1
6 10 15
赤這遺跡
(縄
文)2:久
田遺跡(縄
文)3:大
室院跡(近
世)4:丸
森遺跡(縄
文)5:東
北大農場2・ 3号畑遺跡(縄
文)町西遺跡
(弥
生)7:町
A遺跡(縄
文・古代)8:町
B遺跡(縄
文)9:修
験院善教坊跡(近
世)鍛冶谷沢町宿駅跡
(近
世)11:鍛
冶谷沢検断跡(近
世)12・13:町 C遺跡(縄
文・古代)14:観
音館跡(中
世) 石の梅古墳(古
墳)16:住
吉神社跡(中
世)17:行
蔵院跡(近
世)18:大
西館跡(中
世)19:小
屋館跡(中
世)※丸印は試掘調査地点
図
6
上川原遺跡の位置 と試掘調査地点 Fig.6 Archacological sites and University Farmい る。調査 の結果、多 くの部分 で削平 を受 けてお り、黒 ボク上 自体 の残存状況が お しなべ て悪 く、遺構・ 遺物 は 確認 され なか った。また、下 層 の ロー ム層 も安 定 して堆積 して い る部 分 はほ とん ど認 め られ なか った。 このた め、
遺 跡 はほ とん ど破壊 されてい る可能性 が高 い もの と判 断 し、将来 の建物工事 の際 には、立会調査 で対処 す る こと とした。 なお、遺跡 の位置 について は、宮城 県教育委員会 に よって、訂正 の措置が取 られてい る。
4。 その他 の調 査 室 の活 動
その他の活動 としては、12月 18日に仙台市博物館講堂で開催 された宮城県遺跡調査成果発表会において、仙台 城二の丸跡第12地点の調査成果について報告 した。
第 H章 仙 台城二の九跡第 12地 点 (N M12)の 調査 1.調
査 経 緯(1)川
内地区の立地 と歴史および1992年度 までの調査東北大学の川内地 区は、沢 とその脇 を東西 に走 る道路 によって、川内南地区 と北地 区に分かれている。 この川 内南地区は、仙台城二の丸が置かれた場所であ り、川内北地 区は、二の丸 の北方に広がっていた武家屋敷地区に 相当す る。
仙台城 は、仙台市街地の西方、広瀬川 を渡 った、通称青葉山の東端 に位置 している
(図 1)。
北 と東 を広瀬川 に、南 を竜の回渓谷 によって囲 まれている。本丸 は標高115〜
140mの
急崖上 に立地 してお り、 また北側 の二の丸、北 東の二の丸 も、 それぞれ標高61〜 78m、40mの
河岸段丘面上 にある。 この中で二の丸跡 は、東方を蛇行 して流れる広瀬川 に向かって、緩やかに傾斜す る上町段丘上
(武
蔵野面相当)に
位置す る。仙台城 は、慶長
5年
(1600年)、 仙台藩初代藩主の伊達政宗 によって、本丸の造営が開始 され る。川内地 区の後 に二の丸が造営 され る区域 には、伊達政宗の四男である伊達宗泰の屋敷が置かれた と伝 えられ る。元和6年
(1620 年)に
は、 この伊達宗泰の屋敷の北側 に、政宗の長女五郎八姫 の居館 「西屋敷」が造 られる。一方、二の丸北方の武家屋敷地 については、それが整備 されてい く状況 を具体的に知 ることができる絵図など は知 られていない。 しか し、正保2・
3年 (1645・
46年)の
「奥州仙台城絵図」では、二の丸の北方一帯 に屋敷 が広が っていることが知 られ、おそらく本丸の造営が開始 された頃か ら、屋敷が造 られていった もの と思われる。二の丸北方の武家屋敷 は、 その後細 かな変化 は見せ るものの、一貫 して比較的上級の家臣の屋敷地 として幕末 ま で利用 されてい く。
寛永15年 (1638年)、 二代藩主伊達忠宗 は、 もとの伊達宗泰 の屋敷地 において、二の丸の造営 を始める。二の丸 完成後、仙台藩の政治 。諸儀式のほ とん どはここに移 され、三代藩主以降 はその居館 ともなる。二の丸の北隣に は、五郎八姫 の「西屋敷」が存続す る。寛文元年 (1661年)には五郎八姫が死去 し、「西屋敷」のあった場所 は「天 麟院様元御屋敷」 と呼 ばれ、蔵や作業場 な どの実務的な空間 となる。 さらに17世紀末か ら18世紀初頭の元禄年間 には、四代藩主伊達綱村 によって二の丸 は大改造 され、 もとの「西屋敷」の敷地 を取 り込 んで、拡大 され る。そ の後い く度かの災害や火災 を被 るが、その度 に再建 され、二の丸 は幕末 まで、事実上仙台城 の中枢 として機能 し てい く。
版籍奉還の明治
2年
(1869年)に
は、二の丸 に勤政庁が置かれ、明治4年
(1871年)の
廃藩置県後 は、仙台城 が明治政府・ 兵部省の管轄下 に移 り、東北鎮台(後
に仙台鎮台)が
置かれ る。 この頃に本丸の建物群 は取 り壊 さ れ るが、二の丸建物群 は依然 として残 っている。 しか し、明治15年 (1882年)の
火災 によって、二の丸建物群の ほ とん どが焼失す る。明治21年 (1888年)に
は、仙台鎮台が廃止 され、仙台第二師団が設置 され、敗戦 まで続 く こととなる。 もとの二の丸 にあた る区域 には、第二師団司令部が、北側の武家屋敷 にあたる区域 には、歩兵隊や 鞘重隊な どが置かれていた。敗戦間際の昭和20年 (1945年
)7月
10日、年前零時 ごろか らお よそ2時
間 にわた る仙台空襲 は、市街地全域 に 甚大 な被害 をもた らした。 この仙台空襲 によって、大手門な どわずかに残 っていた建物 も焼失 し、仙台城の建物 は全てが失われ ることとなった。 そして戦後 は米軍 の駐留地 とな り、昭和32年 (1957年)、 米軍 より返還 されての ち、東北大学が この川内地区に移転 し、現在 に至 るのである。東北大学が川内地 区に移転 してか らしば らくの間は、米軍 の建物が使われていたが、昭和35年 (1960年
)の
記 念講堂建設以降、随時施設整備が進行す ることとなる。特 に、昭和40年代後半 に、多 くの施設が建設 された。 こ の移転 に伴 う一連の施設整備 に伴 っては、埋蔵文化財の調査 はほ とん ど行われず、1974年の文系4学
部厚生会館 建築 に伴 つて、仙台市教育委員会 によって一部が調査 されただけであった。 また、1978年には、川内北地 区のプ―ル脇 の排水管埋設 の際に、石組 の井戸が発見 され、東北大学文学部考古学研究室 によって臨時の調査がなされ たが、その経過上、小規模 な調査 に留 まらざるを得 なかった。
1983年に東北大学埋蔵文化財調査委員会が設置 され、学内の埋蔵文化財調査 に組織的 。継続的 に対応す る体制
が整 って以降は、委員会 と、その下 に実務機関 として設置 された埋蔵文化財調査室が調査 にあたることとなった。
埋蔵文化財調査委員会 による仙台城二の丸跡の調査 は、1992年度 までに13地点 を数 えるに至 っている。 これ らの 調査成果 については、『東北大学埋蔵文化財調査年報』
1〜
10において報告 して きた ところである。この10年間の調査 によって、検出遺構 と絵図 との対比が、かな り高い確度で行 えるようになって きている。 ま た、膨大 な各種の遺物が出上 してお り、陶磁器類 な どについては、 その変遷 の大要が明 らか となっている。 これ
らについては、年報9において まとめて検討 されているので、参照 されたい。
12)調
査地点の位置現在 の川内地区は、道路 をはさんで北地 区 と南地区に分かれている。今 回の調査地点 は、川内北地 区の中で も 最 も南 よ りの、道路 のす ぐ北側の場所である
(図 7)。
西側の丘陵にも近 い所で、これ までの二の丸跡の調査では、最 も西 よりの場所である。
川内地区を南北 に分 ける道路の南側 には、平行 して沢が流れている。 この沢の東半部 は、江戸時代 の絵図に も 見 られ、 もとか ら存在 した 自然の沢 と考 えられ る。西半部 は、江戸時代 の絵図では、広い堀 となっている。本来 は、西か ら東へ下 る沢が存在 していたのが、 この沢 を広 げる形で、江戸時代初頭 に堀が造 られた もの と考 えられ る。 この堀 は、二の丸 と北側 の武家屋敷地 とを分 けるもので、幕末 まで存在 し、 さらに明治以降 も残 り、大正時 代以降 に埋 め られた もの と考 えられ る。現在 の道路 は、 この堀 を埋 めた上 に造 られている。今回の調査地点 は、
この二の丸北側の堀 の北岸付近 にあた る場所である。前述 のように、堀 より北側 には、江戸時代 には比較的上級 の藩士の屋敷地が広が っていた。明治以降 は、第二師団の鞘重隊が この場所 に置かれている。
(31 調査の方法 と経過
今回の調査地点の北東側 には、1986年度 に調査 を実施 した二の丸跡第
8地
点の調査 区が存在 し、 この調査 にお いて も、二の丸北側 の堀 の北岸が検出されている(年報4)。
この第8地
点の調査結果か ら、今回の調査地点 は二 の丸北側 の堀 の、北岸か ら堀底 にか けての部分 に相 当することが予想 された。第8地
点の調査 においては、調査 途 中で集中豪雨 に見舞われ、調査 区の壁が大規模 に崩壊 し危険なため、堀 の底 まで調査で きず に終わつている。そのため、江戸時代 の堀 については、岸の一部の状況 を把握 しただ けで、堀の内部 については、 ほ とん ど判明 し ていない。今回の調査では、第
8地
点での調査 を踏 まえ、江戸時代 の堀 を底 まで調査することを目標 としたが、そのためには試掘調査 を行い、調査地点の概要 を把握 し、安全対策 を講 じる必要があった。
試掘調査 は、堀 の底 の深 さ、堆積上の状況 を確認する目的で、1992年■月18日か ら12月 18日までの 1ケ 月間の 期間で実施 したが、現有建物や使用中の排水管 な どで、調査 を行 える範囲は限 られていた(年報
10)。
第8地
点 と 同様 に、二の丸北側 の堀 の北岸が検 出され、基本的な層序関係 も、第8地
点 とほぼ同 じであつた。調査区をあま り大 き くで きなかったため、現地表面か ら6mの
深 さまで調査 を行 った時点で、それ以上深 く調査す る事 は危険 と判断 し、調査 を打ち切 らざるを得な くなった。結局、堀 の底の深 さは確認で きないまま調査 を終 える結果 とな った。本調査 は、翌1993年 6月30日か ら10月 28日 までの期間で行 った。本調査 にあたっては、建物予定位置 に合わせ て、
3mの
グ リッ ドを組 んだ。 グ リッド設定の際の基準点の国土座標値 は下記の とお りで、基準線 は北か ら17°3g00″ 西偏 している。
原点
NM12E X=‑193 604.069
原点NM12W X=‑193 614.833
13
オ Ψ
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´ ノ ィ ψ / / 一К 趙 ヽ 郎 ヽ
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︐ 題
た
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