現代台湾の地域政治と歴史認識 : 台湾の地域史博 物館における「日本」理解 (福田雅章教授退職記念 号)
著者名(日) 松本 武彦
雑誌名 山梨学院大学法学論集
巻 65
ページ 167‑184
発行年 2010‑03‑10
URL http://id.nii.ac.jp/1188/00000376/
論
現
説代 台 湾 の 地 域 政 治 と 歴 史 認 識
││ 台湾 の地 域史 博物 館に おけ る﹁ 日本
﹂理 解│
│
松 本 武 彦
目 次 一 はじ めに 二 宜蘭 地域 の歴 史と 現況 三 宜蘭 設治 紀念 館の 概要 四 展示 概要 五
﹁日 本﹂ 関係 展示 六 小結
一 はじ めに 現代
地域 社会 の政 治動 向と その 地域 での 歴史 認識 が︑ きわ めて 有機 的な 関連 性を 有し てい るこ とは 言う まで も無 い︒ 現代 台湾 にお いて も︑ 各地 域が 持つ 政治 的な 特質 と︑ その 地域 にお ける 歴史 認識 は密 接に 関わ り合 って いる
︒た とえ ば︑ よく 言わ れる よう な︑ 官庁 や軍 の施 設が 集中 し︑ した がっ て公 務員 や軍 人と その 家族 の割 合が 比較 的高 い 台北 にお いて は︑ 民進 党政 権登 場以 後に おい てす ら︑ 国民 党支 持層 が多 数を 占め
︑一 方︑ そう した 政治 性を 示す 台 北と 対照 的な
︑す なわ ちい わゆ る本 省人 の占 める 割合 が高 い台 南や 高雄 とい った 南部 地域 にお いて
︑反 国民 党感 情 が強 い︑ とい った 命題 は︑ 一九 四五 年あ るい は一 九四 九年 とい った 年に 象徴 され る︑ 台湾 史に おけ る重 大な 政治 変 動の まさ に結 果に よる もの にほ かな らな い︒ 本稿 は︑ 台湾 東北 部の 宜蘭 地方 を例 に︑ この 地域 が培 って きた 政治 的特 質と
︑そ こで の歴 史認 識の 関連 性に つい て︑ とく に宜 蘭に おけ る博 物館
︑具 体的 には 宜蘭 史に かか わる 地方 博物 館で ある 宜蘭 設治 紀念 館に おけ る日 本認 識 の考 察を 通じ て︑ 検討 する こと とを 目的 とし てい る︒ 以上 の目 的を 達す るた めに
︑ま ず︑ 宜蘭 の歴 史と くに 近代 以降 のそ れと 現況 につ いて 概観 する
︒次 に︑ 宜蘭 設治 紀念 館の 概要 を明 らか にし
︑そ こで の展 示内 容全 体を 紹介 する
︒し かる 後に 紀念 館の
﹁日 本﹂ 関係 展示 の概 要と そ の特 質を 検討 した い︒
二 宜蘭 地域 の歴 史と 現況 宜蘭
県は
︑台 湾島 の東 北部 に位 置し
︑東 は太 平洋 に面 し︑ 北︑ 南︑ 西は 雪山 山脈 およ び中 央山 脈に よっ て外 界と 隔て られ
︑そ の隔 絶ぶ りか ら古 代よ り﹁ 夢中 浄土
﹂と も呼 ばれ てい る地 域で
( )
ある
︒
この 地域 の中 核的 な都 市で ある 宜蘭 市は
︑台 湾の 東海 岸北 部︑ 蘭陽 平野 の中 央に 在っ て︑ 宜蘭 県の 政治
︑経 済︑ 文化
︑教 育の 中心 であ り︑ 人口 の集 中す る区 域で
( )
ある
︒
二〇
〇七 年の 統計 で︑ 台湾 地区 の人 口約 二二 七九 万人 のう ち︑ 約四 六万 人を 占め
︑台 湾地 区二 三市 県の なか で下 から 七番 目︑ 人口 密度 でも 下か ら三 番目 の一 平方 キロ メー トル あた り約 二一 五人 とな って
( )
いる
︒
一戸 あた りの 平均 月収 は約 八万 台湾 ドル
︵元
︶で
︑台 湾地 区全 体の 平均 月収 約九 万六
〇〇
〇元 に及 ば
( )
ない
︒
各戸 ごと の月 平均 消費 支出 を見 ると
︑台 湾地 区全 体が 約六 万元 であ るの に対 し宜 蘭県 は約 五万 四〇
〇〇 元で
︑そ の内 訳は
︑食 料費 が約 一万 一〇
〇〇 元︑ 医療 保険 費が 約一 万元
︑﹁ 娯楽 教育 文化 等﹂ 費が 約六
〇〇
〇元 とな って お り︑ 貯蓄 率は 台湾 地区 の平 均が 約二 二パ ーセ ント であ るの に対 し宜 蘭県 は約 一六 パー セン トで
︑台 湾地 区全 体で は 下か ら四 番目 とな って
( )
いる
︒
総体 とし ての 人口 や経 済規 模は 小さ いが
︑県 民の 消費 生活 は必 ずし も平 板と いう わけ では なく
︑む しろ 平均 以上 の消 費傾 向を 示し てい る︒ カラ ーテ レビ の各 家庭 への 普及 率は 一〇
〇パ ーセ ント
︑自 家用 車六 一・ 四パ ーセ ント
︑ モー ター バイ ク八 四・ 三パ ーセ ント でこ れら は台 湾地 区の 平均 より も高 く︑ 電話 九七
・三 パー セン ト︑ エア コン 八
四・ 七パ ーセ ント も平 均と 同程 度で あり
︑家 庭用 パソ コン でも 五四
・五 パー セン トと いう 普及 率を 示し て
( )
いる
︒
一七 世紀
︑宜 蘭に は︑ 先住 民の 平埔 族約 一万 人が 居住 し︑ その ほか にも 泰雅 族が 存在 した が︑ その 後少 数の 漢民 族の 進出 をみ
︑一 八世 紀末 オラ ンダ の占 領時 代に なる と漢 民族 は一 二〇
〇人 を数 え︑ 一九 世紀 初め には 漢民 族約 七 万一
〇〇
〇人
︑平 埔族 約五 万六
〇〇
〇人 と人 口が 急増 し︑ 一九 世紀 末に は︑ 特に 漢民 族は 約一 一万 四〇
〇〇 人と さ らに 増加 して
︑清 朝治 下の 一八 七五
︵光 緖元
︶年
︑こ うし た趨 勢に 対応 した もの であ ろう
︑台 湾府 のも とで 宜蘭 県 が設 置さ
( )
れた
︒
日清 戦争 とそ の後 に締 結さ れた 条約 に基 づい て︑ 日本 によ る台 湾領 有が 開始 され るこ とと なる と︑ 日本 軍が 一八 九五
︵光 緒二 一・ 明治 二八
︶年 六月 宜蘭 に進 駐し
︑台 北県 宜蘭 支庁 が開 庁す るに 至
( )
った
︒ 各地 と同 様︑ 宜蘭 でも 抗日 遊撃 隊に よる 抵抗 運動 が起 こる なか
︑九 七年 五月
︑初 代庁 長と して 西郷 菊次 郎が 赴任 し︑ 彼に よっ て︑ 後に 設治 紀念 館が 置か れる こと とな る宜 蘭庁 長官 官舎 が建 設さ
( )
れる
︒
!
九八 年以 降︑ 宜蘭 庁の 設置
︑台 北地 方法 院宜 蘭出 張所 開設
︑宜 蘭小 学校 開校
︑台 湾銀 行宜 蘭出 張所 開設
︑第 一三 憲兵 隊宜 蘭分 隊の 駐屯 開始 等々
︑政 治・ 経済
・軍 事・ 教育 等の 施策 が着 々と おこ なわ
( )
れた
︒
10
しか し︑ 先住 民に よる 抵抗 は止 むこ とが なく
︑一 九〇
〇年 には 宜蘭 近郊 での 蜂起 が頻 発
( )
した
︒
11
二〇 世紀 に入 り一 九一
〇年 代か ら三
〇年 代に は︑ 宜蘭 は米 と砂 糖の 生産 によ って 経済 的な 地位 を高 め︑ さら には 日本 の敗 戦ま で軍 需工 業も 発展
( )
した
︒
12
さて
︑第 二次 世界 大戦 後に なる と︑ 国民 党遷 移後 の土 地改 革に よっ て︑ 自作 農の 比率 が上 昇し
︑一 九五
〇年 には 三〇 パー セン ト︑ 五九 年に は五 一パ ーセ ント と増 加す る一 方で
︑小 作農 は五
〇年 四五
・六 パー セン ト︑ 五九 年二 一・
六パ ーセ ント と着 実に 減少 する 変化 をみ
( )
せた
︒
13
こう した なか で︑ 人口 の流 出と 出生 率の 低下 によ り︑ しだ いに 人口 の減 少を みる こと とな っ
( )
たが
︑一 九九 五年 時
14
点で は︑ 県総 人口 四六 万五
〇四 三人
︑う ち︑ 泰雅 族人 口が 一万 二五 八人 であ り︑ 九〇 年時 点で は外 省人 は二 万九 二 五六 人で あ
( )
った
︒こ うし た民 族グ ルー プの 構成 は現 在も 継続 して いる と考 えら れ︑ 宜蘭 県に おけ るい わゆ る本 省人
15
の数 的優 位を 知る こと がで きる
︒ 宜蘭 県の 政治 的状 況︑ 特に 国民 党と 民進 党の 消長 につ いて は︑ 近年 の県 長選 挙に おけ る民 進党 の優 位と
︑県 議会 にお ける 国民 党の 優位 が指 摘で きる
︒長 い国 民党 県長 時代 をへ て第 九期 の県 長選 挙に 非国 民党 候補 陳定 南が 初め て 当選 し︑ 一九 八一 年一 二月 から 二期 八年 その 職に 就い てか ら︑ 一一 期・ 一二 期に 游錫 堃︑ 一三 期・ 一四 期に 劉守 成 が民 進党 出身 候補 とし て県 長選 挙に 出馬 し当 選
( )
した
︒
16
その 後︑ 一時 国民 党が 県長 職を 奪回 した が︑ 二〇
〇九 年一 二月 の統 一地 方選 挙で は︑ 民進 党系 県長 が復 活し
︑総 統選 以来 の全 台的 な民 進党 の退 潮傾 向に 歯止 めを かけ る動 きの 一翼 を担 うこ とと な
( )
った
︒
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県議 会に おけ る勢 力関 係に つい て︑ たと えば 九八 年一 月の 県議 会議 員選 挙の 出身 党派 別数 は︑ 国民 党系 議員 二一
︑ 民進 党系 八︑ 無所 属五
︑と なっ てお り︑ また
︑同 時期 の県 内各 市長 選挙 の結 果は
︑国 民党 系五
︑民 進党 系三
︑無 所 属四 が当 選し て
( )
いる
︒
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一九 八〇 年代 以降
︑非 国民 党出 身の 首長 が宜 蘭の 地方 政治 を担 当し た時 期に は︑ 宜蘭 の地 方的 特色 を経 済資 源
( )
とし
︑中 央依 存か らの 脱却 をね らっ て︑ 地域 経済 の自 立を 図っ た︒ 宜 19
蘭設 治紀 念館 が準 備時 期を へて
︑正 式に 開館 した のは こう した 民進 党出 身首 長時 代の 一九 九七 年一 二月 であ
( )
った
︒
20
三 宜蘭 設治 紀念 館の 概要 一九
九七 年一 二月 一三 日に 宜蘭 設治 紀念 館と して 開館 した 旧宜 蘭県 長官 庁舎 は︑ 一九
〇〇 に建 設さ れた 当初 は︑ 敷地 八〇
〇坪
︑建 坪七 四坪 の広 さを
( )
もち
︑庁 舎の 周囲 に枯 山水 の日 本庭 園が 築か れ︑ 庁舎 の建 物自 体は
︑和 風木 造
21
建築 と西 洋古 典建 築の 融合 した 外観 を持 って
( )
いた
︒
22
紀念 館が ある のは
︑現 在は 旧城 南門 地区 と呼 ばれ る︑ 日本 統治 時代 には 多く の植 民地 統治 の機 関が おか れ︑ 南門 の外 には
︑台 湾の 一般 家屋 と比 較す れば 敷地 が広 く建 物も 大き い官 舎群 があ った 地区 で︑ その 数は
︑一 九〇 七年 時 点の
﹁官 舎増 築配 置図
﹂で は全 部で 一〇 棟を 確認 で
( )
きる
︒
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戦後 も宜 蘭県 政府 はこ の地 にあ った が︑ 近年
︑宜 蘭市 の南 郊に 移転 した ので
︑こ の地 域は
︑商 業地 区と 住宅 地区 が混 在す る地 区と なっ て
( )
いる
︒ま た︑ 市街 地の 拡大 にと もな って
︑旧 城壁 の外 側に デパ ート や外 資系 のフ ァス トフ
24
ード 店が 入居 する 複合 施設 など も建 設さ れて いる
︒ 紀念 館は 宜蘭 地方 の成 長・ 発展 の記 憶を 象徴 する もの とな って いる と同
( )
時に
︑紀 念館 に隣 接し て公 園︵
﹁南 門林
25
園﹂
︶が 整備 され つつ あり
︑こ の公 園と 一体 とな った 周辺 地域 全体 も︑ 宜蘭 市民 の憩 いの 場と なっ て
( )
おり
︑紀 念館
26
同様
︑宜 蘭地 域の 歴史 的な 成長
・発 展の 象徴 的場 所と なっ て
( )
いる
︒
27
さて
︑紀 念館 が開 設さ れた 背景 には
︑次 のよ うな
︑宜 蘭県 のみ なら ず台 湾全 体の 社会 動向 が
( )
ある
︒す なわ ち︑ 一
28
写真 宜蘭設治紀念館地区への入口 写真 宜蘭設治紀念館玄関