働く理念界も同じものであることがわからないのだ」65 と彼は言う。「私と私の隣人の相違は、互いに異なる精神界を所有していること. にあるのではなく、共通の理念界の中から私の隣人が私とは異なる直観内容を受 け取る、という点にある。…人間本性の中に根源的な調和を基礎づけるものがな かったとすれば、それを何らかの外的法則によって植え付けることもまたできな いであろう。それぞれの人間個性が同じ精神の所産であるからこそ、人間は相互 に調和的に生きていけるのである」66と彼は述べている。このように彼は、理念界. はただ一つであると主張し、その唯一の理念界から道徳的直観、つまりは「感覚 から自由な思考」による体験によって、他人と異なるものを引き出すところに個 性をみようとしているのである。. 一 15 一一.

(19) 自由の問題に戻ろう。シュタイナーは、「行為の自由は、倫理的個人主義の観 点からのみ可能となる」67と主張する。そして、自由を次のように定義している。. 「行為の理由が私の個人的本性の理念的部分から生じている限り、それは自由な 行為と感じられる。それ以外の行為は、それが自然の拘束力に基づくものであれ、. 倫理的規範の強制から為されたものであれ、不自由と感じられる。人間は、生の どんな瞬間にも、自分自身に従う立場にいる限り自由である」68。自由とは、個人. の理念的な箇所から生じてくるものに基づくということであり、決して何かに従 うことではないのである。彼は、カントの「合法則的な道徳」69、すなわち法則に. 従う道徳と対決する。「カントは義務について次のように言う。『義務よ、おま えは崇高な偉大な名前だ。おまえは自分の中に媚びへつらうものを何一つ寄せ付 けず、すべてに服従を求める』。おまえはまた『すべての選り好みが沈黙せざる. を得ないような…法則を課する。たとえその選り好みがどれほど巧みに姿を隠し て忍び寄ろうとしてもである』」70。シュタイナーは、この義務に対して自由を対. 峙させる。「自由よ、おまえは人間的で親しみやすい名前だ。おまえは私の人間 性にふさわしいと考えるすべての道徳的欲求を取り上げ、私を決して他人の従者 にしょうとしない』おまえは法則を打ち建てるばかりでなく、私の道徳的な愛そ のものが法則となり得る『ことを願っている。なぜなら愛は、いかなる強制的な法 則の支配をも、不自由と感じるからである」71。法則に従う道徳では、人間は道徳 の「単なる執行人」または「高級自動人形」になってしまう72、とシュタイナVF一・一は言. い、カントの倫理学を批判する。それゆえ、倫理的個人主義のみが自由を根拠づ けることができると彼は主張するのである。シュタイナーの道徳は「自由な道徳」. へ である。そして、それは義務に基づくのではなく、愛に基づく道徳である。「自 由の道徳」においては、拘束されるものは何もない。そこには、行動することの 喜び、行動によって実現されるものへの愛のみがあるだけなのである。彼は言う。. 「対象への愛に従うときのみ、私は行為する主体であることができる。この段階 の道徳においては、私は主人の命に服するから行動するのではない。外的権威や いわゆる内なる声に従って行動するのでもない。私は自分の行動の外的原則を必 要としない。なぜなら私自身の内部に行動の根拠を、行為への愛を見出したのだ から。私の行為が良いか悪いかを悟性的な手段で調べようとも思わない。私が行 ヘ. ヘ. ヘ. ヘ. へ. 為するのは、それを愛しているからである。愛に浸った私の直観が直観的に体験 されるべき世界関連の中に正しく存在しているとき、その行為は『善』になり、 そうでない場合の行為は『悪』になる。私はまた、他の人ならこの場合どのよう. な態度をとるかと尋ねようとは思わない。私という特別な個性がそうしようと二. 一 16 一一.

(20) を促すからこそ、私は行為するのである」73。. シュタイナーの認識の仕方については既に述べたが、その際、世界の本質は人 間の個的な理念の中に存在するのであった。これと同じように、道徳的世界秩序 の本質も個的な道徳理念の中に存在している、と彼は主張する。すなわち、「人 間は自分の外にある道徳的世界秩序を実現するために存在しているのではない。 ヘ ヘ ヘ …人間は道徳のために存在するのではなく、人間によって道徳行為が存在するの. である。自由な人間が道徳的な態度をとるのは、道徳理念を所有しているからで ある。…個的な人間の本質に属する道徳理念こそが道徳的世界秩序の前提なので ある。個的人間こそが一切の道徳の源泉なのであり、地上生活の中心点なのであ る」74。もちろん、個人が道徳の源泉となり得るためには、道徳理念を認識する能. 力、すなわち道徳的直観の能力を獲得していなければならない。この能力を獲得 している人間にとっては、善は義務ではなく、欲求なのである。「善と呼ばれる ものは、真の人間本性にとって、為すべき事柄なのではなく、為そうと欲する事 柄なのであるゴ5。そして、このような人間こそ「自由な人間」なのである。しかし、. そのように自分が正しいと見なすことを欲することの出来るような人間が、はた して存在するのであろうか。これに対して、彼は次のように答えている。「我々 の人生は自由な行動と不自由な行動とから成っている。けれども人間本性の最も 純粋な現れである自由な精神に到ることなしには、〈人間〉という概念は究極ま で理解されたことにはならない。自由である限りにおいてのみ、我々は真に人間 であり得るのだから。そんなことは理想にすぎない、と多くの人が言うであろう。. 勿論である。けれどもこの理想は、我々の本性の内部に現実の要素として存在し ており、表面にまで現れてこようと働きかけている」76、「自由な精神が人間存在. の唯一の在り方であると主張しているのではない。自由な精神の中に、人間進化 の究極の段階を見ようとするのである」77。このように、彼にとって自由とは、一. 人一人の人間の発達過程の終点にある一つの目標なのである。そして、そこに到 達することが、つまり「自由な人間」に到達することが、真の人間になることであ. り、また真に個性的な人間になることであって、そしてそれこそが人間の本来的. な自己実現なのである。付言すると、この発達過程のある段階においては、外的 な規範が必要となるが、ここにカントの「合法則的な道徳」に正当な位置を与える ことができよう。. では、どのようにして「自由な人間」に到達することができるのであろうか。シ. ュタイナーは次のように述べている。人間が変化する可能性を持っているのは、. 例えば植物の種の中に植物全体にまで成長する可能性があるのと同様である。し. 一17一一.

(21) かし、植物は自らの申の客観的法則に従って変化を遂げて行くだけであって、人 間はそれを自分の力で成し遂げなければならない。「自然は人間を、単に自然的 な存在に形成するだけである。社会は人間を合法的に行動する存在に形成する。. ただ自分自身によってだけ、人間は自分を自由な存在に形成するのである。自然 は人間を、その発達の一定段階において、自然の束縛がら解き放つ。社会はこの 発達をさらに進んだ段階にまで導いていく。最後の仕上げを与えることができる のは、人間自身だけなのであるゴ8。このように、人間は自分自身によってのみ、. 自分を自由な人間にすることができるのであるが、それは自分自身の力によって 道徳的直観能力、すなわち「感覚から自由な思考」の能力を獲得することによって. 達成される。既に前節で述べたように、この超感覚的な認識能力は誰でも獲得で きるものであると彼は言い、そしてその獲得方法を具体的な形で提示している。 それは、彼の著書『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』に詳しいが、 その能力は彼のいう瞑想修行法によってはじめて獲得されるものなのである。こ のようにして「自由な人間」に到達することができるのであるが、実際、自由な人. 間とはどのような人間なのか、それをイメージする上では、彼の次の言葉が有効 も. ヘ ヘ. ヘ. ヘ. へ. であろう。「行動への愛において生きること、他人の意志を理解しつつ生かすご ヘ ヘ ヘ. ヘ. へ. と、これが自由な人間の基本命題である」79。. 以上、自由を中心にして、認識や個性についても述べてきたが、シュタイナー は徹底的に個人主義であった。彼は、人生の価値や目的さえも個人の中に求める。 「成熟した人間は自分で自分に価値を付与する。…個人によって肯定されない人生. 価値も、個人に由来しない人生目的も、受け入れない。あらゆる側面から吟味さ れた個人の本質の中に、その人自身の主人を、その人自身の鑑定人を見出す」80。. しかし、シュタイナーが個人主義であるとはいえ、他人を排除し、勝手気ままに. 生きるという意味での自己中心的な個人主義ではなかった。個人の中には普遍的 な理念世界が存在する。そこから直観した理念によって行為するとき、人間は自. 由であり、個性的である。さらに、その行為は道徳的であり、その人は他と協調 的なのである。彼は言う。「道徳的な誤解やぶつかり合いは道徳的に自由な人間の. 場合、まったく存在しない。自然本能や見せかけの義務感に従うような、道徳的 に不自由な人だけが、同じ義務感に従おうとしない隣人を排除する」81。シュタイ ナーにおいては、すべてが個人から発しており、「人間が世界秩序の中心」82なので. ある。このことが彼の思想の核心を為している。彼は、人間が存在しなければ、 地球の進化さえもあり得ないとまで言っている83。シュタイナーは、「自由な人間 (それは個性的な人間でもある)」を人間発達の最終目標、または人間の自己実現の. 一一 @18. 一一.

(22) 目標とする。それゆえ、彼は、教育においても、自由人の教育、個性の教育をき わめて重視する。彼は、「生における自己の方向を、自ら決断できる自由人を育成 することこそ、ヴァルドルフ学校が最重要視している目標」84であると言い、また、 シュタイナー教育は「ただ単に『個性を伸ばすべきだ』という題目を唱えるのでは なく、これを本当に実行」85していくのだと述べている。このように、シュタイナ. ー教育においては、一人一人の子どもを自由な人間、個性的な人間へと導いてい くことが最重要課題なのであり、そして一人一人の子どもの成長、発達をいかに. 援助していくかが最大の問題なのである。それゆえ、この教育においては、子ど も一人一人が最も大切にされているのである。. 2 個に応じる教育. シュタイナr教育において、個に応じるとは、子どもの発達段階に応じること、 及び子どもの個性に応じることである。この二つのことを具体的に見ていこう。. 1) 子どもの発達段階に応じる教育. シュタイナー教育が人間認識に基づいていることは、既に述べた。子どもの発 達段階も、この人間認識、すなわち人智学的人間観によって明らかにされている。. 既に、この人間観についても述べたが、そこでは概観しただけであったので、そ の内容をもう少し明確にした後に、発達段階について述べることにする。人智学 的人間観においては、人間を三層[身体、魂(心性)、精神(霊)]から成るものとし、. さらに、自我の担い手である自我体を想定すると、人間の本質は四つの部分、す なわち物質体、エーテル体(生命体)、アストラル体(感覚体)、自我体から成り立. っているとする。これらの名称にとらわれることなく、シュタイナーがこれらに よって、人間の何を指し示そうとしたのか、人間をどのようなものとして捉えよ うとしたのかを探ることが重要である86。四つの、それぞれの人間本質部分とは一 体何を指しているのか、具体的に見ていこう。. 1.物質体 人間の肉体は物質的存在の諸法則の支配下にあり、いわゆる無生物界全般を 構成するそれと同一の素材と力から構成されている。それゆえ、シュタイナー は、人間は物質的肉体を全鉱物界と共有していると言うのであるが、この物質. 一一. P9一一一.

(23) 的肉体が物質体と呼ばれるものである。従って、ここで言う物質体とは「鉱物界. の物質と同様の物質を、…鉱物界の法則下に合体・化合・形成・分解させてい るものに限られている」87のである。. H.エーテル体(生命体). シュタイナーによれば、エーテル体とは、一つのエネルギー体であり、動的 な諸力から成るもののことである。エーテル体は、肉体中の物質や諸力が成長・ 増殖・体液の内的活動等の現象を起こすように作用する。それゆえ、それは「肉 体の建築家であり、彫刻家であり、…設計士である」S8と、シュタイナーは言う。. また、彼は、人間はエーテル体を動植物と共有しており、エーテル体は、それ 自身の中にたえず重力に反していこうとする力を有している、と言う。春に植 物が土壌から重力に逆らって宇宙のあらゆる方向へと向かうよう推進するもの、 植物を組織し、上方へ引き上げる作用をする陽光の流れと最終的に結合するも. の、これらの中に、つまり、植物の生長を引き起こすものの中にエーテル体の 存在を感知することができるのである。繰り返しになるが、シュタイナv一・・にと. って、エーテル体は現に存在するものなのである。彼は次のように述べている。. 唯物論的自然科学者はこのような生命力の存在を否定し、それは鉱物界の諸力 と同じものであって、ただその作用の仕方が複雑なだけだと考える。しかし、. 既に一連の自然科学者は諸事実から、生命力または生命原理のようなものをど うしても仮定せざるを得ないことに気づきはじめている。とはいうものの、エ ーテル体は仮定されるべきものでも、推測作用の対象でもなく、高次の認識能 力を持つ者にとって、それは具体的な観察対象なのである。この高次の認識か ら見れば、エV一一一テル体は、気体より一層繊細なものではあるが、決して物質か. らできているものではなく、また、それは、人間の場合、格好と背丈に関して、 物質体と全く同じであるとは言えないが、ほとんど同じものなのである。また、 シュタイナ・・一・一は、人間のエーテル体を次のようにも説明する。fそれは私たちの. 幼少期において活躍したものであり、私たちの脳をつくり出したものであり、. さらに肉体にわたって浸透し、肉体の中で形成的、造形的な作用をし続けてい るものであります。そしてまた、…私たちの消化作用に毎日働きかけているも のであります。私たちは、この肉体機構の内部で働く存在を、人間のエーテル 体と見なしております」89。このように、シュタイナーにとって、エーテル体と. は一つのエネルギー体のことであり、生命あるものを形成し、維持するもので あり、そして、それは人間本質の一部分として、明確に存在しているものなの である。. 一 20 一一一.

(24) 皿。アストラル体(感覚体). シュタイナーによれば、アストラル体を具体的に思い浮かべるには、眠りの 現象を想起するのがよいというgo。すなわち、人間の仕事は、顕在する世界を考. える限り、すべて覚醒時の活動にもとづいている。だが、この活動は、人間が、 使い果たした力を、繰り返し眠りの中から汲み出してこなければ不可能である。. 人間が目覚めると、秘密の、隠された泉から湧き出てくるかのように、無意識 の眠りの中から意識を持った力が湧き出してくる。この意識を引き出すもの、. つまり、人間を眠りから目覚めへと導き、覚醒状態を維持するものがアストラ ル体なのである。植物は、アストラル体を持たないために、「持続的な眠りの状 態にある」91とシュタイナーは言う。それゆえ、もし人間がアストラル体を失え. ば、その人間は単なる植物人問と化してしまうのである。また、彼は次のよう にも述べている。「アストラル体は、痛みや快感、衝動や情熱や欲情等の担い手 ヘ へ である。」92、「エーテル体に特有のものが生命であるとすれば、アストラル体に ヘ へ 特有のものは意識である」93。このように、アストラル体は、感覚的知覚や、快. ヘ へ 感や衝動などを含む広い意味での感情、さらには意識と深い関係にあるものな. のである。動物も広い意味での感情を持っている。それゆえ、彼は、アストラ ル体は「人間と動物のみが共有している」94と言う。アストラル体も、エーテル体. 同様、高次の認識能力によって捉えられる実体である。すなわち、「アストラル. 体または感覚体は内的に流動的な、色彩的で輝きを発する心的映像よりなる実 体なのである。感覚体は…人間の場合は長めの卵形をしており、その中に肉体 とエーテル体を包容している。アストラル体は光の像の如きものとして両者の 上に全面的にそびえ立っている」95と彼は述べている。. IV.自我体. シュタイナーによれば、自我体とは、人間が地上の他の存在と分け合うこと のないもの、すなわち人間独自のものであり、人間の自我、つまり「私」の担い 手である96。「私」という語の本質を考察すれば、・自我体の認識への道が開かれる。. すなわち、「『私』と言う語は、他のすべての名称から自分自身を区別する名称 である」97。どんな人も二三を「机」と呼び、椅子を「椅子」と呼んでよい。しかし、. 「私」という言葉だけは、私自身しか使用できない。つまり、誰もこの言葉を他 の人に対して使用することができない。この自分自身を「私」と呼ぶ能力、すな. わち自我意識を引き出すものが自我体なのである。このように、自我体の働き は、個人を他の一切から区別された独立の存在として意識させることにある。. さらに、自我体の働きには、記憶の働きもある。自我体は、人間の内に記憶を. 一21 一.

(25) 生じさせる根源的なものなのである。シュタイナーは次のように言う。「物質体. は、エーテル体にとりまとめられていなければ崩壊し、エーテル体は、アスト ラル体に浸透されていなければ、意識喪失状態に陥る。これと同じで、アスト ラル体は、過去の体験を、自我体を通じて現在へ救出しなければ、いくたびと. なく、その体験を忘却せざるを得ないであろう。…アストラル体に特有のもの ヘ. ヘ. ヘ カ. は意識であり、自我体に特有のものは記憶である」98。また、彼は、自我体は人 間の心性(魂)の高次の部分の担い手であり、自我体を持つ故に人間は地上の被 創造物の頂点に立つ、と言う99。すなわち、魂の核である自我は、自分以外の部. 分に働きかけて、その部分を純化し浄化するという課題を持っている。つまり、 自我は物質体やエーテル体、アストラル体に手を加えて、より高次のものへと 変化させていくことが出来るのである。このように、人間は、自分自身を造り. 上げていくことができる故に、被創造物の頂点に立つのである。自我体も、高 次の認識能力によって捉えられるものであり、決して物質的なものではない。 それは精神的なものを意味する言葉である、とシュタイナーは述べている皇00。. 以上、シュタイナーのいう人間本質の四つの部分について述べてきた。要する に、彼は、人間を物質的肉体とその崩壊をくい止めているいわゆる生命力、そし て意識や感情を持っているものとして捉え、さらにそれらだけでなく、記憶や自 分自身を創造する能力をも持つものとして捉えているのである。そして、彼は、. それらを担っているものを、認識できる実体として捉えている。人間が肉体を持 ち、生命力や意識・感情、さらには記憶力や自己変革能力を持つ存在であること. を否定する人はあまりいないであろうが、それらを担うものが実体として存在す るかどうかはわからない。しかし、もしそれらの存在を仮定すれば、常に全体と しての人間を意識できる。つまり、人間を見るとき、単に肉体という視覚的なも. のだけに縛られることなく、そこには生命力が内的に活動をしている人聞、意識 や感情を持つ人間、記憶し考える人間が浮かび上がってくる。特に教育者にとっ ては、子どもをこのような全体的なものとして捉えることが重要であろう。. 次に、子どもの発達段階について述べる。シュタイナーによれば、人間本質の 四部分は、それぞれの年齢に、それぞれ異なった発達をする10且。それゆえ、子ど. もの発達は、四つの人間本質のそれぞれの発達の総合として捉えることができる。. シュタイナーは、歯牙交替と性的成熟という二つの肉体的変化に注目する。すな わち、「人間は誕生の瞬間まで母親の物質的な母胎に包まれているように、歯の生 え替わり(歯牙交替期)即ちほぼ七歳頃まで、エーテル体的母胎とアストラル的母. 胎によって包まれている。歯牙交替期中に、初めてエーテル母胎はエーテル体を. 一一 @22. 一一.

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