• 検索結果がありません。

│□ 薙

ドキュメント内 東北大学埋蔵文化財調査年報13 (ページ 89-105)

した後 に区画線 にそって縄文 を磨 り消 し、装飾効果 をあげている。 この磨消縄文手法は前期後半か ら中期前半に かけて発達す る。12は、装飾深鉢の体部有文破片である。阿武隈川流域の鱚沼式上器、仙台地方の寺下囲式 など に盛行す る入組文 と類似 した箆描文が展開する。磨消縄文手法がみ られる。縄文 は

LRで

、 8よ りも細 い。

弥生中期 中頃の桝形囲式土器が

6点

出土 している (2・ 3・ 5・ 6・ 11・ 16)。

3点

、鉢1、 大型壺1、 小型 壼

1点

がみ られ る。

mの

甕 は、口頸部が外反する典型的な形態である。回顕部 には布 な どで横方向に撫でた調整 痕が鮮明 に認 め られ る。頸部 には細 く鋭い平行線が

2条

め ぐる。体部 には細 く緻密な

LR縄

文が施 されてい る。

典型的な桝形囲式上器である。5の甕 は、軽 く口頸部が くびれ る。 口縁部が欠 ける。体部 に縄文、頸部 には無文 帯が展開す る。体部破片3は、甕の底部付近 とみ られる。縦方向 にカナムグラの茎の回転圧痕が展開す る。 これ はかつて山内清男が「植物の茎の回転痕」と指摘 した擬似縄文である (須藤 ほか1984)。 茎の筋 は

3条

あ り、剛毛 の小 さな刺突痕多数が筋のなかにみ られ る。底部付近 は横方向に軽 く箆で削 られ、調整 されている。 この擬似縄 文土器 は桝形囲式 に属す る。2は小型の装飾鉢 と推定 され る。蓋の可能性 もある。平坦口縁で、外面 に

2条

の平 行沈線が め ぐる。沈線 は、細 く鋭い。体部 には連弧文が展開す る。器面が風化 し判定 しに くいが、

LR縄

文が充 填 されている。6は小型広 口壺の肩部破片、やや細 めの箆描線

2条

の連弧文が展開す る。平行線間はか るいナデ 調整である。16は、桝形囲式か円田式の大型壼体部破片である。細 い箆描 の平行線で直線的な文様が描かれ、丁 寧 な磨 きが加 えられている。体部 には

LRの

付加条縄文が施 されている。他の上器 は、縄文の施文 された体部破 片である。確定 はで きないが、土器の形態、縄文の特徴 な どか ら中期 の前半か ら中頃のもの と推定 される。

東北大学の青棄山、川内キャンパスでは、弥生時代 の上器が まとまって出土 したのは、本調査がはじめてであ る。しか も桝形囲式上器 については、多様 な器形がみ られ、その器種構成 についても様相 を捉 えることがで きた。

いずれ も標識遺跡である多賀城市桝形囲貝塚、仙台市南小泉遺跡、中在家南遺跡出土資料 と基本的によ く共通す るものである。今後、川内地 区において注意深 くこの時代の集落遺囲 を追求 していきたい。

 

石器 (図57・ 58、 図版36、46)

今回の調査で出土 した石器 は374点である。石鏃、ポイン ト、石錐、石匙、スクレイパー、 トゥール破損品、磨 製石斧、石核、剣片、チ ップに分類 した。

石鏃 は

6点

出上 した (図

57‑1〜

5・19、 図版

36‑1〜

5・ 19)。 1は透明な赤色の玉髄製である。先端 は鈍 く、

横断面が丸 みを帯 びるな ど、他の石鏃 とタイプを異 にす る。

2は

、先端の破片である。半透明の赤色の玉髄 を用 いて、非常 に鋭利 に加工 されている。3は、精巧 な両面加工でつ くられた もので、比較的珪化 した白色 の凝灰岩 を用いている。4は、半透明の赤色の玉髄製で、調整 は丁寧 だが、素材の面 を若干残 していると考 えられ る。5 は無茎鏃で、有茎鏃 に比べてやや大 きい剣離で整形 されている。良質の珪化凝灰岩 を用いている。19は透明な白 色の玉髄製で、両端 を折損 している。逆刺 は一方が丸 く、一方が鋭利 と、左右非対称である。

ポイン トは

1点

出上 した (図

57‑6、

図版

36‑6)。

比較的良 く珪化 した石英安 山岩質凝灰岩 を用いてい るが、

先端部 は石質の珪化が弱 く、調整劉離の稜が摩滅 している。先端部 と側縁 は丁寧 に加工 され、両面に素材の面 を 大 き く残 している。素材 は縦長剣片 と考 えられ る。

石錐 は

3点

出上 した(図

57‑7〜

9、 図版

36‑7〜

9)。 7は赤色 の玉髄製で、図

57‑4の

石鏃の石材 と類似す る。素材 は、表面の凹凸が激 しい剣片 と考 えられ る。つ まみ部 は周縁 を一部カロエ して整形 され、錐部 は短 く作 ら れている。

8は

流紋岩製である。入念 な両面加工で棒状 に整 え られ、錐部の先端 は丸みを帯びている。10は黄色 の珪化凝灰岩で、素材 には横長の劉片 を用いている。つまみ部 はほとん ど加工 されず、錐部 は素材の折れ面 を利 用 して断面三角形 吟作 り出されている。

石匙 は

2点

出上 した (図57‑10。11、 図版36‑10・11)。 ■ は珪質頁岩製で、大 き く折損 している。つ まみ部 は 丁寧 に加工 されている。10は、珪質凝灰岩の弯 曲した縦長剣片 を用いた縦型石匙である。刃部 には入念 な片面加

工が施 され、つ まみ部 は両面か らの象!離で作 り出されているほかは、 ほ とん どカロエ はなされていない。

スクレイパーは

3点

出土 した(図

57‑12〜

14、 図版

36‑12〜

14)。 13は良質 な珪化凝灰岩の大型縦長劉片 を用しヽ た ものである。両側辺 に刃 こばれ状 の剣離がみ られ る。12は石英安山岩質凝灰岩製で、素材の打面 は除去 されて いるが、縦長剣片 を用いた もの と考 えられる。主に背面側の両側辺に細かい象」離がみられ、特に角度が急な図な 側辺 に多 く観察できる。14は良質 な珪化凝灰岩の横長象」片 を用いた ものである。素材 の剣片の末端部 に刃 こぼイし 状の細かい剣離が多 くみ られ、図左端 には丁寧 に調整 された部分 もみ られ る。

トゥールの破損品 と考 えられ るものは2点出上 した (図57‑15。 16、 図版36‑15・ 16)。 16は褐色の玉髄製で、

周縁 を丁寧 に加工 している。15は珪質頁岩製で、同 じ く周縁 を加工 している。

リタッチ ドフレークは24点出上 した。石材 は頁岩10点 (41.7%)、 玉髄

7点

(29.2%)、 流紋岩3点 (12.5%)、

珪化凝灰岩3点 (12.5%)、 鉄石英1点

(4.2%)が

み られた。火成岩が選択 されに くい傾向があるといえるが、

素材の大 きさによる選択 の偏 りはみ られない。

磨製石斧 は1点出上 した(図58‑17、 図版36‑17)。 頁岩製である。側面 はほぼ平坦 に整形 され、両側面 とも上 半 はよ く研磨 され、下半 には敲打痕 を多 く残 している。また、頭部 にも敲打痕が多 く観察で きる。刃部 は両刃で、

刃 こばれ と考 えられ る剣離がみ られ る。

石核 は11点出土 した (図58‑18、 図版36‑18)。 石材 は流紋岩

4点

(36.4%)、 頁岩

4点

(36.4%)、 珪化凝灰岩 2点 (18.2%)、 石英安 山岩1点

(9.1%)が

み られた。流紋岩や石英安 山岩 には大型 の ものが多 く、頁岩や珪イヒ 凝灰岩 には小型の ものが多い。18は流紋岩の石核 である。打面転移が さかんに行われた と考 えられ、ほぼ全ての 面で劉片剣離が行われた と推定で きる。

剣片 は224点出土 した。石材 は、流紋岩51点 (22.8%)、 玉髄42点 (18.8%)、 鉄石英34点 (15.2%)、 石英安山 岩31点 (13.8%)、 頁岩28点 (12.5%)、 凝灰岩20点 (8.9%)、 凝灰質頁岩■点 (4.9%)、 安山岩

2点

(0.9%)、

玄武岩質安 山岩1点(0.4%)、 石英安 山岩質凝灰岩1点(0.4%)、 流紋岩質凝灰岩1点(0.4%)、 粘板岩1点 (0.4%) がみ られた。 これを トゥールの石材組成 と比較 してみる。 トゥールの石材組成 は、玉髄

6点

(35.3%)、 珪化凝灰 岩

6点

(35.3%)、 珪質頁岩

2点

(11.8%)、 石英安 山岩質凝灰岩

2点

(11.8%)、 流紋岩1点

(5.9%)で

ある。

玉髄が多い ことは共通す るが、剣片 に最 も多い流紋岩 は トゥール に1点み られ るのみである。流紋岩 は、石核 に も多 くみ られるため、象J片生産 はさかんであった と考 えられるが、何 らかの理 由で トゥールの素材 として選択さ れることがなかった と推定で きる。次 に石材別 に大 きさの分布 をみると、流紋岩 は大型の剣片が多 く、玉髄、鉄 石英、凝灰岩の剣片 はほ とん どが小型である。その中間に頁岩 と石英安 山岩 の剣片が分布 している。この ことは、

石核 の大 きさとほぼ対応 している。原石の大 きさな どが関係 していると考 えられ る。 また、 どの石材 にも

3〜

4 割程度折れた剣片がみ とめ られた。図

57‑9な

どのように折れ面 を利用 した石器製作技術 の存在が うかが える。

チ ップは97点出土 した。石材 は、凝灰岩30点 (30,9%)、 玉髄29点 (29.9%)、 鉄石英20点 (20,6%)、 流紋岩10 点 (10.3%)、 頁岩

7点

(7.2%)、 石英安山岩

1点 (1.0%)が

み られた。 これを上記の トゥール と象!片の石材組 成 と比較す ると、玉髄が多い ことは共通す るが、石核や象」片 に多 くみ られ る流紋岩 は少ない。チ ップの点数が少 ないため比較 には注意 を要す るが、凝灰岩系の石材が多い ことも含 めて、 ほぼ トゥールの石材組成 を反映 してい るといえる。

今回の調査で出土 した石器 には様々な石材が用い られていた。 しか し、

 

トゥールにはほ とん どみ られない流紋 岩や石英安 山岩が剣片 に多 くみ られた ことか ら、多様 な石材 を活用 してい く中にも、何 らかの選択性が働 いたこ

とが うかが える。

 

須恵器(図56‑18、 図版

35‑18)

古代 の須恵器の破片が1点のみ確認 された。粥治時代の整地層である

2層

か らの出上である。頸部 は不明だが あまり細 くはな く、直立 ぎみに開 く長頸瓶 と考 えられ る。推定 され る体部 の最大径 は

12cm程

の小型の ものであ

る。焼成 は堅緻で、断面で観察す ると器壁の中心 は紫褐色で表面近 くのみが青灰色〜黒色 を呈す る。外面肩部に は暗緑色 の自然釉の痕跡がみ られ、釉のみ られない体部 は艶のある黒色である。内面 の調整 は凹凸が激 しく方向 も一定 しないため、 ロクロを用いないナデ とみ られ る。肩の屈曲部内面 には指でおさえた とみ られ る くばみ も認 め られ、成形 にあたってロクロ調整のみで済 ませ るわ けにはいかなかったようである。細かな年代比定 は残存部 分のみか らでは無理だが、 このような小型の瓶 は奈良時代前半以前 にはあまり例 をみない ものであることか ら、

奈良時代後半以降の もの と考 えておきたい。

 

古代の瓦 (図56‑17・ 19。 20、 図版35‑17・ 19・ 20)

17は軒平瓦で、17世紀代の

3号

Gか

ら出上 した。瓦当面 には半載管状工具 による手描 き重弧文、顎面 には同 様工具 による手描 き鋸歯文 と

2本

の直線文が描かれ る。平瓦の凹面 には模骨痕 とみ られ る凹凸 と布 目 (一部で重 複す る

)が

あ り、布 目を切 ってナデおよび凸型台の端 と木 目の痕跡が認 められる。顎面 は縄叩 き目がナデ消 され ている。平瓦部凸面 は残存部分ではケズ リが施 されてそれ以前の調整 は不明である。瓦 当面・ 端面 ともにケズリ が施 され る。焼成 は堅緻で灰色 を呈する。胎土 には砂粒 を多 く含んでいる。

これ らの特徴か ら、17は本遺跡の北東

15km程

に所在す る多賀城市 多賀城跡の

 

軒平瓦

511‑aタ

イプで、

8

世紀前葉 の多賀城創建期 に作 られた ものであると考 えられる (宮城県多賀城跡調査研究所1982)。

511‑aタ

イプ は遠 田郡 田尻町木戸窯跡群 と加美郡色麻町の日の出山窯跡群

B地

点で生産 されていた ことがわかっているが、進 藤秋輝氏 の ご教示では日の出山窯の製品であろうとの ことである。

19。 20は平瓦の小片で、各々明治時代 の整地層である3層 と2層か らの出上である。19は凸面 に縄叩 き、凹面 には布 目が比較的明瞭 に残 り、かつそれを切 るナデが観察 され る。側端面 はケズ リもし くはナデ調整 されている と思われ る。焼成 はやや軟質で灰色 を呈 し、胎上 には砂粒が多 く含 まれる。20は凸面 に縄叩 き、凹面 は布 目らし い痕跡 はあるが、ほ どん どナデによって消 されてい る。側端面 は削 られていると思われ る。凸面の端部近 くが屈 曲 してお り、調整段階の凹型台の痕跡 と考 えられ る。焼成 は19よ りは硬質で、灰色 を基調 として部分的 に艶のあ る黒色、凸面 にはさらに自然釉が認 められる。胎上 には砂粒が多 く含 まれる。以上の特徴か ら、19は多賀城跡の 一枚作 り平瓦

HB類

a、 20は

HB類

bに

相 当す るもの と考 えられ る(宮城県多賀城跡調査研究所前掲)。 平 瓦

HB類

は多賀城政庁跡第I期〜第Ⅲ期 にみ られ るが、

 I期

HB類

は詳細が明 らかでな く、

H期

には

IB―

a

類 のみで、Ⅲ期 には

HB類

a.b両

タイプが認 め られ るとされている。進藤秋輝氏か ら19・ 20と もⅢ期 のもの によ く似 ているとい うご教示 をいただいた。Ⅲ期 の瓦の製作年代 は

8世

紀未頃 と推定 されてい る。

上記 の ような古代瓦の出土 は仙台城跡ではもちろん初 めての ことである。多賀城政庁

H期

以降の瓦 は青葉区ゴヒ 部 の窯跡や陸奥国分寺 。尼寺 な ど本遺跡か ら

2〜 3 kmの

比較的近い遺跡か ら出土す るが、

 1期

の瓦 は生産地が 宮城県北部であ り、その主な分布 は多賀城以北 にある。江戸時代 には多賀城跡の瓦 を生産物 とした り、硯 に加工 した りす ることが流行 していた ことが文献 によ り知 られ ることか ら、17の軒平瓦が出上 した時点で は、江戸時代 にその ような もの として遺跡 に持 ち込 まれたので はないか とも考 えていた。 しか しその後整理作業 を進 めてい く うちに、明治時代 に盛 られた整地層か らの出上で本来の包含地 は本地点ではない可能性 はあるが、18の須恵器や

19。 20のような瓦 も存在す ることが明 らか とな り、付近 に瓦 を用いるような性格 の古代遺跡のあった可能性が高 くなった といえ、今後注意 してい く必要がある。

(2)江

戸時代以降の遺物

 

陶磁器 (図59〜81、 巻頭図版

3〜

9。 12、 図版37〜54、

5〜

10。 23〜28)

本調査地点では、16世紀後葉か ら幕末 まで、各時期 の陶磁器が出土 してお り、時期 ごとにその概要 を述べる。

16世紀後葉】

本調査地点では、17世紀前半代 を主体 とした遺物 を出土す る遺構 な どか ら、16世紀後葉 に遡 る戦国期 の陶器が

ドキュメント内 東北大学埋蔵文化財調査年報13 (ページ 89-105)