九州大学学術情報リポジトリ
Kyushu University Institutional Repository
ドイツから見た官営八幡製鐵所への技術移転
菅, 和彦
元新日本製鐵㈱八幡製鐵所 : 部長
https://doi.org/10.15017/1807808
出版情報:エネルギー史研究 : 石炭を中心として. 32, pp.197-210, 2017-03-24. 九州大学附属図書館 付設記録資料館産業経済資料部門
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はじめに
本稿は、ケルン大学地理学研究所の名誉教授ソワイエ博士(Dr. D.
Soyez)による論考「国家を越える技術移転:ドイツ側から見た官営製鐵所1897-1901」(‘Technology Transfer in a Transnational Setting: The Imperial steel Works (Japan)1897-1901 from a German Perspective’)の要約と解説である。二〇一五年七月UNESCO世界遺産委員会は、日本政府が推薦した「明治日本の産業革命遺産」について (1)、世界文化遺産登録基準一〇項目のうち、次に記すⅱおよびⅳの二つを満たすとして登録リストに記載することを決定した。
登録基準ⅱ: 建築、科学技術、記念碑、都市計画、景観設計の発展に重要な影響を与えた、ある期間にわたる価値感の交流又はある文化圏内での価値観の交流を示すものである。 明治日本の産業革命遺産は (2)、「日本が一九世紀の半ばから二〇世紀の初頭にかけ、産業化が進む西洋諸国から技術移転を受け、技術の交流により変化を遂げた特異なプロセスを証言する一連の遺産群である。極め短期間に西欧の産業革命が日本に移植され、また成就されたことは、産業化と技術の歴史において、地域的にも時代的にも希有なことである。西欧からの技術の伝播が伝統的な日本文化と融合し、国内の需要や社会的伝統に合わせて改善・改良され、日本の社会と経済を形づくり、後に日本を世界の大国に押し上げる重工業の基盤を築いた。」ことを示し、登録基準ⅱを満たす。登録基準ⅳ: 歴史上の重要な段階を物語る建築物、その集合体、科学技術の集合体、あるいは景観を代表する顕著な見本である。同じく (3)「日本が一九世紀の半ばから二〇世紀の初頭にかけ、産業化が進む西洋諸国から技術移転を受け、技術の交流により変化を遂げた特異なプロセスを証言する一連の遺産群である。極め短期間に西欧の産業革
【資料紹介】ドイツから見た官営八幡製鐵所への技術移転
菅 和 彦
命が日本に移植され、また成就されたことは、産業化と技術の歴史において、地域的にも時代的にも希有なことである。西欧からの技術の伝播が伝統的な日本文化と融合し、国内の需要や社会的伝統に合わせて改善・改良され、日本の社会と経済を形づくり、後に日本を世界の大国に押し上げる重工業の基盤を築いた。」ことを示し、登録基準ⅳを満たす。
この明治日本の産業革命遺産は製鉄・製鋼、造船、石炭産業の三分野から成り立っており、福岡県北九州市に所在する新日鐵住金株式会社八幡製鐵所の八幡地区にある旧本事務所、修繕工場、旧鍛冶工場および同中間市に所在する遠賀川水源地ポンプ室の四施設が構成要素としてリストに包含されている。これら施設はいずれも (4)官営八幡製鐵所(以下「官営製鐵所」)創業期の施設で、特に修繕工場と旧鍛冶工場は、ドイツから大々的に技術導入をして官営製鐵所が建設されたことを今に伝える産業遺産である。今回の世界遺産登録過程において、官営製鐵所の技術導入元であったドイツの鉄鋼メーカーであり、設備機器メーカーでもあったGutehoffnungshütte社(グーテホフヌンクスヒュッテ社、以下「GHH」)の史料がケルンに大量に保管されており、官営製鐵所関係のものも相当含まれていることが判明し、世界遺産登録活動の一翼を担う産業遺産国民会議は、技術や産業の移転に関する研究の第一人者であり、国際産業遺産保存員会(TICCIH)の要職も務めたケルン大学地理学研究所名誉教授ソワイエ博士に史料調査とその調査に基づく技術移転に関する研究を依頼した。博士は、ケルンのDie Stiftung Rheinisch-Westfälische Wirtschaftarchive
zu Köln(以下RWWA)に収蔵されているGHH関係史料のうち、官営 製鐵所関係の史料(以下GHH文書)数十点を検索し、これに基づく調査研究結果の概略を二〇一四年七月に東京で開催された産業遺産国際会議において‘Transnational Technology Transfer with particular focus on German Technology Transfer to Imperial steel Works, Japan - A Re-Appraisal’として発表、この発表を受けて北九州市は、より詳細な調査研究を博士に委託、博士は翌三月、‘Technology Transfer in a Transnational Setting : The Imperial
steel Works (Japan)1897-1901 from a German Perspective’(以下「国家を越える技術移転」)として同市に報告した。博士はこの報告の目的を(1) 日本への技術移転に関してドイツで起きた出来事に光を当てること。(2) この国家を越える取り組みに関わったドイツ側の当事者の受け止めを評価すること(3) 明治期の産業革命遺産特有の文脈が、この取り組みの前向きな面だけでなく困難な部分についても率直に議論することで、遺産に関する今後の国際的なアプローチや政策に役立つものとなりうることを示すこととし、(1)および(2)については、RWWAに保管されているGHH文書を用い、主に経済地理学の視点から分析評価を行うとともに(3)については、明治産業革命遺産、特に官営製鐵所について、ドイツとの関係ばかりでなく、技術としての体系や技術導入に限定することなく、原燃料や労働力の調達なども含めた諸外国との関わりを総体としてインタープリテイションすることが、この世界文化遺産の価値を伝えることであるとしている。本稿は、ソワイエ博士のこの論文が官営製鐵所の技術移転に関して、
ドイツ側の視点から調査分析を行った初めての本格的な研究で有り、その要旨を紹介するとともに日本側のこれまでの研究と対比し、ドイツからの製鉄・製鋼技術の移転について再評価を試みるものである。ソワイエ博士はTICCHIの要職を務めていたこともあり、官営製鐵所のインタープリテイションについて貴重な提言を行っているが、本稿では省略したことを予めお断りしておく。この論考の原文は英文(付属資料は独文)で、本稿は、北九州市の許可を得て同市による暫定翻訳版を基本に、筆者が必要に応じ要約と修正を行った。
Ⅰ.国家を越える技術移転:ドイツ側から見た官営製鐵所1897-1901(要約) ケルン大学地理学研究所名誉教授 ディートリッヒ ソワイエ
1.序1.1 ドイツと日本との関係の成立過程1.1.1 インキュベーターとしてのフライベルク工科大学(当時の名称はフライベルク鉱山学校)一八七三年(明六)から一九一四年(大三)までの間に四四人もの日本人学者や技術者が、フライベルクでレーデブーアの指導のもとに学んだ。彼らの中には (5)、大島道太郎や野呂景義、今泉嘉一郎のように、後に八幡製鐵所に関わることとなる者も多かった。加えて、これらの学生の多くが、産業界や行政、高等教育機関(特に一八八六年(明一九)設立の東京帝国大学工学部)の有力当局者、意思決定者、教育者として二〇世紀初頭の日本の産業化に大きく貢献した。 維新期の日本で重要な役割を果たしたフライベルク出身のドイツ人として、クルトネットーとアドルフレーデブーアがあげられる。
1.1.2 グーテホフヌンクスヒュッテ社 Gutehoffnungshütte社(GHH)は、一七八二年にシュテルクラーデに造られた製鉄会社で一九世紀末までには、従業員一万人以上を有し、ドイツの産業化を牽引する会社のひとつとなっていた。その後の数十年間に同社はヨーロッパ最大の高度な機械メーカーのひとつへと成長していった。両大戦期には、GHHは兵器製造に大きく関わった。これはすべてのドイツの製鉄会社に共通することだが、特にGHHのCEOは政治的指導者らと深い関わりを持っていた。第二次大戦末期には、製造は主に強制労働(戦争捕虜や強制収容所の収容者)によって賄われた。石炭・製鋼業における類似の企業グループと同様に、米英占領軍による第二次大戦後の急速な所有権解体が一九四八年に行われ、GHHは主に機械部門であるGHH Sterkrade AGに縮小された。一九八〇年代半ばには、企業の再編統合が行われ、創業当時の一事業にまで縮小し、かつては機械関係の子会社であったMAN AGの一部となった。
1.1.3 初期段階:日本とGHHの関係構築初代技監大島道太郎は、一八九七年(明三〇)二月中旬、上シレジア地方の製鉄所視察の途上、母校であるフライベルク鉱山学校のレーデブーア教授(以下「教授」)と相談し、GHHとの交渉を開始した。GHH文書が示す交渉課程は以下のとおり。(1) 一八九七年二月一五日教授からGHHCEOの (6)C. Luegに、日本の
製鉄所の建設について打診。断った場合には、商談は英国あるいは米国に行くと警告。(2) 同年二月二三日、教授からGHHに責任者をフライベルクによこすよう要請。これを受け、GHHは役員のJacob (7)iが大島とベルリンにて交渉を開始した。(3) 同年三月一日、GHHからJacobi宛て、「拘束力のある合意書は避けるように。Hanie (8)lと協議するので、後で連絡する」旨指示。さらに別電報で「日本人従業員の教育は、GHHが工場を建設する場合のみ行う。大島一行については、大島に限り、必要な場合の入構を認める。」旨の条件を指示。(4) 同年三月二日付のJacobiからGHH宛てに大島が基本的事項について合意し、サインするためにオーバーハウゼンを訪問する旨連絡。(5) 一八九七年三月五日、正式契約は後日交わすことを条件として、大島はGHHの二人の役員と三ページにわたる手書きの合意書にサインした。合意の概要は以下のとおり。
ⅰ ) プロジェクトの全般的な設計とコスト計算をGHHにゆだねる。
ⅱ ) 各工場でどのような製品を製造するかを決定する。
ⅲ ) 競合他社に金額の提示を求める権限を大島に与える(ただしこの要請はGHHにも示し、GHHが価格を見直すことを許可する)。 ⅳ ) 大島が計画の詳細を詰め第一期分の注文を行うためにシュテルクラーデに仮事務所を構えることをGHHは手助けする。
ⅴ ) GHHに同社の予算で他の専門家を雇う権限を与える。
ⅵ ) GHHへの注文総額が一〇〇万マルクを下回った場合には五万マルクを支払う。(金額の記載された最初の規定) ⅶ ) 日本政府はGHHの職員や技術者を直接的・間接的に雇わない。他のドイツや海外の企業に同様の計画を作成させない。
ⅷ ) 大島とその同行者三名に限り、GHHのオーバーハウゼンの工場に時によっては立ち入ることを許可する。今見ると最後の項目は注目すべきもので、GHHが機密情報の漏洩を懸念していたことを反映したものと思われる。【筆者補足説明】(
( 必ずしも積極的ではなかったことを示している。 がよく判る。GHHは、その技術や設備機器の日本への輸出につい て、プラントへのアクセスに極めて制限的な対応をとっていること 経緯がかなりの程度明らかになった。GHHが日本人技術者に対し 1)この研究により、これまで不明であったGHHと大島技監との交渉
( とになる最低発注額が一〇〇万マルクであることが判明した。 内容がより明確になった。設計費用や教育研修費用が免除されるこ 2)大島技監からの山内長官宛申報書に記載されていたGHHとの合意 (9)
官に次のように (1) 3)日本側の史料ではドイツの技術を導入した理由を大島技監は山内長
(報告している。その要旨は以下のとおり。
「コークスおよび耐火煉瓦の製造はドイツとベルギーが、溶鉱炉は疑いもなくドイツが、溶鋼工場は米国が優れている。米国の製鉄所は少品種大量生産であるのに対し、ドイツの製鉄所は日本の需要構造に類似しており、ドイツにて計画策定を行うことを決意した。」(4 ) GHHを選択した理由については不明で有り、この報告でも明らかにされていないが、レーデブーア教授の果たした役割が決定的であったことが判明した。教授はGHHに対し「大島と合意できなければ、
商談は英国か米国に行く。」と伝えている。
2.日本・ドイツの関係構築:技術的障害、物流の悪夢、異文化間の障害2.1 プロジェクトの発足日本人は大規模製鉄について実務経験がなく、GHHの助けを求めてはいたが、交渉及びドイツとのプロジェクト開始についてはよく準備しており、この点では大きく優位に立っていた。代表団、特に大島道太郎は、ドイツの文化、地理、そして技術的知見に非常に造詣が深かった。ドイツで高等教育を受けた代表メンバーは、高度な技術訓練を受けており、ドイツ語にも堪能であった。また彼らは、社会的交流の複雑さもマスターしており、ドイツの商慣習にも精通していた。(例えば、重要で込み入った技術指令が書かれた手紙や感謝状を見れば明らかである。)
2.2 ロジスティックスGHHにとって大きな課題のひとつは、ゼネラルコントラクターとしてドイツを中心に六〇社を超えるサブコントラクター(以下「サブコン」)からの調達と輸送をいかに管理するかの問題であり、関係者が多岐にわたること、欧州と日本の距離、コミュニケーションのギャップや時間差等に起因して、ロジスティックスにかかわる様々な問題が発生した。実例を挙げればⅰ) 頻繁に資料や資材の紛失が生じ、建設に深刻な遅延を招いた。GHHはリュールマン(高炉設計事務所)に対し、毎回すべての図面について余分にコピーをとり、それを別の船に乗せることになったと連絡している。 ⅱ) 船便が限定されており、機会を逸すると次の便までに数週間待つこともあった。ⅲ) 輸送中の予期しない出来事により既存の計画の修正を迫られ、時には予備部品の配送も必要となった。例えば、一八九八年(明三一)三月初頭、アントワープ港でのボイラー積み込みの際に生じた事故の対応が記録されている。ⅳ) 輸送プロセスは、GHHとサブコンとの間にコミュニケーション上の問題が起きた場合や間違いの責任の所在について論争が生じると、さらに複雑なものとなった。
一例として、輸送途上での特殊ポンプの損傷に関する日本郵船、GHH、 Haniel & Lueg三者の紛争が記録されている。最終的な解決については不明であるが、Haniel & Luegは修理に必要な設計図面の日本への送付を拒否している。ⅴ) 書留郵便がNY・SF間の汽車の火事で焼失したこともあった。【筆者補足説明】GHHの技術や設備機器の輸送については、ドイツ・日本という距離、当時の輸送手段のレベル等から様々な実務的問題に対処する必要があったことをこれらの文書は示しており、明治三四年度中の完成を定められていた官営製鐵所の工期に大きな影響を与えたことを示唆している。
2.3 人と組織(原題Work force and work organization)異文化間の交流では珍しいことではないが、ドイツ人従業者と日本人同僚もしくは部下との間の深刻な問題は、誤解や軋轢に起因している。似たような問題は、異なる地位(例えば技術者と職工)にあるドイツ人
従業者の間でも起こった。職場での摩擦は社会規範における文化の違いからのみ起こったわけではなく、興味深いことに日本側がドイツ人技術者や監督は技術的能力とプロ意識に欠けると評価していたことにも関係していた。この八幡におけるドイツ人従業者と日本のドイツ人社会(例えば長崎領事館の役人たち)の間で広まった印象は、日本人労働者に対する根強い否定的な評価につながった。
(
と (() 将来は日本人技師の手で名誉心をくすぐられ、熟練工となるであろう。」 歓迎昼食会でのこの部分は、日本では「日本人職工は問題であるが、 【筆者補足説明】 ろうとしない。」と日本人に対する否定的な見解を述べた。 とを好まない、技術者が義務や忍耐への尽力や献身を示す手本にな ようとしない、技術者が従業員に直接指導したり関わったりするこ で、官営製鐵所の顧問技師であったトッペは「職工が指示を実行し 年(明三三)五月二八日に東京で開催された歓迎昼食会後の講演会 Stahl und Eisenⅰ)一九〇〇年一〇月一五日誌の匿名記事によると、同 1)トッペの日本人批判
(報道されており、ニュアンスを異にしている。
ⅱ) 一九〇一年(明三四)五月、トッペは権威あるドイツ製鉄協会の臨時役員であったSchrodter氏への手紙の中で、再び八幡製鐵所への強い批判を行っている。ⅲ) トッペは日本の製鐵所を批判しながらも、GHHの研修生施設立入 禁止措置に関する問題の解決などプロジェクトの成功に向けて努力していたように思われる。
(2)シュメルツェルの批判八幡の圧延工場の現場責任者であったシュメルツェルは、一九〇一年(明三四)一一月一五日付けのStahl und Eisen誌の中で、「これ見よがしに行ったり来たりする監督者や門衛、職工の低い生産性、監督や役人の疑わしい労働倫理、訪問者を案内するときにだけ職場に現れたり、科学誌を読みながら職場にいて肝心なときにはいない技術者、材料・資材、製品の軽率な取扱い、アドバイスや指示に抵抗的な態度を示すスタッフ」と日本人従業者を痛烈に批判している。【筆者補足説明】この記事については、元マールブルク大学パウアー教授による )(1
(要約が福岡県史に掲載されている。日本側のシュメルツェルに関する評価は極めて低く、彼の日本における功績に関する史料はない。その意味において一方の当事者であるシュメルツェルの見解は把握しておく価値がある。日本側では、日本人技師の方がより高度な教育を受けており、彼に対する信頼度は低かったとの評価がなされている。
(3)ドイツ政府の認識とドイツにおける報道日本人が勤勉さや忍耐心に欠けていることに対する懸念を呈した同様の見解は、長崎のドイツ領事館からベルリンに送られた機密報告にも見ることができる。さらに、ドイツの新聞報道は、日本人は指示や命令に従おうとせず、自制心や善意に欠けていると断言している。しかし、こ
うした批判的な見解の多くは、ドイツ人技術者の解雇やGHHの日本への投資に対する幻滅感が広がった一九〇一年の八幡の火入れの後に出されたものだということを再度強調しておく必要がある。こうした感情は、英国や米国の企業が日本で存在感を増すことによって、日本におけるドイツ産業の将来の役割に対する懸念へと変わっていった。
(4)日本人研修生に関するGHHから大島技監への報告五人の日本人技術者(筆者注:実習生)に対する非常に率直な評価を記したGHHから大島技監宛の手紙がある。この手紙には、日本人実習生数人の研修の進捗状況について細かく評価し、出勤状況が芳しくないことから「あなたが権限を行使し、彼らの滞在はきちんと職場に出勤した場合にのみ成功といえる結果に結びつくのだと彼らに対して強調することを勧める」とあり、GHH側の懸念が示されている。【筆者補足説明】GHHからの技術導入に伴い、同社で研修を受けた官営製鐵所の技術者は一〇名であるが、一八九七年(明三〇)三月に相次いで日本を発ちGHHに赴いた三好久太郎(化学) 江藤捨三(製錬)葛蔵治(製錬 )(1
()山崎久太郎(機械) 羽室庸之助(機械) 服部漸(製錬)の六人がこの手紙に登場している。この手紙には、「服部は熱心だがやや病弱、江藤は、最初はとても意欲的だったが、言葉の壁に阻まれて次第に現場に出て来なくなった。他の実習生も現場にあまり出勤して来ない」などと記されており、GHHにおける実習状況の一端を伝えている。 2.4 技 術新しい製鉄所の機械類や製造技術の最終選考は、多くの場合、大島道太郎と密に協力・相談しながら競争的な条件下で行われ、権威ある企業の有力な提案もしばしば却下されるほどであった。一八九七年(明三〇)三月から八月の間、大島はGHHに事務所を構え、数々の発注を行った。(多くは手書きの手紙で、そして完璧なドイツ語によるものであった。)この間に選定されたサブコンは六〇社を超えている。大島が九州に発つと、ロンドンの高田商会が八幡とGHHの間の仲介役となり、それを横浜正金銀行がサポートした。同行は、官営八幡製鐵所と主にドイツの供給業者との間のすべての金融取引にとって重要な仲介機能を果たした。2.4.1 技術面での事故サブコンを慎重に選定したにもかかわらず技術面での問題がしばしば発生した。(
自分でもわからないという伝言とともに (1) 費量の計算で重大なミスを犯し、数日後、なぜそんなミスが起きたのか リュールマンは高炉設計の第一人者であったが、高炉で使う石炭の消 1)リュールマンの計算ミス
(修正版を送った。
(
ⅰ)GHH製造のボイラーに水漏れの欠陥があることが判明した件 を引き起こす生産工程全体に起因するトラブルであった。最終的には より深刻だったのは、個別の人為的ミスではなく、機械や部品の欠陥 2)製造工程で発生する問題
ⅱ) 名高い企業であるDusseldorfer Eisenwerk製造のチューブに不良品が含まれていた件こうしたトラブルは、原因の追及と対策、責任の所在と補償等々、当事者間のわだかまりと工事の遅延をもたらすこととなった。
2.4.2 原燃料日本の原燃料のドイツ製設備への適合性が体系的に研究されたかどうかは、入手した文書類からは、はっきりしない。持ち込まれた日本の鉄鉱石の組成について、GHH社内でサンプルを分析したという記録があるが、この結果の解釈に関する記録はない。また、石炭のサンプルも調べられたが、結果は詳細なものでなく、ごく短く、ヴェストファーレンの石炭のタイプにかなり似ている感じがすると述べられたのみであった。しかし、GHHは日本で調達できる石炭に懸念を持っており、より正確で詳細な評価を得るために名高い専門会社Dr. C. Otto& Comp.を起用したことが文書から明らかになった。最も重大な問題、つまり日本の石炭が高品質のコークスの製造に向いているかについては、GHH文書にこれらの専門家が筑豊炭田からの石炭サンプルについて実験室でテストを行い、満足のいく結果は三池炭鉱の石炭からのみ得られたと記載されている。リュールマンは、コークス工場の計画段階において、八幡の将来の鉄鋼生産に合う石炭の種類、特にこの地の石炭が主に一種類から成るかそれとも様々な種類があるのかという点に懸念を持っていた。この問題はGHHの意思決定者によって専門的に対応されたものではなかったということ、そして彼らは日本の原材料とドイツの機械の相性に関する研究が不足していることに関係す る潜在的なリスクを理解しておくことをもっと重視すべきだったということである。【筆者補足説明】大島技監一行が鉄鉱石と石炭のサンプル持ち運び分析を依頼していたことは判明していたが、そのデータの提示は今回が初めてと思われる。少量の石炭では製鉄用コークス原料としての適否の判定は困難で、官営製鐵所はその主力炭を筑豊の二瀬炭に決定し、その買収終えた一九〇〇年(明三三)初め )(1
(、相当量の石炭をドイツに送り、リュールマン事務所に石炭の本格的を試験依頼した。
2.4.3 技術情報のセキュリティGHHを初めとするドイツ側にとって技術情報の漏洩が深刻な懸念材料でであった。このため施設内への立ち入りを制限する厳しい措置がとられたり、サブコンを含め図面の日本側の引き渡しついて、様々な制約が課されることもあった。
2.4.4 契約違反の疑惑大島道太郎も高田商会も、GHHを通さずにサブコンと具体的な問題について直接連絡をとったり発注したりすることがあった。これは明らかな契約違反とみなされた。例えば、GHHは直接大島にサブコンと直接連絡を取るのをやめてほしい旨の要請を行っている。似たような例として、八幡の技師がドイツのサブコンに対して直接指示を出した例もあった。
2.5 コストアップ金銭面で最も論議となった問題は、発注とデリバリーとの間に起きるコスト増加に関することであった。費用に関する交渉は、①供給業者からの見積書の提出と八幡からの発注の間(顧客側の問題)や、②技術面や他の問題によって発注からデリバリーまでの間(生産側の問題)、に大幅な遅延が起きると特にやっかいな問題となった。
2.6 政 府RWWAのいくつかの資料によると、ドイツ当局や他の政府関係者は、GHHの日本への投資のあらゆる面に非常に関心を持っていた。それは投資の背景や問題、課題、そして最後にはその成果にも及んだ。資料から得られる情報に基づく一般的な結論として、首相府や外務省などの政府機関は、本件が他のドイツ企業の海外投資のモデルとなることを期待してこのプロジェクトを全面的に支援した。米国や英国の先を行きたいという当時のドイツ政府全体の立場から考えると、八幡のプロジェクトを熱心に支援する理由は容易に理解できるものである。さらに、多くの資料に、長崎のドイツ領事館が、日本の全般的な状況を観察するだけでなく、八幡のプロジェクトも注意深く見守っていたことが示されている。通常であれば機密事項として扱われるべきこれらの報告書のいくつかはGHHに転送されており、単なる技術情報についてさえも非常に理解と協力があったことを示している。業界団体も八幡のプロジェクトに大きな関心を持っていた。特にドイツ鉄鋼組合は、会員と連絡を保つだけでなく、八幡製鐵所に雇われたトッペやシュメルツェルなどの専門家とも関係を保った。 2.7 異文化関係異文化交流への備えを欠いていたために八幡における技術移転は「送り手側の障壁」と「受け手側の障壁」両方が立ちはだかることになり、様々な問題が生じたが、プロジェクト全体としてみれば大成功であったことを再度強調しておきたい。2.8 製鉄所計画日本の製鉄所の計画は、当時のドイツにおける最高の技術者や企業によって行われたにもかかわらず、当初の操業に困難を来した責任はどこにあるのだろうか。多数のサブコンの間で密に連携をとることをせずに、それぞれの会社が最高の人間を雇うだけでは不十分だったことが推測される。GHHが日本の環境にドイツの機械類や設備を技術的に適合させるために、どれだけの努力を傾けたのかははっきりしない。また、機械類を日本の環境に適合させることが、なぜ数人のドイツ人据付工(彼らはドイツの最新の技術的進歩にはもはや通じていない)とその日本人同僚に任せたのかも定かでない。
Ⅱ.残された課題
ソワイエ博士の論考「国家を越える技術移転」は、官営八幡製鐵所の建設に関するドイツからの技術移転について新たな事実の発掘を通じ、国家や文化圏を越える技術移転の難しさについて、その実態を明らかにした。官営製鐵所の初期の幹部の多くが、予算超過や建設の遅延の責任を問われ、更迭若しくは辞任に追いやられたが、その原因について、こ
れまでの官営製鐵所の歴史研究においては、実務的実際的な視点にたち、技術移転の実態に迫る研究が殆ど為されていなかった。その意味に於いて、ソワイエ博士の研究は、日本の近代製鉄・製鋼の歴史研究に一石を投じる画期的な意義を持つと考えられる。最後にドイツからの技術導入に関して重要でありながら、今回のDr. Soyezの今回の研究を含め、これまでの研究でも明らかにされていない技術移転に関する重要な疑問について提起しておくこととしたい。
1.技術移転元としてGHH社が選ばれた理由
Dr. Soyezのレポートでは、フライベルク鉱山学校の鉄冶金の世界的権威レーデブーア教授が渋るGHHを官営製鐵所への技術移転の交渉のテーブルにつかせたとしている。一方、大島技監の )(1
(山内長官宛申報書では、「フライベルヒ大学レーデブア教授ノ忠告ニ依テ(小官ノ先師)、小官遂ニオーバハウゼンノ製鐵所(グーテホフヌング)ト連絡ヲ通スルニ至リ」とあるが、レーデブーア教授がGHHに白羽の矢を立てた理由については触れていない。以下は筆者の類推であるが、この点について考えてみたい。官営製鐵所が必要とした技術移転の内容をもう少し具体化すれば
① 製鉄所の全体計画の策定 ② この計画に沿った設備機器および建屋の製作・調達と引き渡し ③ 設備機器の据え付けと建屋の建設
④ 操業技術の供与といったことになるであろう。鉄鋼メーカーは鋼材を生産・販売することによって収益を確保する事 業体であり、操業技術に長け、製鉄所の計画策定の能力はあったとしても、設備機器の製作メーカーではない。技術移転において鉄鋼メーカーの収益機会は、計画策定や操業技術の供与といったソフトウェアの販売に限られ、その対価はフィーベースで多くを望むことは期待できず、また鉄鋼生産技術が日進月歩の競い合いをしている中にあって、ライバルを育てるような技術輸出を貴重な人材を使ってまで取り組む動機は殆どなかったと考えるべきであろう。一八九四年(明二七)に営業運転を開始した清国の漢陽製鐵所に対するベルギーのコックリル社の技術者による操業指導という例もあるが、それはコックリル社の意思というよりは、当時計画が具体化しつつあった北京と漢陽を結ぶ京漢鉄道および漢陽周辺の鉄道敷設権を獲得するためにベルギーの国策として進められた結果と思われる。一方、機械や各種の炉の製作メーカーは個別の設備に設計製作はできても製鉄所全体の計画策定や施設全体の調達管理の能力は期待できない。GHH社は鉄鋼メーカーであり、また製鉄所建設に必要な中核設備を製作することのできるメーカーでもあり、収益機会は設備機器や建屋の販売により十分確保可能であったと思われる。GHH社と官営製鐵所との最初の合意の中に、一定額以上の機械設備を発注する場合には、計画策定費用や二年間一〇名の研修生の )(1
(教育費用はGHH社が負担するという条件が設備機械の販売こそがGHHの収益源であったことを物語っている。ドイツにおいてGHH以外に、鉄鋼製造と設備機器製作を共に事業とするメーカーがあったかは不明であるが、GHHが技術の送り手の能力と動機を持つ数少ない企業の一つであったといえるのではないだろうか。
2.発注契約の内容とその実効性官営製鐵所の和田長官は、設備投資額が予算を超過した責任を問われ、大島技術長は、予算、進捗の管理に瑕疵があったことを理由に免官された。また設立当初から技師として任官していた小花冬吉(製銑担当)、安永義章(製品担当)も辞職した。彼らが問われた瑕疵はなぜ生じたのであろうか。彼らを無能として断ずるのは容易であるが、この背景にはDr. Soyezの論文にみられる参入側の障壁と受け入れ側の障壁に起因する問題があるのではないかと思われる。
(1)創立費と発注可能上限金額の問題大島道太郎技監が米欧を視察し、現地にて計画策定業務や機械設備を発注することができるよう、随意契約を可能とする特別の調達権限が与えられていた。その権限付与書には金額の上限は設定されていない。一八九六年(明二九)三月第九回帝国議会において協賛を得た創立費総額四〇九万円に見合う設備機器および建屋の相当額が上限であった筈である。大島技監の依頼で策定されたGHH社による全体計画は総額で約一、〇五七万円であり、そのための追加予算六四七万円が認められたのは、一八九八年(明三一)六月の第一二議会においてであった。この予算措置の経緯から考えるに、大島技監が一八九七年(明三〇)三月から同年七月末までGHHに滞在し、設備機械の発注を行った際、帝国議会において協賛された創立費四〇九万円に基づく発注可能金額との兼ね合いから、設備機械発注の時間的優先順位づけや、何らかの留保条件付きの契約を行う必要があったものと推測されるが詳細はいまのところ不明である。 (2)契約条件とその実効性GHHへの契約において、納期の遅延、不良品発生時の補償、インフレスライドなどについてどのように定められたのかは不明である。例えば、納入された設備機械はどのような検収手続きをとったのであろうか。八幡現地にGHH社サイドの責任者がいない中で、不具合が発生してもGHH社サイドとしては確認のしようがないし、その責任についても官営製鐵所対GHH社、同社対サブコンという関係に加えて、遠隔地であることに伴う時間の問題も生じる。製造側に責任を認めさせ、補償をとりつけるようなことは実際に可能であったのだろうか。官営製鐵所は明治三四年度中という完成時期が定められており、時間制約がある状況下で、納入サイドが自らの責任を認めない場合、製鐵所はその対応に苦慮したに相違ない。先にも述べたが、大島技監一九〇〇年に相当規模の日本産石炭をリュールマン事務所に送り、本格的な試験と、それに基づくコークス炉の発注のためにドイツに赴いたが、予算不足のためにコークス炉の発注はかなわなかった。この事実は製鐵所が発注金額全体を管理できていなかったことを示している。この背景には予算管理の不備だけではなく、設備機械の金額そのものが確定できないような事態が生じていたものと推察される。3.ドイツ設備の現地原燃料との適合性の問題この問題については、ドイツの最新鉄鋼技術にやみくもに飛びついたのが間違いとする見解が日本の鉄鋼史研究者の主流である。またソワイエ博士もこの論文の中で「ドイツの基準で作られた機械類や設備が日本
の原材料に適合しなかったことによって(もしくは生産工程と操作手順の制御が適切でなかったことによって)引き起こされたと考える。ほとんどは予測できたことであるが、これらの問題は、ドイツと日本の当事者が技術面の不適合性にもっと注意を払っていれば容易に防げたという可能性がある。」としている。しかしながら筆者はこの見解に疑問を持っている。官営製鐵所の場合は、高炉については、設計をリュールマン、製作をGHHが、平炉については設計をダーレン、製作は同じくGHHが担当した。こうしたフォーメイションの場合、操業技術を蓄積している鉄鋼メーカーと設計者の綿密な協議の上に設計と製作が進められることになるが、官営製鐵所には当然ながら操業に関する知見はない。官営製鐵所に成り代わって操業側の役割をGHHが鉄鋼メーカーとしてある程度機能し得たとしても、官営製鐵所が使用する鉄鉱石やコークスがドイツ現地で試験操業を可能とするほどの量がない以上、当然ながら、限界があると考えるべきではないだろうか。コークス製造にせよ、高炉の操業にせよ、ドイツで生まれた技術や機械設備を日本の原燃料に適合化させるということは、設計者・設備機械メーカーと操業者が地理的に大きく離れ、かつ操業者側に技術的蓄積を欠いている場合においては、技術の送り手側による適合化に期待することに無理があり、受け手側で購入した設備を、時間をかけて様々な条件を試し、時には失敗をしながら経験を積み重ねて適合を図るしか方法がなかったのではと思われる。とすれば重要なことは、自ら適合化を図ることのできる能力=人材を確保することと、それなりの時間を設定することの必要がそのキーとなるのではなかろうかと思われる。 また )(1
(最新の研究によって、適合化の問題に関し、これまで問題とされることのなかった鉄鉱石について、当初は、還元性に優れた赤鉄鉱と還元性が低い磁鉄鉱を適宜使うことを前提としていたのに、実際は大冶産や釜石産の磁鉄鉱主体となった結果が操業上のトラブルやコスト高を招く要因の一つとなった可能性が高いことが指摘されている。当時、GHHを始め欧米の鉄鋼メーカーは、スェーデンの一部を除き、赤鉄鉱を原料としており、高炉の設計製作を担当したドイツ側に磁鉄鉱を主力原料とする操業に関する知見もなければ、官営製鐵所側も良質の赤鉄鉱である赤谷鉱石の確保を前提にしていたことから、使用原料に関しては、結果的に適合化検討の盲点となってしまったことも考えられる。
おわりに
これまでの日本側の官営製鐵所創業期に関する研究は、西欧の先進的技術に飛びつき、初期トラブルを招いたとする見解が殆どである。しかしソワイエ博士の論考「国家を越える技術移転」はドイツに現存する官営製鐵所関係の史料に基づき、技術移転の難しさをリヤルに伝えている。官営製鐵所設立時の主要幹部の殆どが予算管理と建設工期管理の責を問われ更迭された。彼らは、今回の論考が明らかにしたように実際的なトラブルが次から次に発生する事態に直面しながらも、ひとつひとつ問題を解決し、銑鋼一貫製鉄所という巨大な技術集積の複合体の運営をとにもかくにも一〇年でほぼ掌中に納めるための捨て石になったと再評価する必要があるのではなかろうか。官営製鐵所の創業は、巨大且つ複合的な技術移転の成功事例であり、近代国家として産業基盤を築いて行くた
めには、技術的冒険とその冒険を支えることのできる人材育成の重要性を今日に伝えている。
注
(
( The Criteria for Selection, UNESCO World Heritage Center1)」
( 書ダイジェスト版出版日本国政府内閣官房六頁 2)明治日本の産業革命遺産製鉄・製鋼、造船、石炭産業世界遺産推薦
( 3)同右
( 営製鐵所」の名称を使用する。 われる。本稿では混乱を避けるため本来の正式名称「製鐵所」に代えて「官 た。官営八幡製鐵所という呼称は、日本製鐵㈱設立後に生まれた通称と思 官営製鐵所時代の地名を冠した通称は、若松製鐵所、枝光製鐵所などであっ 鐵所]が八幡に所有した製鉄プラントは日本製鐵㈱八幡製鐵所となった。 所」や民間の鉄鋼メーカーが現物出資して日本製鐵㈱が誕生、かつての[製 のではなく、農商務省の外局官庁を意味している。昭和九年二月に「製鐵 ある。またこの条文にあるとおり、「製鐵所」は製鉄プラントを意味するも 務大臣の管理に属し鋼鉄製造の事を掌る」とされ、「製鐵所」が正式名称で 二九日に発布された勅令第七二号製鐵所官制第一条により「製鐵所は農商 4)「官営八幡製鐵所」という名称は通称であり、一八九六年(明二九)三月 Dr. 冶金学を学んだが、フライベルク鉱山学校には留学していない。これは だ日本人留学生の中に小花冬吉を挙げている。小花冬吉はロンドン大学で 5)ソワイエ博士の原文には、フライベルク鉱山学校でレーデブーアに学ん
Soyezが引用した論文’The Establishment of the State-Owned Yawata Steel Works (2 ) : The Integrated Steel Works That Promoted Japan’s Industrialisation
When the Country Entered the Modern Industrial World as a Latecomer by Norikazu Shimizu’により生じたものと思われる。(
6)戦後MAN社のグループに統合されたGHHSTERKRADEの社史
‘Historische Schau auf St.-Antony-Hutte’によれば、GHHはHaniel家、 Jacoib家等によって所有経営されてきた。一八〇〇年代半ばにはこれにLueg家が加わった。(
( 7)同右
( 8)同右
( 山内長官宛に発した申報書 書)で、ベルリンセントラルホテルから明治三〇年三月八日に大島技監が 9)新日鐵住金八幡製鐵所が所蔵する官営製鐵所時代の文書(以下製鐵所文
( 10 )同右
( 11 )一九〇〇年(明三三)六月一日門司新報製鐵所招待會
( 12 )福岡県史近代史料編八幡製鐵所(一)P六〇
( 所となり、住友伸銅所とともに後の住友金属㈱のルーツとなった。 鋳鋼所を設立、経営難に陥った際、同鋳鋼所は住友家に買われ、住友鋳鋼 学んだ。帰国後、その責を問われて解雇された。二人はその後大阪に日本 13 )山崎久太郎と羽室庸之助はそれぞれの研修テーマを放棄し、鋳鋼技術を
( たものと思われる。 14 )官営製鐵所高炉設計のごく初期のミスなので建設工程には影響しなかっ
( サルニ至ランコトヲ恐ルルナリ」とあるので一〇〇トン程度と思われる。 試験ヲ為ス為ニ我邦ノ骸炭性石炭数種凡ソ百瓲当国迄送付ヲ乞ハサル可ラ 報書には「余ハ我邦ノ石炭ニ尤モ適当ナル炉ヲ得ル為ニ実際上骸炭炉ニテ 15 )製鐵所文書一八九七年(明三〇)四月一五日大島技監から山内長官宛申
( 16 )上記9の申報書より 会社ニ挙テ托シ之レニ対シ一定ノ計画手数料ヲ払フ事モシ一定ノ金額ニ 17 )上記9の申報書には次のように記されている。「我ガ工場ノ全部ノ計画ヲ
達スル所ノ注文ヲ実際同工場ニ依嘱スル場合ニ立至リ候節ハ此ノ手ハ払ハサルモ差支エナキニ至ヘク且此ノ最後ノ場合ニ於テハ同工場ノ十人ノ日本人技手ヲ取テ其ノ工場ニ於テ各課ノ専門ヲ学ハシムル事ヲ承諾可致儀ニ候」(
18 )旧新日鐵製銑関係者の勉強会における議論より