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1.台湾と中国が対立した歴史的背景

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(1)中華民国の建国から台湾移転まで  中華民国は、1912年に孫文を臨時大総統 として南京で成立した。前代の「清朝」最後 の皇帝は、映画「ラストエンペラー」のモデ ルとなった愛新覚羅  溥儀である。当時の中 国大陸には、日本をはじめ欧米列強が実質的 な植民地支配を目論み進出していた。

 21年には孫文の三民主義を掲げる国民党 に対し、マルクス・レーニン主義を標榜する 中国共産党が結成された。政治思想の異なる 両党は、時に「合作」(協力関係)し、時に 武力抗争を繰り広げた。また25年の孫文死 去後、蒋介石が国民党内で権力を握る。以 降、蒋介石は次第に反共色を強め共産党との 抗争を激化させていった。第2次世界大戦終 戦後の46年6月、国民党と共産党の内戦が再 開した。共産党軍は撤退する日本兵から最新 の武器を奪い優勢となった。北京、南京、上 海などの主要都市を共産党に占拠された国民 党は、行き場を失い台湾に中華民国の政府機 能を移転させた。

(2)2つの中国が成立

 1949年、蒋介石が台湾に中央政府機構を 移転する一方、毛沢東は中国大陸で中華人民 共 和 国 を 建 国 し た。 こ の 時 か ら「2つ の 中 国」問題が発生する(図表1)。当初、国際 社会では中華民国が「中国」であった。これ

(注)1 .ツバル、ソロモン諸島、マーシャル諸島、パラオ、ナウル、キリバス共和国、バチカン、スワジランド、ブルキナファソ、

ガンビア、サントメ・プリンシペ、セントルシア、ニカラグア、エルサルバドル、グアテマラ、ハイチ、ホンジュラス、パ ナマ、パラグアイ、セントビンセント、ベリーズ、セントクリストファ・ネイビス、ドミニカ共和国

は国際連合が発足した45年、中国の国名が 中華民国だったことに起因する。国連の常任 理事国であった中華民国は、台湾に移転した 以降も、その立場を維持した。しかし、71 年、中国大陸を実効支配しているのは共産党 政権であり、台湾に移転した国民党政権では ないと国連で決議されたため、中国が国連に 加盟し台湾は国連を脱退した。

 中国は台湾を「中華人民共和国」の一部と 主張し、台湾は「中華民国」が中国の正統政 府と主張した。しかし米国、日本をはじめと した主要各国は国連に加盟した中華人民共和 国と国交を結び、中華民国とは国交を断絶し た。日本は72年に、米国は79年に中華人民共 和国と外交関係を結んでいる。台湾と国交が 無くなった各国は民間団体を設置し、台湾と の実質的な外交関係を継続させている。日本 は72年に㈶交流協会を設立し、台湾在留邦人 ならびに邦人旅行者の入域、滞在、子女教育

等につき、各種の便宜を提供している。日本 の外務省は「日中共同声明」の中で、台湾が 中華人民共和国の領土の不可分の一部である ことを十分理解し、尊重すると表明している。

同 様 に 米 国 は「認 識 す る 」(acknowledge)、

カナダは「留意する」(take note of)という表 現で中国と台湾の主張に理解を示している。

 台湾に移転した蒋介石政権は、戒厳令を敷 いた。戒厳令のきっかけとなった2.28事件 は、以下のとおりである。47年2月27日、台 北市内で煙草の闇販売をしていた老女を外省 (注)2の密売取締員が摘発した。老女は土下 座して許しを懇願したが、取締員は銃剣の柄 で殴打し、商品と所持金を没収した。当時、

酒、煙草、砂糖、塩等は、日本統治時代から 引継いで中華民国政府の専売品となってい た。しかし中国大陸では煙草は自由に販売で きたため、本省人はこの措置を差別と受け止 め不満を持っていた。老女に同情して集まっ

(注)2 .「本省人」:主として16世紀後半以降、福建、広東などから台湾に移住定着した人々で、閩南系70%、客家系15%が占める。

   「外省人」:国民党政府の台湾移駐とともに大陸から移ってきた人々。

図表1 台湾と中国の対話の変遷

(備考)各種報道等より作成

﹁戒厳令﹂施行国民党政権︑台湾へ移転

49 年

対話低迷期(38 年) 対話改善期(12 年) 対話低迷期(9 年)

79 年 87 年 91 年 99 年 02 年 08 年

﹁台湾同胞に告げる書﹂発表米中国交正常化 中国への里帰り解禁戒厳令解除 中国と台湾はそれぞれ別の国陳水扁総統﹁一辺一国論﹂ ﹁九二共識﹂に基づく対話再開国民党の政権復帰

台湾と中国は特殊な国と国との関係李登輝総統﹁二国論﹂

海峡両岸関係協会︵中国︶設立海峡交流基金会︵台湾︶設立

た多くの本省人に、取締員は発砲し無関係な 本省人を射殺した。翌28日、抗議のデモ隊 が台北市庁舎へ大挙して押しかけた。しかし 政府側は強硬姿勢を崩さず、憲兵隊は市庁舎 の屋上に機関銃を据え、非武装のデモ隊へ向 けて無差別に掃射を行い多くの市民を殺害し た。この事件で約3万人が犠牲になったと言 われている。その後、言論弾圧の動きが強ま り49年5月、 戒 厳 令 が 宣 布 さ れ た。 戒 厳 令 は、蒋介石が亡くなった後も87年まで続い た。この間、台湾経済は軽工業から重工業へ と工業化が進み飛躍的に発展した反面、「言 論の自由」が制限され恐怖政治が続いた時代 であったといわれている。

(3)「三通」の始まり

 「三通」とは、台湾と中国の間の「通商」

「通航」「通郵」を指す。三通という言葉が最 初に登場したのは、79年1月1日に中国全国 人民代表大会常務委員会が発表した「台湾同 胞に告げる書」だと言われている。この中で 中国は台湾に対し、両岸交流を促進するため 三通開放を呼びかけた。しかし、当時の台湾 は、「不接触」「不談判」「不妥協」の「三不 政策」を理由に、その申し出を受け入れな かった。79年1月1日は、中国と米国が正式 に国交を回復した日であり、同時に台湾と米 国が国交を断絶した日でもある。

 「三不政策」が最初に変化したのは、87年 に戒厳令が解除され、中国大陸出身者の里帰 りを正式に解禁した時だと言われている。背 景には60〜70年代に台湾の高成長を支えて

きた労働集約型産業が技術集約型産業へと移 行するにあたり、製造業が新たな投資先を見 つける必要があったこと、また経済成長によ り金銭的に余裕ができたため、禁を守らず日 本等の第三国を経由して中国大陸に渡航する 旅行者が増加したこと、などが考えられる。

続く変化の契期は、91年に民間団体の「海 峡交流基金会(海基会・台湾)」と「海峡両 岸関係協会(海協会・中国)」が設立された ことである。当時、中国大陸から台湾への密 航者が急増し、送還手続き等の実務協議が必 要となっていた。台湾と中国は、政府間の接 触は行わない。そこで、民間交流に伴い発生 する諸問題を解決するため、海基会と海協会 がそれぞれ政府から委託を受け、実務交渉に あたることとなった。09年4月まで、両会に より2回の「四項協議」が合意に達した。最 初は93年にシンガポールで、2度目は08年11 月に台北で署名が行われた。最初の合意内容 は、文書の定義、今後の会談の事務手続き等 で、2回目は、空運、海運等「三通」の開放 にかかる合意である(合意内容の詳細は、後 述「3.(1)「三通」の全面開放」参照)。

(4)「九二共識、一中各表」

 93年、シンガポールで合意された「四項協 議」に先立ち、海基会と海協会は92年、香港 で会談を行った。同会談中、台中間で「九二 共識」(92年のコンセンサス)と呼ばれる合 意 が 形 成 さ れ た と い わ れ て い る。「九 二 共 識」は口頭での合意であり、内容は台湾と中 国大陸で解釈が異なっている(図表2)。台

湾が認識する「九二共識」は「一中各表」、

すなわち「一個中国、各自表述」の短縮で

「中国はひとつであるが、その解釈は各自で 表明する」と訳す。台湾にとっての中国は

「中華民国」であり、中国にとっての中国は

「中華人民共和国」である。

 他方、中国が認識する「九二共識」は「一 中原則」、すなわち「台湾は中国の一部」であ り「中国はひとつ」と解釈している。「九二共 識」は口頭合意で、正確な内容は不明である。

「九二共識」は台中双方にとって都合の良い 解釈ができるため、結論が出ない政治的な

「2つの中国」問題を棚上げし、経済交流等 を優先するための玉虫色の結論とも言われて いる(注)3。しかし、08年3月の台湾の総統選挙 後に行われた胡錦濤・国家主席とブッシュ

(子 ) 大 統 領 の 電 話 会 談 の 内 容 を、 中 国 の

「新華社」通信が伝える中で、「九二共識」を

「One China, but each side is entitled  to  give  different  interpretations.」と訳している。そ の際、胡錦濤国家主席はブッシュ大統領に対 し、「九二共識」をベースに台湾との対話を 再開したいと話している。90年代初頭、台

湾と中国が歩み寄るために用いた「九二共 識」は、約20年の歳月を経て再び台中関係 の改善を導くキーワードとして表舞台に登場 した。

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