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ドキュメント内 東北大学埋蔵文化財調査年報13 (ページ 184-188)

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X=‑1934

104 

武家屋敷跡第4地点屋敷区画推定図

Fig 104  Blocks estimated to the residence at BK4

西 よ りの 区域 を調査 した こととなる。

図105は 、登米郡 出身 の画家 であ る吉 成東温 (1828〜1907)の筆 に よる、「慶 応元 年仙台城下 図屏風 」 の第六扇 の左 上 の部 分 で あ る。か ろ う じて左 端 に 入 って い る建物 の屋根 に「大松 沢」 と 書 か れ て お り、 この建 物 が大松沢越 中 邸 の屋敷 で あ る こ とが判 明 す る。右隣 の屋敷 か ら坂 をあが った ところに描 か れて お り、間 の木々が描 かれてい る と ころが、段丘崖 に相 当す るので あろう。

坂 をあが ってす ぐの所 に問が描 かれ、

門 を入 って す ぐの所 に屋根 に「大松沢」

と書 かれた最 も大 きな建物 が あ り、 こ れが母 屋 で あ ろ う。 その ように考 える と、屋敷 の 中心 的 な建物 は、屋敷地 の 東 側 に よった 所 に存 在 した こ と とな

る。

本 章

4の

冒頭 で、今 回 の調査地点 に ng 105

は礎石建物がほ とん どな く、小規模 な建物が多い と指摘 したが、中心的な建物が調査区か ら東 にはずれていた可 能性 もある。ただ し全ての時期 において、同 じか どうかは判 らない。

Ib期

の30号建物 な どは、比較的規模が太 きい ことか ら、中心的な建物であった可能性が残 る。 この建物 も掘立柱建物であるが、17世紀代 の ものであ り、

まだ礎石建物が一般化 していない可合Z陛も考 えてお くべ きであろう。

今 回の調査 区では、 ゴ ミ穴 と考 えられ る遺構 は見つかっていない。絵図や「慶応元年仙台城下図屏風」の記載 か ら、屋敷 は南側 を正面 としていた ことは確実である。今回の調査範囲 より北側 に、 さらに屋敷地が広がってい る と推定で きることか ら、裏手 にあたる北側 にゴ ミ穴 のような施設 は造 られていた可能性が考 えられ るであろう。

なお、今回の調査では、瓦の出土が極 めて少ない。 この屋敷地では、瓦 を葺いた建物 は、存在 しないか、存在 し た として も極 めて限定 された ものであった と考 えられる。「慶応元年仙台城下図屏風」に結かれた大松沢越中邸の 建物 には、門や塀 を含 めて、瓦 を使用 しているような表現 は全 く認 められず、調査成果 と合致す る。

 

建物跡・ 柱列の柱間寸法

本章

4の

時期 区分の ところで述べたが、今回の調査で検 出された建物跡の柱間寸法 は、

6尺 5寸

か ら6尺

3寸

へ と変化 していると考 えられ、17世紀末 には

6尺 3寸

が採用 されていた もの と推定 された。 これ までの二の丸地 区の調査で検 出された建物跡の柱間寸法 を以前 に検討 したが (年報9)、 元和

6年

(1620年

)に

造営 された、五郎 八姫 の「西屋敷」 と考 えられる建物跡では、1間が

6尺 5寸

であった。 この点 は、今回の調査結果 と一致す る。

二の丸期 の遺構 は、門や塀 と考えられる施設がほとんどで、検討できる素材が少ない。第

2地

点で検 出された二 の丸の中心的な建物である「小広間」は、検 出範囲が狭 く確実性 に欠 けるが、6尺

5寸

の可能性が高い。 この「Jヽ 広間」 は、明治15年の火災で廃絶 した と考 えられ、

6尺 5寸

である とす るならば、19世紀代 に もこの柱間寸法が 使用 されていた こととなる。ただ し、二の丸調査地点の各所の遺構 を、18〜 19世紀代 の絵図 と対比 させた ところ、

む しろ

6尺 3寸

と考 えた方が、良 く対応 した。今回の調査で武家屋敷地 区では、17世紀末 までに柱間寸法が変化 してい ることを確認で きた ことは、二の丸跡の柱間寸法 を検討す る基準 となるであろう。屋敷地 と異なる柱間寸

(仙台市博物館所蔵、写真提供:仙台市博物館)

図105 慶応元年仙台城下図屏風 (第6扇)

The folding screen painted castle tO、 vn,Sendai in 1865(血 e6th paneled screen)

法が使用 されている建物があつた場合、建物 の性格 な ど、固有の理由を検討 してい くことが必要であろう。

今回の調査で確認 された、 この両者以外の柱間寸法 としては、塀 のような施設の可能性がある7・ 20・ 21号建 物跡 を除 くと、次のような建物がある。柱間寸法が7尺 となるのは

Ha期

8・

9号

建物跡があ り、

Ib期

28・

32号建物跡では、桁行7尺、梁行

6尺 5寸

であった。やや特殊 と思われ る

6尺 8寸

を採用す るのが

Ib期

の29号 建物跡である。数が少ないため、 これだ けで確定的なことは言 えないが、

 Ib期

か ら

Ha期

の、17世紀後半か ら 18世紀前葉 の時期 に限 られている。柱列で も、7尺を採用す る20号柱列、

8尺

の22号柱列 は

Ha期

である。時期 的な特色 とい う可能性 と、 この時期 の当屋敷地の個別的な理 由の両面か ら検討 してい く必要があるだろう。

柱列の柱間寸法 は、変化 に富んでいる。小規模 な12号柱列、建物跡 の一部 を構成す る可能性がある

6尺 3寸

と 6尺

5寸

の ものを除いて、整理 して列挙す ると、次のようになる。なお、

L字

形 に曲が るため建物跡 としたが、

塀 のような施設 の可能性がある

Hbl期

3棟

の建物跡 も含 めた。

3尺 6寸 :2号 (Hb期

)、 15号

(Hb期

)、 20号建物跡

(Hbl期

)

4尺

:13号 (II b 3期)、 14号

(Hb3期

)、 16号

(Hb2期

)、 21号

(Ha期

)、 24号

(I期

)、

7号

建物跡

(Hbl期

)

5尺 :3号 (Hb2期

)、

7号 (H期

)、 27号

(Ia期

)

5尺 2寸

:19号

(Ha期 )21号

建物跡

(Hbl期

)

6尺

:28号

(Ia期 )  

7尺

:20号

(Ha期 )  

8尺

:22号

(Ha期

)

4尺

が最 も多 く、柱列 については、柱間寸法

4尺

が最 も一般的で、次いで

3尺 6寸

5尺

5尺 2寸

な どが使 用 された と考 えて良いであろう。 これ らの柱列の多 くは、塀 のような施設であった と考 えられ る。

 

地鎮遺構 について

今回の調査では、

3基

の地鎮遺構 と考 えられ る遺構が発見 された。伴 って出上 した銭貨が、永楽通費で占め ら れ ることか ら、17世紀初頭 と考 えられ る。当屋敷地 の使用開始が17世紀初頭 と考 えられ ることか ら、 これ らの地 鎮遺構は、最初の屋敷造営 に関わる可能性がある。

3基

とも、 ピッ トの底面 に上師質土器の皿 を合わせ 口にして 埋納 した もので、内

2基

には永楽通費が入れ られ、その関の1つには皿 の中に稲概が一面 に入 っていた。地鎮跡

2で

は、 ピッ ト埋土で柱痕跡が明瞭 に確認で きた ことか ら、柱穴 の底面 に埋納 した もの と考 えられる (図

30‑

3)。

近年、東北地方で も地鎮遺構 の検出例が増加 し、集成 も行われているが (平泉研究会編1996)、 古代 。中世 の例 は多数知 られている反面、近世 の調査例 はまだ少 ない。宮城県内の例 としては、多賀城市高崎遺跡第

7次

調査の S X233がある (石川俊秀1989)。 不整精 円形 の上坑か ら、かわ らけが10点、寛永通宝

7点

が出上 している。かわ らけは合わせ 口にはな らず、全て上向 きに並べ られ、古銭 もかわ らけの外か ら出土 している。今回の調査例 とは、

埋納方法 な どで違 いが大 き く、様々な方法があった ことを伺わせ る。今回確認で きた柱穴 の底面 に埋納 した例 は、

他の地方では知 られているが、東北地方では確実な類例が無いようである。

今回検 出された地鎮遺構 は、柱穴 に埋納 していること、土師質土器の皿 (一部墨書有 り

)に

古銭・ 稲柳 を入れ た状態が良好 に判 る点な ど、具体的な地鎮 の様子が判明す る、近世では数少ない例である。 また、出上 した遺跡 が、仙台城周辺 の上ヒ較的上級の家臣の屋敷地であるとい う、地鎮 を行 った主体 の社会的階層が明 らかな点 も重要 である。地鎮遺構 の比較研究 を進 めてい く上で、基準 となる資料 を提供す るもの と言 えよう。

12)陶

磁器 。土器の検討

 

陶磁器・土器の種類別組成の検討

本調査地点出上の陶磁器・土器 を、磁器、陶器、軟質施釉土器、土師質土器 (皿)、 土師質土器 (皿以外)、 瓦 質土器の

6種

類 に分け、年代 の限定できる遺構内出上の一括資料 を用いて、それぞれの比率の変遷 を調べた (図

107、52)。 数値 は全て、接合、同一個体 の識別 を経た後 の破片数である。その結果、元禄年間 を境 に、土師慣 土器、特 にそのなかで も皿の比率が大 き く変化 していることが半」明 した。すなわち、18世紀前葉以前 には、資洛 ごとのバ ラツキはあるものの、土師質土器 の比率が全体の

4割

を下回ることはない。 それに対 して、18世紀以降 の資料群では、

 1割

前後 に激減す る。二 の丸地区では、江戸時代 を通 じて、土師質土器が

3割

以上の比率 を保 つ てお り、本調査地点 とは対照的なあ り方 を示す(註1)。 また、前 に土師質土器 の項で触れた ように、本調査地点 出上 の 土師質時皿の うち、少な くとも約半数 は灯明皿 として利用 されてお り、二の丸地 区に比べて、灯明皿への 利用頻度が高 く、食器 として使われた ものの比率 は低い と考 えられる。 これ らの ことか ら、藩の公的な空間であ る二の丸地 区では、江戸時代 を通 じて各種 の宴会 を含む儀礼的な席上、土師質土器の皿類(いわゆる「かわ らけ」) をハ ンの器 として用いる伝統が保持 され続 けたのに対 して、私的な空間である家臣の屋敷内では、そうしたあ拓 意味中世武家的儀礼の色彩の強い宴会 は、江戸中期 までには行われな くなっていた と見 ることがで る。福井県―

乗谷朝倉氏遺跡の調査では、武家屋敷、寺院 に比べ当主の館である朝倉館では、「かわ らけ」の組成比率が高い こ とが指摘 されている (福井県教育委員会1979)。 仙台城二の丸跡および本武家屋敷地点出上の陶磁器・土器 の検計 か ら、近世遺跡 において も、「かわ らけ」 は、「場」の公的 。政治的度合いを測 る尺度 として利用可能であるとの 見通 しが得 られたわけであ り、今後、 その ような視点か ら研究 を進 める必要がある。

 

陶磁器の産地別組成の検討

年代 の限定で きる遺構内出上の一括資料 に含 まれ る磁器 と陶器 に関 して、それぞれ産地別の組成比率の変遷 を 検討 した (図108・109、53・54)。 数値 は全て、接合、同一個体の識別 を経た後 の破片数である。なお、仙台婉 二の丸地 区における陶磁器の産地別組成の変遷 に関 しては、年報

9で

既 に検討 してお り(年報9の125・ 126買)、

二の丸地区 との対比 を行 う場合 には、そのデータを用いているので、併せて参照 されたい。

本調査地点 には、肥前磁器 を含 まず中国産磁器のみを出土す るか、若 しくは中国産磁器が肥前産 を上回る量 出 土す る遺構 は存在 しない。本調査地点で最 も古い遺構の一つであ り、17世紀前半代 の遺物 を出土す る

1号

溝 にお いて も、磁器 は肥前産が約

9割

を占めている。17世紀代 には、磁器 の

1割

程度が中国産であるが、18世紀以降は、

一部優品が伝世 される以外、基本的 に中国産磁器 は姿を消す。中国産磁器 は、明末の景徳鎮系の青花が多 く、津 州窯系の粗製品は、皿が僅かに認 め られ るに過 ぎない。19世紀代 に入 ると、小型端反碗 を中心 に瀬戸・ 美濃産 の 磁器が出土するようになる。本調査地点 において も、 これ までの報告 した二の丸地 区の調査 において も、瀬戸・

美濃産 の磁器の大部分 は、藤沢編年第■小期の美濃窯 の製品であ り、仙台 において本格的 に瀬戸・ 美濃の磁器が 使われだすのは、19世紀中葉 になってか らの ことと思われ る。 また、本調査地点 には、二の丸地区第

2地

点石敷 遺構 (年報

1)や

同第10地点Ⅲ

‑3層

(年

9)の

ように、切込や平清水 な ど東北産 の磁器が、肥前や瀬戸の磁 器 を凌駕する遺構や層 は存在 しない。 これ は、本調査地点が、明治維新 により武家屋敷が廃絶 された直後、畑 と して利用 されているため、陶磁器が廃棄 され るような状況 にはなかったため と考 えられる。翻 って考えれば、切 込や平清水 な ど東北産の磁器が、肥前や瀬戸の磁器 を凌駕す る段階 は、明治維新直後二の丸地区に勤政庁が置か れていた時期か ら鎮台が置かれていた初期 の段階、すなわち、1860年代後半か ら1870年代前半の極 めて短い期間 に限定で きる可能性が高い。

陶器 の産地 に関 しては、17世紀前半の遺物 を主体 とす る

1号

濤では、瀬戸・ 美濃が全体 の半数以上 を占めてい る状況 にある。 しか し、それ以降瀬戸 は漸次減少す る傾向にあ り、19世紀 に瀬戸 の磁器が入 る段階になって、そ れに伴 って再 びやや出土量が増加 に転 じるまで、ほ とん ど見 られない状況 にある。17世紀後半か ら18世紀代 にか けて瀬戸・ 美濃産陶器の

'ヒ

率が極 めて低調である原因 としては、次のような ことが考 えられる。生産地側で指摘 されているように、瀬戸・ 美濃 は、17世紀後半の段階で、それ までの皿・ 向付類 を中心 とする高級食器 を指向し た生産体制 か ら、碗や徳利 をはじめ とした 日用雑器、播鉢 に代表 され る荒物主体の生産体制へ移行 した ことが判 っ てい る。 しか し、東北地方南半部 において は、後述す るように、17世紀後半代 には岸窯系陶器 の播鉢が、価格 の

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