御
100rn
117′
―
Vl18か ら30cm程の厚 さの整地層が確認 されたが、出上 した遺物か ら、 これ も明治時代の整地層であると考 えられる。
その下 は地山 となってお り、明治時代 に一旦削平 を行 ったあと、整地 を行 った もの と考 えられ、江戸時代の遺構 面 は完全 に削平 されていた。出土遺物 も少な く、ほ とん どは明治時代のものであったc
(2)H工
区(図 43)
Ⅱ工 区は、付属図書館の東側か ら川内南地区を南北 に通 る道路
(通
称「中善道路」)に
かけての区域である。 こ の中善道路 に附属図書館南側の道路が交わるあた りに、二の丸の裏門である「台所門」が存在 した ことが、これ までの調査成果か ら推定 されている (年報9)。
「台所門」か ら北側へ延 びていた道路 は、ほぼ現在の中善道路 と 同 じ場所であった と推定 され る。 したがってH工
区は、「台所門J周辺か ら北へ延 び る道路部分、お よびその西側 の二の丸中奥の区域 に相当す ると考 えられる。工事の内容 は、中善道路沿いに外灯 を設置する工事 と、図書館東側の通路などの整備 に大 きく分 けられる。
中善道路沿いの外灯は、1992年度 に南側 の工事が行われてお り、その際には今回の調査地点に近い場所で江戸 時代 の層位が良好 に保存 されていることが判明 している
(二
の丸跡第10地点1区、年報9、
位置 は図3参
照)。 ま た、中善道路 に沿 った排水管設置 に伴 う第4地
点の調査の際にも、江戸時代 の遺構面が検出されている(年
報5、
図
3)。
今回の工事 にあたっては、ケーブル埋設部分 は掘削深度が浅いため、大 きな問題 は無いが、掘削深度が深 い外灯基礎部分 とハ ンドホール設置部分 については、江戸時代の遺構面 に達する可能性が高いもの と判断し、全 てに1〜13区の名称 を事前 に付 し、機械での掘削で江戸時代の遺構面に達 した らす ぐに手掘 りの精査へ移 る体制 をもって臨んだ。結果的には、近現代の攪乱 によって破壊 されている場合がほとん どで、江戸時代の遺構面が検 出されたのは、H‑7区
とH‑8区
だけであった。 この両区については精査 を行 ったので、次節で詳述する。 こ れ以外では、H‑1・ 2・
4・ 5。10・
■・12区で遺物が少量出上 したが、いずれ も近現代以降の整地層や攪乱 か らの出上であった。図書館東側 の通路な どの改修では、 ほ とん ど掘削深度が浅い工事のため問題 は少なかったが、身障者用スロー プの改修部分 は、上ヒ較的掘削深度が深 くなる予定であった。そのため、予定地 に
2m四
方の試掘 区を事前 に設定 し、層位関係 を確認 した。その結果、現地表下1.2mまでは、明治以降の整地層であることが判明 したため、工事 にあたって も立会調査で対処することとした。明治以降の整地層の範囲で掘削は終わってお り、そこに含 まれる 遺物 を回収す るだけで、調査 を終 えている。図書館 の北東側の、沢 に近 い所での井戸 ポンプ設置工事 は、環境整備工事 とは別の工事であったが、並行 して 工事が行われ ることか ら、
H工
区に合 めて対処 した(Ⅱ
―I区)。 後世の盛土 は薄い と推定 し、当初 より手掘 りで 調査 を行 った。 しか し、現表土下90cmまで、近現代の整地層で、その下層 は硬 くしまった砂か らなる地山で、江 戸時代 の遺構 。遺物 は発見 されなかった。図書館東側のエ レベーターを設置す るのに伴 うⅡ一
E区
も、環境整備工事 とは別 の工事であったが、Ⅱ―ェ区 と同様 に、
H工
区に含めて対処 した。附属図書館 には、地下 に大規模な書庫が造 られてお り、その工事の際に、既 にかな り深 くまで破壊 されて しまっている可能性があったため、立会調査 とした。予想通 り、今回の工事範囲 は全て図書館建設 によって攪乱 されて しまっていた。
(3)Ⅲ
工区(図 43)
Ⅲ工 区は、中善道路の東側 の、記念講堂の南側に広がる緑地 となっている区域である。二の丸正門である「詰 ノ門」の前 にあた り、江戸時代 には蔵などが置かれていた区域である。 この場所では、小規模なが ら過去に、第
7地
点 と第13地点の、2回の調査が行われている(年
報4・ 10)。
いずれにおいて も、江戸時代の遺構面が残存 し ているのが確認 されてお り、特に浅い ところでは、現地表か ら15cm程で、江戸時代 の遺構面 に達す ることが判明している。
工事 は、緑地内の通路 の舗装 とベ ンチの設置である。いずれ も掘削深度が浅いため立会調査 としたが、 この地 点の江戸時代 の遺構面が極 めて浅い ところにあるため、慎重 に対処 した。舗装 については、江戸時代 の遺構面 に 達 しない範囲であった。ベ ンチの設置では、舗装工事 よ り少 し深 く掘削がなされ、現地表下20cm程 であったが、
江戸時代の地層の可能性がある褐色土層 まで達 し、遺物 も細片が1点だけではあるが出上 した。ただ し、掘削の 範囲が30cm四方以下 とい う極 めて狭い ものであったため、詳細 は明 らかにで きなかった。
14)Ⅳ
工区(図 43)
Ⅳ工区は、川内南地区の文系厚生会館周辺か ら中善通 りのロータ リーにかけての区域である。文系厚生会館 と ロータ リーの間は、二の丸の中心施設である「小広間」が存在 した場所である。今回の対象区域 は、 この「小広 間」 とその周辺 にあた り、二の丸の中で も、中心 となる区域である。
工事内容 は、歩道の整備、植栽、外灯の設置 と外灯用の電気ケーブル埋設である。外灯設置以外の工事 は、目 削深度が浅 いため、立会調査で対処 した。いずれ も近現代の盛上の範囲内で収 まっていた。外灯設置の内3ケ所 は、既存 の外灯の更新で、既存外灯設置の際 に破壊 されて しまっている部分であったため、立会調査で対処 した。
遺構・ 遺物 は発見 されなかった。残 る2ケ所の外灯設置場所では、江戸時代の遺構面 まで掘削がお よぶ危険性が 高い と判断 して、当初 よ り手掘 りによって調査 を行 った。Ⅳ
‑1区
では、米軍が設置 した共同清 の掘 り方にあた っていたため、精査 は行わなかった。Ⅳ‑2区
では江戸時代の遺構面が確認 され、 ピッ トが検出 された。 これに ついては次節で詳述す る。(5)V工
区(図 42)
V工
区は保健管理センターの周辺の区域である。本年報の第 Ⅱ章で報告 した通 り、保健管理セ ンターの新築 に 伴 う調査 においては、二の丸北側の堀の北岸付近の遺構が検 出されている(仙
台城二の丸跡第12地点)。歩道の設置、舗装や芝貼 り 。植栽や、外灯設置 とそれに伴 うケーブル埋設などである。保健管理 セ ンターの建 物本体部分の第12地点の調査では、近代以降の盛上が厚い ことが判明 していた ことか ら、全て立会調査で対処す ることとした。江戸時代 の層位 まで掘削がおよんだ部分 は無 く、遺物 も攪乱か ら磁器が1点発見 されただけであ った。
(6)Ⅵ
工区(図 43)
Ⅵ工区は、理学部付属植物園津田記念館の脇か ら、川内南地区の西端の道路に沿って、付属図書館の北西側に 至 る区域である。西側 は丘陵が迫 ってお り、その裾 に近 い部分で、二の丸の西端 に近い場所である。
工事 は、図書館東側 に設置 されるエ レベーター用の電源 を引き込むための、電気ケーブルの埋設 とそれに付随 するハ ン ドホールの設置である。ハ ン ドホール設置部分 にⅥ
‑1〜 8区
と名称 を付 した。当初 は盛上が深い と推 定 し、あまり問題 はない と考 えていたが、各所で二の丸 に関連す る地層が確認 された。Ⅵ‑1区
で は、二の丸西 端の塀 の基礎 に使われた石垣 と思われる遺構が検 出された。幸い、その端 にかかっただけで済んだので、写真で 記録 を行 うに留 めた。Ⅵ‑4区
では、石組の溝が発見 された。 またⅥ‑4区
の南側か らⅥ‑5区
の北側 にか けて の範囲、Ⅵ‑7区
か らⅥ‑8区
にかけての範囲で、炭化物や遺物 を多量 に含む、黒色土層が発見 された。これは、二の丸建物群が最後 に焼失 した、明治15年 (1882年
)の
火災 に伴 う層 と考 えられるものであった。Ⅵ‑7区
か らⅥ
‑8区
にかけては、幸 いにも、掘削予定深 さの底面で黒色土層が確認 されたため、それ以上 は破壊 されないた め問題 とはな らなかった。Ⅵ‑4区
付近では、掘削予定深 さが、石組溝や黒色土層の検出 レベル よ りも深 くなる ため、壊 されて しまうこととなった。施設部の担 当者 と現地で対策 を協議 し、工法 を変更 して、ケーブル埋設深度 を浅 くする対応 を とることとし、 それ以上の掘削がなされない ようにした。そのため、 この区域で は精査 は行 わず、写真で記録す るに留 めた。
2.検
出遺 構 と出土 遺 物 (図44〜 47、
表68〜 74、
図版167〜
169)ここでは、本調査 を実施 した地点の検 出遺構・ 出土遺物 を報告するとともに、それ以外の立会調査で出上 した 遺物 について、合わせて各工 区ごとに報告す る。近現代の整地層や攪乱か ら出上 した遺物 については、17世紀代 と18世紀代 の重要な遺物 に限って資料呈示す ることとし、二の丸跡で多量 に出土す る、幕末前後 の資料 について は、基本的 に省略 した。
(1)I工
区本調査 を実施 して、江戸時代の遺構が検 出された場所 は無 い。出土遺物 もごくわずかである。図示 したのは、
17世紀中頃の肥前産 と考 えられ る磁器皿1点だけである