1.仙
台 城 二 の 丸 跡 と二 の 丸 北 方 武 家 屋 敷 の 立 地 と歴 史東北大学の川内地 区は、沢 とその脇 を東西 に走 る道路 によって、川内南地 区 と北地 区に分かれている。 この川 内南地 区は仙台城二 の丸が置かれた場所であ り、北地区は武家屋敷が存在 した区域 に相 当す る。
仙台城 は、仙台市街地 の西方、広瀬川 を渡 った通称青葉山の東端 に位置 している (図1)。 北 と東 を広瀬川 に、
南 を竜の日漢谷 によって囲 まれている。本丸 は標高115〜
140mの
急崖上 に立地 してお り、北側の二の丸、北東恨]の二の丸 も、それぞれ標高61〜 78m、
40mの
河岸段丘上 に位置する (図2)。仙台城 は、慶長
5年
(1600年)、 仙台藩初代藩主伊達政宗 によって、本丸の造営が開始 される。川内地区の後に 二の丸が造営 される区域 には、伊達政宗の四男である伊達宗泰の屋敷が置かれていた。元和6年
(1620年)には、この伊達宗泰の屋敷 の北側 に、政宗の長女五郎八姫の居館「西屋敷」が造 られる。
二の丸北方の武家屋敷地 については、それが整備 されてい く状況 を具体的に知 ることがで きる絵図な どは知 ら れていない。 しか し、正保2・
3年
(1645・46年)の
「奥州仙台城絵図」では、二の丸の北方一帯 に屋敷が広がっ ていることが知 られ、おそ らく本丸の造営が開始 された頃か ら、屋敷が造 られていった もの と思われ る。 この区 域 は、その後細 かな変化 は見せ るものの、比較的上級の家臣の屋敷地 として幕末 まで利用 されてい く。寛永15年 (1638年)、 二代藩主伊達忠宗 は、 もとの伊達宗泰の屋敷地 において、二の丸の造営 を始める。二の丸 完成後、仙台藩の政治・ 諸儀式のほ とん どはここに移 され、藩主の居館 ともなる。17世紀末か ら18世紀初頭 の元 禄年間には、四代藩主伊達綱村 によって二の丸 は大改造 され、 もとの「西屋敷」の敷地 を取 り込んで拡張 され る。
その後い く度かの災害や火災 を被 るが、その都度再建 され、幕末 まで仙台城 の中枢 として機能 してい く。
版籍奉還の明治
2年
(1869年)に
は二の丸 に勤政庁が置かれ、明治4年
(1871年)の
廃藩置県後 は、仙台城が 明治政府・ 兵部省 の管轄下 に移 り、東北鎮台 (後に仙台鎮台)が
置かれ る。 この頃に本丸の建物群 は取 り壊 され るが、二の丸建物群 は残 っている。 しか し明治15年 (1882年)の
火災で、二の丸建物群のほ とん どが焼失す る。明治21年 (1888年
)に
は仙台鎮台廃止、仙台第二師団が設置 され、敗戦 まで続 くこととなる。 もとの二の丸 にあ た る区域 には第二師団司令部が、北側 の武家屋敷 にあたる区域 には歩兵隊や鞘重隊な どが置かれていた。戦後 は 米軍の駐留地 とな り、昭和32年 (1957年)に
米軍 より返還 されて後、東北大学が移転 し現在 に至 るのである。2.調
査 経 緯(1)1994年
度 までの調査1983年度 に埋蔵文化財調査委員会が設置 されて以降、仙台城二の丸北方の武家屋敷地区については、二の丸跡 と一連 の遺跡 として とらえ、一体 として対処 してい くことを基本的な方針 としてきた。ただ し、 この区域での遺 構の遺存状況が必ず しも明 らかでな く、 まずその状況 を把握す る必要があった。 そのため、1984年度以降、関係 部局の理解 を得て、試掘調査 を行 って きた (図3)。
1984年度 に実施 した武家屋敷地区の第
1次
調査地点(BKl)は
、当時、課外活動施設の予定地であったため、江戸時代 の遺構・ 遺物 の有無 を確認す るために行 った試掘調査である。 3ヶ 所 を重機で掘 り、江戸時代 の遺構面 が残存 していることを確認 したに留 まっている。1985年に実施 した第
2次
調査地点(BK2)と
第3次
調査地点(BK3)に
ついては、立会調査で終わつているため、欠番 としている。第4次
調査地点 は、今回報告す るもの であるが、1985年に試掘調査 を実施 している。第5次
調査地点(BK5)は
、教養部学生実験施設 にエレベーター を設置す るのに伴 い、1989年 に実施 された。当初試掘調査 とい う位置づ けであったが、江戸時代の遺構が検 出されたため、本調査 に切 り替 えて実施 している。40m2と ぃぅ小規模 な調査であったが、南北方向にのびる溝が 1条 検出されている。 これ らの調査 を通 じて、二の丸北方の武家屋敷地区まで、二の丸跡の遺構面が途切れることな
く連続 して遺存 していることが明 らか となって きた。そのため1993年度 に、仙台城 の範囲を拡大す る措置が仙台 市教育委員会 によって とられ、川内北地 区の大部分が、周知の遺跡の範囲に含 まれ ることとなった。
このように、二の丸北方武家屋敷跡の調査 は、小規模な調査か試掘調査 に留 まってお り、今回の第
4次
調査地 点(BK4)の
調査が、当武家屋敷地 区の発掘調査 としては、初 めての本格的な発掘調査 となる。12)調
査地点の位置今回の調査 は、課外活動施設新営 に伴 う調査で、川内北地 区のプール南側の地点である。現在の川内南地区 と 北地 区の間には、西か ら東へ流れる沢が あるが、 この沢 は江戸時代 にも二の丸 と武家屋敷 との境 となっていた。
調査地点 は、 この沢の北側 に沿 って走 る道路 の、す ぐ北側 の区域 にあたる。 この道路が曲が るところか ら、構内 に入 ってい く通路があるが、 この通路の下 に雨水管 と汚水管 を設置する工事が1978年に行われた際 に、石組の井 戸跡 な どが検 出されている。当時 は、大学構 内での埋蔵文化財調査 に対処する組織がな く、文学部考古学研究室 によって臨時の調査がなされたに留 まっている。詳細な記録 を残す余裕 もない、ごく限 られた調査であったため、
今回の調査地点 との細かな位置関係 な どは確認で きなかった。
(3)調
査の方法 と経過今回の建設予定建物 は、 口字形 の平面形の計画であった。調査 にあたっては、建物範囲 と余掘 り部分 を対象区 域 として、中庭部分 は調査 を行 っていない。恒久建造物 に囲 まれてしまうこと、調査区が中庭で分断され、遺構 の理解 に支障 をきたす ことが予想 され ることか ら、中庭部分 も調査範囲に含めることも検討 したが、次のような 理由で中庭部分の調査 は見送 った。建物 の西側
1階
部分が吹 き抜 けで、小型の重機や車両が中庭 に入 ることが可 能な構造であ り、中庭部分の調査が今後必要 となって も調査が可能であること。給排水・電気 。ガスなどの付帯 施設 は、全 て建物の外側へ出 し、中庭側 には作 らない方針 となった こと。調査地点の遺構が、極 めて複雑である ことが予想 され、将来再検証できる余地 を残 しておいた方が良い と判断 した こと。 また、建物の計画策定段階の 埋蔵文化財調査研究センター と施設部 との協議 において、センター側か ら破壊 され る範囲をで きるだけ少な くす るよう設計変更 を求 めた ところ、施設部側では当初の3階
建 ての計画 を4階
建 て とし、接地面積 を少な くすると い う設計変更で応 じていただいた。 この変更 によって、廊下・ エレベーターなどの共用部分の配置の関係上、ロ 字形の計画 となった という経緯 も考慮 した ことによって、中庭部分の調査 は行わない こととした。今回の調査地点では、1985年度 に試掘調査 を実施 している。当時は、保健管理セ ンターの建設予定地 として試 掘調査 を実施 したが、その後保健管理セ ンターは別の場所で建設 され ることとな り(二の丸跡第12地点、年報11)、
この場所が課外活動施設の建設予定地 となった ものである。試掘調査は1985年 11月 19日か ら25日 までの期間で実 施 され、当時の保健管理センターの建設予定範囲全体 に■ ヶ所の試掘区を設定 して調査 している(試掘
1〜
11区)。重機 によって掘削 した上で、平面精査が行われた痕跡があるのは試掘
5区
・6区
だけ、調査 区の断面図が残 され ているの も2・ 3・ 4・ 5・6区
だけである。それ以外の調査 区については、図面 。写真 ともに残 されてお らず、調査 日誌 に も全 く記載がな く、断面 の検討す ら為 されたか どうか判 らない。そもそ も調査 日誌 自体が、期間全体 を
1枚
にまとめて記載 しただけの もの しかない。 この僅かな記録 と、出土遺物 をあわせて検討 したが、各層序で 様々な時期 の遺物が混 ざってお り、混入が甚だ しい と判断せ ざるを得なかった。そのため、試掘調査結果 は、試 掘6区
に大規模 な溝跡(1号
溝)力 ゞ存在す ること以外 は、参考 にな らない ものであった。今回の本調査 にあたっ ては、手続 き上 は試掘調査済みの扱いの場所 となるため、改めて試掘調査 を実施す ることはできなかった。その ため、試掘4区
の断面図で、礎石建物跡 の存在が確認で きた2層上面か ら精査 を行わざるを得 な くなって しまっ縛 、暴 哲 巧 /.!王 耳
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図
9
仙台城二の丸北方武家屋敷跡第4地点調査区の位置 Fig 9 Location of BK4(BK4 ie Location 4 of彰″″″ぢresidence)μ﹃
た。結果的に
2層
上面の遺構 は、明治時代 の第二師団に関係す るものであった。明治初頭 の畑跡が検 出された4 層上面の精査 中に厳冬期 を迎 え、初年度の調査 を終 えることとなったが、初年度の 5ヶ 月間は明治時代 の層序の 調査 に費やす結果 となって しまった。試掘調査 によって、 これ ら層序の時期が判明 していれば、明治期 について は、別 な対応が とれたはずである。調査 にあたっては、建物予定範囲にあわせて、
3mグ
リッドを組 んだ。 グ リッド設定の際の基準点の国土座標 は次の通 りで、基準線 は北か ら17°20′西偏 している。原点
BK4‑B X=‑193401.280
原点BK4‑C X=‑193416.475 Y=+ 2130.926 Y=+ 2 082.242
今回の調査地点では、排土置 き場がプール東側 しか確保で きず、その面積が小 さ く調査途 中に排土 を運搬す る 必要があった。 そのため、重機やダンプが通行で きる通路 を、北側 のプール脇 に残す こととした。 この区域 は、
排土運搬 の必要がな くなってか ら調査 を行 った。
B列
の中程 にあた る位置 に、東西 に給水管が設置 されてお り、ここまでを当初 の調査範囲 とした。図12の
C―
C′断面 は、 この給水管掘方の北壁のラインでの断面図である。調査 は1994年の8月 1日 か ら開始 したが、翌年度 まで継続 して調査が必要であったため、12月下旬 に調査 区全 面 にシー トを貼 り、要所 を上嚢で埋 め越冬 に備 えた。翌1995年度 は、前倒 しで 3月 1日 か ら調査 を開始 した。江 戸時代 の遺構が、予想 をはるか に超 える密度であつた ことと、整地層の上での遺構確認 の困難 さに苦闘す ること
とな り、 ようや く8月31日に調査 を終了 した。前年度 とあわせて、■ ヶ月間に渡 る調査であった。
付帯施設部分 は、工事 の進展 に合わせて随時立会調査 を行 ったが、建物本体か ら排水管 をのばす部分で、江戸 時代 の遺構面 まで削平 され ることとなったため、 この部分 については本調査 を行 った (付帯 A・
BoC区
)。3.基
本 層 序基本層序 は1層か ら
6層
に区分 した。6層の下位 は地山である。なお、今回の調査で出上 した動物遺存体 につ いては、数量が少な く、 まとまって出上 した場所 も無 いため、東北大学考古学研究室の氷見淳哉氏 に同定 してい ただいた結果 を、基本層序や各遺構の記述 に含 めて記載す ることとした。以下、基本層の層相 について記載す る。1層は現在 の表土層である。
2層
は、暗褐色か ら褐色 を呈する粘土質 シル ト主体 の整地層で、場所 によって上色・ 土質・ 含有物 は異なる。調査区の全面 に分布す る。厚 さは
20cmか
ら40cm程
度である。3層
は、地 山起源 と考 えられ る責褐色 シル ト主体 の整地層で、場所 によって土色 。上質・ 含有物 は大 き く異な る。調査区西端 には分布 しない。ほ とん どの範囲で は厚 さ30cm程
度であるが、4層
上面の1号
池 を埋 めている所 では、厚 さlm以
上 に及ぶ。3層上面か らは遺構がほ とん ど検 出されていない ことか ら、2層 と3層
は一連 の整 地層 と考 えられ る。4層は、 にぶい責褐色か ら灰 責褐 色 を呈 す る粘 土 質 シル ト で、調査 区のほぼ全面 に分布す る。
4層
上面では、溝で区画 さ れた内部か ら畝状 の遺構が検 出 されてお り、畑跡 と考 えられ る。畑跡 は調査区西側 を除いて分布 してお り、 この範囲では4層が 畑の耕作土 にあた る。仙台城下 の絵図では、調査地点 は幕末 ま
雅
1号溝
2号
池 (18c以 降の屋敷境 の溝) 6層
(17c代 の屋敷境 の溝)
図
10
武家屋敷跡第4地点基本層序模式図Fig 10 Schematic profile of BK4
西一
明治 (建物群
)
現地表絆犠 a層
江戸時代 5b層
5b′層