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第 2 章 テアル構文の類型

2.8 B 型テアル文の特性

2.8.2 B 型テアル文と意図性

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54 の意図が分かっているという前提が必要となる。

動作主が顕在化しているB型テアル文は、母語話者の中でも判断に大きな揺れが存在 するようである。例えば、前述したMuraki(1986)においては非文として掲載されている 下記の例文は、恐らく他の研究者は無条件に正用とするであろう。

(256) *お母さんが夕飯を作ってある。(Muraki 1986:222) (再掲)

しかしこの文でも、例えば話者が母に頼んで夕飯を作ってもらい、第三者を招いている ような文脈ではかなり自然な文になる。

(257) 母が夕食を作ってあります。どうぞ召し上がって行ってください。

三人称の名詞句がB型テアル文の主語になり得るかどうかは、話者の関与(involvement)

がどの程度かによる。(257)で言えば、「お母さんが夕飯を作る」という行為は、通常な ら日常の行為で、ことさら意図(目的意識)をもってする行為とは考えにくいため、す わりが悪くなっているのだと考えられる。つまり、B型テアル文で基本的に一人称の動 作主、すなわち話者が主語になることが多いということの背景には、話者であれば自分 の行為の意図が明確に分かるからという理由づけがあるからであろう。従って、三人称 主語の場合は、話者がその意図をよく理解している場合にしか使えないのである。

このように、B型(パーフェクト)テアル文は、意図的な行為による効果が発話時に おいて存続しているということを表すために使われる表現だと言える。したがって、文 脈の中でいくらその意図を明確にしたとしても、次の例に見るように、本来非意図的な 事象を表わす非対格自動詞を使うことはできない。

(258) *空気が悪いので、窓が開いてある。

(259) *見られると困るので、履歴が消えてある。

また次のように、非意図的な行為で、動作主項を持たない他動詞はB型(パーフェクト)

テアル文では使用不可能である。

(260) *会議室に書類を忘れてある。48

48 A型テアル文では意図性は要求されないが、A型であっても通常は意志性が要求される。この 例外となる例が、杉村(1996)によって指摘されている。

() あっ、あそこに卵が産んである。

() おや、弁当が忘れてある。

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このようにB型テアル文には意図性が必須で、その意図の内容も話者にとって明確でな ければならない。従って意図性が感じられない文脈を設定すれば、B型テアル文は不自 然となることが予想される。

(261) a. あれ、窓が開けてある。誰が開けたのかなあ。

b. ??あれ、窓を開けてある。誰が開けたのかなあ。49

この場合(261b)は、B型テアル文であり、ガ格で現れるべき動作主の項が省略されて いる。省略された項については必ず文脈(談話)の中から先行詞を探さなければならな い。それにはもちろん話者も含まれる。A型テアル文である(261a)の第一項は統語上 現れない動作主であり、someoneという不定の解釈を許すが、B型テアル文である(261b) のゼロ主語である動作主は通常は「定」(definite)でなければならない。つまり、誰が何 のためにしたのかわからない動作が問題となっているような文脈では、B型テアル文を 用いることはできないのである。

すでに述べたように、B型テアル文において対象がガ格で現れる可能性があることを 主張した。益岡はこのような文を「中間型」としており、「中間型」が存在することから テアル構文そのものを「連続体」としているが、本論ではB型テアル文において対象の 名詞句にガ格が現れるかヲ格が現れるかは格の実現の問題と考え、B型テアル文は一つ の独立した構造型として分析する。B型テアル文の構造と格付与については5章で詳し く述べる。

() またガスがつけっ放しにしてある。 (杉村1996:79-81)

「〜ぱなしにする」や「〜ままにする」は、コーパスでも「てある」とよく共起していることが 確認できる。

同様に次の例でも意志性が必要とは言えない。

() 机の上に本がたくさん積んである。

この文は、意図的に整然と積まれた本の状態を表現する場合でも、片付いていない混沌とした 状態を表現する場合でも自然である。後者の場合、意図性も意志性も欠落していると言える。

次の文でも同じことが言える。

()(わ、本に)コーヒーがこぼしてある。

図書館の本にコーヒーの染みを見つけた時の発話であれば、コーヒーの染みの存在を言うだけ のテアルの文となり、意志的な行為であるという前提は必要なくなる。

49 周りの日本語母語話者に聞き取りをしてみたところ、関西出身の人は(261b)を許す場合が多 かった。しかし中部地方や関東出身の人は嫌がる傾向が見られた。このような場面描写文であっ ても対象名詞句がヲ格で現れる文は、古典のコーパス(6章で詳述)でも室町時代や江戸前期で 見られた。江戸時代前期までの資料は主に上方語の資料である。しかし江戸時代中期から後期は 上方語であっても、場面描写文において対象の名詞句はガ格で現れる。したがって、関西であっ てもスタンダードではないと思われるが、関西では古い言い方が残っている可能性がある。

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