享徳3(1454)年 ・高野山に住む橋口友重・忠藤が、大和國から乱入した上杉左衛 ・12 月、畠山政長と畠山義就が相争い、高野山検校よしなり / (室町時代) 門の防戦に尽くしたので金剛峯寺から恩賞として調月荘に屋敷・ 深聖房道兼が義就に味方し、荒川荘下司/平野氏、及びよしなり 田地を与えられた[13,6-5,34]。 公文/奥氏が政長に味方し、高野山の支配が内部分裂す
る[13,平野家文書,12-下,34]。 長禄元(1457)年 ・12月22日付け安楽川荘公文代起請文、高野山30人月領坊宛て
(室町時代) :30 人月領への公事銭、及び年貢のこと、当年はことのほか干損 のため精一杯催促して寺納しようと思っていたが、特に不作地で は断りの由を申しているので、おの下地を注して報告するしる [11-5,34]。 長禄2(1458)年 ・7 月 27 日付け安楽川荘公文代起請文、高野山 30人月領坊宛て (室町時代) :公事銭のことは、只今の納分は安楽川荘の分も安楽川荘野田原
村分も、同じく決して私していない。[11-5,34]。
・11月 26日付け荒川荘公文(奥)書状、高野山 30 人月領宛て:下 地(百姓)が計会(困窮)中につき、高野山からの公事銭催促使の下向 を止められたい[11-5,34]。
長禄3(1459)年 ・12 月付け荒川荘野田原村番頭/百姓起請文:高野山30 人月領へ
(室町時代) の年貢、及び公事銭は一粒1銭も虚妄(嘘)を申さないきよもう うそ [11-5,34]。 長禄4(1460)年12月21日、「寛 正かんしよう」に改元。
寛 正 6(1465)年 ・12 月 4 日付け高野山月領 30 人評定事書:荒川荘が水損にて年 ・この年、水害があったか。
かんしよう すいそん
(室町時代) 貢減免を願い出ている。月領30 人への年貢は 8 石、10 貫文であ
るが、6石8貫文とする[11-5,34]。 ・寛政7(1466)年2月28日、「文 正ぶんしよう」に改元。
応仁元(1467)年 ・7 月、阿波大膳が大勢を率いて高野山に乱入する。橋口隼人正 ・文 正 2(1467)年3月5日、「応仁」に改元。
おうにん あ わのだいぜん ぶんしよう おうにん
(戦国時代) 忠勝(調月荘に居住)、家臣/櫻井刑部を率いて高野山の若大衆と共 ・応仁元(1467)年から文明 9(1477)年の 11 年間、京都 に、乱入した56人の首を討ち取る。よって、集会衆、沙汰衆から を中心とする内乱が続く。将軍家の相続問題と畠山・
橋口忠勝に感状を与え褒賞を副えるそ [13,12-下,34]。 斯波両管領家の家督争いから、諸国の守護大名が細川 勝元の率いる東軍と、山名宗全の率いる西軍に分かれ て争う。幕府の権威は失われ群雄割拠の戦国時代とな る(応仁の乱)[21]。
文 明 9(1477) 年 ・1 月付け荒川荘神田村三船神社神主/忌部盛純置文:彦狭知命の
ぶん めい いん べ もりずみ
(戦国時代) 子孫/忌部源渕・有井平治爲貞もとぶち [有井家文書,37-7,34]。
文明17(1485)年 ・8 月、紀伊国守護/畠山政長の恩賞状を執事/遊佐兵庫助が荒川荘 ・10月21日付け守護/畠山政長・執事/遊佐兵庫助長恒 (戦国時代) 上野村小林の奥四郎(公文)へ伝達[奥家文書,6-3,34]。 書状、荒川荘(下司)平野弾正左衛門宛て:公役(守護の 命令による軍役)に参加すること[平野家文書,6-3,37-7,県史中世 1,34]。
・11 月 15 日付け守護/畠山政長書状、荒川荘平野氏宛 て:山城国在陣が長期に亘ったこと、迷惑の由もっと もである。今度の事は別けて堪忍して忠節に励むこと。
恩賞を与えるようにする[平野家文書,6-3,県史中世1,34]。
文明18(1486)年 11 月、高野山寺領荒川荘のうち野田原村(銚子ノ口)の山地、下司 ・12 月 21 日付け荒川荘野田原村の平野八郎範景山地
ぶんめい のりかげ
(戦国時代) 職を荒川荘上野村の城殿の手を通じて現米十九石で永代調月荘の 売券:荒川荘銚子ノ口山地を米十九石で調月荘中俊良 中俊良が買う[37-7,34]。調月の中氏は高台の地に塀を巡らし豪邸を に売る[13,37-7,県史中世1,34]。 銚子ノ口が調月荘領となる。
構えた[12]ので城ノ段の地名となる。 ・11 月付け調月荘中俊良田畠買入帳:東貴志荘菩提村
・11 月付け調月荘中俊良譲状:調月荘岡分のこと、調月荘岡孫太 の田地 2 カ所、及び谷池 1 カ所を菩提氏から買い、さ
郎(中氏の別家)へ根來寺功徳院の知行権を譲る[奥家文書,37-7,大日本史料 らに菩提村の田地1 カ所を源左衛門宣弘から買う[中家文
8-19,34]。 書,大日本史料8-19,34]。
延徳2(1490)年 ・紀伊国守護/畠山政長軍(根來寺・粉河寺・奥氏・平野氏ら味方)
(戦国時代) と畠山義就軍(熊野三山・有馬氏・入鹿氏・西氏らが味方)が石手 荘根來村一乗山にて合戦、義就軍が敗れ畠山義就が戦死[蔭涼軒日録, 和歌山市史4,34]。
明応2(1493)年 ・紀伊国守護/畠山政長が畠山義豊(義就の子)に攻められ、河内国 ・明応年中、荒川荘小林修禅尼寺が焼かれた[奥家文書
(戦国時代) 正覚寺で自害、この時長政に味方して応戦した荒川荘平野俊之が ,37-7,34]。
戦死する。畠山義豊(基家)が紀伊国守護となる[13,平野家文書,蔭涼軒日録,12- ・9 月 4 日付け荒川荘福王寺領田畠注文:田地 36 カ
下,34]。 所、畠17カ所である。檀那(施主/檀家)平野俊光、住持/
永忍[平野家文書,13,県史中世-1,34]。
明応5(1496)年 ・3 月 21 日付け荒川荘小林修禅尼寺/慶珠/慶朔請取状:荒川荘の ・5 月 3 日、淡路国國府八幡宮の釣鐘が荒川荘上田村 (戦国時代) 公銭500文を請け取る[奥家文書,県史中世-1,4]。 の三船神社に移される[三船神社蔵釣鐘銘,34]。
文亀元(1501)年 ・12 月 13 日、荒川荘野田原村に住む平野範景が、家附き銚子ノ ・明応10(1501)年2月29日、「文亀」に改元。
(戦国時代) 口の山1カ所を調月荘中氏に売る[13,34]。
永正2(1505)年 ・5 月 8 日付け高野山学侶小衆会評定事書、夫伝馬銭の事:細野 (戦国時代) 荘・荒川荘などの分を寺納させるよう釈迦院・十輪院・大光明院
が、調月荘岡殿に指示すること[高野山勧学院文書,37-1,34]。
永正3(1506)年 ・11月29日付け高野山三所(検校・左右学頭)・十聴衆衆会評定事
(戦国時代) 書:二人の衆会衆が調月荘から高野山へ登山して来ることに付い
て調月荘へ使者を下向させること。使者料は調月荘の里坊に住む ・貫文:中世以降、租税として収取する米を銭に換算 二人の僧に各5貫文ずつ当てること[高野山勧学院文書,37-1,34]。 して表示するもの[21]。
永正4(1507)年 ・3 月 28 日付け守護/畠山尚宣奉行人/遊佐順房奉書:調月荘岡孫 ・12 月 24 日付け遊佐就盛書状、荒川荘平野範景宛:ゆ さ なりもり (戦国時代) 太郎(中氏の別家)当て:小倉荘宇野氏の遺領を宛がう[13,34]。 この度御味方となり御忠節を致すにおいては御知行の
・6 月、調月荘の中入道俊良が(前守護)畠山義英(家基の子)に勘当 ことは相違あってはならぬ。御働きにより、御恩賞あ される[13,34]。
・6 月13 日付け畠山義英(前守護)安堵状、荒川荘三船神社神主/有 る由、私からよくよく申すようにとの旨である[平野家文
井大夫宛て:連々忠義のこと神妙である。荒川荘野田原村平野範け なげ 書,県史中世-1,34]。 景の遺領の替え地として調月荘中俊良の遺領を与える[有井家文書
,6-3,37-7,34]。 ・12月25日付け(前守護/畠山義英奉行人)遊佐就盛書ゆ さ なりもり
・6 月13 日付け(前守護/畠山義英奉行人)遊佐就盛・基盛書状、有 状、荒川荘平野氏宛て:御本知の事は御書の旨に任せゆ さ なりもり 井大夫宛て:代々忠節を尽くすにより、荒川荘平野氏の遺領を知 相違あってはならぬ。恐々謹言[平野家文書,37-7,県史中世-1,34]。 行して良いと仰せ付けられたが、本主が居るため、替え地として
調月荘中氏の遺領を知行して良いよう沙汰する。知行を全うし益 々粉骨することが大切である。謹言[有井家文書,37-7,34]。
永正5(1508)年 ・1月28日付け(前守護/畠山尚順奉行人)遊佐盛賢/盛秋奉書、調月 ・3 月 4 日付け守護代/遊佐順房書状、荒川荘平野殿へ (戦国時代) 荘岡孫太郎宛:大和國宇治郡五条荘榮山寺(真言衆)領を半済(年貢 :子息誕生のことにつき鳥目(銭)100疋(10文の単位21)=
とり め ひき
半分の給与)とする[13,34]。 ・1 貫)を頂いた。 祝 着 (慶賀)の至りである。詳しくはしゆうちやく 高野山十輪院が伝達する[平野家文書,県史中世-1,34]。
永正6(1509)年 ・3 月17 日付け池田光遠(前守護/畠山義英奉行人)奉書、調月荘岡 (戦国時代) 孫太郎宛:和泉國新在家村4分の1の年貢収納を宛がう[13,34]。
・12 月 2 日付け池田光遠・遊佐行忠(前守護/畠山義英奉行人)奉 書、調月荘中俊良宛て:日高郡公文職の半分を以前の通り知行し て良い[13,34]。
永正7(1510)年 ・8月3日付け守護/畠山尚順奉行人/山田恒定書状、安楽川荘平野
(戦国時代) 神五郎俊光宛:平野殿御知行分の事につき、貴殿が色々と仰せを 受けた分を申し届け、守護代/遊佐順房が私へ別儀なく御進退して 良いとの書状が届けられた[平野家文書,6-3,37-7,県史中世-1,34]。
大永3(1523)年 ・数年来、飢饉あり、この年大干魃にて不作[60]。
だいえい
大永4(1524)年 ・11月3日付け守護畠山義堯奉行人/平英作・英正、知行安堵状、
だいえい
(戦国時代) 荒川荘奥四郎左衛門ら宛て:勝仙院(前守護/畠山尚順)殿が仰せ付 けられた筋目のように、当荒川荘は将軍足利義晴様の御料所(領地)
とすること。この旨を承知して忠義に励むようにとの事である[奥 家文書,6-3,県史中世-1,34]。
享禄元(1528)年 ・五穀稔らず飢餓起こる。紀ノ川洪水あり[60]
享禄3(1530)年 ・和泉國岸和田における畠山氏と三好長慶の合戦に、荒川荘平野 (戦国時代) 俊光が畠山氏に味方して出陣する[平野家文書,37-7,34]。
享禄4(1531)年 6月25日付、高野山不断經の掃除・兵士下状・在所日記:不断經 の掃除・兵士の下状の付け所のこと。日限は六月二十五日定めで ある(中略)。調月二通あて掃除・兵士 検校の預所定使 享禄四 季六月二十五日 年預代 堯光房[11-8]。
天文12(1543)年 ・天文十二(てんもん 1543)年、根来寺杉 坊 院主明算(自由斎と名乗るすぎのぼう めいざん じ ゆうさい [23])が ・小倉荘吐前城主/津田監物算長が大隅国種子島に至 (戦国時代) 種子島の領主時尭にポルトガル伝来の鉄砲割愛を要請し、津田ときたか かつあい つ だ り、ポルトガル人の伝えた鉄炮の奥儀を授かり、天文13 監物算長(筭長)が種子島に渡り銃一挺を初めて伝えた[鉄炮記,鉄炮由緒 年に帰国、根來荘(石手荘)坂本の清左衛門に鉄炮を造
けんもつかずなが かずなが
書]。 らせる。弟の津田自由齋は鉄炮修業のため諸国を回り、
帰国の後、安楽川荘に住む[6-1,34]。
天文13(1544)年 ・私[荒川荘神田村津田氏]の先祖は自由齋と申し、天文13年、種 ・天文 13(1544)年、算長は根来寺門前町西坂本の芝辻かずなが しばつじ (戦国時代) 子島に渡り鉄炮を伝授して帰る。後、織田信長に鉄炮を伝え、信 鍛冶刀場の芝辻清右衛門妙 西に伝来銃を示して模倣さか じ かたなば しばつじ し ん え も ん みようさい も ほう
長の弟/津田兵衛尉(信張)に命じ、津田姓を下されるのぶはり [津田流鉄炮薬由緒書 せ国産化に成功した。
,37-7,34]。 ・算長は津田太郎左衛門尉 従五位下 小監物。永禄十かずなが
・天文十三(てんぶん 1544)年、先祖自由斎(明算)は(中略) 種 嶋に渡り鉄炮を (じ ゆうさい めいざん たねがしま てつぽう 1567)丁卯年十二月廿二日小倉ニテ卒す。光善院久室 傳授仕り帰り、それより段々日本へ広め申し候ところ、信長公が 宗長禅門居士 行年六十九歳。紀州小倉に領地八箇村五
でんじゆ
お聞遊ばされ鉄炮傳受仕り候よう仰せ付け候に付、一々傳受仕り 千石、紀泉之内に合わせて本知行、凡そ壹万石余也。てつぽうでんじゆ でんじゆ 上げ候ところ(中略)。之に依り信長公の御舎弟津田太郎左衛門尉ご しやてい 小倉吐前に居城す。身の丈七尺有り。比類なき大力ではんざき
□□に仰せ付けられ津田の名字を下され津田自由斎と申し候。そ 戦場に臨み、時には大竹を割き鉢巻と為す。敵は恐れ
むしくい つ だ じ ゆうさい さ はちまき な
れより一家の者どもは津田と名乗り申し候云々[津田流鐵炮薬由緒書,23]。 て近づく者なし。 享 禄(1528-1532)年中に種子島に渡きょうろく 海し鉄炮を傳来、天文十三甲辰三月に帰り、紀州の西 坂本邑の鍛冶 職 芝辻清右衛門に鉄炮を造らせ将軍義晴か じ しょく てっぽう
公に献ず。その為に賞として従五位下を叙さる。明算めいさん は根来寺総門主杉之坊。永禄元(えいろく 1558)年戊午十二月五 日寂す[津田家家譜,伊川健二:鉄砲伝来の史料と論点(下).『銃砲史研究』]。
天文14(1545)年 ・冬、紀ノ川洪水による田畑荒潰により、高野山寺領民が強訴し この前年に水害があったか。天文こうかい 9 年(1540年)紀の
(戦国時代) て年貢を納めない[13,34]。 川の大洪水にて慈尊院が流失[九度山町史]。
天文16(1547)年 ・根來寺の大塔完成[60]。
天文18(1549)年 ・スペインの宣教師/ザビエルの随行者が喫煙したのを 見かけ、間もなく煙草の種が導入され全国に広まる[60]。 天文21(1552)年 ・12 月 24 日、根來寺蓮蔵院勢春が、名草郡栗栖荘に在る田地 1
(戦国時代) 所を 7 貫文にて成真院(根來寺内の調月荘中氏の坊堂)に売る[調月中 家文書,和歌山市史-4,34]。
永禄3(1560)年 ・根來寺杉の坊・同岩室坊を将とする 500 人、三好方
に敗北、討ち死に89人・捕虜78人[60]。
元亀4(1573)年 ・3 月、織田信長の攻略に敗れた近江國の武士/佐々木順良(37むねよし 歳)
(戦国時代) が、娘/於駒を荒川荘上野村の城氏に預け、発心して高野山に入道 し木食應其と号する。やがて、於駒は調月荘の中俊正(俊猛)の妻
となる[13,12-上,34]。 ・元亀4(1573)年7月28日、「天正」に改元。
天正2(1574)年 ・5 月 16 日、妙法院が荒川荘野田原村脇谷の山を 50貫文にて高 ・天正 3(1575)年、荒川荘と田仲荘が山論から合戦、竹
(戦国時代) 野山知識院に売る[高野山勧学院文書,37-1,34]。 房村にて児玉忠貞父子が戦死する[粉河寺文書,37-5,34]。
天正3(1575)年 ・この頃より根來寺が全盛となる。根來寺岩室坊・雜
賀党と共に一万余騎にて千石掘・畠中・貝塚等の要害 に拠り信長と敵対す[60]。
天 正 4(1576)年 ・2 月 8 日、荒川・田仲の山論から田仲荘住人が荒川荘に乱入、 ・正親町御宇、荒河、田仲山の山論あり、荒河の地士/
てんしよう お おぎまち
(正親町天皇)お おぎまち 荒川方侍大将として応戦した調月荘の橋口甚太郎(22 歳)が壇村に 奥氏・平野氏を初め、その勢 2 千五百余、橋口甚太郎 (戦国時代) て戦死。山論は荒川荘高野村の西に在る平野山・検校山の利用争 を荒河の大将にて相戦う。壇村の東堀に馬駈け入り難
いを云う[13,6-5,34]。 渋の所、田仲勢 2 千八百余が攻寄せば馬騒ぎ立ち甚太
郎が落馬、田仲團九郎と云う者が立ちかかり遂に甚太 郎の太刀を抜き首を取る云々[23]。
天正5(1577)年 ・織田信長が紀州征伐[8]。・荒川荘の平野刑部俊明、信長公の紀州 ・天正5-6年、織田信孝高野攻めの時、(細野)城山に砦
(戦国時代) 雜賀合戦に忠節に働いた恩賞として津田姓を給わる[23]。 を造る。権別当、薄月山頂に砦を築く。権別当は信孝 の従者ならんか[49]。
天正7(1579)年 ・12 月 6 日付け高野山役人/宥遍法度状:博奕は堅く停止するこ ・後戦国時代末期頃の作とみられる松村宗案の農書ばく ち と。見付け者には 5 貫文の褒美を与える。勝手に米・大豆・麦を 「親民鑑月 抄 」の桃栽培についての簡単な記述に、しんみんかんげつしよう
百姓に負担させてはならぬ。科人を報告しない沙汰人あれば堅く 実生または接木繁殖の説明[33]が見られ、接木の歴史も
成敗する[津田辰楠家文書,37-7,34]。 かなり古い。
天 正 9(1581)年 ・3 月 5 日付け田仲荘年寄等詫 状、調月荘橋口隼人正(故/甚太郎 ・12 月、信長の高野攻めに備え荒川荘の平野弾 正 左
てんしよう わびじよう ひら の だんじよう さ
(正親町天皇) 兄)宛て:田仲荘から荒川荘に乱入し、貴殿の弟/橋口甚太郎殿を 衛門俊光が荒川荘の奥一族を連れて高野山に立てこもえ もんとしみつ (戦国時代) 田仲荘の烟 上 弥右衛門が討取り申したところ、御詫言を聞き入れ り西口の大将として構えるゑんじよう [34,37]。
頂き千万忝い。この上は後々になっても、荒川荘の山地について 少 ・天 正いささ てんしよう 10(1582)年、調月荘の中俊猛(城ノ段中家の当なかとしたけ かも新儀の申し出は致さない[三船神社文書,県史中世-1,37-7,34]。 主)が高野山に馳せ参じ戦功があった[12]。
12月、織田信長が高野山攻めを発し14万の総大将織田信孝(信長3 ・同年 6 月、織田軍が高野攻めの途中、本能寺の変が 男)が伊都郡笠田荘西の背山に本陣を置く。高野山は荒川荘の平野 起こり信長が自害、高野攻め中止となるせのやま ひら の [12]。
弾 正 左衛門・奥義弘・ 城 孫六・津田 刑 部左衛門・有井 兵 大夫
だんじよう さ え もん おくよしひろ じようまごろく つ だ ぎよう ぶ さ え もん あり い ひようだい ふ
・松山新吾らを招集、高野方はまつやましん ご 3 万 6 千の兵にて対決防戦を構え る。時に高野山寺領は17万3千百37石[6,12,13]。
・吉仲荘は、天正年間(1573-1592)に丸栖は小倉組に属し紀伊国領
[19]となり、調月は高野山寺領として残り二分される。
天正10(1582)年 ・3 月 10 日、信長の武将/大木権大夫・竹田藤内が、伊都郡志富 ・根來寺衆、和泉佐野を中心に13の出城を築く[60]。
(正親町天皇) 田荘寺尾砦(砦将は医王院/勢算)を攻め、荒川荘上野村の城孫六が ・調月荘の中俊猛が高野山に馳せ参じ戦功があった
[12-としたけ
(戦国時代) 戦死[13,12-上,34]。 下,34]。
・4月、信長方の侍大将/竹田藤内・大木権大夫ら1 万5千にて那 ・6 月、織田信長軍が高野攻めの途中、本能寺の変で 賀郡麻生津荘の飯盛城を攻めた。城将の僧/弁仙(遊佐河内守の子) 信長が自害し高野攻めが中止となる[12-上,34]。
・副将の調月荘橋口隼人重藤が防戦、特に辻之坊・三膳坊・大河 ・6 月 2 日、織田信長が中国の毛利氏と対戦中の羽柴 内彦六らが勇戦し、信長方の4将が戦死する[13,34]。 秀吉を救援しようとして京都本能寺に宿泊した際、出 陣の命を受けて先発していた明智光秀が反逆して丹波 亀山から引き返し、信長を襲って自害させた[21]。
天 正 13(1585)年 ・3 月23 日、秀吉の軍勢が根來寺を焼き討ち、2 千七百の寺院、 ・3月24日、秀吉が紀州雑賀を攻撃、4月22日、秀吉
てんしよう
(正親町天皇) 灰燼となる[60]。根來寺僧の一部が細野荘の山中に逃れて土着、そ が雑賀一揆の太田の 塁 を陥落。とりで 4 月、太田城が水攻め (安土桃山時代) の地は根來窪となる[8]。 され日前國懸神宮の社殿がすべて破壊される。この時、
・秀吉、根來寺を討つ。根來小密茶逃れて根來窪に土着す[49]。 紀州では多くの寺社が焼失したと伝える(天正の兵火)
・この時、調月 山 人平の薬師堂が兵火で焼かれやまん ど ひら [8]、本尊薬師如来 [58]。
像に焦げ跡。稲葉山日前寺も兵火に罹りにちぜん じ [8]、胎蔵界大日如来座像 ・天正13年、3月より7月まで若山大田の陣にて田辺 に焦げ跡あり[現状]。 騒動[万代記,16]。
・3 月、羽柴秀吉の紀州攻めの時、荒川荘の鉄砲修業者/津田自由 ・7 月 2 日付け羽柴秀吉書状、遠藤基信宛て:紀州和 齋は秀吉に本領を没収され、名草郡松嶋村に住む[6-1,34]。 哥(歌)山に拙弟/秀長を置き候、居城(岡山城)相 拵 (造あいこしらえ
・4 月 10 日、高野山に入道中の木食應其が、金剛峯寺の老僧/南 り)紀泉両国を残らず申し付候[三好家文書,6,16]。秀吉が岡 院院主/宥全、及び遍照尊院/快言を伴い、羽柴秀吉を粉河寺の本 山に城を築き弟/秀長に与えたか[16]。若山/和歌山の初 陣に訪ねて高野攻め中止を交渉する[畠山記,13,34]。 出。・初めは和歌山/若山が併用されたが元禄年中に藩
が若山に統一、明治になって和歌山と改称した[16]。
・羽柴秀長が紀伊国・和泉国主となり、秀長は大和郡 山に居城し桑山重晴を城代に置く[16]。
・桃山町調月の字名[美濃]は美濃守羽柴秀長領から名 付いたか[58]。
天 正 15(1587)年 ・3 月 10 日、荒川荘三船神社(祭礼神事)の座席順位で揉め、平野 ・3 月10日付け高野山惣分(行人方)沙汰所/木食應其上
てんしよう も
(後陽成天皇)ご ようぜい 氏・奥氏双方から訴えあり、金剛峯寺から豊臣秀吉に伺ったとこ 人掟書:荒川荘の城・平野・奥・荘中年寄宛て:荒川 (安土桃山時代) ろ「左様な者は焼討ちせよ」と仰せられた。秀吉を恐れた下司平 荘は古くから六方給人(高野山十輪院・高野山修禅院・
野氏と公文奥氏は雲隠れした。検使贄川与次が平野・奥両家を焼 安楽川荘の城氏・平野氏・奥氏・野田原村の岡氏)の所にえかわともつぐ き払って帰る。荒川荘の年寄らの取りなしにより、平野氏・奥氏 にして、給人が座席のときは城彦六左衛門、平野氏へ