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2.民進党から国民党への政権交代

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湾が認識する「九二共識」は「一中各表」、

すなわち「一個中国、各自表述」の短縮で

「中国はひとつであるが、その解釈は各自で 表明する」と訳す。台湾にとっての中国は

「中華民国」であり、中国にとっての中国は

「中華人民共和国」である。

 他方、中国が認識する「九二共識」は「一 中原則」、すなわち「台湾は中国の一部」であ り「中国はひとつ」と解釈している。「九二共 識」は口頭合意で、正確な内容は不明である。

「九二共識」は台中双方にとって都合の良い 解釈ができるため、結論が出ない政治的な

「2つの中国」問題を棚上げし、経済交流等 を優先するための玉虫色の結論とも言われて いる(注)3。しかし、08年3月の台湾の総統選挙 後に行われた胡錦濤・国家主席とブッシュ

(子 ) 大 統 領 の 電 話 会 談 の 内 容 を、 中 国 の

「新華社」通信が伝える中で、「九二共識」を

「One China, but each side is entitled  to  give  different  interpretations.」と訳している。そ の際、胡錦濤国家主席はブッシュ大統領に対 し、「九二共識」をベースに台湾との対話を 再開したいと話している。90年代初頭、台

湾と中国が歩み寄るために用いた「九二共 識」は、約20年の歳月を経て再び台中関係 の改善を導くキーワードとして表舞台に登場 した。

選ばれた国民代表大会の議員により間接選挙 で選出された。ただし、共産党との内戦に備 えた総動員体制(注)4が敷かれていたため、同議 員は長期にわたり改選されず、結果として蒋 介石親子の長期政権を支えることとなった

(中国大陸で選出された同議員は91年まで再選 されなかった。)。88年、李登輝が総統に就任 して以降、数次にわたる憲法改正が行われ、

国民代表大会は形骸化し、台湾の総統は有権 者による直接選挙で選ばれることとなった。

民主化を進める台湾に対し中国は、独立を模 索する動きとして警戒感を強めていった。

 初の直接選挙による総統選挙を控えて、台 湾海峡に向けた中国のミサイル演習は激しさ を増した。米国は事態の収拾を図るため、空 母2隻を含む機動部隊を台湾近海に集結させ た。その後、台湾と中国の関係は、99年に 李総統が「二国論」を発表したことで最悪の 事態を迎える。「二国論」の発表を機に、8 年間続いた海基会と海協会の対話は無期延期 となった。「二国論」とは、李総統がドイツ の放送局「ドイチェ・ウェレ」の取材に応じ て語ったもので、台湾と中国の関係を「特殊 な国と国との関係」とし、「九二共識」で曖 昧にしてきた「1つの中国」を否定した考え 方である。当時の台湾の世論調査では、「二 国論」に対して73%が賛意を示している。李 総統の訪米を機に始まった中国の台湾海峡で のミサイル演習は、台湾住民の反中国感情を 高め、台湾のナショナリズムを強めた。また 99年は、2期8年と定められた李総統の任期

最終年でもあった。

(2)民主進歩党(民進党)の対中政策  2000年に行われた第10回総統選挙で、民 進党の陳水扁氏は国民党の連戦氏らを抑え台 湾総統に初当選した。この時、中国は台湾海 峡でミサイル演習を行わなかった。威嚇目的 のミサイル演習は、台湾住民の反中国感情を 高めるだけで効果が薄いと、中国当局が判断 したためとみられる。陳氏は04年の選挙でも 勝利し、計8年、総統を務めた。陳氏が属す る民進党は、戒厳令下で言論の自由が制限さ れていた86年に台北で結成された台湾初の野 党である。台湾独立を志向しており、中国大 陸から渡ってきた国民党を外来政権とし、一 線を画している。陳総統の就任直後は、独立 路線を棚上げして、「強本西進」(台湾(本)

の地位を強化し、西(中国)との経済交流を 進める)を基本政策とし、中国との融和路線 を目指した。00年5月、陳水扁総統の最初の 就任演説では、中国が武力を行使しない限り 台湾の独立を宣言しない等の「5つのノー(四 不一没有)」を表明している(図表3)。また、

02年に加盟したWTO(世界貿易機関)を通 じ、中国との対話再開を試みた。

 台湾の総統は、立法院(国会)に対して、

拒否権、解散権がない。陳総統就任時、立法 院における与党民進党の議席数は、3分の1を 下回っており、総統が政策を実現するには、

多数派工作が必要であった。陳総統は「全民 政府」という考えを打ち出し、自ら民進党を

(注)4 .48年に動員戡乱時期臨時条款(反乱鎮定動員時期臨時条項)が成立し、91年まで中華民国憲法が凍結された。

離党し党派を問わずに人材を集める政権運営 を目指した。しかし、当時の多数派であった 国民党を上回る支持基盤を確保することは困 難を極めた。「全民政府」の構想を覆し、02 年7月21日、陳総統は民進党に復党し、さら に同党の主席に就任した(同日、中国はナウ ルと国交を結んだと発表し、台湾はナウルと の断交に追い込まれた。)。

 台中関係が再び悪化するなか、同年8月、陳 総統は台湾と中国は明確に分かれているとす る「一辺一国」論の考えを示した。これに対 し中国は、陳総統を名指し「少数の独立分子 の陰謀を台湾住民に強要している」と批判し た。また国民党も「1つの中国」への挑戦であ り、両岸関係に緊張をもたらすと批判した。

  台 湾 と 中 国 の 政 治 的 対 立 が 深 ま る 一 方、

経済面での結びつきは強まった。WTOに加 盟したため、台湾は中国に対しても最恵国

待遇(注)5を与えることとなり、貿易、投資面 での規制緩和が進んだ。02年には、それま で香港等の第三国、地域を経由しなければ認 められなかった台湾から中国への投資が、直 接行えるようになった。また金門、馬祖両島 の住人にしか認めていなかった中国大陸との 直接往来(小三通)を、福建省に投資してい る台湾の企業人にも認めた。

(3)第12回総統選挙の結果

 8年間続いた陳政権の対中姿勢は、就任当 初の「5つのノー(四不一没有)」から「4つ の必要、1つのノー(四要一没有)」に変化し た(図表4)。台湾が独立色を強めることは、

中国のみならず米国からも懸念視された。ま た、06年には陳総統の娘婿がインサイダー 取引で逮捕、起訴され有罪となった。加えて 陳夫人には太平洋そごう商品券の不正取得疑

(注)5 .最恵国待遇(Most  favored  nation(MFN)treatment):国際通商上、いずれかの国に与える最も有利な待遇は、他のすべ ての国に対して与えなければならない。

図表3 5つのノー(四不一没有)

四不 ・台湾独立の宣言をしない。

・中華民国の国号を変更しない。

・「二国論」を憲法に盛り込まない。

・「統一か独立か」の現状変更を問う住民投票は行わない。

一没有 ・(統一の道筋を定めた)「国家統一綱領」や「国家統一委員会」の廃止の問題は生じない。

(備考)各種資料より作成

図表4 4つの必要、1つのノー(四要一没有)

四要 ・台湾は独立を必要とする。

・「台湾」呼称を積極的に使用する「正名運動」を必要とする。

・台湾の新憲法を必要とする。

・台湾の発展を必要とする。

一没有 ・「台湾には左右路線の問題はない」、あるのは「統一か独立か、前進か後退か」だけの問題だ。

(備考)各種資料より作成

惑、陳総統自身にも機密費不正流用疑惑が持 ち上がった。06年10月、台北駅前では陳総 統の辞任を求める数十万人のデモが発生し、

立法院では陳総統辞任を問う住民投票の実施 が討議された。中国大陸と一定の距離を保 ち、クリーンなイメージで国民党を破った民 進党の陳総統であったが、任期後半には台湾 住民の信認を失ったようだ。

 08年3月22日に行われた第12回総統選挙で、

国民党の馬英九氏が765万票(有効投票数の 58%)を獲得し次期総統に当選した。これで 国民党は8年ぶりに政権へ復帰した。総統選 挙に先立って同年1月に行われた立法院選挙 でも、同党は113議席中81議席を獲得し、多 数派党となった。台湾の総統選挙は投票率が 高く、特定の支持政党を持たない中間層の動 向が選挙結果に大きく影響を及ぼす。立法院 選挙の結果を受けて、台湾の有権者は国民党 を牽制するため、民進党の候補者を選ぶとす る予想もあったが、対中融和を掲げる国民党 の馬英九氏が総統に選ばれた。総統選挙にあ たり、台湾生まれではない馬英九氏は、自転 車に乗り3か月間、台湾各地の民家を泊まり

歩くというパフォーマンスを演じた。ハー バード大学博士課程を卒業したエリート政治 家は、「台湾人」をひたすらアピールし、流 暢ではない台湾語に真摯な姿勢で取り組み、

国民党の過去の路線払拭に努力した。

 馬総統は、日本統治時代の八田與一氏の業 績を評価している。八田氏は24歳で東大を 卒業後、総督府内務局土木課の技手として台 湾に赴任した。彼の最も大きな功績は、10 年の歳月を費やして完成した烏山頭ダムと1 万6,000キロにおよぶ灌漑用水路の建設であ る。ダムが造られた嘉南平野は台湾最大の平 原であるが、河川が少なく急流だったため水 利として機能せず、サトウキビすら育たな かったといわれている。しかしダムと灌漑用 水路の完成により、嘉南平野は台湾最大の穀 倉地帯へと変貌した。国民党の歴史観では、

日本統治時代の建設は日本帝国のために行わ れたものであり、評価に値しない。しかし馬 総統が八田氏の業績を認めたということは、

日本統治もまた今日の台湾の形成に寄与して いるという、台湾で生まれ育った人達の考え 方に近づいた認識といえよう。

(4)対中政策融和の背景

 近年、台湾の対中政策が緩和した背景に は、いくつかの伏線がある。05年4月、前年 の総統選挙で敗れた連戦・国民党主席は中国 を訪問し、胡錦濤・共産党総書記(いずれも 当時の肩書き)と会談した。これは日本が敗 戦した45年に重慶で、蒋介石と毛沢東が会談 して以来、60年ぶりの国共トップ会談となっ

(写真出所)中華民国総統府HP

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