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価値次元の転換による既存事業のサバイバル戦略

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Academic year: 2022

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(1)〈プロジェクト研究論文〉. 2021 年 3 月修 了(予定). 価値次元の転換による既存事業のサバイバル戦略 ~メディア産業における非連続なイノベーションとその対応~. 学籍番号:57193084-2. 氏名:林. 三郎. ゼミ名称:イノベーションと価値創造戦略 主査:長内 厚 教授. 概. 副査:木村 達也 教授. 要. 既存の破壊的イノベーションに関わる研究では、既存事業ないし技術が非連続なイノベーションによ っていずれ取って代わられることを前提とし、既存事業・技術は新規事業・技術に移行していく中で失 われていくとされてきた。しかし、既存事業の中には、非連続なイノベーションが普及して危機的な状 況を迎えた時に、異なる価値を持つものとして自らを再定義あるいは異なる多様な価値を獲得しつつ存 続する状況が生じ得る。さらに、そのような既存事業が多様な価値を獲得する中で、自らの脅威となっ た非連続なイノベーションとビジネス・エコシステムを形成し、共存する状況がどのような条件の下に 生じるか、という命題に対して考察を行うものである。 本 稿 は 、 破 壊的 イ ノ ベー ショ ン に よ る 影響 を 受 けな がら も 事 業 の 在り 方 を 新し く模 索 し た 結 果、 存 続 している企業 の事例に 基づ き、既存企業 が存続す るた めの価値創造 戦略につ いて 論じたもので あり、日 本におけるラ ジオ、映 画業 界が、テレビ 放送の登 場、 普及後に危機 的状況を 迎え 、その後どの ようにそ の危機的状況を克服したかという対応事例を取り上げる。 ラ ジ オ 、 映 画は と も にテ レビ が 登 場 す る以 前 に はそ れぞ れ 、 家 庭 にお け る マス メデ ィ ア 、 映 像コ ン テ ンツを視聴す る手段と して 競合のいない 状況であ った が、テレビの 出現と普 及と いう脅威にさ らされ、 危機的状況に 陥った。 一方 、そこでユー ザーに起 きた ことは価値次 元の変化 であ り、何に余剰 の時間を 使うかという 選択軸の 変化 だったと言え る。マー ケテ ィングで言う ならば、 人々 の余剰時間に 何をして 過ごすか、と いうトッ プ・ オブ・マイン ドがラジ オ、 映画からテレ ビへ変わ った と解釈できる だろう。 言い変えるな らば、失 った マインドシェ アを回復 する ために ラジオ 、映画と いう 既存のメディ ア産業が 取った戦略に 共通する もの の一つが多様 性である と考 えられる。 結 果として 、ラ ジオ、 映画は ともに危 機的状況を克 服するた めの 模索を重ね、 独自の価 値を 見出し、創造 し、獲得 する ことで再び成 長と発展 を遂げた。 既存事業の在り方が破壊的イノベーションの出現・普及によって打撃を受け、自らの在り様が変わら なければ滅びかねないような状況においては、解を求める変化の方向性は一方向だけではなく、複数あ った方がリスク分散にも繋がり、また不確定な未来に対応する意味においても未来の在り方において多 様性を含んで模索することが生存確率を高めることにも寄与するという命題の導出に至った。 本研究で行った考察では、メディア産業においては既存事業が非連続なイノベーションの出現後に、 異なる価値を持つものとして自らの在り方を多様化させることが存続のための重要な要因になるものと 考えられる。. 1.

(2) <目次> 1. はじめに 2. 先行研究 2.1 非連続なイノベーションによる変化と多様性 2.2 非連続なイノベーションへの対応戦略 2.3 イノベーション創出のための構造 3. 命題の導出と分析方法 4. 事例研究 4.1 ラジオ業界の変遷 4.1.1 日本におけるラジオの開始と普及 4.1.2 テレビの普及とラジオの変化 4.1.3 新たなラジオへの模索と多様化 4.2 映画業界の変遷 4.2.1 日本における映画の開始と普及 4.2.2 テレビの普及と映画の変化 4.2.3 新たな映画会社の在り方の模索 4.2.4 多様化による映画の復活 5. 考察 5.1 テレビ登場後、多様化する価値観に適応したラジオ 5.2 テレビ登場後、多様な価値提供に活路を開いた映画 5.3 メディア産業における破壊的イノベーションへの対応 6. おわりに 謝辞 参考文献. 2.

(3) 1.はじめに 本稿は、破壊的イノベーションによる脅威にさらされながら事業の在り方を新しく模索 した結果、存続している企業の事例に基づき、既存企業が存続するための価値創造戦略に ついて論じたものである。非連続なイノベーションによってダメージを受けた産業の中に は、衰退し、あるいは滅びるものだけではなく、危機的状況を脱却し、存続しているもの があることを示すとともに、そうした産業においてどのような条件の下に存続できるよう になったかについて考察を行う。 Schumpeter(1934)は、イノベーションを既存の技術等を新しく結びつけることで価値を 生み出す新結合だと定義し、Abernathy and Clark(1985)は、イノベーションには過去の技 術資源の価値を維持する「持続的」なものと、価値を失う「破壊的」なものがあるとした。 Christensen(1997)は、破壊的イノベーションについて、旧技術の有していた価値が失われ る一方で、そうした旧技術によって成功を収めてきた既存企業は顧客のニーズに忠実に応 え続けることが新技術への移行を行う機会を逸し、衰退に繋がるとしている。 Utterback(1994)はドミナント・デザインの研究として知られるが、イノベーションが企 業能力を高めるものか、破壊するものかということではなく、そのイノベーションが誰の ためになされるものかが重要であるとした上で、企業が永続的に反映する可能性を高める ため方法の一つとして、多様化した複数の製品にわたって中核能力を作ることを挙げてい る。新宅(1994)は、多様な製品を備えたフルライン戦略の採用によって高機能による差別 化と低コストの両方を追求して成功を収めた企業事例の研究を行い、技術面、市場面でも 多様な需要を満たすフルライン戦略の有効性を示している。 新しい技術が世の中を大きく変えうる可能性を秘めていることについては疑いの余地が ないが、そうした新技術は社会経済的な活動における新旧様々なものと複合的に関わり合 いを持ちながらビジネス・エコシステムを形成し、機能している。既存事業・技術の中に は新しい技術によって淘汰されていったものもあるが、新しいイノベーションが出現した 後にも在り方を変化させることが持続しているものが存在している。 これまでの破壊的イノベーションに関わる研究は、新技術が既存技術に置き換わること を前提として議論されてきた部分が多かったが、新たな技術やそれに依拠したイノベーシ ョンが出現した後にも既存事業が生き残り、さらに変化を起こして再度、成長を遂げる場 合があるならば、どのような条件や環境が必要となってくるのかについては明らかになっ ていない部分が多い。 本研究では、日本におけるラジオ、映画産業がテレビの登場・普及によって深刻な脅威 にさらされながらも様々な模索をする中で回復を遂げていった対応事例をもとに、既存の 産業がどのような条件の下で再び成長することを可能にしたのか、その条件や環境はどう いったものだったか、という命題に対して考察を行うものである。 本稿の構成は次の通りである。第 2 章にて非連続なイノベーションとその影響を受ける 既存企業の戦略に関する先行研究をレビューする。それを踏まえ第 3 章では命題の導出を 行い、第 4 章で事例に関する研究の内容を記述する。第5章では、事例研究に基づき、命 題に対する考察を行う。最後に第6章ではそれらを総括するとともに、実務へのインプリ ケーションと今後の課題について述べる。. 3.

(4) 2.先行研究 2.1. 非連続なイノベーションによる変化と多様性. 新宅(1994)は旧来の技術体系の成熟化過程で蓄積した様々な知識や資源を保有する 既存企業において、新たな技術が大きな発展を遂げた時、急速に競争力を失い市場か ら淘汰されてしまう可能性を指摘し、技術転換は、従来の技術体系を破壊するラディ カル・イノベーションを契機として起こり、その転換プロセスは脱成熟と再成熟化の 過程に大別できるとした。Christensen(1997) も破壊的イノベーションによって既存の 優良企業が顧客のニーズに忠実であるがゆえに顧客の変化に適応しにくく衰退する事 例を取り上げている。 Christensen(1997)は破壊的イノベーションにともなう新しい市場への移行には、時 間がかかりながらも最終的には転換し、既存のリーダー企業がその座を追われる構造 について考察している。 これに対して長内(2006)は新旧授業の組織的な新規製品が追加的な製品コンセプト を有して登場した場合に、新旧事業が共存し続けるケースが多く存在していることを 指摘している。すなわち、非連続なイノベーションが発生すると、既存技術から新規 技術への「変化」のプロセスで既存技術が制約となるため、新旧事業の組織的な連続 性を分断することが従来の組織分離の議論における主要な目的だったが、非連続なイ ノベーションが「変化」としてではなく、追加的に発生し、製品コンセプトの「多様 性」をもたらす場合、組織分離は事業の「多様性」を効果的に広げる手段となる、と している。 長内(2006)は、変化による代替が起きるだけではなく、変化によって「多様性」へ繋 がり既存企業においては既存事業を持続しつつ新旧事業の両取りを可能にする対応を 検討する方が好ましく、既存企業が既存事業を捨てることは、それ自体が大きなリス クとなる、と述べている。 2.2. 非連続なイノベーションへの対応戦略. Tushman and O’Reilly III (1997)は、産業には漸進期と動乱期があり、各々に適した 2つの組織を使うべきだという「両利きの組織」を提示している。この「両利きの組 織」は深化と探索を同時並行的に行うことで、既存事業における収益を高めつつ、新 規事業の模索と実現を可能とする組織形態であり、新旧事業が両立しうるものとなる。 魏(2001)は Christensen(1997)などの既存研究で提示されている既存組織か、別組織 かの軸と共に、資源の所在という新たな軸を取り入れて、新しい適応パターンを模索 し、既存部門から離れている別部門と企業の内部資源を利用して、異質な資源の創造 と製品開発を行うパターンについて論じ、新しい製品が出現するときに各部門が蓄積 している異質な資源をお互いに利用できることがその変化への適用に重要な条件にな ると指摘している。 また楠木(2001)は、これまでのイノベーション・マネジメントの研究を特徴づける次 元として「ラディカル対インクリメンタル」というイノベーションの大きさと、「モ ジュラー対アーキテクチャル(もしくはインテグラル)」という製品システムの内部 構造に関わる2つを挙げた上で、これら2つの次元から独立した現象として「製品コ 4.

(5) ンセプトのイノベーション」に注目し、製品システム全体がどのような機能部分に分 かれるかという機能分化という伝統的な分化概念に対して、ある製品・サービスシス テムないしそれを実現するための活動を、その製品システムが潜在的に提供しうる顧 客価値にもとづいて、いくつかの異なる部分へとより分けることを価値分化と定義し た。価値分化は、製品システムが同時に複数のコンセプトを含む「システム多面性」 を持つことを前提としていて、価値分化の組織モデルが新しい製品コンセプトの創発 と進化を促進するとしている。 これらの先行研究では、非連続なイノベーションは企業にとって脅威にも好機にも なるが、それに対応するためには新たな模索を行う組織作りとそれに対応して新たな 価値を生み出す思考の軸を組織的に持つことが必要であるという点において共通して いると思われる。 2.3. イノベーション創出のための構造. 小笠原・松本(2005)は、薄型テレビ、ゲーム機ビジネス、DVD プレーヤーとソフト、 プリンタービジネス、Apple の iPod などの事例を俯瞰しつつ、イノベーションの近年 の展開は、イノベーターによる単純な利益獲得の構造は崩れつつあり、従来とは異な る多様で、より高度な利益獲得の手法が求められている、と結論づけている。 松本(2012)は、組織の自ら決めた生存領域=ドメインには様々な階層性が存在し、ド メインの階層性は時と共に変化しうること、階層性がドメイン形成の速度や、事業あ るいは企業の頑健性と関わっている可能性があり、階層的にドメインを認識するかど うかが、その形成速度や頑健性に影響する可能性があると述べている。 根来(2005)はイノベーションによって既存製品が代替される構造を機能が完全に代 替されるか部分的に代替されるかと、新機能の有無という2軸で分類し、①完全類似 代替、②部分類似代替、③完全拡張代替、④部分拡張代替という4つのパターンを示 している。その上で、代替品の攻撃戦略と既存品の防衛戦略について、既存品から代 替品へ切り替わる時期を初期、浸透期、末期という3つの代替ステージに分けて考察 しているが、既存品企業の防衛戦略として、①完全類似代替と③完全拡張代替におけ る末期には撤退を、②部分類似代替、④部分拡張代替における末期には代替品との協 調を進め、買い手に対応していくことが求められる、としている。 根来・藤巻(2013)は「産業内の製品/サービス」の組み合わせについて、消費者の自 由な直接選択が行い得るようになることを産業のレイヤー構造化と定義し、レイヤー 構造化が進んだ産業では、どのレイヤーであっても顧客との直接的接点を持つ可能性 が潜在的に存在し、そのため顧客接点を持つレイヤーを自社が担うか否かが重要なレ イヤー戦略上の判断となる、としている。また、産業のレイヤー構造の前提は産業の モジュール化であるとし、これにより産業内の独立に活動する各ビジネス要素を適宜 合成してビジネスを行うことができるようになると指摘している。 さらに根来(2017)は、産業のレイヤー構造化を前提にプラットフォーム・ビジネスに ついて考察していて、プラットフォームの力は産業のレイヤー化によって生まれると した上で、プラットフォームは他のプレイヤーの協力を前提としていると述べている。 自社で全てのことを行うには資源の制約があるほか、多様なニーズに応えることは難 5.

(6) しいため、協力してくれるプレイヤーを増やし、やる気にさせ、十分に確保する必要 があるという。プラットフォーム・ビジネスにおいては、自社の製品が優れていても、 自社で全てを提供するのではないため、プレイヤーのマネジメントが重要な要素とな るが、これを「エコシステムマネジメント」としている。. 3. 命題の導出と分析方法 既存の破壊的イノベーションに関わる研究では、既存事業ないし技術が非連続なイ ノベーションによっていずれ取って代わられることを前提とし、既存事業ないし技術 は新規事業・技術に移行していく中で失われていくとされてきた。しかし、既存事業 の中には、非連続なイノベーションが普及して危機的な状況を迎えた時に、異なる価 値を持つものとして自らを再定義あるいは異なる多様な価値を獲得しつつ存続する状 況が生じ得る。さらに、そのような既存事業が多様な価値を獲得する中で、自らの脅 威となった非連続なイノベーションとビジネス・エコシステムを形成し、共存する状 況がどのような条件の下に生じるか、という命題に対して考察を行うものである。 本稿は、上記の命題を明らかにするために、日本におけるラジオ、映画業界が、テ レビ放送の登場、普及後に危機的状況を迎え、その後どのようにその危機的状況を克 服したかという対応事例を取り上げる。本事例研究にあたっては、主にデータは二次 資料を利用している。業界全体の動向・歴史については、社史、書籍、新聞・雑誌の 記事、一般に公開されたネット情報、あるいは既存の研究論文を参考とした。. 6.

(7) 4.事例研究 テレビの普及の以前と以後はマスメディアの在り方は大きく変わった。家庭におけ る娯楽はラジオ、家庭の外での娯楽は映画が主役と言われる時代が長く続いたが、テ レビの登場と普及によって、その役割は変容していった。東山(2015) (1) は、「新しいメ ディアが発展しても古いメディアは決して滅びないというのが、マス・コミュニケー ションの歴史である」という主旨のことを、識者に語られることがある」と指摘し、 その理由の一つとして「新しいメディア形式が発明されるたびに、メディア相互間の 再編成が行われる(加藤 1958) (2) 」としている。しかし、再編成が起きて古いメディアが 滅びないことは自明のことではなく、そこには企業体や組織として衰退を回避して存 続を活動が伴う必要があり、現に廃業に追い込まれているメディア企業は多数存在し ている。メディアが存続することと、そのメディアを担う企業が存続できるかどうか は別の次元の問題である。 恩藏ら(2008)は、モバイルメディアは 24 時間、30 ㎝以内に存在するインタラクティ ブなメディアとして人間が生活シーンに必要とするあらゆる機能をブラックホールの ように取り込み、魔法の端末になろうとしている、と指摘した。これまで家庭の娯楽 の主役であったテレビについても、映像コンテンツの視聴を担う役割がモバイルメデ ィアへ移行しつつある現状がある。しかし、こういった現状は今からおよそ半世紀前 にテレビが普及した際に、ラジオ、映画で起きたことと類似しているものと思われる。 このため、メディアを担う企業が新たなメディアが登場した時、どのような能力が 必要とされ、変革したことで存続し続けたのかについて考察する。. 4.1. ラジオ業界の変遷. 4.1.1. 日本におけるラジオの開始と普及. 日本における放送はラジオから始まった。1925 年 3 月 1 日に社団法人東京放送局に よる試験放送が始まり、同月 22 日の放送初日には東京放送局の後藤新平総裁が挨拶し、 その中で放送事業の職能として「文化の機会均等」「家庭生活の革新」「教育の社会 化」「経済機能の敏活」の4つを挙げている。ラジオ放送の開始により、天気予報、 ニュース、株式市況、米および商品市況、音楽、落語、講談、講演などが電波で家庭 に届けられるようになった。なお、3 月 23 日夜に行われた最初の講演放送は早稲田大 学総長高田早苗による「新旧の弁」であった。 同年 6 月に大阪放送局、7 月に名古屋放送局が放送を開始して、3局は翌 26 年に合 同して日本放送局会となり、28 年には全国放送網が出来ている。聴取者は 1932 年には 100 万人に、1935 年には 200 万人を超え、さらに 1939 年に 400 万、40 年に 500 万人に 増えた。ラジオが登場する以前、人々は新聞、大衆雑誌で情報を入手し、娯楽の筆頭 としては映画があったが、ラジオは次第に一般家庭に普及していった (3) 。 戦時中、その有用性がためにラジオは政府や軍による国策の伝達に利用される歴史 をたどったが、戦後、1950 年に電波3法(電波法、放送法、電波監理委員会設置法)の 東山一郎(2015)「シリー ズ ラジオ 90 年【 第 1 回】 テレビが登場した時代のラジオ~ その議論と戦略をめぐって~」『放送研究と調査』NHK放送文化研究所 pp.2-19 (2) 加藤秀俊(1958)「新たな メディアの展開」 『放送朝日』7 月号 (3 ) 以上の記述は日本放送協 会(2001)『20 世紀放送史』 (上)による。 (1). 7.

(8) 施行によって社団法人日本放送協会は消滅し、新たに特殊法人日本放送協会が設立さ れた。また 1951 年には民間ラジオ放送が始まった。その後もラジオの受信契約数は増 え続け、NHK のラジオ契約数は 1952 年に 1000 万件、1958 年には 1481 万件に達した。 世帯普及率は 82.5%、受信可能範囲は第 1 放送が 99.1%、第 2 放送が 96.1%と広がった (4). 。 ラジオ広告費を見てみると、1953 年には 45 億円だったが、NHK のラジオ契約者数. がピークを迎えた 1958 年には 157 億円に増えており、順調な伸びを示していた (5) 。当 時のラジオは家庭娯楽の中心であり、家族は放送を聴いている間、一言も喋らずに集 中して聴く、というスタイルが一般的だったという (6) 。 4.1.2. テレビの普及とラジオの変化. しかし、1959 年にはラジオ広告費はテレビ広告費に逆転される。テレビ放送が始ま ったのは 1953 年であり、民放ラジオが始まった2年後のことであった。 テレビはラジオに比べて普及の速度はそれほど早くなかったが、その要因の一つは 大学卒の初任給が 8000 円前後だった時代に、最も手ごろとされた国産の 14 インチ型 が 17 万 5000 円程度と極めて高価な買い物であったためであろう。当時、テレビを購 入していたのは喫茶店・食堂・美容院などの商業関係や会社経営者・役員・芸術家な どがおよそ8割を占めていた。喫茶店や食堂には「テレビ受像中」というビラが貼ら れて、子どもたちは遠慮なしにテレビのある家に上がりこんだという時代であった。 そうした状況下で、民放で最初に開局した日本テレビは、人の集まる場所に受像機 を置いてテレビ放送を公開して、普及を推進した。とりわけ街頭テレビの人気を決定 的にしたのはプロレス中継で、大相撲の関脇からプロレスラーに転身した力道山の試 合を見ようと、当時、新橋駅西口広場の街頭テレビには2万人の群衆が殺到したとい う。 1959 年の皇太子明仁殿下(現上皇陛下)と正田美智子さん(現上皇后陛下)のご結 婚はテレビの普及を一層加速させた。当時の白黒テレビは 14 インチで 6 万円台と、放 送開始当初に比べて約3分の1程度に下がっていて、1500 万人が視聴したとされる。 1962 年には、テレビ受信契約数は 1000 万件を突破し、世帯普及率は 48.5%とほぼ半 数の家庭にテレビが普及した。急激な普及の主な要因としては、経済の高度成長や放 送サービスの拡充などが挙げられるが、とりわけ 50 年後半から 60 年代にかけての高 度経済成長は奇跡と言われ、国民1人当たりの年間所得は 1962 年には 1953 年に比べ て約3倍になっていた。 1960 年代には NHK、民放ともに開局が相次ぎ、全国に放送網が展開されていった。 1960 年度末には NHK が 60 局、民放が 43 社 61 局だったが、1964 年度末にはそれぞ れ 252 局、48 社 259 局と大きく増えた。1964 年に開催された東京オリンピックでは、 オリンピック史上、初めてのカラー放送が行われた。開会式は NHK 教育テレビを除. (4) (5) (6). 日本放送協会(2001)『20 世紀放送史』(上)p.316 電通・広告景気年表より https://www.dentsu.co.jp/knowledge/ad_nenpyo.html 以上の記述は東山 (2015)による。. 8.

(9) く NHK・民放全てのチャンネルで伝えられ、視聴率は 84.7%、およそ 6500 万人が見 たと推定されている。 放送時間も急速な普及に伴って増加していき、放送開始時間の繰り上げ、終了時間 の延長、放送休止時間の短縮という形で進んだ。NHK は 1962 年 10 月に午前 6 時 28 分から午後 11 時 50 分までの放送となり、1日の放送時間は 17 時間を超えて、休止時 間のない全日放送が実現した。民放では 1960 年に日本テレビと KRT(のちの TBS)が 日曜の全日放送を始め、翌 1961 年 10 月にはフジテレビと東海テレビが平日の全日放 送を実施した。また午前 0 時以降の深夜放送は TBS(1960 年 11 月に KRT から改称) が最も早く 61 年 3 月から始めた。 UHF 帯の導入によって、テレビ受信が困難な地域でもテレビが見られるようになっ た。離島や山間部などでは視聴困難な状況を完全に解消することはできなかったが、 全国世帯の 93%がカバーできると見込まれた。 一方、ラジオはテレビの普及に伴い聴取率が大きく減少した。ラジオ放送受信契約 数は 1958 年の 1460 万人をピークに下がり続け、ラジオ放送受信契約が廃止となる 1967 年度末には 221 万人となっていた(図1)。テレビの急速な普及により、スポンサー も徐々にテレビへ移行し、家庭娯楽の中心はラジオからテレビに代わり、ラジオを家 族全員で聴く時代は次第に終焉を迎えていった (7) 。 図1 ラジオ放送受信契約者数とテレビ(白黒)普及率. 出所:日本放送協会『20 世紀放送史』(上)、内閣府「主要耐久消費財等の普及率 (平成 16(2004)年 3 月で調査終了した品目)」をもとに筆者作成. (7). 以上の記述は日本放送協会(2001)『20 世紀放送史』 (上)による。. 9.

(10) 4.1.3. 新たなラジオへの模索と多様化. ラジオを取り巻く急速な停滞感は業界全体で共有されていた。当時のラジオをめぐ る状況を日本民間放送連盟放送研究所がまとめた『ラジオ白書(1964)』は「テレビに注 目し、大部分のスポンサーはテレビ一辺倒となり、ラジオはすでに「古いメディア」 といわれるようになってしまった」と伝えている。ラジオを取り巻く環境と今後どう していくべきかについては当時、様々な議論が交わされたが、テレビといかに差別化 して独自の価値を提供していくかに関するものが散見されるが、様々な外部要因によ って新しいラジオの方向性は次第に収れんしていった。 一つにはトランジスターラジオの普及である。日本初のトランジスターラジオは東 京通信工業(のちのソニー)が開発した TR-55 型だった。TR-55 型はそれまでの真空 管を使用したラジオに比べて、はるかに小型であり、それまでの真空管に比べトラン ジスターは半永久的に使え、消費電力も少なく、爆発的に普及した。1957 年には同じ く東京通信工業より世界最小のポケットラジオ TR-63 型が販売され、性能の向上、消 費電力の減少、低価格化もあって、海外にも輸出され、日本を代表する商品となった (8) 。 家庭の一家団欒の中心にテレビが据えられるようになると、小型化したラジオはパー ソナルなメディアとして定着していった。 小型化したラジオは、家の中心に据えられたテレビと異なり、個室、車中、屋外と いったように場所に縛られないメディアとなり、また何かをしながら聴くことができ るという特性に活路を見出すようになっていった。 60 年代の高度経済成長期にはモノを売るための需要を喚起するマーケティング戦略 がさかんになったが、放送界ではニッポン放送が大がかりな聴取者調査を行ったこと で知られている。電話や街頭でのアンケート調査のほか、番組に届く投書、はがきな ども調査対象として、ラジオの聴取状況や聴取習慣などに関するデータ分析を行った 結果、特定の時間帯に、限定した対象に向けて、その対象に即した内容を届けていく というオーディエンス・セグメンテーション(聴取者細分化)という方針を打ち出し、 パーソナルなメディアとして対応する編成に基づいて番組作りが行われた。64 年 3 月 にニッポン放送がオーディエンス・セグメンテーション編成による改編を発表したが、 それは聴取対象を時間帯別に分けたものであった。具体的には、午前 5 時~8 時を「お 早うタイム」として対象はメンズ・マーケット、午前 8 時~午後 1 時は「お茶の間タ イム」として対象はレディース・マーケット、午後 1 時~午後7時はオール・ミュー ジックタイムとして対象はドライバーズ・マーケット、午後 7 時~午前 0 時までをヤ ング・タイムとして対象はユース・マーケット、午前 0 時~午前 5 時はオールナイト 放送としている。この方針を参考に各局が各地の状況に応じたセグメンテーション編 成を行って普及していった (9) 。 一方で、厳しい経営環境によって各局とも番組制作費の抑制を迫られたことにより、 費用のかかるラジオドラマが少なくなり、その一方で生ワイド番組と言われる1時間 以上の番組が増えていった。リアルタイムな情報が提供できること、人件費やスタジ オ費用が抑えられること、電話で聴取者との交流が可能なためであり、こうした番組 (8) (9). 日本放送協会(2001)『20 世紀放送史』(上) p.354 日本放送協会(2001)『20 世紀放送史』(上) p.613. 10.

(11) の編成は個性あふれる司会者「パーソナリティー」を誕生させた。それまでは 15 分~ 30 分の番組が主流だったが、この生ワイド番組を中心とした編成は現在まで続いてい る。 これらのパーソナルメディア化、オーディエンス・セグメンテーション、生ワイド 番組、パーソナリティーの出現が相まって、ラジオにおける新たな文化ともいうべき 深夜放送が活況を呈することとなった。 また、体質の強化を目指して 1965 年には民放ラジオのネットワークが2系列、誕生 した。1つは TBS をキー局とした JRN で、もう1つは文化放送、日本放送が中心とな った NRN である。ネットワーク化によって、キー局は全国的なメディアとなり番組販 売収入が増え、地方局は安価に番組の調達が可能となり、その余力でローカル番組を 充実させられるようになるなどの利点があった (10) 。 上記のようにラジオは、テレビという破壊的イノベーションの登場によって、旧来 とは異なる在り方を模索することとなったが、単なる総合編成ではなく、聴取状況に 応じた在り方に最適化することによって、メディアとしての多様性を確保し、今日に 至っている。 一方、テレビに先んじていた映像を伴うメディアとしての映画もまた、テレビの普 及によってその在り方を変化させることを余儀なくされた。. 4.2. 映画業界の変遷. 4.2.1. 日本における映画の開始と普及. 日本で初めて映画が上映されたのは 1896 年、神戸で、トーマス・エジソンのキネト スコープによるものだった。その後、各地で上映される機会があったが、初めて映画 (当時は活動写真と呼ばれた)を撮影したのは 1898 年、浅野四郎であった。 1903 年には日本で最初の映画専門館「電気館」が吉沢商店によって東京・浅草に開 業した。1908 年には日本最初の映画監督とされる牧野省三が手掛けた、最初の本格的 な劇映画である『本能寺合戦』が発表されている。1912 年には上記の吉沢商店を含む 4つの映画会社が一つになり日本活動写真株式会社(略称 日活)が発足し、1920 年に は歌舞伎を本業としていた松竹が映画会社を設立して、本格的な映画制作に乗り出し た (11) 。 初期の映画は音声については無音だったため、活動弁士が台本に基づいてセリフを 入れたり、内容を解説するなどをしていたが、その後、映画技術が発展して映像に音 声が伴うトーキーと呼ばれる映画が普及していき、1935 年には完全に移行した。 トーキーの普及は、語りを売りとする落語家や喜劇俳優がスクリーンにも登場する ことにも繋がったほか、主題歌の流行を通して映画がヒットすることにも繋がった。. (10) (11). 日本放送協会(2001)『20 世紀放送史』(上) p.615 以上の記述は佐藤忠男(1985)「日本映画の成立した土 台 [日本映画史1]『講座日 本 映画1 日本映画の誕生』岩波書店による。. 11.

(12) 4.2.2. テレビの普及と映画の変化. 終戦から 10 年が過ぎた 1955 年ごろには日本の映画産業は娯楽の主役として最盛期 を迎えていた。1957 年から 1960 年の 4 年間は観客数が 10 億人を超え、幼児、老人を 含めた日本人が年平均 10 回は映画館へ行った計算になるという。また映画館も 1958 年から 1961 年の間、7000 を超えていた。 テレビが登場した当初は、受像機の価格が高価であったために普及はそれほど早く なかったとされるが、1957 年に 7.8%だったものが 1959 年には 23.6%となり、1960 年 に 44.7%、1961 年に 62.5%、1962 年に 79.4%、1963 年に 88.7%と急速に普及が進んだ。 テレビの普及に先んじて、映画産業が防衛策として講じたものが 1956 年の「五社協 定」と呼ばれるものであった。これは当時、日本映画連合会の東宝、松竹、大映、東 映、新東宝の5社が協定を結び、劇場用の映画をテレビでは放送させない、という方 針を決めたものであった。さらに、各映画会社に所属している俳優がテレビに出演す る際には、会社の許可が必要ということを決めたため、事実上、有名な俳優はテレビ に出演できなくなった。後に日活も加わったため、映画大手6社の作品はテレビから 姿を消すこととなった。 当時、俳優は映画会社に専属し、その専属俳優を中心に映画製作が進んでいく「ス ター・システム」と呼ばれるシステムが存在し、映画会社は人気のある俳優を抱え、 あるいは育成することで新たな人気俳優を生み出し、競争力の源泉としていた。その 中でも日活、東映は特にスター・システムが強かったとされるが、日活に所属した石 原裕次郎、小林旭、浅丘ルリ子、吉永小百合や、東映の『男はつらいよ』シリーズの 主役であった渥美清や『仁義なき戦い』や『トラック野郎』シリーズなどの主役で知 られた菅原文太などは現在でも多くの人の記憶に残る組み合わせが代表的なものとし て知られている。 日本の五社協定に似たような動きは海外でも起きていた。1953~1954 年頃のアメリ カでは主要映画会社はテレビにフィルムを売らない方針をとっていたが、テレビ側が 独自のプロダクションを設立し、テレビ用の映画を制作するようになり、結果として ハリウッドでいくつもの映画会社が経営難に陥り、不買方針はなし崩し的に撤廃され、 逆に自社のフィルムをテレビ局に売って息をついたという。 日本においては五社協定の結果、テレビのコンテンツ制作においては五社協定に縛 られることのない大部屋俳優や新劇の俳優に出演機会が生まれて新たなスターが誕生 していくことになり、また数多くのアメリカのテレビ映画が日本に入り込んでいくこ とに繋がった。ブラウン管から日本映画が消えた代わりに放送権が比較的割安だった こともあり、外国テレビ映画は日本の茶の間において全盛期を迎えた (12) 。 一方、日本の映画館入場者数は 1958 年に 11 億人 2745 万人とピークを迎えたが、テ レビの普及率と対応して減少を続け、1963 年には 5 億 1112 人と半減し、1972 年には 2 億人を割り込むこととなった(図2)。映画産業に大きな打撃を与えたとされる白黒 テレビの普及は、1957 年には 7.8%だったものの急速に増えていき、およそ 10 年後と なる 1968 年には 96.4%とピークを迎えた。しかし、その白黒テレビもカラーテレビの 普及が進むにつれて買い替えられ、1973 年には普及率が逆転した。その後、急速に普 (12). 以上の記述は日本放送協会(2001)『20 世紀放送史』 (上) p.388‐390 による。. 12.

(13) 及率は下降し、1982 年に 17.4%となったところで普及率調査の対象から消えたが、一 方のカラーテレビは 1975 年に普及率が 90%を超え、1984 年には 99%となり、日本の ほぼ全ての家庭にカラーテレビがある時代を迎えることとなった。 図2 テレビ普及率と映画館入場者数. 出所:一般社団法人 日本映画製作者連盟ウェブサイトの日本映画産業統計 (13) 内閣府「主要耐久消費財等の普及率(平成 16(2004)年 3 月で調査終了した 品目)」をもとに筆者作成 テレビの普及と映画の衰退について、佐藤(1987) (14) は以下のように記述している。 「テレビの普及は映画産業に決定的ともいえる打撃を与えたが、その結果、映画はた んに産業として規模が縮小しただけではなかった。テレビとの確執において、映画は その内容にも相当な変化を強いられた。 テレビを熱心に見たのは子どもと主婦と老人だった。テレビはウィークデイの昼間 は主婦向けの番組で埋め尽くし、夕方は子ども向けの番組でいっぱいにした。こうし て子どもは休暇のときだけしか映画館に行かなくなったし、主婦層も映画館へ通う習 慣を失った」 「子どもと主婦が映画で最もおぞましいと思うのは性的な場面、特に性的な暴力と 考えられ、子どもと主婦層を失った映画はそうした場面を遠慮する必要がなくなり、 むしろそれを強化することで残った成人男子の観客を引きつけようとする。すると、 性的、暴力的な場面の多くなった映画には子どもと主婦はますます行かなくなる。」. (13) (14). http://www.eiren.org/toukei/data.html 佐藤忠男 (1987)「危機と 模索 [日本映画史6]『講座 日本映画6 日本映画の模索』岩波 書店. 13.

(14) 当時は高度経済成長期で、仕事が忙しい 30 代以上の男性は映画を見る習慣を失う傾 向が強く、結果として、日本映画の観客は、成人男性の若年層に極端に偏ったという。 また経済成長とともに豊かになり、休みの過ごし方が多様化したことも影響している と言われる。 映画業界の低迷を象徴する出来事の一つは大手映画会社の経営破綻で、1961 年には 新東宝が、1971 年には大映が倒産している。また 1971 年には日活が業績不振のために 製作をいったん中止し、低予算で量産できるロマンポルノの制作で会社の再建を目指 すこととなった。会社の倒産は専属俳優などの解雇に繋がり、スター・システムも一 部を除き、徐々に消えていくこととなった。 映画業界はその後も様々な試行錯誤を行うが、映画館(スクリーン)数と入場者数 の減少は続き、1990 年代後半まで低位安定のような状態が続くこととなった。 4.2.3. 新たな映画会社の在り方の模索. 映画業界が苦境になる以前から一部の映画製作会社は、テレビ向けに映像コンテン ツを制作、提供するようになっていた。大手のうち最も動きが早かったのは東映で、 1958 年にはテレビ映画制作に着手し、時代劇「風小僧」シリーズは少年少女の人気を 集めて高視聴率をあげた。なお、東映の社長だった大川博は視察旅行を行ったアメリ カでのテレビの盛況ぶりを目の当たりにし、映画が生き残るためには映画、テレビ、 ラジオの一元的な経営を目指すべきという考えを示し、日本教育テレビ(後のテレビ 朝日)へ旺文社と日本短波放送とともに3割ずつ出資して会長に就任している。 1964 年はテレビ局への劇映画提供が提供を再開した年にあたり、映画会社の対テレ ビ戦略が大きく軟化して協調路線に明確に転換した年だった。当時は、テレビ局側は 人手とコンテンツが不足していたこと、テレビ映画の貿易自由化によりアメリカ側が 一方的な大幅値上げを行ったこと、映画会社側では映画の低迷で収入が落ち込んだこ とに加え、人手を持て余していたなど、利害の一致があり、国産のテレビ映画を求め る機運が高まっていたという (15) 。 また、東映、松竹、東宝の各映画会社は、不動産、タクシー、ボウリング場の経営 など事業の多角化を進めて経営を安定させる路線を進めた。 4.2.4. 多様化による映画の復活. 1970 年代後半以降には角川映画によるメディアミックス戦略が注目を集めた。角川 書店の社長であった角川春樹が設立した会社で、原則として角川書店で発行している 小説を映画化し、当時の映画界の常識を大きく上回る宣伝費をかけることで映画をヒ ットさせると同時に小説もベストセラーにするという手法で、これ以降、映画の宣伝 費が急上昇したと言われている (16) 。また角川映画は、角川書店発行の雑誌によって映 画や女優、俳優を取り上げたり、映画主演女優が歌を歌ってサウンドトラックを発売 したり、1980 年代に普及が進んだビデオソフトを発売することでも収益の在り方を多 (15) (16). 北浦寛之(2016)「大手 映画会社の初期テレビ産業への進出 テレビ映画製作を中心に」 谷川建司(編)『戦後映画の 産業空間―資本・娯楽・興行』 (pp.267-290) 森話社 佐藤忠男(1988)「多様化 の時代 [日本映画史7]『講 座日本映画7 日本映画の現在』 岩波書店. 14.

(15) 様化して注目を集めた。代表的な映画としては薬師丸ひろ子が主演を務めた 1981 年の 『セーラー服と機関銃』があるが、こうした手法は角川商法などとも言われた。 既存の映画会社以外では、1980 年代にフジテレビが『南極物語』や『ビルマの竪琴』 などを世に送り出し、テレビ・ラジオ(系列のニッポン放送)による宣伝や関連書籍 の展開など、企画の巧みさなども相まって興行的に大成功を収めた。 映画館の在り方も大きく変わっていった。かつての一般的な映画館は激減し、シネ マコンプレックス(シネコン)と呼ばれる、複数のスクリーンを持つ映画館の在り方 が主流となっていった。かつてのような1つの映画館においては時間差で2本しか上 映できないような業態で、映画の内容の当たりはずれに大きく業績を左右されていた ものが、複数のスクリーンがあることで、映画館側からすれば多様な映画を上映する ことが可能になり、映画の当たりはずれによる業績低下を回避するリスクヘッジがで きるようになった。また観客(ユーザー)視点では、シネコンは大型商業施設に併設 されていることが多く、郊外型の商業施設の場合には駐車場代が無料になるサービス を用意しているところも多く、映画を見る機会が増えることに繋がると考えられてい る。また複数のスクリーンによって選択肢が増えることによって、映画館に足を運ぶ 機会を増え、また予告などによって次回、映画館を再訪する可能性も高まるとされて いる。 設備・技術面でも様々な革新があった。記録・保存媒体はフィルムに代わってデジ タル化が進み、撮影編集時間が大幅に短縮されるようになった結果、人件費などの大 幅なコスト削減にもつながった。またデジタル化によって従来を上回る巨大スクリー ンで高画質な映写を可能とする IMAX デジタル、ULTIRA といった技術が生まれ、音 響技術もめざましい進歩を遂げ、現在、主流となっているドルビーアトモスでは頭上 を含め複数のスピーカーを、客席を取り囲むように配置することで自然で自由な音響 を生み出すことを可能にしている(図3) (17) 。 図3 ドルビーアトモスのイメージ図. 出所:ドルビーラボラトリーズ. (17) (18). ウェブサイトより (18). 以上の記述は中村恵二 ほか(2017)による https://www.dolby.com/jp/ja/technologies/cinema/dolby-atmos.html. 15.

(16) さらに偏光メガネをかけることによって映像が立体的に見える3D や、上映に合わ せて座席が前後左右に動いたり寒暖や香りなどが体験できる4D と呼ばれる体験を提 供する映画館も増えてきている(サービス名としては4DX、MX4D などがある)。 こうした様々な機能・特徴を備え、シネマコンプレックスは 1990 年代半ば頃から増 え始め、これが映画館(スクリーン数)の増加に繋がった(図4)。 図4 映画館入場者数と映画館(スクリーン数)の推移. 出所:一般社団法人 日本映画製作者連盟ウェブサイトより筆者作成 また、2019 年 12 月末時点では全国 3583 スクリーンのうち、3165 がシネコンになっ ていて、全体における割合は 88%に上る(図5)。 図5 映画館数とシネコンの数の推移. 出所:一般社団法人 日本映画製作者連盟ウェブサイトより筆者作成 16.

(17) さらに1つの映画会社が製作を行う旧来のやり方から、映画会社や制作プロダクシ ョンのほかに広告会社やテレビ局、出版社、レコード会社、芸能事務所など複数の企 業が出資してコンテンツを製作する製作委員会方式が採用されることが一般的になっ た。この製作委員会方式の普及によって、ヒットしなかった場合のリスク分散が図れ るようになり、その結果、経営の安定に繋がったと考えられる。製作委員会方式は一 般的に複数社が出資をし、収益を出資比率に応じて分配する、という性質のものであ るため、一つの作品当たりの収益は構造的に減ることにはなるが、それでも現在の映 画やアニメなどのコンテンツ製作を安定的な事業となさしめているのは収支構造の多 様化であり、コンテンツのマルチユースである。かつての映画は上映して、その興行 収入のみに依存していたが、現在では、映画を上映した後、ビデオ・DVD・Blu-ray などのソフトにしたものを販売もしくはレンタルし、BSやCS、PPVなどの有料 放送で放映し、地上波テレビで放送し、海外でも配給することで、1 つの映画コンテン ツで何度も収益を上げることができる。最近ではネットでの動画配信などもこの構造 に加わっている。さらにはアニメや原作本などがあれば書籍やグッズなどの販売でも 収益が期待できる。 このように、旧来の映画を製作して映画館で上映するだけの時代から、映画業界も 持続可能なビジネスを模索していった結果、多様化していったことが伺えよう。 なお、映画業界は近年、活況を呈していて、2019 年の年間興行収入は 2000 年以降で は最高となる 2612 億円を記録している. (19). (19). 。. 一般社団法人 日本映画 製作者連盟ウェブサイ ト http://www.eiren.org/toukei/data.html. 図4、図5の出所も同じである。. 17.

(18) 5.考察 本論文では、メディア産業における非連続なイノベーションが起きた後、既存企業 がどのように適応を究明するために、テレビ放送登場前後のラジオ、映画の産業状況 を取り上げ、それぞれが現在に至るまでの経緯を示してきた。2つの既存メディアは それぞれ異なる特徴を持ち、テレビ登場後も異なる対応をしてきたが、そこに共通す る特徴はどういうものかについて以下、考察する。 5.1 テレビ登場後、多様化する価値観に適応したラジオ ラジオ、映画ともに世界の多くで共通に普及するメディアであり、産業であるが、 日本においてはテレビ放送の普及後、それぞれ、以前のような集客を行えなくなり、 在り方について再定義を行わざるを得なくなったということにおいては共通している。 メディア産業を考える際、伝える内容=コンテンツを中身と考えると、伝える手段 =メディアはその中身を入れて伝える器の役割を果たす。根来・藤巻(2013)は産業のモ ジュール化が製品/サービスを分解し、消費者がそれらの組み合わせを自由に直接選 択できるようになることを「産業のレイヤー構造化」として説明し、バリューチェー ン型の産業構造とは異なることを指摘しているが、この考えを適用するならば、メデ ィア産業も中身=コンテンツ制作というレイヤーと、器=メディア媒体というレイヤ ーから構成されている。 ラジオとテレビの関連性を考察する場合、器としては音声を届けるラジオと映像を 伴うテレビでは異なるし、提供される中身(コンテンツ)も音声と映像と異なってい る。共通していたのは、放送を通じて、主に家庭で、情報を得られるという役割であ る。1960 年前後の一般家庭において、情報・娯楽を提供するメディアとしてラジオは テレビに主役の座を奪われていったが、その後、ラジオはデバイスの小型化により場 所という制約条件から解放され、さらに顧客となる視聴者を時間や属性などで詳細に 分析して、自らの事業の再定義と適応を行うことで事業を持続可能としてきた。 Teece(2009)は、企業が急速な環境変化に対処するために内部・外部ケイパビリティ の統合・構築・再配置を実行する組織・経営者のケイパビリティをダイナミック・ケ イパビリティと定義している。ダイナミック・ケイパビリティは、①機会と脅威の感 知・具体化、②機会の捕捉、③企業の無形・有形資産の強化・統合・保護に加え、必 要な場合に行われるその再配置を通じた競争力の維持、といったことに必要とされる 能力に分解可能であり、そこには顧客・技術機会の変化に適応するために必要とされ る、複製困難な企業のケイパビリティが含まれる。Teece(2009)は、これらの能力のオ ーケストレーション能力に長けることによって、イノベーションをうまく実現し、長 期的に優れた財務パフォーマンスを達成し、価値獲得を実現する企業の能力が強化さ れる、という仮説を示している。 ラジオにおいては、テレビの出現という脅威によって新たな事業を再定義する機会 を捕捉し、適切な対応策を講じて転換した、と言えるだろう。ただし、これは市場選 択や移行という話に留まらず、ラジオというメディアがテレビとの差別化を図り、コ ンテンツにおいては「ながら聴取」に対応し「生活の伴奏音化」というコンセプトを. 18.

(19) 生み出し、さらには「個人化」「心理媒体化」「聴取者参加」など、多様な聴取者の ニーズに対応することを模索し進めた結果といえる (20) 。 なお、ラジオ広告費は 1951 年から一貫して増加し続け、1991 年に過去最高となる 2406 億円となった後、緩やかに減少し、2010 年代は 1200 億円程度で推移している。 2010 年代以降のラジオの低迷についてはインターネットとスマートフォンの普及が大 きく影響していると言われている (21) 。 5.2 テレビ登場後、多様な価値提供に活路を開いた映画 映画とテレビで考えた場合には、ともに映像コンテンツを中身のレイヤーとしてい るが、器に関しては、都度、チケットを購入して映画館で視聴する映画から自宅で見 られる、しかも NHK 受信料および CM 視聴という出費している意識が映画に比べて 相対的に低いと考えられるテレビへの移行は破壊的イノベーションであったと言えよ う。その後、映画館を訪れる人が減少し、それにともなって制作費が減少し、コンテ ンツが先細りしたために業界全体が苦境に陥ったが、生き残った映画会社は中身のレ イヤーである映像コンテンツをテレビという異なる器に流すことで収益を上げ、さら には制作能力というケイパビリティの維持・向上にも繋げた。つまり一つの器(レイ ヤー)にこだわるのではなく、多様な器(レイヤー)に自らの別の強みであるコンテ ンツという中身を提供し新たな収益源とすることで、複合的な収益構造を構築したこ とが映画産業においては有効だったと考えられる。 さらに映画においては、コンテンツの認知を進めるためのメディア・ミックス戦略 によるプロモーション拡大や、シネコン増加など器そのものにおいてもインクリメン タルなイノベーションが起きており、映画館を訪れる観客は全盛期ほどではないにせ よ、回復しつつある状況にある。 5.3 メディア産業における破壊的イノベーションへの対応 ラジオ、映画は、テレビという非連続なイノベーションの普及後、ダメージを受け ながらも、新たな在り方を模索し事業を継続してきたが、既存の在り方では生き残れ ない状況と判断される状況が迫ってきた際に、ラジオ、映画ともに行ったことは、そ れまでの漫然とした人々へのコンテンツ提供・伝達からの脱却であり、ターゲットや コンテンツ、事業の在り方を含めた多様な価値の提供への転換だったと考えられる。 ラジオは家庭における放送というカテゴリーにおいて、映画は映像コンテンツの提 供というカテゴリーにおいて、テレビ登場以前はそれぞれ独占的なポジションにあっ た。そのような状況では一方向的な提供の在り方であっても、比較の対象も代替品も なかったため特に問題も生じなかった。 しかし、テレビの普及以降、ラジオは受信契約者数を減らし続け、映画も入場者を 減らし続けたが、そこでユーザーに起きたことは価値次元の変化であり、何に余剰の 時間=可処分時間を使うかという選択軸の変化だったと言える。マーケティングで言 うならば、余剰時間があったら何をして過ごすかを想起した際のトップ・オブ・マイ ( 20 ) 以上の記述は日本民間放 送連盟(2001)『民間放送 50 年史』による。 ( 21 ) 電通・広告景気年表より https://www.dentsu.co.jp/knowledge/ad_nenpyo.html. 19.

(20) ンドがラジオ、映画からテレビへ変わったと解釈できるだろう。このため、失ったマ インドシェアを回復するためにラジオ、映画は、より多くのユーザーを獲得するため に利便性、コミュニケーション、顧客価値などを拡大するとともに多様化する戦略を 選択することによって活路を開いた。 福澤(2013)は、Teece et al.(1997)の議論について、急速に変化する環境に対応する力 には現在の資産、それまでの発展経路が影響を与えることが指摘されている、と述べ ている。また菊澤(2019)は、ティースによるダイナミック・ケイパビリティ論では、内 外の資産をオーケストレーションしビジネス・エコシステムを形成する必要性が、す なわち一つの企業が独力でビジネスを展開し一社で利益を獲得するのではなく、ビジ ネス・エコシステムを形成して全体として利益を獲得することが重要だと説明してい る。こうしたダイナミック・ケイパビリティの考えは、ラジオにおけるネットワーク 化の推進や映画業界における多様化の推進と整合的であり、不確定要素が多く急速に 変化する環境においては、多様な戦略と選択肢が事業の生存確率を高めることに繋が ると考えられる。新宅(1994)における製品のフルライン戦略の有効性にも通じるが、多 様なニーズ、変化する経営環境に適応するためには多様な選択肢を確保して、資源・ 組織能力を適応、変化させていくことが有効な手段の一つである。 既存事業の在り方が破壊的イノベーションの登場・普及によって打撃を受け、自ら の在り様が変わらなければ滅びる状況に陥るような事態においては、解を求める変化 の方向性は一方向だけではなく、複数あった方がリスクを分散させることに繋がり、 また不確定な未来に対応する意味においても、多様な価値創造の在り方を模索するこ とが生存確率を高めることに寄与する。いわば、価値次元の転換、多様化は既存事業 のサバイバル戦略と言える。これにより、既存企業は事業の新たな可能性を追求しな がら、人々のさらなる可処分時間にアプローチする機会を増やすことを可能とするの である。. 20.

(21) 6.おわりに 本稿では、メディア産業における非連続なイノベーションと既存企業の対応につい て考察してきたが、大きな影響を及ぼす現在進行形で進んでいるものにデジタル・ト ランスフォーメーションと呼ばれる事象がある。デジタル・トランスフォーメーショ ンとは、インターネット回線の高速化と低価格化、スマートフォンに代表されるモバ イル端末の普及に代表される社会の変革であるが、メディア産業においても、人々が 時間、場所に関係なく映像や音声コンテンツをオンデマンドで視聴することを可能に することから、従来の産業構造に大きな変化をもたらしており、旧来のメディア企業 にとっては破壊的イノベーションとして映るものと思われる。金額ベースで言えば 2019 年にはインターネット広告費はテレビ広告費を超えており、初めて2兆円を超え た (22) 。 メディア産業に限らず、このデジタル・トランスフォーメーションは、既存事業か ら見た場合にデジタル・ディスラプションというネガティブな意味合いで捉えられる ことも少なくない。Wade et al. (2016) は、デジタル技術が多種多様な業界に影響を与 えている状況を「デジタル・ボルテックス」という表現で示し、既存企業がその渦の 影響を受けながらもいかに戦うかについて研究を行っている。 既存企業がデジタル・ディスラプションに対処するための対応戦略として4つを挙 げ、防衛的戦略として「収穫戦略」「撤退戦略」が、攻撃的戦略として「破壊戦略」 「拠点戦略」が考えられるが、いずれの戦略も、いかにしてディスラプション発生以 前の事業モデルからの州で気を最大化するか、あるいは、いかにしてデジタルな手段 で新たなカスタマーバリューを生み出すかを狙いとしているという。そして、こうし た戦略のために既存企業が身につけるべきものは、ディスラプターのスピードや柔軟 性、有効性に対応できる能力=デジタルビジネス・アジリティであり、その土台とし てハイパーアウェアネス(察知力)」「情報に基づく意思決定力」「迅速な実行力」 という3つが密接に関連した能力が必要だとしている。ティースのダイナミック・ケ イパビリティの議論にも通じるところがあり、今後、更なる研究がなされる分野であ ろう。 本稿の事例研究でも見てきたように、イノベーションが普及しつつある状況におい て、既存企業がそれを妨害しようとした場合には失敗するだけでなく、適応できずに 廃業に至ることもある。そうしたことを考えた場合に、排除ではなく多様性を模索す ることこそが事業の生存領域を確保しつつ、新たに創造される市場において自らのケ イパビリティを変化させ、さらなる発展に繋がる可能性を広げるのではないかと思わ れる。 また、今日のデジタル・トランスフォーメーションにおけるメディア企業において は、人々の可処分時間をいかに獲得するか、ということが収益に結びつくという構造 へと変化している。Netflix の CEO であるリード・ヘイスティングスはインタビュー の中で Facebook や YouTube なども競合とみなし「スクリーンをみている時間の奪い 合い」だと述べており (23) 、メディア産業の分析においては今後、得られた可処分時間 ( 22 ) 電通「日本の広告費」よ り https://www.dentsu.co.jp/knowledge/ad_cost/ ( 23 ) ウェブサイト「AV Watch 西田宗千佳の RandomTracking」. 21.

(22) や前述のマインドシェアといった指標に基づき、さらなる研究が展開されていくこと が想定される。 同じインタビューでヘイスティングスは映画産業について「私たちはあらゆる種類 の新しい流通戦略を開き、生態系を成長させ、より多くの映画を作り出すことができ る。(中略)私たちのモチベーションは、映画市場の革新と成長 を見ることだ」とも 述べており、非連続なイノベーションを起こす側の企業においてもビジネス・エコシ ステムの形成・発展を目指し、既存企業との共存を志向していることが伺える。事業 において多様性を模索することは可能性を広げることと同義であり、Tushman and O’Reilly III (1997)の言葉を借りるならば「知の探索」とも言えよう。その意味で、既 存のメディア産業においても知の探索=多様性の模索は今後の事業展開において重要 なテーマになるものと思われる。 本稿では、ラジオ、映画がテレビの普及とともに迎えた危機的状況をいかに克服す る上で必要な要因を多様性の模索にあるものとしたが、その他の要因の存在も否定で きない。また、ラジオや映画のコンテンツに関する詳細な研究が数多く行われており、 そうしたコンテンツの内容や歴史的な変遷の中も勘案すべきものが含まれていると考 えられ、今後さらなる検証が必要であると考える。 また事例研究としてラジオ、映画、テレビといったメディア産業を扱ったが、他の 産業に適用され、一般化しうるかについては今後、更なる検証が必要である。. 22.

(23) 謝辞 本稿の執筆にあたり、早稲田大学大学院経営管理研究科の長内厚教授には、執筆におけ る指導教員および主査をご担当いただき、本研究の機会を与えていただくとともに、終始 熱心にご指導いただきました。厚く御礼申し上げます。 早稲田大学大学院経営管理研究科の木村達也教授には、副査をご担当いただくとともに、 マーケティングのご講義を通じて、経営学の学びにおける深い理解を与えていただきまし た。 京都産業大学の伊吹勇亮准教授には執筆にあたり、貴重なアドバイスをいただきました。 そして、早稲田大学大学院商学研究科博士後期課程の佐々木達郎さん、余氷菲さん、長 内ゼミの同志である小野田友洋さん、土屋裕太郎さん、福堀仁志さん、松永章子さん、山 本晃平さん、小原史裕さん、胡桃沢知秀さん、松本匡平さん、岡村仁弘さんには共に学び 研究に臨むことで筆者を勇気づけていただくとともに様々な学びの機会と刺激をいただき ました。芦澤智之さん、武田信夫さん、豊重巨之さん、木内豊さん、志村大輔さん、内藤 正和さん、土屋宣明さん、栁知宏さん、山﨑愛果さんをはじめ、長内ゼミの諸先輩方にも 貴重なアドバイスや示唆をいただきました。 また、私を支えてくれた家族の多大なる支援に対して、深く感謝します。 上記に加えて、本稿執筆並びに本稿執筆に至る早稲田大学大学院経営管理研究科専門職 学位課程での筆者の学業遂行に協力してくださったすべての方々に感謝の意を表します。 なお本稿の記載事項に関する誤謬は、すべて筆者個人の責めに帰すものであり、筆者が 所属するいかなる団体も責任を負うものではありません。. 23.

(24) 参考文献 Utterback, James M. (1994). MASTERING THE DYNAMICS OF INNOVATION, Boston: Harvard Business School Press. (大津正和、小川進訳.(1998)『イノベーション・ダイナミ クス』有斐閣)』) Abernathy, W. J., & Clark, K. B. (1985) Innovation: Mapping the winds of creative destruction. Research policy, 14 (1),3-22. 小笠原敦・松本陽一(2005).「 イノベーションの展開と利益獲得方法の多様化」 『 組織科学』39 (2), pp.26-39. 長内厚(2006).「組織分離と既存資源活用のジレンマ --ソニーのカラーテレビ事業における新 旧技術の統合」『組織科学』 40 (1),84-96. 恩藏直人・及川直彦・藤田明久(2008).『モバイル・マーケティング』日本経済新聞社. 菊澤研宗(2019).『成功する日本企業には「共通の本質」がある ダイナミック・ケイパビリテ ィの経営学』朝日新聞出版. 楠 木 建 (2001). 「 価 値 分 化 : 製 品 コ ン セ プ ト の イ ノ ベ ー シ ョ ン を 組 織 化 す る 」『 組 織 科 学 』. 35 (2),16-37. Christensen, C. M. (1997) The Innovator’s Dilemma, Boston: Harvard Business School Press. (玉田俊平太監修・伊豆原弓訳.(2001)『増補改訂版. イノベーションのジレンマ』翔泳社). 榊原清則(1992)『企業ドメインの戦略論:構想の大きな会社とは』中公新書 Jeff Loucks, James Macaulay, Andy Noronha & Michael Wade (2016) DIGTAL VORTEX How Today’s Market Leaders Can Beat Disruptive Competitors at Their Own Game. Lausanne, Switzerland: DBT Center Press. (根来龍之監訳、武藤陽生、デジタルビジネス・イノベー ションセンター訳(2017)『対デジタル・ディスラプター戦略. 既存企業 の戦い方』日本経. 済新聞社) Schumpeter, J. A. (1934). The theory of economic development: An Inquiry into Profits, Capital, Credit, Interest, and the Business Cycle, Cambridge: Harvard University Press. (塩野谷祐 一・中山伊知郎・東畑精一訳『経済発展 の理論:企業者利潤・資本・信用・利子および景 気の回転に関する一研究 』岩波書店,1977 年) 新宅純二郎(1994).『日本企業の 競争戦略―成熟産業の技術転換 と企業行動―』有斐閣. Teece, David J. (2009). Dynamic Capabilities and Strategic Management: Organizing for Innovation and Growth. New York: Oxford University Press. (谷口和弘・蜂巣旭・川西章弘・ステラ・ S・チェン訳(2013)『ダイナミッ ク・ケイパビリティ戦略』ダイヤモンド社) Teece, D. J., Pisano, G., & Shuen, A. (1997). Dynamic capabilities and strategic management. Strategic management journal, 18 (7), 509-533. 根来龍之(2005).『代替品の戦略 攻撃と防衛の定石』東洋経済新報社. 根来龍之・藤巻佐和子(2013).「バリューチェーン戦略論からレイヤー戦略論へ ―産業のレイ ヤー構造化への対応」『早稲田国際経営研究』 44 ,145-162. 根来龍之(2017).『プラ ットフォ ームの教科 書― 超速成長ネットワー ク 効 果の基本と応用』 日 経BP社. 福 澤 光 啓 (2013). 「 ダ イ ナ ミ ッ ク ・ ケ イ パ ビ リ テ ィ 」 組 織 学 会 [ 編 ] 『 組 織 論 レ ビ ュ ー Ⅱ 』 (pp.41-84). 白桃書房.. 24.

(25) 松本陽一(2012).「ドメインの階層性:戦略分析 の新しい視角」『組織科学』45(3),95-109. 魏晶玄(2001).「製品ア ーキテクチャ の変化 に対 応する既存企業の組 織マ ネジメント ―組織 内 資源の移動と再結合による異質な資源の創造プロセス―」『組織科学』 35 (1),108-123.. 25.

(26) 参考資料 加藤秀俊(1958).「新たなメディアの展開」『放送朝日』7 月号 朝日放送株式会社. 株式会社 東京放送(2002).『TBS50年史』株式会社 東京放送. 北浦寛之(2016).「大手映画会社の初期テレビ産業への進出 テレビ映画製作を中心に」谷川建司 (編)『戦後映画の産業空間―資本・娯楽・興行』 (pp.267-290) 森話社. 社団法人 日本民間放送連盟(2001).『民間放送 50 年史』社団法人 日本民間放送連盟. 東映株式会社(2016).『東映の軌跡』東映株式会社. 日本放送協会(2001).『20 世紀放送史』日本放送協会. 佐藤忠男(1985).「日本映画の成立した土台 [日本映画史1]『講座日本映画1 日本映画の誕生』 岩波書店. 佐藤忠男(1987).「危機と模索 [日本映画史6]『講座日本映画6 日本映画の模索』岩波書店. 佐藤忠男(1988).「多様化の時代 [日本映画史7]『講座日本映画7 日本映画の現在』岩波書店. 中村恵二・荒井幸博・角田春樹(2017).『図解入門業界研究 最新映画産業の動向とカラクリがよ ~くわかる本[第3版]』株式会社 秀和システム. 東山一郎(2015).「シリーズ ラジオ 90 年【第 1 回】テレビが登場した時代のラジオ~その議論 と戦略をめぐって~」『放送研究と調査』NHK放送文化研究所 pp.2-19. (ウェブサイト) AV Watch. 西田宗千佳の RandomTracking. https://av.watch.impress.co.jp/docs/series/rt/1050880.html (参照 2021-01-06) 株式会社 電通 日本の広告費 https://www.dentsu.co.jp/knowledge/ad_cost/ (参照 2020-12-30) 株式会社 電通 広告景気年表. https://www.dentsu.co.jp/knowledge/ad_nenpyo.html (参照 2020-12-30) 一般社団法人 日本映画製作者連盟 日本映画産業統計 http://www.eiren.org/toukei/data.html (参照 2021-01-02). ドルビーラボラトリーズ ドルビーアトモスはどのように映画体験を変えるか https://www.dolby.com/jp/ja/technologies/cinema/dolby-atmos.html (参照 2021-01-05) 内閣府 消費動向調査「主要耐久消費財等の普及率(平成 16(2004)年 3 月で調査終了した品目)」 https://www.esri.cao.go.jp/jp/stat/shouhi/0403fukyuritsu.xl s (参照 2021-01-05). 26.

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参照

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