巻 13
号 12
ページ 62‑80
発行年 1972‑12
出版者 アジア経済研究所
URL http://doi.org/10.20561/00052538
はじめに
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作を考証学的に検討するものではない。なおかっ これを「毛沢東思想、考」と題したのは,文化大革 命の主流となった人々が白からの思想を「毛沢東 思 想jと名付
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たからであり、また事実『毛沢東 思想、は中国革命の半世紀にわたる歴史のなかで1
度として個人の思想、ではなかったからである。行 論を追ってやポて明らかになるように,{阪と全体 の弁証法的統ーこそ,この思想、の基本で、あり そ れ故,この接近方法は唯一の毛沢東思想、理解のた めの方法であるとさえいいうるのである。次に, 二三てアは毛沢東思想、のうち,
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,こ認識論 が論じられる。もっとも本来の意味で(') ,'ルクス 主義的弁説法にあっては,論理学,認識論,存在 論の聞のいわゆる三位一体的統一性が特徴的であ り,この立味?は,毛沢東思想、の認識i
訟も、他二 者と相互に不可分の関係にあり,小稿でもかなり の範囲にわたって議論が重溜化することは避けが たい。ただここでは紙数と楽音の能力の関係がら,主に認\;
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品(ハ次元で,近代官学の地平{正、文化大 革命が毛沢東思想、として切拓いた地平とを対質さ せることによる問題提起に力点を置かざるをえなかった。
さらにここでは,新品淳良氏,中西J)J
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を始め とする諸家の「毛沢東思想、研究」を詳細に検討す る余裕を持たない。いずれにせよ小稿の議論は,従来の諸研究;こ対する批判;二自らなっごし、るであ ろうと店、う。
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近 代 哲 学 の 地 平 ー一一模写説=反映論,存在決定論すでに多くの識者が指摘してきたように,文化 大革命への最初の序曲となったのは,
1953
年に始 まって、1 9 : 5 5
年にほぼ結着した,農業協同化政策 を巡る対立であった。問題の中心は,
1949
年の解放以来の中国の過渡 期経済にあって,国民経済の中に存在する五つの ウクラッド,つまり,国営経済,合作社経済,国 家資本主義経済,私的資本主義経済,農民・手工 識者の小商品個体経済の諸関係をどうみるかにあ った。文革後室1]少脊路線として確認された楊献珍 が主張した「総合経済基礎論J は,この五つのヴ クラッドを有機的連関を持った全体とみなし.互 いに結合させ,平行させて発展させうるし,また 発展させねばならないと考え,とりあえず,生躍 力水準の引上げを第 1'こし,生産関係を凍結する ことを提唱するものであった氾1。)周知のように,毛沢東の「農業協同化の問題に ついて」はこれに対する厳しい批判によって摂が れて、、た恨む。
毛沢東の主張を要約的にいうなら,生産力第
1
主義がいわば生産力と生産関係とを観念的に切離していることに批判を向け,生産力の向上のため には生産関係の凍結ではなく,その変革によって,
つまり徹底した農業協同化によってこそ,現実的 解決を見出しうるとするものであった。
この毛沢東論文の路線の
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ぽ1958年か九 始められた大躍進攻策の展開は,いわば,この生 産力第1
主義の一時的後退を示していた。ところで揚献珍を代表的イヂオローグとする,
この生産力第
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主義は,哲学的にみるなら, }様 写説=反映論J
,「存在決定論」として位置づけら れる性格を有していた。たとえば,
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年揚漏え珍は,のちに思惟・布在l n l
一性論争と呼ばれることとなった哲学的問題を 提起していて,その中で次のように主張する。「中央の指示によれば,思想工作中における党 の最も根本的任務は,党の幹部に思想、と客観存在 の関係,思想・意識沿客観存在の反映である三と,
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社会の現実生品ーの発展法問に!,!;,弘、て党内工作を 進 め る 必 要lつある二とをま里解させることにあるOi
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;土, ど の よ う な も の か を 明 確 に し て お く こ と が 使 平リである,
告ら哉の教えるところで1土, 近 代 的 位 界 観 は 個 人 が 中lit社会の伝統的なギ!\ つ ま り 共 同 体 社 会 や 白
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ミどの原初的(血縁的,地縁的等)一体性か「〉「白u u
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比立したといわれる。 この結果,それは認ぷ論の上で弔外的(会:観的)な束縛からの
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こことの当 女!'.の 帰 結 と し て , 近 代 認l議 論 は 次 の よ う な 特 徴 をr . r
つ こ と と な るUl:6。〕(1)主観は人称的な意成,個人の;意殺としてtJi':え 仁,れる 芯;説・主観の!各自性jの 命 題 。 そ の 際 この主観は本源的に[[ロ
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型 的jであるとされる。(2)主回は「立識作用
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であり、 こ れ に 直 接 に 与 え f,れるのは,知覚心(弘観,念,表象等々の[;芭:!設 内 容j であり,「吉:体肉体jは 与 えC>れ な いc ま た「
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に分けるi;"えもある)とからなり,与えられたi若手抜 内 容jに郎分的な加工・変係を行ないうる=立"抜 作 用 一 立 高 内 容 実体自体の:Pt'.ifヒ図式の命題。
(3)主仰が
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等 々 が こ う し た 認 識 論 の 出 発 点 に あ る こ と は も は やJ白日部u c . r J : i
す一ることである。明白なように 近 代 認 識 論 に お L、ては,意識内容と容体肉体とのr 1 : 1
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析がある。 レ一二ン流の模写説は, こび〉;巳:ん詰内容と客体肉体どの関係を次の三/)の形で連結 しようとする。つまり,
(1)意識内容は,客体肉体(客観内実在つによって 規定されており 客体自体の模像(反映)である。
(2)真理とは,」意識内森と客体自体との合致にあ り,対象を正しく「模写jしている意識内容が賞 なる認識である。
(3)意識内容と存体自体との合致は実践において 笑現された仮説(予料)が客観的事実を表わす意識 内容として前提されることによって保証される。
とはいえ客観的実在に内在すると考えられてい る客観法川は,依然「人閣の意識から離れて独立 に存在し,人聞の意志によっては変化しない
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も のと観ぜられ,人間のなしうることは,せいぜい「客観事物に科辛的分析と総合的研究を加え」、そ れによって,客観的実在に内在する客観法則を[発 見し,利用しろる」のみである。つまり主観は客 観に従属させられるのであり,客観を作り出すこ
とはできない。
こうして模写説=反映論が存在決定論となるの は,ついにそれが認識主体(主観)と対象(客 観,客体自体〉との分裂を克服しえないところに ある。支践が理論より高いこと,つまり「真理j への距離において,理論より実践の方が近いこと をもって,こうしたロシア・マルクス主義の認識 輸をプラグマチアムの認識論から救おうとする試 みがあるが,問題はむしろそのようなぶにはなく,
釘まその「真理」自体力士客観
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封切として主観から 切り離されることによって依然主客分裂の近代哲 学の地平を越えていないことtこあったのである。マルクス主義の「実践」が社会的実践であるこ とについても,主観が客観としての弛者と分裂し ているところでは,依然としてその意識主観は個 人の意哉としての「各自性jを崩すことボできな
い。後論で明らかにされるように,問主体的共同 主観が,主客の分裂を越えて意識にもたらされな い限り,社会的実践もないことは明白である
中閣の第
1
次5
カ年計画は,俗に中国型新経済 計画(ネップ〉と呼ばれるように,真にこのロシ ア・マルクス主義の中I J J
における具体的実践であ っf
こ。次章ではこれら模写説=反映論者,存在決定論 者が,毛沢東思想、との対決において,どのように 毛沢東思想を歪曲したが,また文化大革命のイデ オローグとして従来考えられてきていた林彪の思 想、の立脚点が,まさにこの歪曲された毛沢東思想、
の場所に位置し,それ故それはそれなりに存在決 定論者と対立するものであったことを論証する。
あわせて,この歪曲された毛沢東思想は,認識論 のレベルにおいて,依然近代哲学並びに存在決定 論と次元を共にするととも論証されるであろう。
(il:1) 肢は1953年以からこの議論を民間してし、た といわれるが,具体的に楊自ら饗したものとしては,
1955:r 6月の「中華人民共和国の過渡j切における系礎 と上部建築の問題について」の存在を知ることがセき る。その内存については『人民U報』 1964年11月lB
「楊献珍的 綜合経済基礎論 」および,長,:{!専啓「み人楊 献珍同志的 綜合経済基礎論 箸他的 f;二而ー 哲 学
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(『科学研究』 1964{f第六郎)に結介と批判があれ これらを通じて間接的に知ることができる。毛沢東の「農業協同イヒの問題についてjがこの1カ月後の55年 7 Jlに発表されているニとは注目に値ずる。
(it 2) 「民業協河{七の問題についてj 〈『毛沢史著 作選』外文出版社北京 1967年) 551‑593ベ}ジ。
(注3〕 楊献珍「思維対存在的関係,送↑哲学上最 根本的問題也た我{潤A 切実際工作中最校本的
1 : : 1
庖J
(『哲学研究』 1955年第二期〉。
(it 4) (レーニン全JJ'.jj 治16巻〈大
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書 店 1966 年) 365ベージ。ぐ注5) それ故実いレーニンにおいともプレハーノ アの[阪史に幻げる似人の役部jや,ブハーリシの「史 的唯物論の理論」を担とする「ロγ 7・マルクス主義」
の科学主義酌決定論じ軌をイこする郎分を広範にも
Ⅱ 「同一哲学」の地平−マッハ,シェリング,林彪−
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性 が,つまり毛主席が
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矛后論』の中で、述べた 矛 店の同一性 であるというなら,居、惟と存在は−.ー一定の条件下iこ,互いに他の存在の条件となり,
一つの統一つ下の中に共存するということになる。
それでは思惟と存在;まどのような統一体の中に共
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こって,主観の伎
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たがってンヱリ ンゲにあっては,絶対者=客観的実在;土 知的I t " L
観に工ぺて一挙に主観の認識にもた九されることとたる。 し力、しながら この絶対者=存続的実在 土すでに完成された完全無欠のホのでありラ主観 の変化は,絶対者(こ何九の変化もも允ら
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えない。ただとこで胃意しなくてはなちないのは, この絶 対
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=客観的実在が近代認議論の'.P J i
化図式にい う客体自体と意味を異に「るということであるαつまりそれはマッハの要素=感覚と同じとうに,
~:設作用=主間にも客体自体=客観にも依展開係 を持
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,それらを規律十るところの超越者である。との超越者の下で,意識作用と客体向体
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士有限な ものとして全くの同格であると芳えられる。つ玄:
J主客は一致
L,
L、ずれにせ上、
忠、惟と存在は同ぬとなる rn:引っ こうした「同−
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学jの地平に あってl
土、個々の主観が超越??を認識しうるかど うかは問題とな/〉ても元来個々の主認が個々の客 観を捕捉しうるかどうかは余り問題ではないっ し かしながら司超越者が知的直観に上,,て少なくとも主視の認
i
誌にもたらされうること,および主客 の− ,致,思げと存在の同ーの保証の下では, {[Iii々 の主観は,個々の客観の中;二依属的に関係をもっ 超越者をみることによって,個々の客観をも捕捉Lうることになるのであるc
近代認識論と較べた場合.マ、ァハにせよ,シヲリ
ンケにせよ, 以上のように, 主規の客体自体およ び客観法只I]に対する認識能力を全面的にか,部分 的にか宵認するど三ろに特徴があったとし、えるつ
ところで,存夜決定論派が?
?主政策を推進するグループを,
人民公社化・大躍 マッハ主義, 「同 一析学!の名の下に批判したのは, このゲ/レーブ。
の内部に部分的に?{した主観主義的傾向に対して であ,Bたc
政策的にみるならば,確かに人民公社化や大躍 進政策は,個々の誤ちを犯すことを恐れていては なしえない一大事業であった。 したがってこの政 策を支持し推進する幹部大衆の中にマ、ゾノ、主義的
「同一哲学j的傾向の現われたことは,
でやむを得ないごとであった。
ある意味
林;彪もそうしたうちの
1
人であったとし、える。いわばそれば「同ー哲学jとして存在決定論派に
「夜曲された毛沢東思想jを代弁するものであ/》
た。つまり存在決定論派の批判は,少なくとも,
林彪についていえば的を得ていたといえるのであ る。
林!~ii は 1959年 9 月,大躍進の真際中, 「全軍高 級幹部会議における講話jで次の上うに述べてい
プo)っ
「マルクス・レーニン主義は普遍的法則を指し 示したが,
っておりー
普遍的法貝I]は特殊な法則にかかわり合 普遍的法貝ljは特殊な法則を導くことが できる。 どの上うな個別も皆普遍を含んでおり,
普遍を把握してこそ始めて個別を認識でき,個別 を導くことができる。勿論, ただ単に普遍を把握 するだけで,個別に結びつけないならば, それは マルクス・レ一二ン主義ではない。マルクス・レ ーニン主義は普遍と個別を結びつけなければなら ず,我々は必ずマルクス・レ一二ン主義の普遍的 立理で,個別を導き,実践を指導しなければなら
このような同一哲学の地平の延 L、ずれにせよ,
その前にあって 亡の個別(主観〉が同格化(平等化〉される/よけ でなく,毛沢東思想のためにすべての個別は従属 させられるのである。
丘 i
二i
こ現われる・1:;沢東思想、とは,ない」世間。
ここでの普遍を絶対者に,特殊・ j[,¥]~jlj を有限者
l
と置き換えるなら,それは,マルクス・レーニン主 義を神とする汎神論的問一哲学と同次元にあるこ とが阿らIいとなる。もれろんl、ここでι
首二道の存在「学生のみなさん,紅衛兵戦士の みなさん,あなたがたは永遠に党に忠実で あわ 人民に忠実であ
D
,毛主席に』忠実であり,林彪はいう,
j
本,},孟はさた・すし
・在
立・存
狐 み は の 毅 に 主 中 ス の ク 対 ル 相 マ は
﹁ 絶 対
根拠I土個別をこ求められるc
1 9 6 8
年3
月守 ている。らにこう
毛沢東 絶対性を認めない。
ることができ,絶対は必ず相対と結台するものな 思想に志実でなけ;/1,ばなりません。……わたした ちが真剣に毛主席の著作を読み,毛主席の話を聞 き,毛主席の指示どおりに事をはこびさえすれば,
プロレタリア文化大革命はかならず偉大な勝利を かちとることができるのです
J
rn二12¥のでふるっわれわれの認識過程は,絶対と禍対と の矛盾の過程である。このような矛盾の解決はわ れわれの智識を一歩前進させ,絶対的真理に一歩 近づかせらのである。絶対的なものは?十ill立して
は存在しえない。いかなる抽象的な概括
L
具体 もはやわえL
なちは, シェリング, マッハ,林 ある程度確認するこi
模写説 彪と続く同一哲学の地平を,とができる。
二とれでは一体二の同一哲学の地平と,
的なものから離れては単独に存在しえず,一般は ることができず,無限(土
f f l ¥ R
がら離「存在決定論」の近代哲学的地平との 関係はどうなのか?
実はこの二つぷ}地平は, 表面的
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こ異なるかに見ぇ − c
,同じ地平じ立つものであった。このニつは,主観によっては変化させ 第
l
に,れることこLできず, 《般
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:は個別性か心高V
もるこ とができないのと同じように,絶対的なものはそ れ自体として独立して存在することはできない。われれれは絶対を認めるものだが,総けは伺対の 中でJJみ存在しうるので、ある。わ;/1,).)れのいつい かなる時の認識もみな相対的なものなのであり,
これが主要た側面である」〔注lllC傍点引用者〉。
個別か九
に=反映論」
えないものとしての超越者を想定する。
つまリ存 {
H
)たt
翁における超越者は,全亡丸山容i
本自体に内在t
~c'., f客観法;t i l J
であり, 同令官学それは文字通り神であったり,要素 千盾がみ
られる。林彪のように,個別を普遍から導出し,普 遍の存在根拠を個別におく議論にあっては,個別
ここで;J
f
本彪の議論には!VJ
らかなI
三沢東思想、の普遍的法員jlであ にあっては,であったり,
(主在Q:、川
c .
識過干呈は、個別と普遍(!Iiえれ絶対)どの矛j庁、)'過
f
;'としては現わ九えないは寸三である。 ‑.j ;;:, 0 違いはこ 超越者を容体白{本〈客観〉に♂〉あるいは思惟(意識作用=主観〉にもみ どちらにあっても主観は るかにあるにすぎなし、。
みみるか,
というのは,個別と普週は,いわば「同一寸であ るばかりでなく,個別はその内に普過を宿すこと
によ}て弁 i~j に従属セ九 ,il三いるか,,ご−
F
、る。つ 日主主者に対して無力である。ともに主観川
I
J ;
J~li二行二つの地平;土,
存 21こ,
\ 「こ士J'‑・:, まり個別ヒ
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遍の聞に「け;t::Jはなく弓人称性を崩すことができない。つまりとも に,超越者の前の主観の同格を想定することによ
井忠
こうして,林彪がここで諾つ とは空語にすぎなくなるのであるむ て「矛盾
J
もない。た「矛盾
J
Ⅲ 文化大革命の地平
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っ て , 主 観 は ア ト ム 的 な{mi々 の 主 観 で ふ り 、 い わ ば , 直 接 的 に 問 主 体 性 出 共 同 主 観 を 持 つ こ と が で きない。
こ の よ う に こ の 二 つ の 地 平 は , と もi~ と超 越 者 どI)「品J".:'二とれぞれ九日かで裁断するために,
依 然 近 代 哲 学 の 地 平 を 乗 り 越 え え な い の で あ る 。
C i t
1) r可 ;ヌ珍は' 55年rFf l ;,,;,文発炎上け;:i,58年10n
「2笹川,y ; > 1
こよる ドj'I''寸の概論|三党IL,
思刊:!・/{ :':: i'ifの二元論亡しTl
ていた。二、' I,~,J 文の 内科については,間;;,)) 「車場献珍岡正反対忠i ' . i
1)ι
存 在 的同一性的災質JLil・t‑」c m
学研究』 1964年第6JtJJ) から l/lJj1てtI JことがでJこ。(注2) : [ I誠「 思料引:1U11守同一位 111 •:1;; 主義 的原f1!11!.!,Jぐん明日報』 1959iJ;:10月11日〉。
(注3)
J ' ・ [ t
ト誠「試論n作物主幾「110);[_兄I(,冶?)I!↑I(心;主義 的 .11..1.*m:和子(冶:(110同一性 的根本対立, l'Ji止灯学上「↓f,j 条張本f¥;,̲;・̲((1, ,lや」 (『1,::JI:J 〜 1960司3'.] 4 I:, 5口〉。(注4) :l杉猷J会「i・I弘
J
止l位物主主主」 76ヘージ,j3よ じ122ページ。周;Fゴ1 }}打開論文 12ベージより。〔t主5) 十it−献珍「略諭すijji+'','J:r−.'''的[ ti].i宇! !巧長 プJ jjfj['''"'' ' . 17ページi / O
G上6) − ニ ン 「 唯
1
山市 ','(c験 批 判 試 I' ' ' 1 : ‑ : , ; ; ・
主主「径験批判;1 詰の認識:治と弁証法的 ni(; 物品の ai.,m,~,1tr -」
(「レーニン:
UtJ
i:JH4Z主 大月;i;‑1万 1968{ド。および マッハ治、 長之助, I̲:f:>i‑cf{『!・ 1 / i I,
Ji i / : C
法 政大学ii,l↓」:,, 沼有146年, ・)・ ,:,11'・'. しては、lよi/,' :I Jレタス主主:,
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』'".,;i ,
うためにI̲ , 円「三『, i . 2 ) i , r ; , c , ;
仁学.JI の諸広場とわれわれの出発点」〔「マノレタスゴ誌の地 斗アJ'i}i:i'正也M 1970年 288‑302べー〉/〕。(注7j , I',,,長 rfolf1,i;i
< ,
C i
主8) J し•,'J· 「討論“' Ii:'r 11,if'f定了恕:,, •,,, 〆ii:的 同一位 」(『;1ヂ研究』 1962年 第5JtiJ) 16へージ。(it 9) シェソング??,勝凶守・沢『学川前』(1':波 書店 fill和46
: 4
::),朴に「泊(l8 g,,キリスl絞り麿史的 構成に' , . I「第11講IIλ下 般 に つ い 一(注10ノ1 ,1 ![人民解放,r.
, : r ' ‑ : " ' r n
,編「料、:|:υ i ' ‑ : 1
於政治,f/!.;1:L¥工作トイ命摘録」〈北京人民山以:;,J‑.1964年〉。 訳;ifU:,中国研
J c
所のE沢で『中間研J ' c
刀特」 1969年11 月I.} 2ベージο(itll) ‑.j;.Iれ論文選
CF
l」〔t l
国研究J1氏1 1969 年12刀){ ,, 'i T河究所〉 :ロベ−/oCiド12) 「材色治文選(下)J4へ』〆。
E 文化大革命の地平
で は 同 一 性 論 派 = 文 革 派 が
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仏 、 た 地 平 と ほ ど の よ う な も の で あ ゥ た の か ?先 に も 少 し 触 れ た よ う に , 同 一 性 論 派 は ヘ ー ゲ ルの:本命的側面に依挺して,思仇.存在同一
i ' t 1 1 i
を泌!Jijしたので乙:,〉〆'/,こ。
文 思 奇 は た と え ば 次 の よ う に い う 。 「へーグノレ の 哲 学 に は こ つ の 側 聞 が あ る 。 一 つ の 側 面 ; 土 唯 心 i,命であり位1) 他 内 側 面 は 弁 証 法 で あ る 。 … … へ ー ゲ!l‑,古学の中の,
1 t ; ,
1!・存在同一性の思想、にも,一 つ の 側 面 が あ れ 哲 学 の 根 本 問 題 ( 注2〕の第一側面 についていえば,へーゲノレは煙、松を第一義的なも のとふなし, F2/flと存在の同一性を, 『存在L!日思 惟 』 の 意 味 に 解 釈 し た , 哲 学 根 本 問 題 の 第 二 側 面 に つu
、 て い え ば , ヘ ー グ ル と , そ の 他 の 絶 対 多 数 のi ' r q
:者(す人てのi l f / c
物論者と微!ょした唯心論者主: : ・ :
む);ょ 思惟が現実世界を認ぷしう心かどうか の 問 題 に 肯 定 的 な 答 え を し て お り , ま た カ ン ト の 不 可 知 論 を 批 判 す る 際 ( へ ー ゲ ル は ー 引 用 者 注 ) 思
w とよ
f:在の関綜にJル、て,ある程度弁証法的;,((明 をしているのぐあゐ。…一・(エシゲノレスはー引用者 注 ) へ ー ゲ ノ レ が こ の 問 題 の 側 聞 に 答 え る 際 の 合 理 的 な 弁 証 法 の 要 素 を 肯 定 し て い る の で あ る が , 問 Hfy1こ.'ーゲノYレ山このi i
司題におけるi:住,亡、論的論ぷを 批 判 し た 」 位3, 日 世 誠 同 志 は , ヘ ー ゲ ノ レ 哲 学 に 対 し 一 面 的 な 理 解 し か し て お ら ず , へ ー ゲ ノ レ の 思• f r
:在同−t t
にJ川、ての思、訟を形r n i
上 学 的 神 秘(J ' ‑ J i l f i
心論とし、いよ五し,そのq 1
に−−;−;;−_t
れ て い る 弁 証法的意味を否認した」〈注4。〕 「へーゲルの見方 は , 人 間 の 主 観 的 思 惟 , 概 念 , 観 念l
土 , そ れ ら の 対 象 司 客 観 存 在 のs
乙体 的 事 物 , こ の 様 介 的 段 階 を 通 仁 て の み , じ じ め て 後 者 のI
奥深い所』i
こ「秘る貢献である」(注5。)
『精神現象学』が明確に示したように,へーゲ、jレ にあっては,思惟(意識)は自然および歴史のな かで,否定性(自己否定〕を通じて発展〔全体化)
し,絶対的理念(精神〕へと還帰するが,この過 程を通じて主観と客観は統一され,思惟と存在は 一致するものとなる。逆に「この過程の終点であ る絶対的理念は再び自己を『外化して』自然や歴 史となる」悦いのである。
このように,思惟と存在の同一性は,へーゲノレ にあっては,マッハやシェリングが時間的・空間 的変化を捨象したのと対照的に,歴史的(時間的・
空間的)変化にともなって実現されるものである。
要言すれば,絶対的理念(絶対者)は主観(有限 者〉の変化を通じて自己を実現していく。それは
「同一哲学」のように自己同一的不変不易なもの ではなL、。ここにおし、て主観は「主体」となる。
へーゲノレの言葉でいえば「主体」とは,存在者が
「その他在にありながら自己自身であり」(Bei‑sich‑ selbst‑sein im An由rssein),否定性を「媒介」し,
「止揚jするものである。「主体」に対するこうし た存在論的了解こそ,後論で述べる「間主体性=
共同主観」の成立条件である。
ゲ、ルの有名な命題も, 「現実性は展開されると必 然性であることがわかる」岨9)という弁証法的理 解によって, 「さきに現実的であったものが,す ベて発展の経過のなかで非現実的になり,その必 然性,その存在権,その合理性をうしなっていく」
m10〕ことを論証する命題に変わるのであった。
もっとも,へーゲルの体系にあっては「存在」
は「思惟」に包みこまれる限りでの「存在」であ り,つまり「思惟の上の存在」であるにとどまる。
この点について文思奇はこう述べる。 「へーゲ、
ノレは明確に指摘した;思惟の中の『存在』という 抽象的範晴は,具体的事物をなす存在とは決して 同じでなく,われわれが通常思惟の対立物とみな す客観的存在と同じではない。…一範障としての 存在はもとより『純然たる抽象的概念』であるが,
この概念はたんなる思惟活動の産物であるのでは 決しでなく,すべての具体的事物のある種の共同 の本質の概括である0 .…ーすべての具体的事物は,
みなその客観存在,この共同の本質を有しており,
いかなる範時,概念もすべて,ある客観存在の具 体的事物の共同の本質の反映である。・田・・・・それ故,
へーゲ、ルは客観存在の具体的事物と思惟・概念、を 直接同ーのものとはみなさないものの,人間の思 惟・概念・観念と,すべての客観事物の本質(ある
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等〉を持つとされるが,両者の関係には否定性をど 媒介とする弁証法的過程がみられず,感性的存庄 が直接的に白定されJることで,同一的関係にJIB:し てしまう治15。)
しは了世界自(j,Jとnfばれる〉を完走:;こ
I . I l
ーのもの そこから人間の思惟が客:/ m ' l ' i '
物の本質を 認識するとは,日D t
,店、・:J t
が思惟白身を認識するこ とであるとか、あるいは絶対観念の向己宣議とII子 とみて,‑:r ,しノクス・ヱンゲノレスが批判したご こうして,
という結論を出すのである。− ーへーゲ ばれる,
「かつて神の述語 ブォイエノレバッハでは,
あの『総念』 とく ノレの観念円弁証法的運動の中から?
であった『全能3「愛J『tit界のおlj造者,]等々が,
「絶対観念jを客観世界の本質とL、L、なす思想を
今や「人間』の述語とされる。
: : f f
体の諸個人は,依然人「
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の本質とやらに拝;泌させられるj(::l:16、の あの事物の了奥深い所;二夜、む」思1 ; 1
:と拾て去り,
である。
この上うに見てくると,同一性論派の主張する や「一)を、盗み換えて突事見事物の物質実在に民せは,
多く lり唯 lt1 論の日;g~r;t~訟にとってきわめて有用でよ主 主なものを探し当てることができる
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云々i注] ]) 0周知のように7十イエノレパヴ/、もかつて凡じよ ょう;!、仁 ヘーゲル
V r
学の弁証法の革命的側面i
の 堅 唯心論的側面の唯物論への転換とのこの二 つの課題の同時的解決はL、うほどに符易ではないことが判明する。
[μJ一性諭派の中でこの点に
i
急速く気付いたのは 王t ; :
1j,えであった世17)っ彼はまず?唯物論士、f唯心論,つまり存在が「忠 持と,
' 1 f t
の上でのj{{−在であることに反対して次のよう うにへーゲJしの唯心論的側面i ,
斗ふ ふ み 一
、}豆半I,jこら
「ここでは元・,
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はまっf
こく月f , C ,
、なことではなν
。 感性的,!r̲個別的存在の実在性は,われわれの血で庄弁
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正法対形而上学というこの二つの対概念色 位以された点現であるj< U:12。) 「 •Ni 学ゾ);本質;土,人間のそと;ニ
J ̲ ;
7われた人聞の超越がjなイ三百であ 1出泣的/:仁忠労ヤに次元を異にするものとして分けてすすえる。つ 同 一 性 を「矛盾の同一性jとして時間的・空間的変化を 含ませて考えるのが弁証法であi人形而!二 芋にあ と3れるとL、う。 りては, iバJ~·tt1土直践的「同一!
るコ \ーゲ!νしり論理学の本質は,
人
l i l ] r !
〕二ごとにおかれた人間の思汚であるj川i:;。〕「抽象寸るとは,
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; の本百を自然のそとへ,人! 間ゴ7つt , : ' F f
主人間!のそと/ ',思考 rJ);,j;:肢 を 忠/ 5 1 f
況 のそとJ、お:ことである。へーゲルt ' i
学;土,三り忠
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百J ‑
−性に限定していえば,ヅ:ilV.f物 識 対 唯 心 諭
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こ')\;、 ζ;主,唯心論が「存在」Jとの
概念を(足、・:(むの上にのみ限定し,結果としてf
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本系三三(主ふ二ell抽全作用にもと,_;,,、ご人問を人間
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身古通「)疎外し7
二」:じi.j コi ' . U
における同一性しか論じえないのに対し,唯 従 っ て 現 実r}) i
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司 、 性jを 論 ず る と い う 。 か く し て 王 若 水 は,ヘーケ、ノレを弁証法的唯心論として,存在決定論 派を形而上学的唯物論としてそれぞれ規定「る。「存在jうと現尖の
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長在と'...,, , ,
4仔,,治ぜよラ つまり 7 t 1 工ルノ王ノハ lこんって;ム:'i..~i'L ゴ)対象 で あ る 現 実 的
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岡山的存在こそ,店、'1i主(ι
』/), 1:弘 主.;て弘之'i/JJ' I
(市Ji 二,.~、↑;;Jλ んは 2ーは二しご主在する人!日!の「ff{的本 とさ,:L,
F
小l与(こ},t ;
}.j 1'11t r l
1二十中はI l一世Jli~I斗志;ょ弁説法的 li:IJ 一性を 日任:J防論rt:Jli司ーイ生 であるとし火、なす そ れJによって形而!:学的唯物
J i l t r
青が存在することを二の立味で玉音水J土フォ
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バッハ的要素を形而上学的唯物論としたのであっ 任。こうした規定がき?を得たものであるかどうか は別としても,とりあえず問題がよとにあること は明白であったの
ではマlレケス,エ乙ゲノレスはこれをどう解決し ようと
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こか?こ亡ング1レスはいう。 「僕らは,持還を個別から 導出しなければならないのであゥて,それ自身か
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ヘーゲノレは個別の変化を通じて普遍が自己を実 現すると述べたc しかしその細川土依然思慌の上 の個別であって,現実の個別ではなかった。ブオ
「エルパッハはそれを現実の個別としなければな らなhと述べ
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しかしそれととも同現実の飼 別は動かない個別となった。ために,普遍は個別 から導出されなくなったっいまや伺刈は現実的で あるとともに動くものとならなくてはならない。マルクスは1、う。 「フォイエノシノZァハは,抽象 的思考にあきたらず,感性的『直観』にう。たえ るつしかし,感性を『実践的』な人間的=感性的
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古前J』でき)るとはとらえないJ
(竹,,) C活必は引用 者〉。日一性論;11ミもこの現実的個別を酌く掴'ijljとしよ うとする。ふれこそ主観能動性論争の目的であっ た,,
19::ig,年5月日日, 11日の両日,北京の中共中央 高級党学校で「主観能動性と客観法則性の問題に つL、ての討論会jがr
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催された頃がこの論争の頂d誌であったO
論争は, i王if次の2哲夫の意見によって代表され たコお
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のな見;主観能動性と;主人聞が物から区 別される根拠となる特徴であり,主観の客観に対‑ J
己反作用であり,人間の意識的−呂的的活動を遊現する。しかしそれは,主観の客観的必然性に 対する認識に基づく自由を有するとは限らず,し たがってその意識的・目的的活動は正しくも誤ち にもなりうる。つまりそれは必ずしも主観の客観 法則iこ対する正しい認識に基づくものではない。
とはいえ主観能動性による人間の活動が効果的に 予期した目的を果たすには唱客観法員JIに適合的で なければならない。文思奇等同一性論派がこの意 見を主張した。第2の意見;人間の特徴は理性的
;,l..1‑.惟をもって事物の本賞を理解し,客観法員!
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を認 識しうるところにある。それ故,主観能動性とは,主観の意識的・罰的的活動を指すだ、けでなく,客 観法則に対する正確な認識に基づくものであり,
客観的実際に適合した指導から離れ,客観法則に 背く主税能動性とは,事実上ないに等いぜ、,孫定 問等存症決定論派がこの意見を主張した〈注21。)
同様の議論は思惟・存在同一性論争の延長上で も行なわれる。議論の始まったのは,大躍進政策 の失敗がほぼ明確になってきた1960年の後半で,
存在決定論者が「あやまった思准・主観jは「存 在・客観」との聞に同一性を持たないとして,同 一性論派を論難する形で始まった。これf,二対して 同一性論派は要約次のように応じる。あやまった 忠椎が,し、かなる条{午においてもあれやとれやの 拝観存在へと転化しほいというなら,われわれが あやまった思想と闘争しなければならないという 長践的意義はなし、であろう。つまりあやまった思 惟の客観存在への転化は必然的ではないが,一定 の条件があ九ば,あやまった思惟も一時的,局部 的には客観存在へと転化するのである。運動の前 進における一時的,個別的,後退現象がこれで、あ る。このような前提の下に『あやまった豆、経』と
『存在」との同一性を認めることは,機械的法則 授〈決定論)を否認し.弁証法的唯物論の法員JI観を