3.8 MewāṛīGG Folio 104
3.8.3 Kumbhā による註釈
idānīṃ bhaktyākhyā bhāvitamaraṇaśaṃsanamiṣeṇa tanmanaḥ prarocayati ---seti | he svarvaidyapratima aśvinīkumārasadr̥śarūpa | etāvaty atanujvare etāvatīm avasthāṃ prāptavaty atanujvare | pakṣe atanujvare mahati jvare sati yadi prasīdasi tataḥ sā varatanuḥ tava rasāt śr̥ṅgārāt kiṃ na jīvet | api tu jīved eva | anyathā cen na prasīdasi tadā anta evāntakaḥ maraṇaṃ nāsi, maraṇahetutvāt tvam eva maraṇam iti | athavā | he svarvaidyapratima aśvinīkumāratulya vaidya, yadi prasīdasi tatas te rasāt pāradādiniṣpannauṣadhāt sā varatanur na jīvet | api tu jīved eva | anyathā antako yamo nāsi | api tu yama eva | varatanur iti hetugarbhaṃ viśeṣaṇam | tena sā tanurūpeti kr̥tvā avaśyaṃ jīvanīyeti tātparyam |
さて、バクティと呼ばれる〔信愛の感情〕が、起こりそうな死を口実にして、〔彼女の〕
心の変化を表している―――〈彼女は〉云々と。おお、〈天の医者のようなお方よ〉、〔す なわち〕アシュヴィニーの息子のような姿のお方よ。〈このような高い熱〉があるので
〔すなわち〕このような状態に到達したので、〈高い熱〉がある。一方では、〈高い熱〉
〔すなわち〕より高い熱があるので、〈もし〉、〔あなたが〕〈慈悲深いなら〉〈彼女〉が
〔すなわち〕〈美しい身体をした女性が〉、あなたの〈ラサによって〉〔すなわち〕恋〔の ラサ〕によって〈生き返らないことがあろうか〉。いや、まさに生き返るだろう。〈そう でなければ〉、〔すなわち〕もし慈悲深くないなら、まさに最期をもたらすもの、〔すな わち〕死そのものになるのではないか。まさにあなたが死の原因であるがゆえに、あな たこそが死である〔という意味である〕。あるいはまた。おお、〈天の医者のようなお方 よ〉〔すなわち〕アシュヴィニーの息子のようなお方よ〔すなわち〕医者よ、〈もし〉〈慈
253 etāvaty atanujvareは、etādr̥śy atanujvareと表記されるものもある[Telang 1923: 72]。Śaṅkaramiśraの註で は後者となっている。
254 ヴェーダ神話のアシュヴィン双神のこと。『リグ・ヴェーダ』では農業・家畜、とくに馬との関係が説か れ、安産、病気の治療、老いた者に若さを取り戻させる力があるとされる[菅沼 1987: pp.14-15]。
255 Śaṅkaramiśraの註釈を考慮すると、クリシュナが苦悩しているラーダーを助けなければ、ラーダーによ
ってクリシュナは見放されてしまうという意味になる。
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悲深いなら〉、〈あなた様の〉〈ラサによって〉〔すなわち〕水銀などに由来する薬によっ て、〈彼女〉は〔すなわち〕〈美しい身体をした女性〉は生き返ることはないのであろう か。いや、まさに生き返るだろう。〈そうでなければ〉、最期をもたらす者〔すなわち〕
ヤマではないのか。いや、まさにヤマである。〈美しい身体をした女性〉とは、原因を 持つ者という形容詞である。それゆえ、彼女は華奢な姿として〔描いて〕、必ず生かす べきであるという意味である。
Kumbhāは上記のように偈文の後半から説明している。ラーダーはクリシュナへの愛ゆえ
に苦悩し、高い熱を出しているとされる。Kumbhāはこのようなラーダーの状態はクリシュ ナへのバクティと解釈している。そして、その熱からラーダーを救うには、クリシュナによ る恋のラサ、あるいは水銀薬としてのラサが必要であることを述べている。そして、ラーダ ーを救わなければ、クリシュナは死の神ヤマであると解釈している。
さらにKumbhāは、偈文の前半部分についてNŚを引用しつつも独自の解釈を入れて次の ように説明している。
sā rādhā na kevalaṃ bāhyavr̥ttyā tvayy anuraktā kiṃ tu sātvikabhāvenāpi256 tvad āyattajīviteti darśayanty āha | tān eva sātvikān bhāvān vivr̥ṇoti ---sā romāñcatīti | ‘stambhaḥ svedo ’tha rāmāñcaḥ257 svarabhaṅgo ’tha vepathuḥ | vaivarṇyam aśrupralayāv ity aṣṭau sātvikā matāḥ’ | sā rādhā romāñcati | romāñco vidyate yasya sa romāñcita ity arthaḥ | tadvad ācarati romāñcati | akāro ’tra matvarthīyaḥ | romāñcatītyādinā romāñca uktaḥ | sītkarotīti258 vaivarṇyam | vilapatyudyātibhyām aśru | udyātīti niḥsarati | utkampatyudbhramatibhyāṃ vepathuḥ | tāmyatinā svedaḥ | dhyāyatipatatibhyāṃ stambhaḥ patatīti vaiparītyena tapatir vaivarṇye yojanīyaḥ | pramīlatinā svarabhaṅgaḥ | mūrcchatinā pralayaḥ | ity evam aṣṭau sāttvikāḥ pradarśitā bhavanti | sanmanastatprabhavāḥ259 sāttvikāḥ |
〈彼女〉〔すなわち〕ラーダーは、外側の振舞いであなたに惹かれているばかりでなく、
sāttvika-bhāvaによっても、あなたを頼りに生きていると示され、〔このように〕言われ
ているのである。まさにそれらの感情によって引き起こされる状態(sāttvika-bhāva)を 示そうと、〔次のように〕言われる―――〈彼女〉は〈総毛立つ〉云々と。「硬直(stambha)、 汗(sveda)、そして総毛立つこと(romāñca)、口ごもること(svarabhaṅga)さらに身震 いすること(vepathu)、顔色が変わること(vaivarṇya)、涙(aśru)〔を流すこと〕と失神
(pralaya)とが8つのsāttvikaとして知られる」260。〈彼女〉〔すなわち〕ラーダーは〈総 毛立っている〉。総毛立ちがあるその人が、総毛立っているという意味である。そのよ
256 sātvika=sāttvika
257 rāmāñcaḥはromāñcaḥの誤表記と考えられるため、後者で訳した。
258 sītkaroti=śītkaroti
259 sāttvikaを通俗的語源解釈しようとsanmanastatprabhavāḥを用いている。
260 NŚ 6.22[上村 1990: 367-368]を参照。sāttvika-bhāvaは「involuntary states(無意識の状態)」と訳される
[上村 1990: 13]。sāttvika-bhāvaの詳しい解説については[上村 1990: 333-342]を参照のこと。
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うな〔状態に〕なることが〈総毛立つ〉ことである。ここでは、a字はそれを所有する ものという意味合いである261。総毛立つという〔語〕などによって、総毛立ったと言わ れる。〈あえぐ〉という〔語は〕、顔色の変化〔にあてはまる〕。〈嘆く〉〔という語〕と
〈立ち上がる〉〔という2つの語〕によって涙が〔流れ出すことが〕ある。〈立ち上る〉
とは、立ち去る〔ことである〕。〈震える〉〈ふらふら歩き回る〉という2つの語は、身 震い〔と関係している〕。〈憔悴する〉ことは、汗〔に関係している〕。〈沈み込む〉〈倒 れる〉という2つの語は、硬直〔に関係している〕。〈倒れる〉とは〔語順を〕ひっくり 返すことによってtapati(苦悩する)となり262、顔色の変化に関係する。〈目を閉じる〉
ことは、口ごもること〔に関係している〕。〈気を失う〉ことは失神〔と関係している〕。 以上、このように8つのsāttvikaの説明がなされた。良き心があり、それが生じた者が sāttvikaである。
このように、Kumbhāは偈文の前半部分にあるラーダーの身体的特徴や行動はNŚで説かれ
るsāttvika-bhāvaであると解説している。sāttvika-bhāvaは役者の身体に現れた特徴とされる
ので263、これらのラーダーの様子はsāttvika-bhāvaと考えられる264。しかし、NŚのそれぞれ
の sāttvika-bhāva にすべて対応するという主張は理解し難く、Kumbhā の独創的な主張が見
て取れる。
idam ākūtam | tvayyāropitamanaskā tvayā jīvanīyanti | anyathā āśritatyāgalakṣaṇaṃ dūṣaṇam apīti bhāvaḥ || śārdūlavikrīḍitaṃ vr̥ttam | atra dīpakam alaṃkāraḥ | vipralambhākhyaḥ śr̥ṅgāro rasaḥ | atra pūrvārdhena sthāyibhāvā uktāḥ | taduktam ---‘ratir hāsaś ca śokaś ca krodhotsāhau
261 matup接辞として解釈され、総毛立つことを持つ者という所有の意味合いである。
262 taとpaの語順を入れ替えるという意味。
263 [上村 1990: 333]
264 Kumbhāは、ラーダーの身体的様子を歌った個所と、NŚで説かれるsāttvika-bhāvaとを無理やり対応さ
せ独自の理論を展開している。以下は対応表である。
NŚ Kumbhāの註釈
硬直、無気力(stambha) 考え込む(dhyāyati)。倒れる(patati)
汗(sveda) 憔悴する(tāmayati)
総毛立つこと(romāñca) 総毛立つ(romāñcati)
口ごもること(svarabhaṅga) 目を閉じる(pramīlati)
身震いすること(vepathu) 震える(utkampati)。ふらふら歩き回る
(udbhramati)
顔色が変わること(vaivarṇya) あえぐ(sītkaroti)、倒れる(patati)
涙(aśru) 嘆く(vilapati)。立ち上がる(udyati)
失神(pralaya) 気を失う(mūrcchati)
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bhayaṃ tathā | jugupsāvismayaśamāḥ sthāyibhāvāḥ prakīrtitāḥ ||’ iti | sāttvikāś ca pūrvata eva uktāḥ || aham ityādy anukūlo nāyako dakṣiṇo vā | utkaṇṭhitā nāyikā | sakhī dūtītvena sahāyinī | tal lakṣaṇam ---‘pravr̥ttikuśalā dhīrā gūḍhamantradr̥ḍhapriyā | svatantrā vidhavā dāsī duṣṭā pravrajitā sakhī | mālākārādinārī ca kāryā dūtīṣṭasiddhaye’ |
これが意味することである。あなた(クリシュナ)に心を寄り添わせている女性(ラー ダー)は、あなたによって生かされている。そうでなければ、〔クリシュナを〕頼った り 捨て たり する こと は 、 正反 対〔 の行 為〕 でも ある とい う意 味で ある 。韻 律は
śārdūlavikrīḍita265である。ここでは、修辞法はdīpaka(照明)266である。別離と言われる
恋のラサである。ここでは、〔詩の〕前半〔部分〕によって sthāyibhāva(基本的感情)
が述べられている。〔それは〕次のように言われる―――「喜悦、笑い、悲しみ、怒り、
力、恐れ、そして嫌悪、驚き、静寂がsthāyibhāva(基本的感情)であると言われる」267。 そして、sāttvikaであることはまさに既に述べられた。「私」等々は、〔妻に〕誠実な男
(anukūla nāyaka)268あるいは巧妙な男(dakṣiṇa nāyaka)である。〔女主人公は不在の夫・
愛人を〕熱望する女性(utkaṇṭhitā nāyikā)である。女友達(サキー)は、使者として援 助する女性である。その定義は―――「立ち居振る舞いにたけた女性、落ち着きのある 女性、秘密のマントラを固く守る愛人(=口の堅い愛人)、成熟した女性、未亡人、女 召使、ふしだらな女性、女性苦行者が、サキー(女友達)である。そして花輪造りの女 性などは、望みを成就するために伝言係として役立つ者である」269。
Kumbhāは、修辞法の説明の他に、偈文には別離の恋のラサが表現されていると述べる。ま
た、偈文の前半部分はsthāyibhāva(基本的感情)であると説明されることから、ラーダーの これらの行動が鑑賞者のsthāyibhāvaに結びつくことで別離の恋のラサが喚起されると考え られる270。さらに、クリシュナとラーダーを nāyaka と nāyikā に分類しているだけでなく、
サキーの定義も示しており、この場面におけるサキーの重要性が示唆されるようである。
265 音節は、---, ∪∪-, ∪-∪, ∪∪-|--∪, --∪, -|となる。
266 ここでは、偈のromāñcatiからmūrcchatyまでが、すべてsāに属することからdīpakaの修辞法として説 明される。
267 Rudrabhaṭṭa著(12世紀頃)によるŚr̥ṅgāratilaka 1.10[Durgāprasāda 1899: 112]の引用。
268 jo parastrī se sadā vimukha rahakara apanī strī yā patnī prema kare, use anukūla (nāyaka) kahate haiṃ |
[Sahāya 1973: 633]
他人の女には常に見向きもせず、自分の女あるいは妻に愛をむける者たちをanukūla nāyakaと言う。
269 引用元は不明であるが、NŚでは女性の使者(サキー)の性質について説いている項目がある。以下に
Rangacharyaによる翻訳を示す。
女性の使者は次のいずれかである可能性がある:隣人女性、女友達、女召使、未婚女性、手工芸を 行う女性、看護する女性(文学的には乳母)、女性修行者、女性占い師。……【中略】。女性の使者 は、鼓舞すること、正直で口がうまいこと、時間を守ること、秘密を守ることにおいて利発的であ り、とりわけ魅力的な女性である。……【以下略】NŚ 25.9 - 18a[Rangacharya 1999 : 203]
270 ここでは、NŚに従って鑑賞者のsthāyibhāvaとした。