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Mewāṛī Gītagovinda 細密画について
Mewāṛ 派はラージプート画の流派において初期に現れたものであり、ラージャスターニ
ー派の中でも重要な流派の一つとされる。ここでは、MewāṛīGGが描かれるまでのMewāṛ派 の歴史的展開と、MewāṛīGGの絵画的特徴について概説したい96。
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書と言われており98、Premlata Sharmaによると、RasikapriyāとSaṅgītarāja 2. 4はほとんど同 時代に書かれたと推定されている99。また、Kumbhā がチットールに建てた寺院や宮殿、そ して勝利の塔(Kīrttistambha)からは、技術の高さが見てとれ、彼が熱心な建設者であった ことも窺える。
さて、話しをもとに戻そう。イスラーム勢力に対抗して、Rānā Udai Siṅgh II(在位 1536-72 年)は首都をチットールからウダイプルに移した。しかし、イスラームとの戦いによっ
てMahārāṇā Amar Siṅgh I(在位1597-1620年)は首都ウダイプルを手放し、チャーワンド100
に移り住んだ。
このAmar Siṅgh Iの時代にチャーワンドで描かれたRāgamālāのシリーズがMewāṛ派に
おいて最も古い作品である。この作品は、1605年にNāsir ’ud Dīnと呼ばれる画家によって 描かれ、「先行する西インド系、スルターン系、ムガル系の細密画の流派を統合したMewāṛ 派の最初のランドマークが確立された」101と言われている。章末の図版にそのシリーズの一 部を掲載したので見ていきたい。図9に描かれている人物たちは、初期のラージプート画の ように、頭のてっぺんは平らで顔は四角い。目の大きさは初期の頃と比べて小さくなったが、
目じりはこめかみの方まで長く描かれる。衣服の先端は突き出して尖っているが、チャウラ パンチャーシカー様式と比べ自然な描写に近づいている。建物はイスラーム様式のドーム が描かれており、部屋の中は遠近感がなく平坦である。また色彩は、原色の赤が目立つが、
建物の壁や自然描写には落ち着いた色も用いられている。絵画の一番外枠は黄色くその上 部には場面の説明が書かれており、さらに朱色の線と赤い枠と黒い線で絵の周りが囲まれ ている。このように、初期のラージプート画の特徴が残っており、大胆に塗られた色彩や平 坦な場面構成にこの作品の特徴を見い出せるだろう。
17 世紀の半ばになると、Mewāṛ 派は最盛期をむかえる。絵画や建築に精通していた
Mahārāṇā Jagat Siṅgh I(在位1628-52年)は、莫大な量のヒンドゥー教の絵画付き写本を、
画家Sāhibdīn102に依頼した。そして、Mewāṛ派の独特な様式を発展させたのがこのSāhibdīn
であった。彼はRāgamālā、GG、Rasikapriyā、BhagP、Rāmāyaṇaといった多くの文学作品を 絵画として残している。本章末に挙げた図10の彼の作品の一つを見ていきたい。これはGG のシリーズの一部であり、中央にラース・リーラー103が描かれ、場面の右端に別離している ラーダーが描かれていることから、おそらくGG第 2章第5の歌を描いたものであると考
98 [清水 2001: 20]
99 [Sharma 1963: 45-46]
100 Akbar帝が北西部の情勢を見守るためにラーホールに長くとどまっている最中、Mahārāṇā Pratāpはこ
の有利な情勢に乗じて、クンバルガル、チットール周辺地域を奪回した。しかし、チットール自体は回復 できず、今日のドゥーンガルプルの近くに新首都チャーワンドを建設した[チャンドラ 1999: 255]。
101 [Andhare 1987: 18]
102 Nāsir ’ud Dīnの子孫と考えられている[Andhare 1987: 53]。Mewār派の画家の名前は崩れて書かれるこ とが多く、SāhibdīnはおそらくShihāb ’ud Dīnが訛ったか崩れた形であり、彼の作品にはSāhīvadīn(1628 年)、Sāhībadīn(1629年)、Sāhabadī(1648、1655年)、Sāhībadī(1652年)として写本に名前が載ってい る。Sāhibdīnの綴りは、現在の親しみやすさを理由にこの形が保持されている[Topsfield 1981: 231]。
103 ラース・リーラーについては、本論文3. 3を参照されたい。
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えられる。人物を見てみると、Nāsir ’ud Dīnの作品と違って人物の頭は丸みを帯びて描かれ ており、衣服の裾も図9に挙げた作品に比べてより自然な描写に近づいている。ラース・リ ーラーの描写は様々な形で描かれる104。ここでは、赤と黄色に塗られた二十の円が描かれて おり、中央の円にはクリシュナが置かれ、外側の円には牛飼いの女性たちが描かれる。これ は、ラース・リーラーが行われる満月を表したものと考えられる。またAhluwaliaは、この 象徴的な構成は恋のラサを喚起させると述べている105。
Mewāṛ派の絵画構成の発展において、SāhibdīnによるRāmāyaṇaにも触れておきたい。現
在大英図書館に所蔵されているこの作品は、7巻からなる全部で450枚の大作で、Sāhibdīn はそのうちの2巻を描いた。この作品では、初期のラージプート画に描かれたBhagPのよ うに場面を上下に区切って時間的経過を表現するのではなく、一つの場面上に、同じ人物を 複数人描くことで時間の経過を表した、躍動感にあふれたものである。さらに、物語の場面 を真横から描くのではなく、斜め上から見降ろすような構図で描かれる。この構図はおそら くムガル画の手法を取り入れたものと考えられている106。このように、Sāhibdīnは絵画に新 たな手法を取り入れて、Mewāṛ派を発展させた。
17世紀の最後の四半世紀には王様の肖像画も描かれるようになり、そして18世紀には宮 廷の様子や狩りの様子を描いた巨大な作品も描かれるようになった。このような作品は、
Sāhibdīnが用いたような時間の経過を表した手法が使われていた。
Mahārāṇā Amar Siṅgh Ⅱ(在位1698-1710年)は、自身の肖像画を数多く描かせた。この
時描かれた作品は、Akbar帝時代に描かれたモノトーンの線画107と一部分に色を付けた技法 に影響を受けているとされる。そのためAmar Siṅgh Ⅱの肖像画に見られるように陰影が過 度についたものもあり、それらは独特の黒っぽい外観をしている(図11)。
Mahārāṇā Saṅgrām Siṅgh Ⅱ(在位1710-34年)の時代には、Amar Siṅgh Ⅱの肖像画のよう
な過度に陰影のついた作品は描かれなかった。Saṅgrām Siṅgh Ⅱは肖像画よりも宮廷の様子 や狩りの様子を描いた大型の作品108を好んでおり、Mewāṛ 派に新しい流行をもたらした。
さらに、18 世紀初頭にムガルの宮廷を経由して、オランダ東インド会社からヨーロッパの
派遣団がUdaipurにやってきた。Saṅgrām Siṅgh Ⅱは、そのときに派遣された外国人の肖像
画も描かせている109。
このように、Saṅgrām Siṅgh Ⅱは宮廷での出来事を数多く描かせたが、それだけではなく、
数百枚からなるテクスト付きの細密画も描かせた。彼はヴィシュヌ派の信者と言われてお り110、Satsaī(七百吟)111やRāmāyaṇaそしてMewāṛīGGを描かせた。
104 本論文3.3を参照されたい。
105 [Ahluwalia 2008: 53]
106 Ibid., 54。Sāhibdīnの作品には、建物や自然描写にムガル画の影響が見られ、特に岩山の描写は顕著で
ある。この描写はMewāṛīGG にも残っており、詳しい分析は本論文3.2を参照されたい。
107 nīm qalamと呼ばれる技法。
108 一辺が1メートルを超える作品が作られていた。本論文3.5の図版を参照されたい。
109 [Ahluwalia 2008: 59]
110 [Bhatnagar 2000: 62]
111 17世紀初頭、作詩法文学時代のジャイプルの宮廷詩人Bihārīによる作品[ドゥヴィヴェーディー
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