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第2意見書
平成
27 年 10 月 21 日
沖縄県
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目次
はじめに ... 7 第1章 埋立必要理由には実証的根拠のないこと ... 7 第1 本章において示すこと ... 7 1 埋立必要理由書の内容 ... 7 2 埋立必要理由はマジック・ワードのくり返しに過ぎないこと .... 8 3 本章の構成 ... 8 第2 沖縄県に米軍基地・海兵隊基地が集中するに至った経緯が示すこ と ... 9 1 はじめに ... 9 2 日本本土と沖縄の米軍基地面積の推移 ... 11 3 1950 年代の日本本土から沖縄への基地しわ寄せ ... 13 4 沖縄返還(復帰)後の基地集中・固定化の完成 ... 18 5 米国内における在沖海兵隊基地縮小の動き ... 24 6 駐留経費の負担 ... 26 7 1995 年(平成 7 年)以降の日米両政府の対応 ... 27 8 小括 ... 29 第3 県内移設でなければ機動性・即応性及び一体性を維持できないと することに実証的根拠のないことなど ... 29 1 はじめに ... 29 2 機動性・即応性 ... 31 3 一体性 ... 33 4 海兵隊のその他の任務等 ... 36 5 まとめ ... 36 第4 米軍の騒音防止協定等の不順守と国の放置 ... 37 1 はじめに ... 373 2 平成8年騒音防止協定の不順守・形骸化 ... 37 3 MV-22 オスプレイに関する平成 24 年合意の不順守・形骸化 ... 38 4 小括 ... 40 第2章 沖縄における基地負担の実態 ... 40 第1 本章において示すこと ... 40 第2 沖縄における過重な基地負担の経緯 ... 41 1 軍事占領下の米軍基地建設 ... 41 2 対日平和条約3条による日本独立回復と沖縄の切り捨て ... 42 3 日本独立後の沖縄における土地強奪・新基地建設 ... 43 4 軍事占領・米国施政権下における米軍による主な事件・事故 .. 44 5 沖縄返還(復帰) ... 48 6 沖縄返還(復帰)後の土地の強制使用 ... 49 7 小括 ... 51 第3 米軍基地の実態と被害 ... 51 1 米軍基地の概要 ... 51 2 米軍の演習・訓練及び事件・事故の状況 ... 55 3 米軍人等の公務外の事件・事故 ... 57 4 環境破壊 ... 58 第3章 沖縄県民の意思に反する本件埋立承認 ... 63 第1 住民投票に示された沖縄県民・名護市民の意思 ... 63 1 基地の整理縮小を求めていた県民世論 ... 63 2 普 天 間 飛 行 場 代 替 施 設 建 設 に 反 対 の 意 思 を 示 し た 名 護 市 民 投票 ... 64 第2 本件埋立承認前の県民世論 ... 65 1 政権交代の際の民主党党首の発言 ... 65 2 名護市長選挙 ... 65
4 3 沖縄県議会意見書 ... 65 4 4.25 県民大会 ... 66 5 平成 22 年沖縄県知事選挙 ... 67 6 9.9県民大会 ... 67 7 建白書 ... 68 8 世論調査 ... 69 第3 前知事の本件埋立承認に対する抗議 ... 69 1 本件埋立承認 ... 69 2 決議・意見書等 ... 69 第4 選挙で示された辺野古新基地建設を拒絶する県民の民意 ... 72 1 県知事選挙 ... 72 2 名護市長選 ... 73 3 衆議院議員選挙 ... 73 第5 辺野古新基地建設断念を求める県民世論 ... 74 1 「島ぐるみ会議」の声明 ... 74 2 5.17 県民大会 ... 74 3 埋立・移設作業に反対し承認取消を支持する世論調査結果 ... 75 第6 まとめ ... 77 第4章 本件埋立対象地の有する価値と埋立てによる損失 ... 77 第1 本件埋立対象地の有する環境的価値 ... 77 1 自然環境 ... 77 2 生活環境等 ... 84 3 国又は地方公共団の計画等 ... 85 第2 本件埋立のもたらす環境破壊等の懸念 ... 89 1 自然環境への悪影響 ... 89 2 航空機騒音等による生活環境への悪影響 ... 95
5 第5章 公有水面埋立法の要件判断の誤り(本件埋立承認の瑕疵) ... 96 第1 本件埋立承認取消に至る経緯 ... 96 1 第三者委員会の設置 ... 96 2 第三者委員会の検証結果 ... 96 3 沖縄県知事の判断 ... 97 第 2 埋 立 の 用 途 に よ っ て 設 置 さ れ る 工 作 物 等 に よ る 環 境 影 響 に つ い て ... 98 1 いわゆる上物論について ... 98 2 公有水面埋立法及び環境影響評価法においても供用後の影響を事 業の内容や環境保全措置に反映させることが予定されていること .. 98 3 本件事業の性質 ... 101 4 小括 ... 102 第3 1号要件について ... 103 1 はじめに ... 103 2 埋立必要理由 ... 106 3 埋立ての遂行により失われる利益(生ずる不利益) ... 124 4 1号要件の利益衡量について ... 127 5 1号要件に係る考慮要素の選択や判断過程の合理性の欠如 .... 128 6 小括 ... 131 第4 2号要件について ... 132 1 「其ノ埋立ガ環境保全及災害防止ニ付十分配慮セラレタルモノナ ルコト」の意義 ... 132 2 本件埋立承認出願は知事意見に基づいて審査されるべきものであ ること ... 132 3 生態系について(環境保全図書6.19 生態系【4分冊中の4】) ... 133
6 4 海草について(環境保全図書6.15 海藻藻類【4分冊 中の3】) ... 135 5 ジュゴンについて(環境保全図書6.16 ジュゴン【4分冊中の 4】) ... 136 6 ウミガメについて(環境保全図書6.13 海域生物【4分冊中の 3】) ... 139 7 サンゴについて(環境保全図書6.14 サンゴ類【4分冊中の3】) ... 140 9 航空機騒音について(環境保全図書6.3騒音【4分冊中の2】) ... 146 11 承認に至る審査過程の問題点 ... 167 12 2号要件についての結論 ... 173 第6章 沖縄県知事による本件埋立承認取消は適法であること ... 173 第1 違法な行政行為の職権取消しは可能であること ... 173 1 違法な行政行為は是正されるべきこと ... 173 2 都道府県知事は埋立の免許(承認)権限により地方公共団体の公 益を保護すべき責務を負っていること ... 174 第 2 本 件 埋 立 承 認 を 放 置 す る こ と は 公 共 の 福 祉 の 要 請 に 照 ら し 著 し く不当であること ... 175 1 承認取消による不利益 ... 175 2 瑕疵ある本件埋立承認を放置することによる不利益 ... 176 3 公益侵害の程度が著しいものであること ... 176 4 まとめ ... 190 結語 ... 191
7 はじめに 沖縄防衛局は、平成 25 年3月 22 日、沖縄県に対し、沖縄県名護市辺 野古の辺野古崎地区及びこれに隣接する水域等を埋立対象地(以下、「本 件埋立対象地」という。)とする普天間 飛行場代替施設建設事業に係る 公有水面埋立承認出願(以下、「本件埋立承認出願」という。)を行った ところ、仲井眞弘多(当時)沖縄県知事は、平成 25 年 12 月 27 日,同 申請を承認した(以下、「本件埋立承認」という。)。 しかし、本件埋立承認は、公有水面法の承認に係る要件を充足しない にもかかわらず行われたものであって瑕疵が存するものであり、本件埋 立承認出願に係る埋立て(以下、「本件埋立」という。)が遂行されたな らば沖縄県の公益が著しく害されることになり、本件埋立承認を放置す ることは公共の福祉に著しく反することから、沖縄県知事は、平成 27 年 10 月 13 日に、行政行為の瑕疵を是正するため、本件埋立承認を職権 で取り消したものであり(以下、「本件 埋立承認取消」という。)、取消 しは適法になされたものである。 以下、詳述する。 第1章 埋立必要理由には実証的根拠のないこと 第1 本章において示すこと 1 埋立必要理由書の内容 埋立必要理由書(公有水面埋立承認申請書添付図書‐1)は、要す ると、普天間飛行場の地域住民から早期の返還が強く要望されており、 同飛行場の固定化を絶対避けるべきこと、普天間飛行場の国外及び県 外への移設が適切ではないこと、沖縄県内では辺野古以外の選択肢が ないことをもって、埋立の動機並びに必要性であるとしている。 そして、沖縄は地理的優位性を有すること、在日米軍全体のプレゼ
8 ンスや抑止力を低下させることはできないことが、国外及び県外への 移設が不適切であることの理由であるとする。 地理的優位性といった理由によって、沖縄県には海兵隊航空基地が 必ず必要であり、沖縄県外・国外への移設ができないというのであれ ば、未来永劫、沖縄県に、海兵隊航空基地が固定されなければならな いことになる。 2 埋立必要理由はマジック・ワードのくり返しに過ぎないこと しかし、上記の国の論理は、「地理的優位性」、「抑止力」といった抽 象的な単語を振りまわして、いたずらに沖縄県の基地を整理・縮小す ることに対する不安を煽り立てているものにすぎず、なんら実証的な 論理が示されていない。 いやしくも一国の安全保障という大切な事柄を考えるのであれば、 具体的事実に基づいて合理的・分析的に考察されるべきであり、抽象 的なマジック・ワードのみを振り回すことは、思考停止に過ぎず、政 治の堕落との誹りをまぬがれない。 そして、沖縄と日本本土の基地形成過程・海兵隊の駐留の過程を具 体的事実に基づいて検証するならば、沖縄への米軍基地集中・海兵隊 駐留は、日本本土と対比した場合の地理的必然性に基づくものではな く、日本本土の米軍基地負担を軽減することで日本本土の反米軍基地 感情を鎮静化させるという政治的事情によることを示している。 また、在沖海兵隊の機能を具体的に見ていくならば、普天間飛行場 の国外移設又は県外移設は、海兵隊の機能低下や在日米軍全体のプレ ゼンスや抑止力を低下させるものではないことが判明するものである。 3 本章の構成 以下、第2及び第3において、埋立必要理由には、実証的根拠がな いことを具体的に示すこととする。
9 また、第4において、米軍の航空機に係る運用について、騒音防止 協定等の日米間の合意が形骸化しているにも関わらず、日本国が米国、 米軍に対して毅然と対応をすることもなく漫然と放置しているために 住民の被害が深刻化していることを示すこととする。 日本国と米国、国と県の関係は、いずれも対等な協力関係である。 住民への被害を生じさせている米軍の基地運用について米国に是正 を強く求めることもできず、他方で沖縄県に対しては上から目線で新 基地建設を強行するようなことは、国の取るべき態度ではない。 対等な独立国家間の真の友好関係を築き、安全保障政策を安定的な ものとし、日本国民の安全を守るためには、わが国は米国に対して直 ちに普天間飛行場の運用を改善して現状の基地被害を軽減することを 毅然として求めるとともに、沖縄県内の基地被害のたらい回しではな く、国外移設・県外移設等によって普天間基地を速やかに閉鎖するこ とを米国に対して求め、沖縄への異常なまでの基地集中という歪みを 是正することこそが求められているものというべきである。 第2 沖縄県に米軍基地・海兵隊基地が集中するに至った経緯が示すこと 1 はじめに (1) 沖縄県の基地過密度は、異常というほかはない。 沖縄県が国土面積に占める割合は約 0.6 パーセントに過ぎないが、 この沖縄県に、在日米軍専用施設(以下、本章第2及び第2章第1 において、「米軍基地」という。)の約4分の3(約 74 パーセント) が集中している。 県土面積の側面で、米軍基地負担度をみると日本本土の 468 倍と なり1、「想像を絶する不平等」であるとの指摘もなされている2。ア 1 普天間飛行場代替施設建設事業に係る公有水面埋立承認手続に関する第 三者委員会「検証結果報告書」45 頁。
10 ジア太平洋地域では、日本、オーストラリア、韓国、タイ、フィリ ピンの5か国に、約 10 万人の米軍が駐留している。米軍が駐留す るアジア5か国の総面積(約 900 万平方キロメートル)の 0.025 パ ーセント(5000 分の1)にすぎない沖縄県に、アジア太平洋地域に 駐留する米軍の約4分の1が集中していることになる。 そして、沖縄県の米軍基地面積の約7割を占めるのは海兵隊基地 であり、普天間飛行場、国が辺野古に新設を強行しようとしている 基地は、海兵隊基地である。 (2) このように、沖縄県に米軍基地が集中していることは、1995 年 (平成7 年)の米兵少女暴行事件以降、日本本土でも広く認識され るようになった。 しかし、日本 国との 平和条約(以 下、「対日平和条約」とい う。) により日本が沖縄を分離して独立を回復した 1950 年初めには沖縄 の米軍基地面積は日本本土の米軍基地面積の 10 分の 1 に満たなか ったこと、「銃剣とブルドーザー」と呼ばれる米軍による強制的な土 地接収がなされたのは日本が独立を回復した後の 1950 年代のこと であること、海兵隊はもともと日本本土に駐留していたが 1950 年 代の「全ての地上戦闘部隊の日本からの撤退」によって日本ではな い沖縄に移駐したこと、米軍基地の約4分の3が沖縄県に集中する ようになったのは沖縄返還(復帰)後であることについては、日本 本土ではほとんど認識されていない。 2 阿波連正一「公有水面埋立法と土地所有権―都道府県知事の埋立て承認 の法的性質」131 頁、ガバン・マコーミック・乗松聡子「沖縄の〈怒〉」7 頁。
11 2 日本本土と沖縄の米軍基地面積の推移 (1) 日本本土と沖縄の米軍基地(専用施設)面積の推移は、以下のとお りである3。 日 本(沖 縄を除 く) 沖 縄 1945(S20)年 4 万 5000 ㌈ (約 182 ㎢) 1951(S26)年 124 ㎢ 1952(S27)年 1352.636 ㎢ 1954(S29)年 162 ㎢ 1955(S30)年 1296.360 ㎢ 1957(S32)年 1005.39 ㎢ 1958(S33)年 660.528 ㎢ 1958(S33)年 176 ㎢ 1960(S35)年 335.204 ㎢ 1960(S35)年 209 ㎢ 1965(S40)年 306.824 ㎢ 1970(S45)年 214.098 ㎢ 1972(S47)年 196.991 ㎢ 1972(S47)年 278.925 ㎢ 1985(S60)年 82.675 ㎢ 1985(S60)年 248.61 ㎢ 2013(H25)年 80.919 ㎢ 2013(H25)年 228.072 ㎢ 3 1945 年の沖縄の基地面積(4万 5000 エーカー)は、1956(昭和 31) 年 6 月 9 日付米国下院軍事委員会特別分科委員会の報告書(いわゆるプラ イス勧告)により、その余の沖縄返還(復帰)前の沖縄の基地面積は、林 博史「沖縄米軍基地の歴史」125 頁による。在日米軍基地面積及び沖縄返 還(復帰)後の在沖米軍基地面積は、沖縄県知事公室基地対策課「沖縄の 米軍及び自衛隊基地(統計資料集)平成 27 年3月」による。
12 日本本土の米軍基地は、1952 年(昭和 27 年)の対日平和条約発 効直後は2824 施設であったものが、1972 年(昭和 47 年)の沖縄 返還(復帰)までの 20 年間で 2709 施設が整理統合され 115 施設に まで減少した。対日平和条約発効から3年で2166 施設が返還され、 1955 年(昭和 30 年)には 658 施設にまで激減している。その後も、 毎年 100 施設程が整理・統合・削減され、1961 年(昭和 36 年)に は187 施設と対日平和条約発効時の7パーセント弱の水準にまで減 少した。 (2) 日本本土の米軍基地面積の推移は、上記のとおりであり、日本本 土の米軍基地が整理・統合・縮小された時期は、大きく分けると、 2回存する。 1回目は、1952 年(昭和 27 年)の対日平和条約の発効から 1960 年(昭和 35 年)の「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及 び安全保障条約」(以下、「安保条約」という。)の成立(いわゆる安 0.0 200.0 400.0 600.0 800.0 1,000.0 1,200.0 1,400.0 19 52 年 19 55 年 19 58 年 19 61 年 19 64 年 19 67 年 19 70 年 19 73 年 19 76 年 19 79 年 19 82 年 19 85 年 19 88 年 19 91 年 19 94 年 19 97 年 20 00 年 20 03 年 20 06 年 20 09 年 20 12 年
米軍専用施設面積の推移
日本の米軍専用施設 沖縄の米軍専用施設13 保改定)までの時期である。 この間、対日平和条約発効時に約 26 万人いた在日米軍は、「一切 の地上戦闘部隊の撤退」を含めて4万人台、すなわち6分の1以下 に減少し、日本本土の米軍基地面積は約4分の1に縮小した。 2回目は、沖縄返還(復帰)を挟んだ 1960 年代後半から 1970 年代半ばにかけての時期である。このときも、本土の米軍基地は約 3分の1に減少したが、沖縄の米軍基地は1割程度しか減少されず 9割が残存した。 この結果、国土面積の 0.6 パーセントに過ぎない沖縄に日本の米 軍基地の約4分の3が集中するという構造が完成した。 以下に述べるとおり、この極端なまでの沖縄への基地集中は、日 本本土の基地負担を軽減して日本本土の反基地感情を鎮静化させる という政治的事情に起因するものであった。 3 1950 年代の日本本土から沖縄への基地しわ寄せ (1) 1950 年代初頭、沖縄の米軍基地面積は約 124 平方キロメートル (1951 年・昭和 26 年)であったのに対し、日本本土の米軍基地面 積は 1352.636 平方キロメートル(1952 年・昭和 27 年)であり、 沖縄の米軍基地面積は日本本土の米軍基地面積の 10 パーセントに も満たないものであった。 そして、1950 年代を通じて、日本の米軍基地面積は大きく減少し、 他方で沖縄の基地面積は激増した。すなわち、1960 年(昭和 35 年) には、日本の米軍基地面積は335.204 平方キロメーロルと4分の1 以下に減少し、他方で、沖縄の米軍基地面積は約209 平方キロメー トルと約1.7 倍となった。 この基地面積の変化の大きな要因となったのは、日本本土から沖 縄への海兵隊移駐とこれに伴う海兵隊新基地の建設であった。
14 (2) 海兵隊の第3海兵師団は、朝鮮半島の前線に展開していた第 1 海 兵師団の後方支援や補充兵の提供のため、1953 年(昭和 28 年)に 岐阜県のキャンプ富士や山梨県のキャンプ富士などに駐留するよう になった。 日本本土に海兵隊が駐留するようになったのは、朝鮮戦争の後方 支援のためであるが、日本本土では、米軍基地に対する熾烈な反対 運動等があり、反米軍基地感情の高まりを鎮静化することが政治課 題となっていた。 1950 年代には、日本本土にも多数の米軍基地が存在し、内灘闘争、 砂川闘争、浅間山演習場反対闘争、妙義山接収計画反対闘争などの 反基地闘争が各地で起き、海兵隊が駐留していた北富士、岐阜にお いても熾烈な反対闘争が起きていた。 日本国内の世論調査の結果も、米軍の日本駐留について、独立回 復直後の 1952 年(昭和 27 年)5 月には賛成 48 パーセント、反対 20 パーセントだったのが、1953 年(昭和 28 年)6月には賛成 27 パーセント、反対 47 パーセントと逆転した。外交政策についても、 朝鮮戦争勃発からまもない 1950 年(昭和 25 年)9 月には親自由陣 営 50 パーセント、中立 22 パーセントだったのに対して 1953 年(昭 和 28 年)6 月には親自由陣営 26 パーセント、中立 50 パーセント と中立の割合が増大していた。 1955 年(昭和 30 年)2月、岸信介首相はアリソン駐日大使との 会見において、日米安保の必要性、米海空軍の日本駐留の必要性を 認めながら、地上軍の撤退を求めた。同年 5 月、アリソン駐日大使 はダレス国務長官に電報を送り、「日本と米国との関係の観点からは、 地上軍の早期の、しかし秩序だった撤退がきわめて望ましい」、「日 本の世論の多数は、駐留する地上軍を占領のシンボルとして見続け
15 ているので、移転を歓迎するだろう」、「撤退は、最近の富士の事件 のような深刻な基地問題や、多数の部隊が日本に駐留することから 生じる耐えがたい摩擦を和らげるだろう」と地上軍の撤退を進言し た。1956 年(昭和 31 年)7月 12 日の国家安全保障会議では、直 前に行われた日本の参議院選挙の結果が報告され、社会党が3分の 1を確保したため、再軍備を保障するための憲法改正ができなくな ったことが報告された。ウィルソン国防長官は、東京に司令部があ る極東軍に代えて太平洋軍を創設し、国連軍司令部を東京から韓国 へ移す方針を示したが、その理由について、「日本に広がっている、 まだ占領されているという考えを打ち消すための国防省の大変な努 力の一部である。この考えを破壊することに成功しなければ、われ われは日本列島での地位をすべて失うことになる」と説明した。 そして、1957 年(昭和 32 年)1 月に群馬県の相馬ヶ原米軍演習 場で発生した、米兵が薬莢拾いをしていた農家の主婦を射殺したジ ラード事件4は、日本社会にとりわけ大きな衝撃を与え5、日本本土 における反米軍基地感情の鎮静化が、日米両政府にとって最重要の 政治課題となっていった。 日本本土からの地 上戦闘部隊の 撤退が政治的課題となるなかで、 海兵隊は、日本本土から沖縄へと移駐していったが、アイゼンハワ ー大統領の政治的判断が、これを加速させることになった(平成 27 年 5 月 14 日沖縄タイムス「公文書入手の山本章子氏に聞く」)。1957 4 田中明彦「安全保障 戦後 50 年の模索」170 頁。 5 沖縄では同様の事件が頻発していた。ジラード事件の数か月前である 1956 年(昭和 31 年)4月には、美里村知花でスクラップ拾いをしていた 3 人の幼児の子の母である 32 歳の主婦を米兵が射殺したという事件(悦子 さん事件)が発生しているが、ジラード事件とは対照的に、沖縄の住民が 米兵に射殺された事件が日本本土で政治問題となることはなかった。
16 年(昭和 32 年)の岸首相とアイゼンハワー米大統領の共同声明に おいて、独立国家となった日本と米国との対等が強調され、米国が 「明年中に日本国内の合衆国軍隊の兵力を、すべての合衆国地上戦 闘部隊のすみやかな撤退を含み、大幅に削減する」ことを約束し、 翌 1958 年(昭和 33 年)までに日本本土からの地上戦闘部隊の完全 撤退が実現した。こうして、1955 年(昭和 30 年)から開始された 沖縄への海兵隊の移駐は、僅か3年間で完了した。 1950 年代に日本に海兵隊が配備されたのは、朝鮮半島に展開する 部隊の後方支援などのためであり、また、休戦によって朝鮮半島に 緊張がなくなったわけではない。朝鮮半島との距離からすると、沖 縄に移駐することは遠ざかることになり、また、沖縄には海兵隊を 紛争地域に輸送する艦船もなく、海兵隊を沖縄に配備することは機 動性・即応性を損ねるものであった。1957 年(昭和 32 年)末に、 元国際安全保障担当国防次官補のナッシュ(Frank C. Nash)が、ア イ ゼンハ ワ ー 大統 領 に提出し た報 告書「米 国の在 外基 地」(ナッシ ュ・レポート)6は、「沖縄の海兵隊は機動性に欠ける」と問題点を指 摘していた。海兵隊の役割は、戦争となった場合に真っ先に戦場に 駆けつけ、敵前上陸をはかることであり、その機動性を欠いている ということは、海兵隊の沖縄駐留は軍事的合理性を欠いているとい うことにほかならない。軍事的合理性を欠いたまま、日本国内の反 米軍基地感情の鎮静化という政治的目的のために、海兵隊の沖縄移 6 1956 年 10 月に、アイゼンハワー大統領は、ナッシュに、米軍の世界的 プレゼンスの見直し作業を依頼し、1年近くにわたる調査の後、ナッシュ・ レポートは提出された。また、ナシュ・レポートは、沖縄に軍事施設が集 中していることはミサイル攻撃に対して脆弱であり、この軍事的問題を解 決するために、ほかの極東地域への分散配備を検討すべきだとしていた。 吉次公介「『ナッシュ・レポート』にみる在日・在沖米軍」沖縄法学号 159 頁。
17 駐が急がれたことは明らかであった。 しかし、日本からの海兵隊の撤退により日本の安全保障に支障が 生じるという海兵隊撤退反対論は起きず、日本政府・日本国民は、 海兵隊の日本からの全面撤退を歓迎した。 日本本土では、1957 年(昭和 32 年)中には伊丹飛行場、内灘演 習場など、1958 年(昭和 33 年)中には新潟飛行場、小牧飛行場、 キャンプ岐阜など、1959 年(昭和 34 年)には北海道演習場、辻堂 演習場、キャンプ千歳などが返還されていき、近畿、中部、四国に はほとんど米軍基地がなくなり、こうして、独立回復時から 1960 年(昭和 35 年)の安保改定までの間に日本本土の米軍基地面積は 4分の1以下に減少した。 日本から米軍の地上戦闘部隊がすべて撤退し、米軍基地も目に見 えて減少していったことにより、日本本土における反米基地感情は 急激に鎮静化していき、1960 年(昭和 35 年)には、安保改定がな された。安保改定交渉の際、当初は沖縄を安保条約の対象地域に含 めることも検討されたが、米国は事前協議制度が沖縄に適用される ことで核兵器の持ち込みを含めた自由使用ができなくなることを懸 念し、他方、日本では“沖縄を安保条約の対象に含めると米国の戦 争に日本が巻き込まれる”との強い反発があり、沖縄を安保条約の 対象とすることは見送られた。 日本本土は、1950 年代を通じて、米軍基地が激減し、また、軍事 的負担を免れることによって目覚ましい経済復興を遂げていった。 (3) 一方、対日平和条約第3条により日本から切り離された沖縄では、 あらたな米軍基地建設のために、悲劇的といわざるをえない事態が 生じていった。 1950 年代前半には、「銃剣とブルドーザー」と呼ばれる軍用地の
18 強制接収がなされた。対日平和条約発効後、米国は、「対日平和条約 により、米国は主権国家である日本から沖縄における統治権を行使 することが認められているのであるから、米国は日本が本来有する 土 地 収 用 権 を 日 本 の 了 解 に 基 づ い て 行 使 す る 」 と の 見 解 の 下 に 、 1952 年(昭和 27 年)に布令第 109 号「土地収用権」を公布した。 そして、1952 年(昭和 27 年)に真和志村、1953 年(昭和 28 年) に伊江村、1954 年(昭和 29 年)には伊佐浜で、強制的な土地接収 がなされたが、その接収の態様は、銃剣で武装した米兵に守られた ブルドーザーが、住民の反対を押し切って家屋を押し倒し、耕作地 を敷きならしていくというもので、文字どおりの「銃剣とブルドー ザー」による土地強奪であった。 そして、1950 年代後半には、1956 年(昭和 31 年)にはキャン プ・シュワブ、辺野古弾薬庫、1957 年(昭和 32 年)にはキャンプ・ ハンセン、北部訓練場、キャンプ・マクトリアス、1958 年(昭和 33 年)にはキャンプ・コートニーと、北部の海兵隊新基地を中心と して、沖縄の米軍基地が拡張されていった。 4 沖縄返還(復帰)後の基地集中・固定化の完成 (1) 沖縄への基地集中の構造が完成したのは、沖縄返還(復帰)後で ある。 1960 年代後半から 1970 年代前半、すなわち、1972 年(昭和 47 年)の沖縄返還(復帰)を挟んだ僅か数年の間に、日本本土の米軍 基地は激減し、他方で沖縄の米軍基地は維持(機能的には強化)さ れた。 他方、日本本土の米軍基地は、米軍板付基地の戦闘機が九州大学 構内への墜落事故を起こすなど日本本土で反米軍基地感情が沸騰し た 1968 年(昭和 43 年)を起点にして急激に整理・縮小が進められ、
19 同年には 303.006 平方キロメートルであったものが、1972 年(昭 和 47 年)には 196・991 平方キロメートルと 3 分の2以下にまで減 少していた。 国土面積のわずか 0.6 パーセントの沖縄県に日本の米軍基地の約 4分の3が集中するという構造は、沖縄返還(復帰)後に完成した ものである。 (2) 安保条約の期限である 1970 年(昭和 45 年)を目前に控えた 1960 年代後半、ベトナム戦争を背景に、米軍基地の活動が活発化してい くなかで、事故や騒音などの基地被害が続き、日本本土における反 米軍基地感情が高まっていった。 そして、1968 年(昭和 43 年)を転機に、日本本土の米軍基地負 担を軽減して反米軍基地感情を鎮静化させることが喫緊の政治的課 題となり、日本本土の米軍基地の大幅な整理・縮小へと事態は動い て行った。 同 年 1 月 に は 米 原 子 力 空 母 エ ン タ ー プ ラ イ ズ の 佐 世 保 入 港 を め ぐる反対運動が起こり、同月 15 日から 23 日まで、4万 7000 人が 参加した佐世保での大集会を含め、延べ全国 46 都道府県 325 か所 で 21 万人余が参加して集会・デモが展開された。同年5月には、 その佐世保港で原子力潜水艦が放射能漏れ事故を起こし、被爆国で ある日本国民の強い反発を招いた。 そして、同年6月には、米軍板付基地のF-4ファントム戦闘機 が九州大学構内に墜落するという事故が発生して、日本社会に大き な衝撃を与えて、大きな政治問題となっていった。 F-4ファントム戦闘機墜落事故の翌日の国会では、山上防衛施 設庁長官が、「直ちに基地の撤去ということはこれはまたむずかしい 問題ではないかと思いまするが、これらにつきましては政府の部内
20 でも大きな方針として十分に協議してまいらなければならぬ問題」 と、基地撤去に言及した国会答弁をするに至った。 この事態を米国も深刻に受け止め、米軍機墜落事故直後に、米大 使館は米国務省宛に、「米軍基地問題に関する暴風信号」と題した書 簡を送り、その中で、「大衆の要求は暴発寸前のレベル」とし、また、 日本政府内にも「防衛問題に対する本質的な態度変化」の兆候がみ られるがゆえに、基地問題の解決に最大限の注意を払う必要がある」 との注意喚起を行った。同年7月には、米国務・国防両長官は、在 日米軍基地の見直しを米太平洋軍及び米大使館に指示した。 日本政府も、同年7月、在日米軍基地整理統合の基本方針を定め ることを決定した。同年8月の臨時国会において、佐藤首相は「米 軍基地が大都市周辺に多くあるため、とかく基地周辺住民に生活上 の不安や危惧を与えていることを考え、政府としては、その不安や 危惧を取り除くよう最善の努力を払ってまいります」と述べ、年末 にかけ同趣旨の答弁がなされた。 同年 12 月に開催された第9回日米安全保障協議委員会(以下、 「SCC」という。)において、日米双方が、日本のような狭隘な国 土における基地施設の存在が深刻な問題を惹起しているとの認識を 示した。そして、米側より、①全部または一部が日本政府に返還さ れる基地:22 基地、②米軍の継続使用権ないし他の適当な基地が 保証される取り決めを条件に日本政府に返還される基地:10 基地、 ③ 現存施設ないし日本政府により提供される新たな基地へ日本政 府により移設される基地:22 基地の合計 54 基地のリストが示され、 日米合同委員会で具体的措置をとることとされた。F-4ファント ム戦闘機の墜落事故を起こした板付基地は、軍事的には、朝鮮有事 において在韓米空軍基地が使用不能になった場合には板付基地が決
21 定 的 に 重 要 な 役 割 を 果 た す と 位 置 づ け ら れ て い た に も か か わ ら ず (沖縄―ソウル間は 1260 キロメートルであるのに対し、福岡―ソ ウル間は 534 キロメートルと半分にも満たない。)、1969 年 6 月ま でに分散作戦基地へ転換(すなわち運用停止)することとなった。 1969 年(昭和 44 年)6月の日米合同委員会における中間報告ま でに 19 基地について措置がとられた。同年7月の第 10 回 SCC に おいて、有田防衛庁長官は、21 基地の返還に日米合同委員会が合意 したとしつつ、米側に条件の緩和などの配慮を求め、また、特に水 戸射爆撃場の問題に触れ、その返還を強く求めた。1970 年(昭和 45 年)2月には、佐藤首相は「外国の兵隊が、首府のそばにたくさ んいるという、そういうような状態は好ましい状態ではない」と国 会で答弁した。首都圏を中心とする日本本土の大幅な整理縮小の道 筋がつけられ、同年6月に安保条約は自動延長した。同年 12 月の 第12 回 SCC において、基地の整理統合計画が正式に了承され、1971 年(昭和 46 年)6月までに、横田基地からの偵察部隊の米国への 移駐や戦闘部隊の復帰直前の沖縄・嘉手納基地への移駐などが決ま った。横田基地の戦闘機部隊は、1971 年(昭和 46 年)3月から沖 縄・嘉手納基地への移駐を開始し、同年5月までに移駐を完了した。 輸送機基地へと変貌した横田基地の航空機騒音が減少する一方で、 横田基地からのF-4ファントム戦闘機の移駐先となった嘉手納基 地の基地機能は強化され、戦闘機騒音もさらに激化することとなっ た。 1973 年(昭和 48 年)1月の第 14 回 SCC において、「関東平野 地域における施設・区域の整理統合計画」(以下、「関東計画」とい う。)が了承され、同月中に日米合同委員会で関東計画の実施が合意 された。関東計画の内容は、1973 年(昭和 48 年)から3年間で、
22 関東平野に所在する空軍基地を横田基地に集約し、6つの基地(府 中空軍施設の大部分、キャンプ朝霞の大部分、立川飛行場、関東村 住宅地区、ジョンソン飛行場の大部分、水戸空対地射爆撃場)を日 本に返還するというものであり、日本本土の米軍基地の大幅削減は こうして完成した。 首 都 圏 を 中 心 と し て 目 に 見 え る 形 で 米 軍 基 地 の 削 減 が 実 現 し た ことにより、日本本土における米軍基地への社会的関心は薄れてい った。 (3) 日本本土では、首都圏の米軍基地が大幅に整理縮小されたが、そ の一方で、沖縄返還(復帰)前に、米国防省が検討していた普天間 飛行場の閉鎖を含めた在沖海兵隊の大規模な撤退という計画は表に 出ることなく消え、逆に普天間飛行場の機能は著しく強化されるこ とになった。 米国防省が 1968 年(昭和 43)年 12 月に策定した在日米軍再編 計画では、朝鮮半島有事の際に、海兵隊の航空機は到着までに数日 かかるため決定的な役割を果たせないことや牧港補給地区の第3海 兵補給群は財政的・組織的に非効率などの軍事的理由を挙げ、普天 間飛行場の完全閉鎖のほか、第 26 連隊上陸団を米本土へ移転、第 3海兵補給軍を陸軍第2補給部隊に統合するなど、在沖海兵隊の大 幅な削減が提案されていた。 普 天 間 飛 行 場 は 補 助 飛 行 場 と し て パ ラ シ ュ ー ト 降 下 訓 練 が 行 わ れる程度の利用しかなされていなかったもので、1960 年(昭和 35 年)に海兵隊航空基地として使用開始された当時は飛行場と周辺居 住地域との間に遮蔽すらもなかったたものであった。1969 年(昭和 44 年)の時点においても、ヘリコプター部隊は僅かに 4 機が展開す るのみであった。
23 しかし、日本本土における米軍基地負担を軽減するため、普天間 飛行場の完全閉鎖を含む在沖海兵隊の大幅削減の計画は見送られ、 一転して第1海兵航空団第 36 海兵航空群の拠点とされることにな った。すなわち、国防総省は、撤退圧力が高まっていた神奈川県の 厚木飛行場に展開する航空機の移転先として岩国飛行場と普天間飛 行場を選定し、普天間飛行場は、完全閉鎖どころか、日本本土に展 開している航空機の移転先とされ、1969 年(昭和 44 年)11 月に、 第1海兵航空団第 36 海兵航空群のホームベースとされた。 在日米軍基地全体の整理・縮小は、嘉手納飛行場のさらなる機能 強化や普天間飛行場の完全閉鎖計画のとりやめと機能強化等と引き 換えに進められたものであった。 (4) 以上みてきたとおり、沖縄返還(復帰)を挟んだ僅か数年で、日 本本土と沖縄の米軍基地面積が逆転して日本本土の米軍基地面積が 少なくなり、それどころか米軍基地の約4分の3が沖縄県に集中し、 固定化されるという構造が完成したものであった。 沖縄返還(復帰)は、米軍基地という観点から見るならば、沖縄 の米軍基地の維持・機能強化と日本本土の米軍基地の整理・縮小の ために存在したという見方もできる。 沖縄返還(復帰)に際して、自衛隊の沖縄配備を取り決めたいわ ゆる久保・カーチス協定の日本側の代表者(当時防衛庁防衛局長) 久保卓也氏は、軍事評論家の藤井治夫氏の「なぜ沖縄の米軍基地を 縮小せず、本土を優先させるという逆さま行政をあえてしたのか」 という質問に対し、「基地問題は安保に刺さったトゲである。都市に 基地がある限り、安保・自衛隊問題について国民的合意を形成する のは不可能だ」と答えている(新崎盛暉「沖縄現代史」27 頁)。
24 5 米国内における在沖海兵隊基地縮小の動き (1) 沖縄返還(復帰)が決まった後も、米国政府内では、沖縄基地縮 小が検討されていた。 駐日米大使館は、1971 年(昭和 46 年)4月、米軍基地の整理縮小 は日本本土だけではなく「沖縄にまで拡大されるべきだ」と主張し ていた。 沖縄返還(復帰)の年である 1972 年(昭和 47 年)には、国際的 な緊張緩和が進んでいった。ニクソン大統領はデタント政策を推進 し、1972 年(昭和 47 年)2月に訪中、同年5月に訪ソした。同年 7月には韓国と北朝鮮との間で南北共同声明が発表された。同年9 月 に は田 中角 栄 首 相 が 訪 中 し 、 日 中 国 交 正 常 化 が 実 現 し た 。1973 年(昭和 48 年)1 月には、ベトナム和平協定が調印され、ニクソン 大統領はベトナム戦争の終結を宣言した。その結果、日本国内では 対外的な脅威認識が低下し、日米安保への支持が低下していった。 1972 年(昭和 47 年)11 月、駐日米国大使館はワシントンに対し、 東アジアの緊張緩和によって日本国民が日米安保の重要性に疑問を 抱いていると報告し、対日政策の再検討や沖縄基地縮小などを提言 した。 1972 年(昭和 47 年)から 1973 年(昭和 48 年)にかけて、米国 政府内では、在沖海兵隊の撤退を含め、大規模な沖縄米軍基地の縮 小が検討された。1972 年(昭和 47 年)年 10 月には、米国防省の 担 当 者が 在沖 海 兵 隊 基 地 を 米 国 本 国 に 統 合 す る案 を検 討し 、1973 年(昭和 48 年)年1月には米国務省は、普天間飛行場について「明 らかに政治的負債だ」と断定していた。しかし、直後の 1973 年(昭 和 48 年)年7月の日米安全保障条約運用会議において、久保卓也 防衛局長は、「アジアにおける機動戦力の必要性を踏まえると、米国
25 の海兵隊は維持されるべき」だと主張し、在沖海兵隊を引き留めた7。 (2) 現役の海兵隊員からも、在沖海兵隊の撤退に反対した日本政府と は対照的に、在沖海兵隊の撤退などの提案が積極的になされていた。 たとえば、海兵隊専門誌「マリン・コー・ガゼット」1976 年(昭 和 51 年)2月号に掲載された海兵隊少佐の「沖縄からの撤退」と いう論文では、①13 か月の駐留で兵士の質に問題が生じる、②沖縄 で高額の駐留費がかかる、③西太平洋地域に関わる兵員数の増大が 則応力に有効ではないなどの問題点を挙げ、沖縄と日本本土から全 ての海兵隊を撤退させてメキシコ湾岸地域の既存の基地への配備が 提案されていた。 同誌 1994 年(平成 6 年)8月号では、海兵隊大尉は、大型輸送 ヘリが装甲車や大砲をつり上げての移動が許されない演習場の狭さ、 実弾砲撃演習に対する住民反発、沖縄県知事による基地返還要請な ど、施設の不便性を指摘し、「海兵隊を沖縄に引き留めるのは、太平 洋戦争勝利のセンチメンタリズムでしかなく、冷戦が終わったいま、 戦略的価値は低下した。沖縄に兵力を分散配置するよりは、本国の 部隊を補強すべきだ」と主張していた。 同誌 1996 年(平成8年)12 月号には二等軍曹が「第 31 海兵遠 征部隊:下士官の視点」という論文を寄稿し、沖縄派遣の体験から、 部隊の運用や訓練の機会を犠牲にしてまでも前方展開の利益はある のかと問いかけた。同論文では、沖縄に駐留する第 31 海兵遠征部 隊(Marine Expeditionary Unit: MEU)は米本土のものと比べて 多くの短所があるとし、そのうちの大きな問題点として3 つが挙げ
7 野添文彬「沖縄米軍基地の整理縮小をめぐる日米協議 1970-1974」国際
安全保障第 41 巻2号、平成 25 年 11 月8日沖縄タイムス:野添文彬「識 者評論」。
26
ら れ た 。 第 一 に 、 統 合 さ れ た 6 ヶ 月 の 能 力 向 上 訓 練 サ イ ク ル (workup cycle)が欠けている。沖縄に配置されている MEU と日 本 本 土 に 配 置 さ れ て い る 両 用 即 応 グ ル ー プ (Amphibious Ready Group)が 1 つの戦闘部隊として訓練をする機会がほとんどない。 キャンプ・ペンドルトン(カリフォルニア州)所属の大隊上陸チー ム(Battalion Landing Team)が沖縄に来ない限り、完全な統合訓 練はできない。第二に、適切な訓練区域が不足している。第三に、 利用可能な輸送艦艇が不足している。第 31MEU を支援する第 11 水陸両用戦隊は 4 隻の揚陸艦で構成される。しかし、そのうちの 1 隻しかMEU の訓練の一部に利用できなかった。そして、海兵隊は、 沖縄に MEU を維持する費用対効果をさらに注意深くみて、どこか 別の箇所に予算を充てるかどうかを検討するべきだとし、統合参謀 本部が、大西洋軍、中央軍、太平洋軍のそれぞれに MEU を配置す るのであれば、それなりの支援を提供しなければならず、そうでな ければ、在沖 MEU を撤退させ、キャンプ・ペンドルトンやキャン プ・レジューン(ノースカロライナ州)に所属する MEU を増員す るほうが割に合い、理にかなっていると主張した。 6 駐留経費の負担 日本政府は、1978 年(昭和 53 年)に在日米軍駐留経費を日本が負 担する「思いやり予算」を始めてその予算を年々増額し、世界でも例 のない米軍の経済的な駐留環境を作り出していった。 公表されている米軍駐留経費の負担額(2002(平成 14)年)をみ ると、日本は 44 億 1000 万ドル、2位のドイツが 15 億 6000 万ドル、 ほか韓国が8億 4000 万ドル、イタリアが3億 6000 万ドル、英国が 2 億 3000 万ドルである。日本に派遣された兵士ひとりあたりに対する 援助額は、ドイツと比べると5倍近い(ケント・E・カルダー「米軍
27 再編の政治学」286 頁)。「フォーリン・アフェアーズ」2010 年3・4 月号に寄稿された論文では、日本政府が負担している思いやり予算の 支払い対象リストには、沖縄の米軍基地で働く76 人のバーテンダー、 48 人の自動販売機管理人、47 人のゴルフコース整備係、25 人のクラ ブ支配人、9人のレジャーボート操縦士、6人の劇場管理人、5人の ケーキ職人、1 人の動物世話係が含まれているとされている8。 1992 年(平成4年)の米下院軍事委員会で、当時のディック・チェ イニー国防長官は、「米軍が日本にいるのは、何も日本を守るためでは ない。米軍にとっての日本駐留の利点は、米軍が必要とあれば常に出 動できる前方基地として使用できることである。しかも日本は米軍駐 留経費の 75%を負担してくれる。極東に駐留する米海軍は、米国本土 から出動するより安い国土で配備される」と説明した。米国防総省国 防次官代理(2012 年当時)も、米国議会の公聴会で財政難から在外米 軍基地の縮小・撤廃を求める議会の質問に対し、「財政の事情を考慮し ても日本にある米軍基地の縮小は・撤退論議は最後でいい。なぜなら もっとも安上がりな基地だから」と述べている9。 7 1995 年(平成 7 年)以降の日米両政府の対応 1995 年(平成7年)9月に沖縄島北部で発生した海兵隊員らによる 少女暴行事件は、沖縄県民の激しい怒りを呼び起こし、同年 10 月 21 日の「米軍人による暴行事件を糾弾し、地位協定の見直しを要求する 沖縄県民総決起大会」には8万 5000 人が参加するなど、米軍基地の 整理・縮小を求めるうねりが高まっていった。 ウイリアム・ペリー国防長官は議会で「日本のあらゆる提案を検討 8 東アジア共同体研究所編「辺野古に基地はいらない!オール沖縄・覚悟 の選択」〔大田昌秀〕22 頁。 9 前泊博盛「安保をめぐる日本と沖縄の相克」島袋純・阿部浩己『沖縄が 問う日本の安全保障』40 頁。
28 する用意がある」と発言し、ジョセフ・ナイ国防次官補は「日本政府 が望むなら部隊を本土に移転することも検討する」と柔軟な姿勢を示 していた。また、1996 年(平成8年)2月1日付の沖縄タイムスのイ ンタビューに対し、スチュワート・ワグナー海兵隊大佐は、「在日米軍 基地をどこに配置するかは元来日本政府が決めることだ」と語ってい る。 そして、事件の約半年後、1996 年(平成8年)4月 12 日に行われ た橋本首相とモンデール駐日米国大使の共同記者会見において、普天 間飛行場返還の合意が発表された。 この橋本・モンデール共同記者会見で発表された内容には、新基地 建設こそ含まれていなかったものの10、既存基地内へのヘリポートの 建設などの代替措置をとるものとされ、兵力の水準維持が強調されて いた。 そして、米国側は在沖海兵隊の撤退という事態をも想定していたが、 日本側からそのような要求はなかったことが、2004 年(平成 16 年) 4月に米国務省付属機関による外交史記録を目的としたモンデール氏 へのインタビューにおいて明らかにされた。モンデール氏は、「私を最 も悩ませたことは、米軍 3 人のメンバーによる 12 才の女の子の強姦 事件でした。その事件は地元の方々の感情を踏みにじる行為で、私も その怒りを非常に理解できた。しかし、2、3日の内に、その事件は 確実に、米兵が沖縄から退陣しなければならないか、あるいは少なく ともその存在を極端に削減しなければならないか、または(犯罪を犯 10 平成 8 年の SACO 合意の前に、米国は新基地建設を求めていたもので はなく、普天間代替施設の要求はキャンプ・シュワブ陸上部へのヘリコプ ター発着帯の要求だけであったと指摘されている。佐藤学「アメリカ政治 と在沖米軍基地」島袋純・阿部博己編『沖縄が問う日本の安全保障』244 頁。
29 し た ) 米 兵 に 容 易 に ア ク セ ス が で き 、 そ の 起 訴 を 容 易 に す る た めに SACO ガイドラインを変えることなど、事件はそのような事態に発展 した。しばらく、状況は本当に非常に緊張していた。」、「日本側リーダ ーたちとのプライベートな話合いでも、彼らは決して話合いが挫折す ることを望んでいなかった。彼らは、我々を沖縄の外へ追い出したく なかった」と語っている(平成 26 年 9 月 13 日沖縄タイムス。平成 26 年9月 14 日沖縄タイムス。)。また、2008 年(平成 18 年)9月の 国務省付属機関によるライス元国務次官補代理(東アジア・太平洋担 当)に対するインタビューにおいて、ライス氏は、「日本側は(沖縄の) どの基地も本土に移すことを望んでいなかった。(本土は)基地を増や すことに反対だったからだ」と述べている(平成 27 年7月 29 日沖縄 タイムス、平成 27 年7月 30 日琉球新報)。 日本政府こそが、沖縄に海兵隊基地を固定化することに固執をして いたものであった。 8 小括 以上述べてきたとおり、沖縄への基地集中、海兵隊の沖縄駐留は、 沖縄への基地しわ寄せによって日本本土の基地負担を軽減して、日本 本土における反米基地感情を鎮静させるためであった。 この基地形成の経緯は、沖縄への基地集中は、地理的必然性という 軍事的理由によるものではなく、日本本土に米軍基地を置くことは政 治問題になるために、日本本土から見えにくい沖縄に基地を集中させ るという政治的理由に基づくものであることを如実に示している。 第3 県内移設でなければ機動性・即応性及び一体性を維持できないとす ることに実証的根拠のないことなど 1 はじめに 埋立必要理由書における審査請求人・執行停止申立人の説明は、要
30 するに「緊迫するアジア情勢にあって在日米軍のプレゼンス・抑止力 を維持するためには、重要な戦略的位置にある沖縄に、機動性・即応 性を有する在沖米海兵隊が駐留し、一体となって訓練・運用できなく てはならないから、普天間飛行場の代替施設は沖縄県内に建設されな ければならない。」ということになる。 ここでの問題は、普天間飛行場の代替施設が、必ずわが沖縄県内に 建設されなければならないのか否かである。しかし、在沖海兵隊の一 部である普天間飛行場に展開する部隊が国外又は県外に移駐すること と、在日米軍のプレゼンスや抑止力の関係について、海兵隊の機動性・ 即応性及び一体性という抽象的なマジック・ワードが繰り返されてい るだけであり、具体的に機動性・即応性及び一体性がどのように損な わ れ 支 障 が 生 じ る の か に つ い て な ん ら 実 証 的 な 説 明 が な さ れ て いな い。 以下、2項において県内移設でなければ機動性・即応性が維持でき ないとする具体的根拠は認められないこと、3項において、一体性維 持のために県内移設が必要であるとする根拠はないこと、4項におい て人道支援等のその他の任務が県内移設が必要であるとする根拠にな りえないことを示し、もって普天間飛行場の代替施設は県内に建設す る必要がないことを示すこととする。 なお、なお、審査請求書・執行停止申立書には、平成 23 年に防衛 省が発行した「在日米軍・海兵隊の意義及び役割」というパンフレッ ト(以下「パンフレット」という。)及び、これに対して沖縄県が行 った 2 回にわ た る質問及びこ れに 対 する防衛 大臣 の回答(以下、平成 23 年 12 月 19 日付防衛大臣一川保夫の回答を「一川防衛大臣回答」、 平成 24 年 12 月 11 日付防衛大臣森本敏の回答を「森本防衛大臣回答」
31 という。)11 が引用されており、また、検証結果報告書にも引用され ていたため、本書面においても必要に応じて引用する。 2 機動性・即応性 (1) 審査請求人・執行停止申立人の説明 審査請求人・執行停止申立人は、海兵隊の機動性・即応性を維持 する必要があることをもって、普天間飛行場の代替施設は沖縄県内 でなければならない理由の一つとする。 埋立申請理由書に具体的説明はないものの、パンフレット(9ペ ージ)に「我が国周辺で、万一紛争が起こり、沖縄を含む我が国に 波及するおそれがあるとき、沖縄に駐留する米軍は、緊急に展開し て迅速対応する。」と述べられている。また、パンフレットに対す る県の質問への一川防衛大臣回答では、沖縄とソウル、台北間の距 離や、船舶と航空機での所要時間を示して、沖縄県内に海兵隊基地 を置くことで機動性・即応性が維持できる旨説明され(4ページ)、 さらに「緊急事態における一日あるいは数時間の遅延は、軍事作戦 上、致命的な遅延となり得るものと認識している」(5ページ)と 述べている。 しかし、有事において想定される事態の推移に照らしてみると、 審査請求人・執行停止申立人の説明には何ら実証性がないと言わざ るを得ない。以下の検討によれば、普天間飛行場の代替施設が沖縄 県外に建設されたとしても、在沖海兵隊の機動性・即応性を損ねる ことにはならないことは明らかである。 (2) 具体的な出動場面を想定した場合の不合理性 海兵隊の基本任務は、待ち構える敵を強襲して上陸する強襲上陸 や本格的な陸上部隊の受入基盤を確保することにある(パンフレッ 11 パンフレット等は、沖縄県のホームページにおいて公開されている。
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ト 13 ページ)。任務を行うべき何らかの事態が発生した場合、海 兵隊は司令部部隊、陸上部隊、航空部隊及び後方支援部隊が一体と な っ た 海 兵 空 地 任 務 部 隊 (Marine Air-Ground Task Force / MAGTF、「マグタフ」と呼ばれる。パンフレット 11 ページ)を編 成して作戦を展開する。 米軍が MAGTF を編成して作戦を実施する場合には、海軍の揚陸 隊とペアを組んで移動する。例えば、沖縄に配備されている最小単 位の MAGTF である第 31MEU が作戦行動する場合は、米海軍佐世 保基地(長崎県)から沖縄に揚陸艦が急派され、そこで普天間飛行 場の輸送ヘリ部隊(航空部隊)、陸上部隊、後方支援部隊などから 編成された第 31MEU を搭乗させてから目的地に向かうことになっ ている(『図解在日米軍基地完全ガイド』(洋泉社 MOOK、2010 年)61 ページ)。 このとき、佐世保基地から揚陸艦が緊急出港するためには、乗員 や物資の積込みなどの準備に 48 時間は要するとされる。揚陸艦が 31 時間で沖縄に到着することができたとしても、さらに沖縄で、兵 員や物資、ヘリコプターなどを搭載するのであるから、それらの作 業に最短でも 24 時間から 48 時間は必要となるとされる。したがっ て、出撃命令が出され、円滑に最短時間で準備が進むとしても、第 31 海兵機動展開隊(31MEU)を搭載した揚陸艦が沖縄を出発する までには4日程度を要することとなる。 普天間飛行場の代替施設は、施設に配備される輸送ヘリ部隊が、 この4日程度の間に、これらの部隊と合流できる場所に建設されて いれば、第 31MEU の具体的な作戦展開に何ら影響を及ぼすことは ない。したがって、普天間飛行場の代替施設を沖縄県内に置かなけ れば機動性・即応性は損なわれるという審査請求人・執行停止申立
33 人の説明は不当であるし、出動に致命的な遅延が生じるということ はありえない。 (3) 作戦展開のための手続的制約と機動性・即応性 審査請求人・執行停止申立人はあたかも、有事に際して海兵隊が 即時に出撃できるかのごとき説明を行っている。しかし、米国国内 法上、軍隊を海外に派遣するためには、大統領は、軍隊投入前に可 能な場合は必ず、投入後は定期的に議会との協議を行わなければな らないものとされている(戦争権限法第 1542 条)。また、米国は、 湾岸戦争のような大規模な武力行使を行う場合、戦費負担等の理由 から、他国と共同して軍事行動を行うことがあるが、その場合には、 米国はもちろん、共同する諸国における国内法上の手続や国連安保 理による武力行使容認決議などに時間を要することになる。例えば、 米国が武力行使について議会承認等を得るのに同時多発テロの際は 3日、共同して軍事行動を行った湾岸戦争の際は119 日要している。 このことからも、正式な作戦行動の場面では、それなりの手続を 経なければならず、そしてそれには相当の時間を要することは明ら かである。 したがって、普天間飛行場の代替施設は、施設に配備されるヘリ 部隊がこのような相当の時間内に第31MEU を搭載した揚陸艦と合 流できる位置に建設されていればよいのであって、沖縄県内に置か なければ機動性・即応性が損なわれるという審査請求人・執行停止 申立人の説明は不当である。 以上みたように、県内移設でなければ機動性・即応性が維持でき ないとする具体的根拠は認められない。 3 一体性 (1) 審査請求人・執行停止申立人の説明
34 埋 立 必 要 理 由 書 は 、 米 海 兵 隊 は 一 体 的 に 運 用 す る 組 織 構 造 を 有 し、各構成要素が一体となり訓練を行うことで優れた機動力・即応 性を保ち、任務に迅速に対応する特性を有しており、それを低下さ せないようにすることが必要であるとする。 (2) 一体性と海兵隊等の配備状況 ア 現在の海兵隊の配備状況 しかし、実は、沖縄県を中心に配備されている海兵隊部隊のう ち、もっとも規模の大きな MAGTF である第3海兵機動展開部隊 (ⅢMEF、「サードメフ」と呼ばれる。)はそもそも各地に分散 して配備されているのである。 例えば、ⅢMEF に属する第3海兵師団の半数弱は沖縄県では なくハワイに配備されており(河津幸英『アメリカ海兵隊のすべ て』402 ページ)、航空部隊のうちハリアーなどの戦闘攻撃機は 山口県岩国基地に所属している。また、前述のとおり海兵隊の足 となる米海軍の揚陸隊は長崎県の佐世保基地に配備されている。 イ 今後更なる分散配備が予定されていること これに加えて、在沖米海兵隊をグアムに移転させる旨、日米両 政府が合意したことは周知のとおりであり、仮にこれが実現され れば、海兵隊の分散配備はいっそう進められることになる(平成 21 年2月 17 日付け「在沖縄海兵隊のグアム移転に係る協定」)。 また、パンフレットに対する県の質問への森本回答において、 現在の在沖米海兵隊の配備状況と再編後の配備状況(9~10 ペー ジ)を照合してみると、注目すべきことに、①定員数が約 19、000 人から約 10、000 人へと約半数へ減少し、②現在普天間飛行場に 配備されているヘリ部隊が輸送すべき地上部隊は、全てグアムに 移転することになるのである。
35 ウ 分散配備に対する日米両政府の見解 日米両政府は、協定の背景説明にて「日米両政府は、抑止力を 維 持 し つ つ 地 元 負 担 を 軽 減 す る た め … の 具 体 的 施 策 の 一 つ と し て、2014 年(平成 26 年)までに在沖縄海兵隊(第3海兵機動展 開部隊)の要員及びその家族を沖縄からグアムに移転することに 合意した。」として、以上のように分散配備がなされた状況とな っても海兵隊の抑止力が維持できると述べている。 また、日米両政府高官も、在沖海兵隊を分散配備したとしても 抑止力に影響がないことを述べている。ジョセフ・ダンフォード 統合参謀本部議長(当時海兵隊司令官)も、ワシントンD.C.の イベントでグアム移転計画に言及して、「有事の際には輸送の課 題や訓練の面で問題が出てくる」としながら、(海兵隊の)「分 散配備は、パートナー国などとの地域安全保障協力をより向上さ せる。」と発言している(平成 26 年6月 26 日マリンコータイム ズ)。 加えて、中谷防衛大臣は平成 26 年3月の学生団体インタビュ ーの中で、「地政学的理由だけでなくて、本土の皆さんの意向が あって動かしにくいということですか。」との質問に対し、「そ うなんですね。…基本的に米軍が一番沖縄が便利だという理由は あるんですけど、分散しようと思えば九州でも分散できる」と答 えている(平成 26 年3月 30 日「ぼくらが見にいく!在日米軍基 地 沖縄に行ってきた!」)。 このように、そもそも在沖米海兵隊の配備は分散されており、 また、グアム移転を進めた場合には更に分散されるが、グアム移 転による分散配備によっても、米海兵隊ひいては在日米軍のプレ ゼ ン ス を 中 心 と す る 抑 止 力 は 十 分 に 維 持 さ れ る と 日 本 政 府 が 判
36 断していることは明らかであろう。 (3) 以上のことから、一体が保持されなくとも抑止力は維持できる のであるから、一体性維持のために代替施設を沖縄県内に移設する 必要があるとする根拠とはならない。「近くにいれば便利だし、安 上がりだ」ということは理由とはならない。 4 海兵隊のその他の任務等 (1) 偵察・監視任務や人道支援・災害救助への対応等 審 査 請 求 人・執 行 停 止 申 立 人 は 一川回答(13 ペ ージ )に て、海 兵 隊 の MAGTF 以 外 の 出 動 場 面 と し て 、 敵 地 に お け る 偵 察 ・ 監 視 、 民 間 人 の 救 出 活 動 、捜 索 救 難 活 動 や 人 道 支 援・災 害 救 助 へ の 対 応 な ど を 挙 げ る 。 し か し 、「 侵 略 を 行 え ば 耐 え 難 い 損 害 を 被 る こ と を 明 白 に 認 識 さ せ る こ と に よ り 、侵 略 を 思 い と ど ま ら せ る と い う 機 能 を 果 た す も の 。 」 と い う 政 府 の 抑 止 力 の 理 解 ( 平 成 22 年 6 月 8 日 付 け 内 閣 衆 質 178 第 518 号 )か ら す れ ば 、こ れ ら の 活 動 は 抑 止( 力 )は 無 関 係 で あ っ て 、普 天 間 飛 行 場 の 代 替 施 設 を ど こ に 建 設 す る か と い う 問 題 と い う 議 論 に 影 響 を 及 ぼ す も の と は い え な い 。 (2) 合同訓練の必要性 合 同 訓 練 は ど の 地 域 で も 実 施 可 能 で あ っ て 、 訓 練 実 施 の た め に 「海兵隊の部隊同士は…相互に近傍にある必要がある」(パンフレ ット 16 ページ)との説明は、前述のように「近くにいれば便利だ し、安上がりだ」という以上のものではなく、普 天 間 飛 行 場 の 代 替 施 設 を ど こ に 建 設 す る か と い う 問 題 と は 無 関 係 で あ る 。 5 まとめ 以上のように、普天間飛行場を沖縄県外へ移設したとしても、①機 動性・即応性が損なわれるものではなく、②一体性は維持されるので
37 あって、普天間飛行場の国外移設又は県外移設は、在日米軍全体のプ レゼンスや抑止力を低下させるものではない。 以上述べたことから、少なくとも普天間飛行場の代替施設が県内に 建設する必要がないことは明らかである。 第4 米軍の騒音防止協定等の不順守と国の放置 1 はじめに 宜野湾市の中心部を占拠する普天間飛行場は、違法な運用によって 航空機騒音などの被害を発生させるとともに、振興開発の深刻な阻害 要因となっているものであり、速やかにその運用を停止して閉鎖され るべきものである。問題の原点は、あくまで、普天間飛行場を閉鎖し て沖縄県から基地被害を除去することにある。 しかし、審査請求人・執行停止申立人は、日々発生する住民への基 地被害に対して米国に対しては毅然と是正を要求することをせず、他 方で、沖縄県内に新基地を建設していわば基地被害を沖縄県内に移設 することにより、あくまで沖縄県内に基地被害・負担を固定しようと している。 2 平成8年騒音防止協定の不順守・形骸化 審査請求人・執行停止申立人は、辺野古新基地建設を「普天間にお ける被害の軽減のための『唯一の方法』」として位置づけ、本件埋立 承認出願に先立って行われた、環境影響評価手続における「航空機の 運航に伴って発生する航空機騒音」の評価においても、米軍が「周辺 地域上空を基本的に回避する」とし、主としてそのことを理由として 「事業者の実行可能な範囲内で最大限の低減が図られているものと評 価し」たとする。 しかし、このような抽象的な文言をもって基地被害が発生しないと いうのであれば、普天間飛行場や嘉手納飛行場では、基地被害は発生
38 しないことになる。 すなわち、平成8年3月 28 日、嘉手納飛行場及び普天間飛行場の 航空機騒音を軽減するため、日米合同委員会において、「嘉手納飛行 場及び普天間飛行場における航空機騒音規制措置に関する合同委員会 合意」(以下、「平成8年騒音防止協定」という。)において「場周 経路は、できる限り学校病院を含む人口稠密地域上空を避けるよう設 定する。」こと等が合意された。 しかし、残念ながら、かかる合意はなんらの実効性もなく、普天間 飛行場や嘉手納飛行場の運用によって、日々、住民に被害が生じてい る。 いっこうに改善されることのない基地被害のため、飛行場基地の周 辺住民は、数次にわたって訴訟を提起し、すでに判決がなされた訴訟 においては、すべて国による違法な法益侵害の存在が認められ、損害 賠 償 請 求 が 認 容 さ れ 訴 訟 に 参 加 す る 原 告 の 数 も ま す ま す 増 加 し てい る。 なかでも,第1次普天間爆音訴訟控訴審判決(福岡高等裁判所那覇 支部平成 22 年7月 29 日判決)においては、「平成8年規制措置は、 事実上、形骸化していると言っても過言ではない。」(注 下 線は代 理人) と判示し、国が米国に対してなんら実効的な対応をしてこなかったこ とを断罪している。 この事実は、国が、平成8年騒音防止協定から 20 年近くが過ぎよ うとする現在に至ってもなお、これを遵守させるために実効的な措置 を採ることなく今もなお、基地被害を蔓延させていることを端的に物 語っている。 3 MV-22 オスプレイに関する平成 24 年合意の不順守・形骸化 さらに、MV-22 オスプレイに関しても、日米合同委員会の合意は実