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0 10コ n 図 18 仙 台 城 二 の丸 跡 第
12地点 Hd期 検 出遺 構
Fig工
8 Features of phase IId at NM12絢
誇
して来ている。岸上面 は、
HC期
と同様 に、西か ら東へ緩やかに下 ってい く。1号
溝 は、埋 まりきらず に残 って お り、1号
溝Bと呼称す る。調査 区西端での岸上面か ら堀底 までの深 さ3.2m、 東側での岸上面か ら1号
溝Bの
底 までの深 さ5mで
ぁる。【
1号
溝B】
HC期
の1号
溝が埋 まりきらずに残 った ものである。1号
溝埋土 と3層
の堆積 によって、全体 に規模 が縮小 し ている。上幅2.1〜3.3m、 下幅0.6〜 1.5m、 深 さ1.2〜2.3mを
測 る。D‑7区
で、堀底 に6本
の杭が打 たれてい る。 ほぼ溝 の方向に沿 っているが、直線的には並 ばない。 この1号溝Bは
、堀跡 と同時に、2層の大規模 な盛土 によって、一気 に埋 め られている。(3)時
期 による遣構の変化 と絵図・ 地図 との対比今 回の調査で確認 された、時期 ごとの遺構の変化 を、絵図や地図 と対比 させて検討 しててみたい。
江戸時代 の仙台城 を描いた絵図は、各時期の ものが知 られているが、仙台城だけを対象にした絵図では、一番 広い範囲 まで描 いた もので も、二の丸北側の堀の南岸 まで しか描かれていない。そのため、堀の北岸の様子 は城 下絵図を検討す る必要がある。明治以降では、各種の地図が参考 になる。図19に、主要な城下絵図 と、地図 を掲 載 した。
二 の丸の裏門である「台所門」の近 くから北側の屋敷地へ延びる道路 を境 にして、西側が堀、東側 は沢 という 関係 は、江戸時代 を通 じて変化がない。 この道路が堀・ 沢 を渡 る部分 は、土橋 になっていた もの と思われる。工 保二 。三年図
(図 19‑1)と
寛文二年図(図 19‑2)で
は、 この道路 よりさらに西側 にも、平行 して道路が走 っ てお り、 ここも堀 を渡 る部分 は土橋 になっていた もの と考 えられる。 この西側の道路は、元禄四・ 五年図(図
19‑3)以
降 は無 くなるが、土橋 と思われる施設 は、安政三〜六年図(図 19‑5)ま
で描かれてお り、明治26年 の 地図(図 19‑6)で
も、土橋状の ものが残 っている。この2つの上橋 よ り西側 は、時代 によって変化 してい く。最 も古い城下絵図である正保二・ 三年図では、堀の 北岸 に沿 った道 は、真 っ直 ぐ西側へ延 びている。寛文四年図では、 この道 は途中で北側へ鉤の手状 に屈曲 し、 こ れは幕末 まで、 さらには明治38年測量図
(図 19‑7)ま
で基本的 に変わ らない。 しか し、寛文四年図では、 この 釣の手状 に曲が った西側では、道路の南側の堀 との間に「御小人衆」 と書かれた一画があ り、小人衆 の居住地で あつた ことが判明す る。小人衆 とは、雑役 に従事 した者で、侍屋敷の警備などにあたった ものである。一方、元禄四・ 五年図では、小人衆の屋敷地 まで堀が広げられ、釣の手の場所 を境 にして、堀の幅が、西側が 広 く、東側が狭 い とい う形 となる。これは、基本的に明治38年測量図まで変わ らない。また これに伴い、元禄四・
五年図では、釣の手の部分のす ぐ西側 に、南岸か ら堀 に直交 して北に延びる、堰か と思われる施設が出現す る。
ただ しこの施設 は堀 の中程 までで止 まってお り、北岸 までは延びていない。 これより西側 には、堰の ような施設 は描かれていない。天明六〜寛政元年図
(図 19‑4)で
も、 ほ とん ど同 じ表現がなされている。安政三〜六年図の「安政補正改革仙府絵図」では、 この堀の中程 まで延びる堰状の施設の更 に西側 に、堀 に直 交 し、北岸か ら南岸 まで横断す る施設が初 めて描かれている。位置関係か ら見て、 この安政図に見 える堀 を横断 す る施設が、
Ib期
の堀底で検 出された堰状施設である と考 えられる。 したがってIb期
の遺構 は、 この天明六〜寛政元年 と安政三〜六年の間に、従来の堀 を改修 して造 られた ものであることが、絵図の検討か ら判明する。
文献記録 に残 る、 この堀 の改修 に結びつ く可能性のあるで きごととしては、次の3つが考 えられる。一つは文化 元年 (1804年
)の
雷火 による二の丸の全焼 と、翌文化2年
(1805年)か
ら文化6年
(1809年)に
か けて行われた 二の丸再建工事 に伴って、堀 も併せて改修 された可能性である。二つ目は、天保6年
(1835年)の
本丸城壁が崩 壊 した地震の際 に、堀 も何 らかの被害 を被 り、改修が行われた可能性である。 もう一つは、大雨などで被害 を被 り、堀 を改修す る必要が生 じた可能性である。 この期間は、特 に大雨・洪水の記録が多 く、仙台藩領内に被害 を1 正保二・ 三年
(1645・46年 )奥 州仙台城絵図 2 寛文四年 (1664年
)イ山台城下絵図
3 元禄四・ 五年
(1691・92年 )仙 台城下五産掛絵図 4 天明六〜寛政元年 (1786〜
89)仙台城下絵図
5,安 政三〜六年 (1856〜 59年 )安 政補正改革仙府絵図 6 明治 26年 (1893年
)イ山台市測量全図 仙台市役所発行
明治 38年 (1905年 )測 量 同 40年 (1907年 )発 行 8.昭 和
3年(1928年 )測 量 昭和 5(1930年 )年 鉄道補入 二万分一地形図 大 日本市国陸地測量部 二万五千分の一地形図 大 日本帝国陸地測量部
図
19
仙 台城 二の丸跡 第 12地点調査 区周辺 の絵 図・ 地 図 (1〜6は『絵図・ 地図で見 る仙台』 よ り) Fig。19 Picture maps arOund the area of NW112嵐 と lr!
員 六二第奥
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(箸甫蓮簑
もた らした大雨・洪水 としては、天保
6年
(1835年)、 天保9年
(1838年)、 天保12年 (1841年)、 弘化3年
(1846 年)、 弘化4年
(1847年)、 嘉永2年
(1849年)、 嘉永3年
(1850年)、 安政元年 (1854年)が
ある。当然、 これ らの 火災や災害 とは関係 な く、堀だけが独 自に改修 された可能性 も考 えられて良い。今回の調査では、直接Ib期
の 構築年代 を示す遺物が出上 していないので、 このいずれかを決定す るのは難 しい。今回は可能性 を例示 し、今後の課題 としてお きたい。
順序 は逆 になったが、次に
Ia期
の遺構 について検討す る。Ia期
は、遺物が17世紀代 の ものに限 られ ること か ら、17世紀代 に遡 る可能性が考 えられた。今回の調査区は、堀 の西半部が北側 に拡張 されて以降の、北岸 に相 当す る。 したがって、拡張以前の正保二・ 三年図では、堀 の北側の屋敷地 にあた る。同 じく堀拡張以前の寛文四 年図では、北側 に屈曲された道路 の部分か、あるいはその南側の堀 との間に設 けられた「小人衆」の居住地に相 当す る。Ia期
の遺構 については、その様相が充分 には把握で きていないため、検討には限界があるが、段差の 性格が問題 となろう。遺構の報告で指摘 した ように、 この段差 は、深 く掘 り込 まれた堀 とは考 え難い ことか ら、む しろ堀が造 られ る以前の、屋敷地 あるいは「小人衆」の居住地、あるいはその脇の道路部分などに相当する可 能性 を、 ここで は考 えてお きたい。
絵図で見 ると、17世紀末の元禄四・ 五年図以降の堀 は、幕末の安政三〜六年図 まで、ほぼ同 じ範囲 に造 られて いた と考 えられ る。
Ib期
の堀 は、岸の部分のIa期
の地層が残 っていた所以外では、全て地 山を直接掘 り込 ん でいる。今回の調査で、18世紀代 の遺構が確認 されなかったのは、Ib期
の堀が、それ以前の堀 を、更 に掘 り下 げる形で改修 して造 られた結果、前段階の遺構が削平 されて しまった もの と考 えられる。I期の遺構 を埋 めている7層の大規模 な盛土 は、 ほぼ岸の上面か ら斜面の部分 に限 られ、堀底 を埋 めるような 形ではない。したが って、堀 を埋 めるのではな く、岸 をかさ上 げす る目的で行われた盛 り上である と考 えられる。
明治26年図・ 明治38年 図・ 昭和
3年
図の間で、鞘重隊の主要な建物 の配置 は変化がない。 したがって7層
の盛土 による岸 のか さ上 げは、明治26年 (1893年)以
前 に行われていた と考 えて良いだ ろう。出土遺物 の検討か ら、H
b期
の遺構が埋 まっていったのが、1890年代であるという推定 と、矛盾 しない。一方、昭和
3年
(1928年)の 地図(図 19‑8)で
は、 それ以前では堀 の形 に沿 って釣の手 に曲がっていた道路が、真 っ直 ぐに延 び、更 に逆 に南側 に屈曲 している。今回の調査で確認 された、
2層
による堀 の大規模 な埋 め立ては、この道路 の改変の際 に行われた可能性が高い もの と考 えられる。
3a層
の堆積が、1910年代頃で終わっていると いう点 とも矛盾 しない。明治26年 図 と同38年 図 を比較す ると、後者の方が、堀の西端 の位置が東へずれていっている。 この時期 に対応 すると考 えられ る
H期
の中での変化 は、堀 の内部 に着 目す ると、次の ような変化 として把握することができるで あろう。すなわち、Ha期
か らHC期
にかけては、堀の底が埋 まる度 に、部分的な掘 り直 しをして対応 した段階 である。ただ、HC期
には、掘 り直 しは東側だ けで、西側 は埋 まった まま放置 される。Hd期
になると、既 に埋 まった部分 を掘 り直す ことはなされず、次 に一挙 に埋 め られてい く。 このようなH期
の遺構 の変化 は、地図で確 認 され る、堀が徐々 に埋 まって、その範囲が狭 くなってい く過程 に対応 した もの と捉 えられ るであろう。ただし、Ha期
か らHd期
の各段階が、 どの地図に対応す るか までは、明 らかにはし難い。(4)江
戸時代 の堀の復元上述のように、
Ib期
の堀 の底で検 出された堰状遺構 は、「安政補正改革仙府絵図」に見 える堰状の施設 に対応 す ることが明 らか になった。 これを基準 に、周辺での調査成果 を加 えると、幕末頃の仙台城二の丸北側の堀 を復 元す ることが可能 になった。今回検 出された堀 の北岸の続 きは、第