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ア ル プ ス と崇 高 一 ワ ー ズ ワ ス と タ ー ナ ー

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ア ル プ ス と崇 高 一 ワ ー ズ ワ ス と タ ー ナ ー

岩 崎 豊 太 郎

1.ア ル プ ス

18世 紀 の イ ギ リス に は、 ピ クチ ャ レス ク の趣 味 が 出 現 す る以 前 か ら、

古典 的 な美 の規 範 で は美 と見 な され な か った 対 象 を 経験 論 の 立 場 か ら美 と 見な す 動 きが 現 わ れ て い た。 中 で も、 エ ドマ ン ド・バ ー ク(EdmundBurke , 1729‑97)は 、 崇 高 を 美 的 範 疇 と して 、 『崇 高 と 美 の観 念 の 起 源 に 関 す る 哲 学 的 探 求』 を1757年 に 刊行 した が 、 この 書 は ドイ ツ に も大 き な影 響 を 及 ぼ して、 カ ン トは 崇 高 を規 定 す る た め に1764年 に 「美 と崇 高 の感 情 に 関す る考 察 」を 著 した と言 わ れ て い る。

イ ギ リスで は、ピ クチ ャ レス クな 景観 美 を 求 め る趣 味 が 流 行 して くる と、

ピクチ ャ レス クの 美 の 愛 好 家 た ちは 、 ピ クチ ャ レス クの規 則 に適 してい る 風 景 を 見 る こ との で き る地 点 を ス テ イ シ ョン と定 め て、 風 景 を 直 接 に見 る の で は な く、 クロー ド ・グラ ス(ク ロー ドの鏡)と 呼 ば れ る凸 面鏡 に風 景 を 映 して、絵 と して鑑 賞 した りスケ ッチ したの で あ った。 ピクチ ャ レス ク の美 の信 奉 者 た ち は 、 イ タ リアの カ ンパ ニ ア地 方 の風 景 とは異 質 の 、 イ ギ

リス の 湖 水 地 方 の ごつ ごつ した不 規 則 な風 景 に絵 に 適 す る美 を 発 見 して、

伝 統 的 な 美 の 規 範 を越 え た の で あ っ た。

ウ ィ リア ム ・ギ ル ピ ン(WilliamGilpin ,1724‑1804)は 、聖 職 者 であ り、

最 初 に ピ クチ ャ レス クの美 学 的 な 意 味規 定 を 試 み た画 家 と して、 ピクチ ャ レス クの 趣 味 の 開 祖 とされ る。 彼 の 『湖 水地 方 旅 行 記 』(1786年)は 、荒 々

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し くわ び しい 湖 水 地 方 を ピ クチ ャ レス クな 景 観 の 地 と して 、 広 く人 々 に紹 介 す る 上 で、 大 い に貢 献 した の で あ っ た。 彼 は こ の旅 行 記 で 、 ピラ ミッ ド 型 を した 、不 規 則 で あ って も流 麗 で 無 理 のな い輪 郭 が 、 山 の 美 の最 も真 正

な 源 泉 で あ る とい う観 点 に 立 っ て、 次 の よ うに 山 の輪 郭 美 を挿 絵(図1) を 用 い て分 析 して い る。

し た が っ て 、IE確 な 幾 何 学 的 な 輪 郭 を し て い た り 、 一 風 変 わ っ た グ ロ テ ス ク な 形 で そ び え て い る 山 は 不 快 で あ る 。 こ の 理 由 か ら 、 ス コ ッ トラ ン ド南 部 の 国 境 地 帯 の バ ー ン ズ ワ ー ク 山 や 、特 に 、イ ラ ム の 庭 か ら望 ん だ 際 の 、ダー ビ シ ャ ー 州 の ドー ヴ デ ー ル 近 くの ソ ー プ ・ク ラ ウ ド山 や 、 カ ン バ ラ ン ド州 の 、 位 置 に よ っ て は 独 特 の 外 観 を 呈 す る た め に 、 サ ドル バ ッ ク 山 と呼 ば れ る 山 は 、 す べ て 不 快 な 輪 郭 で あ る 。 ま た 、 こ の 理 由 か ら 、 幾 多 の 尖 峰 を も つ ア ル プ ス は 、 美 と い う よ り も む し ろ 奇 異 の 対 象 で あ る 。 ず ん ぐ り と し て 重 苦 し さ を 暗 示 さ せ る 形 と か 一 切 れ 目 が な く 、

丸 く盛 り 上 が っ て 、 重 量 感 を 解 放 さ せ な い 形 も 一 嫌 悪 感 を 催 す の で あ る 。 た しか に 、 切 れ 目 が な く連 続 し た 輪 郭 は 、 凹 状 で あ れ 、 直 線 状 で あ れ 、 凸 状 で あ れ 、 真 に 他 の 形 と よ く 対 応 し て い な け れ ば 、多 様 性 が な く、つ ね に 興 ざ め で あ ろ う。 ま た 、 輪 郭 に 切 れ 目 が あ っ て も 、 規 則 正 しい 切 れ 目 な らば 、 悪 影 響 を 及 ぼ す の で あ る 。1

ウ ィ リ ア ム ・クー ム(WilliamCombe,174H823)は 、 調 刺 詩 「シ ン タ ッ ク ス 博 士 の ピ ク チ ャ レス ク を 求 め る 旅 行 」 を1809年 に 『ポ エ テ ィ カ ル ・マ ガ ジ ン 』2に 匿 名 で 発 表 し た 。 この 調 刺 詩 は 、1812年 に は トマ ス ・

ロ ウ ラ ン ドソ ン(ThomasRowlandson,1756‑X827)の 「湖 を ス ケ ッ チ す る シ ン タ ッ ク ス 博 士 」(図2)の よ う な 挿 絵 の 付 い た 一 冊 の 詩 集 と し て 出 版 さ れ た の で あ る 。 こ の 詩 集 は 、 非 常 に 好 評 で 版 を 重 ね て 、 後 に 『シ ン タ ッ ク ス 博 士 の 湖 水 旅 行 』 とい う詩 集 名 で 出 版 さ れ た ほ ど で あ っ た 。 シ ン タ ッ ク ス 博 士 と は 、ギ ル ピ ン を 調 刺 した 架 空 の 人 物 で あ る 。 この 調 刺 詩 は 、

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ア ル プ ス と崇 高 一 ワ ー ズ ワ ス と タ0ナ ー3

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バ ー ン ズ ワ ー ク 山 と ソ ー プ ク ラ ウ ド山

サ ドル バ ッ ク山 とアル プ ス

切 れ 日が な く、 丸 く盛 り ヒ が っ て い る輪 郭 の 山

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図1ギ ル ピン 湖 水 地 方 旅 行 記Cの 挿 絵

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4

一 潮 慶

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図2ロ ウ ラ ン ド ソ ンlr湖 を ス ケ ッ チ す る シ ン タ ッ ク ス 博 均

当時 の イ ギ リス で ギ ル ピ ンが 著 名 で あ った こ と、 ま た湖 水 地 方へ の旅 行 熱 が高 ま って い た こ とを物 語 って い るの であ る。

ピクチ ャ レス クの 追 求 は 、ロマ ン主 義 の黎 明 期 に は 大 い に称 賛 され たが 、 や が て 自然 か ら精 神 的 な 教 化 を 得 よ う とは しな い で 、極 端 に走 るよ うにな る と、 しば しば 嘲 笑 の 対 象 とな った の で あ った 。

高 峰 を 連 ね た ア ル プ ス は 、 古来 、 地 球 の 醜 い 吹 出物 と 見 な され て い た 。 それ で も1770年 代 にな る と、 イギ リス の 画 壇 に もア ル プ スの 山 岳 風 景 を 描 く画 家 が 登 場 し たが 、1780年 代 に は ま だ ア ル プス の 山岳 をモ チ ー フ と す る絵 は ほ とん ど反 響 を 呼 ば な か っ た。 ギ ル ピ ンは 『湖 水 地 方 旅 行 記 』 で 述 べ て い る よ うに 、 ア ル プ スを 美 の 対 象 と して い な か った の で あ る。

人 々の アル プス に対 す る 見方 を一一変 させ た 画 期 的 な 出 来 事 は 、 ス イ スの 地 質 学 者 ア ン リー ・ドウ ・ソ シ ュー ル(HenrideSaussure)が 科 学 的 調 査 の た め に1786年 に 行 な っ たモ ンブ ラ ン登 頂 の 成 功 で あ っ た。 アル プ ス 山

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ア ル プ ス と崇 高 一 ワ ー ズ ワ ス と タ ー ナ ー5

脈 中 の最 高 峰 で あ るモ ンブ ラ ンの標 高 は4808メ.̲̲.ト ル(15781フ ィー ト) あ り、 イ ギ リス の最 高峰 で あ るイギ リス湖 水 地 方 の ス カ フ ェル ・パ イ クの 964メ ー トル(3164フ ィー ト)よ り も5倍 近 く高 い。 この ソ シ ュー ル の 快 挙 に よ って 人 々の ア ル プ ス に対 す る関 心 は 一 挙 に高 ま った の で あ っ た。

地 質 学 の研 究 は盛 ん に な り、 いわ ゆ る近 代 アル ピニ ズ ム の時 代 が始 ま った が 、 そ れ で も19世 紀 の半 ば ま では 、 ほ とん どの 人 々 が 旧約 聖 書 に よ っ て 地 球 は6000年 前 に 誕 生 した と信 じて い た の で あ った 。

ロ マ ン 主 義 の 時 代 に は 、 ア ル プ ス の 荒 々 しい 自然 は 古 典 的 な 美 や ピ ク チ ャ レス ク とは別 の 範 疇 の 崇 高 に よ って 説 明 され る よ うにな って 、 ア ル プ スの 見 方 は 変 わ って い くの で あ る。18世 紀 の 初 期 に アヂ ソ ンは 荒 々 しい 自然 の 光 景 の 「心 地 よ い恐 怖 」 を語 って い た 。 また 、23歳 の 青 年 トマ ス ・ グ レイ(ThomasGray,1716‑‑71)が 、 イー トン校 以 来 の 親 友 リチ ャー ド ・ ウエ ス トに 、1739年11月16日 に イ タ リアの トリ ノか ら、グ ラ ン ド・シ ャ ル トル ー ズ で アル プ スを 初 め て 見 た時 に 自ず か ら湧 き起 こっ た強 烈 な感 慨 を 率 直 に書 い て送 っ た有 名 な 手紙 が あ る。

とて も抑 え ることはで きない、 と感 嘆の声を あげない ま ま十歩進ん だ記 憶が あ り ません。 どの断崖 も、 どの急 流 も、 どの絶壁 も宗 教や詩 を示唆 してい ま した。議 論 の力を か りないで畏怖 の念 を喚起 させ て、無神論 者を さえ信 じさせ る光 景が存 在 しています。3

グ レイ の この 衝 撃 的 な感 動 は 、 バ ー クが 「崇 高 と美 の 観 念 の起 源 に 関 す る哲 学 的 探 求』 の 中 で説 い て い る 自然 に お け る驚 愕 に よ って説 明 す る こ と が で き る の で あ る。

自然 の偉大で崇高 な物に起 因す る情念 は、それ らの原 因が もっ とも強 く作 用す る

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ときには驚愕 とな る。驚愕 は、何 らかの程度 の恐怖 とともに、魂 のすべ ての活動 が停 止す る際の魂の状態 であ る。 この場 合には精神 は、その事 象に よってあ ま り に も徹底的 に満 たされ て しま うために、他 の どの よ うな事 象も受け容 れ るこ とは で きな い、またそれ故 に精神を 占め るその事象 につ いて論理 的に考 える こ とはで きない。 この故 に こそ崇高 の偉大な力 が生 じるのであ る。 したが って、 この力は け して それ らの原 因 によって生み出 されたわ けではな い。 この力 は論 理的 な思 考 を阻止 して、圧倒的 な力で直 ちに我 々を運 び去 るのである。4

ワ..̲̲..ズワ ス(WilliamWordsworth,1770‑1850)は1789年 に 、20歳 の 時 に 、 ス イ ス の ベ ル ナ ー ・オ ー バ ー ラ ン ド地 方 の3000メ ー トル か ら 4000メ ー トル 級 の 高 峰 に 囲 まれ た 山 岳 地 帯 を 通 っ た 旅 程 で 、 ア ル プ ス の 崇 高 美 を 見 て 精 神 が 威 圧 さ れ た こ とを 湖 水 地 方 を 念 頭 に お い て 次 の よ うに 妹 ドロ シ ー に 手 紙 で 伝 え て い る 。

アル プスのい っそ う畏怖 の念を喚起 させ る景色 の中 では、人闇や どの よ うな生 き 物 も脳 裏に浮 かび ませ んで した。 ただ私の全霊 はひ たす ら眼前 の恐 ろ しい偉観 の 創造者 に向け られ ていま した。

グ レ イ や ワ ー ズ ワ ス は 、 ア ル プ ス の 崇 高 な 景 観 に よ っ て 、 バ ー ク の 説 く 驚 愕 を 実 際 に 体 験 し た の で あ っ た 。 ま た 、 グ レイ の 「どの 断 崖 も 、 ど の 急 流 も 、 ど の 絶 壁 も 宗 教 や 詩 を 示 唆 して い ま し た 」 と い う言 葉 は 、 ま さ に ロ マ ン 主 義 の 到 来 を 告 げ る も の で あ っ た 。 そ の 後 、19世 紀 半 ば に な る と 、

1857年 に は イ ギ リス に 登 山 家 の 組 織 ア ル パ イ ン ・ク ラ ブ が創 設 され 、1859 年 に は チ ャ...一..,ルズ ・ダ ー ウ ィ ン の 『種 の 起 源 』 が 出 版 さ れ た が 、 ワ ー ズ ワ

ス の 詩 や タ ー ナ ー(J.M.W.Turner,1775‑1851)の 風 景 画 は 、 人 々 の ア ル プ ス に 対 す る 見 方 を 変 え る 上 で 大 い に 役 だ っ た の で あ っ た 。

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ア ル プ ス と崇 高̲ワ ー ズ ワ ス と タ ー ナ ー7

2.1802年

1802年 は、 そ の 年 の3月 に 調 印 さ れ た ア ミア ンの 平 和 条 約 に よ っ て 、 1793年 以 来 英 仏 戦 争 に よ って不 可 能 で あ っ た フ ラ ン スへ の 渡航 が で き る よ うに な った年 で あ り、また ナ ポ レオ ンが8月2日 に終 身 第 一 執 政 とな っ た年 で あ った 。 ワ0ズ ワス は 、 次 の ソ ネ ッ ト 「カ レー 、1802年8月 」 を モ ー ニ ン グ ・ポ ス ト紙(1803年1月13日)に 載 せ てい る が 、 ナ ポ レオ ンが 終 身 執 政 とな った フ ラ ンス新 共 和 国 に イ ギ リス政 府 が敬 意 を 表 した こ とを 風 刺 す る と と も に、 ナ ポ レオ ンの 個 人 的 台 頭 に 警 鐘 を 鳴 ら した の で あ っ た。

風 に 揺 ら ぐ 葦 で あ る か 、 で は 、 何 を 見 に 出 て き た の か 。

貴 族 、 法 律 家 、 政 治 家 、 身 分 の 低 い 地 主 、 有 名 人 、 ま た 無 名 の 人 、 病 人 、

身 体 障 害 者 や 盲 人 が 、 一・つ の タ イ プ の 人 間 の よ う に 、 先 を 争 い 、 こ ぞ っ て 新 し く誕 生 し た 終 身 執 政 に

ひ ざ ま ず こ う と 、 初 穂 の 貢 ぎ 物 を 携 え て 押 しか け て 行 く。

つ ね の 成 り行 き と は い え 、 あ な た 方 、 屈 伏 した 魂 の 人 た ち よ 、 礼 儀 に か な う敬 意 は 権 力 に 払 わ れ て も よ い が 、

そ れ は け し て 急 い で 種 を ま か れ て 、

と お り雨 で 芽 を 出 し た よ う な 、 忠 節 の 徳 で は な い 。 真 理 も 、 良 識 も 、 自 由 も 逃 げ 去 っ た 時 に 、

一 時 間 待 っ た こ とが どれ だ け 辛 か っ た か

あ な た 方 、 隷 属 し よ う とす る 頭 脳 の 虚 弱 な 人 た ち よ 、 恥 を 知 る の だ 。

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S

ワー ズ ワ ス は 、 この ソネ ッ トを1807年 出版 の 『二巻 の詩 集 』 で は 、26 篇 の 「第2部:自 由 に 捧 げ られ た ソ ネ ッ ト」の2番 目に位 置 づ け た。 この ソネ ッ トに記 され てい る よ うに、1802年 に は イ キ リス 人 た ち は 貴 族 や 政 治 家 に 限 らず 、 大 挙 して ドー ヴ ァー 海峡 を渡 った の であ り、 セ リ ン コー ト は この ソ ネ ッ トの 注 に 、9月 に はio,000人 の イ ギ リ ス 人 が パ リー を 訪 れ た と言わ れ てい た と記 して い る。

…方、 ル ー ブル 美 術 館 に は オ ラ ン ダや ドイ ツの 巨 匠 の作 品 は も と よ り、

ナ ポ レオ ンが イ タ リア を征 服 して 戦 利 品 と して 持 ち帰 った イ タ リア の絵 が 展 示 され て い た。パ リー は 、イ ギ リス 人 の 画 家 に と って は魅 力 の対 象 とな っ て い た の で あ る。

1802年 は 、 ワー ズ ワ ス や ター ナ ー に とっ て も特 別 の 年 で あ っ た。 ワー ズ ワ ス は、8月 に フ ラ ンス の カ レー に 渡 り、フ ラ ンス 人 女性 ア ネ ッ ト・ヴ ァ ロ ン と約 十年 ぶ りに 再 会 して 離 別 に つ い て 話 し合 い 、10月 に メ ア リー ・ ハ ッチ ン ソ ン と結 婚 して い る。 また 、 ター ナ ー は この 年 の2月 に27歳 の 若 さ で ア カデ ミー の 正 会 員 に選 出 さ れ て お り、7月15日 に 初 め て の 外 国 旅 行 に 後 援 者 た ち と と もにパ リー へ 出 発 して い る 。

3.ワ ー ズ ワ ス と ア ル プ ス

ワー ズ ワ ス は、 『序 曲 』 に フ ラ ン ス革 命 が 勃 発 した時 に この 革 命 が

私 に は 、

自然 の 定 め られ た 道 を 少 し も 踏 み 外 し た も の で は な く 、 早 い よ り は む し ろ 遅 く 訪 れ た 賜 物 の よ う に 思 わ れ た 。

(9巻252‑‑54行)

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アルプスと崇高一ワーズワスとターナー9 と記 して い る。 彼 は 、 翌 年 、 ケ ン ブ リ ッ ジ大 学3年 の 夏 季 休 暇 に、 学 友 ロバ ー ト ・ジ ョー ンズ と大 陸 徒歩 旅 行 に 出 か け た が 、 ア ル プ ス を 見 た と き の 感 激 を スイ ス のベ ル ナ ー ・オー バ ー ラ ン ド地 方 か ら妹 へ 手 紙 に書 い た こ とを 前 に述 べ た。 アル プ ス は 、少 年 時 代 か ら湖 水 地 方 の 自然 に よ っ て養 わ れ て い た20歳 の ワー ズ ワ ス の想 像 力 を強 烈 に捉 え た の で あ った。

ワ ー ズ ワ ス の 『叙 景 的 素 描 』(DescriptiveSketches)は 、 彼 が1792年 に フ ラ ンス滞 在 中 に ロ ワー ル川 の ほ と りで この 大 陸徒 歩 旅 行 を 回想 して秋 に 書 き 上 げ た長 編 詩 で あ り、 翌 年 の2月 に 『タ ベ の 散 策 』 と と も に ロ ン ド ン で出版 した最 初 の 作 品 であ った。 彼 は、 そ の 頃、 自 由 ・平 等 ・友 愛 を原 理 とす る フラ ン ス革 命 に よ って 、 人 間性(人 間 の 自然)が 生 まれ 変 わ り、

至福 千 年 期 の よ うな 理想 的 な 世界 が 実現 され る こ とを待 ち 望 ん で い た の で あ った。 彼 は44歳 の 時 に 出 版 したr迫 遥 』第9巻 の 冒頭 で、宇 宙 に は 「活 動 の 原 理 」 であ っ て、 この 原 理 に よ っ て人 間 も 自然 も密 接 に結 ば れ て い る と説 い て い るが 、 この 「活 動 の 原 理 」 の 信 念 に基 づ く自 由の 主 張 は 生 涯 変 わ らな か った の で あ る。

コ ウル リ ッ ジ(S .T.Coleridge,17721834)は 、 ワー ズ ワ スの 詩 人 と し て の 非 凡 な 才 能 を す で にケ ン ブ リ ッジ の学 生 の時 に 『叙 景 的 素 描 』 に見 い 出 して い た。 コ ウル リッ ジ はr文 学 自伝 』 の 中 で 、 『叙 景 的 素描 』 の 表 現 上 の欠 点 を指 摘 した後 で 、この 詩 を読 ん だ時 に 「独 創 的 な天 才 詩 人 の 出現 」 を衝 撃 的 に知 っ た こ とを 次 の一 節 を 引用 して述 べ て い る。7

嵐 に な り 、 湖 は 、 時 々 刻 々 、 霧 に 隠 さ れ な が ら 、 終 日wつ ぶ や き 声 を い っ そ う 深 め て い る 。

上 空 も す べ て の 明 る い 風 景 も 霧 に 閉 ざ さ れ て い る 。 全 景 は 夜 が 訪 れ た よ う に 暗 い 。

だ が 圧 倒 的 な 光 が 何 と頻 繁 に 噴 出 す る の だ ろ う か 。

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炎の衣を着 て勝 ち誇 った鷲 が、

嵐の ただ中を旋 回す る姿 がき らめ く。

東方 に照 り映え る長い眺望に、

森を頂 き、湖に もたれ た断崖が輝 く。

あ よ た

アル プスの 山肌 の ここか しこに刻 まれ た数 多の水流が

へ ん ば う

たちまち金 色の火柱に変貌 して現れ る。

帆 の背後で農民が一心に、

膨張 した太陽の よ うに燃 えて、

Tjつ

連 峰 は 広 大 な 増Aの 石 炭 の 火 に 変 わ り 、 白 熱 して 消 え る 西 方 を 避 け よ う と小 舟 を 操 る 。

(初 版 、332‑47行)

この 「嵐 の 日没」 の 一 節 に は 、 嵐 で増 水 した ス イ スの ウー リ湖 を終 日暗 く閉 ざ して きた霧 が 、 突 然 、 雷 光 が き らめ い た よ うに 、落 陽 で 火 の洪 水 に 転 じた ア ル プ スの 崇 高 な景 観 が 、絵 の よ う に描 写 され て い る。 ワー ズ ワ ス は、 この荘 厳 な 日没 の 光景 に つ い て 述 べ た一 節 に 、初 版 に は 「影 が 少 しで も入 り込 ん だ な ら、 印 象 の 統 一 性 が 破 られ て し まい 、壮 観 さ は必 然 的 に軽 減 され た で あ ろ う」8と 結 ぶ 長 い 注 を 付 け て い た が 、 後 の 版 で は 省 略 した の で あ っ た。 こ こに は 、 フ ラ ンス 革 命 の 成 功 を 信 じて 疑 わ な か っ た頃 の彼

の理 想 主 義 が表 さ れ て い るの で あ る。

ウー リ湖 の岸 辺 に あ るス イ ス の独 立 の た め に 戦 った 伝説 的 な愛 国 者 ウ ィ リア ム ・テ ル(1350年 頃 没)の 礼 拝 堂 に は、 嵐 が起 きた ため に テ ル が 護 送 舟 か ら湖 岸 へ 逃 れ る こ とが で きた 場 面 を 描 い た絵 が 納 め られ てい た。r叙 景 的 素 描 』 に は 、 上記 の 一 節 に続 い て 「ウ ィ リア ム ・テル の礼 拝 堂 」 に 関 す る詩 行 が 次 の よ うに書 か れ て い る 。

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ア ル プ ス と崇 高 一 ワー ズ ワ ス と ター ナ ーll だ が 、 見 よ 、 テ ル の 絵 が あ る 礼 拝 堂 の 前 で 、

船 頭 が 、 畏 怖 の 念 に う た れ て 漕 ぐ手 を や め る の を 、

こんぜん

マ ラ トン の 戦 い の 物 語 が 渾 然 と現 わ れ た た め に 、 栄 光 あ る 涙 が 目 に 満 ち て 燃 え 立 つ の を 。

(初 版 、348‑51行)

ワ ー ズ ワ ス は 、 『叙 景 的 素 描 』 の 草 稿 を書 い た時 に は、 愛 の対 象 を 自然 か ら人 間へ 転 じて い た。 そ の後 フ ラ ンス革 命 は 、彼 の期 待 を裏 切 る方 向 に 展 開 して い き 、や が て彼 は合 理 主 義 者 ゴ ドウ ィ ンの極 端 な合 理 主 義 思 想 に か ぶ れ て 、つ い に は深 刻 な精 神 的 危 機 に 陥 った の で あ った。 それ で も、彼 は 再 び 自然 と霊 的 に交 流 して想 像 力 を 回復 す る こ とに よ って、 魂 の 自由 を 取 り戻 した の で あ った。 ワー ズ ワ ス は、この体 験 か ら政 治 的 活動 で は な く、

詩 的想 像 力 に よ って 、詩 人 と して理 想 的 な世 界 を築 く こ とに使 命 感 を 見 い 出 して い た。 この よ うに して1798年 に コ ウル リ ッジ との共 同 の詩 集r叙 情 歌 謡 集 』 が 出版 され た の で あ る。 しか し、 そ の一 篇 の叙 情 詩 「テ ィ ンタ ン僧 院」 で省 み て い る よ うに、 この 頃 は ま だ 「人 間性 の静 か な、 もの 悲 し い調 べ 」 を 聞 い て い ない 「無 思 慮 な 青 年 」 であ っ たの で あ る。

ル グイ はr叙 景 的 素 描 』の 終 結 部 で 自由 を 祈 願 してい る詩 行(初 版792‑

809行)を 「革 命 的 賛 歌 」 と呼 ん で、 この 詩 が敵 意 に 満 ち た批 評 を受 け た要 因 の一 つ に挙 げ て い る9。 アー ネ ス ト ・ド ・セ リ ン コー トは 、 この詩 行 の 「自由」 とい う言 葉 が1836年(ワ ー ズ ワス は66歳 で あ っ た)に 至 る ま で修 正 され な か った こ とを重 視 して 次 の よ うな 注 を 付 け て い る。

アポ ス トロ フ ィ

こ の 〈自 由 〉 へ の 頓 呼 法 が1836年 ま で 修 正 さ れ な か っ た こ と 、 ま た 自 由 は こ の 年 に 「正 義 」 に 代 え ら れ た が 、 ワ ー ズ ワ ス が 進 歩 の 信 念 を 保 持 して 圧 政 を 激 烈 に 非 難 し続 け た こ と は 、 彼 の 信 念 の 研 究 に お い て 注 目 に 値 す る の で あ る 。10

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ワー ズ ワ ス は青 年 時 代 の 自 由主 義 に 対 す る背 信 者 とみ な され が ち で あ る が 、 彼 が 一 貫 して 自由 を 信 奉 して い た こ とが こ こで も知 られ る の で あ る。

『叙 景 的 素 描 』 は 、 ワー ズ ワ ス の 詩 魂 が ま だ確 立 され て い な い初 期 の作 品 で あ り、 な る ほ ど コ ウル リッ ジが 指 摘 した よ うな 欠点 は あ る が 、 自由 の 信 念 の表 明 な ど、 フ ラ ンス 革 命 に共 鳴 して も っ とも高 揚 して い た彼 の魂 が 記 録 され て い る貴 重 な 作 品 であ る と言 え よ う。

4.タ ー ナ ー と ア ル プ ス

フラ ンス の カ レー は、 イ ギ リスの ドー ヴ ァー か ら夜 間 に は燈 火 を 望 む こ との で き る距 離 に あ り、 英 仏 戦 争 が休 戦 して い た1802年 に は と くに イ ギ リス 人 の 注 目を 集 め てい た要 衝 の港 で あ った。 ター ナー は 、 嵐 の 日に ず ぶ ぬ れ にな っ て カ レー に上 陸 した 決死 的 体 験 を も とに 油彩 画 《カ レー の桟 橋 、 海 に出 る準 備 を す る フ ラ ンス の 魚売 りた ち:イ ギ リス定 期 船 の到 着 》(1803 年)を 制 作 した。 この 絵 は、 荒 海 と闘 う船 乗 り、 上 陸 して ほ っ と して い る 人 た ち、 疲 れ 切 った 人 た ち 、 魚 売 りた ち を 克 明 に 描 い て い て 、 当時 の 渡 航 が危 険 や 苦 難 に満 ち て い た こ とを写 実 的 に 伝 えて い る傑 作 で あ る が、 ター ナー が 崇 高 を描 い た最 初 の 作 品 と され て い る。

タ.̲̲.ナ..̲.の1802年 の3ヵ 月 間 の 旅 行 の 本 来 の 目 的 は、 ル ー ブ ル 美 術 館 で絵 を鑑 賞 し研 究 す る こ とで あ っ た。 彼 はパ リー に着 く とた だ ち に ルー ブ ル を訪 れ た と思 わ れ るが 、 一行 はパ リー で旅 行 の 準 備 を整 え る と慌 た だ し くス イ スへ 向 け て 出発 して い る の であ る。 彼 らは、 ま ずサ ヴ ォイ ア ル プ スを探 訪 す る コー ス を選 ん で 、 ジ ュ ネー ブ か らアル ブ川 に沿 って フ ラ ンス 国 内 を 通 り、 モ ン ブ ラ ンの麓 の 町へ 向か った。 ター ナー は 、 シ ャモ ニ0か

らモ ン タ ン ヴ ェー ル に登 り、 メ ー ル ・ド ・グラ ス の大 氷 河 の ス ケ ッチ を し てい る。1803年 制 作 の 水彩 画 《シ ャモ ニ ー の メー ル ・ド ・グ ラ ス氷 河 と

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ア ル プ ス と 崇 高 一 ワ ー ズ ワ ス と タ ー ナ ー13

アル ヴ ェイ ロ ン川 の源 流 》 は、 そ の時 の ス ケ ッチ を も とに描 かれ た 作 品 の 一つ で あ る。 彼 らは、 ア ル プ ス を越 え て イ タ リア に 入 り、 グル メイ ユ ー ル を 経 て 、 「ア ル プ ス の ロ ー マ 」 と呼 ば れ る ア オ ス タを 訪 れ た。 そ れ か ら、

彼 らは グラ ンサ ンベ ル ナ ー ル 峠 を 通 って スイ ス に入 り、 マ ル テ ィニ を 経 由 して ジ ュネ ー ブ へ 戻 った 。

次 に ター ナ ー た ちは 、 ベ ル ナ ー ・オー バ ー ラ ン ド地 方 の 峻 厳 で幽 玄 な ア ル プ スの 山 岳 風 景 を 見 て か ら、 ル ツ ェル ン、 チ ュー リ ヒ、 シ ャ フハ ウゼ ン を 回 っ てパ リー に帰 る旅 に 出か け た。 ター ナー がパ リー に腰 を落 ち着 け た の は、 出発 か ら約2ヵ 月半 後 の9月 の末 で あ った 。彼 の油 彩 画 《ノア の洪 水 》(1805年 頃)は 、 ル ー ブ ル に お け る プ ッサ ンの 《ノア の 洪 水 》 の 研 究 成 果 で あ った。 この絵 は 、彼 の ア ル プ ス の視 覚 的経 験 とル ー ブ ル で の研 鐙 とが合 体 され て い る作 品 とみ なす こ とが で き るで あ ろ う。

J・ハ ミル トンは 、ター ナ ー が フ ラ ン ス に到 着後 、パ リー に 滞 在 しな か っ た 理 由 と して 、 夏 に は パ リー が 旅 行 者 で 賑 わ う こ と と、 ス イ ス を8月 、9 月 とい う一 番 よい 季 節 に訪 れ たか っ た こ とを あ げ て い る。 さ らに 、 ハ ミル

トンは 、 ター ナ ー が この 大 陸 旅 行 で 意 図 してい た真 の 目的 地 は フ ラ ン スで な か っ た こ とを 次 の よ うに述 べ てい る。

タ ー ナ ー の 最 大 の 関 心 事 は 新 しい 共 和 国 や パ リー を 見 る こ と で は な く 、 ひ じ ょ う に よ く 聞 い て い た ド ラ マ チ ッ ク な ア ル プ ス の 風 景 を 体 験 す る こ と や 、 イ タ リ ア に 少 し接 す る こ とで あ っ た 。11

ター ナ ー は 、1802年 ま で に ウ ェー ル ズや ス コ ッ トラ ン ドの た い てい の 景 観 の名 所 を 見 て い た が、 サ ル ヴ ァ ト0ル ・ロー ザ や カ ズ ンズ 父子 な どの 風 景 画 に描 かれ て い る 、 い っそ う荒 々 し く雄 大 な ア ル プ ス の 山岳 や イ タ リ アの カ ンパ ニ ア地 方 に強 い 関心 を抱 い て い た の で あ った 。

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ター ナ ー は 、 まだ ア ル プス を 見 て い なか った1800年 に ロ イヤ ル ・ア カ デ ミー 展 に 、彼 の 最 初 の 歴 史 的風 景 画 《エ ジ プ トの 第 五 の 災 厄 》(正 し く は エ ジプ トの第 七 の 災 厄)を 出 品 してい た。 古 代 の 自然 哲 学 者 た ち は 、火 、

し た い

気 、 水 、 土 を 自然 界 を構 成 す る基 本 要 素 で あ る と考 え て 四大 と した 。 ター ナ ー は この 歴 史 的 風 景 画 で は 四 大 を1日約 聖 書 と結 び つ け て い た が 、1802 年 の旅 行 で は い わ ば 四 大 の 本 質 を アル プス 山 中 で 見 た の で あ った 。

ター一ナ ー の最 初 の アル プ ス 旅 行 は 、彼 が1819年 に 至 る17年 間 に 描 い た 風 景 画 に大 きな 影 響 を 及 ぼ した の で あ る。 彼 が1805年 頃 に描 い た 《ノ ア の 洪 水 》 と 《ソ ドム の 壊 滅 》 は 、 《エ ジ プ トの 第 五 の 災 厄 》 と同 じよ う

ひ ょ う

に 旧 約 聖 書 を モ チ ー フ と した歴 史 的 風 景 画 で あ り、火 と水(雷 と電 は そ れ ぞ れ 火 と水 を 基 本 要 素 とす る 自然 現 象 で あ る)、 また硫 黄(土)の 破 壊 力 を 描 い て い る。 絵 画 の 中の 人 々 の驚 異 と恐 怖 の様 子 に は 、 ター ナ ー 自身 の アル プ ス にお け る驚 愕 の 体 験 が 反 映 され て い る と思 わ れ る 。

画 家 が アル プス に登 って 絵 を 描 くた め に は 、交 通 が不 便 で 、旅 行 に 危 険 が 伴 い 、 写 真 が 発 明 され て い な い時 代 で は 、 危 険 を顧 み な い登 山 家 に な ら な けれ ば な らな か っ た。 ター ナ ー は 、水 彩 画家 と して の技 量 を この 旅 行 で は存 分 に発 揮 して、 《オ ー ル ド ・デ ヴ ィル ズ ・ブ リッ ジ、 ザ ン ク ト ・ゴ ッ トハ ル ト》(1802年)、 《メー ル ・ド・グ ラ ス 、シ ャモ ニ ー 》(1802年)、 《ラ イ ヘ ンバ ッハ の大 滝 》(1804年)、 《ザ ン ク ト ・ゴ ッ トハ ル ト山》(1806‑7 年 頃)な どの水 彩 画 を描 い た。 グラハ ム ・レイ ノル ズ は 、 水 彩 画 《ザ ン ク

ト ・ゴ ッ トハ ル トの道 》(1804年)に つ い て 、

この 絵 は、 崇 高 に つ い て の バ ー ク の 理 論 の 原 理 を 具 現 化 して お り、雄 大 さ の 極 み と思 われ る自然 の景色 か ら、恐怖 と畏敬 の要素を抽出 している。12

と述 べ て い る。 アル プ ス の 万 年 雪 や 大 氷 河(水)、 山や 渓 谷(土)の 黙

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ア ル プ ス と崇 高 一 ワ ー ズ ワ ス と タ ー ナ ー15

示 録 的 な 風 景 が、 タ0ナ ー を グ レイ や ワー ズ ワ ス の よ うに 圧 倒 した の で あ った 。 ター ナ ー に と って 、 アル プ スは 崇 高 の典 型 で あ った の で あ る。13 ター ナ ー が 油 彩 画 《グ リ ゾ ンの 雪 崩 》(1810年)で 描 い た の は 、 もは や ピクチ ャ レス クな 名 所 で は な く、 スイ ス の グ ラ ウ ビ ュウ デ ン州 に起 き た現 実 の 事 件 であ っ た。 この 絵 に は、 嵐 が 迫 って い た冬 の 夕刻 に、 アル プ ス山 中 で雪 崩 に よ り落 下 した大 き な岩 が 、 山小 屋 を ま さに押 し潰 そ う とす る瞬 間 が 描 写 され てい る。 タ0ナ ー は、この 絵 を ア カデ ミー 展 に 出 品 した 時 に 、 カ タ ロ グ に次 の 自作 の詩 を載 せ た。

嵐 は 迫 り 、 沈 む 太 陽 は 、

不 吉 に 輝 き 、 別 離 の 悲 哀 を き ら め か せ て い る 。 風 に 吹 き寄 せ ら れ た 雪 は 、 次 第 に 厚 く堆 積 して 、 や が て 巨 大 な 重 み と な り 、 岩 の 障 壁 を 破 裂 さ せ る。

欝 蒼 と茂 る 松 の 森 も 、 そ そ り 立 つ 氷 河 も 、 た ち ま ち 崩 れ 落 ち る 。 い く 世 に わ た る 自然 の 業 は す べ て を 粉 砕 して しま う 。 滅 亡 は あ と に 続 き 、 人 間 の 労 苦 も 、 希 望 も 一 押 し潰 し て し ま う。14

落 下 す る二 つ の 巨岩 と雪 崩 には 、 地(土)や 雪(水)に 潜在 して い る絶 対 的 な破 壊 力 が 生 々 し く顕 在 化 され て い る。 詩 句 は、 ア ル プス の 威 容 を誇 る岩 壁 も樹 木 も氷 河 も崩壊 して しま う雪 崩 が 自然 の 理 に よ り起 き る 自然 現 象 で あ る こ とを述 べ て い る。 人 間 は 、 アル プ ス に比 べ て あ ま りに も空 間 的 に小 さ く、 時 間 的 に も短 命 な 存 在 で あ るの で 、 雪 崩 は 人 間 に とって は恐 る べ き 天 災 とな るの で あ る。 ター ナ ー は 、アル プ ス の風 景 に 「人 間 の労 苦 も、

希 望 も」 消 滅 して しま う死 の 存 在 を 強 く意 識 して、 人 間 の黙 示録 的 運命 を 読 み と った の で あ る。

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ア ル プ ス は 歴 史 的 に カル タ ゴの 将 軍 ハ ンニ バ ル と関 連 付 け られ て きた 。 ハ ンニ バ ル が どの 峠 を 通 っ たか につ い て は諸 説 が あ る。 ナ ポ レオ ン もイ タ

リア を征 服 す る た め に アル プ ス を越 え て い た。 ター ナ ー は、1810年 に ヨー ク シ ャー で 見 た 烈 しい雷 雨 が 油 彩 画 の大 作 《吹 雪:ア ル プ スを 越 え る ハ ン ニ バ ル とそ の 軍 勢 》(1812年)を 創 作 す る 動 機 で あ っ た こ とを 語 っ て い るが 、 この絵 の構 想 は す で に1802年 に あ っ た とい われ て い る。絵 の 右 手 の 前 景 に は、 ハ ンニバ ル の 兵 士 が サ ン グチ ウ ム の戦 場 で勝 利 に 酔 い痴 れ て

さ つ り く

い る様 子が 描 か れ て い る。 前 景 の サ ラ シ ア ン の部 隊 の殺 獄 と略 奪 の描 写 は 戦 争 の 恐 怖 と悲 劇 を表 象 して い るの で あ る。 アル プ ス 山 中 の 巨大 な 口 内 の 形 を した吹 雪 の 渦 は、 異様 な ほ ど小 さ く描 き込 まれ たハ ンニ バ ルが 乗 った 象 や ハ ンニ バ ル の 大 軍 を ま さに飲 み込 も う と してい るが 、 この吹 雪 の空 間 的 広 が りは アル プ ス の雄 大 さそ の もの で あ っ た。

ター ナー は 、彼 の未 完 の叙 事 詩 『希 望 の虚 偽 』(TheFallaciesofHope)か ら次 の詩 句 を カ タ ロ グ に引 用 して この絵 を 出 品 してい る。

狡 猜 と 、反 逆 と 、欺 隔 一一 サ ラ シ ア ン の 部 隊 は 、 軍 隊 の 手 薄 な 後 部 に つ き ま と っ た 。 そ の 掠 奪 者 た ち は 勝 利 者 と 捕 虜 に 襲 い か か り一 サ グ ン チ ウ ム の 戦 利 品 も 彼 ら の 餌 食 に な っ た 。 そ れ で も 将 軍 は 前 進 し て 一 一 低 い 、大 き い 、弱 々 し い 太 陽 へ 希 望 の 目を 向 け て い た 。

そ の 時 、晩 秋 の 荒 々 し い 射 手 は

嵐 で イ タ リ ア の 白 銀 の 障 壁 を 汚 そ う と して い た 。 広 範 囲 に 及 ぶ 破 壊 が 、死 者 の 血 潮 で 濃 く染 ま っ た 峠 を 、 岩 石 の 塊 を 、虚 し く圧 し潰 し て い っ た 。

そ れ で も 、彼 は カ ン パ ニ ア の 肥 沃 な 平 野 を 思 っ て い た 一一

微 風 は カ プ ア の 喜 び に 注 意 せ よ 、 と 声 高 く ざ わ め い て い た の だ が 。15

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アルプスと崇高一ワーズワスとターナ017 詩 句 は 、 ハ ンニ バ ル が 自分 に迫 って い る破 滅 を警 告 す る 自然 の 声 に耳 を 貸 さな い ま ま前 進 を 続 け た こ とを 述 べ て い る。 この 絵 の モ チ ー フは 希望 の 虚偽 で あ る とさ え言 え る で あ ろ う。 アル プス を 擬 人化 して、 この よ うな警 告 を 想 定 した と ころ に、 ター ナー の ロマ ン主 義 的 な 見方 が 表 れ て い るの で

あ る。 この 絵 で は イ ギ リス征 服 の野 心 に よ っ て駆 り立 て られ たナ ポ レオ ン が ロー マ 征 服 を 目論 ん だハ ンニバ ル に 重ね 合 わ さ れ てい る。

5.ス イ ス と 自 由

ス イ ス は 自 由 の 歴 史 を も つ 国 で あ る 。 ナ ポ レオ ン は1798年 に 民 主 主 義 の 国 ス イ ス を 攻 撃 し て 、1802年 に は 征 服 し た の で あ っ た 。 ワ ー ズ ワ ス は 、 ナ ポ レ オ ン が ス イ ス か ら 自 由 を 奪 っ た こ と に 悲 憤 して 、1806年 末 か ら1807年 に か け て の 冬 に 、 「ス イ ス の 隷 属 に つ い て の 一 人 の イ ギ リス 人 の 思 い 」 を 書 い て 、『二 巻 の 詩 集 』(1807年)の 「自 由 に 捧 げ られ た ソ ネ ッ ト」 の12番 目 に 載 せ た 。 彼 は 、 こ の 作 品 を 自 分 の 最 良 の ソ ネ ッ トで あ る こ とを1808年 に 語 っ て い る 。

フ ラ ン ス の 共 和 政 府 は 、1794年 に 奴 隷 制 度 廃 止 を 宣 言 して い た 。 しか し、 ナ ポ レ オ ン は1801年1月 に サ ン ・ ド ミ ン ゴ(ハ イ テ ィ)の 父 親 が 黒 人 奴 隷 で あ っ た ト ウ ー サ ン ル ー ヴ ェ ル テ ユ ー ル(1743?‑1803)を 大 統 領 に 任 命 す る と、12月 に は サ ン ・ ド ミ ン ゴ の 奴 隷 制 度 を 復 活 さ せ る 勅 令 を 出 し た の で あ っ た 。 ト ゥ ー サ ン ル ー ヴ ェ ル テ ユ ー ル は 、 自 国 の 独 立 の た め に 奴 隷 の 反 乱 を 指 揮 し た が 捕 ら え ら れ て 、 フ ラ ン ス ・ア ル プ ス の ジ ュ ー ル 城 に 囚 人 と し て 送 ら れ た 。 彼 は 、 こ の 城 の 獄 中 で1803年4月

に 惨 死 し て い る 。 ワ ー ズ ワ ス は 、 獄 中 に あ っ た ト ゥ ー サ ン ル ー ヴ ェ ル テ ユ ー ル を 思 い 、 ソ ネ ッ ト 「トゥ ー サ ン ル ー ヴ ェ ル テ ユ ー ル に 寄 せ て 」 を1802年 の お そ ら く8月 に 書 い て 、1803年 の2月 に モ ー ニ ン グ ・ボ ス

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ト紙 に 載せ た。 彼 は 、この ソネ ッ トを 『二 巻 の詩 集 』(1807年)で は 「自 由 に捧 げ られ た ソネ ッ ト」 の8番 目の作 品 と した。 ブ ラ ウ ンは 、 ター ナー が1802年 に この 城 の 傍 らを 通 っ た 時 に、 トウー サ ン ル ー ヴ ェ ル テ ユー ル が そ の 囚人 とな って い た こ とを 知 って い た と考 えて い る。16

ター ナ ー は ス イ ス の 独 立 に深 い 関心 を 持 っ てい た。 ター ナー は1802年 に、 か つ てサ ヴ ォイ 公 の 命 令 に よ って ス イ ス の愛 国 者 ボ ニ ヴ ァー ドが 捕 ら え られ てい た ジ ュ ネー ブ湖 畔 の シロ ン城 を どん な想 い を抱 い て ス ケ ッチ し たの であ ろ うか 。 彼 は 、依 頼 を 受 け て1809年 頃 に水 彩 画 《シ ロ ン城 》 を 描 い てい る。 ター ナー が1809年 の ア カデ ミー 展 に 出品 した水 彩 画 《ス イ ス 、 ル ツ ェル ン湖 の ブ リュエ レ ン船 着 場 か ら、 ボ ー エ ン とテル の礼 拝 堂 の 方 向 を 望 む 》 は 、ウィ リア ム ・テル を モ チ0フ と して い る作 品 で あ る。 ター ナ ー は 、1836年 、1841年 、1842年 、1843年 、1844年 の 夏 に、 ス イ スヘ ス ケ ッチ旅 行 に 出 か け た。 《ル ツ ェル ン湖 、青 い リギ 山 、日の 出 》(1842 年)と 《ル ツ ェ ル ン湖 、 赤 い リギ 山 、 日没 》(1842年)、 ま た 《ル ツ ェル ン湖:ブ ル ン ネ ン の 上 か ら見 た ウー リの 入 り江 》(1842年)と 《ル ツ ェ ル ン湖 、ブ ル ン ネ ン》(1842年)は 、そ れ ぞ れ 二 対 の 水 彩 画 であ るが 、ター ナ ー が この よ うに テ ル に ゆ か りの あ る ル ツ ェル ン湖 周 辺 の 風 景 を 好 ん で 描 い た こ とは興 味 深 い。

《フ ォー ト・ロ ッ クか らモ ン ブ ラ ンを 望 む 》(1814年 頃)と 《フ ォー ト・

ロ ッ クの戦 闘 》(1815年 頃)は 、 〈平 和 と戦 争 〉 を 表 象 す る一 対 の 風 景 画 で あ る。 前 者 で は 着 飾 っ た 乙女 た ちが 渓 谷 を 見 下 ろ して い る 、 の どか な晴 れ た 日の 光 景 が 、 後 者 では フ ラ ン ス軍 の イ タ リアへ の 南 下 を阻 止 して 、 自 由 と独 立 を守 る た め にイ タ リア軍 が 戦 っ てい る、 嵐 の 日の 光 景 が 描 か れ て い る。 後 者 の風 景 画 は 、 ア ル プス の 四大 の もつ恐 ろ しい 力 と人 間 の 死 闘 と が一 体 化 さ れ た恐 怖 を 描 写 した もの と言 えよ う。 負傷 して い るか 戦 死 して い る兵 士 の傍 らに ひ ざ まず い て い る乙女 の姿 に は愛 が 表 され てい るの であ

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アルプスと崇高一ワーズワスとターナー19 る 。

バ ー ク は 、 恐 怖 を 崇 高 の 源 泉 と し て 、 恐 怖 を 次 の よ う に 説 い て い る 。

し た が っ て 視 覚 に 恐 怖 を 与 え る も の も 、 そ の 恐 怖 の 原 因 が 範 囲 の 偉 大 性 に 帰 さ れ よ う と帰 さ れ ま い と 、 す べ て 崇 高 で あ る 。17

バ ー クの 〈美 と崇 高 〉 の 二 元 論 は 、 そ れ ぞれ の対 象 物 は 異 な る もの と して 恐 怖 と愛 を 峻 別 して い た が 、 ター ナー は これ らの 一 対 の風 景 画 に お い て 、

同一 場 所 に お い て美 と崇 高 、ま た愛 と恐 怖 が 可 能 で あ る こ とを 示 して い る。

ター ナー は 、 ワー ズ ワ ス と同 じよ うに 、 想像 力 に よ って バ ー クの崇 高 を 自 己 の もの と して さ らに深 化 させ た の で あ る。

6.結

ワー ズ ワ ス は、 青 年 時 代 に フ ラ ン ス革 命 の理 念 がつ い に失 敗 に 帰 した こ とを 身 を も って 体 験 して い た が、 「テ ィ ン タ ン僧 院 」 に お い て 、 自然 の 中 で霊 の訪 れ を受 け て 「自然 の崇 拝 者 」 で あ る こ とを 自認 して 、 自然 の観 念 を宇 宙 の霊 に まで発 展 させ て 、 イ ギ リス 文 学 に お け るル ネ ッサ ンス以 来 の 自然 の神 格 化 を頂 点 に まで推 し進 め た の であ っ た。 ワー ズ ワス の 自然 の 観 念 は 、基 本 的 に ル ソー の 「自然 に 帰 れ 」 の 精 神 や 、 人 間 に は生 れ な が らに して 自由 であ る とい う思 想 に基 づ い てい るが 、 形 而 上 学 的 で も、 宗 教 的 で も、 科 学 的 で も、 物 質 的 で もな く、 野 外 に お け る彼 の 少 年 時 代 の 喜 びや 、 恐 怖 の 体 験 や 、ア ニ ミス チ ッ クな体 験 の よ うな 、イ ギ リス の湖 水 地 方 の人 々

に共 通 してい る体 験 に裏 打 ち され て い る もの で あ った。 この よ うな 自然 の 観 念 に結 びつ き、 あ るい は包 括 され て 、 ワー ズ ワ ス の 自由 の観 念 は、 山野

こ だ ま

の 木 霊 の よ うに生 涯 残 され た の で あ った 。

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フ ラ ンス革 命 の成 功 を 信 じて い た1792年 に書 か れ たr叙 景 的 素 描』 に お い て も、 ま た1809年 に作 られ た イ タ リア の 独 立 を 主題 とす る ソ ネ ッ ト 群 にお い て も、 自 由の 精 神 とア ル プ ス の 自然 とは 結 び つ け られ て い る。 両 者 の 結 合 は 、 本 質 的 に は、 彼 が イギ リス の湖 水 地 方 の風 土 に見 い 出 してい た もの で あ っ た。 雄 大 な アル プ ス の崇 高 と、 「虹 」 の 美 とは 異 な る が 、 とに し

もに彼 は 自然 の 中 に創 造 者 の 存 在 を 直 感 したの で あ る。

ワー ズ ワス の 自然 に対 す る 見 方 は 、1802年 の3月 に作 られ たい わ ゆ る

「虹 」 の詩 に端 的 に表 現 され て い る。

大 空 の 虹 を 見 る と 私 の 心 は 躍 る 。

幼 児 の 時 に は そ うで あ っ た 。 大 人 の 今 も そ う で あ る 。

老 人 の 時 に も そ う で あ っ て ほ しい も の 。 そ う で な い な ら死 を 願 い た い 。 子 供 は 大 人 の 父 。

け いけ ん

自 然 な 敬 虐 の 念 に よ り 一日 一 日 が 結 ば れ ま す こ と を

成 人 が 虹 を 見 て 自発 的 に幼 児 の よ うに無 心 に心 を躍 らせ て歓 喜 す る こ と は 、 け して 幼稚 な こ とで は な く、 人 間 生 来 の 魂 の 自由、 ひ い て は 人 間 性 へ の感 謝 を ワー ズ ワ ス に と って は 意 味 したの で あ る。 彼 が 想 像 力 に よ って な した湖 水 地 方 とア ル プ ス との結 合 は 、 ピ クチ ャ レス クの 趣 味 か ら崇 高 に 至 る時 間 と空 間 の結 合 で もあ った。 彼 の想 像 力 に お い て は 、 恐 怖 は 愛 に最 終

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ア ル プ ス と 崇 高 一 ワ0ズ ワ ス と タ ー ナ ー21

的 に 帰 され るの であ る。 湖 水 地 方 の グ ラ ス ミア は 、 ワー ズ ワ ス の想 像 力 に とって 理 想 郷 とな っ てい た の で あ る。

1815年 に ナ ポ レオ ンが ワ ー テ ル ロ ー の 戦 い で惨 敗 して 、 英 仏 戦 争 が終 結 して平 和 が よみ が え る と、1802年 以 降 不 可 能 で あ った 大 陸 へ の渡 航 が 再 開 され た。 ター ナ ー は 、1817年 に 二 度 目の 大 陸 旅 行 を 行 な っ て い る。

彼 は 、 ベ ル ギ ー の ワー テル ロー の戦 場 や 、 ドイ ツ や 、 オ ラ ン ダな どを 旅 行 してい る が 、スイ スへ は行 か な か っ た。 彼 は1819年 に、44歳 で あ っ たが 、 征 服 され て最 盛 時 の面 影 を失 って い た ヴ ェネ ツ ィ アを初 め て 訪 れ た。 産 業 革 命 以 後 、 飛 躍 的 に発 展 した 首 都 ロ ン ドンの 陰 欝 な現 実 を 見 て い た 彼 は 、

ヴ ェ ネ ツ ィア の光 と大 気 に 大 い に魅rさ れ た の で あ る。 彼 は 、 この イ タ リ ア旅 行 の 帰 路 、1820年 の2月 に ア ル プ ス へ 向 か っ たが 、 モ ンスニ の 峠 で 雪 の た め に進 路 を 阻 まれ た の で あ り、 ま た9年 後 に も同 じよ うな経 験 を し

たの で あ った。

ター ナ ー の晩 年 に著 しい フ ォル ム よ りも色 彩 を 重 視 した 画 風 は 、 ヴ ェネ ツ ィアの 風 光 の影 響 を受 け た もの で あ った。 彼 は 、現 実 の ヴ ェ ネ ツ ィ ア に、

近 代 的 な ロ ン ドン とは対 照 的 な 、共 和 国 時代 の 海 洋 都市 ヴ ェネ ツ ィア を 幻 視 して 、 油 彩 画 《ジ ュ リエ ッ トとそ の 乳 母 》(1836年)を 制 作 して い る。

この絵 は 痛 烈 な 批 判 を 受 け た が 、17歳 の ラ ス キ ン は雄 弁 に反 論 した の で あ っ た。 ター ナ ー や ラ スキ ンの見 方 は ま さに ロマ ン主 義 的 で あ った の で あ る。

ター ナ ー は 、 ハ イ デ ル ベ ル クに 再 建 さ れ た 理 想 都 市 の 景 観 を 想 像 力 に よ っ て幻 視 して、 この世 の もの と思 わ れ ない ほ ど美 しいハ イ デル ベ ル クの 都 市 景 観 を1840年 頃 に 好 ん で 描 い た。 四 大 の観 点 か ら見 る と、 現 実 の都 市(土 や 水)は 、 金 色 の 光(火)に よ って浄 化 さ れ て永 遠 性 が 賦 与 され て い る の で あ る。 と くに教 会 の 尖 塔 や 城 な どの建 築 群 は、 「黙 示 録 」 に 書 か れ て い る 天 上 か ら降 りた 新 しい エ ル サ レムの よ うな 明確 さ は な い が 、 赤 み

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が か っ た黄 金 色 で0段 とあ ざや か に 彩 られ て、 蟹 気 楼 の よ うに朦 朧 と して 山 腹 に浮 か ん で い て壮 麗 で あ る 。 この よ うな光 と霜 に包 まれ て 平和 で 美 し い 夢 幻 的 な 都 市 の景 観 に は 、 タ...ナー が抱 い た 理 想 都 市 の 幻影 が発 現 さ れ て い る と考 え た い。 ター ナー が 晩年 に描 い た黄 金 色 の光 と大 気 に お ぼ ろ げ に 包 まれ た都 市 の壮 大 な景 観 に は 、 ア ル プ スの 崇 高 とヴ ェネ ツ ィア の 光 と の 反 映 が 見 られ る の で あ る。

本 論 は、 ワー ズ ワ ス とター ナ ー が ア ル プ スに 読 み と った崇 高 が いか に ロ マ ン主 義 的 であ っ た か 、 そ して 自由 に 関連 して い た か につ い て考 察 した も の で あ る。

タ ー ナ ー の 日 本 語 に よ る 作 品 名 は 、 主 と し て ジ ョ ン ・ ウ ォ ー カ ー 著 、 千 足 伸 行 訳 『タ ー一

ナ ー.(美 術 出 版 社 、1977年)を 参 照 し て い る 。

1.Gilpin,William,Observations,relativechieflytoPicturesqueBeauty,MadeintheYear 1772,0nSeveralPartsofEngland;particularlyontheMountains,and.LakesofCumberland andWestmoreland,2ndeds.(2cols.,T.Cadell,]SOS),i.pp.88‑89.

2.ThePoeticalMagazine,No.130fVol.3(Hon‑No‑Tomosha,2000),PlatelofVol.3.

3.」.wKrutch,η 昭SelectedLettersofThomasGray(Fararar,StrausandYoung}1952),

p.33.

4,EdmundBurke,APhilosophicalEnquiryintotheOriginofDurIdearsoftheSublime 碑4β θ傭'珈',edJ.TBoulton(Routledge,1958),P57.

5.WilliamWordsworth,LettersofWilliamandDorothyWordsworth:TheEarlyYears, 1787‑1805,ed.ErnestdeSelincourt,2ndedn.revisedChesterL.Shaver(Oxford:Clarendon Press,1967),p.34.

6.WilliamWordsworth,ThePoeticalWorksofWilliamWordsworth,ed.Ernestde SelincourtandHelenDarbishire,2ndedn.(5vols.,Oxford:ClarendonPress,1940‑9),iii.

452.

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ア ル プ ス と 崇 高 一 ワ ー ズ ワ ス と タ ー ナ ー23

7.S.T.Coleridge,BiographiaLiteraria(2Vols.,London,1817),i.p.81.

S.PoeticalWorks,i.p.62.

9.EmileLegouis,TheEarlyLifeofWilliamWordsworth,1770‑1798,trans.J.M.Matthews

(Russell,1965),p.150.

10.PG昭ticalワ レorks,i.p.328.

11.JamesHamilton,Turner:ALife(HoddearandSloughton,1997},p.73.

12.GrahamReynolds,Turner(ThamesandHudson,1969),p.179.

13.DavidB.Brown,TheArtofJ.M.W.Turner(Headline,1990),p.155.

14.JohnWalker,fosephMallordWilliamTurner(HarryN.Abrams,1976},p.84.

15.JohnGage,J〃.W.Turner:AWonderfulRangeofMind'ぐYaleUniversityPress,

1987),p.192.

lfi.Brown,p.153.

17.Burke,p.57.

参照

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  支払の完了していない株式についての配当はその買手にとって非課税とされるべ きである。

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