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毛沢東思想考――文化大革命と「人間的自由」の問 題――

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(1)

巻 13

号 12

ページ 62‑80

発行年 1972‑12

出版者 アジア経済研究所

URL http://doi.org/10.20561/00052538

(2)

はじめに

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考 キ ロ

,巳ρ

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三 一j

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 光 三夫

「人間的「!出

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問題ー一一

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方 日 文化大革命と

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守口正工;二 し か し な が ら 主 三 か ら 、 近 代 合 理 主 義 に 凝 り 回 ま

は 強 烈 た 衝 撃 とt:c,'たのだった。

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近代!日学i,j

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一 一 一

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')た で あ ろ う か ?

アこ事fr左翌諸派にあっても実は,

子 で あ る 「 近 代jそ の も の の 何 た る か を

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えた、いことによず》て,いわばこの超近代尽忠川三 人::',i'JU ;l1  ", I日'l'i'.D 

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干 ス を 汲 み 取 り う る 視 座 の 構 築 に 失 敗

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それでは:文化大革命とその後の中

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は, 丈(ヒ大革命とは一体何どったのであん)川、?

ぞれはかつて確かにノ:1)  Fi月革命を始約とし【ご,

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というこの課題を全て解決した子、ぺふ人 '7)克服!

う;う., 仮 説 をlf士えて大胆に提示するなら\、

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大 革 命 と は ー 早111;の「超近代jが 、 世 界 史c11J:で 11女 H,fr~l付Zt

・Vi寺白(;i

その未熟度のゆえに,部分的,

初 め て ! 近 代jに真向から対質して,

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反交士Wl裂 し , 和 平 外 交 路 線 江 る もUノ

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波序せ7主るをえなか..t.こ運動ではなか•)た;·/‑‑,  ;;、 二)して毛沢東店、

命山思想r101J~tu. を探ること i 士、

以 上 の よ う な 仮 説 と

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え, 川議論,1進められる。

始 以 〉 に い く つ か の 限 定 を 明 ら か に し て お き た 想ん::/J、

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今 に 王 る 我 ヤJ)

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まずラノト稿;全体は

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東 思j占論のためtγ

亘書

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そ の こ と に 上1 て 現i主 に お け る 我 々 の 忠 日_11;1ti.f;';•

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たふう 思 えi正 文 化 大 革 命 が 先 進 資 本 主 主

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主 に 文 化 大

4

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たここで百命じらjLるのは,

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(3)

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作を考証学的に検討するものではない。なおかっ これを「毛沢東思想、考」と題したのは,文化大革 命の主流となった人々が白からの思想を「毛沢東 思 想jと名付

i t

たからであり、また事実『毛沢東 思想、は中国革命の半世紀にわたる歴史のなかで

1

度として個人の思想、ではなかったからである。行 論を追ってやポて明らかになるように,{阪と全体 の弁証法的統ーこそ,この思想、の基本で、あり そ れ故,この接近方法は唯一の毛沢東思想、理解のた めの方法であるとさえいいうるのである。

次に, 二三てアは毛沢東思想、のうち,

t

,こ認識論 が論じられる。もっとも本来の意味で(') ,'ルクス 主義的弁説法にあっては,論理学,認識論,存在 論の聞のいわゆる三位一体的統一性が特徴的であ り,この立味?は,毛沢東思想、の認識

i

訟も、他二 者と相互に不可分の関係にあり,小稿でもかなり の範囲にわたって議論が重溜化することは避けが たい。ただここでは紙数と楽音の能力の関係がら,

主に認\;

; l . l

品(ハ次元で,近代官学の地平{正、文化大 革命が毛沢東思想、として切拓いた地平とを対質さ せることによる問題提起に力点を置かざるをえな

かった。

さらにここでは,新品淳良氏,中西J)J

f t

を始め とする諸家の「毛沢東思想、研究」を詳細に検討す る余裕を持たない。いずれにせよ小稿の議論は,

従来の諸研究;こ対する批判;二自らなっごし、るであ ろうと店、う。

近 代 哲 学 の 地 平 ー一一模写説=反映論,存在決定論

すでに多くの識者が指摘してきたように,文化 大革命への最初の序曲となったのは,

1953

年に始 まって、

1 9 : 5 5

年にほぼ結着した,農業協同化政策 を巡る対立であった。

問題の中心は,

1949

年の解放以来の中国の過渡 期経済にあって,国民経済の中に存在する五つの ウクラッド,つまり,国営経済,合作社経済,国 家資本主義経済,私的資本主義経済,農民・手工 識者の小商品個体経済の諸関係をどうみるかにあ った。文革後室1]少脊路線として確認された楊献珍 が主張した「総合経済基礎論J は,この五つのヴ クラッドを有機的連関を持った全体とみなし.互 いに結合させ,平行させて発展させうるし,また 発展させねばならないと考え,とりあえず,生躍 力水準の引上げを第 1'こし,生産関係を凍結する ことを提唱するものであった氾1。)

周知のように,毛沢東の「農業協同化の問題に ついて」はこれに対する厳しい批判によって摂が れて、、た恨む。

毛沢東の主張を要約的にいうなら,生産力第

1

主義がいわば生産力と生産関係とを観念的に切離

していることに批判を向け,生産力の向上のため には生産関係の凍結ではなく,その変革によって,

つまり徹底した農業協同化によってこそ,現実的 解決を見出しうるとするものであった。

この毛沢東論文の路線の

i

二トニヲ

i l

ぽ1958年か九 始められた大躍進攻策の展開は,いわば,この生 産力第

1

主義の一時的後退を示していた。

ところで揚献珍を代表的イヂオローグとする,

この生産力第

1

主義は,哲学的にみるなら, }様 写説=反映論

J

,「存在決定論」として位置づけら れる性格を有していた。

たとえば,

1 9 5 5

年揚漏え珍は,のちに思惟・布在

l n l

一性論争と呼ばれることとなった哲学的問題を 提起していて,その中で次のように主張する。

「中央の指示によれば,思想工作中における党 の最も根本的任務は,党の幹部に思想、と客観存在 の関係,思想・意識沿客観存在の反映である三と,

(4)

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社会の現実生品ーの発展法問に!,!;,弘、て党内工作を 進 め る 必 要lつある二とをま里解させることにあるO

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にもとれとあるものであり, それ故、 i古川j;土客観 的でもあり『人日:1,.n立,;,}から離れて独立に存在し,

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にこのような「模写説」 「 存 在 決 定 論 」 は 近 代 哲 学 の 認 識 論 と 次 元 を 同 じ く す る 部 分 を 持 つ こ と に 留 意 し な く て は な ら な い 。 行 論 を 展 開 す る 準 儀 と して、 こ こ で び と ま ず , 近 代 哲 学 認 識 論 の 地 平 と

;土, ど の よ う な も の か を 明 確 に し て お く こ と が 使 平リである,

告ら哉の教えるところで1土, 近 代 的 位 界 観 は 個 人 が 中lit社会の伝統的なギ!\ つ ま り 共 同 体 社 会 や 白

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ミどの原初的(血縁的,地縁的等)一体性か「〉「白

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比立したといわれる。 この結果,

それは認ぷ論の上で弔外的(会:観的)な束縛からの

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括的)要素の分離,つまり客観と主観の 分 裂 図 式 を 生 ん だ の で あ っ た3 こうし

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こことの当 女.の 帰 結 と し て , 近 代 認l議 論 は 次 の よ う な 特 徴 を

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つ こ と と な るUl:6。〕

(1)主観は人称的な意成,個人の;意殺としてtJi':え 仁,れる 芯;説・主観の!各自性jの 命 題 。 そ の 際 この主観は本源的に[[ロ

i

型 的jであるとされる。

(2)主回は「立識作用

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であり、 こ れ に 直 接 に 与 え f,れるのは,知覚心(弘観,念,表象等々の[;芭:!設 内 容j であり,「吉:体肉体jは 与 えCれ な いc ま た

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に分けるiえもある)とからなり,与えられたi若手抜 内 容jに郎分的な加工・変係を行ないうる=立"抜 作 用 一 立 高 内 容 実体自体の:Pt'.ifヒ図式の命題。

(3)主仰が

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法 的 に );IIりうるのみである一二意μ誌の命題,

命題。

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等 々 が こ う し た 認 識 論 の 出 発 点 に あ る こ と は も は やJ白日部

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す一ることである。明白なように 近 代 認 識 論 に お L、ては,意識内容と容体肉体との

r 1 : 1

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析がある。 レ一二ン流の模写説は, こび〉;巳:

(5)

詰内容と客体肉体どの関係を次の三/)の形で連結 しようとする。つまり,

(1)意識内容は,客体肉体(客観内実在つによって 規定されており 客体自体の模像(反映)である。

(2)真理とは,」意識内森と客体自体との合致にあ り,対象を正しく「模写jしている意識内容が賞 なる認識である。

(3)意識内容と存体自体との合致は実践において 笑現された仮説(予料)が客観的事実を表わす意識 内容として前提されることによって保証される。

とはいえ客観的実在に内在すると考えられてい る客観法川は,依然「人閣の意識から離れて独立 に存在し,人聞の意志によっては変化しない

J

も のと観ぜられ,人間のなしうることは,せいぜい

「客観事物に科辛的分析と総合的研究を加え」、そ れによって,客観的実在に内在する客観法則を[発 見し,利用しろる」のみである。つまり主観は客 観に従属させられるのであり,客観を作り出すこ

とはできない。

こうして模写説=反映論が存在決定論となるの は,ついにそれが認識主体(主観)と対象(客 観,客体自体〉との分裂を克服しえないところに ある。支践が理論より高いこと,つまり「真理j への距離において,理論より実践の方が近いこと をもって,こうしたロシア・マルクス主義の認識 輸をプラグマチアムの認識論から救おうとする試 みがあるが,問題はむしろそのようなぶにはなく,

釘まその「真理」自体力士客観

i

封切として主観から 切り離されることによって依然主客分裂の近代哲 学の地平を越えていないことtこあったのである。

マルクス主義の「実践」が社会的実践であるこ とについても,主観が客観としての弛者と分裂し ているところでは,依然としてその意識主観は個 人の意哉としての「各自性jを崩すことボできな

い。後論で明らかにされるように,問主体的共同 主観が,主客の分裂を越えて意識にもたらされな い限り,社会的実践もないことは明白である

中閣の第

1

5

カ年計画は,俗に中国型新経済 計画(ネップ〉と呼ばれるように,真にこのロシ ア・マルクス主義の中

I J J

における具体的実践であ っ

f

こ。

次章ではこれら模写説=反映論者,存在決定論 者が,毛沢東思想、との対決において,どのように 毛沢東思想を歪曲したが,また文化大革命のイデ オローグとして従来考えられてきていた林彪の思 想、の立脚点が,まさにこの歪曲された毛沢東思想、

の場所に位置し,それ故それはそれなりに存在決 定論者と対立するものであったことを論証する。

あわせて,この歪曲された毛沢東思想は,認識論 のレベルにおいて,依然近代哲学並びに存在決定 論と次元を共にするととも論証されるであろう。

(il:1)  肢は1953年以からこの議論を民間してし、た といわれるが,具体的に楊自ら饗したものとしては,

1955:r 6月の「中華人民共和国の過渡j切における系礎 と上部建築の問題について」の存在を知ることがセき る。その内存については『人民U報』 1964年11月lB 

「楊献珍的 綜合経済基礎論 」および,長,:{!専啓「み人楊 献珍同志的 綜合経済基礎論 箸他的 f;二而ー 哲 学

J

(『科学研究』 1964{f第六郎)に結介と批判があれ これらを通じて間接的に知ることができる。毛沢東の

「農業協同イヒの問題についてjがこの1カ月後の55年 7 Jlに発表されているニとは注目に値ずる。

(it 2) 「民業協河{七の問題についてj 〈『毛沢史著 作選』外文出版社北京 1967年) 551‑593ベ}ジ。

(注3〕 楊献珍「思維対存在的関係,送↑哲学上最 根本的問題也た我{潤A 切実際工作中最校本的

1 : : 1

J

(『哲学研究』 1955年第二期〉。

(it 4) (レーニン全JJ'.jj 治16巻〈大

J J

書 店 1966  年) 365ベージ。

ぐ注5) それ故実いレーニンにおいともプレハーノ アの[阪史に幻げる似人の役部jや,ブハーリシの「史 的唯物論の理論」を担とする「ロγ 7・マルクス主義」

の科学主義酌決定論じ軌をイこする郎分を広範にも

(6)

Ⅱ 「同一哲学」の地平−マッハ,シェリング,林彪−

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性 が,つまり毛主席が

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矛后論』の中で、述べた 矛 店の同一性 であるというなら,居、惟と存在は−

.ー一定の条件下iこ,互いに他の存在の条件となり,

一つの統一つ下の中に共存するということになる。

それでは思惟と存在;まどのような統一体の中に共

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, 相 互 に 分 離 し え な い 19.'i5年から1CJGl午に雫る問に操り広げ九れた里、

それでも唯心論の 原理的同格説 とすーるなら,

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述Ltこ工う;二、

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士論争;土,

そして

)京理的同格説 の 全実質 は

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意 識 は 分 隊 し が た い 関 係 に あ る と す る と い っ た 種 慌 の 唯 心 論 の 理 論 な の で あ るj(;tz)「臣、惟と

との間に限界を両しうるのであろうか?

会主義建設{η態慌を巡る

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主体的な路線土の土打Eを こ の 論 争 背 日 と し て 開 始 さ れ た の で あ ぺ た 口I¥

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政 策 が 徐 ヶ に 矛 貯 を

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全 て の 唯 心 存{Eの関係問題を解決するについて,

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思‑rfとと存在の同一性 を用いて解決す する人与は格志!:珍の古!j;主の論点を紋承して、存在 論者は、

「唯物論者は唯心論と全く逆に…ー全て反映 弁反 映 論 だ け を 用 い て 解 決 す るj 論を用いて,

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;正法的唯物論はこうみる。居、悦と存在は結局違い

「日住心論者Aは 対 立 し て い る も の を , 同 aの も の と し て い る が ‑‑

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可一性とは、

同 じ で は な いj があり,

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れし同一性論派をマ、ソハ主義者とみなし て次のように批判してし、う。マソハ主義の「『原理 的[r,]格説」は存在と思

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を同ーのものとみなす。

つ ま り 対 立 物 の 統 一 を 対 立 物 の 二二でゴ〉「]

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!)'),子 ヴ̲ −非ノ,) ''  '‑ ‑ふレ)司 ,間,,ン|,;

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にあっては,主観が

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観を正確に反映するよう,

主観と存在はが互いに一致するよう求めねばならな そ う し て は じ め て 主 観 主 義 は 生 じ え な く な る の で あ る いit4)したがって, J思

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と存在の同一性 ハ の 反 対 は

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下 に お け る 主 観 主 義 , 官 僚 しかし i個 々 の 具 体 的 問 題 の 認 分か[思{系にあるj

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かつてマソハ主義者が思附;と存在の ぷ

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こ の よ う に マ ッ ハ 主 義 の 立 場 は , 要 素 二 感 覚 を 世界の日I]造主の位置におくという意味で 神のな

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た こ と が あ ら J(i, 5、お守e

い 汎 神 論 と で も II子びうるものであり,その立士身は,

次 に 述 べ る シ ェ 1) シ ゲ の 立 場 に き わ め て 近 い ど い えるのである。

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は 続 」i{,(}) 

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;こ共存する とずることによって司思'

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一三:花)円役;!;![を芯iJk

ミ~今日す- !.

' : t ,  

十 仇

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ーを昔、f\/_物の

i 2 i  

~:,'[物日)長::

十之、主観主主である、

存在決定論/F1ミのが]−性

i i

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に 対 す る 同 線 な 歪 曲

‑ pソハゴ三

1 ( 1

入手、の

l n i

−−ヒ

L

てし土うII住心 』

l

でらI),

は こ う い う 。 へ ー ゲ ル を も 台 め て

1

でてのI庁仁心論者−

i

対立しているものを[

H J

一物としているが、

}.t.i土哲学史上でも つの古い問題て、あぺた。

i

牝仁、

r i f i u ' T 1

l r i ] ‑ , 1 1

:と

i

土、つ士り 対立物の統ーを,

対立物の[在

J

妥の同一ーとし亡しまう ことでふり 子世議

E

ヘ ー ゲ ル の 理 解 を 巡 っ て も 行 わ れ る 。

 

1γ t

とL、うことになる円そしご{皮ん['jJ'.j'O) 

「ンーニン/c:-l 院写,;r:~

i

な 立j弓:

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下]IJ

f』ヒろ1

(/)である勺 誌であるう

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E

j

f¥l 

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る レ ー ニ ン の

「[好物↓命三世険;

l t

干jl

~if,)j

i土,);可全IIv'l上うに[ 90円年

1子花火定;(,ff;が

iイ・レシヱi'i、fヤ|勾;Gこ;'1・ Lt:二,/」十戸 ‑¥1 フ,

' Y i

問、

IR1一 物 と し て

1 ! ¥ J r , m

本lfJに対立している両面を,

;J‑;:フ乍ーノ。完全中心とずるお

L

立、,

i i ' n 1 1

/りttf;,'i1を、

;ど思1,'j・は こ れ に 反 対 し し?と7ことである

i

Ul:7)0 

ではマツ

Fハ主主と Lて

J l t ' l ' ! J

し,七ものでふるふ,

i

ヘ ー ゲ ル の 観 点 を 子tll:誠同志のように,パー ハニj三 民 と は 什

i

と 円 と う な 忠

J i

)「人]

1 r i J Y

,もので

与 了 リ ン グ フィヒテ宅

アL一主義,マソハ主義,

t

二、1>? 

'j'f,のi仏仁、論と完全なイコーノLに 置 く こ と は −j民的 1,.Jc-;':'i;U:·1~ に

そj .Lは[itJH与1/J, 端的;二1, ' • ) if・;ラ今

周知のように,ヘーケ、;!,,は[陪神現象学序論J

n t

にシ工 1ン ゲ の 「 同 一 哲 学 ! を 批 判 し て 次 の ようにいってし、るつもし「思

・ ' i t

的な考察{去が、

K 5 J i J

とt・Q定 を そ な え た も の を 解 消 さ せ て し ま う と み

あ や 主 り で あ るjと述べる行、8。) であり,

J土IJ店、'flや

i;;'JfiJJや 空

1 1 , 9

の 変 化e二i;UI) 

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くち常;こ[』;J‑

と十;二

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主1r':1

I

、工 れと存在を

1 , ; J ; r 1

\;ニ(託(七のであゐ。

1

主(土、

'ill'ti: ャえセミ/ノミ「〉ぷ~:,

し7こカ とろえ心れるー 刊とし て,

「要素 R~「(本=!岳地山木」

って「要素/ ii (,(;;:~からなる守桜丸i 色;こけし, iほ

のう九ではい.−,さいは同じだというこの知議 だ けl

をひとつ党えにして,区日ljを そ な え , 充 実 を え た 知,f;左ー イ ニ 対 し 対 抗 し よ う と す る わ け で あ る い つまりシェリングにあっては同イヂ!:が相j主 性 を 解

l l ' f

するのにえ

i

し,ヘーゲ、ルにあってt土同一性が柿 そ れ は 「 そh (,  (Ii<:ψ!と

i l t i . i :

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l 一 戸 し 4 ー と (/> ,•.,

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'i、て, T要 ぷ = 感 覚

i

主主;i

i f

)日山中ト二本来

i

t t

を合むのである。

行 論 の 展 開 の た め に , 繁 雑 さ を お し て こ こ で , シ ェ リ ン グ の 「 同 一 哲 学Jの 地 平 を 確 認 し て お く ことが必要である。

む し ろ 立 識

f ' i

,吊のタト こjlを1γfl:

Ij

i ; ' f ; : ! i J J

:さfrt,;_;.)しめるJ [,i]  二)

L ;  

二\ぷ民的トニ{助きかけ、

l i J

;二内

ι l

寸るものではなく

I t

しめJ与と[,?]iI寺

i

二、 , ', 

Cf:容の

67 

シ ェ リ ン グ に お け る 忠

I H

と存在の

1 1

百,

こzt.y

l

主;二,芹{本

l : J

{本にけしても吏表二 ''L~:,tは、 存{

U

二「、Lゴ)るゴ

i i ; ; J z ; :

として

1 ‑ S :

えられているつ

(8)

1972120070.TIF

一 致i士、次の上うにしてえられるニ

つまリ、絶対者二神;土

f

干限者の根底

ι

{ し{, 、ヵ つ有限昔(I)慌々な変化の根底で

i t

;二不変不易の 自己同一イ乍きと(呆ち続けるつ ここでの絶対者ば,汎 神論的:二丘中る『

l

王物と依属関係を{呆じつつ, ぞれ らを現

f f

するll佐ーの客観的実在である。確かにこ の客観的支"( Ut, カントペコブイヒ子と実

1

こって,

主観の伎

, ; :

にず子するものではたイ 主主止の内i官に その存在根拠を持つとされるつ

L

たがってンヱリ ンゲにあっては,絶対者=客観的実在;土 知的

I t " L

観に工ぺて一挙に主観の認識にもた九されること

とたる。 し力、しながら この絶対者=存続的実在 土すでに完成された完全無欠のホのでありラ主観 の変化は,絶対者(こ何九の変化もも允ら

L

えない。

ただとこで胃意しなくてはなちないのは, この絶 対

t i

=客観的実在が近代認議論の.

P J i

化図式にい う客体自体と意味を異に「るということであるα

つまりそれはマッハの要素=感覚と同じとうに,

~:設作用=主間にも客体自体=客観にも依展開係 を持

h

,それらを規律十るところの超越者である。

との超越者の下で,意識作用と客体向体

l

士有限な ものとして全くの同格であると芳えられる。つ玄

:

J主客は一致

L,

L、ずれにせ上、

忠、惟と存在は同ぬとなる rn:引っ こうした「同−

t ' f

学jの地平に あって

l

土、個々の主観が超越??を認識しうるかど うかは問題とな/〉ても元来個々の主認が個々の客 観を捕捉しうるかどうかは余り問題ではないっ し かしながら司超越者が知的直観に上,,て少なくと

も主視の認

i

誌にもたらされうること,および主客 の− ,致,思げと存在の同ーの保証の下では, {[Iii々 の主観は,個々の客観の中;二依属的に関係をもっ 超越者をみることによって,個々の客観をも捕捉

Lうることになるのであるc

近代認識論と較べた場合.マ、ァハにせよ,シヲリ

ンケにせよ, 以上のように, 主規の客体自体およ び客観法只I]に対する認識能力を全面的にか,部分 的にか宵認するど三ろに特徴があったとし、えるつ

ところで,存夜決定論派が?

?主政策を推進するグループを,

人民公社化・大躍 マッハ主義, 「同 一析学!の名の下に批判したのは, このゲ/レーブ。

の内部に部分的に?{した主観主義的傾向に対して であ,Bc

政策的にみるならば,確かに人民公社化や大躍 進政策は,個々の誤ちを犯すことを恐れていては なしえない一大事業であった。 したがってこの政 策を支持し推進する幹部大衆の中にマ、ゾノ、主義的

「同一哲学j的傾向の現われたことは,

でやむを得ないごとであった。

ある意味

林;彪もそうしたうちの

1

人であったとし、える。

いわばそれば「同ー哲学jとして存在決定論派に

「夜曲された毛沢東思想jを代弁するものであ/》

た。つまり存在決定論派の批判は,少なくとも,

林彪についていえば的を得ていたといえるのであ る。

林!~ii は 1959年 9 月,大躍進の真際中, 「全軍高 級幹部会議における講話jで次の上うに述べてい

o)

「マルクス・レーニン主義は普遍的法則を指し 示したが,

っておりー

普遍的法貝I]は特殊な法則にかかわり合 普遍的法貝ljは特殊な法則を導くことが できる。 どの上うな個別も皆普遍を含んでおり,

普遍を把握してこそ始めて個別を認識でき,個別 を導くことができる。勿論, ただ単に普遍を把握 するだけで,個別に結びつけないならば, それは マルクス・レ一二ン主義ではない。マルクス・レ ーニン主義は普遍と個別を結びつけなければなら ず,我々は必ずマルクス・レ一二ン主義の普遍的 立理で,個別を導き,実践を指導しなければなら

(9)

このような同一哲学の地平の延 L、ずれにせよ,

その前にあって 亡の個別(主観〉が同格化(平等化〉される/よけ でなく,毛沢東思想のためにすべての個別は従属 させられるのである。

丘 i

i

こ現われる・1:;沢東思想、とは,

ない」世間。

ここでの普遍を絶対者に,特殊・ j[,¥]~jlj を有限者

l

と置き換えるなら,それは,マルクス・レーニン主 義を神とする汎神論的問一哲学と同次元にあるこ とが阿らIいとなる。もれろんl、ここで

ι

首二道の存在

「学生のみなさん,紅衛兵戦士の みなさん,あなたがたは永遠に党に忠実で あわ 人民に忠実であ

D

,毛主席に』忠実であり,

林彪はいう,

j

孟はさ

た・すし

・在

立・存

狐 み は の 毅 に 主 中 ス の ク 対 ル 相 マ は

﹁ 絶 対

根拠I土個別をこ求められるc

1 9 6 8

3

月守 ている。

らにこう

毛沢東 絶対性を認めない。

ることができ,絶対は必ず相対と結台するものな 思想に志実でなけ;/1,ばなりません。……わたした ちが真剣に毛主席の著作を読み,毛主席の話を聞 き,毛主席の指示どおりに事をはこびさえすれば,

プロレタリア文化大革命はかならず偉大な勝利を かちとることができるのです

J

rn二12¥

のでふるっわれわれの認識過程は,絶対と禍対と の矛盾の過程である。このような矛盾の解決はわ れわれの智識を一歩前進させ,絶対的真理に一歩 近づかせらのである。絶対的なものは?十ill立して

は存在しえない。いかなる抽象的な概括

L

具体 もはやわえ

L

なちは, シェリング, マッハ,林 ある程度確認するこ

i

模写説 彪と続く同一哲学の地平を,

とができる。

二とれでは一体二の同一哲学の地平と,

的なものから離れては単独に存在しえず,一般は ることができず,無限(土

f f l ¥ R

がら離

「存在決定論」の近代哲学的地平との 関係はどうなのか?

実はこの二つぷ}地平は, 表面的

I

こ異なるかに見

ぇ − c

,同じ地平じ立つものであった。

このニつは,主観によっては変化させ 第

l

に,

れることこLできず, 《般

t t

:は個別性か心高

V

もるこ とができないのと同じように,絶対的なものはそ れ自体として独立して存在することはできない。

われれれは絶対を認めるものだが,総けは伺対の 中でJJみ存在しうるので、ある。わ;/1,).)れのいつい かなる時の認識もみな相対的なものなのであり,

これが主要た側面である」〔注lllC傍点引用者〉。

個別か九

に=反映論」

えないものとしての超越者を想定する。

つまリ存 {

H

)た

t

翁における超越者は,全亡丸山容

i

本自体に内在

t

~c'., f客観法;

t i l J

であり, 同令官学

それは文字通り神であったり,要素 千盾がみ

られる。林彪のように,個別を普遍から導出し,普 遍の存在根拠を個別におく議論にあっては,個別

ここで;J

f

本彪の議論には!V

J

らかな

I

三沢東思想、の普遍的法員jlであ にあっては,

であったり,

(主在Q:、川

c .

識過干呈は、個別と普遍(!Iiえれ絶対)ど

の矛j庁、

f

;'としては現わ九えないは寸三である。 .j  ;;:, 0 違いはこ 超越者を容体白{本〈客観〉に♂〉

あるいは思惟(意識作用=主観〉にもみ どちらにあっても主観は るかにあるにすぎなし、。

みみるか,

というのは,個別と普週は,いわば「同一寸であ るばかりでなく,個別はその内に普過を宿すこと

によ}て弁 i~j に従属セ九 ,il三いるか,,ご−

F

、る。つ 日主主者に対して無力である。

ともに主観川

 

I

J ;

J~li

二行二つの地平;土,

存 21こ,

\ 「こ士J'‑・:,  まり個別ヒ

・ t i '

遍の聞に「け;t::Jはなく弓

人称性を崩すことができない。つまりとも に,超越者の前の主観の同格を想定することによ

こうして,林彪がここで諾つ とは空語にすぎなくなるのであるむ て「矛盾

J

もない。

た「矛盾

J

(10)

Ⅲ 文化大革命の地平

1972120072.TIF

っ て , 主 観 は ア ト ム 的 な{mi々 の 主 観 で ふ り 、 い わ ば , 直 接 的 に 問 主 体 性 出 共 同 主 観 を 持 つ こ と が で きない。

こ の よ う に こ の 二 つ の 地 平 は , と もi~ と超 越 者 どI)「品J".:'二とれぞれ九日かで裁断するために,

依 然 近 代 哲 学 の 地 平 を 乗 り 越 え え な い の で あ る 。

C i t  

1)  r可 ;ヌ珍は' 55年rFf l ;,,;,文発炎上け;:i,58年10

n

「2笹川,

y ; > 1

こよる ドj'I''寸の概論|三党

IL,

思刊・/{ :':: i'ifの二元論亡し

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ていた。二、' I,~,J 文の 内科については,間;;, 「車場献珍岡正反対忠

i ' . i

1

ι

存 在 的同一性的災質JLil・t‑」

c m

学研究』 1964年第6JtJJ)  から l/lJj1tJことがでJこ。

(注2) I誠「 思料引:1U11守同一位 111 •:1;; 主義 的原f1!11!.!,Jぐん明日報』 1959iJ;:10月11日〉。

(注3)

J ' ・ [ t

ト誠「試論n作物主幾「110_I(,冶?)I!↑I心;主義 的 .11..1.*m:和子冶:(110同一性 的根本対立, l'Ji止灯学上「↓f,j 条張本f¥;,̲;・̲((1, ,lや」 (『1,::JI:J 〜 1960司3'.]  4 I:,  5口〉。

(注4) :l杉猷J会「i・I弘

J

l位物主主主」 76ヘージ,j3よ じ122ページ。周;Fゴ1 }}打開論文 12ベージより。

〔t主5) it−献珍「略諭すijji+'','J:r−.'''的[ ti].i宇! !巧長 プJ jjfj['''"''  ' . 17ページi / 

G上6) − ニ ン 「 唯

1

山市 ','(c験 批 判 試 I

' ' ' 1 :   ‑ : , ; ;   ・ 

主主「径験批判;1 詰の認識:治と弁証法的 ni(; 物品の ai.,m,~,1tr -」

(「レーニン:

UtJ

i:JH4Z主 大月;i;‑1万 1968{ド。および マッハ治、 長之助, I̲:f:>i‑cf{

・ 1 / i I, 

i i  /   : C

法 政大学ii,l↓」:,, 沼有146年, ・ ,:,11'・'.  しては、lよi/,' : J

タス主主

Y

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i ,

うためにI̲ , 円「三『

, i . 2 ) i , r ; , c , ;

仁学.JI の諸広場とわれわれの出発点」〔「マノレタスゴ誌の地 J'i}i:i'正也M 1970年 288‑302べー〉/〕。

(注7j  , I',,,長 rfolf1,i;i

< ,  

C i

主8) J し•,'J· 「討論“' Ii:'r 11,if'f定了恕:,, •,,, 〆ii:的 同一位 」(『;1ヂ研究』 1962年 第5JtiJ)  16へージ。

(it 9)  シェソング??,勝凶守・沢『学川前』(1':波 書店 fill和46

: 4

::),朴に「泊(l8 g,,キリスl絞り麿史的 構成に' , . I「第11IIλ下 般 に つ い 一

(注10ノ1 ,1  ![人民解放,r.

  , : r ' ‑ :   " '  r n

,編「料、:|:

υ i ' ‑ : 1

政治,f/!.;1:L¥工作トイ命摘録」〈北京人民山以:;,J‑.1964年〉。 訳;ifU:,中国研

J c

所のE沢で『中間研

J ' c

刀特」 1969年11 月I.} 2ベージο

(itll)  .j;.Iれ論文選

CF

l」〔

t l

国研究J1氏1 1969  年12刀 ,, 'i T河究所〉 :ロベ−/o 

Ciド12) 「材色治文選(下)J4へ』〆。

E 文化大革命の地平

で は 同 一 性 論 派 = 文 革 派 が

t ] J t

仏 、 た 地 平 と ほ ど の よ う な も の で あ ゥ た の か ?

先 に も 少 し 触 れ た よ う に , 同 一 性 論 派 は ヘ ー ゲ ルの:本命的側面に依挺して,思仇.存在同一

i ' t 1 1 i

を泌!Jijしたので乙:,〉〆'/,こ。

文 思 奇 は た と え ば 次 の よ う に い う 。 「へーグノレ の 哲 学 に は こ つ の 側 聞 が あ る 。 一 つ の 側 面 ; 土 唯 心 i,命であり位1) 他 内 側 面 は 弁 証 法 で あ る 。 … … へ ー ゲl,古学の中の,

1 t ; ,

1!・存在同一性の思想、にも,一 つ の 側 面 が あ れ 哲 学 の 根 本 問 題 ( 注2〕の第一側面 についていえば,へーゲノレは煙、松を第一義的なも のとふなし, F2/flと存在の同一性を, 『存在L!日思 惟 』 の 意 味 に 解 釈 し た , 哲 学 根 本 問 題 の 第 二 側 面 に つ

u

、 て い え ば , ヘ ー グ ル と , そ の 他 の 絶 対 多 数 の

i ' r q

:者(す人ての

i l f / c

物論者と微!ょした唯心論者主

: : ・ :

む);ょ 思惟が現実世界を認ぷしう心かどうか の 問 題 に 肯 定 的 な 答 え を し て お り , ま た カ ン ト の 不 可 知 論 を 批 判 す る 際 ( へ ー ゲ ル は ー 引 用 者 注 ) 思

w  とよ

f:在の関綜にJル、て,ある程度弁証法的;,((明 をしているのぐあゐ。…一・(エシゲノレスはー引用者 注 ) へ ー ゲ ノ レ が こ の 問 題 の 側 聞 に 答 え る 際 の 合 理 的 な 弁 証 法 の 要 素 を 肯 定 し て い る の で あ る が , 問 Hfy1こ.'ーゲノYレ山この

i i

司題におけるi:住,亡、論的論ぷを 批 判 し た 」 位3, 日 世 誠 同 志 は , ヘ ー ゲ ノ レ 哲 学 に 対 し 一 面 的 な 理 解 し か し て お ら ず , へ ー ゲ ノ レ の 思

• f r

:在同−

t t

J川、ての思、訟を形

r n i

上 学 的 神 秘(

J ' ‑ J i l f i

心論とし、いよ五し,その

q 1

に−−;−;;−_

t

れ て い る 弁 証法的意味を否認した」〈注4。〕 「へーゲルの見方 は , 人 間 の 主 観 的 思 惟 , 概 念 , 観 念

l

土 , そ れ ら の 対 象 司 客 観 存 在 の

s

体 的 事 物 , こ の 様 介 的 段 階 を 通 仁 て の み , じ じ め て 後 者 の

I

奥深い所』

i

こ「秘

(11)

る貢献である」(注5。)

『精神現象学』が明確に示したように,へーゲ、jレ にあっては,思惟(意識)は自然および歴史のな かで,否定性(自己否定〕を通じて発展〔全体化)

し,絶対的理念(精神〕へと還帰するが,この過 程を通じて主観と客観は統一され,思惟と存在は 一致するものとなる。逆に「この過程の終点であ る絶対的理念は再び自己を『外化して』自然や歴 史となる」悦いのである。

このように,思惟と存在の同一性は,へーゲノレ にあっては,マッハやシェリングが時間的・空間 的変化を捨象したのと対照的に,歴史的(時間的・

空間的)変化にともなって実現されるものである。

要言すれば,絶対的理念(絶対者)は主観(有限 者〉の変化を通じて自己を実現していく。それは

「同一哲学」のように自己同一的不変不易なもの ではなL、。ここにおし、て主観は「主体」となる。

へーゲノレの言葉でいえば「主体」とは,存在者が

「その他在にありながら自己自身であり」(Bei‑sich‑ selbst‑sein  im Anrssein),否定性を「媒介」し,

「止揚jするものである。「主体」に対するこうし た存在論的了解こそ,後論で述べる「間主体性=

共同主観」の成立条件である。

ゲ、ルの有名な命題も, 「現実性は展開されると必 然性であることがわかる」岨9)という弁証法的理 解によって, 「さきに現実的であったものが,す ベて発展の経過のなかで非現実的になり,その必 然性,その存在権,その合理性をうしなっていく」

m10〕ことを論証する命題に変わるのであった。

もっとも,へーゲルの体系にあっては「存在」

は「思惟」に包みこまれる限りでの「存在」であ り,つまり「思惟の上の存在」であるにとどまる。

この点について文思奇はこう述べる。 「へーゲ、

ノレは明確に指摘した;思惟の中の『存在』という 抽象的範晴は,具体的事物をなす存在とは決して 同じでなく,われわれが通常思惟の対立物とみな す客観的存在と同じではない。…一範障としての 存在はもとより『純然たる抽象的概念』であるが,

この概念はたんなる思惟活動の産物であるのでは 決しでなく,すべての具体的事物のある種の共同 の本質の概括である0 .…ーすべての具体的事物は,

みなその客観存在,この共同の本質を有しており,

いかなる範時,概念もすべて,ある客観存在の具 体的事物の共同の本質の反映である。・田・・・・それ故,

へーゲ、ルは客観存在の具体的事物と思惟・概念、を 直接同ーのものとはみなさないものの,人間の思 惟・概念・観念と,すべての客観事物の本質(ある

(12)

1972120074.TIF

等〉を持つとされるが,両者の関係には否定性をど 媒介とする弁証法的過程がみられず,感性的存庄 が直接的に白定されJることで,同一的関係にJIB:し てしまう治15。)

しは了世界自(j,Jとnfばれる〉を完走:;こ

I . I l

ーのもの そこから人間の思惟が客:

/ m ' l ' i '

物の本質を 認識するとは,日

D t

,店、・:

J t

が思惟白身を認識するこ とであるとか、あるいは絶対観念の向己宣議とII子 とみて,

‑:r ,しノクス・ヱンゲノレスが批判したご こうして,

という結論を出すのである。− ーへーゲ ばれる,

「かつて神の述語 ブォイエノレバッハでは,

あの『総念』 とく ノレの観念円弁証法的運動の中から?

であった『全能3「愛J『tit界のおlj造者,]等々が,

「絶対観念jを客観世界の本質とLL、なす思想を

今や「人間』の述語とされる。

: : f f

体の諸個人は,

依然人「

l i J

の本質とやらに拝;泌させられるj(::l:16、の あの事物の了奥深い所;二夜、む」思

1 ; 1

:と

拾て去り,

である。

この上うに見てくると,同一性論派の主張する や「一)を、盗み換えて突事見事物の物質実在に民せは,

多く lり唯 lt1 論の日;g~r;t~訟にとってきわめて有用でよ主 主なものを探し当てることができる

J

云々i] ]) 

周知のように7十イエノレパヴ/、もかつて凡じよ ょう、仁 ヘーゲル

V r

学の弁証法の革命的側面

i

の 堅 唯心論的側面の唯物論への転換とのこの二 つの課題の同時的解決はL、うほどに符易ではない

ことが判明する。

[μJ一性諭派の中でこの点に

i

急速く気付いたのは 王

t ; :

1j,えであった世17)っ彼はまず?唯物論士、f唯心論,

つまり存在が「忠 持と,

' 1 f t

の上でのj{{−在であることに反対して次のよう うにへーゲJしの唯心論的側面

i ,

斗ふ ふ み 一

I,j

「ここでは元・,

m

はまっ

f

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バッハ的要素を形而上学的唯物論としたのであっ 任。こうした規定がき?を得たものであるかどうか は別としても,とりあえず問題がよとにあること は明白であったの

ではマlレケス,エ乙ゲノレスはこれをどう解決し ようと

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ヘーゲノレは個別の変化を通じて普遍が自己を実 現すると述べたc しかしその細川土依然思慌の上 の個別であって,現実の個別ではなかった。ブオ

「エルパッハはそれを現実の個別としなければな らなhと述べ

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しかしそれととも同現実の飼 別は動かない個別となった。ために,普遍は個別 から導出されなくなったっいまや伺刈は現実的で あるとともに動くものとならなくてはならない。

マルクスは1、う。 「フォイエノシノZァハは,抽象 的思考にあきたらず,感性的『直観』にう。たえ るつしかし,感性を『実践的』な人間的=感性的

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古前J』でき)るとはとらえない

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(竹,,) C活必は引用 者〉。

日一性論;11ミもこの現実的個別を酌く掴'ijljとしよ うとする。ふれこそ主観能動性論争の目的であっ た,,

19::ig,年5月日日, 11日の両日,北京の中共中央 高級党学校で「主観能動性と客観法則性の問題に つL、ての討論会jがr

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催された頃がこの論争の頂

d誌であったO

論争は, iif次の2哲夫の意見によって代表され たコお

1

のな見;主観能動性と;主人聞が物から区 別される根拠となる特徴であり,主観の客観に対

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己反作用であり,人間の意識的−呂的的活動を

遊現する。しかしそれは,主観の客観的必然性に 対する認識に基づく自由を有するとは限らず,し たがってその意識的・目的的活動は正しくも誤ち にもなりうる。つまりそれは必ずしも主観の客観 法則iこ対する正しい認識に基づくものではない。

とはいえ主観能動性による人間の活動が効果的に 予期した目的を果たすには唱客観法員JIに適合的で なければならない。文思奇等同一性論派がこの意 見を主張した。第2の意見;人間の特徴は理性的

;,l..1‑.惟をもって事物の本賞を理解し,客観法員!

J

を認 識しうるところにある。それ故,主観能動性とは,

主観の意識的・罰的的活動を指すだ、けでなく,客 観法則に対する正確な認識に基づくものであり,

客観的実際に適合した指導から離れ,客観法則に 背く主税能動性とは,事実上ないに等いぜ、,孫定 問等存症決定論派がこの意見を主張した〈注21。)

同様の議論は思惟・存在同一性論争の延長上で も行なわれる。議論の始まったのは,大躍進政策 の失敗がほぼ明確になってきた1960年の後半で,

存在決定論者が「あやまった思准・主観jは「存 在・客観」との聞に同一性を持たないとして,同 一性論派を論難する形で始まった。これf,二対して 同一性論派は要約次のように応じる。あやまった 忠椎が,し、かなる条{午においてもあれやとれやの 拝観存在へと転化しほいというなら,われわれが あやまった思想と闘争しなければならないという 長践的意義はなし、であろう。つまりあやまった思 惟の客観存在への転化は必然的ではないが,一定 の条件があ九ば,あやまった思惟も一時的,局部 的には客観存在へと転化するのである。運動の前 進における一時的,個別的,後退現象がこれで、あ る。このような前提の下に『あやまった豆、経』と

『存在」との同一性を認めることは,機械的法則 授〈決定論)を否認し.弁証法的唯物論の法員JI観を

参照

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