プ ラ ト ン の 社 會 學 的 思 想 不 破 祐 俊
第 一 節 序 言 第二節 プラトン時代の祀令状意 第 三 倍 プ ラ ト ン の 生 江
第四倍 ﹃国家篤﹄
節五節 ﹃国家篇﹄の表現形式
第六節 正萌並びに理想国家論
第七倍教育論
第八節共産主萌諭
節九節﹃法律焉﹄
第十節結論
第一節 序 言 社 食 畢 ︵ S O C i 0 − O g y ︶ な る 語 は
︑ オ ー ギ ュ ス ト ︑ コ ム ト ︵ A u g 邑 e C
︒ ヨ t e 二 道
∞ −
: ∞ 山 巳 が 一 八 三 八 年 に
︑ そ の 大 著 ﹃ 賓 謹 啓 単 位 系
﹄ ︵ C O u r S d e p h i
− ︒ S ︒ p h i e p ︒ S i t i く e 二 ∞ 山 ○
⊥ N
︶ の 第 四 巻 第 三 版 に 於 い
て︑SOCi0−Ogieだして用ひたに始まり︑単的位系を整ふるに至ったのは最近の事に屈する︒然
プラトンの社食撃的思想
ハ 一
商 業 主 経 抑 制
一大
しながら︑ぞれ以前に於いて赴合研究の存在しなかったわけではない︒人間の集団生活は極め
て古く︑従って古来稜々なる卒者に依って︑人間の赴舎生活に何等かの設明ぞ下し︑これに関す
る普遍的治則を求めんざする努力は相蛍古き時代よ b
存 し
て ゐ
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広 告
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に於いて述べてゐるごころは則もこの意であ
る ︒
﹃赴舎に関するこの正確なる観念は最近になって得たものである︒凡そ自然界に於いて︑生活
それ自身の秘密を除いては︑一肱合以外に人間の想像を印したものはない︒生活それ自身以外に
かくも想像をた︿ましふしたるものはない︒心像が如何に幻想的な b ごも︑思索が如何に一脚秘
的なりさも︑信仰が如何に無稽なりごも︑これを赴舎の記述︑赴舎の哲亭に入らないものはな
い ︒
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可 ・
町 )
かくの如︿︑何等かの意味に於いて︑一枇合現象じ就いて注目せるものは古くよりありて︑思
想家︑哲挙者のこれに関して説明或は記述せる所のもの多きを見る︒而して︑か冶る人間集図
の構成︑組織︑その維持及び獲濯に閲する科挙的研究たる粧食事的研究の由来を欧洲に於いて
コムト以前に遡る伝要し.こ﹀にプラトン(盟主 O
ロ )
の 赴
合 同
学 的
思 想
を 後
見するであらう︒買に︑プクト y に於いて︑粧合現象を科率的に観察し︑類別し︑普遍化して 訊ねんざするならば︑
概括を試みたるの蔚芽を我々は後見するであらう︒
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って︑自然哲亭者の思想の中に赴曾率的思想?認めようごした︒然しながら︑ぞれ等プラトン
以前の研究に於いては︑断片的なる︑而して随伶的なる僅か?見出すのみであって︑
これをし
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の人性哲亭に於いても︑赴
合現象の研究にも及んだれざも︑科亭的観察研究さは云ひ得ない︒
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今︑本第に於いては︑ この赴合率的思想含有し︑たる最初ご見倣し得ぺきプラトンに就いて︑
その思想後展の跡ケ見んごするのである o 而して︑本第の大陸は︑主ごして︑米の y
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台数好し土もので︑枇合苧史ざしては手頃のものである
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浮的岡山知山
一 六
商 業 主 短 詩
一 六 回
第 二 節
プ ラ
ト ン
時 代
の 社
命 日
股 態
一肱合山学的思想は︑常に時代の鏡であり︑一肱合生活ケ反映してゐるからには︑ プラトシをして
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家 篇
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注 律
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ふさを書かせるに至ったギ
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ヤ 史
上 の
宮 一
要 な
る事買を先づ議ぺる必要がある︒
ギリジヤ人の住んでゐたギリノジヤ竿島は︑その地形が到る彪に山地三狭︑湾ぜがあって︑近代
的図家ぞなすには不通蛍なれざも.未だ開け来らぬ初期の赴合的保件ざしては︑却って彼等が
小集団の部落をなして︑そこかしこに散在するに通してゐた︒故に︑彼等の信滋すぺき歴史時
代に入ったる紀元前七
O
O 年頃には彼等は小さき自治国陸ざしての生活をしてゐた︒時の流れ
るに従って︑これ等のものは︑白後的に合併したり︑或は征服されたりして︑次第に政治的に
結 合
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都 市
園 家
( 旬
︒ 一
一
ω ) の形式に進んで来た︒これギ ノジヤ特有の都市図家であった︒こ η
の都市園家は各々それ自らの法律を持も︑軍隊さ紳々三子持ち︑各市民は自分等の都市岡家に
濁してのみ愛図的の義務を戚じ︑他の都市に濁しては政調行匁に出づるこさも度々であっ介︒
放に︑この都市岡家が︑幾多の波澗に宮めるギソジヤ政治史の会館ぞ通じて︑一肱合的政治的
間半位であった︒共通の血統であるさ一式ふ傍統は︑自分等の誇りにあらわれ︑またそれが市民の
基礎をなしてゐた︒地理的には︑都市関家は共に政治草位たる一つの町又は数ヶ町さ隣接町村
から成立してゐた︒然しながら︑一枇曾組織全鼻︑に繋ぐものは血統でもなく︑版固でもなく︑
2
乙れは市民関係であった︒ギ y ジヤの人々にどって︑都市或は国家は共に同じ意義のもので︑倫
理的単位なる共同生活であり︑印も人々の結合であった︒プラトンピアクストアレス
( ﹀ 円 一 件 ?
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)
さが﹄支配したのはこの蹴念であった︒市民生活は遮常の生活でゐり 人々が各自を支持
し ︑
集 令
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維 持
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関 係
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百
m 学的諮問題ケ構成するのであった︒
ギソジヤ都市閥家中にでも彼等の商業的繁栄に依 b て有力なる都市図家の一つなるアテネ
( と 一
5 5
) の若干の特性訟泉げれば︑ぞの岡家の人口構成は三十高乃至四十高さ務せられ︑その
約字数は都市自身の中に住居してゐた︒職業は康汎に亙って居った︒農民︑技術家︑工業労働
者︑商人︑銀行家︑軍人︑自由職業者︑政治家等に分れ︑特に農民︑技術家に於いては︑分業
が相官の程度まで行はれてゐた︒
政治上︑人口は次の如く区分せられてゐる︒則も(ごは市民が四高で︑ぞれの妻子が凡そ十
六市︑大股七千の市民は文武官の説れかの一公務に従事してゐた︒(ニ)は外入居住者で︑その家
族共凡そ九市︑(三)は入高の奴隷で︑中二高が
? y y ウノムの官鐙銀山に涯はれてゐた︒
この奴隷制度は注目さるべき主張な制民ではあったが︑図家の所有たる奴隷に依って作業せ
られたる銀山の利益大るや︑凶家の会滋入に比しては小部分であるが故に︑これを除いては︑
プラトンの↓叫ん百草的思也
一 六
五
商 業 主 経 済
一 六 六
か ︑
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勺奴隷制倍以がアテネ政治組織に大きい役割を演じてゐるごは認められない︒この制度が︑
f一般合生活のあらゆる方百に侵潤し︑有閑階級の在修ケ焼けさせてゐたにも拘はら子︑自由民が
労働に依って保持する品位さ︑生産にあたっての熟練さ
高く評債し得るが放に︑奴隷制度は ‑ T
経済生活の根祇さもならない︒加之︑アアネの文明は男子の文明であった︒特に目立った階級
へタイラ
であったが︑さまで多数ならざる娼婦
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E ) ケ除外例ごして︑他の女子は一公の場所への出入
も︑図事に閲奥するこさも控えさせられてゐた︒女子は家庭の人ざなり︑家事にいそしみ︑岡
ホ
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ラ ム
家の忽めに子供を育てるのでゐった︒市場︑歩廊︑劇場︑公合場︑訓練所等での自由を享楽し
得たものは男子であった︒こ﹀に男子は集まって︑一公の問題ゃ︑哲
m叫 す
を 議
論 し
人 口
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そ の
結 果
が︑自由制度の後逮に︑また阻︿論政治の支配に非常に有力さなった輿論争}喚起するに至ったの
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プラトンの如き真面目なる心を持った人にさつで︑か︑
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政治上の各組織は傍主制度から民主制度への移り援りであった︒政治家ご煽勤家さが交る
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の作られるにや回って︑程々の閥民が一図家に )
結合させられたさきに︑新しき組織的市民権が要求された︒大規模に民主政治伝打ち立てるに
絶好な図民的機運が動いてゐたが︑この機運は︑ アアネ自らがその同盟の基金を費消したるこ
さに依って︑彼られてしまった︒
ギ η ノジヤ都市図家間の協同或は東方地中海に進出せる商業貿易の瞭張に依って助長されたる
各凶民相互の接鏑の結果は︑こ
¥Aに新しいコスモポ y タニズムが剣られた︒ギ
ηノジヤ人も︑未
開の土着民もぞの過程に於いて相似の結会後見し︑人類同胞の新解蒋を認めるようになった︒
か ︑
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念 は
哲 忠
一
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者でなくては︑こ︑迄遣し待なかった︒ 一般仁︑この事は政治上︑商業上の
開後にさつで大きい手段を奥へたものであった︒
他方に於いて︑
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ジヤ戦役勝利に依って資ら 3 れた図家意識の力強き勃興はアアネに︑準
問惑術に於いて異常な後建含示した oA1 迄の自然を調象三して研究せる科卒の態度は︑人性そ
のものを見るに至った︒都市図家間に於ける激しき闘争︑或は一都市内に於ける貴族平民の階
級闘争は一切のカケ弛緩せしめ︑権利や秩序や慣習等に関すゐ一切の既成物に諒して疑ケ持ち
始めた︒か︑る股態にあって︑・次第に人格の併.値は高まり︑特有の経験︑濁自の見解を立つる
意義は明かに認められて恭介︒買際の事情
hT
知るもの︑剣断こそ隼ばれるべき時代が来た︒
かくして︑こ︑にギ y ジヤ人は︑如何なる方面の才能にしても︑それが産業的生活に於ける
才能は勿論︑政治的生活に於いても同様に︑それ等は亭んで得られるものでありたいさの考が
相 %
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プラトンの枇合準的思想
一 六
七
商 業 さ 経 済
一 六 八
こ︑に於いて︑営時の人々は今や市民を殺育し︑以て有能なる政治家たらしむるぺき知識を
得るこごを必要ごするに至った︒この感表的欲求を満し︑
き精紳的数義会奥へんざして況はれたのが y プキスト
( ω o
勺
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の一回であった︒彼等は新しき S 山首時のアアネ青年に︑新しきより高
知識の持主であり︑それを教へ授るごころの職業数育者の一回であワた︒かくして撃は↓公の生
活の舞妄に昇って︑後へごなムッ︑静かな向学究は街頭に立つ殺師ごなった︒故に︑彼等は営時の
知目的生活に於いて大きい役目をしてゐた︒次いで現はれたソクラテスは Y プキスト芯同一思潮
に立ちながら︑その準設に反抗して︑理性に劃する普遍的安蛍なる真理を確信して立ったので
あった
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アキストが説︿が如く真理を否定したるに反し︑彼は真理の存在を説いたが︑然し
真理の何者かは一不さなかった︒この真理そのものを示すこごは彼の縫承者プラトシ及びア y ス
ト‑プレスを倹って始めて出来た芭ころである︒
営時の紛糾せるさ共に︑熱情的に勤揺しっ︑あった欣態に於いて︑町内予をば根本から新に創造
せんごし︑且つ人間生活の全般に亙る支配をば要求せんざした彼プラトシの怠義守我々はこ﹀
に理解し得るのでゐる︒ソクラアスの生活理想に劃する戚激さ︑この理想に結ぼれたる政治的
熱情さの中に︑勇気及びカを創り出したのであった︒彼プラトシは決しで無関心なる思想家で
も亭究でもなかった︒道徳上︑政治上の改革者ごしての熱き血潮は彼の生涯営通じて︑叉彼の
一切の著作を遜じて阪を掠ってゐた︒
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見 来
る ご
︑
アアネがかのペロポンネ y ス戦役に依って失敗し︑途ひにはスバ Y タの指導
の下じ立たなければならなかった時︑赴曾上︑政治上の崩壊があった衰微の時代に於いても︑
偉大な哲卒者の熱併に愛 b はなかった︒古代ギ y ジヤ生活の威厳さ魅カさ忠誠芯の失はれた図
民的哀微の時代を通じて︑そこには智的勇気が疲労の極にあったさ云ふこごは指摘し得ない︒
又 ︑
この時代に︑倫理上︑宗滋上の経移が著しかった︒古代の紳諸に於ける家一仰崇拝が漸次
表へつ﹀あった︒自然な︑人間らしさ因果関係が︑古き宗激論の道徳を消息しやりつ
kAあ っ
た ︒
一柳営人の姿に現はそうさする思想が展開しつ﹀あった︒新しき信仰の数師 y フ牛久ト及び y ク
‑プア久の徒が熱心な聴手を得るに至ったのも蛍然であった︒
か︑る政治上︑一肱合上︑倫理上の愛化は蛍然次の加さ問題を越すべき可能性が色濃くあった︒
﹁ 正
義 ど
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ぞ お
OL ﹁粧台及び政治生活の兵の基礎は敦れぞや o ﹂﹁如何にせば人格の最高に遣し
得られるか
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第 三 節
プラトンの生涯
プラトンの傍設に就いては信十ぺき材料は極めて乏しい︒彼の生れた年さして最も確らしい u
のは紀元前四二七年であらう︒ ベロポンネソス戦後の初年︑ ギ y
ジャ史の頂貼に於いて︑来
の問の輝きが︑未だその波落の影を蔽ってゐた時のこどである︒生れ故郷はアアネであったら
う O ︿註)蛍時にあってはへレネ久文化の中心地であ b ︑又その支配者たるの都市であって︑
A 1
や恰もその誇りに満ちた勝利の自信を以って︑この戦争に︑然も遂にはその柴春営破滅の淵に
導いたごころの戦争にその歩みを入れんごしてゐたアテネである︒
註
多島
海サ
ロ‑
一カ
協同
中の
ギリ
Vヤの烏さの設もあろ︒
アアネは民主制度の確立を得て︑既にその弱味さへ探露し始めてゐた︒野心家は都市の支配
峨伎を自らじ奪はんざし︑貧富の階級闘舎は前念暗陰たるものがあった︒この渇れる中にも︑遺
術祭問の至高至貴な存在を認めるこさが出来る︒悲劇︑喜朗にあらはされた劇詩の婆術︑彫刻
︑ ︑
︑ ︑
美︑建築美等のあらわれは都市の随所に見られる︒而して︑異警なる亭へごいそしむ人々も︑
かの Y
プ キ ス ト 一 連 ご 同 様 に
︑
このアテネへ注入 b 来りつ﹀あった︒
かくの如く文化生活の最高潮に遣した時に︑
プラトンは時代の一切の熱烈なる撞憶が一つの
新なる理想にまさめ上げらるぺき使者さして産み落された︒
父アソ
λトシご母ぺ
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グ 一
プ イ
オ
1 ネごは共に貴族の家柄であり︑母の組は
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ロ シ で あ る ご 一 玄
ふ︒プラトン自らは彼の頑父の名を襲って︑ もど
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I アソストグレス(旨宮 O
の‑ 2 )
ご呼ばれてゐ
たらしい︒而して︑彼のプラトンさ一式ふ別名は︑胸胞の庚かったか︑前額が康かったかで︑
カ コ
く呼ぶに至ったのであらう︒
さにかくその健格の偉大きから彼の樫操数師の一人が付けたさ云
はれてゐる︒青年時代に彼はイズスミアシ競技︿詰﹀に出て守った程であり︑会ギ
ηノジヤ青年の
股なる資格ごして兵役に就き︑訓練も受け︑又持情詩も史詩も書いたりしてゐる
o この若き日
‑の訓練のこごは︑﹃国家篇﹄に於レて︑睦採さ一音楽ごや﹄市身憧上︑精神上の殺養であるごして︑
青年の滋育に勤めた結に於いて︑うなづかれるごころである
o
註
イメスミアシの試合はギリVヤ︑ヨリント牛島に古代二年目毎に行はれ士大獄技私一宮ふ︒
Y
プヰ久トに就いて数含聴いたであらうこさも認められるし︑又早くから︑
へ ‑
ブ グ
ラ イ
ト
( E o s r r p o ω )
やアナクサプラス(﹀
g g m o g ω
) 等の哲率的文献仁接鰯してゐたこぎも営然ざして
認められる︒
プラトンの枇合阜的思想
七
商 業 さ 経 済
七
然しながら︑更に彼に強︿関心を向けしめたものは政治であった︒彼が人生の方向を定むべ
きこの若急時代に於いて恰もア
y ‑
アイカがその歴史上に最も激動の時代におかれであった︒
則 も
彼 は
︑
アアネ人が︑あの花々しくはあったが︑やがては絶望の芯ん底に投げこまるぺき失
敗を招くに至ったジジ y ア遠征豆沼ふ冒険を企てた頃に︑その少年時代を終へ︑ アテネの椛威
失墜芯一式ふ非還が遊りがたきものさして落ちか﹀って来た頃に成人したのである︒このペロポ
シ ネ
y
ス 戦
役 が
︑
アアネ市内部に於いて演じた惨らしい闘争を彼は親しく目撃した︒生れなが
らの貴族なるこさは︑彼の知識の輝きご殺養の大 ε 相侯って. ギ
ηノジヤの政治の一公生涯に乗り
出した︒玩にこの蛍時︑彼の心には図家を救ひ︑それが‑康きにおかんごし︑会努力をあげて奮
起しようごする考があったこさは︑その人ざなりから見て常然の事であったらう︒
凡そ二十歳の時に︑彼は y クラ‑プスの熱心な亭徒になった︒かの天才 y
グ 一
プ テ
ス さ
の 親
し き
関係は︑明かにプラトンの青年時代の後展に大きい時期を却したであらう︒彼が y クラアスに
負ふ所のものは︑倫理.政治的方面の意義重きこさであって︑理論的向学説に負ふ所は僅かであ
ったご見てよい︒思惟するに際して︑物事を疑詮的に見るこ芝︑為︑概念的認識を求めてやまな
かった要求さが y クラテスの弟子プラトシに奥へた理論的方面であったらう︒この概念的認識
がその形而上率的意義ぞ獲得したのも︑‑}れが等間的に使用されるに至ったのも︑全くプラト
ンに依って
Nvあるこごは云ふまでもない︒
三十人倍主の支配に濁する嫌悪さ︑加ふるに三九九年に於ける彼が師の悲劇的の死に依って
この上もなく深刻に心ケ打たれたこさは︑彼の見解にいたく影響して︑哲氏子への愛着は遂ひに
政治ご彼が好んで作くってゐた詩歌ごを拾て︑しまった︒
y ク
‑ プ
‑ プ
ス の
死 後
︑
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グ
V
イ デ
ス
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ぬるその他ど迩れ立ってメガラに難を︑避けた︒ニ﹀で彼の封一一曲第の幾何かい書かれたこ L
さで‑ゐったらう︒諸制く数年問︑彼は諸方に旅行した︒確かな根換さしては︑
キ レ
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ネ ︑
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︑南イタリー等ケ訪れたこごが剣ってゐる︒僚︑り確かではないが︑ 1 アタア︑
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バピロシ︑
ぺ Y ジヤ等の相蛍遠隔な土地への族行も考へられる︒
ジ ジ
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三八九年 ‑
に訪れたこごは確かな記事ざなってゐる︒
ジジソーでは︑彼はジラグスの潜主デオニジク只
( 口 一
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弘 5
)
一世に面接した︒
西方ギ
ηノシヤの首都なるジラクスでは︑銃に十年僚︑りに豆って︑潜主デオニジクス一世は︑
時勢の愛遜をよそに︑専制政治を固守してゐた︒調外政策に於いては︑ ヵ Y タゴ人やギタジヤ
人ごの和解に成功し︑圏内に於いては互に相争ふ諸祭︑振を巧みに操縦し︑同時に自らの政治の
輝きを不すには︑裁一術︑準術方面ケ引き立たせるこさを怠らなかった︒故に︑
折その著書に於いて︑人間一肱舎を正しき般態に導くこさは一に賀行のカ吉田山慮ある潜主にのみ プラトンが︑時
プラトンの批合串的思想
一 七
三
商 業 さ 経 涛
一 七 四
期待し得るごの考をもらしてゐるに依って見るならば︑彼が彼自らの理想の計書をこのデオニ
ジクスに依って買現しようごの希望を抱いたこごも了解される︒
彼はピタプラス事徒にして︑潜主の義治対立るデイオ
Y
(
ロ
ゲ ロ
) を
介 し
て こ
の 潜
主 に
接 近
し た
︒
然し︑その結果はうまく行かなかった︒途ひには監禁され︑奴隷に頁られるの憂目を見たが︑
間もなく一友人の忽めに救ひ出されて︑自由民ごなり得た︒
質際の政治への試みは挫かれた︒三八六年に彼が故郷アアネに蹴った時には賃際政治への望
みは絶って︑もゆるが如き赴舎政治的理想ぞ胸にもやしつ︑も︑彼の活勤は専ら忠一議の方へ向
りられた︒こ﹀に彼はアカデミーを創立して︑終生こ﹀で哲撃に士山す事生を教へ導いた︒
買にその死に至る迄のか﹀る数育活動は彼の兵の生活内容であった︒終生家庭を作ら子︑又
このアアネに於いて一公共生活に入るこさを永遠に断念してゐた彼にごって︑この向学校は︑彼の
家庭及び↓公共生活に代るものであった︒こ﹀で指導を受け︑後に名設を得た向学生中には︑
ク
セノ ク
ラ ア
ス ︑
ア
ηノ ス
ト ア
レ ス
︑
y ク Y
グ ス
︑
イ Y クラアス︑デモ﹃でプネス等を奉げるこ之が出
来 よ
う ︒
彼の研究的態度は数率的であって︑これはピタプラス亭徒に蹄すぎ見倣れるが︑後のアソス
ト‑プレス亭波の生物的学的であるさ著し︿調照され得る o 然しながら︑彼の研究範回は多方面の
問題を合んでゐたに逮ひない︒﹃ク y チアス﹄の中で︑彼は﹃アヅチカの地質上の歴史ごそれの
経済上の結果に就いて﹄(ぞれは殆んど現代的議論ご同等である)(註﹀の記述をしてゐるが︑﹃法
件篇﹄に於いては︑現代の著述家さ雌も︑比ぷるものなさ程の洞察力を以って地理的環境ご文
化の特性さの関係争指摘してゐるのである o 不幸にして︑彼がアカデミーに於いてなした会議
義が失はれてゐる︒これは恐らく完全なる哲墜陸系含有してゐたに注ひないであらう︒
註
出口
gm
片 山 口
Hm
mr
旬日
正
om
O 旬日
︼︺
﹃句
・い
おい
アカデミー仁於いて後進を導くこさに楽しみを成じてぬた彼も︑常に彼の心の中に燃えてゐ
たものは︑政治︑宗激的改革者風の街勤であった︒ぞれは彼をして静かなる亭徒ごしての仕事
から抜け出して︑西方の舞塁に於ける新な冒険に飛び込ましめるじ至った︒
彼が殆んざ六十歳にもなってゐた時︑ かのデオニジク
λ一世が三六七年に死んで︑その息子
デオニジク九二世が印位してゐた︒プラト y は哲向学者が玉さなる則も哲人の王たるぺき理想図
家佐賀行し符ぺきこさを信じてゐたご考へるべき可成りの理由がある ω ︒プラトンにごってこ
の理論を質際に試みる機舎がジヌクスの朝廷から招きを受けたさき︑到来したかの如く戚壱ら
れたであらう︒先きのデイオシ(幼主にごつては叔父である)からの事念な手紙で以って︑﹃時は
今や哲人の王の養成に杏ひ立った﹄仰さ一去ふこさ含切に廊ましであった︒プラトシは成巧は疑
プラトシの枇合早的思想
一 七
五
商 業 ミ 経 済
一 七 六
はしかったが︑哲亭は草なる思索であるさの非難を救はふさして︑彼の理想を行ふ芯ころの必
要を戚じた︒而し︑その企は亦失敗に蹄した︒デオニジクス二世は敏き卒者ではないこ之が剣
り︑且つ靭廷に於ける陰謀や紛議は事を面倒にさせた︒四ヶ月間も俗主ごデイオシさの問に守
が濃いて︑遂にデイオ
Yは迄放されてしまった︒プラト y はその質情の望みなきを悟って︑二一
ヶ月後空しくアテネヘ芝蹄った︒五ヶ年後に至って︑彼はデオニジクス二世の特別な求めに依
って︑政治を援り︑デオニジクスさデイオシさの聞を閲痛に解決せん匁めに三度ジラグスへ出
かけた︒この使命もまた無駄に終 b ︑直接の危険に陥入るごさきこさがあって︑漸くにしてギ
ソジヤヘご蹄り得た︒この事が所謂プラトンの書翰の第一ニ︑第四︑第七に表はれてゐるが如く
に︑す︿な︿も十年間ジラグスの事件に奥味を続けて持ってゐたのであった︒
これ等の中絶はあったが︑これを除いてはプラトシは四十年間アカデミーに於ける殺授に身
を委ねてゐた︒彼は三四七年に入十二歳でアアネにむくなった︒
彼はアカデミーのよ b 若き人々にかこまれ︑愛慕されつ︑ミ欽仰されつ︑ミ一言葉に於いても
著述に於いても︑断ゑぎる努力を以って︑最後まで活躍するこさが出来た︒而してこの老墓の
死 は
︑
ある結婚式上で・安らかに迎へられた︒(一設には書き物をしてゐる間さも云はれる)
彼の一生を顧みるごき︑彼の本質を十分に俊輝するを詐 3 れないで終ったのではないかさ考
へられる︒高速なる道徳目的は彼の魂に充ち︑彼の前には︑その民族の新生の理想が漂ってゐ
る︒莫警なる思惟の労作の中に浄められて︑彼を駆って救済的︑創造的なる賀行へご一過まる︒
然しながら︑この道徳的成激に充ちた創造欲には現買に政治を形成するの能力が拒まれてゐる︒
彼は批評に於いても︑攻撃に於いても決して惇るごころがない o 彼は卑劣にして排早川に債する
戸認めたものにおしては︑恰しみのカを 3 へ持ってゐる︒而して︑彼の思惟や意欲には押し通
すカも侠けではぬない︒然しながら又一方に於いては︑現貫生活を克服して︑己が意志の下に
屈せしめるには︑彼の理想は徐りに高く︑ 日常の現買を超越し︑彼の内的生活は徐りに微妙に
気高くあった︒彼は我が身を低うして︑現貫生活に入らんご試みるが︑その度毎に︑彼のカは
それ等に縮れて打ち砕かれる︒彼は徹頭徹尾一個の政治的思想家︑赴合改革論者であって︑決
して賞際の政治家ではない︒
政治上に賀行せんごしては不可能であった彼の理想は︑思惟の高き輝きに於いて表はれた︒
彼の現実に於いてなすぺく残されであったものは︑彼の仲間や拳徒さ共に︑静かな労作に依つ
て認識ご意固さ営培かふのであった︒かくして︑ いつかは︑これからして彼が珠成した︑人間
の よ
b よさ生活が芽生へ来るであらう︒
彼の力強き生活内容がたい
Yに後展してやまゴる数設さ老年に至るも青年の如き強さを持って
プラトシの枇舎阜的思畑出
一 七
七
商 業 さ 経 訴
一 七 八
ゐた活勤ごを以って閲展され︑且︑それが義術的に図鶏し切った形を以って表はれ︑又この思
想家にして一肱曾論者たり︑この紳事者にして珠一一一回者たる彼が︑すぺての民放さ時代ごを遮じて
の最も偉大なる著述家の一人であったこさケ思ふならば︑こ﹀に彼の類ひ稀なる人格の像を見
る の
で あ
る ︒
第 四 節
﹃園家篇﹄
プラトシの如き時代に於いて︑一肱舎哲皐ハ註﹀を経済哲亭或は政治哲亭ご区別して研究するの
は最も困難ごするごころである︒﹁政治的﹂なる誌は共同生活なる一枇合組織の特別な方面を指示
してゐるのでゐる︒現在の如き狭義に用ひてゐるのではない︒それ故に︑プラトンの政治的著
作の中に一般曾哲忠一ゐ蔚芽を見出すべきである
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の
2 8
2 の中にこの関係に鋭き注意を向けてゐる︒
﹃プラトンの生涯の固熟期なゐ凡そ四十滋の時に作られ︑それ故︑他の讃話よ b も十分彼の
思想を表現してゐる﹃図家篇﹄は﹃図家﹄或は﹃正義に関して﹄ご云ム二重の題名を我々に認めさせ
るのである o か﹀る二つの題名にも係はら歩︑これは政治亭にも.注律拳にも︑就れに関する
論文である三仮定するこごは出来まい︒それは相方共であり︑倫且っそれ以上である︒人間の
完全な哲準じ於ける一つの試みである︒先づ第一に︑ぞれは行動してゐる人閉じ関係してゐる
ので︑ぞれ故︑道徳生活︑政治生活の諸問題を取扱ってゐる︒然し︑人間は揮一陸である︒人
間の行動は思考伝離れては了解され得ない︒
?F﹄れ故︑﹃岡家篇﹄は思想を持つ人間の哲率であり
思考法則の哲亭である︒この方面から見るさ︑人間の完き哲事さして︑﹁図家篇﹄は単一な有機
的海一陸ぞ形成してゐる o
﹄ (
勺 ・
玉 同
)
註
プラトンの枇合問中的思初出さ一宮ふものの︑それはむしろ社合哲早さ宿すろが誼切であら︑フOネ ッ
ト
Y
ジ ツ
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足 立
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) も
亦 同
様 に
次 の
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句
O
C E 甘 え 盟 o 主
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評
諭 し
て ゐ
る ︒
﹃プラトシにごって︑人間生活に就いての重要なる事震の一つは︑或る形式の組織赴曾中に
のみよく生活が出来るさ一玄ふこさである︒これに就いては︑ ギ y ジャ人は市民一肱舎が最善の形
式であるさ考へてゐた︒ぞこで彼にどって﹁最善の生活ごは何ぞや﹂ ε
一 エ
ふ 問
題 は
︑ ﹁
人 類
赴 舎
の最善の秩序︑組織は何ぞや﹂の問題さ離れるこごは出来ないのである︒﹃岡家篇﹄の主題は非
川市に庚汎なものでゐる︒か︿種々な問題+ゲ吉凶家篇﹄中に後見するので︑現代に於ける批剣は︑
プラトンが全然別々の問題を混同したご考へる傾きになってゐる︒然し︑これはその如きでは
なレ︒プラトシは﹃図家篇﹄の中で︑我々に︑人類の霊魂の向上さ墜落︑ 則もその最高の後建階
段への向上ご︑その最低深部に・まで.の墜落さの一つの給を奥へてゐるのである︒か︿の如くに
プラトシの社合静的思犯
一 七 九
向︑業.さ怪涜
一 八
O
しで︑彼は人類の霊魂に高物を︑その自然会躍を考に入れようごあせった︒近代的観念から見
れば
1この書は明瞭に倫理的か︑或は政治的かであるべきであり︑また市民ごしての関係に於 ける人間を考へるか︑車に道徳的行怨者ごしての人間を考へるか︑説れかであるさ期待せしめ
るのである
o e
ギ
ηノジヤの哲向学者逮はこの二つの問題ヶ切離さ干に︑混してゐるご一度々一去はれる︒
然るに彼等は人類の生活を現在の我々より術筒躍で︑且つ完全なものさ見てゐたさ一式ふのが確
らしい︒然し.勿論我々が倫理的︑政治的さ医別しなければならなく︑ ギ y ジヤ人がかく区別
してゐなかったこごが問題である︒その理想は彼等の貫際生活が我々のそれよりも︑文化の程 皮が浅く︑治体︑慣習.宗殺は質際は現在の如くはっきりしたものではなかったからであるよ
(
︻ ) 勺‑
hl
O)
かくの如くであるからして︑プ‑ブトンの濁特な思想内容に就いては政治亭者︑道徳的学者︑赴
合卒者生すが各自の分野から討究の自伝向けてゐるのである o これに関する文献も亦汗牛充棟な
る所以は買にこの黙に存してゐる︒
第 五 節
﹃園家篇﹄の表現形式
﹃闘家篇﹄は明かに y クラアス式の方法に従って作られてゐる︒プラトシは y
ク ラ
‑ プ
ス ︑
グ ‑
フ
ク コ
I ンご共々ピイクエクマハに行はれたぺシヂ子女紳の祭櫨ヘ行つての蹄念のこさであった︒
友人ポレマ Y キユ久に呼び止められ︑夜の矩火競馬見物の誘ひを受け︑ぞれ迄の間企ポレマ Y
キユスの家に於いて過すこど﹀なった︒彼の家には既に四五の友人が(註﹀集まって待も粂ねー
ゐた︒こ︑でのお話が︑この﹁国家篇﹄の一忽をなすに至ったさ叙述せられてゐる︒
詰
ケ フ
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ス ︑
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︑ ア
デ イ
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等 外
数 名
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kAに於ける議論の方治は y グ‑プテユの採ったごころの︑知識を授けるご云ふよ b は︑むし
ろ相手の思想を目
5 まさすこさであった︒而して︑ プラトンケして攻めるより︑質問の方注で
営時の一肱曾生活ご制度ごを批剣せしめたのであった︒このお誌の方法は純粋に哲率的である︒
勿論同時代の生活経験から推定した限定から出脱税して︑論理的結論に導いてゐる o その材料は
著者プラトシの頭の中にすぺであった︒何等事買守集めなければ︑データの研究もしなかった︒
故に彼が創造した一肱舎は仮定的な一此舎であ b ︑心に組み立てたものであった︒
y グラ‑アスケして︑そのんねの主要人物たらしめてゐるこどは他の艶話篇ご同様である︒その
談話はこの人に依って導き進められ︑その結論も亦この人の口から出されるこさにしである︒
プラト y の著書会陸に亙って(﹃辞明﹄を除外例ざして)悉くこのお話の形式含ごうである︒しか
しながら︑この叙述方法はプラトンのみが用ひたのではなくて︑営時庚く行はれてゐた義術上 の技巧形式含採用したのであったらう︒た¥その形式をごるこさが︑
一 層
y グラテス的数授
プ ラ
ト ン
の 祉
合 以
的 町
山 知
入
商 業 さ 経 済
八
決に︿口致した所以さもなったのであらう︒
プ 一
プ ト
γ がこの畢生の力作﹃園家篇﹄は︑最初から会躍に亙つての一貫した格闘の下に筆をご
ったのではなかったであらう︒その個々の部分は可成り時間的に隔りがあって︑ぞの部分々々
は著者のそれん¥の時代に於ける後展段階の持徴を示してゐる︒然しながら形式的には統一さ
れてゐるのである︒この書は大盟三部分から成立してゐるご考へられる︒
( a )
﹃岡家篇﹄第一忽は︑正義に閲する調話に就いて始まる︒この説話は事賃何等解答
h V
﹂ 奥
へてはゐないが︑放呆に宮 h u 推論で進行してゐる︒第二容の前宇に至つては︑ y クラアスの話
し相手が代はる中に︑移り行きごして︑不 E を賞讃する Y プキスト的の演説ざなってゐる︒
( b
)
第二容の宇ばにては︑ y クラテスは更に新な人々三共に理想図家の制度に関して濁話
を始める︒この問答は第四容の移りまで緩いてゐる︒これ等の哲率的背景をなすものは︑彼の
イデアの世界ご現象の世界さの聞に霊魂の位地に関しての設である︒そして︑これど同一のこ
ごが︑本質上同じ立場であるごころのこの﹃図家篇﹄の入港より十忽に至る最後の三忽にも遜用
し得る︒これ等の忽では先づ図家制度に関する波れる四形式芝︑ぞれに相応して個人の性格を
なしてゐる型が見事に後展しており︑次いでこの著書の結論乏して︑﹃正義﹄の債値を論じてゐ
る 。
第五容から第七谷までは︑明かに後からの追加さ考へられ︑理想図家の制度の個々の 要素伝説いて︑殊に︑婦人共有ケ以って始まってゐる︒而して︑形而上率的にこ︑での設は色
( c )
付けられてゐるのぞ我々は見出す︒
か︿大別して考へるご我々はこの﹃図家篇﹄が数十年の永きに亙って著作されたものであり
この哲 m 学者の思怨後展のゐらゆる段階を経︑過してゐるものさ考へなくてはならない︒
第 六 節 正義並びに理想国家論
﹃岡家篇﹄の谷頭を飾るごころのものは︑前にも逃ぺし如く︑﹁正義﹄に関する論である︒正義
の性質に閲する︑或は正義の存してゐるごころの性質に関する種々な一般的見解は次の如︿考
べられてゐる︒則も︑ ケプアロスの見解では︑﹃異質を語
︑負債を梯ふ﹄ こさであ h J ω
h J
ボν ︑
マ Y キユスのは︑﹃・一次には善を︑敢には惑ケ奥へるの術﹂めであり︑ トラジユマキユスのは斗カ
は 疋
品 一
夜 な
b ︑正義は強者の利盆なり﹄閉ざ︑ グラクコ
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のでは﹃法律に依って命壱られる所の
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﹄ 山
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ゲ 広 ・
・ 句 ・
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プラトンの枇脅皐的思想
一 八
三
商 業 さ 経 沼
一 八 四
プラトシはこれ壮一すすべての定義に製して異議を唱へてゐる︒彼等各々がその見解を異にして
ゐる芯は一玄へ︑すぺてが︑正義子完成したもの︑別ち世俗の︑表面の︑治律上のものさ見倣し
てゐる黙では等しい︒プラトンはそれ等人銭的な解蒋に反讃してゐる︒彼は︑正義は内面的の
もの︑自然哉は人聞の霊魂中のものさ見てゐる υ それは偶然の初日俗にも依らなければ︑法律上
の制定にも依ってゐない︒思考の習慣であ b ︑生活の方法であり︑意志の後表である o
か ¥
﹄ る
ものを定義するのは難しい︒評越する方がましである︒霊魂の性質であるご共に︑それの現は
れ は
一 般
舎 秩
序 で
あ る
︒
そこで︑正義は人聞の内的生活の性質であるから︑また内的生活は客観的形式に表はれる場
令のみ研究するこごが出来るから︑人間の行動を︑個人も集団も共にして考へるケ要する︒倫
且つ︑赴舎は佃人よりも大で︑正義はこ︑では﹁大文字﹂で織り込まれてゐるから︑先づ第一に
この一枇曾形式を研究するのが最善である︒何故かご一疋ふに︑図家︑別ち一枇合構成は樫や山石で出
来てゐるのではなく︑それ等骨組み立て︾ゐる人間性から出来てゐるからである︿註
VO註
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吉宮
山
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・
M}‑M主
参 照
この目的を迷せんが匁めに︑プラト
Yは閥家を限定的に創る考を目論 hu
︒ 彼
は 一
式 ふ
﹃ 創
造 の
過程じある国家を想像して考へる︒するさ︑又創造の過程にある図家の正義不正義を見るであ
らう︒﹄めそれ故人類赴舎の研究に於いて︑
プ ラ ト
y は純粋に哲事的方法を求めてゐる︒彼は一肱
舎の起源︑後山連合歴史的順序でなく︑論理的順序で考へる︒﹁兵の創造者は必要であって︑この
ものこぞ︑我々の俊明の母である︒﹄向
註
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︒ 吉 宗
0・ 日 } ・
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2︑ 同
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山 内 同 ・・ 日
ν・
ω ︒ ︒
図家則ち組織された一肱舎は﹃私の考では︑人類の必要から起って来る︒何人も自己一人で足
りてゐるものではないが︑我々のすべては多くの要求を持ってゐる︒図家の起源に関して︑外
の理由を想像出来る何ものかいあるか﹄仰最も基礎的方面では︑これ等の要求は食物︑住居︑
衣服等の物質的のものである︒これ等ケ最もよく作るのは分業に依っていある o
三 一
式 ふ
の は
︑
﹃我々は皆が同一ではない︒我々の中には種々な性質があって︑ それ坐すが色々の職業に迫感し
てゐる﹄からである︒かくして﹃人は自分に無理でない一事を︑然もす反よい折にして︑其他
の事を他人に委すならば︑高物は一一般多く︑容易く︑性質のよいものが出来るのである︒﹄向通
蛍な調和によるよい
V結果が産業の抜大を来すのである︒新しい
ι要求がそれからそれへさ出て来
而もそれが充されるに注ひなくなる︒技術家︑良夫︑牧者︑貿易業者︑商人︑銀行家︑
水 夫
︑
賃銀鋳働者等が要求せられる様になる o めこれ等がすべて﹃一つの住彪に集まった時︑この住
プラトジの批合阜的思想
一 八
五
商 業 さ 経 決
一 八 六
人の園陸を岡家さ濡する o
﹄ 向
註
ー︑
ニ
お河
内句
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司 ・
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匂・
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P 5
・句
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・‑‑HV
ω ︒ ︒ .
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広正義はここに﹃これ等の市民さ相互が取引する時間に﹄向表はれてゐる︒それは個人が生れなが
ら︑ささげるに最も越してゐるものを赴曾会館に貢献するこごに存し︑
甲 ﹄
れ 仙
寺 の
才 能
が 一
般 合
結
会に至らしめる本来の関係に存してゐる︒﹃私の怠見では︑図家の同県︑の健全なる構成は私が今述
べ た
ご こ
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︒︑同げ{内同
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V一 日
然し︑後展はこの僅ではゐなレ︒﹃私は多︿の人々が筒皐な生活方注では満足しないであらう
さ考へてゐるから r ︒::::ムーや︑都市は何等自然の需要に要求せられない多くの職業で充さ
れ︑増大するのである︒﹄肉食物︑衣服︑家︑家具等の者修は職業の細別3れるに従って伶って
来る︒遊狼者︑葱術家︑一音楽家︑俳優︑舞踊家︑家庭殺師︑ 理髪師︑髪結︑料理番︑菓子屋︑
給仕等の職業等が出来て来る︒この膨脹につれて︑不正義が入り来る可能性があり︑図家の後
展の可能性がある︑必要の限度合越えるぜ︑図家はその図境診療げ︑大きくするのが必要ごな
る で
あ ら
う ︒
﹃そして︑原住民を支へるに十分であった図土は今や余りに小さく十分ではなくなるであら
ぅ︒そこで︑我々にさって牧場や耕作地含得るが結局めに︑隣図の土地を創 b た︿なり︑隣闘で
も︑同様に必要の限度を越えて︑無限にその宮を蓄積しようごするご︑我々の闘の土地を制ぎ
た︿なる︒そうなるさ戦争ぎなるのである o 倫ほ︑戦争は善をなすか︑勝た惑をなすかはここ
に 措
き ︑
さにかく戦争は一公私共に︑岡家に於ける殆んざすぺての惑の原因さなるぺき原因から
出たご一五ふこさが剣った芝断言し得る︒
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そして︑我が図家は再び膨脹しなければならな ‑
い︒そして︑この時︑この膨脹は全く出ては外国を攻め︑入つては侵入者ご戦って︑我々の所
有も守 b ︑上惑の如き人及び物口聞を守らねばならない︒軍隊のおかげさ一五へるのである︒﹄向
詰
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H凶巾
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一 ﹃ い
2︑同ぴ{門戸"同︼・ω可
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品
きて︑各人は生れつき過してゐる技術の一つのみを m自得するこごが出来るから︑従って﹃戦
争
e T するさ一宮ふこさも一つの技術である﹄から︑この事も分業の原理に従って︑専門的に習得
されなければならない︒﹃若し我々が出来るこさならば︑都市を護るに越した性質のものを選ぶ
プラトンの社合問中的思想
一 八
七
商 業 自 宅 経 務
一 八 八
のが義務であらう﹄向プ一プトシは︑戦争の一原因ざして︑図民的侵略の可能を認めてゐるが︑
それを一つの徳ごは見倣さないで︑直ちじ道徳的必要ごしての防禦論に移ってゐる︒
彼等の仕事に感じてゐる性質が選援の場合の根本になるに逮ひない︒彼等は﹃見るにすばや
く ︑
若 し
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で の
敵 ケ
見 た
時 に
︑
これケ追及するに敏速で︑倫ほ散を捕へたさきに︑戦はなけれ
ばならない時には︑強く﹄あるべきである︒亦﹃よく戦ふからには勇敢であるべきである︒﹄就
中﹃その精紳は意気に充ちてゐるべきである︒・::::が然し︑これ等の意気ある性質は︑お互
に︑また其他の人々に雄佐知らない様に忠はれないか?﹄そこで︑今一つの要素たる友達に艶
して温和であれさ云ふこどが要せられるのである︒外見はお互に包括的である撲なこれ等の性
質は︑賢際に於いては番犬に見出されるさころのものであるが︑又人間の問にも見出される︒
兇暴が﹁意気﹄から出る如く︐滋和は﹃理性﹄則ち﹃哲事﹄から出るのである︒
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ここに於いて︑我々はずラト γ に今迄のギ y ジヤ思想を超越した一大思想を後見するこさが
出来る︒軍人階級を認めた貼である︒かのペロポンネ y ス戦争の時に於いてすら︑ ギ η
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はこの軍人階絞さ一玄ふこごは考へ付かなかった︒た村い市民様含有する者が各都市岡家じ於いて
兵役義務を負はされてをり︑そして軍隊殺育が図家制度中の本質的要素の一つであった︒コ
ηノy ト戦役(紀元前三九四年
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以 後
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アアネの将軍イプグ一プ一プ九に依って傭兵の編成
が出来た︒この事情に関しては︑営時市民生活が富裕になった結果︑図家意識︑愛閤心が表へ︑
これがゑめに︑兵役義務に服するこさの代りに︑金を以って︑これに代へるこぎが行はれ出し
たのであったからである︒
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に至ったのである︒そこでこの新しい軍隊制度をプラトシは理想国家の中に組み入れたのであ
る︒然し︑この階級は最も善き市民から成るぺきで︑彼等は他のすべての職業上の労働から免
除されて︑ぞの都市図家存立の上の危険を防禦する義務がある o 故に︑選ばれて︑この階級に
屈せる者は︑外敵に劃するのみなら子︑岡家の内乱愛飢じ際しでも︑図家守康きにおき︑園内
の秩序規律の維持に努めるべきである︒ぞれ故に.この階級の人タゲ‑護園者さプラトンは呼ん
で ゐ
る ︒
この護園者の階級に麗せる者は︑有能なる軍人ざしての一切の資質を有するさ共に︑国家の
目的︑共同生活の内部諸関係に就いての理解を持たねばならない︒そこで︑これ等護園者階級
の中にも︑初めて護園者三しての敬一夜訓育を受けつ﹀ある者 ε ︑これを指導しつ冶ある者ごの
問の区別が生じなければならない︒この関係は老人さ青年ごに割 b 嘗てられ︑園家の第一線に
プラ子シの佐合串的思惣
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